百醜千拙草

何とかやっています

Cancel culture と second chance

2022-04-29 | Weblog
細胞生物学界の堕ちた星、mTOR manのDS氏。昨年セクハラで研究室閉鎖、研究所追放され、ついにはMIT教授のタイトルも失ったようで、人々の記憶から早くも忘れ去られようといましたが、ニューヨークの名門校、NYUが雇用するかも、というニュース

NYU他の教官や関係者の多くは難色を示しているようですが、一方で、支援を表明するかつての研究員らもおります。そのNYU医学校の学長は、DS氏のリクルートメントに関しての教官へのメールで、「暴徒は、異なる考えを持つ人を強硬に『取り消し』たり、反証が困難な方法で根拠なく個人を攻撃したりしたくなる」と述べたそうです。

この学長のメールで、「(人を)取り消す(キャンセル)」という言葉が使われていますが、この言葉は、"cancel culture" という言葉で表される最近の風潮を踏まえたもので、この文章から、NYU学長は、DS氏を速攻でクビにした研究所と大学および財団のとった行動が性急で行き過ぎたものであると批判的に考えているらしいことが伺えます。

Wikipediaによると、「キャンセル文化 (cancel culture または、call-out culture)」という言葉について、「#MeToo運動の一環として使われるようになり、#MeToo運動は女性(と男性)に、特に非常に力のある個人に対して、公に告発することを促進した。、、、キャンセル文化というフレーズは、社会が攻撃的な行為に対する説明責任を厳密に果たすという認識として使われた」とあります。もっと砕けていえば、力の弱いものが罪を犯した有力者や有名人を集団で吊し上げ、社会的に葬ることを是とする文化とでも言えばいいでしょうか。

人の不幸を喜ぶ気持ちというのは、誰でも多少なりともあるもので、その対象が有名人や成功者であればあるほど、喜びは大きく、そしてその黒い喜びを表現したいと思う人も少なくないです。芸能人が薬物や脱税で捕まったりした後の、匿名のコメント欄など、この手の書き込みで一杯です。

このキャンセリングは、しばしば匿名の集団的行動であり、かつ正当な非難の理由があるがゆえに人は軽い気持ちでこの集団リンチに参加して、容易に「炎上」するのだと思います。結果として、こうした人々の行き過ぎた行動は当初の#Me too運動の趣旨から乖離してしまい、ネガティブな大衆行動を示すものとして「キャンセル文化」という言葉は使われるようになっています。

DS氏に関しては、セクハラポリシーに違反したのは事実としても、今回のように社会的に抹殺されるような処分を受けるべきではなかったと私は思います。男女の仲は薮の中ですから、そもそも、これがセクハラか単なる恋愛問題のこじれが発展したものか私はわかりませんけど、明文化された規則の中に「李下に冠を正すことは、泥棒行為とみなす」とかいてあったのでしょうから、厳密性を尊べば仕方ないのでしょう。

しかし、法律や規則に沿って粛々とやるのが法治国家の原則であるとしても、それを動かしているのは感情をもつ人間です。しかも、この場合、法や規則に沿って粛々と処分が行われたというよりも、所属施設は、ほぼ一方的といえるような形で、DS氏を断罪し解雇しました。噂によると、その年のノーベル賞の可能性が高まってきたところへの不祥事だったので、施設としては受賞が決定的になる前にカタをつけたかったのだという話もあります。これが本当だとすると、規則に沿って粛々とどころか、ポリティカルなモチベーションが大きく作用したということになります。いずれにしても、身から出た錆とはいえ、水に落ちた犬を寄ってたかって叩いたという感じは否めません。法や規則に準じて断罪することが「正しい」ことであるが故に、人は気兼ねなく叩けるわけで、「キャンセル文化」が集団リンチと紙一重である所以でしょう。

それで、以前、トランプがTVのミスUSAコンテストの審査員をやっていたときの事件を思い出しました。優勝者の素行不良が明らかになってタイトル剥奪になりかけたとき、トランプは擁護して、「セカンド チャンスが与えられるべきだ」と述べたのでした。これについては、当時も賛否の議論は当然ありました。コンテストに勝ち残れなかった人々や、大学のポジションを得ることができなかった多く人々、つまり、ファーストチャンスでさえ手にできなかった人のことを考えれば、こうした成功した人々が大きな過ちを犯した後で、セカンドチャンスが与えられることは不公平であるとしかいいようがありません。

しかし、私はそれでも、悔い改めるならば、人はセカンドチャンスは与えられるべきだと思いますし、人を社会的に抹殺するほどに集団で叩くのは良くないことだと思います。誰でも、そうした立場におかれる可能性はあるのですから。キャンセル文化が、正義や公正さという理性的概念を利用した人間のネガティブな感情「不寛容さ、敵意と攻撃性」の表れであることに意識的であることは大切だと思います。不寛容さと敵意、それこそが、今、ロシアとアメリカがウクライナに惨状を引き起こした原因の根底にあるのだと思います。
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恐れと右傾化

2022-04-26 | Weblog
フランス大統領選でマクロン再選。対抗馬は極右でプーチンとも繋がりのあるLe Pen。大都市部と東よりではマクロン、北西部でルペンの得票が多かった様子。アメリカの民主党と共和党のように、都市部と田舎で支持政党に偏りがあるのでしょうか。

