百醜千拙草

何とかやっています

筆を置いて立つまでに

2013-11-29 | Weblog
このブログは、身辺雑記で、遠くに住む知人親戚に、私の近況を知らせるのが主目的の一つです。
しかし、一方で、日本と世界の国々の権力者と呼ばれる連中が、看過出来ないデタラメをやり、人権を蹂躙し、環境を破壊してきたことに、黙っておられず、話題にしたくない話も綴らなければならなくなりました。私、「人権」というヨーロッパ人が編み出した(?)言葉は好きではありませんが、帝国主義、差別主義の本場のヨーロッパで、人々の進歩のためには「人権」というのは必要な言葉であったのだろうと思います。

明治以後、武力による「開国」という第一の敗戦を経て、日本はヨーロッパ式の物質主義、帝国主義に邁進し、日清、日露戦争での「まぐれ勝ち」ですっかり調子にのり、ヨーロッパが言う二流国の中での一番を目指してきました。しかし、第二次大戦での敗戦によって、欧米流のカースト制の関係をねじ込まれ、現在では、中間管理職たるアベ氏が、上(欧米)には腰低く、下(日本国民とアジア諸国)には威丈高に、国民の奴隷化を目指して「国民の生活の破壊が第一」というでもいうような「カバルのアジェンダ」を着々と実現すべく、官僚に言われるがままロボットのように忠実(?)に職務にあたっている、という悲しい現実があります。

世の中で起こっている理不尽なことは、そういう欧米の(より端的には、戦争産業と中央銀行制度を牛耳っている連中)意図、世界歴史というコンテクストの中での理解が必要であろうと思います。確かにアベ氏の頭のレベルは問題でしょう。かつて「私は権力の頂点にいる!」と恥ずかしくも叫んだごとく、本人は、自分には何らかの力があるのだと勘違いもしているでしょう。そして、私も世間の人々もこのxxxは弱いが官僚の言う事をよく聞く(小沢氏、亀井氏の言葉によれば)「いい子」を非難するわけですが、結局、彼も、複雑に絡み合った世界の支配者とその追従者の利益互助集団のネットワークに操られている使いパシリのロボットにしか過ぎない、ということを理解しておくべきだと思います。アベ氏は「カバルのアジェンダ」を実現するためのツールに過ぎず、用が済んだら、捨てられて別の使い勝手の良いのに交換されるだけの存在にしか過ぎません。いくら、国民がアベ氏に何をいっても、右耳に入った言葉は、両耳の間の空洞を一瞬で通過して左耳に抜けてしまうだけだし、アベ氏を使っている連中にしたら、いつでも替えがきく消耗品ぐらいにしか思っていないのです。連中は、そうやって国民の怒りを反らしたり、ちょっとでも国民の意見にそうようなことを言う人間に首相を替えて国民に希望を持たせたりしながら、着実に「カバルのアジェンダ」を実現化していきます。なぜ選挙公約がいとも簡単に破られていくのか、なぜ政治家は必ず国民を裏切るのか、ほとんどの職業政治家は国民の代表ではなく、体制側の利益互助活動の手先であるという観点から眺めれば、簡単に理解できることです。

現代の社会は「カネ」と「戦争」を中心に回っています。カネも戦争も、「富」を手に入れ、人々を支配するための道具であり手段です。戦争の目的は自明ですが(それでも、平気でシャーシャーと「民主主義のため」だとか言った英語に問題のある大統領がかつておりましたが)、カネはもっとSubtleです。本来、「ものやサービスの交換のための手段」であるというカネの性質を悪用して、作り上げた詐欺システムが現在の管理貨幣制資本主義というものでしょう。現代の経済が、需要と供給の関係で「神の見えざる手」に導かれた自己制御されるシステムだと思っている人は、現在ではさすがにいないでしょうが、中央銀行制度の歴史と問題を正確に言える人も少ないだろうと思います。私も、そう知っているわけではありません。ただ、リンカーンとケネディーとガダフィーは、同じ理由で殺されたのだと私は信じています。リンカーンとケネディーが共通してやったことは政府発行の貨幣を流通させようとしたこと、ガダフィーがやろうとしていたことは、イスラム圏で基軸通貨としてドルを排してディナールに変えることでした。いずれも、貨幣制度を改革しようとしたのが、暗殺の原因だろうと思います。

話がずれました。そもそも、私はこの手の話はもう余りしたくない、ということを言いたかったのでした。ただ、人は「知らなければ」自分の身は守れない、と言いたかったのです。自分や家族や郷土や社会を守るために、何が起こっているのかを知り、それを考察し解釈すること、が必要です。我々は学び、知り、考えなければなりません。そうでなければ、アベ氏のような使い捨てのロボットにされてしまう、そう言いたかっただけです。

与党の「数の暴力」で性急に衆院を通過させた「秘密保護法」の採決の日のいきいき箕生通信のエントリーでは次のようにあります。

「お任せ民主主義」の隙をつけば、安倍という大した識見もない男にも、こうも簡単に国の根幹を変えることができる。国民主権という国家の根幹が、官僚主権という形に根底から変えられてしまう。

 民主主義は、それを支える大衆自身が普段の努力を欠くようなら、たちまち「衆愚政治」に陥ってしまう。これを地で行っているのが、今の私たちの日本ということになるようです。残念ながら。
 、、、
いつ、何の罪で逮捕・拘留されるか分からない不気味な社会。当然、言論が委縮します。それ自体が政権の狙いでもあります。突然逮捕されることがないよう、危なさそうな内容は発信しない。ネット空間から政権に都合の悪い言論を労せずして消すことができるのです。

 昨日の福島県で行われたこの法案に対する地方公聴会で、自民党推薦の意見陳述者を含め7人全員が「法案に反対」を陳述しました。しかし、そんなことは一顧だにせず、本日押し通す。こうしたことが、さらに当たり前に行われるようになります。

 繰り返しますが、私たちがぼんやりしていた結果です。日本の民主主義は、どん底から立て直すしかないようです。もともと自分たちの手で勝ち取らなければ魂のこもった民主主義とはならないのだから、腰を据えて努力しましょう。今度こそ本物の民主主義を私たちのものにするために。


