百醜千拙草

何とかやっています

楽器と音楽

2008-05-09 | 音楽
中学生になって音楽に興味がでてくると、楽器そのものへ対する興味をも私は持つようになりました。土曜の午後には楽器屋に行って、ショーケースの中に並べてある有名ブランドギターをガラス越しによく観察したものです。フォークギターは何といってもマーティンD45でした。当時のお金で50万円ぐらいはしたのではないかと思います。エレキギターでは、ギブソンとフェンダーが人気を二分していました。ギブソンレスポールモデルの優雅に盛り上っていく表板に塗装されたサンバーストの色合い、シンプルでありながら独特の曲線を描くフェンダーテレキャスターのお尻の丸み、子供心にも美しいものだと感じたものでした。最初はギターや弦楽器を主に鑑賞の対象にしていたのですが、そのうちピアノにも興味が移りました。といっても、子供のころバイエルから逃げ回っていた私に演奏家としての才能があるわけではなく、ピアノという楽器そのものに対する興味です。美しく黒光りするピアノのボディー、つやを帯びて光る鍵盤、その上に金色に輝くYAMAHAの文字。世界のヤマハ、日本が生んだ最高の品質を誇る楽器メーカー、当時の私にとってヤマハは、楽器製造業という大海を威風堂々と進む大艦隊のようでした。スタインウェイでもベヒシュタインでもベーゼンドルファーでもない、硬質で真面目なヤマハのピアノが私は好きでした。(因みにベーゼンドルファーは経営難のため、今年ヤマハに買収されたそうです)ベーゼンドルファーがロールスロイスで、ベヒシュタインがマセラティで、スタインウェイがベンツなら、ヤマハはトヨタです。全てのグレードでくるいのない高品質を達成しています。品質のブレを個性といってごまかしたりしません。高校生のころは、ヤマハに入ってピアノ職人になりたいと半ば本気で思っていました。今はクラビノーバの一オーナーであるという以外にヤマハとは何の繋がりもないのですが、それでも、世界に誇る楽器メーカー、ヤマハを生んだ国の日本に生まれたということを誇らしく感じることがあります。徹底した品質管理と細部にまで気を配った細かい仕上げ、行き過ぎることのない控えめな個性、ヤマハの楽器は上質を知る大人の楽器であると思います。(ところで、私はヤマハとトヨタの回し者ではありません。車はスバルです)
コンサートのピアニストであれば、自分のピアノを演奏の度に会場に運び込むなどというのは余程、一流の人に限られます。好き嫌いにかかわらず、その会場にあるピアノを弾くことになるわけで、いくらベヒシュタインの繊細な音が好きであっても、スタインウェイしかなければ、寿司にバーベキューソースをつけてでも喰わねばならぬのです。ピアノの音質の好き嫌いを問わない楽曲といえば、ジョンケージの「4分33秒」という曲があります。初演は1952年、この曲は三楽章からなり、各楽章の長さが、30秒、2分23秒、1分40秒で合計の演奏時間が4分33秒というわけですが、演奏者はピアノの鍵盤には触れません。各楽章の演奏の開始はピアノの蓋を閉めることではじまり、演奏中、ピアニストはじっとすわっているだけです。演奏が終わると奏者はピアノの蓋を開けます。ですから、基本的にピアノ曲でありながらピアノの音はしないという曲なのです。以後、この曲には多少のバリエーションがうまれ、現在では各楽章の長さは自由に決めてよいことになっているそうです。4分33秒という曲の長さは「易」によって決めたとあります。この曲はCDにもなっており、アマゾンで手に入るのは、ハンガリーのピアニスト、Zoltan Kocsisのものです。因みに彼はこの曲の初演の年の1952年に生まれています。脱線しましたが、ピアニストが必ずしも自分の楽器を弾くことができないというのと異なり、他の演奏家は大抵、自分の楽器を持ち歩くことになるので、昔の私のように楽器フェチになる人も当然ながら多いと思います。自分の愛器は子供のようにかわいいのが当たり前だと思います。弦楽器の中でもバイオリン系の演奏家は特にその傾向が強いのではと思います。それで、過去にもこういうニュースは何度かあったのですが、今回は、ニューアークの空港で、4億円する300年もののストラディバリウスをタクシーに置き忘れたバイオリニストが、善良なタクシー運転手のおかげで愛器を見つけることができて、(お礼に100ドルあげた)という話がBBCニュースで紹介されていました。もっとも、このストラディバリウスの本当のオーナーは別にいるらしく、ストラディバリ協会が演奏家に楽器の貸し出しを斡旋しているらしいです。演奏家にとっての楽器は、我が子に等しいということを考えると、タクシーに置き忘れるとは言語道断と思ってしまうのは私だけではないでしょう。少なくとも、楽器をタクシーに置き忘れるような演奏家の音楽を聞きたいとは私はおもいません。また、ロックバンドなどがステージで楽器を壊すパフォーマンスを見ると、家庭で虐待されている子供の絵が思い浮かんでしまいます。