百醜千拙草

何とかやっています

Ain't no Sunshine when money's gone

2008-02-29 | Weblog
昨年のIg-Nobel平和賞は、男性兵士同士への催淫を促して戦闘士気を鈍らせる非殺傷兵器「Gay Bomb」の開発に対して与えられたのですが、その「Gay Bomb」プロジェクトをスクープしたWatchdog groupの「Sunshine Project」(http://www.sunshine-project.org/)が資金難のため活動を中断すると発表したというニュースを知りました。Sunshine Projectは生物兵器の殺傷目的へ使用に反対する民間組織なのですが、そのディレクター、Edward Hammondは、「非政府組織である我々の平和と安全に対する活動に対して、スポンサーの賛同を得るのが困難になってきた」と述べています。Hammondはアメリカが危険な生物兵器開発研究を推進している一方で、大学や研究組織における生物学的安全性が確保されていない実情を明らかにしきた人です。国防の問題ですから、機密に物事が運ばれるのはやむを得ない所はあるのですが、だからこそ却って、危険な病原菌や生物活性物質が、一般人が気づかないほど身近な所で無造作に扱われているのが現状なようです。
 一般人にとっては戦争はする方もされる方も傷つくだけで何一つ良いことはありません。先日、久しぶりにモータウン1970年のヒット曲のEdwin Starr の「War」を耳にしました。この曲は最初、Temptationsが歌ったのですが、余りヒットせず、Edwin Starrが歌って大ヒットしたもので、モータウンサウンドには珍しいベトナム戦争の反戦歌です。バックコーラスとの掛け合いで歌われるテーマ、
War, what is it good for? ABSOLUTELY NOTHING! にメッセージの力強さを感じます。
良い戦争や、良くない平和などあったためしはありません。誰でも戦争がよくないことを知っていながら止められないのですから始末に負えません。止められないのなら、せめて戦争をより安全なものにしよう、そういう考え方があっても良いと私は思います。Sunshine Projectの目的の一つはそういう考えに基づいているように思います。政府機関でないからこそ、一般人の視点で、戦争の絶対悪や国防という名の侵略行為について、正しく非難できるのだと思います。こうした民間の団体が活動の輪を広げていくことは、戦争の防止にとって重要であろうと私は思います。8年にわたる活動を資金難のために中止せざるを得なくなったSunshine Project ですが、同様の活動が今後も民間から生まれることを期待したいと思います。
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大統領の先物取り引き

2008-02-26 | Weblog
アメリカは、4年に一度の大統領選の真っ只中で、現在、共和党候補と民主党候補を決めるための予備選挙と地方議会選挙が州ごとに行われています。共和党はマッケーンでほぼ固まってきていますが、民主党はヒラリークリントンとオバマが接戦を演じており、まだどちらが最終指名を勝ち取るか分かりません。全ては3月4日のオハイオとテキサスという大票田での投票にかかっているようです。最近のヒラリークリントンのオバマへのネガティブキャンペーンを見ていると、クリントンが切羽詰まってきているのは間違いなさそうです。こんなキャンペーンを続けていると間違いなく、オバマへ票が流れるでしょう。次期大統領は、結局は国民が選挙で選んだ民主党および共和党の代議士の数で決まってくるわけですから、原則的には共和党議員に投票した国民の数と民主党議員に投票した国民の数の力関係という単純な法則で選ばれます。しかし、全ての結果が出る前に勝者を予想するのは簡単な事ではありません。たいていのニュース番組とかでは、無作為抽出でのアンケート調査などから誰が優位であるかという予測をするわけですが、一時点でのアンケートではダイナミックに動く選挙の動きの最終結果を予測するのはしばしば困難です。
 アイオワ大学の研究者は、株式市場と同じように大統領候補のトレードを市場で行うことによって最も有望な候補者を予測できるのではないかというアイデアを思いつき、実験を行っています。実はこれは数期前の大統領選の時に始まり続いているものです。トレード参加者は、Iowa Electric Markets(IEM http://www.biz.uiowa.edu/iem/)という先物取引市場で大統領選での最終投票結果に対して先物取引を行うことになります。参加者に金銭的インセンティブを与えるため、現金を賭けて本当の先物取引の要領で取引が行われ、払い戻しを受けることになります。例えば、前回の大統領選でジョンケリーとブッシュを例にとりますと、IEMはまず、両候補者一本ずつのコントラクトの入ったポートフォリオを1ドルで売ります。候補者が二人で、まったくイーブンの場合は各候補者あたり50セントずつです。トレーダーは各候補者の大統領選投票時での価値を考えてケリーまたはブッシュを売り買いします。