百醜千拙草

何とかやっています

当たり前のことができない

2022-09-30 | Weblog
日本円、一ドル150円に向かうかというような円安で日銀が円買い、ドル売りの介入。ザルの穴を手で塞ぐようなもので焼石に水。水を止めるとかザルを変えるとかしないとどうにもならないのに、いつもの小手先の誤魔化しのやってるふり、結局は成り行き任せでどんどん状況を悪くするというのは日本政府の伝統なのですかね。

一ドル85円だった頃とさらに昔の固定相場制の頃の一ドル360円の時代を覚えている人間にとっては、この円の価値の変動は感慨深いです。戦後日本の高度経済成長、Japan as No1、そして絶頂を迎えバブルの後、経済は停滞から急激に衰退。戦後の焼け野原から脅威の復興と繁栄のを達した日本が、政治腐敗によってあっという間に学問も人々の生活も先進国から脱落。これだけのことが半世紀あまりの間に起こりました。祇園精舎の鐘の声、沙羅双樹の花の色ですか。 

私は経済学者ではありませんけど、その素人脳で考えても日本政府の経済政策はメチャクチャです。無能なのではなく政治腐敗による意図的なものだと思います。だからタチが悪い。デタラメな経済政策によって起こされた経済不振のメカニズムは非常に単純な話だと思うので、ちょっと長くなりますけど、整理してみたいと思います。

今回の急激な円安は、円が弱くなっただけではなくドルが高くなったせいでもあります。今年のアメリカの金利引き上げの影響で、実際ドル以外の外貨も下げています。アメリカでは、昨年まで記録的な低金利で30年固定ローンの年利が3-4%というレベルでした。この低金利時代に入る15年ほど前は6%以下であればホームローンは安いと言われていましたが、去年まで超低金利だった30年ホームローンの年利は今では、6-7%に戻っているようです。この差は30年蓄積すると大きく、例えば昨年に50万ドルのローンを組んだ場合の支払いと今年の利率で30万ドルちょっとのローンを組む場合との支払いは同じレベルになるそうです。カネというものは幻なのですけど、われわれの生活に及ぼすその力は現実です。アホらしいですな。

金利の引き上げは、借金を難しくしてカネの流通を減らす目的で行われます。同様に、税金(特に消費税など)を引き上げることは同じ効果があります。なので、金利を上げたり増税したりすることは景気を冷え込ませ、株価を下げます。事実アメリカ株はこの一年で20%以上下げ、コロナ前の水準に戻ってしまいました。

アメリカが金利を引き上げたということは、アメリカでは景気が加熱しすぎてインフレが度を超えつつあると判断したということでしょう。実際、アメリカでは物価上昇が著しいです。今後、この金利政策が成功すれば、段々とアメリカの景気は悪くなり、物価上昇は止まるはずで、そうなればまた金利が下がり株価が上がるというサイクルを繰り返すと思いますけど、それまでは金利の高いドル買いが進むでしょうからドル高円安は続くと思われます。

同じ理屈で言えば、日本でも金利を上げれば、円買いが進んで円高になるはずです。しかし、この不景気では金利を上げることはできません。この間、普通預金の金利を見て改めて驚きました。0.001%だそうです。一千万円預けて一年の利子が百円です。金利が低いのは不景気だからですから、円安を何とかしたいのならば、国内の景気をまず上げることが必須です。輸出国とは言われていましたが、実は日本のGDPの6割は内需ですから、まずは国内でモノやサービスが売れ、カネが社会で円滑に循環しなければなりません。

景気を上げるためには、国民の可処分所得を上げればよいわけですから、普通は減税し、国がカネをバラまき、カネの流通を上げるということをすれば良いはずです。他の国ではやっています。減税は世界90カ国でコロナによる経済停滞に対する対策として行われてきました。なのに、日本では逆に消費税を上げました。そしてますます景気を停滞させました。メチャクチャです。プライマリーバランスがどうとか防衛費増加が必要とかいう財務省や自民党は、今、飢えて死にそうなのに、食費を老後の貯蓄や警備費用に回して、餓死する方がいいとでも思っているのでしょう。