マクロンの対抗馬が極右というのが、今の世界の潮流を表していると思います。短く言えば「恐れと不安」、「怒りと不満」、「不寛容と敵意」の世界です。
 その逆の理想の世界、「平和と愛」の世界というのは、達成されることは困難です。そのためには、その構成員の大多数がある程度成熟し、同様の価値観を共有する必要があるでしょう。つまり、相手も自分と同じように考えているという前提がある程度保障されることによって、思いやりは生まれ、正のレシプロカリティーによって関係性は安定化するものでしょう。強いて言えば、日本が比較的豊かで、一億総中流と言われた時代はそれにもっとも近かったように思います。逆に、「人を見れば泥棒と思え」という社会では自分も泥棒にならなければ、やっていけません。そして、悪貨は良貨を駆逐するの喩えの通り、質の悪いものの方が、全体に対して、圧倒的に影響力が強いです。何か意義のあるものを作り上げるよりも、それを盗み、破壊する方がはるかに簡単ですから。

世界中で貧富の差が拡大する一方の現在で、愛と思いやりは一部の人々の特権となりつつあります。悲しいことながら、愛と思いやりに満ちた人は、愛と思いやりで報いられるのではなく、むしろ利己的で狡いものに利用されて搾取される方が多い、という現状があり、それが人々をよりdefensiveにさせ、人を疑わせ、内向きにさせて、異質なものへの差別と憎悪を生む原因になっていると思います。

それが、右翼的なものへの人々の親和性を増加させているのではないでしょうか。周りは敵だらけで、やらなければやられる、という恐れがあるからこそ、異質なもの排除し、攻撃的になり、そして、それを正当化するために、なんらかの特性に基づいて自分たちが優れていると信じたがるのでしょう。人種差別者はその差別の根拠を己が属する種は他の種よりも優秀であると信じているからこそ成り立っていると思いますけど、客観的現実は、人種も民族も性別も、人間の出来とは無関係です。

ロシアのプーチンは、アメリカと西側諸国がウクライナを足掛かりに東方に勢力を拡大することを恐れました。ひょっとしたら、彼自身をサダム フセインやリビアのカダフィと重ねたかも知れません。その恐れに支配され、先制攻撃によってそれを防ごうとしたのでしょう。

日本自民党と右翼は、中露印を恐れ、アメリカ軍の二軍として前線で戦争を請け負うことで、アメリカの庇護に頼ろうとしています。軍事費を二倍に引き上げ、改憲によって「戦争放棄」を捨て、自衛隊を先制攻撃も可能な「日本軍」にしたいと思っているようですが、これも恐れによって理性を失っているからでしょう。

そして、イギリスやフランスは流入する移民が生活を脅かすのではないかと恐れ、EUを離脱したり、極右政治家を大統領候補にするようなことになったのだと思います。

「恐れ」は自己防衛本能ですから、恐れることを忘れてはなりませんけど、プーチンにしても右翼にしても、ここで共通しているのは、単に恐れることを忘れないというだけはなく、逆に「恐れ」に支配されて、理性的な思考ができないような状況に陥っているということです。恐れのあまりに、自ら戦争を起こし、国力を消耗し、国際社会から村八分になり、多大な人的、経済的損失を被るのは愚かです。孫子も「戦わずして人の兵を屈するは善の善なる物なり」と言っております。そんな愚かな戦争に至らぬように、外交というものがあるわけですし。

自民党の改憲にしても、愚かとしか思えません。敗戦後のこの「戦争放棄」の憲法を持つ国が、この80年近く、一度も戦場になることなく、国民を戦争で失うこともなかった稀有な事実を深く噛み締めるべきでしょう。

日本はアメリカの「理想」が組み込まれたその憲法を逆手にとって、「戦争ができない」ことを最大限に利用して、戦後の復興と経済成長に集中することができました。アメリカがそれを不公平だと言っても、憲法を盾にかわすことができました。しかるに、湾岸戦争後あたりから自民党政権は実質的に自衛隊をアメリカの戦争の一部に参加させてきたわけです。思うにこれは日米地位協定と日米合同会議に基づくアメリカの「命令」だったのでしょう。しかし、折角の憲法による「戦争不参加」の口実を自ら捨てて、わざわざ国を不要な危険にさらし、国の体力を消耗させて、アメリカの下働きをしようと、アベ一味と自民党は考えているわけですから、浅慮でなければ売国奴、実態はその両方でしょうが。

普通に議論すると、攻撃したら攻撃しかえされ、戦争になったら、それだけで大変な国力を消耗しますし、負けても勝っても大変です。多分、中国やロシアを敵に想定しているのでしょうけど、そもそも、本気でこられたら、現時点で自衛隊の10倍近い規模をもち、三倍の軍事費を割く核保有国の中国軍に勝てるわけがない。仮に在日米軍が参加したところで、その規模は3万人。仮に勝ったところで、そのダメージからは簡単には回復できないし、中国を制圧し続ける能力も体力もないでしょう。日本は戦争に勝つことよりも、戦争をしない、戦争に巻き込まれないことを第一に考えなければならないです。そのための外交ですが、アベのように、接待したりゴルフするだけで、交渉一つまともにできず、カネをばらまくだけしかできないようでは話になりません。

話をもどしますと、要は、世界的な右翼化、ナショナリズムの傾向は「恐れと不安」の高まりの結果だと思います。困ったことは、恐れに支配された人間は、しばしば論理的思考ができなくなり、短絡的で非論理的な結論に飛びついてしまうということでしょう。

