百醜千拙草

何とかやっています

他人の法則は自分の法則ではないの法則

2021-04-30 | Weblog

立命館アジア太平洋大学(APU)学長、出口治明氏の心に響く言葉より…
《質問:出口さんの経歴を一通り聞かせていただき、巡り合わせが大事だとわかりました。では、いい巡り合わせを自分のほうに引き寄せるために、できることはありますか?》
「まずイエス」ですね。 
例えば、APUの学長になったケースでは、「インタビューを受けますか?」と声をかけられたときが、「イエス」「ノー」のわかれ目でした。
ドクターであり、英語もペラペラで、大学の管理運営経験があるという3つの条件に僕は該当せず、しかもそれほど大学に行きたいと思ってもいなかったので、「ノー」という選択肢もあったわけです。
でも、「ノー」と答えていれば、今ここで話している僕はいなかった。
人生の大きな巡り合わせです。
だから、できることは何でも「まずイエス」で飛び込むことだと思います。
 、、、、
 
こういう「いわば成功した人」が語るエピソードにユニバーサルに適用できる教訓が含まれていると我々は思いがちです。わたしもかつての偉人たちのエピソードや名言集などを読んで、なるほどと思ったり、真似してみたりしてみたわけですが、別にそれで人生が好転したとかよいことがおこったとかということはあまり記憶にありません。思うに、こうした「成功の秘訣」みたいな話はその個人に特有なもので、必ずしも広く適用可能なものではないのではないでしょうか。

「秘訣」というほどではなくても、ごく当たり前の常識的な話、たとえば、人にはやさしくしましょう(そうすれば人もやさしく接してくれるから)とかの直接的な因果応報系の法則であっても、例外の方が多いように感じます。

実際、自分自身や回りを振り返って見ると、普通におこっていることは、やさしくすれば利用され、ヘタに褒めるとつけ上がり、下手にでるとナメられて、意地を通せばハブられる、とかくに人の世は住みにくい、というような感じです。昔の友人はよく、「信じる者は騙される」と言っていました。(これは、他人の論文を安易に信用するな、という話なのですけど)

このようなインスパイアリングな話として語られる成功者が語る成功の秘訣を真似た場合に、期待するような結果が起こることは現実には稀なのではないかと思っています。(そうでなければ、世の中は成功者で溢れかえっているでしょう)研究や怪しい健康食品の宣伝と同じで、うまくいった例は話題になって目立つが、無数のうまくいかなかった例は表にでることはなく埋もれてしまうのではないだろうかなどと想像します。

上の例だと、積極的にイエスの選択を選んで、それが良い結果に繋がった例ももちろんあるでしょうけど、うっかりイエスといって詐欺集団に丸裸にされた例も実は同数ぐらいあるのではないかと思います。そして、多分、イエスと言ってもノーと言ってもなにも大したことは起こらないというのが9割以上ではないだろうかと思ったりするのですけど、どうでしょう。

昨日、たまたま、ある経営アドバイザーの人の言葉(誰か忘れました)を知りました。企業経営には危機がつきもので、アメリカ式の「ポジティブ思考」で乗り切ろうとして失敗する場合が多いらしいです。その人がいうには、ピンチはピンチであってチャンスではないということです。人は希望的に物事を見がちです。危機においては、そのプレッシャーから、ポジティブ思考による不適切な楽観論や体育会的筋肉性思考停止に陥ったり、あるいは成功者の語る成功の秘訣などに希望を見出そうとしますけど、たぶん危機を乗り切るのに大切なのは、現実を正しく見て、正しく解釈し、論理的に思考して、感情を切り離す「理性の働き」ではないかと思います。仏教では正見、諦観というらしいです。(なかなか実践は困難ですけどね)

重大な決断ほど、感情を排して理詰めで考えることが大切だと、私は思います。ちょうど、ブルース リーのアドバイス("Don't think, feel")の逆ですね。そうすると、うまくいかなかった時に自分自身を納得させやすく、後悔が少なくて済むのではないでしょうか。
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発表レコーディング