それにしても、どうして300年前のバイオリンの方が、現在のものよりも良い音がするのでしょうか。楽器の素材が成熟するのに300年という年月が必要なのでしょうか。きっと製造技術に関しては現在の方が進んでいるのでしょうし。あるいは、ワインと同じでストラディバリウスという有名楽器だと思うからよい音がすると感じられるだけなのでしょうか。調べてみると、以前に日本のテレビ番組でストラディバリウスのブラインドリスニングテストをやった結果がありました。4本のバイオリンのうち、一本が本物で残りはレプリカです。もっとも評価が高かったものは、約200万円の国産高級バイオリンで、その次は30万円のフランスの量産品、一億円の本物を当てた人は6人中1人だけでした。このテストで使われたストラディバリウスは1689年製とのことで、最も評価の高い18世紀初頭のものではなかったという点はあるにせよ、聞き手にとっては一億円の名器でも、30万円の量産品でも、大差はないということでしょうか。(演奏家にとってはまた別の話かもしれませんけれども)
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Walk, don't run

2008-04-11 | 音楽
前回、生命科学研究では、真っすぐに結果を目指しても到達できることは稀であるという事実をもっと認識しようというScience誌のChief Editor、Bruce Albertsの提言についてふれました。4/4号では、Albertsは更に、がん研究に対しても同様の批判を展開し、応用ばかりを考えずにもっと基礎の理解を進めねばならないと述べています。トップダウン式のストラテジーが機能しない生物学研究では、一歩一歩、自分の立っている基盤に少しずつ積み重ねていくことでしか進歩はないと、私も思います。「急がば回れ」という言葉には、長期的目標への到達という含意がありますが、臨床応用を目指したプロジェクトの場合には、しばしば、最終目標と現在での知識や技術の間に何ステップあるかわからないし、そもそも各ステップを無事クリアできるかどうかもわからないという状態であるので、結果を目指して一直線に研究を進めようとするのがそもそも無理なのだと私も思います。適切な喩えではないかも知れませんが、これは最近大規模な臨床試験で無惨な敗北を喫したAIDSワクチンにも当てはまることかも知れません。
 ところで、「急がば回れ」ということわざで思い出したのは、エレキの神様、ベンチャーズの曲でした。この曲の原題は、「Walk, don't run」で、今調べてみると、この曲は1960年にリリースされUS ヒットチャートNo.2を記録しています。本国アメリカではとっくの昔に忘れ去られたグループかと思いますが、日本ではエレキブームの立役者として、またいくつかの日本の歌謡曲の作曲者として未だに人気があると思います。欧陽菲菲の日本デビュー曲「雨の御堂筋」はベンチャーズの作曲によるものだそうです(3カ国共同プロジェクトですね)。私が中学生のころ、初めて手に入れたエレキギターを見て、母親は「テケテケ」は嫌いだと言いました。当時でも、すでにベンチャーズは過去の人、テケテケという言葉は知っていても、ベンチャーズ以外にテケテケをやるようなグループはいなかったわけですし、私は本物のテケテケを聞いた事はありませんでした。当時の軽音楽部は、ハードロックやヘビメタが流行っていて、フェンダーストラタキャスター(のコピー)にリッチーブラックモアモデルの妙に分厚いピックを使うのが流行でした。リッチーブラックモアがテケテケやったのでは冗談です。「ダイヤモンドヘッド」のイントロに使われている、ピックで弦をこすってキュッキュというような音を出す妙なベンチャーズ特有のギターテクニックもありました。今知りましたが、テケテケにはちゃんとした正式名称があって、chromatic run 奏法というのだそうです。ですので、それからしばらくして、本物のテケテケを聞いた時は、新鮮な感動がありました。モズライトギターと真空管アンプの組み合わせが創り出す妙に安っぽい音色のテケテケを初めて聞いた時は「おお、これが、あの、テケテケか!」という幻のオオクワガタを発見したかのような思いにとらわれました。もちろん、その後、毎日テケテケを練習したのはいうまでもありません。確かにベンチャーズサウンドの味わい深い安っぽさは日本の歌謡曲にぴったりです。Deep Purpleが歌謡曲をつくっても売れないでしょう。そのベンチャーズが、なんと、今年になってロックの殿堂入りを果たしました。ロックの殿堂は、オハイオ、クリーブランドの唯一の観光資源だそうですが、その授賞式では、「Walk, don't run」が演奏されたのだそうです。ベンチャーズファンの科学政策関連の人には現在の医科学研究政策に対する警笛と真摯に受け止めて欲しいと思います。因に、マドンナを含む5組(名)の2008年ロックの殿堂受賞者の中で、ベンチャーズはもっとも早いデビューでした(マドンナが1歳の時に結成されています)。おめでとう、ベンチャーズ。