日本で、アベのような人間がメディアを支配し、いまだに愚かな言説を垂れ流し、維新のような単なるアジテーターが人気を集める、という反知性が跋扈しているのは、人々がすでに「恐れ」を理性的に解析することができなくなって、それに支配されてしまっているからかも知れません。
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Paying dues

2022-04-22 | Weblog
三年来のプロジェクトを論文にしようと作業していますが、図を作ったり、データを見返したりという作業は思いの外、時間も手間もかかるもので、ついこうして現実逃避しています。優秀な研究員が実験もデータの解釈も論文も全部やってくれて、こっちは褒めるだけでいいという状況がいつかやってくればいいなと、ずっと夢見ていましたが、そんなことは現実にはおこりませんでした。

面倒なやるべきことを後回しにして、簡単な目先の雑用に時間を費してしまうのは悪い習慣で、嫌気がさすと、わざわざemailを開けて雑用を探し出したりするほどです。それで、とある女性研究者をサポートする組織のフェローシップ応募書類の審査を引き受けたのを忘れていたことを発見しました。どうもこれまでも何度かきていたメールを全部ジャンクメールだと思い込んで読まずに捨てていたようです。締め切りまで時間がないということで、あわてて書類を見ました。応募者はポスドク五年目、数本の筆頭著者論文、二年前にN紙の姉妹紙に一本、BioRxivに発表したものは一流誌で審査中とのこと。研究計画そのものは5ページほどですが、これを書くのにかなりの時間が費やされているのは明らかです。二本の推薦状。これを書いた人は二人とも知っている人でした。普通、推薦状は自分で書いて署名をもらうものだと思いますけど、これは本人たちが自筆で書いたようで、びっしり二ページずつ。

これを見ながら、みんな大変だなあ、とすっかり人ごとのように感じているのに気がついて、ああ、自分は気持ち的にもう現役ではなくなってしまったのだ、と実感させられました。

私は自分で何か作り出すことに喜びを感じますけど、得手不得手でいうと、ゼロから創造することよりも、存在するものを解釈し批評することの方が得意です。実験を繰り返して何らかの発見をすることに興奮を感じますけど、この部分は、悲しいことですが、どちらかというと得意ではないと思います。論文や研究費申請書のレビューは好きではないですけど、うまくできる方です。私の場合、好きなことはあまり得意でなく、得意なことはあまり好きではない、ということです。

そして、私が好きでも得意でもないことが、この業界にはあって、それは、研究を続けていくには、必須のものなのです。つまり、資金獲得競争、論文出版競争、出世競争といった複数の競争にうち勝っていくということです。これらの競争に純粋に学問が関与する部分はごく一部です。

普通は、この現実を必要なものであると受け入れ、割り切って頑張るわけですが、私はもう、アホらしいとしか思えなくなってしまいました。そこまでして研究の権利を手に入れて、多くの動物を犠牲にし時間とカネを費やして実験を繰り返し、ハイインパクト雑誌に科学の成果として発表した知見の半数以上はウソ(再現性がないという意味で)だったというがん研究論文再現性試験の結果を見ると、(驚きませんけど)この競争はアホらしいとしか思えなくなりました。

競争があるのは資本主義社会の常で、どこの世界でもそうでしょうから、私はもはやどこにいってもアホらしいと感じてしまうでしょう。

この熱のこもった応募書類を見て、十年前の自分を思い出しました。彼女らが、短い人生の中で何らかを成し遂げようとして、必死に頑張っているその様子は痛いほど感じるのですけど、素直に頑張って欲しいという気持ちが湧いてきません。研究稼業が私はそれほど素晴らしいものだとは思えなくなったかられです。アカデミアのほとんどの問題は(アカデミアに限らず、どこの世界でもそうでしょうけど)カネで解決できて、カネでしか解決できないものです。そして、カネは全然、足りません。

このフェローシップをもらえる人はおそらく十人に一人以下でしょう。九人の努力は報われません。そう思いながら、評価コメントを書きました。この辺は得意ですから、読んだ相手はイヤな気分になるだろうなあ、とは思いつつも、淡々と弱点を指摘するだけです。

そして、自分が応募者の立場であって、そういうコメントをされた場合に、どうするだろうと、いつも少し考えます。どんな計画にも弱点があるものですが、すぐのその改善策を思いつくような申請書は、十分練れていないものがほとんどなので大体ダメです。そして、簡単に改善策がない場合の多くは、プロジェクト自体の限界です。そういう場合、応募者がどうにもできない場合がほとんどです。それは、多くの場合、種々の外的要因によってそのプロジェクトに落ち着いてしまった応募者の「運」というやつです。

現代社会では、人生はギャンブルで、配られた手札で勝負するしかない、と人は考えます。それを受け入れた上で勝負に勝つために頑張るのを尊いと思うか、そんなギャンブル自体がアホらしいと思うかは、人それぞれ、状況にもよるのではないかと思います。

関係ないですけど、Marvin Gaye で"Life is a gamble"  を。
研究業界も含む現代の社会で生きる人間の宿命が、たった三行の歌詞に述べられています。(1971)

歌詞:
Life is a gamble, oh baby,  
Where you win all rules.  
I'm right, just paid my dues.
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使命に生きる男