バラマキはアメリカでは、無差別に小切手を直接国民に配り、経済活動を維持しました。日本では5万円の給付金を出すだけでも貧困家庭を選りすぐり、業者を介入させて中抜きさせます。それでは経済刺激効果はありません。こうした経済政策は、政府が、無差別にタイミング良くに直接国民に十分な量をバラまかないと意味がありません。アベノミクスでの金融緩和はバラマキで景気をよくするはずでしたが、国民に行き渡らず、企業に流れ内部留保となって単に企業の貯蓄になりました。確かに雇用は増えたようでしたが(ただこの数字もベノミクスの効果を盛るために、統計を改竄されたせいで、信用できません。 公文書の改竄や隠蔽が堂々と行われも咎められないような、 本当の三流独裁国になってしまいました、、とほほ)、結局、不安定で低賃金の非正規雇用が増えただけで、経済活動は活発化しませんでした。その一方で消費税を上げるというようなことをしました。例えてみれば、アクセルは踏んでいるがガソリンは不完全燃焼で動力にならず、その一方でブレーキも同時に強く踏んでいるという状態です。それでは、前に進むどころか日本経済が止まるのは当然です。

不景気だ、円安だと言いながら、バラマキもマトモにできず、減税もしない、それも自民党の利権体質と財務省の緊縮財政によって権力を維持したいと願う利己的な理由です。

一方、多少の希望もあります。日本に経済政策で成功し注目を集めている自治体があります。明石市です。明石市は住民の流入と子供の出生増加にによって、人口は毎年増加、出生率は1.7という驚異的な数字を誇っています。この理由は市の子供に投資するという政策で、子供を持つ家庭への特典を増やし子供を育てやすい街を作ろうとしてきた市政の政治主導による成果です。子供は未来の財産という観点から子供に投資し、子育てをしやすい環境を作り上げた結果、子供の人口や若い家庭が増え、結果、子供の教育や習い事を提供するビジネスが発達し、経済活動が活発になり、それが市の財政を潤すという好循環を作ってきました。こうして、不景気の時には、必要かつキーとなるところに呼水となるカネを回していくことで、好循環を開始させるのが政治がすべきことです。明石市が特別スゴイ技を使ったのではなく、当たり前の政策を市民の利益のために実行してきたというだけなのです。明石市長は乞われて、明石での成功事例を国政レベルでも説明してきました。しかし、利権でがんじがらめで己が票のことしか頭にない自公政権と自省の権力維持にしか興味のない財務省は、このごく当たり前の政策をやろうとしません。そもそも「憲法や法を破らない、国会で嘘をつかない、公文書を改竄したり隠蔽したりしない、人を脅したり貶めたりしない、賄賂を使わない、、、」人間として基本の「き」さえできないのだから、当たり前のことが当たり前にできないのも当然なのでしょうけど。
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悪徳の栄えとその終わり

2022-09-27 | Weblog
どうやら、エリザベス女王の国葬以上の税金が投入され、国民の過半数が反対し、予定出席者の半数が欠席し、外国の主要要人は誰も来ない、この違法「なんちゃって国葬」は強行されるようです。現時点で「#最後の最後まで国葬に反対します」のハッシュタグをつけたツイートが10万をこえ、これが終わってもなんちゃって国葬の違法性の追求は終わらないでしょう。国会は、このキシダ版モリカケサクラで延々と引っ張られることになります。

参院選で自民党が議席を維持しまずまずの結果に終わった時、キシダは安堵したでしょう。今後の無風の三年間、アベ式でやりたい放題だと思ったでしょう。予定外の安倍氏の殺害も、このことによって清和会に代わり宏池会の代表として長期に権力を振う地位を手に入れると同時にモリカケサクラと醜聞にまみれた安倍の不祥事を過去のこととして葬ってしまえば、一挙両得、全てが都合の良い方向に動いているとでも思ったことでしょう。

人間、しばしば絶頂の時に判断を誤って転落に転ずるものです。素人の株式投資と同じで、ついに自分の時代がやってきたと思った瞬間、転落はすでに始まっているのです。後年ふりかえった場合に、おそらくこの違法国葬の強行がキシダ転落の始まりであったと思い返されることになるでしょう。しかし、キシダと自民党にとっては転落ですけど、国民にとってはようやく悪夢の自民党政権の崩壊始まりをつげる夜明けの光と解釈されることになるのではないかと思います。