民主主義というものは、国民が自ら勝ち取る努力をしたものでなければ続かないということですね。そもそも民主主義は、国民を支配し搾取しようとする体制との戦いの中で団結と抵抗によって、勝ち取られたものでした。日本の民主主義は、敗戦後にアメリカからトップダウンで与えられた「なんちゃって民主主義」にしか過ぎませんでした。今後、体制側の国民への締め付けは、真綿で首を絞めるがごとくでしょう。だんだんと崖っぷちに追いやられて切羽詰まらないと戦いのために立ち上がることはできないのかも知れません。ソ連崩壊のことが頭に浮かびます。この調子でいけば日本も同じ道を辿るのではないかな、と思ったりします。大多数の国民が自らの生活と社会を自らの手でつかみ取るための覚悟ができるようになるまでは、このまま下がり続けるのでしょう。

というわけで、それまでは、私、今後、少しずつ、この手の話は少なくして、もっと好きな話、研究の話とか、を増やしたいな、と思っている次第です。ウルトラマンほどではないにせよ、私が地上にいる時間は限られており、そろそろ、やることのプライオリティーを考えるべきだろうと思い始めました。

私は、ニュース番組を見すぎましたし、遊びすぎました。本も読みすぎましたし、音楽も聞きすぎました。一方で、やらずに後悔していることも沢山、残っています。

試験終了のベルがなって、筆を置いて立たねばならない時に、そこそこ満足できる答案を書けるようでありたいと思っています。そのためには、ニュースも本も音楽もほどほどにしておくべきだろうと思います。
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良心に基づいて立ち上がる

2013-11-26 | Weblog
「秘密保護法」に反対して、各地でデモ、日比谷で一万人以上をこえるデモがありました。
本来、国民の代表であるべき政治家は官僚の手先となって、国民を裏切ります。国民が自らを守るためには、自ら行動しなければならない世の中となりました。政治に対する信頼というものは落ちる所まで落ちたという感じですね。

この法案のため、影響力のある反体制ブログは閉鎖宣言をし始め、「地下」に潜り始めました。個人が発信するブログという媒体ですから、摘発、逮捕は簡単です。国家権力が力をもたない個人を弾圧に来るのですから、名前を晒して体を張って「言論の自由」に基づいて発言してきた人々は、真っ先にやられるでしょう。
 おそらく、今後は個人運営でない告発サイトのような場所で、ゲリラ的に発言するしかなくなるのではないでしょうか。すでに体制側に自由を奪われて、国民洗脳の手先としてしか機能してこなかったマスコミですが、さすがに力づくでの「言論封鎖」に、ジャーナリストの良心の一片でも残っていたのか、珍しく、朝日新聞を含む各紙が、「秘密保護法」批判の社説。(あるいは、只のポーズでしょうか)もう遅いです。

話題転換。前回の雁屋さんの内田文章に対する批判的エントリーに関して、同じ事を繰り返すようですが、もう一言だけ。

雁屋さんのエントリーの中で、

「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」


という内田氏の文章に対して、雁屋さんは次のように書いています。

国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。
、、、
とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。
聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。
突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。
このような言葉は、以前に聞いたことがある。
2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。


これまでの日本の政治を見てきた人なら、「日本の社会をよくしたい」というのは政治家本人にとっては優先順位の低いアジェンダであり、彼らがもっとも気にしているのは、議員としての地位であり、己と党の権力であり、利権の確保です。誰でも自分がもっとも大切ですから、自己利益の増大を意図することそのものは悪い事ではないと思います。しかし、自己利益の増大のために、選挙前には「シロアリを退治」して「国民の生活が第一」の社会を実現するとか、適当な事をいっておきながら、選挙に通ったら手のひらを返したように、人々の信頼を裏切り、公約を破棄し、消費税を増税し、原発事故を隠蔽する、そして、国民から取れるものだけ取って、省みない、のであれば、それはぼったくりバーと同じです。残念ながら、これまでの日本の政治家は、国民の代表といいながら、権力をもった瞬間から、その権力の維持と増大のために、国民を裏切ることを躊躇わず、官僚の言うがままに国を売り飛ばすことをを厭わない人々ばかりでした。政治というものが国民生活の安定と安全を守り、平和で平等な社会を実現する、という民主主義国家の目的を目指したことは、(おそらく)一度もありません。政治家、行政、司法、統治システムに係わる人々の最大の関心は、自己利益の増大であり、いかに国民からうまく税金を取って、それを自分の利益に変換するか、いかにより権力の強いポジションを確保するか、に苦心してきました。そして、日本の社会の未来とその改善を真剣に考えてきたのは、力のない市井の人々でした。

だから、内田氏が、自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が(天皇の)他に見当たらない、と言ったことは、よく理解できます。だから天皇の意見を聞いてみたい、という気持ちはよく分かるし、私も天皇が何を思っているのか知りたいと思います。そこには、雁屋さんが指摘しているように、「正しい答え」を天皇が教えてくれるだろう(なぜなら、天皇は自己利益を追求することなく国の安寧を願っている唯一の公人だからだ)という「根拠の薄い」期待があります。

しかし、天皇が自己利益を考えず国民の安寧を配慮できる立場であるからと言って、天皇が「正解」を知っているという保障はないし、そもそも、天皇が「国民の安寧」を優先的に配慮しているというのも、単なる希望的な推測に過ぎないかも知れません。あくまで議論のための可能性として言えば、ひょっとしたら、天皇は毎日食べる自分のご飯のおかずの内容や趣味の研究にしか興味がなく、美味しいご飯が食べれて趣味が充実していさえすれば、「国民の安寧」など、どうでもよいと考えている可能性だってあります。いくら国民の安寧を願ったとしても、自分にそれを実現するための何の力もないことが分かっていたら、その興味を維持し続けるのは易しいことではないと思います。しかも、われわれは天皇の「実力」を知らないのです。天皇は政治に係わることを禁じられてきたのですから。その実力がわからない人の意見を、天皇という立場であるからという理由だけで、国民の安寧を自己利益と無関係に願っている(はずだ)、だから正解を教えてくれるに違いない、と推測するのは、飛躍があると私は思います。

理屈はよく理解できます。つまり、自己利益の増大を思わず、公平無私にひたすら日本の国民のことを考えれる人間にしか真に日本の「正しい」政治のあり方は理解できないであろう、しかし、それに当たる公人というのは、天皇しかいない、正しい答えを知っている(可能性のある)人がいるとしたら、それは天皇しかいない、ということですね。そして、そこから天皇が正しい答えを知っていて欲しい、いや、知っている筈だ、という願望があって、その結果、おそらくちょっとした勇み足で、天皇が正しい答えを知っている(かもしれない)という括弧の中の言葉を省いてしまったのだろう、と想像します。

