百醜千拙草

何とかやっています

仏の顔も三度

2010-08-31 | Weblog
先日、時々見ている某退官教授のブログに高速道路の話が出ていました。高速道路の速度制限が大変、非現実的な所が多いという話で、それに関して、次のような意見が述べられています。

私はこの制限速度の設定一つを取り上げても、ここに管理者・行政の怠慢を見る。道路は利用者のためのものである。利用者が安全にかつストレスを感じることなく快適に車を走らせることの出来る速度設定を元来は設定すべきである。


私も十年前はそう思っていました。道路は利用者のためのものだと思っていました。交通規則は交通が安全かつスムーズに行われるためのルールだと思っていました。しかし、外国で車を運転したことのある人なら、日本の道路はなぜこんなにも走りにくいのか、と思わない人はいないでしょう。私は単純に道路の幅が狭く、道路を利用する人が多いからだろう、と思っていました。しかし道路だけではありません。日本の都会は住みづらいと思います。数多くの規制があります。その理由を私はやはり人口密度が高いのでトラブルを防ぐためであると思っておりました。

しかし、本当の所はどうもそうではなさそうです。高速道路の非現実的な規制やその他もろもろの細かい交通規則は、交通安全のためでも利用者のためでもどうもないらしいと私は思うようになりました。

警察が年末に収支を合わせるために、ネズミ取りをやったり、駐車違反の取り締まりを厳しくしたりするのは知っていましたし、私もまったく理不尽のレッカー移動にあって、警官に文句を言ったら、「規則ですのでお願いします」と罰金の支払いをお願いされてしまったこともあります。こういうのは、国庫(かどこか知りませんけど)の金庫が寂しくなったときに、手っ取り早く国民から金を巻き上げるためにやっていることで、交通安全とは関係ありません。取り締まる方も多分罪悪感を感じるのでしょう、罰金支払いよろしくお願いしますという年末助け合い運動みたいな口調になるのです。

それはともかく、交通規則やその他の細々とした規則、ついうっかりと違反してしまうようなものが多くありますが、どうもそれは、ワザとそう不条理な規則や環境にしているのだそうです。年末の警察の取り締まりと同じように国民がついうっかりと違反するようなところに張っていて、必要に応じて権力側に都合の悪い人間を捕まえたりできるように、つまり官が民をコントロールする手段として使うために、わざわざ、違反を誘導するような交通規則であったり、道路環境にしているのだそうです。

じゃまな人間がいると、その人間をマークし、ついうっかり規則違反をした瞬間に現行犯で捕まえるわけです。一旦、捕まえれば、例によって密室の取り調べで精神的に追いつめ、ありもしない罪をでっちあげるのが手口です。違反を待っているヒマがない時は、違反そのものをでっち上げます。私服婦人警官が痴漢事件をでっちあげて言論封鎖しようとした植草事件、脱税事件をでっちあげ、検察裏金作りの告発をしようとした三井さんを口封じ逮捕した事件、こういう無法で身勝手な権力側の暴力がまかり通る国、それが日本という国です。 日本は民主主義の国ではありませんし、日本は独立国でさえありません。戦後の政府はGHQがつくったものであり、国家権力は国民を守るためではなく、国民を搾取するために作られたものでした。そして、マスコミ、学校教育を通じた国民洗脳システムが戦後半世紀以上も非常によく機能したために、経済成長が止まって国民がなにかおかしいぞと思い出した数年前まで、われわれの多くは、日本は植民地になったことがない独立国で文化的な民主主義の国だと言うウソを信じてきました。

幸い、国民の多くは既にカラクリに気がついているようです。例えば、先のマスコミによる世論調査だと小沢氏の代表選出馬に国民の7割強が反対しているというデータを出していましたが、インターネットでの調査だと、スポニチの調査では8割が賛成、読売のサイトでも76%が賛成、というマスコミのいう「世論」とは、全く逆の結果になっています。インターネットでの投票だと、電話による調査と異なり、意見誘導できないし、回答相手を選べないからでしょう。マスコミが誘導世論調査でカンさん支持が圧倒的というウソの結論を無理やり導き出して、大々的に反小沢ネガティブキャンペーンをはるのは、官房機密費の毒まんじゅうを喰っているからだけではなく、電波利権という己の利益にもかかわっているからだそうです。なりふり構わない反小沢キャンペーン、やればやるほど、国民は冷ややかな眼で見るようになっているのではないでしょうか。