ソ連では、スターリンが1953年に死んでフルチチョフがスターリンの独裁体制の批判を始めるのに三年かかりました。日本においては、官僚人事権、NHK役員任命権などを駆使し、ムチと飴によって行政やメディアを支配し、国家を私物化、ネポティズムによって長期独裁政権を築いてきた安倍は、カネと力でつながった「オトモダチ」で周囲を固める一方、大勢の敵と遺恨を社会に蓄積させました。「信頼と誠実さ」の上にではなく、「欺瞞と利害関係だけ」で成り立っていた安倍政権というのは、まさに砂上に築かれた楼閣でありました。地上の栄養を吸い尽くし代わりに毒素を撒き散らして枯れていった徒花でした。

日本経済の低迷と安倍政権の腐敗の話をした時、知り合いのドイツ人は、安倍がそんなにとんでもないやつだとは知らなかった、と言いました。外国人が知らないのは当然ですが、メディアがただの政府広報になってしまっている日本でも、毎日の生活に忙しい人は、TVのニュースでの印象だけで判断しますから、安倍が何をしてきたかなど詳しくは知ってはいないのです。田舎の人々と話をした時、外交が得意な立派なリーダーだと勘違いしてしている人が結構いました。安倍政権に代表される自民党の利権体質や腐敗が総括され強い批判に広く晒されるにはまだ多少の時間がかかるかも知れません。

結局、禅譲で政権が回ってきたキシダは安倍式をそのまま引き継げば良いとでも思っていたのでしょうが、あいにく、安倍式ももう限界、そしてキシダにはそもそもカリスマというものがない。それがキシダの計算違いでしょう。この違法で民意に反く「なんちゃって国葬」が強行されるのは、自民党独裁政権の近代立憲民主主義への冒涜に他ならず、忌々しい限りです。しかし、同時にこれは自民党腐敗政治の終焉への象徴となるのかも知れません。
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le verlan

2022-09-23 | Weblog
どうでもいい話。

昔、医者がエラそうにしていたころ、患者さんや一般の人には理解できないように一部の単語をドイツ語をいじった言葉に変えて会話するという習慣がありました。入院はアウフ、退院はエント、食事はエッセン、ゲロはエルブレというような感じです。今はドイツ語ではなく英語が医学用語のスタンダードになり、医療現場も多少オープンになって、多分こうした習慣は廃れたのではないかと思います。

同様に、音楽業界や芸能界の業界用語というのもありました。私は業界の人間ではないので、ジャズマンが書いたエッセイなどからそうした言葉を知りましたが、例えば一万円、二万円をチェーマン、デーマンと呼ぶような音階を数字に当てはめたり、言葉の一部を省略して、例えば「前借り」(アドバンス)を「バンス」と言ったりします。そういえば昔、深作欣二監督の「上海バンスキング」という映画もありました。それから、もっと多いのは音節の前後を入れ替えるヤツです。森田はタモリ、日本はポンニチ、食事はシーメという具合です。これらの業界用語がどのように発達して根付いていったのか、あまり深く考えたことはなかったのですけど、先日、フランス語の(レッスンの)ビデオを見ていて、ちょっとその歴史に興味が湧いてきました。

というのは、フランス語でも「シーメ」があるということを知ったからです。フランス語のシーメはもちろんメシのことではなく、メルシ(Merci)のことで、その音節をひっくり返したものです(Cimer, 実際にはシーメアと発音される)。同様に「Ouf」は「Fou (crazy)」、「Muef(カノ女)」は「Femme (女)」の音節を逆にしたものです。またバンスのように一部が省略される場合もあるようで、例えば、アメリカ人 [アメリカン americain]は「リカン」となります。

こうした言葉をフランス語では le verlanと呼び、起源は中世に遡るそうです。Wikipediaによると「広く使われるようになったのは1970年代に入ってからで、verlanという言葉の登場自体も1950年とされている。、、、1970年代から1980年代にかけて、郊外でよく使われていたverlanは、その住民のアイデンティティのひとつとなった。疎外感を感じた若い世代は、黒いジャケット(1950年代にロッカーが反抗的なイメージを示すために着用した衣服)やベルランの使用を普及させた。、、、」とあります。[verlan という言葉(発音的にはヴァロン)が、"l'envers(逆向け、発音はロンヴァ)"という言葉の音節をひっくり返したものです]

というわけで、verlanが市民権を得て、フランスで流行し始めたころと、日本でバンドマン用語が使われ出したころとはほぼ一致するのではないかと想像します。とすると、日本の業界用語の起源は中世ヨーロッパ発の言葉遊びではないだろうかと思ったりするのですけど、どうでしょう?誰か知りませんか。
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XX比べ