これは、「批評家」が机上で社会評論する限りにおいて、大した問題ではないと私は思います。私も天皇がどう考えているか聞いてみたい、と思います。しかし、雁屋さんは、批評家ではありません。社会というものをじかに触っている人です。「天皇の意見を聞いて、その意見を知ったら、何が起こり得るのか」にまで、自然と頭が回る人です。だから、逆上してしまったのではないでしょうか。机上の批評の限りにおいて、私は、内田氏の言うことが十分理解できます。しかし、政治的発言は、読み捨ての雑誌の娯楽記事ではなく、それにしばしば、行動が伴うことになります。雁屋さんは、それをじかに知っており、過去の歴史に鑑んで、肌で危惧を察したのでしょう。

前回と同じことを繰り返すようですが、内田氏は批評家としての立場から、思想という限定枠の中で、日本の政治と天皇について言及したということでしょう。一方、雁屋さんは、その思想の限定枠というものは危ういもので、現実世界に容易に流れ出て実質的な影響を及ぼす可能性があることを知っているのだと思います。大げさに言えば、思想を生きる行動する哲人と言えるかも知れません。

思想と行動は一致するべきだと私は思います。だから思想家もできる範囲で行動をしていくことは大切だと思います。研究で言えば、実験と理論、仮説と観察結果、両方があって初めて科学研究が成り立ちます。例えば、チョムスキーは社会活動家として有名ですが、そのため言語学を研究したのではありません。彼自身がいうように、彼の社会的活動の多くは彼の偉大な学問の成果とは全く無関係でした。ただ、常に考え、考えにそってできる範囲で行動してきた結果が、アメリカ構造言語学の祖としての学者のチョムスキーとは別に、社会活動家としてのチョムスキーを作っただけのことでした。

自分の言葉に責任を持ち、できる範囲内で行動する、それが日本の思想家に欠けていることだ、との言葉が、雁屋さんのエントリーの中に引かれていました。「良心に基づいて立ちあがる精神」です。日本人の良心を私は信じております。あとは立ち上がるだけのことです。一人一人が出来る範囲で少しずつでも行動することの積み重ねが社会を動かすと信じております。



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雁屋さんの内田文章の批判

2013-11-22 | Weblog
「美味しんぼ」の雁屋哲さんのブログをたまたま開いたら、最近の内田樹さんがアエラに発表した文章に対しての批判的エントリーが二日連続ででていました。(内田先生ご乱心、いや本心か 内田樹氏の文章について
私は、二人ブログを愛読しておりますので、興味深く読みました。あいにく、アエラに載った内田さんの文章は読んでいないので、私は内田さんの文章に対する雁屋さんの批判に対してアレコレ言う資格はないと思いますが、二三、勝手な事を。

雁屋さんは、内田さんの書いた文章がいまいち論理的に納得しにくく、その理由を推測されているようです。そして、その理由というのが(おそらく)個人的信条に反するものであったので、激しく反応してしまった、というような感じです。

ステロタイプな決めつけになるのを承知で独断的に言いますが、内田氏は哲学の出身であり、雁屋さんは作家です。大学の哲学科というところが、生物の研究室と同じようであるとすれば、そこは「哲学する」ことを学ぶ場所ではなく、「哲学した人々の仕事」にアレコレと注釈を加えるのを仕事とする場所だと思います。ちょうど、生物研究室が、生命とはなにか、を問う場所ではなく、生命をもつ物質の性質をアレコレと探るのを仕事としているのと同じです。哲学科の出身の人は「哲学」をせず、哲学者の仕事を評論する「評論家」ではないでしょうか。評論家は誰かの仕事を批評し評論し、新しい解釈を編み出す、のが仕事でしょう。一方、作家は、その仕事を産み出すその人です。何かを作り出すことが仕事です。ある意味、「哲学する人」そのものです。
 この二人の文章を読んでいるとそんな風に思います。極論すれば、内田さんは「批評家」で、雁屋さんはいわば、「批評対象を生きる人」です。内田さんが、ある「お題」について、様々な解釈の仕方を披露して、世の中の見方の幅を拡げようとする。一方、雁屋さんは、世の中そのもの、を自分の声でより直接的に伝えようとする、自ら、フクシマへ行き、first handの体験として「福島の真実」を書く。そういうスタンスの違う二人にとっての「天皇観」の差が、この雁屋さんのエントリーとなったのでしょう。思うに、内田さんの天皇観は、間接的、フラグメンタルに醸成されたものであり、雁屋さんのは、もっと直裁な個人的体験に基づくものなのかも知れません。

私は、今の天皇に対して、特に強い思いは何も持っておりませんが、悪感情は全くありません。それこそ「政治利用」され、戦争に加担することになった昭和天皇と違い、「平成」の世に天皇となり、政治とは無関係なシンボルとしてこの二十数年、天皇をされてきた方です。皇太子時代から、軽井沢のテニスコートのエピソードなどを通じて、「人」として、芸能アイドルのように親しまれてきた方です。
 私の祖父の家の居間には、神棚と明治からの天皇、皇后の写真が飾られていました。かつて、天皇は「現人神」として「偶像崇拝」の対象であり、政治の道具として利用されてきました。そこに「天皇の戦争責任」を問う根拠があるのだろうと思います。対して、現在の天皇は、国のシンボルとしての役割をただただ果たして来たと思います。天皇の生活が気楽なはずはないでしょう。でも、常に笑みを絶やさず、国事に参加される姿を見て、好感をもつ国民は多いであろうことは、想像できます。私もその一人です。

しかるに、アベ氏が既得権保持者の操り人形として、使われているのが分かっていても、一般国民は、この人にしか怒りをぶつける対象を見いだせないのと同様、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」との言葉に、かつては共に落涙したものの、戦争で殺された我が子を思い、その後、連綿と続く占領軍による搾取に晒されると、「戦争責任」を誰か特定の人間に求めたくなるのも人情です。そうした社会を生きてきた人、今も敗戦の屈辱を日々に味わっている人々が「天皇」といういう言葉に抱く感情はそれなりのものがあるでしょう。そんな人々が天皇に根拠の薄い思慕を寄せる人々に批判的になるのはやむを得ないだろうと思います。