それで、またまたこの話で悪いですが、今後の民主党がどうなるかですが、優柔不断で保身第一のカンさん、さすがに代表選で小沢氏に勝てるわけがないことはわかっているでしょう。この場は正々堂々と代表選を戦って負けてもらって心から反省して欲しいと思います。鳩山氏も小沢氏も本当は首相はカンさんのまま挙党態勢でやっていきたかったはずです。しかし人を見る眼がなかった。カンさんがここまで無能で自己本位な小市民だとは思っていなかったのでしょう。鳩山氏の仲裁の条件というのは、参院選惨敗を理由に官房長官と幹事長を更迭し、昨年の総選挙で小沢氏が掲げた国民第一の政策が実行できる体制にするという条件をカンさんが飲めば、無投票で代表継続、という話だったようです。当然ながら官房長官と幹事長は反対、ここは一か八か、カンさんの勝利に賭けるしかない、そう思ったのでしょう。官房機密費の数億の支出はその工作に使われた可能性が高いと思います。カンさんは自分が首相でいること(だけ)が本人の至上命題なわけですけど、鳩山氏の仲裁条件では、結局は自分は小沢氏に担がれた傀儡にしか過ぎなくなるし、それに、幹事長、官房長官を切った後の彼らの恨みも恐ろしい、と保身第一の優柔不断が判断を誤らせたのでしょう。これを聞いて鳩山氏も、カンさんの腰抜けぶりに匙を投げたということだと思います。カンさん、代表選が終わったらノーサイドで挙党体制で努力する、とか言ったり、鳩山氏とまた会談を申し入れたそうですが、命乞いですか、見苦しいです。仮に、仙谷氏、枝野氏を更迭したところで、参院選惨敗と総理としての無能ぶりをさらけ出したカンさん、小沢氏は見限っているでしょう。

しかし、小沢氏が代表選出馬をとりやめる可能性はまだあると思います。カンさんと現執行部の全面的無条件降伏で、小沢氏の幹事長ポスト、そして官房長官を小沢あるいは鳩山派という人事という条件を飲めば、カンさんだけは首相に据え置くという可能性は高いです。一度は知った与党の味、首相や官房長官になった人間がおいそれと忘れることはできません。彼らは離党する根性もないでしょう、あきらめて、この条件を飲むかもしれません。政治は数ですから、小沢氏も相手が条件さえ飲めば許すでしょうが、許してもらっても根性が直らないのが小人が小人たる所以で、ダメなものはダメです。仏の顔も三度といいます。小沢氏は許しても国民は許しません。

小沢氏を排除できて、カンさんが代表に残った所で、いずれにせよ、衆参ねじれで、(野党と大連立でもしないかぎり)遠からず内閣は解散、選挙に追い込まれます。あと数ヶ月の命です。「3年間解散はしない」と本人は言ったそうですが、いくら解散したくなくてもせざるを得なくなります。その時に小沢氏は対米自立をキーワードに政界再編を考えているでしょう。

今後のシナリオ1は、代表選を経て小沢総理が誕生、仙谷氏、枝野氏は更迭。その後、衆参ねじれを乗り切るために、やむなく公明党との連立で参院過半数確保を試みる、これが成立しなければ、解散総選挙となって政界再編成へ進む。
シナリオ2は、小沢氏が幹事長ポストと官房長官のポストを握ることを条件に出馬をとりやめ、カン内閣延命。その後の連立模索は同じ。
シナリオ3は、代表選でカンさんが勝つ場合。この可能性は限りなくゼロに近いですが、かつて予想に反して大平氏に負けた福田赳夫氏が「天の声にもたまには変な声がある」と言ったという故事もあることですし、勝負は蓋を開けてみないと分からないので、一応。
シナリオ3、カンさん自爆テロ。自分が首相継続の可能性が話が消えた時に解散権を行使して総選挙。これはありえないと思いますが、カンさんのトンチンカンぶりをみていると、窮鼠猫を噛むで、小市民が追いつめられると何をするかわからない、限りになくゼロに近いが可能性としてあげておきます。
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小沢氏出馬、日本独立へ再挑戦

2010-08-27 | Weblog
亀井大臣、最近出版されたインタビューの中でこう言っています。

いよいよ、日本は滅びの道に入ったのだと思う。昨年末の衆議院選挙による政権交代は、長らくの戦後政治の大転換として、対米自立に踏み出す契機となるはずのものだった。私はそれを「対米自立は神の声だ」「CIAが亀井静香を暗殺しないかぎり、民主新政権はアメリカの言うなりにはならない」と、アメリカにも直接言ったし、『月刊日本』誌でもたびたび表明してきた。だからこそ、我々国民新党は民主党と手を握り、連立を組んだのだ。(中略)だが、今回の「ねじれ国会」によって、再び対米追従路線に政権が引きずり込まれていくのならば、日本はもはや自主自立など望むことはできないのではないか、このまま滅びて消えてなくなるのではないかと考えている。


戦後、アメリカの傀儡として国民を搾取しその富の上前を撥ねた上でアメリカに流す見返りとして「商売する」ことをアメリカに保証してもらってきた組織が、55年体制と呼ばれる自民党と組んだ官僚組織というものでしょう。それでも日本経済が良かった時代は、多少、かすめ取られても、上前を撥ねられても、毎年収入も上がっている訳だし生活も豊かになっていっていたわけで、国民はそう気にもしませんでした。これが市民感覚というものでしょうか。ところが経済が行き詰まり、上前を撥ねるだけでは十分でなくなってきて、今度は国民から搾り取ろうとしました。郵便貯金でアメリカ国債を買う、それが郵政民営化という小泉 竹中のペテンの手口でした。アメリカとその手先であった自民党-官僚組織は日本国民から金を搾り取り、己の利益のために自らの同胞と日本という国を売り渡そうとしていたわけです。