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Vincero di Pavarotti

2007-09-07 | 音楽
今日、パバロッティの死去のニュースを聞きました。七十一歳、膵臓がんだったそうです。私はパバロッティについて論じる資格はほとんどゼロに近いのですが、さすがに10数年前に3テナーズが大ヒットした時にCDは買いました。それとあと二三、図書館で借りてきたCDがiPodに入っています。昔、大学の実験室で3テナーズをかけて実験していた時、クラッシック好きの先輩が「パバロッティはいいですね」と話しかけてくれたのを思い出します。その人はその後、病で急逝したのでした。3テナーズはクラッシックレコードとしては異例の大ヒットになったのですが、普段クラッシックに興味の無い人も「三大テノールの夢の競演」みたいなキャッチフレーズに乗せられて、「どうもすごいらしい!」という妙な期待感からCDに手を出したのだと思います。恥ずかしながら私もその一人です。それより更に5、6年前の「宇宙ブーム」の時と似ています。当時、神経変性疾患に侵された天才理論物理学者、スティーブンホーキングが一般向けの宇宙の始まりと終焉についての本を出版し、ベストセラーとなりました。アメリカで流行るものはちょっと遅れて日本でも流行るので、一般書店の一番目立つところに山積みになっていた「ホーキング、宇宙を語る」は私も買いました。当然内容の半分はよく理解できませんでした。その点、音楽はもっと簡単です。理解する必要も特にありません。3テナーズといいますが、微妙な格付けはあるみたいで、ホセカレーラスよりはプラシドドミンゴの方がちょっと上でドミンゴよりはパバロッティがちょっと上という感じだったように思いました。本来ソロで歌うテノールが同じステージに三人集まって、朗々たる歌声を披露したのですから、なかなかのものであることは、素人の私にもわかります。こってりした豚骨スープにすりおろしニンニクを大量に加えて厚切りチャーシューを目一杯のせたラーメンみたいです。CDの目玉は当然ながらパバロッティの「Nessun dorma」だと思います。クラッシックではモーツアルトの次に私の好きなプッチーニの未完のオペラ、ツーランドットの中のこの名曲は、クラッシック界のみならずいろんな人が歌っていますが、かなりの声量を必要とするためか、誰もパバロッティにかなう者はなく、「Nessun dorma」はパバロッティの曲というイメージが出来上がっていると思います。彼以外の「誰も歌ってはならぬ」という感じです。歌えばボロがでますから。パバロッティ死去のニュースでは当然ながら、この曲を歌っているパバロッティの映像が流されていました。「誰も寝てはならぬ」と歌われるこの曲とともにパバロッティは永遠の眠りにつきました。「自分の名前を夜明けまでに当てたら命を捧げよう」と賭けをした主人公が歌うこのアリアの最後の部分で、「夜よ消えよ、夜明けに我は勝利する!」と力強く歌い上げる部分が、テレビに映し出されていました。これから先も当分、この曲をパバロッティ以上に歌える人は出てこないのでしょう。そして、この完全なるパパロッティの勝利を人々は長らく記憶する事でしょう。
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Born to be blue

2007-09-04 | 音楽
労働者階級が地盤沈下して、先進国での多くの国民の生活レベルが低下してきていることを考えていた時、昔好きだったスタンダードジャズの曲、「Born to be blue」を思い出しました。やはり人生いろいろ楽しくないことが多いと悲しい曲をより思い出すのでしょう。私はこの曲をヘレンメリルのレコードで知りました。この曲は変わった和音進行を持つ曲で彼女のささやくような声とあいまって不思議なもの悲しい雰囲気が醸し出されています。スタンダードなのでエラフィッツジェラルドも含めていろんな人が録音していますが、不思議とヘレンメリル版が私には一番しっくりきます。「some folks were meant to live in clover, but they are such a chosen few」という出だしの歌詞で、私は「live in clover」という成句を覚えました。つまり最初から少数の裕福な人は決まっていると歌っていてるのです。私(つまり、大多数)はブルーになるように生まれついているという歌詞は、現在の格差社会にそのまま当てはまるようです。因みに歌そのものは1946年に発表されています。