この雁屋さんのエントリーから、抜き書きしておきます。

このように、今回内田先生がAERAに書かれた文章は語句に分解して意味を理解しようとしても、理解するのが私には難しい。
だが、一本補助線を引くことで、するすると意味が分かる。
その補助線とは、ああ、口にするのもおぞましいので、それは後回しにする。
、、、
「今国民の多くは天皇の『国政についての個人的意見』を知りたがっており、できることならそれが実現されることを願っている。それは自己利益よりも『国民の安寧』を優先的に配慮している『公人』が他に見当たらないからである。私たちはその事実をもっと厳粛に受け止めるべきだろう。」

国政についての個人的意見を天皇に聞いて、どうするのか。
、、、
とにかく、天皇の意見を聞くだけでは意味が無い。ただ聞いて「はあ、はあ、そうでごぜえますか」と感心するだけでは,話は収まるまい。
聞くからにはその意見に従って国政を実現させようと動くのが順序という物だ。
突き詰めれば天皇の言葉通りに国政を進めようと言うことになる。
このような言葉は、以前に聞いたことがある。
2.2.6事件の青年将校たちが同じことを言っていた。
内田氏の言うことは、青年将校たちが希望した「天皇親裁」と同じではないか。
氏は、2.2.6事件の青年将校たちと同じように、天皇に対する恋闕の思いを強く抱いているようだ。
前に書いた、氏の文章を理解するための補助線とは、この、「天皇に対する恋闕の情」だと私は思う。


雁屋さんは、天皇に対する恋闕の情を抱き、もって偶像崇拝の対象とし、天皇を政治利用する青年将校、を思い出して、「口にするのもおぞましい」と言われたのでしょう。また、2.26事件を過去の歴史、あるいは批評の対象として認識する人と、その事件のエッセンスが現在社会にも受け継がれていることを直に感じている人間では、対象に対する危機感は違うでしょう。

続く二日目のエントリーでは、下のようなことが書かれています。

原発再稼働、憲法壊変、多国籍企業の支配するコーポラティズムに日本を組込むためのTPP加入、政府に具合の悪い情報はすべて国民に見えなくする秘密保護法の策定、など、安倍政権になってからの日本は、自己破壊の急坂を転がり落ちている。
そのことに対して私は、強い憤懣と、深い絶望感を懐いている
そのときだからこそ、私は内田樹氏の文章を期待して読んだのである。我々に進むべき道を指し示して下さるのではないかという期待を持って。
それが、「天皇の言葉」だったので、驚愕し、逆上し前回の文章になってしまったのである。

亡くなってしまわれたが、元東京大学教授の五十嵐顕氏は、亡くなる前に、
日本の思想にもっとも欠けているものは、良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神です
と書残している。(安川寿之輔「福沢諭吉の教育論と女性論」高文研、P109)
五十嵐顕氏は、戦争中に南方軍幹部候補生徒区隊長として積極的に侵略戦争を担ったことを反省して、戦後は平和と民主主義の教育のために働いてきた人である。
私は、今この時の日本にあって必要なのは、五十嵐顕氏の言う
「良心にしたがって立ち上がる抵抗の精神」
だと思う。


私も雁屋さんに同意します。雁屋さんは原発再稼働、TPP、秘密保護法など、自己破壊の道を選ぶ政権に「強い憤懣と、深い絶望感を懐いて」いる「今の社会を直に生きている」人です。「良心にしたがって立ち上がる精神」を尊ぶ人です。日本の思想に欠けているものは、直接的な行動性です。思想家が思想の領域、批評家が批評の領域のみに留まって自己完結してしまうことが短所だと言っています。日本的「奥ゆかしさ」といえば、そうかも知れませんが、それが園遊会で手紙を渡すことでさえ批判の対象とするというのでは、あまりに情けなくもみみっちい、と私は思います。
雁屋さんは、内田氏に批評の領域から危険を押して一歩を踏み出して欲しいと願っているのかも知れません。
私も、内田さんの折々の政権批判には深くうなづきますが、では「誰にその責任を求め、どう改善すべきか」という肝心の項目が議論されないことに不満を持っています。また、なぜかフクシマ原発事故という(私の意見では)現代日本でもっとも重要な事件について発言を余りされないことが不満です。「身が危ない」のでしょうが、どうせ、その内、人間は寿命が来て、死んで行くのですから、こういう影響力のある言論人の人にこそ、ズバリと核心をついてもらいたい、と私は期待しているのですが。

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声をあげる

2013-11-19 | Weblog
折々に見る反体制ブログ(?)、「独りファシズム」の週末の情報エントリーに次のようにありました。

皆様もご承知のとおり、14日の衆院国家安全保証特別委員会の答弁において、「特定秘密保護法案」の処罰対象がブロガーにも及ぶことが明らかとなりました。我々電脳の論者は岐路に立つこととなり、閉鎖を視野に入れ今後を検討しなければなりません。法案の審議を見定めてから次回の記事を更新したいと存じておりますので、ご了承お願い申し上げます。


これまでは、体制側は、言論封鎖するために、痴漢、窃盗、脱税、などとわざわざ面倒な罪状をでっち上げ、影響力のある個人を抹殺してきたワケです。しかし、この法案が通れば、もう痴漢をでっち上げるために、品川線チームを煩わせる必要もなくなり、これからは都合の悪い情報を流すブログを運営する個人をどうどうと逮捕して沈黙させることができるようになったということです。私が生きている間に、こんな野蛮な時代に逆戻りするようになるとは思っていもおりませんでした。(あるいは、単に隠されていた野蛮さがあらわになっただけのことかも知れませんが。)

ほんの100年にも満たない昔に、ファシズムが如何にヒューマニズムを激しく冒涜し、人々の自由と命を奪い、地球を破壊してきたか、われわれは学んだはずではなかったのでしょうか。われわれは「権力は腐敗する」という事実を学び、権力の腐敗と暴走を防ぐために、憲法を作り、人権を謳い、情報を公開するシステムをつくり、三権を分立させようとしてきたのではなかったのでしょうか。
結局は、三権はウラでは手を結び合って連立しており、憲法には抜け道がつくられ、人権は無視され、情報は隠蔽されてきたのでした。われわれが愚かにも、日本は近代民主主義の法治国家であるというウソを小学校で教え込まれて、信じていただけの話なのでした。