それに反対した昨年の小沢民主党が国民の支持を得て鳩山政権を打ち立てました。私を含む多くの国民が、昨年の政権交代は革命であり、現代の奴隷解放であり、日本の独立戦争となるはずだ、と期待していました。ところが、検察、司法という国家権力、マスコミを総動員し、テロに近い手口で鳩山政権を退陣に追い込んだ後、参院選のための選挙管理のための暫定首相となったカンさんと現民主党執行部は、どうも見識も志も一般国民よりもはるかに低かったようです。現民主党執行部は既に官僚の言うがままのようです。彼らはどうも、昨年政権交代を、55年体制時での自民党派閥抗争と同じ権力闘争の延長であるとしか見ていなかったとしか思えません。カンさんの言動や行動をみていると、この人のゴールが「首相の椅子に少しでも長く座って権力を手にしていたい」という小市民的願望に過ぎないことがあまりに露骨で目を背けたくなります。この方は市民派でしたっけ。この方の市民派は市民のことを考えた政治ではなく、小市民の感覚で政治家をやる、そういうことのようです。余りの志の低さに情けなくなります。

しばらく前、官房機密費が自民党政権時代にマスコミにばらまかれて自民党の宣伝に使われていたことが明らかにされましたが、今の仙谷官房長官、ここ数ヶ月の間に数億の官房機密費を支出したらしいです。使い道はと聞かれて、言うと効果が薄れるから「言えない」とのこと。自民党時代同様に、マスコミ、御用評論家にばらまかれて、反小沢キャンペーンに使われたのだろうと勘ぐるのも当たらずとも遠からずでしょう。

その小沢氏、ついに出馬を決意したというニュース。見るに見かねて、最後は自分でケリをつけるしかないと考えたのでしょう。おそらく、どう転んでももう挙党一致体勢はあり得ないと思います。亀井氏の言うとおり、対米自立派と従属派とに政界は割れ、再編成となる可能性が強くなって来ました。

国家権力、マスコミは対米従属派の味方ですから、小沢氏、代表となり総理となったところで、その後、この苦しい状況で自ら矢面に立って戦わねばならないのは目に見えているわけですし、自分が代表選に出れば、党が割れ、そして再編となれば、また与党となって、日本に民主主義を打ち立てるという氏の目標が達成できるかどうかもわからなくなるという心配もあったのでしょう。氏とすれば、できれば今の民主党で挙党一致で昨年の目標に向けて頑張ってもらえたらよかったというのが本音でしょうが、現民主党執行部が腐ってしまったのを見て、もう保存的療法で病状が良くなる見込みはない、と判断したのでしょう。

今後、どうなるかわかりませんが、小沢氏の代表選立候補は正しい選択です。苦しい選択であるのはよく分かりますし、代表、そして総理になったところで、困難な戦いが長く続くことが予想されます。検察、マスコミは小沢氏を全力で潰しにかかるでしょう。次には連中は、検察審議会を操作して首相就任前に強制起訴も仕掛けてくるかもしれません。しかし、それでももう他に手はありません。そして、もし小沢氏が潰されるようなことがあれば、日本独立も民主主義も実現される可能性は少なくとも後十年は訪れることはないでしょう。本人はそれはそれで仕方がない、自分の意志を国民が理解してくれたらそれで目的の半分以上は達成されると考えているかも知れません。しかし、あと何年も植民地状態に置かれ、困難になる一方の国民の生活を考えたら、ここで小沢氏には何としてでも55年体制の本当の終焉を実現してもらいたい、私も含めて多くの国民がそう願っていることと思います。
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過ちを改むるに憚ること勿れ

2010-08-24 | Weblog
民主代表選に向けて、小沢氏が代表選に出るか出ないかで、マスコミは散々さわいでいます。アンチ小沢を出してきて、ネガティブキャンペーンを張り、メジャー新聞は社説欄を使って、小沢氏がまだ出るとさえ言ってもいない前から、小沢氏の首相就任の可能性阻止のための駄文を垂れ流しています。55年体制の中で甘い汁を吸ってきた既得権者はそれほどに小沢氏が怖いのでしょう。