2022-04-19 | Weblog
山本太郎、衆議院議員を辞職、参議院に鞍替え出馬のニュース。彼にはいつも驚かされます。

将来、司馬遼太郎のような歴史作家が再び現れて、振り返って平成以後の大河歴史小説を書くならば、間違いなく主人公に選ばれる一人でしょう。そして、55年体制を二度ひっくり返した男、小沢一郎がなし得なかった夢をもし継ぐ人間がいるとしたら、きっとそれは彼ではないでしょうか。

最初に驚かされたのは、その自由党の小沢一郎と組んだ時、二度目に驚いたのは、その自由党を離党し、れいわを立ち上げて、たった一人であの短期間に資金と候補者を集め、全国に旋風を巻き起こし、障がい者を国会に送り込み、国政政党になった時、そして、今回の衆議院の躍進とその辞職。

「れいわ」は、企業や組織の後ろ盾を持たず、市民の支援によって成り立っている戦後日本政治史上初の市民政党であり、それが二度の選挙で衆参で五議席を有するようになっているのです。このこと自体が画期的で歴史的な出来事でありますが、残念ながら、この政党の存在の意義を国民もその他の政治屋も十分に理解しているとは思えません。

一歩下がってより大きな視点で世界を眺めると、近代民主主義が成立した二つの大きな出来事はアメリカの独立戦争とフランス革命であったと思います。市民が立ち上がり、自らの手で戦い、政治形態を変え、近代の民主主義を確立した出来事でした。然るに、戦後日本にアメリカから与えられた民主主義は、日本人国民が勝ち取ったものではなく、今日に至るまで上から与えられ振り付けられたものに過ぎませんでした。だから国民に当事者意識が乏しいのでしょう。れいわという政党とその躍進は、日本における最初の市民革命の最初の炎、または近代日本の大規模な百姓一揆であると評価されるべきだと私は思っています。

山本太郎にわれわれが驚かされるのは、われわれ凡人が常識だと思っている前提(それこそが自分自身の思考と行動を縛っているわけですが)を、彼は意図せずして破壊してきたからです。山本太郎は、「大義 (good cause)」に忠実で、それを実現する最適で最短の戦略を深く考え、ストレートに実行する。かつてコンピューター付きブルドーザーと呼ばれた田中角栄以上のスケールで。しかもそのコンピューターの計算と行動力は、「人間は本来、自己中心的なものであり、政治家の目的は安定した地位と権力を得ることだ」というようなわれわれの常識や思い込みを遥かに越えてきます。

それは、彼が政治的目的の達成に強い使命感を持っているからでしょう。原発事故の強い衝撃が山本太郎の中の何かを覚醒させ、原発反対運動で芸能界を干されたことがこの国の深い闇と社会問題に目を開かせることになりました。その政治家としての動機はまさに自分自身の肌身の感覚を通じて呼び覚まされたものであったでしょう。政治の腐敗と無能によって国民生活が破壊されてきたことを直接目の当たりにして、強い使命感に目覚め、動かざるをえなくなったのだと思います。彼の持つ「元芸能人」というほぼ唯一の武器をレバレッジにこの10年で彼が成し遂げたものはただただ驚愕に値します。

人間、少なからぬ人が、生まれてきた以上は、世界に貢献し何らかの果たすべき使命を見つけて、それを全うして死にたい、と思うものです。然るに、多くは、自分自身の生活を維持していくことに精一杯で、あるいは果たすべき使命を見出すことができぬまま、若い日の志を忘れていくもので、かくいう私もそういう一人です。だからこそ、使命に生きる人は輝いているし、見るものを興奮させてくれます。

山本太郎の支持者の少なからずが、彼の政策や理念以上にその人生の賭け方に共感していて支持しているのではないかと思います。一方で、ツイッターなどでのコメントを見ていると批判者も多いです。残念なことに、それらの批判で論理的に納得できるような議論になっているものはほとんどないです。だいたいは、無知による的外れな批判、理解できないものの価値を認めたくないという劣等感からの攻撃、使命に生きる人を妬む嫉妬心からの中傷や冷笑、目立つ人間の揚げ足をとって自分を慰める負け犬根性、先入観と偏見(無知の一種)のどれかです。そして、このようなコメントをわざわざ書き込む人が少なくないと言う事実を思うと、今後の日本の政治と社会の先行きに山本太郎ならずとも、楽観的ではいられません。

この参院選が、今後の日本の暗黒の50年を決定づけることにつながる重要な選挙で、その流れを阻止するのはすでに困難な状況にある、という実感をどれだけの国民が持っているでしょうか。生活に追われ、メディアを政権に支配されて、少なからぬ国民は、これまでもアベ一味が着々と内閣が独裁体制を合法的に敷けるように様々な口実を繰り出しては法整備を進めてきたことを、知らないと思います。そして、その仕上げは改憲です。憲法改悪の問題点として主に議論されているのは、9条関連で、戦争を自由にできる国にするという点ですが、自民党の本来の狙いは、99条「憲法遵守の義務」の項目でしょう。自民党改憲案を見てもらうと、99条改憲案が自民党政権による恒久的独裁化を目指していることが露骨にわかります。すなわち、自民党がやろうとしているのは、立憲民主主義を骨抜きにして合法的な独裁的人治国家を作り上げることでであり、日本のナチス化であり、中国化であり、ロシア化です。この参院選で与党が(すでに多数をとることが予想されているわけですが)議会の主導権を握ると、間違いなく自民党は改憲に向けての動きを加速させることになり、最後の頼みの綱は国民投票のみとなります。日本の国民が改憲の本来の目的も知らされず、与党政府の広報部となりさがったNHKをはじめとするメディアに誘導されて、政府の改憲動議に同調する可能性は低くないです。今のロシア国民のプーチンの支持率をみれば、日本人の投票行動も予測できます。自分で自分の首を絞めているのに、その自覚が欠如しているのです。