2022-09-20 | Weblog
キシダ内閣支持率29%というニュース。リーマンショックの時の株価の落ち込みよりもひどい急落ではないでしょうか。ま、当然の結果だと思いますけど、まだ、この味のない毒入りパスタを支持する人が三割近くいるというのが、むしろ驚きです。

経済対策にしてもコロナ対策にしても、ロクになにもしない。「しっかり考えたい」と言うだけ。これは、「責任を痛感している」とか「責任は私にある」と言うだけ言って、一切、責任を取らず、何もしなかった安倍よりもひどいです。

ようやく出した低所得家庭に5万円の補助もみみっちい。経済政策なのだから、一律に直接ばら蒔けばよいし、もっと良いのは消費税の減税をすればよい。こうした政府が直接国民の可処分資産を増やす政策は、もっとも簡単にできて時間と手間がかからないのに、あえて対象を絞ったりポイント還元のようなわざわざ手間がかかって非効率なシステムにしようとする。それは利権業者に予算の多くを中抜きさせるためでしょう。この自民党の利権体質は徹底していて、今回、支持率急落の直接の原因となった安倍の「国葬」でさえ、例の桜を見る会を仕切っていた業者にやらせるそうで、もちろん国会の承認も得ず法整備も無視して強行されるこのなんちゃって国葬に、組織票と引き換えにまだ予算総額さえ明らかにしない税金が投入されることになっています。ここまで国民をバカにして支持率が落ちない思っていたのなら、そうとなバカでしょう。

夏に帰省した際、田舎の保守的な親戚と雑談していて思ったのは、こうした従来自民党支持で、国の決定には不満があっても基本的に従い、秩序と和を尊ぶ人々でも、政権のやっていることがおかしい、間違っている、という認識は十分にあるということでした。それが支持率に反映されていると思います。多分、自民党はかれらの認識をかなり過小評価していたのではないかと想像します。昔の自民党政策の恩恵をうけてきた田舎はそう簡単に自民党を裏切らないとでも思っていたのではないでしょうか。私より一〜二回り上の田舎の世代でさえ、自民党政治の異常さは認識しています。まして私の世代以下でニュースに気をつけている人は言うまでもありません。

愚かな人は、どんな馬鹿げたことであっても一旦、口にしたことは撤回して謝罪してやり直すということができない、という性質があります。自分が間違っていると自覚しても、それを改めようとしないのが愚か者の特徴です。自民党政権がそれでしょう。

この「なんちゃって国葬」はもはや強行するしかなくなりました。何度か引き返すチャンスはあったのに、愚かなキシダ政権は自殺する道を選び、この支持率になっています。政権の自殺です。いや玉砕と呼んで欲しいですかね。

国民の大多数が反対する「なんちゃって国葬」、参加する人が少なすぎて、あわてて無差別に招待状を発行し、それに欠席や無視の意向を示す招待者のツイートなどが次々と拡散されています。面白かったのが、加計問題で国会で安倍に不利な証言をした元文部次官の前川さんにも招待状が届いたという話。この件で安倍政権は読売に陰湿極まりないデタラメ記事を書かせて、前川さんの人格攻撃を行い、証言の信憑性を貶めようとしたのです。どこの世界に権力を悪用して自身の保身のために一個人の人格攻撃を行うような陰湿な政権のなんちゃって国葬に参列する被害者がいるのでしょう。

その前川さんの東京新聞のコラム記事。
「戦前最も不人気だった国葬は山縣有朋のそれだそうだ。一万人収容できる会場に千人ほどしか来なかったという。安倍元首相の国葬(国葬儀)には最大六千人程度の参列者を想定しているそうだが、山縣の不人気記録を更新しないことが政府の最低目標だろう。、、、」

さて、同様に森友での不当国有地払い下げ事件で、詐欺犯に仕立て上げられて刑務所に収監された籠池さんには招待状は行ったのでしょうかね?あるいは、同じく安倍の関与を誤魔化すために公文書偽造を強要されて、自殺に追い込まれた赤木さんの奥さんには?