例えばブッシュを売ってケリーを買った場合、合計1ドルのポートフォリオではケリーのコントラクトが2本、ブッシュが0ということになります。払い戻しは先物取引と同様に、現物が取引される時点での価格とコントラクトの購入価格の差によって利益や損失がでることになります。この場合は大統領選での最終投票結果ということで、もし最終一般投票で60%がケリーを支持した場合、ケリーのコントラクトは60セントの価値を持つということになります。ですから、2本のケリーのコントラクトのポートフォリオは1.2ドルの価値があり、当初の支払いの1ドルとの差額の20セントが利益となるということです。_過去のデータによると、IEMによるトレードを通じた候補者の価値評価は、概してアンケートや一般調査よりも正確に最終結果を予測するようです。さまざまな時点でのIEMによる市場価格による予測とアンケート調査による予測といずれが正しかったかを検討してみると、1998- 2004年の大統領選では、約7割以上でIEMの方が正しく予測できています。Marketは大変efficientであるということのようです。アンケート方式に比べるとマーケットトレードの場合は、政治的な好みなどではなく、より単純に市場価値だけをみて取引するでしょうし、市場の動向などの情報をより客観的に分析するようになるでしょうから、情報量ならびに分析の客観性という点で勝っていると考えられます。もちろん参加者の数がある程度大きくないと、アメリカ全国民の投票で決まる大統領選の予測を小さなマーケットだけで行うと精度が悪くなるであろうとは考えられます。いずれにせよ、未来の予測をいう点においてこの先物取引市場のアイデアは大変面白いと思います。ちなみに、現時点での取引価格は、民主党ノミネーションに関してはオバマが80.9セント、クリントンが16.5セントで取引されていますから、かなり高い確率でオバマが指名を受けるのではないかと思われます。最終大統領選に関しては、民主党が55セント、共和党が45セントぐらいの取引なので、どうも次期大統領はオバマという線が強そうです。
 またIEM以外の同様のマーケットでは、2020年までに中国が月に降り立つかどうか (Forsight Exchange)、トリインフルエンザがヒトからヒトに伝播するかどうか(Avian Influenza Prediction Market)、ニュースアンカーのKatie CouricがCBSを辞めるかどうか(Intrade)などに対しての取引がされているようです。こうなってくると、イギリスのブックメーカーみたいに聞こえますが、オンラインでリアルタイムでの取引があることを除けば、確かに似かよっていると思います。実際、イギリスのヨークシャーヒルというブックメーカーでは、ブッシュとゴアでの大接戦であった2000年の大統領選では、ブッシュの勝ちに賭けた人の方が多かったらしいです。
 Marketのefficiencyを利用した未来予測法、さすがに金融工学(錬金術)の本家、アメリカらしいアイデアです。錬金術も利用次第によっては役に立つということかも知れません。ついでにこれで日本の将来も占ってみたらどうでしょう。
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学問のための学問の重要性

2008-02-22 | Weblog
20年程前の宇宙ブームだった頃に、ホーキングの本やビッグバンの一般向けの本と一緒に、スーパーストリング理論についての本も読んだ記憶があります。この世界は私たちが実感できる4次元ではなくて、実は二十数次元あって、高次の次元は小さく折り畳まれているので、見えないのであるとかいう話とか、世界は実は振動するヒモでできているというような話を、チンプンカンプンならがも随分わくわくして読んだ記憶があります。この「全てが説明できる」ヒモ理論は、余りに複雑で(理論が)柔軟なので、実験的に確かめることが不可能であると、この理論を支持しない人々はケチをつけるのだそうです。しかし、イリノイ州立大学の研究者が、最近このヒモ理論を裏付けるための実験を考え出したことが紹介されていました。
 このヒモ理論によると全ての物質は水素原子の一億分の一のさらに一億分の一程度の振動するヒモによって成り立っているらしいです。ヒモ理論による宇宙の解釈では、宇宙は長いヒモが引き裂かれたもので、物質の不均等な散らばりを起こす宇宙時間の障害である考えられているそうです。(すでに理解不能)その研究者たちは、このモデルが正しければ初期の宇宙で、水素原子はまだら状の分布を示すはずであるとの計算結果を出し、それを観察するためには、10,000平方キロメートルにわたる面積の放射線望遠鏡のアレイが必要であると試算したそうです。コーネル大学の放射線宇宙学者のTerzianは実現はちょっと無理だろうとのコメントをだしています。彼のチームは1平方キロのアレイを作る実験計画を考えており、その費用が20億ドルとのことです。単純計算では、10,000平方キロのアレイを作るのに、100キロメートル四方の土地と200兆ドル、約20京円、が必要になるということです。