与党自民党は、公文書改竄隠蔽や統計改竄、国会虚偽答弁、縁故政治に公職選挙法違反、などなど数々の腐敗に加え、増税にスタグフレーションに円安で国民生活も破壊してきたにもかかわらず、一向に野党の支持が伸びず、逆に維新のような自民党のパシリのチンピラ政党(言葉が悪いですけど、この政党をこの他に形容する言葉が見当たりません)が票を集めると言う状況は、山本太郎でなくても悲壮感に打ちひしがれます。つまり、国民投票となった時でも、誘導に乗って、深く考えずに多数に付和雷同してしまう可能性が強いことを示しています。

大袈裟に言えば、現在、日本は戦後民主主義から戦前の独裁体制へと落とされる崖っぷちにあり、この参院選で最後の突きを喰らうことになるのです。そのことを山本太郎以上に深く実感し強く危機感を持っているものはいないのではないでしょうか。肝心の国民がそれを理解せず、山本太郎の国会での一人牛歩や今回の辞任を「単なるパフォーマンス」と冷笑するような状況です。そのパフォーマンスの意義を理解できないのです。私ならとっくに見限ってあきらめているでしょう。多くの野党議員もその限界の中で仕方がないと諦めている。

山本太郎は、そんな困難な状況にあっても、大義を抱き、使命を確信し、持てるリソースを使って最大限の効果を出すこと考え、リスクを取って大胆に行動し、限界を疑い、限界に挑戦してきたと思います。大河冒険政治小説とでもいうような彼の物語が今後どのように発展していくのか、注目していきたいと思います。

すでに長くなっているので、山本太郎本人が衆議院議員辞職の理屈を説明している彼のブログのページをリンクします。
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シェルブールの雨傘

2022-04-15 | Weblog
どうでもいい話。
戦争と別れの歌の流れで、昔のフランスのミュージカル、「シェルブールの雨傘」を思い出しました。フランス語のトレーニングの一環で最近また観たのです。
ちょうど、ボブ ディランの「風に吹かれて」がヒットした60年代半ばの作で、主演の初々しかったカトリーヌ ドヌーブは今や78歳ですがまだ現役。
このミュージカルでのミッシェル ルグラン作曲の有名な主題歌、「Je ne prouprais jamais vivre sans toi (あなたなしで生きていけない)」は、兵役召集令状によって若い二人の別離が確定的になる場面と駅での別れの場面で歌われます。ちなみに、この雨傘屋の店は、グーグルマップでみると、現在は「シェルブールの雨傘」という店名の雑貨屋になっているようです。通りの様子は60年前とほぼ変わっていません。

この曲の歌詞を見てみると、ヴァースでは、シェルブールの雨傘屋の娘、ジュヌヴィエーヴと自動車修理工、ギイとの交際と結婚を、母に反対されているという状況の中で、ギイがアルジェリアへの二年の兵役に召集されるという事情が歌われます。そして、テーマでは、二年の離れ離れの時間に圧倒される気持ちが歌われ、「あなたなしで生きていけない、離れたら死んでしまう、行かないで」と涙ながらに熱い思いが歌われるわけです。(歌詞とあらすじのリンクがこの方のサイトにあります)

その後、二人は一夜をともに過ごしジュヌヴィエーヴは妊娠に至るのですが、そのあと、ジュヌヴィエーヴはギイの兵役中に金持ちでハンサムな宝石商に見そめられて、身籠ったまま結婚してパリへと行ってしまうのです。

ここのところで、私は呆気にとられました。ちょっと前に「あなたなしでは生きていけない、ずっと待っているわ」って泣いてたのに、半年もたたない間に、しかもその男の子供を妊娠中なのに、他の男と結婚しますかね、ふつう? ま、別の男の子供を妊娠している人と結婚する男も男です。ヨーロッパではよくある話なのかも知れませんけど)

この曲のカバーで良かったものをリンクします。私、日本語以外にはフランス語とロシア語で歌われる曲の音の感じが好きです。(しかし、これは、歌手と曲に依存しますね。それ以外だと、テレサテンの中国語の歌、バルカン半島の民謡の音の響きがいいです)フランス語特有の"R"の音や鼻音は、発音する人によって、美しく聞こえる場合と逆に汚く聞こえる場合があって不思議ですけど、この演奏では、そうした音がとりわけ美しいと思います。

ついでに、透明感のある美声で、日本でも人気があったギリシアの歌手、ナナ ムスクーリが作曲者ルグラン本人と英語でデュエットしたもの (1973)。

当時は欧米の流行歌歌手がアジア市場を積極的に開拓していたじだいでした。これは、ナナ ムスクーリが日本語で歌ったバージョン

ペギー葉山の日本語版

ザ ピーナッツ 英語版。さすがに歌うまいですな。

ザ ピーナッツ 日本語版。16ビートのスペイン風ギターのカッティングの変わったアレンジ。
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戦争と別離の歌