こうやって書いていると、安倍政権のXXっぷりが思い出されますが、それをなんちゃって国葬にするキシダのXXっぷりも相当です。
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リバイス

2022-09-16 | Weblog
ようやく二度目のリバイスを投稿しました。最近は、一回のリバイスでサックリ受理されることが少なくなりました。直近の論文を数本思い出してみましたが、全て一回のリバイスで通ったことがありません。そのリバイスも大抵、追加実験を要求されるので、実験に1-3ヶ月、論文の書き直しに1-2週間、投稿後の評価にさらに1ヶ月と一回のリバイスサイクルは2-4ヶ月ぐらいかかるので、二回リバイスを食らうとアクセプトまで最初の投稿から半年から一年はかかります。今回は5月に出したので、これでアクセプトになれば5ヶ月ほどでしょう。前回の論文もほぼ半年、その前のは一年以上かかっています。

近年は論文のデータ量も増えていますし、複数の専門にまたがっているという理由もあるでしょうけど、レビューアの要求はどんどん厳しくなってきているような印象があります。
ま、私はアカデミア研究の世界から、跡を濁さずに立ち去って、残りの人生は個人的な幸福を追求するつもりなので、もう何かを言う立場ではなくなる予定ですが、日本の政治と同じく、アカデミア研究の世界のシステムは、色んな面でもう限界でしょう。論文出版ビジネスの問題、研究商業化へのビア研究費の問題、レビューシステムの問題、中国産論文の問題などなど、山積みです。

ま、問題というのはどんな時代でもあるものでしょうし、これでアカデミアが終わることはないとは思います。しかし、何でも上がれば下がり、興これば亡びするのはこの世の常です。現にウチの研究分野は、20年前の最盛期を覚えている私にとっては、その盛り下がりようは目を覆うばかりで、おそらく今後も少なくとも十年は復活することは余程のことがない限りあり得ないと感じざるを得ません。(無論、先のことはわかりませんけど)そんな中でモチベーションを維持するのは難しく、研究という分野でモチベーションを失えば、基本的に終わりです。

人間の知的好奇心がまずあって、それから経済的欲、権力欲、名誉欲、そういった様々な欲に引っ張られて、近代の学問というものは発展してきました。人間はパンのみに生きるものにあらず、とは言いますけど、今の現状を見ると、まずはパンの確保ができなければ、好奇心もその他の欲も育つ余裕は生まれないのだろうなという感じがします。日本の学問的地位の低下も少子化も原因は明かで、一言で言えば、与党政府の凄まじいばかりの腐敗によって経済政策を故意の誤ってきたことでしょう。その他の先進国の政策と比較してみれば、日本が衰退するのに何の不思議もありません。政治によって日本は没落しました。その点から言えば、山本太郎の言うように、日本は政治を変えることによって復活もできるのです。それを阻んできたのは、民主主義に馴染めない他ならぬ国民でした。言うまでもなく、このまま沈没するのか、復活へと向かうのかは彼らの選択にかかっています。
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ゲームのコマ

2022-09-13 | Weblog
先週、昔の知り合いの知り合いの日本人研究者からコンタクトがありました。PhDの人で、特任教授という立場で某大学で研究されています。任期のあるポジションのようで、話の目的は、どうも想像するに将来、パーマネントの職に就くための戦略的なことに関する相談のようでした。まだ小学生のお子さんが二人いて、キャリア的には学位を取ってから十年、ビッグ ペーパー言えるものはなさそうでしたが自分で研究費は取ってこれているとの話。

大変だなあ、と思いましたが、実は十数年前の私のような立場です。客観的に振り返って見れば、その当時の私の状態では、研究者として今の歳までキャリアが続く可能性はかなり低かったと思います。私が今までやってこれたのは単に運がよかっただけです。しかし、若い時にはなかなか客観的に自分を見ることは難しいし、そもそも、人間は自己を過大評価するものなので、当時の自分は「まだまだこれからだ」ぐらいに思っていたのですから、深刻な認識のズレがあったと言わざるを得ません。今の私が当時の私にアドバイスするとしたら「子供もいるのだから、別の道を探した方が良い」と言っていたでしょう。もしも、早々と転職していれば、別の人生になっていたし、子供の人生も変わっていたでしょう。今は振り返って、後悔もありますけど、まずまず乗りきったと思えるので、結果オーライですけど、一歩まちがっていてれば、結構困難な状況に終わっていた可能性は高かったと思われます。

何とかなるかダメかは、やってみないとわからないし、研究にしてもビジネスにしても努力と成果が相関するというものではないので、必死で頑張れば道が開けるとは言えないです。やる、やらないを決めるのは最後は、本人の直感に頼るしかないと思われます。経験上、ギリギリの判断においては理性的分析的な判断というのはあまり当てにならないものだと私は思いますので。