歴史は繰り返し、人々は殺し合い、反省してはまた同じ過ちを繰り返す。そういうものなのかも知れません。しかし、われわれは、先人が苦労して築き上げようとしてきた個人の権利が尊重される民主主義社会を目指して努力しつづけることをを止めてはならないと思います。そもそも「民主主義」という反動物的なシステムを維持するのには、たえざるエネルギーの流入が必要です。そうでなければ、封建主義時代、帝国主義時代や、そして今の日本がなりつつあるように、カネのあるもの、力のあるもの、武器を持っているものが、大多数の持たざる人々を支配することになります。人権とかいうものはアプリオリに存在するものではなく、守り維持していかなければ失われてしまう概念です。力のないわれわれが、自らを守る意志をもって努力しなければ、われわれは容易に再び奴隷にされることになるでしょう。(すでに、多くはカネによって支配される奴隷となっていますが)

有名なマルティン ニメラーの詩、『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』が、本当に人ごとでなくなってきました。これまで、外国での野蛮な出来ごとだ思っていたことが、われわれ自身におころうとしています。黙っていてはいけないと思います。

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
私はユダヤ人などではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


彼らが、体制批判をする経済学者に対して痴漢事件をでっち上げたとき、贈収賄罪容疑で政治家を逮捕したとき、野党第一党の党首を選挙前に脱税容疑で執拗にガサ入れしたとき、官僚組織の裏金を追求しようとした政治家をヤクザを使って暗殺したとき、多くの人々は声をあげませんでした。しかし、これらは実はすべて、われわれ自身の問題でもあったのです。
今では、彼らがこのような姑息で汚い手を使って、言論封鎖し、真実を隠そうとする手口は、日本人の多くに知られてしまいました。だから、今回のような法案を使って、もうなりふり構わず、力づくでやると本性を見せ始めたのでしょう。彼らは追いつめられているからこそこのような露骨な手を使ってくるのです。

だからこそ、声はあげ続けなければなりません。団結し、諦めず、持続的に声をあげ続け、We Shall Not Be Movedと座り込んだ人々のように、不屈の魂をもって、われわれ自身と将来の世代のために、人権が尊重され民主的である社会を築き守っていかねばならないと思います。
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4号機プールはどうなっているのか?

2013-11-15 | Weblog
次のような記事を見ました。

4号機燃料プールは空だった!!

グローバルホークのような無人機開発を日本でも本格化」という記事。
(これは、二年前の記事だと思います。)
その終わりの方に、グローバルホークが4号機の燃料プールが空になっていることを確認したとさりげなく書いてあります。

後に削除された4月19日の毎日放送の記事に奇妙な記述が現れる。

>こうした中、福島第一原発4号機の状態を赤外線で調査した結果、使用済み核燃料の保管プールの外に強い発熱体があるとみられることがわかりました。これは赤外線センサーを積んで上空を飛んだアメリカの無人偵察機や衛星などからの情報を分析した結果、わかったもので、確認を急いでいます。(19日18:35)
http://www.mbs.jp/news/jnn_4678396_zen.shtml


つまり、二年前の時点で4号機プールはすでに空であった可能性があるということです。この記事の中にリンクされている二年前の読売新聞では、次のようにあります。

【ワシントン=山田哲朗】米原子力規制委員会(NRC)のグレゴリー・ヤツコ委員長は16日、米下院エネルギー・商業委員会で証言し、福島第一原発4号機について「使用済み燃料プールの水はすべて沸騰し、なくなっていると思う」との見解を明らかにした。
 使用済み燃料棒が露出した結果、「放射線レベルは極めて高く、復旧作業に影響する可能性がある」とも指摘した。具体的な人体への影響については、「かなり短い時間で致命的になるレベルだ」と述べた。
 ヤツコ委員長の発言は、東京に派遣した米国の専門家チームからの情報を基にしているとみられる。米当局が、日本政府や東京電力よりも、原子炉の状況について悲観的な見方をしていることを示した。  2011年3月17日10時04分 読売新聞)

どうなのでしょうか。この時のNRCヤツコ委員長の見立てが正しければ、4号機はとんでもない量の放射能を放出している(いた)はずで、人々は危険で近寄れないはずですから、話があいません。見立てが間違っていないとすれば、現在までに4号機の燃料が殆ど燃え尽きてしまっているということで、そうであれば、日本各地で大量の放射能が検出されたはずなので、4号機の燃料が燃えたのは、事故直後であろうと考えられます。

一方、二年前の別のブログでは、

2011年3月26日 【産経ニュース】より
原発内部の映像を公開へ 米無人偵察機「グローバルホーク」が撮影
政府は25日、米軍無人偵察機グローバルホークが東京電力福島第1原子力発電所の内部­を上空から撮影した映像を公開する方針を固めた。

という当時の発表に対して、
クレーンの下には燃料プールがあり、ヘリに同乗し­た東電社員は「水面が見えた」と話していたという=東京電力 提供 2011年3月18日公開
とあり、当時の新聞が4号機がカラだという情報を流したが、それは、デマである、と結論しています。

とすると、二年前の新聞などの情報が正しければ、4号機プールはすでに、3/11に核反応をおこし、大量の放射性物質をまき散らした挙げ句にすでに燃え尽きてしまっており、プールは空になっているということが推測されます。もし本当に、4号機プールの核燃料が反応してしまっていて、大量の放射性物質が環境に巻き散らかされたのであれば、その情報を公けに知られるのが困る政府と東電が、4号機ブールの核燃料はまだ無事で、これから取り出しを始める、というウソ芝居を今になってやっている、ということになります。ならば、危険な筈の4号機プールからの燃料取り出し作業も、熟練作業員が減ってきて、準備も不十分なままなのに、前倒しして始めようとした理由もわかります。
一方で、4号機プールの燃料が核反応を起こして燃え尽きたとする証拠もありませんから、4号機ブールの燃料も水もまだ存在しているという公式見解が正しいのかもしれません。
一体、何が本当なのでしょうか。政府もマスコミも信じられない偽装大国の日本です。自分の身の安全に直結する極めて重要な情報の事実関係でさえはっきりしないというのは困ります。

4号機プール、燃料は本当にあるのでしょうか???  
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苺の甘さ