2022-04-12 | Weblog
どうでもいい話。
前回、反戦歌のBella Ciaoの話に関しての連想で。
戦争による愛する人と別離をモチーフにした歌や映画は昔からよくあります。人間の持つ最も尊い感情である「愛」や「慈悲」を奪う人間の最悪の行いが戦争であるからでしょう。私が子供のころは、第二次大戦で大不況を抜け出したアメリカの戦争ビジネスが盛んであった時代で、他国に軍事介入しては戦争を煽り、その都度、大勢の人々が殺され、自然と社会が破壊されてきました。当時の主だったところでは朝鮮戦争やベトナム戦争が頭に浮かびますが、以後もアメリカは大小さまざまな国際紛争に軍事介入してきました。湾岸戦争、アフガン戦争、イラク戦争、アラブの春、、、数え切れません。イランの戦争を支援して儲けた金で中央アメリカのテロ組織を支援して国家転覆に加担したこともありました。今回のロシアのウクライナ戦争の間接的な原因を作り、煽り続けてきたのも、アメリカ(とNATO)であるとも言えるでしょう。

私の子供時代は、そうした戦争、つまり、人間性の破壊に反対するプロテストソングが流行った時代でもありました。特にギターの伴奏で単純なコード進行にのせてメッセージを強く伝えるタイプのフォークソングが流行していました。多分、ボブ シーガーの「花はどこへ行った」やボブ ディランの「風に吹かれて」に代表されるようなアメリカでの反戦歌のスタイルが数年遅れで日本での流行を作ったのだと思います。当時の日本のフォーク音楽は、プロテストソングと同時にユーミンの言うところの「四畳半フォーク」の二つが主流となります。しかし、これらは同じものの裏表ではないかと思います。困難の中でささやかな幸せを見つけるというありふれたテーマはヒューマニティーへの根源的な賛歌であり、反戦歌はそれを脅かすもの(戦争)への直接的な抗議です。

私が子供時代に聞いて非常に強い印象が残った反戦歌は、その四畳半フォークの代表曲といえる「神田川」や「赤ちょうちん」で知られる「かぐや姫」の「あの人の手紙」です。戦争に翻弄される人々を石を投げられる泳ぐ魚の群れに例えていますが、比較的ストレートな歌詞が子供心には衝撃的でした。

ネットで見つけました。第二次対戦中、日本で唯一地上戦が行われて多くの人が犠牲となった沖縄。その沖縄出身の夏川りみさんとのデュエット。夏川さんの透明感のある声、バイオリンを使った伴奏と間奏、最後のアイリッシュ リール風のリフとなかなか凝ったアレンジになっています。

朝鮮戦争時の反戦歌、もともとは北朝鮮の歌だそうです。フォーク クルセダーズの「イムジン河」(1968)

南北朝鮮に民族が分かれてしまったのも、もともとは日本の植民地主義と敗戦後統治をになった米ソのせいでした。東西の緩衝地帯にあるウクライナがかつてのドイツや朝鮮のようにはならぬことを願います。



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さらば恋人よ

2022-04-08 | Weblog
どうでもいい話。
フランス語の朝晩十分のオンラインレッスン、上達ははかばかしくないですけど、まだ続いております。まもなく600日なので、チリツモで200時間を費やしたことになります。なんとか使い物になるまであと600時間、この調子だと五年ですか。別に使う予定はないので、使い物にならなくてもいいのですけど。

この関係でラテン語の専門家の人をツイッターでフォローしております。ラテン語はさまざまなヨーロッパ言語に入り込んでいますし、科学の分野でも解剖学用語はいまだにラテン語そのままです。今はどうか知りませんが、昔の日本の医学校での解剖学では、ラテン語の解剖学用語をドイツ語読みで覚えるというような意味不明のことをやっていました。思うに、かつて解剖学の知識はドイツ経由で入ってきたのでしょうし、またドイツ語なら綴りをそのまま読めば読めてしまうからという理由ではなかったでしょうか。ヘンなのは日本だけに限らず、解剖学用語のラテン語は広く英語圏でも使われているので、おかしな変化が正式に論文などでは使われています。例えば、大腿骨は単数でfemur、複数でfemoraですが、英語ではfemursでもOKです。同様に脛骨は単数でtibia、複数でtibiaeですが、英語ではtibiasでもOK、しかし上腕骨(単数ではhumerus)の複数形は英語でもhumeriでhumerusesはダメです。

さて、最近その方のツイートから学んだラテン語がらみのトリビア。

さらに、「また、『チャオ』の語源であるヴェネト語のs-ciao『奴隷』の語源の中世ラテン語sclavus『奴隷』の元の意味は『スラブ人』です。この中世ラテン語sclavusは英語のslave『奴隷』の語源でもあります。 これは、多くのスラブ人が征服されて奴隷にされたことに由来します。」とのこと。

スラブ人 -> 奴隷 -> あなたの下僕 -> チャオ!という連想ゲームも真っ青の変遷をとったようです。

昔からある反戦歌で「Bella Ciao (さらば恋人よ)」というイタリア民謡をもとにした曲がありますが、歌詞は、イタリア内戦時に戦争に赴く若者が恋人に別れを告げる内容のものです。Ciaoがスラブ人を意味するということなので、スラブ同士の同胞戦争、ロシア-ウクライナ戦争の終結を願って、リンクしたいと思います。