研究を志し、大学院を含めて十数年の研究キャリアを積み重ねて、中堅に入りつつあるその方が、研究者として安定したポジションについて、思うような研究を追求しつつ、家族を養い生計を立てていきたいという気持ちはよく分ります。しかし、世界中でアカデミアの研究環境は20-30年前に比べて、悪化の一途を辿っていると思わざるを得ない状況です。ツイートのラインに出てくるアカデミック キャリアの悲惨な状況をネタにするアカデミア ジョークのツイートはあまりにリアルで笑えません。事実、アメリカやヨーロッパでは大学院生やポスドクでアカデミック キャリアを望む人は減少の一途です。

それで、私は質問された事柄に関して私の知るところと将来の見通しについて私見を率直に述べさせてもらいました。単純に考えて、限られたポジションと金を争い合う戦争という現実があるわけですから、一部の勝者と多数の敗者が産まれるシステムになっています。そんな中で家族の生活と将来を守り、かつアカデミア研究者としてのキャリアを追求していくことは、劇団の役者ほどではないにせよ、困難になる一方です。

彼の気持ちはよく分かりますし、耳ざわりがよくて希望を与えるような話ができれば良かったのですけど、心にもないことを言うわけにもいきませんし。話の中で彼は「戦う」という言葉を何度か口にしました。戦いに負ければ、彼の夢は失われ、家族が飢えるかも知れないのです。私は、競争によって勝者と敗者を作り出し、勝ったものには負けることへの恐怖を植え付け、負けたものには自尊心を傷つけて勝者への嫉妬を生み出すような資本主義の競争原理に基づく社会は、マルクスが言うように、歴史の必然によって将来には別の形態に置き換わると信じていますが、それには人類全体の成熟がまだまだ足りません。おそらく私や彼が生きている間におこる可能性は極めて低いと思われます。

理想は、資本主義のゲームの中でゲームのコマとして戦わされるような立場を避けつつ、自分の願望を実現し義務を果たして行くやり方を生み出すことだろうと思うわけですけど、もちろん、末端の我々にすぐにゲームのルールを変える力はありません。幸い今の私には、生死のかかった競争というものは勝っても負けても後味の良いものではないなあ、と思える多少の自由がありますけど、戦いの中にいる人に、そんな話をするわけにもいかず。

とりあえず、家族の健康と生活というのはトップ プライオリティだと私は思うので、それをまず考えるべきではないだろうか、という話をしました。
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生きがいについて

2022-09-09 | Weblog
休暇から職場に戻り、溜まった仕事をぼちぼちとやり始めました。休暇中はそれなりに楽しかったのですけど、職場の昔のルーチンに久しぶりに戻るのも気分が良いものです。遠からずここを離れる予定ですが、長年いたこの職場という居場所を失うのは残念です。

多くのフルタイムで働く人々に当てはまることだと思いますけど、大人になっての主な人間関係は職場を通じてのものだと思います。職場で顔を合わせて無駄話をする人々や、そこから進んで友人になった人々、それらの人々が現在の私の人間関係の9割です。仕事から完全リタイアした場合に、収入以上に失う大きなものが社会での居場所、つまりこの人間関係です。

今回の休暇中、子供が独立し、そしていずれ引退した後に何をして残りの人生を過ごすか、ということをいろいろと考えました。限られた時間、限られた体力と財力、限られた人的、社会的リソースの中で、どう満足した時間を過ごすことができるのかということです。何かを成し遂げたいとか出世したいとか勲章が欲しいとか胸像を作って欲しいとか国葬されたいとか、そう思うのは、結局、満足感や幸福感を得たいという欲求を外部に求めようとするからでしょう。極論を言えば、幸福というものは心の状態ですから、どんな状況にあっても幸せに生きることは(理論上は)できるし、また、人間、誰でも遠からず天国に行くことになっているのですから、残りの人生をどう過ごすかなど、悩むだけ時間の無駄なのかも知れません。

とは言え、人間ですから色々考えます。何かプランを立てることは精神衛生にも良いですし、日々を生きるモチベーションを上げると思います。かつて柳田充弘先生が書いていたブログはある時から「生きるすべ」というタイトルになりました。その時はどうして、そんな名前にしたのだろうと不思議に思いましたが、今は何となく理解できます。「生きるすべ」とは、結局、毎日を生きていく上での心のより所のことでしょう。「生きがい」というのとほぼ同意であろうと思います。つまり、生きることに対するモチベーションを上げてくれるものです。