2021-04-27 | Weblog
来月発表のレコーディングは無事終わりました。レコーディングはズームを使って向こうの技術アシスタントが録音しました。

しかし、聴衆ではなく、コンピューターの画面に向かってしゃべるというのは勝手がずいぶん違います。聞いている人の反応というフィードバックがないので、原稿を正確に一定スピードで間違いなく読むことに集中しました。ライブだと原稿を読むことはできないので、言うべきことを忘れたり、脱線したりもしますけど、一方、聴衆の様子をみながら、スライドを飛ばしたり、戻ったりということができるので、私はやりやすいです。一方、画面を見てのレコーディングは、相手が見えないという不安感はあるものの、画面に集中してしまえば原稿を読みさえすればいいので、思ったよりスムーズでした。とはいうもののポインターを操作しながらなので、原稿から目が離れた際に、つい、うっかり、そのままスライドを見ながら話し続けてしまい、何度か脱線してしまいました。それでも、時間内に終わったし許容範囲と思います。ポインターやスライドを誰かが操作してくれたら原稿から目を離さずに済んで、脱線しなかったのではないだろうかと思います。

それで思い出しましたが、昔は大腸内視鏡は二人でやる方法もあって、二人法では内視鏡の出し入れを担当する人と、内視鏡操作をする人と役割分担していました。息のあった二人なら盲腸まで二分でいけるらしいです。学会発表でも、ライブでないなら、原稿を読む人とスライドやポインターを操作する人を分けるとやりやすいように思います。ピアノでも譜面をめくる人がいますし。

発表に関しては、もう一度、テクニカルリハーサルというのに参加しないといけないようですが、それ以外は当日の質疑応答の時間までは何もする必要はありませんので、当日は気楽なものです。
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外道の戦略

2021-04-23 | Weblog
最近、ニュースのインプットとアウトプットはツイッターを使うようになって、ここで、政治の話をすることが減りました。例え民主主義を守るために戦うのだと言っても、自公政権のデタラメにいちいち怒っていては体が持たないし、そもそも、差し迫った日々の生活をはじめとして優先しないといけないさまざまなものがあるわけで、ブログではもっと日常的な話でリラックスするようにしています。しかし、今日は書きたいこともないので、先日流れてきた内田樹さんのツイートを紹介します。日本の政治がここまで腐った理由を一言で解説してあって、腑に落ちたので、ツイートを転載させてもらうことにします。言葉というのは偉大です。ピッタリした言葉一つで霧が晴れるように物事の本質が理解できることがあります。

 @levinassien
「ときの権力者について「政策が間違っている。倫理的に問題がある」とは何度も思いました。でも、「頭が悪い」と思ったことはありませんでした。この悪賢い「食えないオヤジ」たちも、国力を向上させ、国民生活の安寧を達成しない限り政権は維持できないという「常識」は備えていたからです。前政権でその「常識」が失われました。もう国力なんかどうでもいい、国民の健康も安全もどうでもいい。自分たちとその取り巻きだけがいい思いができれば、あとは知らないというところまで政治が退廃したのは、どうすれば国力が向上し、国民生活が豊かになるかを考える力がなくなったからです。」

「考える力がない」というのは、政治家以前に社会的活動を行う人間として、重大な欠陥だと思います。しかし、この言葉以上に現政権と前政権の本質を突いている言葉はないような気がします。
 無論、かつての自民党でも権力を利用して甘い汁を吸う人々は大勢いましたが、普通、やってまずいことがバレたら、何らかの責任をとって大事に至らぬようにしていました。
しかし、前政権以降は、政権を担当している側がやってはいけないと明らかにわかることを平気でやるようになり、それを恥じないようになりました。国会でウソをつきまくり、やましいことを指摘されては逆ギレして質問者に責任転嫁し、官僚には公文書を改ざんをさせ、ヤクザを使って選挙妨害し、気に入らない人間は、選挙に対立候補を立てて買収までさせて地位を奪い、読売や産経をつかって、自分に都合の悪い人間の人格攻撃をさせるような「人間のクズ」としか思えないことを、こうまで堂々とでできるのか、私は理解不能でした。かつての自民党ではやましいことが露見しそうになったら、本人自らが要職から退くか、そうでない場合も党が続投を許さず、一定の自浄作用がありました。それが、アベ政権からなくなりました。その「人間のクズ」の振る舞いを平気でやれる理由として、もっとも整合性があって腑に落ちる理由は、おそらく自己愛性性格異常に加えて、「恥」や「人間としてのdecency」という概念を理解するだけの頭がない、つまり頭が悪いからだ、という説明はなるほどと思います。

しかし、これは他の国だとありえないと思うのです。日本の政治が腐敗しているのはなぜですか、と聞かれて、「政治家の頭が悪いから」というのが冗談抜きの答えになるような国は日本以外にはないでしょう。そんな人でも政治家をやれるという特殊な日本の事情を説明するのはちょっと面倒です。もちろん世襲議員であるという要素が大きいわけですが、神輿は軽くてパーがいい、という日本の政治文化や、日本の政治的独立性の問題などもありますからね。