    ヘレンメリルは日本でも人気のあった白人ジャズシンガーですが、彼女の代表作といえば、天才トランぺッター、クリフォードブラウンと競演したデビューアルバムで、「Born to be blue」もこのアルバムに収められています。私も高校、大学生のころはこのレコードを愛聴していました。声量はないのですが、ちょっとハスキーな声で控えめに歌う所が、日本人の琴線に触れるのかもしれません。1954年のレコード発表当時は、サラウ゛ォーン、エラフィッツジェラルド、ビリーホリデイらの大御所の黄金期ですから、白人シンガーで声量がないヘレンメリルのこのデビューアルバムがヒットしたのは不思議に思えます。クリフォードブラウンを投入した文字通り鳴りもの入りのデビューレコードだったのでヒットしたのかもしれません。因に、このレコードがクリフォードブラウンの最終録音らしいです。クリフォードブラウンが天才トランぺッターであることには私は何の異論もありません。気に入らないのはあんなに若くして、あれほど完成度の高いソロを吹ける完全無欠の天才ぶりでしょうか。作曲の才能にも驚きます。彼のもっともよく知られている曲「Joy spring」は、後年マンハッタントランスファーの歌でも再ヒットしましたが、そのメロディー、複雑でありながら高度に構成されている和音進行(当時の作曲スタイルでの完成系と行っても良いかもしれません)、「うーん」と唸らされます。他のジャズ史に名を残す大物トランぺッターで(例えばマイルスデイビスやディジーガレスピーなんかを思い起こしてみても)彼程の無欠の天才さを誇った者がいたでしょうか?クリフォードブラウンは26歳で交通事故で亡くなってしまいました。音楽家としての活動はたった4年余りでありながら、現代にいたるまで強い影響を与え続けています。夭折が神話を促進するのはよくあることでしょうが、それにしてももうちょっと長生きしてもよかったのにと思います。バンドの相棒であったドラムのマックスローチもつい2週間前に83歳で亡くなってしまいました。クリフォードブラウンと同い年のヘレンメリルはまだ歌手活動しているみたいです。さて、クリフォードブラウンは別にしても、このヘレンメリルのアルバムはよく出来ていると思います。私はとりわけ「What’s new?」が好きでした。おそらくこの曲がヘレンメリルの代表作と言ってよいのではと思います。大阪梅田の駅前第二ビルの地下に同名のジャズ喫茶があって、高校、大学生の時には時折いきました。当時、シンセサイザーメーカーのローランドが駅前第三ビルにショールームを持っていて音楽好きの学生や社会人のたまり場になっていたのですが、そこが混んでいて遊ぶ場所がない時に、もっとも近いジャズ喫茶であった「What’s new?」に行くという感じでした。もっともその他の音楽喫茶同様、当時でさえ「What’s new?」は、一般客のために音量を絞ってあって、ジャズを聞きにいく場所という感じではありませんでした。ヘレンメリルのこのアルバムには、それ以外にも「S’ wonderful」「You’d be so nice to come home to」などの名曲が収載されています。今知りましたが、このレコードの編曲とプロデュースはクインシージョーンズでした。多くの非ジャズファンの日本人同様に、私がクインシージョーンズを知ったのは、「愛のコリーダ」がヒットした時でした。最初はポップ曲の作曲家だと勘違いしていました。(ジャズが死んだといわれてから、多くのジャズ演奏家が既存のいろんな演奏スタイルを試み、単純な8ビートを基調とするロック音楽のリズムを使うのが流行りました。当時、クロスオーバーとかフージョンとかいわれていたように思います。)ヘレンメリルのデビューは、(私の推測なので何の根拠もないですが)多分、最近のノーラジョーンズみたいなノリで、白人リスナー向けにアイドルを売り出そうとしたのでしょう。いずれにしてもレコードのできは悪くありません。そして、ヘレンメリルは日本やヨーロッパで生き残ることができました。もうレコードは手元にありません。こつこつ買い集めたジャズのレコードは、大学生の頃に中古レコードショップで小銭に替えてしまいました。さよならだけが人生だと呟きながら、元町商店街の脇道をそれたところにあった中古レコードやの狭い階段をレコードの入った段ボールを担いでのぼったことを思い出します。
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30年前の思い出

2007-08-17 | 音楽