 仮に技術が進歩して2億ドルぐらいでヒモ理論をサポートするかも知れない実験ができるようになったとしても、現在のアメリカや日本で、それだけの金額をこうした実験に使うことが可能なのだろうかとふと思いました。実験が成功したならば、学問的価値としては、金額に換算できないほどの素晴らしいものであることに間違いはありません。私のような物理学のド素人であっても、スーパーストリング理論の名前ぐらいは知っています。これが実験的に証明されたなら、物質や宇宙に対する人々の見方に非常な影響があることは間違いありません。しかし一方、私のように数ヶ月先どうやって喰っていこうかと考えているようなレベルの人間が切羽詰まってきたら、物質がヒモでできていようと、宇宙がヒモがさけてできたのであろうと、どうでもよいと思うのではないでしょうか。そんな知識が明日喰わねばならない食べ物を得るのに何の役に立つのかというのが、切羽詰まった人の正直な感想だと思います。健全な肉体に健全な精神と言いますから、まず衣食住が足りて初めて学問という順番になるのはわからないではないです。
 日本の経済発展が鈍り、国に金が無くなってくると、学問も「役に立つかどうか」ばかりが強調されるようになってきました。残念ながら役に立つということは殆ど「物質的」な意味に限定されています。生物分野であれば、医療技術の進歩に貢献できるとか、病気を予防できるとか治せるとかいうことが役に立つことであるらしいです。はっきりいって貧しいなあと思わずにはおれません。人間が人間たる理由である、ものを考える事や学問すること、そういう尊い活動は、人間が動物として生存することを有利にするための仕事でなければならぬという考えなのだと思います。日本がいよいよ切羽詰まってきたのでしょう。研究や学問に必要な金銭は少なからぬ部分が税金からまかなわれるので、役に立つ研究を喧伝する役人や官僚は、二言目には国民の税金を使っていることを錦旗を振りかざすかのように言うわけですが、そんな1メートル先しか見えない近視だからこそ、日本の学問が痩せていって結局役に立つ成果も出なくなっていくのではないでしょうか。日本人は学問的に面白ければ金にならないことでも一生懸命やる民族でした。そうした学問好きの日本人気質というようなものが日本の高度経済成長の基盤になった高い工業技術の開発に繋がったのだろうと私は考えています。金が動機であれば、安くて品質の悪いものを作って売る方が手っ取り早いはずです。その方が経済という点では役に立ちます。確かに産業化初期の日本の工業製品は今の中国産のような安い粗悪品でした。それが見る見る間に最高品質のものを作りだし、そして世界トップを走るようになったのです。その原動力は、金銭的インセンシティブではなく、良いものを作りたいと思う純粋な気持ちや学問的な挑戦を面白いと思う日本人のメンタリティーであったのではないでしょうか。「役に立つ研究でなければ金を出さない」という態度は悪循環であると思います。限られた資金で、役に立つことを優先すると、長期的に本当に重要な研究がおろそかにされる一方、金に繋がるような目先の研究では金のある所に競争で負けるのです。適切な喩えでないかも知れませんが、あれだけの文化的そして文明的に世界を圧倒していたかつての中国が、なぜ現在、アメリカやヨーロッパに比べて経済的に不利な立場にあるのか、日清戦争の時に皆が畏れていた中国の底力というものはどこに行ってしまったのか、ひょっとしたら現在の日本が落ち入りつつあるように、目先の物質的な欲だけに注意が向いてしまった結果なのかも知れません。日本人の学力はどんどん低下しているようです。一方、アメリカは、株式市場や日本の政治家官僚を通じて、日本の富を、搾り取れるだけ搾り取ろうとしています。今のように純粋に学問のための学問が軽視されつづけていくと、そのうち日本人は、アメリカ人なみの頭脳しかない上に金も資源もないということになりかねません。この傾向が続くのなら、私はいっその事、日本を正式にアメリカの一州としてもらうことを考えた方がよいのではと思います。そうすれば、アメリカに流れていった日本の金は、少なくとも一部は返ってくるはずです。(勿論、アメリカは嫌がるでしょうが)それに、有害無益としか思えない政治家官僚の半分ぐらいのクビは切れるでしょう。
 話をもとに戻して、例えば、スポーツ選手の仕事が、見る人に感動を与え少年に夢を与えることだと言えるのなら、純粋に学問のための研究も、勿論、人類に感動や夢を与え、精神的発達を促すものであると思います。その知識は更なる知識欲や好奇心を掻き立てるでしょう。学問のための研究は学問を志す人のみならず、社会一般を啓蒙し、考える葦である人間の頭脳の食べ物となるでしょう。私は社会にお金が無くなってきているからこそ、余計に学問の自由な研究を守らねばならないのだと思います。そうでなければ、人間は服をきただけのサルと変わらないのではないかと思います。
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銃がなければ銃殺はない

2008-02-19 | Weblog