頭が悪い人を相手にするのは大変です。とくに権力やハサミを持っている場合は危険ですから、周りのマトモな人々は諦めてしまうのでしょう。それがますますこの傾向を増長させたのではないかと思います。反知性主義というのは、結局は無知であること、恥を知らないことを武器にする人の道をはずれた外道の戦略なのでしょう、

かつて、誰かが「クソは最強だ、なぜなら、クソはそれを攻撃した方にダメージが大きいから」とツイートしていました。前政権と現政権が八年も以上も続いたのはそういう事情でしょう。
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塩味と甘味

2021-04-20 | Weblog
いつもの5分間フランス語のレッスンで、フランスの朝食は普通甘く、イギリスの朝食は塩味だという話題がありました。スクランブルエッグやベーコンや魚の干物などがイギリス式朝食、対してフランス式朝食で多くの人が食べるものはクロワッサン(しばしばチョコレート入り)それから、スライスしたパンにバターとジャムを塗ったもの。これはタルチン(tartine de pain)と呼ばれていて、tartiner(塗り広げる)という言葉からきているようです。オープンサンドは何でもタルチンと呼ばれるようですけど、バターとジャムというのが定番のようです。子供のころ、私の家の朝はパンで、トーストにバターとイチゴジャムを塗ったものをよく食べていて、この年になってその食べ物はフランスではタルチンと呼ばれるものだと知りました。

大人になって、私は、朝食はイギリス式以上の塩分過剰食である和食を好むようになりました。血圧が高くなったのもそのせいかもしれません。なぜ、朝食で、イギリスでは塩味が好まれフランスでは甘いものが好まれるのかはよくわかりませんけど、昔は、日本でも寝起きに「おめざ」と呼ばれる甘い食べ物を子供に食べる習慣があったようで、朝に甘いものを食べるというのは素早く血糖値を上げて頭を目覚めさせる意味があるのかしれません。また、コーヒーや紅茶には甘みのある食べ物の方があうと思いますので、朝にコーヒーや紅茶を飲む人が、甘いものを朝食にするのはそういう理由かも知れません。

それで思い出しましたが、かつて、ある内陸の田舎に住んでいた時、お茶うけとして漬物がしばしば出てきたので驚いたことがあります。私の育ったところではお茶うけは必ず甘いものでしたから。

土地の野菜を使った自家製の漬物をポリポリといただきながら、漬物のお茶うけというのも、結構イケるなあ、と思いました。そもそも私は漬物好きですし。ある時に出された小茄子の辛子漬けは絶品で、以来、スーパーなどで小茄子を見るとつい買いたくなります。実際に買って自分で漬けようとしましたが、うまくいかず、それからは小茄子はもっぱら、目で見て楽しむだけになっています。同じような欲望を感じる野菜はブリュッセル スプラウト、アスパラガス、それから葉がついている小さなにんじんですね。どれも、非常に美味しく調理されたものを食べたのがきっかけで好きになりました。自分で料理すると満足の味にはなかなかならないのですが。

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発表準備

2021-04-15 | Weblog
バーチャル学会は、大変便利だと思います。コロナが終わっても大きな学会はこのフォーマットでやるのがいいと思います。発表者にも聴衆にも負担がすくないです。しかし、テクニカルな点も含めて二、三問題がでてくることもあります。

今年の始めごろに発表者として参加した時は参加者も100人以下のズームのセッションだったので五分前にログインして、一時間ほどやって終わりで、スライド以外に何の準備もしませんでした。それでも発表中になぜか、Macが非常に遅くなってしまい、途中からスライドの切り替えに十秒ぐらいの遅れが出るようになって、困りました。リモートの会合では、コンピュータやコネクションの不安定さが脆弱性の原因となると思います。そういえば、以前、ズームのセッションで、突然、発表者のスライドが遮られて、ポルノサイトの宣伝が動画音声付きで流れるという事件がありました。使われているコンピューターに忍び込んだマルウェアが発動したのか、あるいは誰かがいたずらでハッキングしたのでしょうか。ズームを立ち上げ直して再開しましたが、発表者も参加者もホストも妙に冷静であたかも何もなかったかのように発表が進んだのが印象に残っております。