多くのアメリカ人にとって今年の8月16日はやや特別なようです。ちょうど30年前にエルビスプレスリーが死んだのでした。今年の命日は例年に増して多くの人がメンフィスのグレースランドを訪れています。興味深いことにその多くの人はプレスリーをリアルタイムで知らない比較的若い世代の人らしいです。私もなぜかプレスリーが死んだ日のことはよく覚えています。当時は子供でしたからまだ音楽にそれほど興味もなく、ロック音楽とはどんなものかさえよく知りませんでした。プレスリーの死が報道される前の晩、たまたま自宅のレコード置き場に父親が昔買ったのであろうエルビスのLPを見つけたのでした。子供ながらエルビスプレスリーの名前ぐらいは知っていましたので、興味本位で針を落としてみたのでした。ですから私が初めてエルビスの歌を聞いた翌朝、テレビでエルビスの死亡を報道しているのを聞いたときはとてもびっくりしました。ひょっとしたら私がレコードを聞いていたちょうどその頃に死んだのかも知れません。もっとも悪名高いエルビスのマネージャー、トムパーカーが、エルビス死亡のニュースの隠蔽工作をしたという話もあるので、私がエルビス死亡のニュースを聞いたのが、本当に彼の死亡した直後であったのかどうかちょっと定かではありません。実はこのレコードは1968年にエルビスが長らくぶりにテレビに出演したときのライブ版だったのでした。トムパーカーは60年代に映画会社と長期の契約を結び、エルビスをハリウッドに釘付けにしてしまいます。エルビス自身も「だだで見られるテレビに出たのでは、お金を払って映画を見に来てくれるファンに悪い」などと発言し、テレビの出演を長らく行っていなかったのでした。その間、歌手活動は低迷し大きなヒットも出ませんでした。どういう経緯か知りませんが、エルビスのテレビ再出演が実現することになり、これは相当なインパクトをもってアメリカ国民に受け取られたようです。68年のNBCの1時間にわたる特別番組、「ELVIS ON STAGE」は、瞬間最高72%という驚異的な視聴率を叩き出し、一瞬にしてエルビス神話が復活しました。このライブレコードの日本語版のライナーノーツの一つは湯川れい子さんが書いていて、そのタイトルが「エルビスは生きていた!」というものだったように覚えています。レコードは、トラブル、ギターマン、ハウンドドッグ、監獄ロック、ラブミーテンダーなどなどのヒット曲からなっていましたが、当時子供だった私が知っていたのはラブミーテンダーだけでした。子供だったので、バラード曲を除いて、ロックンロール、R&Bやゴスペル調の曲はいいとも思えず、レコードを聞いている間に寝てしまったのを覚えています。その後は折りにふれ、このレコードを聞きました。クリスマス曲のブルークリスマス、バラードのメモリーズはお気に入りになりました。クリスマスシーズンの日本ではビングクロスビーのホワイトクリスマスが定番ですが、私のクリスマスソングはブルークリスマスでした。大きくなるにつれ、エルビスの他の曲にも親しむようになりましたが、中学の頃はビートルズとかもっとコンテンポラリーなロック、ポップス、高校になってからはジャズ、大学では主にソウルミュージックと興味が移っていったので、余り音楽そのものを聞かなくなった10年前ぐらいまではエルビスの曲を聞くこともありませんでした。皮肉なことに音楽から興味がうすれてきてから、おりおりにラジオなどで聞こえてくるエルビスの曲を耳にする機会が相対的に増えてきたようです。没後30年に因んで、エルビスの娘のリサマリーが、録画した父親とデュエットをするらしいです。数年前、ナットキングコールの娘ナタリーが同じような技術を使って亡き父デュエットしたレコードがヒットしたのを思い出します。私はリサマリーの歌は聞いたことがないので彼女がナタリーコール並みに歌えるのかどうか知りません。
エルビス死亡のニュースは、マイルスデイビスが復帰した日のように、映像つきで昨日のことのように覚えているのですが、それがもう30年も前のことだったのかと思うと、まるで邯鄲の夢のような目眩を覚えるのでした。
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国歌君が代

2007-06-18 | 音楽
前回、君が代について思うところを書いたのですが、そのあと気になってWikipediaで調べてみたら、この曲についてはずいぶん色々意外な事実があることを知りました。また、そこには君が代は1999年に正式に国歌と認定されたと記載がありました。だから君が代はやはり国歌と言っていいようです。 曲については、次のようにありました。
当初フェントンによって作曲がなされたが、あまりに洋風すぎる曲であったため普及せず、後により日本人の音感に馴染みやすい曲に置き換えようということで、明治13年(1880年)に宮内省雅樂課の奥好義のつけた旋律を雅楽奏者の林廣守が曲に起こし、それにドイツ人音楽家フランツ・エッケルトによって西洋風和声がつけられた。以来、『君が代』は国歌として慣例的に用いられてきたものである。明治36年(1903年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は一等を受賞した。