イリノイ州の大学で、元学生による銃乱射事件で5人が死亡し、多数のけが人がでました。犯人はDean's listに載ったほど優秀な学生だったようです。教室にいきなり入ってきて、無言のまま銃を乱射し、最後に自分を射って自殺したと報道されています。「またか」というのが正直な感想です。バージニアテックの事件から一年も経っていません。つい数ヶ月前にはオマハのショッピングモールで銃乱射事件があったばかりです。若い男性で周囲の社会への強い嫌悪というのはこれまでの共通した要素のようですが、今回の犯人の動機はまだはっきりしていません。バレンタインデーに起こった事は何らかの意味があるのでしょうか。その後のニュースでは犯人は精神病を患っていて、事件の前に薬物療法を中断していたとのことです。
 対症療法ではあるのですが、アメリカはそろそろ一般人が簡単に銃を入手できる様なシステムを変更すべきではないでしょうか。一年に何回も銃乱射によって、安全である筈の学校やショッピングモールで理由もなく殺される人のことを考えたら、社会は制度として何らかの方策を取らねばならないと思います。以前にも思ったのですが、おそらく日本では、自分が死にたくなったら、無関係の他人を巻き添えにすることは少なく、一人で自殺するのではないでしょうか。銃などの殺傷武器へのアクセスが制限されているというのは大きな理由ではないかと思います。どうしても死にたいという気持ちになってしまった時には、人はすでに半分死んでいるのだといいます。そこまでいってしまっている人の気持ちを変えるのは並大抵ではないし、これまでの例を見ていると犯人はそもそも周囲から孤立してしまっていますから、仮に予防体制があったとしてもタイムリーに介入することすら困難でしょう。現実論として、自殺者の自殺を防げないのなら、せめて巻き添えにされる人を救うための制度から整えていくべきだと思います。私は全国的に一般人への銃器へのアクセスを制限することが唯一現実的な方法であろうと思います。無差別乱射事件の犯人はギャングでもヤクザでもなく、精神的な問題があるにせよ普通の青少年なのです。プロの暴力団であれば、人を殺傷するのに理由があり、その巻き添えにならないように工夫することもできるでしょうが、これまでにたびたび起こっている無差別乱射事件は、精神状態がマトモではなくなっている犯人によって起きています。いわば「キチガイに刃物」なわけで、予測不能なのです。とにかく刃物を隠す事が第一であろうと思います。そう思っていたら、テキサスでは、逆に、学校内で学生や教官の銃の携帯を許可するように制度を変えるべきだといっている人がいました。やられる前にやってしまえということらしいです。構内では銃器の携帯は禁止されている学校が殆どでしょうが、そういう所に犯人が入ってきて、無抵抗な学生や教員を撃ち殺すという事件が起こっているのだから、学生や教官の何人かでも銃を携帯していれば、犯人に抵抗することができる筈だという考えらしいです。さすが、所かわれば品変わるで、テキサスにはこんな風に考える人がいたのかと思ってショックを受けました。私は、学生に武器というのは、学生がキチガイでなくても、十分危険だと思います。本人たちは死ぬ気や殺す気は全く無くても、死ぬようなことを平然とやって、犬死にしてしまうようなことがしょっちゅうおこる年頃なのですから。構内での銃の携帯を許したら、銃乱射事件で死ぬよりもはるかに多くの学生が死ぬであろうと私は思います。
 一昔前のシリアでは、家には鍵はついてなかったそうです。見知らぬ人でも招き入れてもてなすのが普通であったらしいです。人は信頼するのが当たり前で、疑うことは教えられなかったそうです。最近は物騒になって家にも鍵がつくようになりました。悪貨は良貨を駆逐するといいますが、一部の悪い人が、本来善良であった人の心にも疑いを抱かせるようになり、社会全体を悪くしてしまうのです。構内での銃の携帯許可し、暴力には暴力で対抗しようという考え方はまさにこの喩えを地でいくようなものです。大切なのは悪貨を効率よく見つけその周囲への影響を最小限にするための工夫だと思います。学生でも銃をもって自衛しなければならないという考えは、人をみたら泥棒と思えというメンタリティーに起因しています。逆に、みんなが銃を持つ事をやめたら、コソドロは増えるかもしれませんが、殺人強盗は減るのではないでしょうか。これは政府レベルで制度を改めることで比較的容易にできることです。
 興味深いことに、カナダではアメリカ同様に銃器は一般に出回っているらしいですが、銃による殺人事件はアメリカに比べて随分低いという話です。カナダ人は、銃を扱うアメリカ人が精神的に未熟なのだとアメリカ人を笑うわけですが、おそらくこの指摘は正しいでしょう。おそらくカナダに比べれば、アメリカは人種的にも経済的にも文化的にもより多様である上に、権力層や経済的に優位にある人々が、そうしたバックグラウンドに起因する格差や差別を根本的に解決していこうと本気で思っている人が少ないからだと思います。保守派白人は、自分たちの昔からの生活を守ることが第一で、統合した平等な社会の到来など希望していません。一方経済的弱者であるマイノリティーは、白人らが未だに経済的弱者を搾取し続けることで、自分の生活を守ろうとする態度に辟易としています。だからこそ、黒人女性は、白人女性のヒラリークリントンではなく、男性であっても半黒人のオバマを支持するのです。白人女性が白人社会の内部での男女差別に不満を持っているのとは比べ物にならないほど、黒人女性は白人優越主義には我慢がならないということでしょう。話が外れましたが、このようにアメリカ国内で根深い経済格差、人種格差の問題は、アメリカ社会に潜むひずみであって、人が人を信頼できるような安定した社会を築く上での障害になっています。お互いに信頼できないから銃を持ち、そして実際に銃を人に向けるわけです。そういう動機で銃を携帯する人に精神的な成熟性は期待できないでしょう。