民主党内での反小沢派の中では、岡田氏と渡部爺の発言に私はとりわけムッとしました。岡田氏は自分の出番を待っているのでしょうが、法学部出身らしいですが「起訴される可能性のある人間が代表選に出るのはどうかと思う」というようなトンでもない発言をしました。起訴される可能性のある人間というのは国民全員のことでしょう。この人は大学にいるときずっと居眠りしていたボンクラなのか、あるいは自己利益のためにわざとこういう怪しい発言をするintegrityに欠ける人間なのか、いずれにせよ大局観に欠け、現職閣僚でありながらいいようにマスコミに利用されるような不用意な発言をする、政治家としての能力に問題のある人には違いありません。渡部爺にいたっては、話になりません。この人の反小沢感情はどうも純粋に「嫉妬」だけによるもののようです。昔は七奉行で小沢氏と肩を並べた時期もあったのに今や彼我の差は余りに大きい、ああ小沢が妬ましいと、この人の発言を聞いているとその醜い妬みの心しか感じません。日本のことも国民のことも考えているように見えません。このままではこの人の人生は、ただただ小沢氏に嫉妬を燃やした一生でした、とでも総括される事でしょう。

マスコミは、首相がコロコロかわるのはみっともないとか、退陣した筈の小沢、鳩山コンビがまた出てくるのはおかしい、とかそういう理屈を上げて、小沢氏の代表選への出馬を牽制しようとしています。このことに関して、論語の言葉がしばらく前から心に浮かぶようになりました。

君子は重からざれば即ち威あらず。学べば則ち固ならず。忠信を主とし己に如かざる者を友とすること無かれ。過ちては則ち改めるに憚ること勿れ。


能力のない者、学ぶ努力をせず変わることを恐れる者、信念や国民との約束に正直でない人間は、首相をやってはいけません。カンさんではダメということですね。そして、過ちを犯したのなら改めることを逡巡してはいけないということです。鳩山民主党は参院選のために退陣しました。普天間で約束を守れなかったことが表面上の主な理由です。その後に、カンさんを首相にしたのが誤りであったことがすぐに明らかになりました。国民との約束であるマニフェストに反することを平気で口にし、経済や防衛について知識が足りないのに学ぼうともせず、首相としての見識に欠けるこの方が、首相がコロコロ変わるのが格好わるいとかいう下らない体裁を気にして、首相に居座り続ける害を考えたら、ダメなものをさっさと変える決断をためらってはなりません。ダメなものはダメです。誤りを正すのに体裁など気にしてはいけません。

小沢氏、党が割れるぐらいなら自分が引くという気持ちでこれまでやってきたのでしょうが、もうそんなことを言っている場合ではありません。義をみてせざるは勇なきなり、首相の能力のない人間はやめさせて、ふさわしい人に入れ替える、それができるのにやらないのではいかんと思います。

余談。
政治漫談の田中眞紀子師匠がカンさんが首相就任した時に言った言葉を最近知りました。
『新しく首相になった人が"クリーンでいきましょう"と言っているが、洗濯屋じゃないんです。クリーンだけで何もできない人がリーダーでいいんですか』

「洗濯屋じゃないんです」に爆笑しましたが、おっしゃる通りです。角栄を売った「クリーン三木」を思い出します。日中国交正常化などの角栄の業績は今でも評価されているのに、三木氏に関しては、角栄を売ったという以外に何をしたのでしょうか。カンさんも引き時を誤って社会に害をなすならば、三木氏と同じように歴史に扱われることでしょう。
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親と子

2010-08-22 | Weblog
最近、百歳以上の老人の行方がわからないケースが問題になっているようです。百年以上もの間、この住みにくい世界を生きて来られたのだということをしみじみ思うと、自然と尊敬の念が涌いてきます。そんなめでたくも有り難い長寿者の人々が、ふたを開けてみれば、三十年も前にふらっと家を出て行ったきり行方がわからない、とこれまた既に老人の子供が言ったりするというような状態なのだそうです。行方不明の、公称百歳以上の老人の殆どはおそらく既に世を去って久しいというのが現実なのでしょう。

昔、植物状態の高齢の患者さんが肺炎を起こして昏睡となった例がありました。治療にも反応せず、呼吸状態も悪くなってきて、主治医もこのまま自然の成り行きにまかせるのがよいのではないか、と家族に話をしたところ、どうしても助けて欲しい、最後まであきらめずに頑張って欲しい、と家族に熱心に言われたという話を聞きました。どうやら、その患者さんに支払われている年金に家族の生活が依存していたという事情であったそうです。その患者さんは植物状態の寝たきりであっても、その年金によって家族を養っていた大黒柱であったわけです。最近の行方不明の老人の場合にもきっと似た事情があるに違いありません。誰かも言っていましたが、例えば、親一人、子一人の老人世帯があったとして、子が親の介護をしている間に失職するなりして収入が途絶えてしまうということがあり得ることは容易に想像できます。そして親の年金が生活に必要不可欠となった段階で、ある日、親がこの世を去ってしまう、そうなれば、その老人の子供は、親を失い、その世話をするという自分の生活を失った上、親の年金という生活手段も同時に失ってしまうことになります。行方不明の老人が多発するという事情の裏には、不十分な社会保障、老齢者介護問題という社会のインフラの不備は無論のこと、なにより30年の間行方不明でもそれが問題として浮上することもない現代社会での人間の孤立があるのでしょうか。