2013-11-12 | Weblog
週末は、遠方から訪ねてくれた友人と食事をしました。分野は違いますが、同時期に研修、大学院と過ごした同門の友人で、大変、楽しいひと時でした。孔子の「朋あり、遠方より来る、、、」は、学問を修めて己を高めれば、遠方の友人も求めて訪ねてきてくれる、といういう学問をすすめる言葉ですが、昔の友人と夕餉の卓を共に囲んでこうして楽しめるのも、研究(学問?)してきたおかげだな、と思います。

こうして、いろいろ経験を積んで、晩餐の肴にできるのも、年をとる楽しみの一つだろうと思いますが、一方で、肉体の老化現象を折々に実感もするようになりました。人生の有限を実感する機会も増えました。若いころから「死」について興味を持っていろいろ本を読んだりしいましたが、いずれはそれが自分にもやってきます。

この間、親知らずを抜きました。顔を出して来ていたので、予防的処置です。抜歯後、出血が止まらず、結局、夜間に緊急処置をするハメになりました。歯の出血などと軽く考えていたら、いつまでたっても止まらす、夕方頃にはふらふらし出したので、だんだん不安になってきました。もし万が一、これで出血多量で死んだりしたら、親知らずを抜いて出血死というちょっと情けない死に方で、家族に笑われるなあ、などとくだらないことを考えたりしました。人間、いつか死にますし、どんな死に方をしたところで、死んだ本人は死んでしまった以上、死に方などどうでもよいようなものですが、それでも、どうせ死ぬなら、もっと立派な(?)病気で、最後に、辞世の句でもしたためてから死にたいものだ、とこれまたくだらないことを考えました。

どこかで知った誰かの言葉に、次のようなものがあります。

 
人は死ぬということはない。なぜなら、生きている間に死を経験することはできないし、死んでしまっても、やはり、死は経験できないからだ。


自分の死というものは他人の死とは違うということなのでしょうか。それで、次のような笑い話を思い出しました。

ある男が、家族に逃げられ、会社をクビになり、資産をだまし取られた。すっかり落ち込んで、ユダヤのお坊さん(rabbi)に相談に行った。
「家族と仕事と収入と資産を一度に失ってしまいました」
お坊さんは答えて言った。
「いやいや、もっと大変な状態になっていたかも知れなかった」
男は驚いて聞き返す。
「これ以上、どんな悪い状況が考えられると言うのですか?」
お坊さん曰く。
「あなたの身に起こったことが、私自身に起っていたら、大変だった」


他人の死は「死」であると理解できても、自分自身で「死」そのものを経験することはできない、というのが「死」の不思議なところです。我々が経験できるのは、いずれ来ると知っている「死」というものに対する恐れや期待、そして、自分以外の人の死に際して感じたり思ったりする、別離の悲しみ、共感であって、「死」を経験する、即ち、「死を生きる」ことは、私たちには(理屈上は)できないのです。ならば、生きている人間にとって「死」に向き合うとは、未だ来らぬ未来の自分自身の「死」や過ぎ去りし過去の自分以外の人の「死」に、「現在」のわれわれの思考が向いている状態ということです。これは、「死」だけに限りません。われわれが何かを考え、何かに反応して必要以上の感情を生み出すとき、われわれの意識はしばしば、現在に存在していません。だから、山本夏彦さんは、「人生は死ぬときまでの暇つぶし」と言ったのかも知れません。われわれの人生は暇つぶしの連続で、本当の意味で生きている時間はごくわずかなのかも知れません。

Byram Karasuという精神科医の書いた「The art of serenity」という本を、週末の楽しみにちょっとずつ読んでいます。その中の一章で、死を宣告され、その遠からぬ死への対処に悩む患者さんの話がありました。その章の中で紹介されていた次のような寓話が気に入ったので、要旨を意訳してみます。

ある男がジャングルで虎に遭遇した。恐怖に駆られ、男は必死に走って逃げたが、崖っぷちに追いつめられた。
男は蔓の束を掴んで、崖から跳び降り、ぶら下がった。見上げるとさっきの虎が崖の上から眺めている。
下を見ると、いつの間にか、二匹目の虎が、男を狙って見上げていた。
蔓にぶらさがったまま、回りを見ると、手を伸ばせば届くあたりに苺の実が実っているのに男は気がついた。男は片手で蔓を掴み、もう片手を伸ばして苺を取り、その実を口に入れた。
苺はとても甘く美味しかった。


いい話ですね。
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ひみつだらけの秘密保全法

2013-11-08 | Weblog
もうイヤなことは見も聞きもしたくない、自分の興味のある仕事に集中したい、というのが本音です。劣化していく一方の日本政府、官僚、マスコミ、企業、毎日、毎日、怒りが沸騰するようなニュースばかりイヤというほど目に入ってきて、正直、死にたくなるほどです。

それが、連中の目的なのでしょう。国民が、怒りの声を上げることさえ、イヤになるほど、デタラメをやり続けること、国民を徹底的にバカにして奴隷の身分であることを受け入れさせること、そのために情報を隠蔽し、マスコミに偏向報道させて、ウソの平和を刷り込み、都合の悪いニュースは芸能ネタで覆い隠す、それが連中のやってきたことです。そして、それでも声を上げ続ける人々の言論を封鎖し、恐怖政治によって、国民の口を塞ぐための法案が、通ろうとしています。

特定秘密保護法の対象は現段階で40万件と霞が関 いったいどこまでが「秘密」なのか (現代ビジネス)

この法案の問題点は多くの識者に指摘されているが、最も危険なのは「特定秘密」の定義が曖昧なことだ。

官僚にとって、情報を独占することは規制権限を手にすることと同義だからだ。霞が関の裁量でどんどん「特定秘密」の範囲が拡大し歯止めがきかなくなる懸念はぬぐえない。

「特定」とは読んで字の如く「特に定める」もの。それが40万件にも及ぶと聞いて、多くの国民は首をかしげるのではないか。
 当事者である大臣や幹部公務員ですら、どこまでか秘密なのか、どこからは話せるのか、全容を理解することなどできないのではないか。

だが、現状の特別管理秘密の扱いをみていると、何が秘密に指定されているか一切分からないうえ、その秘密の指定期間も大臣などの判断で永遠に更新されることが可能になる。秘密が永遠に秘密のまま闇に葬られる可能性もあるわけだ。