 教育や制度の改善を通じて、社会がより平等な機会を国民に提供できる様なシステムを作っていく一方、その間の対症療法として武器へのアクセスを制限することは早期に行われるべきであろうと思います。それによって、無差別殺人による被害者数も減少可能であろうと思います。
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垂直農場、自然の恵み

2008-02-15 | Weblog
地球温暖化に起因する異常気象のために、この50年から100年の間に、地球規模の食料危機がおこる可能性が高いと私は思っているのですが、食料危機に対する危機感を感じているのはもちろん私だけではありません。一説によると100年後に人類が居住可能な陸地は温暖化による海水面の上昇などによって南極大陸の一部だけになるという予測もあるそうですし、そうなる前に温暖化のためにグリーンランドの最大のアイスシートが大西洋に溶け出せば、大西洋の暖流の北上を阻害し、相当な人口のあるヨーロッパ大陸全体が氷河期へ逆戻りしてしまいます。そうなると農作物を作る場所や条件は限られてきて、絶対的な食料不足になるのは間違いないでしょう。
Science誌で知ったのですが、そんな中で地方から都会への食物の輸送を減少し、都会生活者が都会での自給率をあげることを目的に、「垂直農場」と呼ばれるアイデアを実用化しようとする動きがあります。都会でのインドア農場は、スペースの制限があります。もっとも簡便なのは、屋上などのスペースに温室をつくることです。ニューヨーカーは年間100キロの野菜を食べるらしく、ニューヨークの屋上を全部使えば、その二倍の量の野菜を生産することが可能なのだそうです。実際にニューヨーク市では一部の学校の屋上に温室を作り、教育と食堂への供給の目的に野菜を育て始めています。その屋上菜園の発展型として、オフィスビルの二重ガラスを利用するというアイデアがあります。つまりビル全体を二重ガラスで作り、その隙間にベルトコンベアで移動できる水栽培の野菜を育てるというアイデアで、野菜がシェードの役割も果たすグリーンなオフィスというわけです。試算では、30階建てのビルを使えば、それだけで5万人の人が消費するに十分な野菜、果物、卵や肉をつくることができるらしいです。つまり日当りのよい上の方のフロアで野菜や果物をつくり、下の方のフロアで植物廃棄物を利用して鶏や魚を育てるというアイデアです。エネルギーは太陽熱や地熱を利用し、植物の肥料は、動物性廃物を利用するというリサイクルを行うことで、都会でも効率よく食物が自給できるようになる可能性があります。実際、オランダのロッテルダムでは、デルタパークという都会のビルでの垂直農場のアイデアがありました。これはかなり実現に向けて強い動きがあったのですが、食物生産が余りに「工場的」であるとの批判を受けて頓挫しました。私も自然の恵みとしての食物が、都会で工場的に生産されることに抵抗を覚えます。東洋人は、生きとし生けるものは皆、同様に命をもっていて、その命をいただいて私たちの自身の生命を保っているという考え方を多かれ少なかれ持っていると思います。都会のビルで生まれて育てられる食物としての動植物には、人間が生命を都合の良いようにコントロールするという工学的な背景があって、どうも自然の恵みという感覚が希薄になってしまうような気がします。(単に程度の問題に過ぎないかも知れませんが)現在、もっとも大きな都会の垂直農場プロジェクトは上海近郊のDongtan Eco-cityの一部として行われているそうです。人口の大きい中国やその中国やその他の外国に食料を頼っている日本では将来の食料問題は重要課題だと思います。プロジェクトディレクターは、「これは、従来の農場で穫れたものが良いとかビルでの作物が悪いとかのレベルの問題ではなく、人類が生きるか死ぬかの問題である」と述べているそうです。その通りだとは思いますが、日本人の私には、醜く生き残るぐらいならばきれいに死んだ方がよいのではないかという演歌調の意識もないわけではないし、都会人のライフスタイルをどうしても捨てたくないと思っている人々の思考にも共感できません。発想の転換で、現代の第三次産業中心の経済システムを変えて、脱産業化するという手もあると思います。もう一回鎖国してみて、食物の値段を3倍ぐらいにあげたらどうでしょうか。
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去り行く技術

2008-02-12 | Weblog
