百醜千拙草

何とかやっています

Money makes the world go around

2007-03-31 | お金
地獄の沙汰も金次第といいますが、生物学研究もこれなしには一歩も進みません。研究費がおりてきたら、ちょっと高額な実験もできるだろうと思って期待していましたが、そこから給料引いた残りの金額を見たら、期待も一気にしぼんでしまいました。これだけテクノロジーが発達してきても、金を生み出す機械というものはないのですね。
 でもよく考えたら、いない相手から借金する技術はあるようです。アメリカでソーシャルセキュリティー (SS) が破綻してきて、政府は個人年金の積み立てに税金の優遇処置を導入しました。401k、403bやIRAとかがそうですが、ほとんどの人がそれらの積立金を証券会社などによる株式や債券へ投資で運用していると思います。投資した金額が引退時期までに増えていってくれるのをみな期待するわけですが、そうして増えた分はいったいどこからやってくるのでしょう?株式投資ということを株式の取引のみ限って短期間の売買を考えてみると、基本的に、安く買った人が値があがったので株を売る、その差額が利益ということですね。そしてその株を買った人は、買った時点においては将来高く売れるであろうという期待感をもって買う。もし引退資金のための株式投資によって出る利益がこうした売買の積み重ねにあるのなら、株価は全体として上がっていってくれないと困るわけです。3次元空間だけで静的に考えただけでは、無から有が生まれるわけはないわけですから、お金はどこかからどこかへ移動しているだけです。しかし、アメリカの多くの人が引退資金のかなりを税制優遇による株式投資に頼っているということは、この永遠の右肩あがりを期待するこのシステムはある程度安定である必要があるといえそうです。このシステムは将来株を買ってくれる人がいることが前提になっています。その人たちは自分たちが買ったよりも高い値段で株を買ってくれることを期待されています。そうしてその人たちも引退後の心配をしだしたら、高くなった株を買ってやはり将来それ以上に高い株を買ってくれる人がいることを期待するわけです。つまり、このシステムは最後の最後に株取引そのものが無くなった時に株券を握りしめているババを引いた人の存在を見て見ないふりをすることで成り立っているようです。つまり将来のまだ見ぬ誰かにババを次々に先送りし、ある意味、返すつもりのない借金をしているように見えます。現実ミクロでみると、株で損する人はいっぱいいて、実際その人たちのお金が証券会社の会社員の給料や個人年金投資者の引退資金になっているのだと思うと、もっと生産的な方法はないものだろうかと思ってしまいます。アメリカの資産運用は、日本やその他の国の株式市場を喰いものにして成り立っているようですから、アメリカの場合はお金はアメリカ以外からやってくるという単純な図式なのかもしれません。
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青空

2007-03-30 | Weblog
快晴の春の日です。雲一つない穏やかな青空を見上げていると、子供のころにも、小学生のときも、大学生のときも、同じような空を見たことを思い出します。きっとずっとずっと昔から、このような青空をみんなが見上げて同じように思ったことでしょう。

「古桶の底抜け果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」

有名な禅師盤珪の開悟の歌ですが、この歌を初めて知ったとき、私の心の中に雲一つない青空が広がりました。この歌を文字通りにとって、底の抜けた古桶の残ったたがを手にかざして見上げてみると何が見えるでしょうか。私に見えたのは、昔からずっと変わらない静かな青空でした。日々の些事に追われ、うつろう世間に翻弄されがちな現代人でも、ただちょっと青空を見上げるだけで永遠と繋がることができることは何と素晴らしいことだろうと思います。
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ワクワク

2007-03-29 | Weblog
別段どうということもない日でした。忙しい日もテンションがあがってよいのですが、頭を使う時間が減ってしまいます。まあ研究生活の95%以上は、直接何の成果も目に見えないことに時間を費やしているわけですし、忙しい日にいっぱい働いたからといってほとんど目に見える形で後に残るわけではないので、あれこれうじうじ考えたり調べたりしている日と結果的にはあまり変わりないともいえます。むしろ、いらないことをうじうじ考えている方が、後々有用なことが多いような気もします。ただ、うじうじ考えるのは精神衛生上悪いです。昼間からうじうじしていると、帰宅の時間になっても不完全燃焼感が強く、ますますうじうじしてしまうような気がします。
結局、みんな「ワクワク」する感覚を求めているのですね。うじうじ考えて何かひらめいた瞬間とか、一生懸命からだを動かして何かを成し遂げた瞬間とか、乾いた喉に冷たいビールとか、そんなもの。その瞬間への期待感を高めるためにうじうじもつらいことも必要なのでしょう。
明日は、することがいろいろあります。ワクワクできるかもしれません。
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パワーサイエンス