これは「国民の知る権利の侵害」などというレベルの話ではないだろう。民主主義国家とは何か、政府と国民との関係はどうあるべきか、という国家存立の根本にかかわる問題だ。


戦前、戦中の時代に逆戻りしようとしています。明治の時代には、小林多喜二は、蟹工船を書いて、「不敬罪」と「治安維持法」で逮捕、起訴され、「危険思想取り締まり」で後日、築地警察署での拷問にあって死にました。少し前の山本太郎さんへの天皇陛下への手紙をめぐっての体制側の激しいバッシングをみると、不敬罪とか危険思想取り締まり、とか封建時代の思想が復活しつつある気配です。
戦後においても国家権力、例えば、検察も警視庁も体制側の利益を守ることしかしませんでした。「巨悪を眠らせるな」とかいうふざけたスローガンでデタラメをやり、政治謀略に加担し、無実の人間に罪をお仕着せ、民主主義を破壊しようとしてきた検察自身が巨悪に他なりませんでした。かつては田中角栄、知事抹殺された佐藤知事、裏金づくりの告発をしようとして逮捕された三井環さん、そして、小沢一郎氏やその秘書を見れば、全部が悪質なでっちあげで、体制側の利益のために冤罪を作り上げてきた国家権力の悪質さがわかろうというもうのです。
 国家権力は、体制の利益を守り、国民を搾取し、コントロールするために働いてきました。今の「xxxが弱い」ゆえに重宝がられている操り人形は、まさに、体制側、官僚や財界の言うままに、何も見えず、自分が何をしているのかもわからないまま、日本という国を破壊していこうとしています。

本題に戻ります。「暗黒夜考」からも秘密保全法に関する記事をリンクします。

「日本版NSC設置法案」が今国会成立へ ~「秘密保全法」、更にその先にある”漆黒の闇”~


「日本版NSC設置法案」と、これとセットにて今国会での成立が目論まれている「特定秘密保護法」については、これまでのエントリーにて繰り返しコメントしてきたとおり、国家運営上、国民に知られてはまずい「不都合な真実」を”曖昧化”することを目的としたものであり、国民の目から存在そのものを覆い隠さんとするものである。

そして国家権力にとって都合の悪いことを暴こうとする”反乱分子”を如何様にもあぶり出しにして捕捉可能とする「天下の悪法」である。

即ち、表向きの理由として謳われている「外交」「安全保障」に関する内容は無論のこと、「TPP」や「原発」など、国民に知られちゃマズイ話は”恣意的”に「特定秘密」として如何様にも”もみ消し”が可能だということである。

更に「日本版NSC」については、「首相+3閣僚(外相・防衛相・官房長官)」の4名だけで外交・安全保障政策上の司令を発令できるというのであるから、これは事実上の”独裁”と言っても過言ではないであろう。

、、、

「もはや”ネット言論”は危険」

戦時下さながらの言論統制・思想弾圧が現実のものとなれば、新聞・テレビによって洗脳できない一般市民が”反乱分子”として狙い撃ちにされることは想像に難くないであろう。

即ち、ブログやツイッターによる啓蒙行為が煽動や教唆として犯罪認定されるのである。

、、、
もはや国家は「秘密警察国家」たらんとしているのであり、ジョージ・オーウェルの小説「1984」で描かれている「社会的安定性を維持するための抑圧と国民意識の支配に基づく極めて不平等で歪な社会」が待ち受けていることを示唆するものである。

それは「思想警察」「テレスクリーン」による監視が一般市民を萎縮させ、思想犯罪を抑止するための「ダブルシンク」(二重思考)を強要される世界さながらと言ってよいであろう。

最後に、中南米・アジア・中東諸国の経済植民地化の過程で”反乱分子”百数十万人が抹消されたという歴史に学ぶとするならば、いよいよ本ブログも”潮時”ということなのであろう。

「特定秘密保護法は最後通牒」との言葉が意味するところを重く受け止めねばならないと強く感じる次第である。

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前人未到の領域

2013-11-05 | Weblog
歴史は繰り返すは言いますが、正確に過去が再現されるわけではありませんから、これから起こることは、どんなことであっても厳密には前人未踏の初めてのことです。しかし、過去の先例に学んで、何が起こるかを予想することはある程度可能です。例えば、チェルノブイリ事故を思い返せば、これから東日本ではガンが急激に増え、チェルノブイリハートと呼ばれる心疾患が急激に増えて、突然死が増え、子供たちの健康状態が著しく低下するだろう、という予想はかなりの高い確率で当たるでしょう。それが2016年までには隠し通せないレベルに顕在化してマスコミも無視できなくなるということも間違いないでしょう。

 そこまでは過去の事例から想像できます。とすると、想像もできない未来というのは、想像するだけの能力や知識に欠けているか、起こりうることがその能力や過去の事例が予想を許す範囲を遥かに超えている、(またはその両方)ということではないでしょうか。

 フクシマが前人未到の領域に入りつつあるという表現をよく目にします。想像を絶する世界が実現してしまう可能性の前に「前人未到の領域」という言葉以外に形容できないのでしょう。私も4号機プールからの使用済み核燃料の取り出しが11/8から始まるというニュースを聞いて、戦慄しております。
 一つのミスも許されない大変な危険作業であるということは聞いています。もしミスが起こって、取り出し中の燃料棒を破損したり、落としたりして、大気中で核反応が始まれば、想像を絶する大変なことが起こる、と聞いています。そうなれば、使用済み核燃料から即死するレベルの放射能が放出されて人も機械も近寄れなくなり、フクシマにある全ての核のコントロールは全く不可能になると聞いています。そして、多くの人がその時点で、「日本は終わる」「北半球は人が住めなくなる」ということを言うわけです。それが前人未到の領域であり、想像もできない未来ということです。
 どのように「日本が終わる」のか、一体、「日本が終わる」とはどういうことか、という問いになると、私の思考は止まってしまいます。おそらく、余りに凄いことがたくさん起こるので、いちいち具体的に想像することさえできないということなのだろうと思います。
そのような綱渡り的作業を気の遠くなるほど長期に繰り返さなければならなにのに、フクシマでは、汚染水がどんどんたまり、熟練作業員が現場を去りつつあり、経験の浅いゼネコンがかき集めた作業員ばかりと、状況は悪化していく一方です。