ポラロイドのインスタントカメラが発売されたときのコマーシャルはいまだに何となく覚えているのですが、衝撃的な未来の世界のように映りました。小学生の頃、子供むけの科学雑誌についていた付録作ったピンホールカメラが私の最初のカメラで、物置に暗室を作って、白黒の感光紙を現像したりして遊んだ記憶があります。その後、普通にフイルムを入れて撮影するカメラも持っていたこともありましたが、写真を撮ったり、撮られたりすることそのものに、興味を持ったことがなかったので、現在は写真器も持っていませんし、唯一自分で写真を撮るのは、研究データを記録するときだけです。私が研究を始めた頃、白黒のポラロイドカメラは必需品でした。分子生物学では、ゲルに流したDNAやRNAを紫外線で光らせて、そのパターンを解析するという実験は、一番最初に習う実験だと思います。そのゲルのデータを保存するために、昔はポラロイドカメラを使っていたのでした。当時の値段で一枚百円ほどしたような気がします。一日に何枚も流すゲルを記録するので、お金がないときは、フイルム代を節約して、ゲル泳動パターンをスケッチしたりしたこともありました。そのゲルの記録はすぐ、デジタルカメラに取って代わられ、デジタルカメラの値段が下がるに連れて、ゲル写真の単価も劇的に下がりました。今では、ゲルのイメージを直接コンピューターに取り入れて保存できるので、場合によっては、データを紙に焼き付けることさえしなくなりました。
 そのポラロイド社が、ポラロイドフィルムの製造を中止すると発表したことを先日、知りました。ポラロイドの技術の衝撃的な誕生、分子生物学実験への貢献、そして終焉、これらのことが数十年の単位でおこったということが信じられないほどです。新しい技術はより新しくよりversatileでよりグローバルな技術によってその地位を失うということなのでしょう。現在のコンピューター関連業界では、その新技術による旧技術の淘汰のサイクルはもっと速いのだろうと思います。しかし、妙なものでポラロイド写真のもつ独特な風合いを好む人もあるらしく、どこかのサイトでは、デジタルの画像をポラロイド写真風に加工するためのソフトを提供していました。
 技術の淘汰といえば音楽記録技術もそうです。私が高校生で音楽レコードをよく聞いていた頃は、レコードと言えば、ボール紙のケースに入ったLPレコードでした。学校で貸し借りするのに、わざわざおしゃれなレコード屋のケースに入れて大切に持ち運びしていました。貸しレコード屋のきれいなお姉さんは、レコードを返す時は、じいーとレコードの表面を明かりに当てて、傷をチェックしていました。傷が付くと針跳びして同じところが延々と繰り返しになってしまったりするのです。昔、まどかひろしという歌手が歌ってヒットした「とんで、とんで、とんで、、、」と長い繰り返しのある曲は、レコードが針跳びして思いついたのだという説がありましたが、「針跳び」などCDやiPODしか知らない世代には理解できないことかも知れません。CDができたとき、デジタルの音質を盛んに非難する人もいましたが、私は始めて買ったボビーマクファーリンのCDを聞いて、LPが生き残るすべはないと確信しました。音楽をオンラインでやりとりする現在、CDもそのうち無くなってしまうのかも知れません。デジタルカメラも使わないし、音楽も余り聴かなくなった今の私には、実はこれらの新しい技術の恩恵を余り感じません。むしろ若いころにお世話になった技術が消えていくことが寂しく感じます。今回のポラロイドフィルムの生産中止のニュースを聞いて、現在とつながっていた過去の自分の一部が切り離されて、物置にしまい込まれてしまったような感傷を感じてしまいました。
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血管抑制療法は血管正常化療法?

2008-02-08 | 研究
腫瘍における血管の重要性を広く世界に知らしめ、新しい抗腫瘍療法開発へのきっかけを作ったジュダフォルクマンがつい先月亡くなったのですが、腫瘍における血管、血流の重要性について、フォルクマン以外にも昔から研究している人は他にもいます。フォルクマンと同じHarvard Medical Schoolの系列病院であるMassachusetts General Hospitalの腫瘍学者、Rakesh K. Jainが、腫瘍血管の異常性に気づいたのは40年近く前でした。腫瘍が一本ずつの動脈と静脈によって栄養されているラットの腫瘍モデルに抗がん剤を投与し、その薬剤の腫瘍細胞への分布を調べるという実験を行った時、血管の多い腫瘍組織でありながら、薬剤が十分に行き渡らないことを見つけたそうです。引き続く数十年の研究で、腫瘍血管が大変leakyで、血流方向が一定しないなど、非効率的な血管であることが明らかにされてきました。血管は多いのに機能が悪いというわけです。血流が悪いと組織は低酸素化、酸性化を起こし、例えば低酸素で誘導される転写因子のHIFなどが、血管新生因子、VEGFなどの産生を促進し、ますます非効率的な血管が増えるという現象が起こってきます。VEGF抗体は2004年に癌の治療に臨床応用されましたが、VEGF抗体だけでは抗腫瘍効果は認められていません。フォルクマン流のモデルだと、腫瘍細胞が自らを栄養するためにVEGFなどの産生を通じて血管新生を促すので、VEGFをブロックすることで、新生血管を抑制し、腫瘍細胞への栄養路を断つことで抗がん効果が上がると予想されます。