数千人が参加する昨年のウチの学会の年会もバーチャルでしたが、ライブでのさまざまなトラブルを想定したのか、発表はあらかじめ録画したものを流して、質疑応答だけライブでやるというスタイルでした。リモートだとライブでやった場合、不都合が出た場合にフレキシブルに対応できないという理由だろうと思います。

今回の初参加の学会は、規模もせいぜい数百人程度だろうと考えていたので、私はてっきりズームでライブと思い込んでいました。一月ちょっと先なので、来週ぐらいから余裕をもってボツボツとスライドを作ればいいかなと思っていたのですが、事務局から連絡が来て、あらかじめ録画しないといけないということがわかりました。それも自分で勝手にはできないようで、事務局指定のサイトで予約を取ってやらねばならず、一発取りのスタジオ レコーディングになるということがわかりました。これはライブでやるよりプレッシャーが高いです。

しかも、録画サイトの予約状況をみたら、なんと二週間先以降には空きがありません。かつ、時差があるので、とんでもない時間にやらないといけないようで、すっかり予定が狂いました。とりあえず、もっとも遅いスロットを予約しましたが、このスケジュールだと、スライドは一週間で仕上げ、原稿を書いて、次の週にリハーサルをやって推敲して、を普段の仕事の合間にやらねばならぬようです。今のところ作業進行度はゼロです。これでは、衣装とメイクに気を使っている余裕はなさそうです。

引き受けるべきではなかったかなあ、と多少後悔しはじめたところで、もう一通メールがきました。今度はそのセッションのスポンサーとなっている企業からで、ギャラが出るとのお話。スライド準備時間も含めて計算した額を払ってくれるそうで、企業っていいですね。ひきうけてよかったかも、と思い直しました。
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だから何?

2021-04-13 | Weblog
今の世の中、全て「金」を介在して回っており、人間の多くの社会的活動には経済活動が嫌でもついて回ります。そんな中での人間の社会活動の半分は「営業」「セールス」と言っても過言ではないかも知れません。研究現場でもそれは例外ではなく、むしろ、例外どころかそのセールスの能力は研究そのものの能力と同等かそれ以上に必要とされます。論文、グラント、ポジション獲得、つまり、競争のあるところでは須く、セールス技術は必須です。私は、そういうのが大嫌いなのですけど、(ま、あまり好きな人はいないと思いますが)、それが世の中の現実ですから、現実を受け入れた上で、必要に応じて対処するしかありません。

次に出そうと思っている研究費の申請をどうするか、ぼんやり考えています。できないことは書けないので、できそうなことの中で資金獲得に繋がりそうなことを書くしかないのですが、このセールス活動が最近はバカらしいと思うようになって困っています。(かといってやってて全く楽しくないというわけでもないのです。ちょうどビデオゲームみたいな感じですかね。バカらしい作業ではあるのですけど)

研究費申請の審査は、いくつかの基準に沿って点数制でなされることが多いと思いますが、近年は、研究の意義、革新性がとりわけ重視されています。加えて研究者の実績とか実現の現実性とか研究環境とかが考慮されます。その上で研究のインパクトが大きいと予測されるかどうかによって総合的な判断がなされることが多いと思います。

そういうわけで、私は、研究の意義と革新性を強調するようなセールス トークをするわけですが、この二つは高い評価を得ており、他のポイントにも問題がないのに、総合評価が低いケースがよくあります。つまり、研究の意義も高く、アイデアや技術も革新的なのに「インパクト」が低いと評価されるものです。

この話は随分前にもちょっとしたと思うのですが、二つ以上のものがぶつかり合ってエネルギーの交換が起きるのがインパクトであり、インパクトが大きいとはぶつかった時のエネルギー交換効率が高いということです。逆にいうといくらエネルギー ポテンシャルが高くてもぶつからないとインパクトは生まれません。なので、意義も革新性も高いのにインパクトが低いということは、「当たっていない」ということだと思います。

この場合でいうと、ぶつかりあうべきものは、研究分野のニーズと研究計画で、高ポテンシャルの研究計画が研究ニーズのスイートスポットにミートするということが必要になると思います。故に、ニーズに合うものは自動的に意義も高いわけですが、その逆は必ずしも正しいとは言えないということでした。

理論的にはここまではいいと思います。問題は、ニーズに合うものが、自分の手持ちの商品の中になかった場合にどうするか、ということです。ニーズがないところに商品を売り込むのは難しいです。トップグループの研究者はニーズを作り出すというところにも手を突っ込んで戦略的にやっていますけど、普通の人には難しいでしょう。

最近、こういうのがバカらしいなあ、とつい私は思ってしまうのです。そうして研究費をとってトップジャーナルに論文を出して、学会や組織で出世して、「だから何?(自分には関係のない話だし)」みたいに感じてしまって、そのしらけ気分に自分でもウンザリすることがあります。私が剃刀のように切れるバックハンドのトップスピン パッシングをダウン ザ ラインに決めたからと言って、他の人は「だから何?」と思うのと同じでしょうか。(バックのパッシングが決まったことはないですけど、、、、、だから何?)