ウクライナ兵士による演奏

ロシア軍音楽隊による演奏

10ヶ国語コンピレーション(イタリア語、日本語、スペイン語、アラビア語、デンマーク語、トルコ語、クルド語、ドイツ語、中国語、英語)

それにしてもプーチンとロシア軍は完全に失敗してしまいました。親欧米政権を親露政権に入れ替えて、ウクライナを中立化させるという目的の達成も難しくなったようです。市民や病院への攻撃が完全に西側諸国の強い反感を買い、それに乗じて武器商人が戦争を煽っているようです。皆が頭を冷やす必要がありそうです。
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週末の一杯

2022-04-05 | Weblog
ウクライナ情勢、毎日入ってくるニュースは西側メディア経由という点を差し引いても、ロシア軍の攻撃は度を越えているようにしか思えません。後ろ手にされた民間人が殺された遺体が転がっている映像や、病院への攻撃映像をみると、これはロシアが言うようなウクライナ政府の自作自演やウクライナ過激派による犯行とは思えません。シリア内戦の時も同様の情報が錯綜していましたが、今や簡単に直接証拠が得られて伝播する時代です。
これらをみると、現場の暴走だけでは説明できないように思います。これでは、戦略的に着地点を考えて攻撃を行なっているとはとても思えません。プーチンは、ひょっとしたらとんでもなく無能で愚かなのではないかという最も安易な仮説に飛びつきたくなりますね。

さて、どうでもいい話。
最近は仕事も減速モードに入り、家族も現在長期出張中、残りの人生の時間も限られているということで、ほぼ唯一の楽しみが週末の一杯のビールです。一週間、仕事に出るのも週末のこの一杯を美味しくするためであります。それで、美味しくて手頃な価格のものを手に入れて楽しんでいます。手頃というのは結構重要なファクターです。幸いビールでワインではないので、そう心配はしていませんが、もし美味しいが高いものにハマって、引退後、毎日のように飲むようになったら、生活を圧迫しかねません。

ビールに関しては、大量生産品の低品質のものをのぞけば、アメリカのビールは美味しいと思います。随分前、はじめてサミュエル アダムスを飲んだときに、アメリカのビールの美味しさに感動して、以後、ちょくちょく飲むようになりました。昔のようには飲めないので、週末に一杯を味わいながら飲むだけです。そうなってからは、飲みやすさよりもより味わいの深いものが好みになって、ラガーではなくエール、特にIPAが好きになりました。

IPAはホップを大量に使うので、その香り高い苦味がいいのですけど、ホップの種類によって大きく風味がかわります。人気のものはCitra ホップと呼ばれるタイプを使ったもののようで、このホップに含まれる柑橘系成分の爽やかな風味が最近は特に好まれているようで、多くのクラフトビール メーカーのIPAはこの手の味のものが多いです。

最近飲んだ大量生産のIPAで、なかなか良かったと思ったのは、Lagunitasというカリフォルニアの会社の作った"Little Sumpin' Sumpin' Ale"というIPAです。
"Sumpin'"は"Something"が訛ったもので、"little sumpin' sumpin'" は、快楽をもたらすようなちょっとしたもの、という意味で、酒とか性行為とかクスリとかを暗示する言葉のようです。ちなみにこの会社は現在ハイネケンに買収された模様です。

このIPAの特徴は、大麦と小麦を半々で作っていることで、綺麗な透明感のある黄金色にきめ細かな泡立ち、IPAでありながらラガービールのようにスムーズ、しかししっとりとしたシルキーな口当たり、ユニークなホップのおかげで、果汁の添加は一切ないのに、パイナップルとグレープフルーツ系の風味が効いた爽やかな一品です。そのフルーツ風味も適度なバランスがあり、ときにあるグレープフルーツジュースにアルコールと苦味を加えただけみたいな味ではなく、非常に上品な飲み口。そして爽やかな香りの後にはIPAらしい苦味が余韻を残します。アルコール度数は7.5%、値段も大量生産品でお手頃。南国の夏の涼しくなりかけたころに海風に吹かれながら夕日を見ているというセッティングを脳内で想像しつつ、一杯を楽しみます。

この会社は季節限定ものも合わせると50種類以上のビールを生産しているようですが、二、三、他のものも飲んでみた印象だと、基本的にグレープフルーツ系の風味が強いホップを使った流行の味のものが多く、その中で最もバランスがいいのが、この"Little Sumpin' Sumpin' Ale"だと思いました。ビール評価サイトでは、スコアは100点中93、アメリカンIPA分野部門で119位、総合2911位。大量生産ものに限れば、5指に入るのではと思います。


同評価サイトのアメリカンIPA部門で最も人気が高く、より評価が高かったのが、同じくカリフォルニアのBallast Point Brewing Companyの"Sculpin
まだ飲んだことがないですけど、サイトによるとホップを5段階で加えるやりかたで、アプリコット、桃、マンゴー、レモンの風味をもち、カサゴ(Sculpin)のトゲの毒で刺すようなピリッとした苦味が特徴だそうです。欠点はLagunitasよりは高いのと流通が悪いので手に入りにくいことですか。