最近のニュースで、住民登録上104歳の女性の白骨遺体が見つかったという事件が報道されました。約十年前に寝たきりとなり、長男が一人で自宅介護していたようですが、自宅でそのころ衰弱死したようです。
以下は読売の記事から。

長男は当時、無職で収入がなく、同署に対し「病院に行こうと言ったが、(三石さんに)断られた。金がなかったので、遠慮したのだと思う」と話しているという。
 長男は04年5月、それまで押し入れに隠していた三石さんの遺体を風呂場で砕き、リュックサックに入れて転居先の大田区のアパートに持ち込んだとされるが、アパート2階の自室には、父親の位牌の隣に三石さんの写真が飾られていたという。
 長男は死亡届を出さなかった理由についても「葬式代がなかった」と話している。同署では、骨のDNA鑑定などで身元の特定を進めているが、背景には、三石さんと長男の生活困窮があったとみている。

私、この親子がどのように最後の日々とその後を過ごしたのか想像して、切なくなってしまいました。この母親は衰弱していくなかで、どんな気持ちで病院に行くことを拒んだのでしょう。葬式も出すことができなかった長男はどんな気持ちで母の骨を砕いたのでしょう。

この事件は、悲しくもありますが、心に触れる(こういっては誤解を生むかも知れませんが)美しい話でもあります。例え立派な葬式を出そうと、老人病院のベッドの上で一日中窓から空を見上げて過ごし、家族は半年に一回しか面会に来ないで、亡くなって行く人もいます。この母は長男に介護され、衰弱の中で病院に行くと金がかかるからと、それを拒んでそっと死んで行きました。長男はその母の遺骨を自ら砕いて父の位牌とともに持ち歩き、自室には母の写真を飾りました。
この話に私は、何か人間が生きるということの本質とでもいうようなものを感じるのです。
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覚悟を決めて立って欲しい

2010-08-20 | Weblog
このブログは、普段合わない人へ私のバイタルサインの一つとして、それから私自身の気晴らしのために書いているのですけど、最近、書きたい話がありません。書いても気が晴れないような話が多いです。

日本の社会のニュースに明るい話が見当たりません。昨年は政権交代のかかった期待の選挙があり、そして政権交代を果たしました。国民の期待は大きかったですが、半年余りで潰されてしまいました。暫定首相となったカンさんはバルカンなのか風見鶏なのか、政策や国民のことよりも自分の保身のことしか頭にないようです。前任の鳩山さんがあのような潰され方をしたのだから、保身第一になるのもやむを得ないとも言えますが、国民は正直、カンさんには代表選を期に消えてもらうことしか期待していないでしょう。自民もダメ、民主もダメとなってしまった今の状態で希望が見えません。

今度の民主党代表選で小沢氏が出るとかいう話でもあれば、面白くなると思うのですけどどうでしょう。これまでも小沢氏、なる気があれば総理大臣になる機会は何度もあったのに、何故か自分で先頭に立つのを嫌って、結局、いつも誰かを担いで、そして短期間で潰れることの繰り返しでした。選挙では神様でもその後の政党をまとめることがどうもうまくないような感じがします。選挙で勝った後も自らリーダーとして強引にでも政党をまとめていかないと特に民主党のようなゴッタ混ぜで未熟な党ではダメなような気がします。最後まで先頭に立つ気がないのかも知れませんけど、今度は担ぐ人もいませんし、担いだ所で、例によって潰されてしまうのでしょうから、ここは是非とも自分でやって欲しいものだと思うのですが。

最近、NHKの影山解説委員が死亡するという事件がありました。自殺ということになっています。野中広務が暴露した官房機密費がマスコミ、政治評論家に回っていたという話が、その死に絡んでいると多くの人が思っているでしょう。NHKの関係者は死亡の理由を皆知っているそうですが、箝口令が敷かれているとのこと。ネットの時代になって、これまで表に出てこなかったような情報が(ガセネタも含めて)広がるようになりました。NHKでは9年前にも9-11のテロに関する情報を掴んだ解説委員が敷地内で転落死するという事件もあったそうです。ここ数年を振り返っても、自殺ということで処理されてきた政治家や政治家に関係のある企業人の変死が相次いでいます。日本は安全で文化的な文明国であると私は教えられてきましたが、どうもそうではないようです。

小沢氏が先頭に立つのを嫌うのもその辺のことがあるのかも知れません。現に、民主党代表時代に選挙前に露骨に仕掛けられた西松事件で代表を降りたのは、政権交代を目前にして身の危険を感じたのかも知れません。政権交代を成し遂げて参院選に勝利し、政治改革をするという悲願の達成のためには、ここで死ぬわけにはいかんと考えたのでしょう。しかし、誰を担ごうと、敵は小沢氏を狙い撃ちにしてくるのですから同じ事ではないかと思うのですけど。