2007-03-28 | 研究

Murchison EP, Hannon GJのGenes and Developmentに発表されたOocyteでのDicerの役割を調べた論文を読んで。
自分自身もmicroRNA (miRNA) を細々とやっているので体験的に学んできたことなのですが、miRNA研究には必然的にゲノムレベルのBioinformaticsのアプローチが必要になってきます。これは、昔ながらのマウスリバースジェネティクスや分子細胞生物をやってきたものには取っつきにくいものです。普通の遺伝子のKnockout (KO) であれば、表現型の解析と遺伝子の過去の知見からメカニズムの仮説を立てていくので、ごく一般的なアプローチでまかなえます。DicerのKOに関しては、間接的にmiRNAを主とするsmall RNAをKOするわけですから、メカニズムの仮説を立てる時点で、いったいどのmicroRNAが表現型に影響しているのか、そしてどの遺伝子がmiRNAによって制御されているのかという点が主題となってきます。普通、各組織における数百種のmiRNAの発現量、一つのmiRNAに対して数百ある標的遺伝子の発現、それらを考慮して仮説を立て、miRNAや遺伝子の発現profileを行った上で、最終的に制御されている遺伝子を塩基相補性に基づいたアルゴリズムで「あてる」わけですが、なかなかあたりません。この論文でも、miRNAとgene expressionのプロファイルからOocyteのターゲット遺伝子を探った検討では特に有意義なinteractionは見当たらず、強いて言えば、AU-richな3’UTRを持つ遺伝子が、Dicerを潰したことでupregulateしたことが述べられています。またマウスのトランスポゾンの発現がDicer KOで上昇していることが認められています。これらのことは、miRNA-target RNA interactionを中心に、Dicer KOの表現型の解釈に迫ろうとする「正当派」アプローチに疑問を投げかけるものではないでしょうか。RNAのdegradationの主たる場であるprocessing (P) bodiesの形成にmicroRNA biogeneisのcomponentsが必要であるという論文が昨年あたりに出て衝撃を受けたものですが、今回の論文も何となくそのあたりに関連してそうです。MiRNA/siRNA研究がますます面白くなっていくのはいいのですが、それについていくのがなかなか大変です。
この手の論文を読むと、科学界の格差社会を感じずにはおれません。こういう言葉があるかどうか知りませんが、言ってみれば「パワーサイエンス」の時代なのではと感じます。Cold Spring Harborなり、MITなり、トップの研究所は、優秀な人材、潤沢な資金と最先端のテクノロジーで、網羅的にデータを作り出していきます。これまでの多くの科学の進歩はserendipitousな思いもかけないような発見に導かれてきたように思います。これは個人的な丹念な努力の積み重ねのなかから、ちらりとのぞくダイヤモンドをつまみ上げるようなもので、いくらパワーがあっても幸運をつかみ取る目と力のあるものにしか得られないものだったような気がします。エジソンは天才は99%の発汗と1%のひらめきと言ったそうですが、最近のテクノロジーの進歩を見ると、少なくとも発汗の部分に関しては、様々な機械が高い効率でやってしまいます。そういったシステムを持てるものと持たざるものとの差が、少なくとも論文の出版というレベルで見ると、大きく影響しているように見えるのです。パワーのあるものは、まずデータを作り出してそこから仮説を立ち上げます。パワーのないものは、仮説を練ってあたりそうなものから順番に試していくという作業になります。同じ主題で研究すれば、後者が前者に勝てないのは当然であろうと思います。なんだかんだ言っても、いくらすぐれた仮説も1片のデータには結局勝てないのですから。
先日、シークエンシングプロジェクトを思いついて、454 pyrophosphate sequencingの見積もりを出してもらいました。4サンプルで$8.000 – 10.000とのこと。ちょっと手がでません。むかし、自分でシクエネースを使ってシークエンスしていたころのことを思い出しました。もし同じ量のシークエンスをしないといけないとしたら、454シークエンサーが一晩でできることを、昔ながらのシークエンシングでは10年かかってもできないでしょう。そう思えば、454 の金額は破格値と言えないこともありません。こうした最新機材を駆使しデータを量産し、それを最新のBioinformaticsで解釈していくとなると、それだけの資金的、構造的かつ知的体力のあるところに限られてしまいます。少なくと雑誌レベルではそうした研究室のモノポリーを感じざるを得ません。そうでない一般-零細研究室が、この格差社会にあって、どう自己実現し、科学界そして社会に貢献していけるのか、なかなか悩ましいところです。
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親の恩