 というわけで、私が間違っていた一番重要なことは、君が代は日本人にしかその良さがわからないかもしれないと思っていたことのようです。少なくとも明治時代の世界の人々は君が代の良さを認めていたということですね。また「天皇制賛歌」のように聞こえると思っていた理由は、どうもこの曲を軍国主義の象徴ととりわけ戦後に批判されてきたことが知らず知らずに頭にインプットされていたからのようです。この曲(歌詞)の歴史的成り立ちをみると、これは字余りありの三十二文字の和歌であり、はるか昔から天皇制や国家といった概念とは直接関係なく成立してきたものであるらしいことが分かりました。私が抱いていたネガティブなイメージはどうも反軍国主義者たちの過剰(?)反応から生じた誤解だったようです。というわけで、君が代は日本が世界に誇る国歌であるとひけ目なしに言えるようになりました。
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一人君が代を歌う

2007-06-17 | 音楽
君が代は小学校の頃、何かの行事のたびによく歌わされました。子供心にもその単調な曲を別段歌いたくもないのにみんなで歌わねばならないということで嫌でした。大きくなるにつれて、君が代を歌う機会もずいぶん減りました。二十歳台の頃でも、スポーツの国際試合などで、国家が歌われたりすると、たとえばアメリカ国歌のようなちゃんとサビのあるメリハリのある曲の後に君が代が流れたりすると、陰気くさいなあと思っていました。それに、人間みな平等でならぬと思っていた若い頃は、その天皇賛歌のような内容も気に入りませんでした。
今朝、子供を学校へ送っていく途中の車の中で、子供たちに日本の国歌を歌ってくれと言われたのでした。それで実は君が代が国歌であるかどうかも知らなかったのですが、他に知る曲もないので、車の中で君が代を歌ってみたのです。一人で君が代を歌ったのは生まれて初めてだったかも知れません。嫌々歌わされていた頃は大勢の中に交じって聞こえないぐらいの声でしか歌ったことはなかったのです。案の定、子供たちは退屈な歌だと思ったらしいです。しかし歌った本人は、以外なことに君が代はなかなか良く出来た曲だなあと、生まれて初めて君が代という曲にちょっと感動したのでした。何がよいと一言ではいえませんが、まずは曲に和音の進行というものが必要ないのです。和音をつけてもつけれないことはないだろうと思うのですが、この曲はメロディーの強弱だけでシンプルに歌ったほうが、じーんときます。和音進行を加えるとおそらく曲の広がりを限定してしまうでしょう。俳句とか墨絵みたいなものです。あえて言わない、あえて色づけしないところに奥ゆかしい魅力があるのではないでしょうか。同じ理由で子供にはこの曲のよさが理解できないのでしょう。この曲の比較的単調に思われるリズムの上でゆっくり歌われるメロディーは、むしろその一見して単調に見えるリズムとあたかも無調のような曲調ゆえに、却って音として聞こえない部分の音楽を聞かせているような気がします。また歌詞についても別段「君」を天皇と考えずに象徴的日本人と自由に解釈することもあっていいのではないかと思ったら、別段気にならなくなりした。機会があったら、一人でゆっくり味わいながら歌ってみてください。日本のよさが凝縮されていることに気づくのではないかと思います。君が代のよさがわかるのは日本人だけかも知れません。
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美しい自然

2007-06-04 | 音楽
行ったことはありませんが、写真や訪れた人の話を聞くとアイルランドは美しい島らしいです。アイリッシュダンスは十数年、マイケルフラットリーとジーンバトラーのリバーダンスで大人気となりました。リバーダンスのケルティック音楽の何となく日本の古い民謡を思い出させるような哀愁を帯びた素朴なメロディーには妙に心惹かれるものがあります。いまだにリバーダンスはキャストを替えて上演されていますが、本家のフラットリー、バトラーのコンビがやはり一番良いようです。皮肉なことにフラットリーもバトラーもアイルランド人ではなくアメリカ人で、私は彼らがアイルランド系かどうかも知りません。アイリッシュダンスはアメリカの女子には人気のある習い事のようです。それがアイルランド系アメリカ人のケルト文化に対する愛着に根ざしているのか、あるいは華美なダンス衣装が小さな女の子を惹きつけるのか良く知りません。しかしアイルランド系アメリカ人の祝日、セントパトリックデイに見られるように、アイルランド系アメリカ人にとってアイルランドに対する誇りや民族意識は、他の非マイノリティー民族に比べて、大変高いように感じます。