新聞は次の代表選に小沢氏が出るか、出ないか、噂話を毎日のように報道していますが、他に報道するべきことはないのですかね。そんなことはあと数日すればわかることで、小沢氏の代表選出馬が決まってから報道すればよいことでしょう。小沢氏には出て欲しくないと思うマスコミの世論誘導の一環でしょう。それより、普天間の問題はどうなったのでしょうか。鳩山氏が辞任して社民党が参院選で負けて、ぱったり話題にも上がらなくなりました。マスコミにとっては、所詮は鳩山民主党を批判するためだけのネタにしか過ぎなかったのでしょう。それにしても日本のマスコミの劣化ぶりには目を覆いたくなります。

小沢氏の代表返り咲きは民主党政権に対する一般国民の最後の望みといってもいいのではないでしょうか。私も、ここは一発、背水の陣で覚悟を決めて立ってもらいたい、と思います。とにかく今の執行部では話になりません。
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謙虚に誠実に

2010-08-17 | Weblog
コンピューターに向かって書き物をしていると、後ろから話かけられました。振り向くと、見知らぬ人が同僚と一緒に立っていました。紹介されて、その見知らぬ人が、私と同じマウスを作ってしばらく前に某分子生物学雑誌に論文を発表した人だということがわかりました。オーバーラップする分野にいながら、所属学会も違うので、名前は知っていてもお互いに直接会ったことはありませんでした。相手は私の数年前の仕事は知っていたようですが、今回、同じマウスを作ったことは知らないようでした。私もまだ投稿前ですし、彼らの論文の一部と合致しないデータを持っていますので、そのマウスのことには触れず、にこやかに当たりさわりのない話をして、最後には一緒に写真まで撮って別れました。実は、私と共同研究をしているグループが全く別のネタで、彼のグループとどうも競争状態にもあるようです。私も少しかかわっているので、ダブルで彼とは利害関係があることになります。研究の世界は狭い世界なので、プロレスとか政治のように、お互いに仲間であると同時にライバルや敵であったりもするわけですね。同じネタで競合するというのは、同じ人間、思いつくことは皆同じということなのでしょう。最近作った別のマウスもその世界の大御所に似たようなマウスをつい最近発表されてしまい、また苦しみそうです。金も力もない凡人の私が、誰もが考えつくことをやっていては勝ち目はないなあ、とつくづくと思いました。

引き受けたグラント審査をぼちぼち、やりはじめました。4つのうちの一つは患者サンプルを使ってのマイクロアレイによる発現解析、二つ目はtandem MSを使っての蛋白の包括的定量解析をプロポーズしています。三つ目はゼブラフィッシュ胎児を使っての大規模薬剤スクリーニングです。こういうのはグラントとしてはまずダメです。しっかりしたネタがないので、とにかくデータが出て「何かが当たるかもしれない」実験を申請するわけです。大量にデータがでれば何か当たるだろうという考えの人は、当たらなかったらどうするか、というようなことは大抵考えてないものです。この手の実験をグラントに出してはいけないというわけではないのですが、出す場合は「やれば必ず価値のある解釈可能なデータが出る」という根拠を示した上で、それでも外れたらどうするかについて説得力のある説明を加えないといけません 。データは解釈できなければタダのゴミです。これら三つのグラントには、予想通りその辺のことは何も書いてなくて、やったら新しい発見ができて疾病の治療に貢献するはずだ、というような都合のよいシナリオが書いてあるだけです。実際はやっても何も発見できず、手ぶらに終わる場合が9割以上でしょう。これでは、「宝くじをいっぱい買えば、大当たりを引いてお金持ちになって、世界一周旅行に行ける」と言っているのと大差ありません。宝くじをグラントで買おうとしてはいけません。

そして、問題は残りの一本のグラントで、繰り返し読んでみても、何がプロジェクトのゴールなのか、そのためにどういう実験をするのか、そのゴールが達成されたらどういう結論が得られるのか、その結論はどう有意義なのか、という最もグラントにおいて重要な点がさっぱりわかりません。そのわかりにくい文章を解読すると、どうも計画の半分は過去の知見を単純に追試するだけのようで、あとの半分は、やはり仮説なしの「当てもん」実験をやりたいようです。これでは「ハシにも棒にも」のレベルです。しかし、コメントを書かねばなりませんから、とりあえず、何が言いたいのかわからない文章を理解しようと、貴重な朝夕の通勤時間を費やしているうちに、だんだん腹が立ってきました。私だって9月の小さなグラントもあるし、何より自分の実験や論文のことで忙しいのに、と怒りが涌いてきました。しかし、私の論文やグラントを見てくれた人も、同じように腹を立てたこともあったに違いないと思い直しました。お互いさまですから謙虚に誠実に勤めます。

それにしても、「英語だとストレートに表現する」とか言っていたどこかの社長がいましたが、それはウソです。このグラントは英語版ハナモゲラ語に近いと思います。ちなみに、「ハシにも棒にもかからない」は、英語ではどう言うのかなと思って調べたら、「hopeless」と出ました。これではちょっと身もふたもないなと思ったので、「身もふたもない」を調べてみたら、「brutally honest」とありました。身もふたもない訳です。

人生の時間は限られているのだから、「これは、面白い」とうならされるようなグラントや論文を読みたいものです。
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自殺について