2007-03-27 | Weblog
親の恩というものは、なかなかわからないものらしいです。親が自分にしてくれたことを客観的に眺めれば、とんでもない量の世話と苦労をしてくれたことはよくわかるのですが、その実感というのものに乏しいというのでしょうか。自分が親になれば、親のありがたさがよくわかるという人もいましたが、いまこうして自分が9歳と6歳の子持ちになってみると、むしろこんな親の子供に生まれて気の毒だなあと、子供に同情することのほうが多いような気もします。私の実父は、私が二十歳の時に亡くなりました。いろいろ苦労の多い晩年だったように思いますが、死んだときは、くも膜下出血だったのであっという間でした。生きている父と最後に過ごしたのは、いつどういう時だったのか思い出せません。仕事も朝早く、普段から余り顔をあわすこともありませんでした。二十歳の自分に親をおもいやったり、孝行を考えたりするはずもないのは無理もないのですが、親孝行らしいことのひとつもする機会なく、死に別れてしまったことは、今更ながら残念です。母は健在ですが、老いてきています。私と母はあまりウマがあいませんでした。母はうるさ型で、いわばコントロールフリーク、私は一人でほっておいて欲しい方なのです。母が小言を連発している間は、私は黙っているわけですが、それは「うるさいからやめてくれ」というとけんかになるから黙っているだけで、しおらしく説教をきいているわけではないのです。そのうち、私に何の反応もないので、母の小言はますますエスカレートしてきて、じっと我慢しているうちにやがて我慢も臨界点に到達し、やっぱりけんかになってしまいます。「沈黙」の意味を理解しようとしない人に対してこの作戦はむしろ状況を悪化させる一方なのですが、他に手段も思い浮かびません。しかし、このように母の悪口を書いても、母に感謝していないということではありません。自分が年をとると、自分の中に自分の親の欠点があることを、実感させられます。自分が子供にがみがみ言うとき、自分にがみがみ言っていた母を思い出します。それが心から嫌なのですが、かといってそれをコントロールできるわけでもなく、思わず母を責めたくなります。母もおそらくその性向をその両親から受け継いだのでしょうから、結局、誰が悪いというものではもちろんないのですが。私は心の中では、とりわけこうして遠方に離れている間は、母に感謝しているのですが、それを口にする適当な機会もみあたらず、あえて言うのも照れくさいので、何も行動に移していません。それにおそらく実際に口を利いたら数時間後にはけんかになりかねず、結局言わぬが華ということになってしまいそうな気もします。
結局、人と人のつながりというものは、このようなものなのでしょう。弱いようで強く、強いと思っているほど強くもないのだろうと思います。親子や家族の関係であれ、友人や知人の関係であれ、他人の関係であれ、自分がコントロールできるのは自分自身のそれも一部にしか過ぎないのですね。自分が引け目に思っているほど親の方は息子の薄情をどうとも感じていないようにも思います。結局、親でも子供でもみんな自分の人生に忙しいのですから。あれこれ考えては不義理と不孝を詫びず、感謝の言葉を口にしないことへの言い訳を並べているような気になってきました。もう少し年をとれば素直ないい人になれるのかも知れません。
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元気のでる言葉

2007-03-26 | Weblog
歳を重ねてなんとなく先が見えてくると、限られた時間を有意義に過ごしたいと思うようになってきます。しかし、有意義に過ごすとはどういうことかと自問自答するとよくわからないことが多いものです。日一日を思うままに一生懸命生き、その日の喜びも悲しみも苦しみもその日一日で足りるとするような、そんな生き方が理想です。日記は備忘録であったり、反省文であったり、計画ノートであったりするわけですが、一番の価値は、後々に振り返ったときの個人的な歴史資料としてのものでしょう。というわけで、また日記を始めたいと思い、その動機を維持するため、「柳田充弘先生」もされるというブログをはじめようと考えた次第です。

「人生は苦である」とお釈迦様も言われたといいます。この言葉を噛みしめると元気が沸いてきます。日々、百醜千拙、できることを一生懸命やって満足して暮らしていこうという気分にしてくれます。
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