何千とあるビールの中で、もっとも不味いと評価されたのは、バドワイザー セレクト。スコア51。でしょうね。それからこのサイトでは、日本の大量生産ビールは総じてあまり評価は高くなく、最も評判がよかったのがアサヒの黒生で80ポイント。数ある日本のクラフトビールでは、評価されたものは限られていますが、その中では沼津にあるベアード ビール(Baird Brewery)のいくつかは高評価を受けており、駿河湾インペリアルIPAが87ポイント。それから伊勢角屋麦酒のIPAが84ポイント。

しかし酒税の関係で日本はビールが高いのが悲しいですね。アメリカで買えば、安くてまずいバドワイザーなら一本100円、Lagunitasでも一本150円程度、日本ではこの類のビールはその3倍はしますし。
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歴史の断片

2022-04-01 | Weblog
随分前に引き受けた学外学位審査員、学位研究の公開発表と試問会をするというお知らせが来ました。学外委員は学生の教育にも将来にも何の責任もないのに、学位授与の関係者というだけで、学生からは一方的に感謝され、遠方の大学ならそれを口実にタダで観光旅行もできるという役目です。(あいにく今はZoomで役得なし)というわけで、学位のための公開発表と試問の開催にあたって、先日、二度目の会合がありました。それに先立ち、学位論文の原稿が送られてきました。

ちなみに下はフランスで女性で初めて博士号をとったキューリー夫人の学位論文の表紙で、最近偶然ネットで目にしたものです。1903年6月、パリ大学理学部(現ソルボンヌ大)で発行されており、表紙には三人の学位委員、学長と二人の審査官の名前が書いてあります。学位論文は二部に分かれており、一部のタイトルは「放射性物質の研究」それから二部は「教授からの提言」となっています。どうも、学位研究の内容とそれに関する指導教官の意見書がセットになっているのが、当時のこの大学の学位論文のフォーマットのようです。

発行が1903年ですから、このキューリー夫人の学位審査に関わった関係者はおそらく全員もうこの世にはいないでしょうが、この黄ばんだ印刷物は、かつて若きキュリー夫人が、さわやかな初夏のパリで、三人の審査員を前に学位を防御した、というできごとの直接の証拠であります。

さて、送られてきたこの学生の学位論文は200ページ以上ある大作ですが、肝心のデータを見ると、これではちょっとマズいだろうという内容でした。私の専門分野というわけではないので、ひょっとすると分野が違えば基準も違うのかなあ、などと思っていると、その学生の指導教官の人から電話がかかってきて、この学生の研究態度とデータの問題について聞かされ、そして、そのことを学位審査会の講座長に訴えても、多少の問題はあっても学生は卒業させねばならないと言われるのだ、と愚痴られました。

そうこうしていると、また別の大学の共同研究者の人からも連絡があって、共同研究で論文にしようとしているプロジェクトを二年先の学生の学位論文の一部に加えたいので、こちらの倫理委員会の承認書を送ってほしいというメール。ついでにその学生が、なかなか思うように働いてくれないのだという愚痴が付け足してありました。シンクロニシティーですかね。この学生の人とはプロジェクトに関して、二、三メールをやりとりしたことがあり、大変優秀そうだったので意外に思いました。指導者と学生の関係というのは、嫁と姑のように色々あるのが普通と思いますが、例えてみれば、私は隣家のおじさんの立場、嫁姑問題に口を出すのは僭越というもので、私に愚痴られても、知らんがな、としか言いようがありません。

今では、学位の審査会は、その後のパーティーの前にやる儀式的なもので、予定調和の大団円に向けての最後はみんな笑顔でシャンシャンと終わるのが普通と思います。このようなケースは初めてで、指導教官の彼も多少、感情的にもなっているしで、結局、「学位授与や研究遂行上における定められた規則にしたがって対処すべし」と当たり障りのないアドバイスをしました。現実的な案として、学生とよく話して、学位試問を辞退または延期させればどうか、と言ったのですが、結局は、大人の事情(つまりカネがらみ)で学生を何としても卒業させねばならないと主張する講座長に押し切られたようです。

そして、本人を交えた試問前の委員会が開かれ、グダグダの会合は三時間におよび、いい加減うんざりしたころに、講座長が、学位審査は行われるべきだ、との鶴の一声で終了。それから数週間、先日、本番が行われました。確かに発表前の会合の時よりも見かけは改善していましたが、短期間で本質な問題が解決できるはずもなく。その後、一般聴衆に退出してもらって、発表者に委員がかわるがわる試問。私もちょっと二、三、意地悪な質問をしてみましたが、予想通りの反応。それから審査。審査と言っても、講座長が学位は与えると決めているので、私は黙って、その晩のご飯とビールのことを考えていました。

そして、この学生は、手続きがおわれば学位を与えられ、その問題のある学位論文は、指導者のサイン入りでその大学の図書館とウェッブサイトに残ることになります。将来、彼女がキューリー夫人のような有名人にでもならないかぎり、この論文は誰の手にとられることもなく、ひっそりと図書館の隅で埃を被ることになるのでしょう。しかし、これも小さな歴史の断片であるには違いありません。

学位は足の裏についた米粒で、放っておくと気になるが取ったところでどうということはない、といわれます。人間、死ぬまでの長い時間をつぶす気晴らしが必要なので、勉強したり、研究したり、働いたり、何かに挑戦したり、遊んでみたり、ブログを書いてみたりするわけでしょう。だからこそ一生懸命やらないと面白くないのでしょうけど、いずれにせよ気晴らしであることに違いはありません。
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