 なんでこんな話をしだしたかというと、自分のブログを開いてみて緑の色とクローバーの絵のデザインに改めて目がとまったからです。緑の色はアイルランドの象徴の色です。セントパトリックデイには、アイルランド系の人は緑のスカーフやハンカチを身に着けます。その緑はクローバー、アイルランドでのシャムロックの色なのです。シャムロックと緑色はアイルランドの象徴です(公式なシンボルではないようですが)。以前の「国家の品格」の中で著者は、天才が現れる条件として、国や故郷が美しいことを挙げ、その例としてアイルランドから生まれた数々の文学、数学の天才について触れています。天才は人口に比例して出るのではなく、ある地域に集中しているという観察は大変興味深いです。私はアイルランドに対してほとんど何の知識もありません。リバーダンスのライブビデオが撮影されたのがダブリンであることを知って、昔、大学の英語の時間に読まされた教材がジェームスジョイスの「ダブリン市民」であったことを思い出したぐらいです。アメリカで最も有名なアイルランド系の「天才?」といえば、ジョン F ケネディーでしょう。当時の政治の世界ではマイノリティーであったアイルランド系でしかもカトリックのケネディーがしかもたった3年の大統領就任期間であったにもかかわらず、現在に至るまで歴代の大統領の中で絶大な人気を集めているのは不思議です。大統領を2期務めながら、就任前からその知能レベルの低さを揶揄され、前大統領のジミーカーターにまで史上最低の大統領と言わしめたブッシュとは対照的です。
 現在の商業音楽に比べて、ケルトの音楽は他のフォークロアと同じように素朴で心に響く味わいを持っていると思います。人を容易に寄せ付けないような厳しい自然の中にある美しさというようなものを感じさせます。「国家の品格」では、天才の出る第二の条件として、「何かにひざまずく心」を挙げています。偉大な自然の前に素直に謙虚になれる心は、その厳しくも美しい自然があってこそなのだろうと思います。そう思うと現在の日本の都会は「醜い」の一言です。アスファルトで固められた地面の上に建物や電柱や看板が無秩序といって良いような無神経さで並んでいます。マウスの飼育舎と同じで、いかに少ない面積に数多くの人間を詰め込むかという、経済効率第一で発達してきたのですから無理もありません。そんなところに天才を期待するのは確かに無理があると頷けます。マウスの飼育舎で育ったマウスは、自然界では生きていくことさえ出来ないのですから。
とにかく、美しいものを愛する心は大切だと思います。若いころは汚いものにも魅力を感じますが、人間は結局生理的に美しいものに惹かれるのです。天才は美に対するバランス感覚から生まれるのではないでしょうか。死ぬまでに一度はアイルランドの美しい自然を見てみたいものだと思います。
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懐かしいラジオの歌

2007-04-30 | 音楽
昨日車のラジオからピーボブライソンの歌が聞こえてきました。十年以上も前に買ったCDからの懐かしい曲でした。結婚式での定番の曲、"Tonight I celebrate my love to you" がロバータフラックとのデュエットで大ヒットしたのは80年代の初めでした。正統派の朗々たる歌声です。数年前にはアラジンの主題歌をレジーナベルと歌ってヒットしてました。レジーナベルもなかなか良いのですが最近余り活躍を聞きません。覚えていなかったのですが、セリーヌディオーンとのデュエットで美女と野獣の主題歌も歌っていたようでこれは92年のグラミーをとっています。その更に数年前グラミーをとったアニタベーカーも私のひいきの歌手でした。この間テレビでピーポブライソンが音楽CDの通信販売のコマーシャルをやっているのを見ました。薄かった頭髪はすっかり無くなっていました。そのころアニタベーカーのコンサートのコマーシャルもテレビで見ました。スタイリッシュだったショートヘアは、なんだかただの中年おばさんみたいになっていました。大好きだったルーサーバンドロスは一年半前に亡くなりました。でも彼らの歌声は未だに若かった時のようにラジオから流れてくるのでした。
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フレンチサルサ

2007-04-10 | 音楽
YouTubeで昔の音楽を聞いていて、Lambadaのビデオクリップに行き当たりました。20年近く前、すごくはやりました。私はその頃は余りラテン音楽には興味が無かったし、そもそも、ラテンと言えば、それより更に一昔前の日本のラテンブームの頃にはやったマンボとかブガルーとかの暑苦しいイメージがあったので興味が持てないでいたのです。Lambadaも流行したから耳に覚えがあっただけのことでした。Lambadaが大流行した後に、ふとしたことで手にしたレコードが、フランスでのズークの祭典、”Le Grand Merchant Zouk”のライブ版でした。例によってズークの流行が過ぎ去ってから初めて聞いたのです。ズークはラテンにしては比較的単調なリズムを持つダンス音楽ですが、カリブのフランス領グアドループ島やマルティニーク島で発達したもので、フレンチクレオールの歌詞とあいまって独特の雰囲気を持っています。