2010-08-13 | Weblog
円相場、一ドル84円台、15年ぶりの円高ドル安だそうです。アメリカの景気先行きの不安で円買いドル売りが進んだせいである、というようなことが書いてありますが、本当でしょうか。アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひくわけで、アメリカ経済が悪くなる一方で日本経済は上向きになるというような都合のよい話はないでしょう。このニュースは同日の、アメリカの6月の貿易赤字が前月比で18.8%ふえて、499億ドルとなり、二年ぶりの高水準であった、というニュースとセットになっています。貿易収支を黒字転換したいアメリカにとっては、ドル安でなければ困るということでしょう。ならば、当分円高ドル安は続くのでしょうし、結果、日本の輸出企業は痛手を受け、そのしわ寄せは中小企業に及ぶことになるのでしょう。そして、日本経済のますますの凋落、税収の落ち込み、社会保障の低下、消費税増税と、暗い成り行きを想像させます。

15年前の円高だった時代といえば、日本では、阪神大震災、オウムの地下鉄サリンテロがあった頃です。その後、日本経済は本格的に沈滞、小泉自民党の馬鹿げた経済政策もあって、あっと言う間に日本は世界最大の借金国となり、格差が拡大し、年間3万人以上が自殺する国となりました。

この年間3万人以上という自殺者の数については、トニー四角さんのブログ記事(http://d.hatena.ne.jp/Tony_Shikaku/20100805/1281008868)によると、イラク戦争での民間人死亡者数を遥かに超えているそうで、また日本の10万人あたりの自殺率は東欧5国についで世界第六位だそうです。3万人という数は自殺である証拠がはっきりしている場合に限ったもので、日本では年間10万人以上変死があって、その内の少なからずが自殺であろうと推測されているらしいですから、実際に自分で自分の命を断つ人は相当な数です。

最近、読んでいるRandi Noyesという人が書いた「the Art of Leading Yourself」という本の「Responsibility」という一節の中に、人間が負う多くの責任の中で、第一に、人は自分の命(と人生)に責任を持たなければならない、というような事が書いてあります。人間が自分の精神と肉体に気をつけて健全に生きていくのは、選択ではなく責任(義務)であるということだと思うのです。

今の社会の真ん中あたりを形成する世代は、遭遇する問題の責任を自分の外に求める傾向が強いらしいです。自分が幸せでないのは、社会や親や学校が悪い、と責任探しをするのだそうです。国や社会や親は自分が幸せに生きることを保証する義務があるとでも考えているのだそうです。その一方で、自分の命は自分のもの、自分が何をしようと自分の勝手だとも考える傾向も強いようです。例えば、自分が満足な職につけないのは、社会が悪い、学校が悪い、先生が悪い、とまず外部に問題を探し、なおかつ思うようにことが運ばなければ、今度は他人に無差別に危害を加えたり、あるいは自殺を図る、そういう行動パターンをとる例が見られます。

自分の問題を外部の誰かの責任であると考える人と自分の命を断つのは自分の権利だと考える人は重なりがあるのではないでしょうか。自分の命や自分の体が自分のものという考え方がまずおかしいのだと私は思います。

昔の中国では死ぬことを「借りを返す」と表現していました。命のやどる肉体は借り物であり、死んだらそれを返すものだと昔の人は考えていたのでしょう。だから、自分の命を慈しみ、大切に体を使うのは、借り主の「責任」であって、それを自由勝手にするものではないという考え方があるわけです。自殺が重い罪であるのはそういう理由だと思います。

もちろん社会が過ごしやすく豊かであり誰もが幸せを感じられるような場所であれば、自殺者や薬物中毒になって借りものの肉体を傷つけるような人は少なくなるでしょう。外的な理由はもちろん自殺の動機の第一であろうと思います。経済苦に自殺する人が多いのは国の社会保障や経済環境が悪いのが原因であろうとは容易に想像できます。しかし、最終的に自分で自分を殺すことを決断するのは自殺者自身であり、その決断がなければ自殺は行われないのですから、いくら外的条件がその人を追い込んだのだとしても、それが自殺そのものを引き起こしたわけではありません。

何らかの問題があったとして、その問題を最終的に解決できるのはその人自身に他ならないし、同じ理由で他人を自分の思うように変えることは非常に困難である、ということに気づけば、自分の問題のために、社会や学校や先生の責任を問うたところで、問題はまず解決しないだろうというのは容易に推測できます。(もちろん構造的な問題がある場合に声を上げることは大切なことですが、それが問題をすぐに解決してくれることはありません)
結局、自分の問題は自ら解決するしかなく、それは大抵の場合、外部ではなく自分の方が変わることによってでしかなされません。残念ながら、他人を非難して他人を自分の都合の良いように変えようとする方を選ぶ人は多く、外部の環境を受け入れて自分がそれに沿って自分の方を変えようと思う人は少ないようです。