少し前の記事をリンクします。

カレイドスコープ、「11月8日から燃料取り出し-日本は前人未到の領域に入る

暗黒夜考、【福島第1原発】 11/8より4号機燃料プールの使用済核燃料取り出し作業開始 ~万一の際の想定はゼロ~

万が一のことは「想定外」なので、万が一ミスして4号機プールに人間が近づけないような状況に陥った時にどうするのかは、何一つ考えていないのだそうです。そうなったら一億艘玉砕ということです。太平洋戦争の時からこの国は何一つ学んでいません。作戦が失敗したときにどうリカバリーするか、次善策は何か、何も考えていません。戦争に負けても想定外、神風が吹かないのも想定外、だから何も考えない、それがこの国の政府のようです。(これが研究計画申請書だったら、間違いなく落とされますね。)

日本の原発事故がなぜ収束しないのか、上のカレイドスコープの最近の別の記事を、リンクします。

「真性のバカ」に牙をむき始めた国際世論

私、兵庫県発のせんべい屋、播磨屋のファンです。柔らかく甘い揚げせんべいは、若いころ大好きでした。記事のタイトル、「真性のバカ」は、ブログの管理人の方の言葉ではなく、記事内に紹介されている播磨屋の輸送トラックの側面に書かれている抗議の言葉からとっています。私は汚い言葉を使うのを止めているので、「真性のバカ」とは言わずに「xxxが弱い」と表現していますが、この愚か者には本当に限度がない、と常々、恐怖心を抱いています。真性のXX、つまり、心を持たないただの操り人形は、悪魔の拷問器具のように恐ろしいです。状況や国民の気持ちを理解する能力がないロボットが、悪魔の手先となって、国や世界を滅ぼそうとしている、恐怖漫画そのままです。

この記事の中に引用されている英文記事は、日本の体制に痛烈な批判を加えています。この記事は「Abe fiddles while Fukushima leaks」」というタイトルになっています。不安定なユダヤ人の人生を「屋根の上でバイオリン(fiddle)を弾く」ようだと喩えたミュージカルがありますが、fiddleという言葉には、バイオリンを弾く、時間を潰す、という意味に加えて、「いいかげんな事を言って、誤摩化す」という意味もあります。日本でも「三味線を弾く」という言葉がありますね。この記事の和訳がリンク先にありますが、私同様、アベ氏、日本政府、体制側のどうしようもなく悪質な態度に対する著者の怒りが、ありありと伝わってきます。

東電と日本政府は、この事故の処理に、救いがたいほど最低の仕事をやってしまった。
彼らは、ほとんど管理できないままでいる。

むしろ、彼らは、正確に言えば、公衆衛生、公衆の安全、日本経済までも犠牲にして、この災害から利益を得ようと、日本を後援する仕組みを広げているのだ。

その結果、この事故を起こした日本の容疑者たちは、これまでより裕福になっているのだ。
一方で、実際の問題は何も解決されていないし、彼らはこの問題に真剣に取り組もうとさえしていないのだ。

私が、どのようにして、このことを知ったのか話をさせてほしい。、、、、


是非、リンク先をご覧ください。

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武士の心得

2013-11-01 | Weblog
「秋の園遊会:山本太郎議員が突然 陛下に手紙手渡す」 毎日新聞 2013年10月31日 というニュース。

 天皇、皇后両陛下が主催する秋の園遊会が31日、東京・元赤坂の赤坂御苑であり、山本太郎参院議員(無所属)が天皇陛下に突然手紙を手渡す場面があった。手紙はすぐに側近の侍従長が預かった。山本議員の行為は、皇室の政治利用に抵触する可能性があり、宮内庁幹部は「天皇に国政の権能がないことは憲法に明記されており、ねぎらいの場である園遊会にふさわしくない」と語った。
山本議員は31日夕、国会内で取材に応じ、手紙の内容は福島の原発被害に関するものだと明らかにした。その上で「一人の人間として思いをお伝えした。政治利用は全くない」と話した。
一方、菅義偉官房長官は記者会見で「その場にふさわしいかどうか常識的に判断することだ」と述べ、不快感を示した。園遊会に招かれる国会議員は、宮内庁が人数を指定したうえで、衆参の事務局に推薦を依頼している。


頑張って下さい、山本さん、と私は言いたいですね。
宮内庁、つまり天皇つきの官僚は、天皇に国政の機能がないので場にふさわしくない、と言ったと言いますが、天皇に国政機能がないのなら、政治家が天皇に手紙を渡すことが何の問題があるのでしょう。天皇陛下に手紙を渡すのと、街頭で道行く人にビラを渡すのとどう違うのでしょう。公人たる政治家ですから、全ての行動は政治行動です。私人として靖国参拝しても、叩かれるのですから、園遊会は政治の場ではない、とか「ふさわしくない」とか、タワケ口を叩くな、と言いたいですね。むしろ、自分の使命を自覚し、それを遂行するのに、あらゆる機会を利用しようとする山本さんの行動は褒められるべきものでしょう。ねぎらいの場においてさえ自分の使命を忘れないのだから、山本さんはもっと褒められて然るべきであって、天皇が「不愉快だ」というのならともかく、まわりの小役人や出しぬかれた自民党幹事長がブツクサ言うべきものではないと私は思います。
 武士ならば、いつ敵が襲ってきても、瞬時に鯉口を切れるようでなければなりません。同じく、政治家であるならば、自分の政治使命を完遂するために、いつもフトコロには直訴状を忍ばせておくぐらいの心得があって然るべきだろうと思います。研究者ならいつでもどんな研究の話題にも気の利いた質問の一つもできるようであるべきだし、医者ならば病院の外でも急病人の応急処置ぐらいはできるべきでしょう。専門外だからわかりませんとか、道具がないので処置ができませんとか、場にふさわしくないとか、そんなことを言う研究者や医者を信用するのは困難です。同様に、園遊会はねぎらいの場だとか、その場にふさわしいかどうか常識的に判断、とかいうフヤケた根性の政治家ではいい仕事はできないだろうと私は思います。自民党幹事長の言い草は、刀を置いて酒席に入った武士が、敵に踏み込まれた時の言い訳のように聞こえます。昔の人は、こういう場合は「不覚をとった」と反省し、泣き言を言わないものでした。
 山本太郎さんと、この自民党幹事長、政治家としてどちらを応援したいですか、と問えば、答えは自明ですね。
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