Miles Davis Quintet  "So what?"
テナーはコルトレーンですね、独特の節回し。若い時は好きでした。
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引退の時期

2021-04-09 | Weblog
知り合いの研究者の人からの頼まれ仕事があって、その試薬類を届けにきてくれたので久しぶりに、雑談しました。この人は私より八年ほど年上で、不思議な縁がある人で、最初に初めて話をしたのは15年ぐらい前の学会帰りのバスの中でした。当時は、この人は離れた施設にいて、ウチの分野での今日まで続く一大トレンドの元になった大発見をした直後で、その学会で特別講演を行ったあとの帰り、空港までのバスで乗り合わせたのでした。それから数年経って、違う施設ではありますが近所の施設に移ってきて、たまたま私も参加していた合同プロジェクトのアドバイザーとなったので、会合で顔をあわすようになり、妙な縁で、数年前は一緒に論文も出しました。比較的近所とはいえ、ずっとリアル会合はありませんから、会ったのは久しぶりで、仕事の話の後は、自然とリタイアメントの話になりました。子供がほぼ独立したからやりたいことができる年齢になったので、いろいろやりたいこともあって考えているが、研究が好きなのと、もうちょっと資金を貯める必要があるので、あと数年はやりたいとの話。引退後いろいろやりたいことの第一は地下室のリノベーションだそうです。
 最近、同年代や年上の人と話す機会があると、自然とこの手の話題になります。この一年に複数の知り合いの同業者とこの話題になっても、みんな結構、引退する年齢を決めている人が多いようです。私も体の自由が多少効くうちに、数年ぐらいは、毎日が日曜日の生活を送りたいと考えております。そのための資金とか、場所とか、日曜日の過ごし方のアイデアとか、そうしたことを準備しないといけないのですけど、何しろ、いつまで、そこそこ健康が維持できて、いつから老人ホームや病院の世話になって、いつ死ぬかがわからないので、なかなか予定を立てるのも難しいです。
 若い時には考えたこともなかった遠く離れた人生のゴールが、水平線の向こうに見えはじめてきて、もっと若い時から準備をしておくのだった、とちょっと後悔し始めています。ま、もう手遅れですけど。
 振り返って、余り深く考えずにやっていたことで、大変助かったのは、個人年金の積み立てでした。これをやっていなければ家も買えなかったし、リタイアのことを考える余裕もなかっただろうと思います。
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行ったつもり

2021-04-06 | Weblog
一年半前ぐらいに、ヨーロッパを訪れた時のこと書きましたが、その時、知り合いの働くパリのある病院を訪れた時に知り合ったそこの部門長の人からメールがきました。ヨーロッパの小さな学会の一部のプログラムの担当をしているとのことで、シンポジウムへのお招きでした。今年はその学会は本来、ブリュッセルが会場となるはずだったのですけど、ヨーロッパはコロナが再猛威をふるっており、今年もVirtual学会となるので、ブリュッセルという地名に意味はありません。ヨーロッパはまた訪れたいと思っていたのでコロナがなくてリアル学会だったら嬉しかったのですけど、結局、自宅の居間から早朝に参加ということになりそうです。しかし、これでは学会参加のお楽しみの部分がありません。アンコの入っていないあんパンというか、コーヒーの入っていないクリープというか。とはいうものの、来年以降はもうこの手の学会には参加しないかもしれないし、とすると、このような機会は最後かも知ないなあと思い、バーチャルでも引き受けておこうという気持ちになりました。教育シンポジウムということで、研究の話は控えめで、教科書的な話を期待されており、某有名食品メーカーがスポンサーで栄養の話を少し絡める必要もあるようなので、第一線の研究者なら気乗りのしない仕事で、多分、引き受ける人がいなかったのだろうと思いますが、私でも多少の役に立つのなら、うれしいことです。