ところがJainらの研究結果からは、腫瘍誘導性のこうした血管はむしろ血行動態という面で、非常に非効率であり、そもそも腫瘍を栄養するという点で役立っていないのではないか、むしろ逆効果ではないのかという仮説が成り立ちます。興味深いのは、抗VEGF抗体は、抗がん剤との併用では大腸がん患者で効果が認められたということで、VEGFをブロックすると、抗がん剤の作用が増強されるらしいということです。抗がん剤は血流に乗って組織へと到達しますから、腫瘍の血管を抑制すれば、逆に抗がん剤の作用は落ちてしかるべきではないかと常識的には考えてしまいますが、事実は逆のようです。JainらはVEGFのブロックによって、異常な腫瘍血管が「正常化」され、腫瘍内の血行状態が改善されたことによって、抗がん剤の組織分布がより効果的となるというデータを示しています。つまり、抗VEGF抗体による腫瘍血管の抑制は逆に腫瘍への血行状態を改善するという当初の目的とは逆のことが起こっているらしいということでした。また最近、脳腫瘍患者でVEGF受容体をブロックすると考えられている薬、Recentinを使った試験では、異常な腫瘍血管の抑制によって、脳浮腫の改善が示されています。漏れやすい異常な腫瘍血管を抑制することで、間質への水分の移行を防いで浮腫を改善する効果があるようです。
 腫瘍血管が腫瘍を栄養しているという概念からは、この腫瘍血管の「血管正常化」療法は、一見常識に反しているように見えます。血管を正常化することで、逆に腫瘍にダメージを与える経路をつくるという、いわば肉を切らせて骨を切るアイデアを知って、なるほど、腫瘍血管学というのは、深いなあーとと感じたのでした。
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スーパー ウィーク

2008-02-05 | Weblog
日曜日は、アメリカンフットボールのファンには一年でもっとも重要な試合、スーパーボールが行われました。このスーパーボールの日は、アメリカ人はフットボールの試合を肴にパーティーを開き、さんざん飲み食いするするわけで、一年のうちアメリカ人が摂取するカロリーが二番目に高い日になっています。因みにもっともカロリー摂取の多い日は感謝祭で、通常この日も家族が集まって、昼間からフットボールを見ながら飲み食いするので、フットボールとカロリー摂取というのはどうもかなり強い正の相関関係がありそうです。
 スーパーボールの後はスーパーチューズデーです。時期大統領候補を決めるための各州での投票は少し前からパラパラと始まっていたのですが、この火曜日は、25の州で一斉に選挙が行われて、その結果でアメリカ次期大統領の民主党候補と共和党候補が事実上決定することになります。すでに民主党ではクリントンとオバマ、共和党ではマッケーン、ロムニー、ハカビー、ポールの候補に絞られているようです。共和党でロムニーがいまだに残っているのは驚きですが、最大の票田のカリフォルニアで共和党のシュワルツネッガー州知事がマッケーン支持を表明したことで、マッケーン優位が確立し、まず共和党は最終的にマッケーンという線で間違いないでしょう。民主党はオバマが、テッドケネディー、マリアシュライバーを含むケネディー家、前回の大統領選民主党候補のジョンケリー、オプラといったハイプロファイルエンドースメントを受けているのに対し、クリントンは選挙戦初期では最大のアセットであったビルクリントンが、後半のキャンペーンでは余り役に立っておらず、やや失速気味です。ここで、しばらく前に大統領選から脱落したニューメキシコ州の知事、ビルリチャードソンの動きが興味を呼びます。彼は、大統領はだめでも副大統領にはなりたいと思っているはずです。大統領選からの脱落を表明した後も彼は誰をエンドースするかをいまだに明らかにしていないということは、つまり最終的に民主党代表候補となる人物をエンドースしないと、副大統領候補になれないので、風向きを見ているということだと思います。これまでの動向を見ていると、特にクリントンがスーパーチューズデーまでにリチャードソンのエンドースメントを得ることは、きわめて重要であると考えられます。もしリチャードソンがオバマをエンドースした場合、クリントンが生き残るチャンスはないでしょう。ヒスパニックであるリチャードソンは、マイノリティーの中では最大のヒスパニック票を大きく動かす力をもってますから、もし逆にクリントンがリチャードソンのエンドースメントを取ることが出来れば、オバマの優位は一気に覆る可能性があります。一方、リチャードソン本人には個人的なジレンマがあります。リチャードソン自身が政治家駆け出しのころ、ケネディー一家の大きなサポートを受けており、オバマ支持を表明したケネディー家の意志に逆らいたくない気持ちがある一方、ワシントン時代はクリントン政権でエネルギー省でクリントンと共に働いていたというクリントンとの個人的繋がりも強いわけで、どちらの候補の支持を表明しても、多少のしこりが残るのは免れないと思われます。しかし、どちらかの支持を表明しなければ、副大統領候補になれる確率は非常に下がってしまいますから、月曜日中に誰かをエンドースするつもりがあるなら表明しないといけません。先日、ドロップアウトを表明した民主党第三候補であったジョンエドワーズは、どうもクリントンもオバマもどちらもエンドースする意志はないようです。エドワーズの一言でエドワーズの支持層が大きくどちらかに流れ、選挙結果の帰趨を決定してしまう可能性が高いわけですから、今後の彼自身の活動への影響を考慮して、今回は、洞が峠を決め込んだというところでしょうか。