25年ほど前の本で、福島大学の経営学者である飯田史彦氏の「生きがいの創造」というベストセラーがありました。これはその後シリーズになり「生きがいのマネジメント」「生きがいの本質」などと本が続きました。しかし、この本で述べてあることは経営学とは無関係で、内容は、いろいろな「生まれ変わり」や「この世以外の世界」や「物質を超えた生命」の存在を示唆するエピソードや証拠を集めた本です。

この時も、どうして「生きがい」は、この世を超えた世界の話と繋がるのかと不思議に思いました。「生きがい」は死ぬまで毎日を過ごしていくための心の拠り所と考えれば、この世にそうした心の拠り所を見出せない人もいるでしょう。ならば、この世を超えた世界を想定して、そこからこの世を見下ろしてみて、生きるモチベーションを得ようとするのもアリなのだろうと理解しました。かつて、生きるのが辛い時、私も昔の人と同じく死んで極楽浄土へ行くことを心の拠り所として日々を過ごしていました。そのうち死ぬ時がくるから、それまでの辛抱だとか思いながら。

そうやって、現世で手頃に「生きがい」が見つからない場合は、この世を超えた世界を考えることによって生きがいを創造する。死んだら終わりではないならば、老いて病んで死んでいく日々にも意味がある、と思えるということでしょうか。
生きがい、生きるすべ、は生きるための手段です。シニカルに言えば、生老病死の四苦を忘れるための暇つぶしと言っても良いかも知れません。生きる手段が「生きがい」なら、それでは、生きることの目的は何か、という疑問につながります。"人生の意味"はスヌーピーが犬小屋の上で空を見ながら思索する時の究極の問いであったなあと、漫画を思い出しながら、庭の椅子に座って私も考えてみました。そして結局、生きることの意味が何であるかは重要ではないと思い当たりました。多分重要なのは、その具体的な内容ではなくて、人間は生きることには意味があると思える気持ちそのものではないかと思いました。そして、誰もが生きているだけで意味があるということを、全ての人が認め合うような社会になって欲しいものだと思いました。
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アドラー心理学入門

2022-09-06 | Weblog
古本屋でアドラー心理学入門(岸見一郎)という本を見つけたので読んでみました。結局、アドラー心理学とは何かはよくわからなかったのですけど、どうも、いわゆる「成功本」に書いてあるような内容とオーバーラップしているらしいということを感じました。

この手の成功本で、私が感銘を受けたのはマイクロソフト ワードの開発者、リチャード ブロディーの書いた「Getting past OK (日本語訳 - 夢をかなえる一番よい方法」で、私は、この本から自分の人生のあらゆることの責任を自分に求めることの重要性を学びました。これはアドラー心理学においても重要視されている点だと思います。結果を出すことにフォーカスして逆算すればそういう結論に到達します。

加えて、二、三、興味深い記述があったので、ランダムに。
「人が根本的に理想として持っているのは「所属」しているということ、共同体に受け入れられているということである、とアドラー心理学では考えられています。しかし、このことは何もしないでただ受動的に受け入れられるというのではなく、積極的に受け入れてもらうということです(p112)」

人間の悩みは最終的に人間関係に行き着きます。人間が社会的動物ある以上、人間の心理は人間と人間との関係から生まれる心の動きのことなのかも知れません。日本人が定職をもち、高齢になっても働き続けることを尊いと思うのは、働くことによって、共同体への帰属を得やすいからではないだろうかと思います。一方で、働かないということに関する罪悪感情は何とかすべきだと思います。仕事以外での共同体づくりに日本人がもう少し上手くなり、遊んで暮らすことに寛容になれば、社会はより豊かになるのではないだろうかと思います。

「私がアドラー心理学から学んだことは、政治的なスローガンとしてではなく、実質的な意味での民主主義の重要性です。かつてナチスは近代の民主主義憲法の典型であるとされるワイマール憲法のもとで合法的に誕生しました。民主主義はこのように民主的な手続きを経て自殺することができるのです(p182)」

心理学を学ぶことによって、民主主義の重要性を知るということが、この心理学の特徴を表しているように思います。どこかの国に「ナチスの手口に学べ」と言った口と根性の曲がった老人がいましたが、この人は漢字を読むのも難がありました。そう思うと、教育、教養というのは大切だなあと思います。心理学も民主主義も繋がっているわけですから。
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