私はあとの人生は死ぬまで暇つぶししながら楽しく生きると決心したのです。楽しそうでストレスのないことはやる、楽しくないこと、ストレスが強いことはできるだけしない、と決めました。アドレナリンよりもセロトニン、使命感より幸福感、金より時間、力より自由(できるだけね)と決めたのでした。とはいうものの、なかなか人生は自ら生き方を自主的に選択するというよりは、しがらみや生活のために世間から小突き回されてなんとか生きているという方が多いと思いますけど、私は「世間から小突き回されて利用されて生きる」ことも、私が能動的に選択したことだと考えることにしました。あくまで私に選択権があり、気が変わればやめるだけのことだと考えることにしました。

基本的に責任感の強い日本人気質の私ですけど、というわけで、不義理をしたり期待に沿えないことに罪悪感を感じることはもうやめることにしました。そして、つい最近、定年後に中国に渡り、ベンチャー企業の研究開発部門で活躍中の年上の友人からきたメッセージには、「わがままに快適に余生を過ごすことを考えつつ頑張ります」とありました。私もそうしたいと思います。

旅行者として数日訪れたヨーロッパは子供のころの憧れそのままに、よい思い出しかありません。アジア人差別が世界的にエスカレートしている昨今では、住人となればイヤな部分を沢山感じるのは間違いないでしょうけども、今後、私がパリや他のヨーロッパの街に住むことはまずないと思うので、私にとってヨーロッパはきっと京都と同じように憧れの土地でありつづけるだろうと思います。ま、Virtual学会とはいえ、ヨーロッパに行ったつもりになって、楽しみたいと思います。
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mon amie

2021-04-02 | Weblog
五分フランス語はまだ続いていますが、最近、ちょっと内容が難しくなって、五分では毎日の課題が終わらず、だんだん負担になってきました。比較的簡単という理由で始めたのに、英語に比べると語形変化が複雑で、とても使えるようになるような気がしません。
 名詞の性や称や数によって、形容詞や動詞などが変化するのを覚えるのは面倒で、しかも例外がいろいろあります。発音においても英語にない音(とくにRの音)はやっかいですし、またリエゾンの必要のために文法の方が曲げられることもあるようです。例えば、「私の(my)」はフランス語では、続く名詞が複数だとmes、単数男性だとmon、単数女性だとmaと変化しますが、続く単数女性名詞が母音で始まる場合はmaではなくmonとなるということを先日習って、その面倒くささにイライラしました。例をあげると、男友達は「mon ami」で、女友達は本来「ma amie」となるはずですが、発音がしにくいので「mon amie (モナミ)」となります。一方、「ガールフレンド(petite amie)」だと母音が被らないので「ma petite amie (マ プティタミ)」とmaのままです。フランス語から性別が撤廃されれば、これらの例外も面倒臭い変化もスッキリしてフランス語を学ぶ人も増えるのではないだろうかと思うのですけど。

先日、国会中継の録画の一部を見ていました。自由党の森ゆうこ議員の質疑で、委員長が発言を許可する際に「森ゆうこさん」と呼んでいるのに気づきました。ひと昔だと、「森ゆうこ君」と呼ばれていたはずです。いつから変わったのか気がつきませんでした。たぶん、「君」づけで呼ぶのは、かつては男性がほとんどだった議会での慣例が女性議員にもそのまま適用されたのだろうと思いますが、それが女性軽視にあたると異を唱えた人がいたのではないだろうかと想像しています。とすると、議会では女性が女性として扱われていないから「君」ではなく「さん」で呼ぶことになったと思われるわけで、女性の平等性のためにあえて女性と男性の呼称を区別するようになったと考えられます。つまり、平等性のために男女の区別をなくすのではなく、不平等を解消するために男女を区別して女性を「さん」づけするようになったいうことだと思います。一方、「さん」は男女ともにつかうニュートラルな敬称なので、これを男女ともにつかえば、区別は撤廃されるわけですが、全員「さん」づけとすると、長年の慣習の「君」づけをなくす必要があり、それはそれで難しいかも知れません。

それで、フランス語に性別があるもあるいは似たような理由もあるのではないだろうか、と思いついた次第です。ひょっとしたらフランス語の先祖の先祖の言葉には男性名詞しかなく、女性名詞は女性の権利の向上とともに作られたのかも知れません。ま、ただの妄想ですけど。(ちなみにフランス語の先祖と思われるラテン語では、中性名詞があります。古代は男でも女でもない人の権利もすでに尊重されていたのかも知れません)
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