今回の選挙では、現政権の副大統領であるディックチェニーが大統領選に出ないことを以前から表明していたため、民主党と共和党両党から力の拮抗した候補者が出て、稀に見るタイトレースとなりました。共和党にとっては、これは幸いしたというべきでしょう。悪評高い現ブッシュ政権のチェニーを候補に立てたのでは、まず勝ち目はないと思われます。共和党のなかではややリベラルなマッケーンというのは、共和党員の中での好き嫌いはあっても、ブッシュとスタイルが違うという点において、今回の選挙では理想的な候補といえなくはありません。一方、万が一ロムニーが候補となれば、前回、マッケーンがブッシュを後押しできたほどのマッケーン効果がロムニーに対して果たして期待できるのかという疑問もあるし、あのロムニーの偽善者くさいところは、共和党内でもずいぶん嫌われていますから、共和党が一枚岩になるのは難しいでしょう。また民主党候補との戦いではおそらく最終的には大統領選に勝てないような気がします。というわけで、私はスーパーボールは見ませんでしたが、スーパーチューズデーはフォローしたいと思っています。
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意識の問題の続き

2008-02-01 | Weblog
前回の続きなのですが、現代主流の科学は、微視的といってよいと思います。世の中はわからないことばかりなので、あらかじめ小さな枠を設定して、枠外のことは扱わないとするわけです。例えば生命科学という分野で、「生命とは何か」という問いや、神経科学で、「意識とは何か」と問うのはタブーです。実験科学者は、そういう問題は哲学科とか文学科とかでやってくれというでしょう。つまり、手持ちの研究方法が適用できる様な具体的で小さな問題以外は扱えないから、扱わないということです。これはある意味、本末転倒だと私は思います。そもそも生命という不思議を知りたかったから生命科学が発達したのに、今やその方法論の限界が学問そのものを限定してしまっているということなのだと思います。実際に、少なくない数の理系の実験系の人が、こうした現代科学の枠の外におかれている問題に科学的に挑戦しようとして、道を踏み外し(?)、理系の学部にいながら、主な仕事は哲学系の雑誌や一般向けの科学誌にしか出さない(出せない)という現象があります。前回のクリックの「意識」の問題は、即ち、「自己」の問題です。「私はどこにいるのか」という問いだと思います。私は子供のころ、母親が、もし父と結婚していなかったら私は生まれてこなかったと言うのを、とても違和感を持って聞いたことを覚えています。母が父と結婚せずもっと背が高くてハンサムな人と結婚していたら、私はもっと格好よく生まれてきただろうと思ったことを覚えています。つまり、器は違っても私というものがなくなるわけではないと思っていたのでした。大人になってから、確かに物理的な面をみれば器である私がなければ、私というものはこの世の中の人からとっては見えないわけですから、母がそういったのも納得できたのでした。しかし、自己というものがアプリオリに存在しているという感覚は、当時私が子供であったために自己を疑った経験というものがなかったという単純なナイーブさのみに起因しているとは私は思ってません。最近は、やはり肉体というものは仮の宿りであって、生命や魂の本体ではないのではという気持ちが強くなって来ました。
 宗教に限らず様々なコンテクストで魂と肉体について語られます。夏目漱石の小説でも使われた公案、「父母未生以前、本来の面目」(母も父も生まれる前、自分はどこにいたのか)や、臨済の有名な説法の中の一句、「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の面門より出入す」などに示されるように、物質でできた肉体に限定されない自己の存在(あるいは自己以上の何かの存在)は普遍的に語られます。それが本当かどうかは別段、今知る必要はないのですが、そう信じることは精神衛生上有用であろうと思っています。もし肉体が全てであって、死んだら自分というものが完全に消滅してしまうのであれば、この世の中は真剣勝負です。本当の真剣勝負なら逃げるが勝ちだと思います。あるいはどんな「ずる」をしてでも物質的利得を得たものの勝ちであると思うでしょう。人々はより刹那的になるでしょうし、不公平や格差が大きく、正直者が損をすることの多い現代の社会では「真摯に正々堂々とがんばること」は馬鹿らしいと思うようになるのではないでしょうか。もし本当にそうならば、世の中全ての事が空しすぎると思います。つまり現世はゲームだからこそ真剣にプレーできるのだと思います。「たかが一生、されど一生」という考え方は、少なくとも私の精神衛生上、有益であると思っています。
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