その中で歌われたバラード、Caresse Moinはズークとは言えませんが、単調ながら哀愁を帯びたメロディーで、ラテンというよりは歌謡曲ののりで印象に残ったのを覚えています。Caresse Moin (Caress me) はMarie-José Alieの歌でヒットしたのですが Marie-José Alieは、マルティニークのグループ、Malavoiで一時歌っていました。Malavoiが最も有名だったころ、多くのラテングループが管楽器を使ってリズム重視の演奏をするなかで、Malavoiは厚い弦楽器のセクションによるメロディアスで、ヨーロッパ音楽の雰囲気の強い音楽を演奏していました。独身のころ週末のアパートで一人でビールを飲みながらMalavoiを聞いては、南国にあこがれたものでした。地図で見るとカリブのマルティニークは日本からだと最も遠い場所の一つで、お金も時間の自由も無かった昔の私にはそこを訪れることは夢の中の話でした。もちろん未だに行ったことはありません。メキシコのユカタン半島に去年行く機会があったので、何となくカリブの雰囲気もわかるような気はしますが、同じカリブでもスペイン語圏とフレンチクレオールの文化圏は違うのでしょう。グアドループやマルティニークからの音楽は、独特のアイデンティティーを保持しながらもその他のラテンやアメリカ音楽を取り入れています。妙な話ですが、マルティニーク出身のEdith Lefelが歌うフレンチクレオールのサルサを聞いて、私はサルサが好きになりました。スペイン語とは違って、ひと味違う繊細なサルサです。今インターネットで調べていて知りましたが、Edith Lefelは2003年に40歳で亡くなっていたようです。好きな歌手が一人一人去っていきます。これが嫌ならもっと若い人の音楽を聞くべきなのでしょう。
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ベルカントな日

2007-04-07 | 音楽
今日は単純作業をしました。単純作業をするのは悪くないのですが、やる気を出すが難しいです。そんなときは音楽を聞くことにしています。数年前にiBookを買ったときに勧められてiPodも一緒に買いました。長らく音楽を楽しむような生活をしていなかったので、その辺にあった昔のCDや図書館から借りてきたCDなどからiTuneに移して聞いていました。iBookが昨年壊れてしまってからiPodの中身は変化していないので、ずっと同じものを聞いています。最近よく聞いているのは Renata Scottoです。Maria Callas もいいのですが、最近は情熱的な濃いものよりも、上品で端麗なものが好みにあうようです。プッチーニの「つばめ」の中のCh’il bel sogno di Dorettaなどの透き通るようなソプラノを聞いていると、単純作業の手も思わず止まりそうになります。昔は単純作業の時はJazzとかR&Bとかラテンとか聞いていました。昔一緒に実験していた人はなぜかミュージカルナンバーを大音量で聞くのが趣味で、これは余り楽しくなかったです。私はもっと「美しい」ものが好きなのです。若いころはもちろん扇動的なものも好きでしたから、JazzでもJohn Coltraneの後期のものとか、Thelonious Monkとか、Pharoah Sandersとか聞いていた覚えがあります。休みの日に父がくつろいでいる部屋のステレオでMonkとかをかけると、「もっとピアノのうまい奴のにしてくれ」とか言われたのを思い出します(Miles Davisじゃあるまいし、、)。ColtraneとSandersが一緒にやっていたものをかけると、首を振りながら部屋から出て行ってしまいました。私がJazzが好きになるきっかけになったのは、1975年の New York Jazz Quartetの日本公演のライブレコードをたまたま買ったことでした。メンバーは、ベースがRon Carter、サックスとフルートがFrank Wess、ピアノがRoland Hanna、でドラムがちょっと思い出せませんが、なかなか渋いメンバーです。レコードには4曲おさめられていたと思います。なかでもRoland Hannaのピアノは美しく、いつか生演奏を見てみたいものだと思った記憶があります。もうこれはかなわぬ話ですが。「音楽は美しくなければならない」と昔、渡辺貞男が山下洋輔に言ったそうですが、年をとれば汚いものより美しいもの、情熱よりも洗練が好きになってくるものですね。またよりシンプルなものが好きになってきました。プッチーニの曲はまさにシンプルでありながら奥深い味わいがあっていいです。そしてRenata Scotto はプッチーニを美しくストレートに歌うのです。彼女も引退して数年ですから本物を生で見る機会はきっともうないのでしょう。
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