自殺という行為は、自分を変える努力と自分の命への責任を放棄することだと私は思います。近年、自殺者がふえているという事実は、生命や社会に対して自らが負うべき責任というものに注意が払われなくなってきたためではないのかと思うのです。
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英語社内公用語化の意図

2010-08-10 | Weblog
しばらく前に、英語を社内公用語とした会社の話を聞いたとき、それについて私は、きっと文書を英語にするだけで、まさか、口語コミュニケーションまで英語でするようなバカなまねはしないだろうというような事を書きました。その後、ユニクロの場合の社内英語公用語化は、非日本人雇用者を増大させグローバル企業として(脱日本化して、金儲けに集中するため)の戦略なのだ、という話を聞いて、暗い気分になりました。

先日のニュースでは、社内公用語として英語を採用したもう一つの会社、楽天の社長が英語で決算発表し、それに対して日本メディアが英語で質問した、という何とも気持ちの悪い話が出ていました。社長も社長ならメディアもメディアです。
そのニュース。

楽天の三木谷浩史社長は5日、2010年6月中間連結決算の発表を英語で行った。12年3月までにグループ内の公用語を英語にする方針をすでに表明しており、自ら「公用語化」を実践した形だ。
 三木谷氏は、本社で開いた約1時間の会見を英語でスピーチ。同時通訳が日本語に訳した。質問した記者7人のうち、日本メディアを含む5人が英語で質問した。
 英語を使う理由について、三木谷氏は「我々の最も重要な施策はグローバル化だ」と説明。「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいになる」とし、仕事の効率が上がるとも強調した。
 日本人同士の意思疎通で混乱はないのかとの質問については、「英語をしゃべらないといけない環境を作っている。今は日本語で補足しないといけない場面もあるが、1、2年後には全社員が流暢(りゅうちょう)な英語が話せるようになる」と、最後まで英語公用化の意義を力説した。


はて?私はこの人の理屈が理解できません。この人は、三点の意見を述べています。「最も重要な施策はグローバル化である」、「英語はストレートに表現するが、日本語だとあいまいだ」、「1、2年後には、全社員が流暢な英語をしゃべれるようになる」。そのそれぞれについて、私は強い異議を感ぜずにはおられません。私はグローバル化は滅びの道への第一歩であると信じております。仮にこの社長がグローバル化が大切だと信じていたとして、日本人社員が流暢な英語を喋れることとグローバル化にどれほどの関係があるのか、まずはその辺りを示してもらいたいものです。最近、ポーランドで、ポーランド語が全く喋れないが、多くのポーランド人を使って、企業展開している日本人社長の話を聞きました。また、アジア諸国では昔から現地の人を使って仕事をしていますが、そういう会社の日本人社員のどれぐらいが現地語に堪能だと言うのでしょうか。想像するに現地語(または英語)を使えることとその会社のビジネスとしての機能には大して相関はないのではないでしょうか。英語(とくに口語英語)とグローバル化がこの企業の場合、どう繋がっているのか、仮になんらかの関係があったところで、社員が英語がしゃべれることが、どのように会社や社会にプラスになるという計算しているのか、その辺を知りたいものです。

第二に、「英語はストレートで日本語はあいまいだから、仕事が進む」という理屈もおかしいと思います。英語だとストレートになるのは、言語そのものの問題ではなく、言葉を使う人間が十分英語を使いこなせないから遠慮のない表現になってしまう、ということではないでしょうか。現に、ネイティブの英語話者はしょっちゅう言語明瞭意味不明瞭をまくしたてます。英語の表現力、理解力に限界があるから曖昧な表現ができなくて話がストレートになるという理屈ならば、英語の表現力に限界がある人間 が英語でコミュニケーションする危険というもの同様にあるのではないかと思います。例えば、質問に対して YesかNoで答えるような単純な場合でも結構危険だと思います。英語では、続く文章に否定語が入れば、文脈にかかわらず、自動的にNoですし、続く文章に否定語がなければ自動的にYesです。例えば、「日本企業の英語公用語化は良くないですよね?」と訊かれて、「はい、良くないです」と答える場合は、”No, it is not good”であり、例え問いの意味そのものに賛意を持っていても、”Yes, it is not good”と言う英語は文法的にあり得ません。すると、否定語の入った質問に日本語感覚でYes, Noで答えようとすると、しばしば、まったく逆の意味で伝わってしまうというようなことも起こりうると思います。

第三に、1、2年で全社員が英語を流暢に話せるようになるという点において、「流暢に英語が話せていったい何が良いのか」という反論はとりあえずおいておくとしても、しゃべる方は、ある意味、台本を暗記すればよい訳ですからトレーニングすれば話せるようにはなるでしょうが、問題なく英語が聞き取れて非日本語話者との間でコニュニケーションになるかどうかはまた別問題であろうと思います。ふつう、聞き取りの方が話すことよりももっと難しいと思います。現に我々がどのように話し言葉を聞いて理解しているかを考えたら、言語が聞こえて全ての単語が明瞭にわかっても文意を理解することはしばしば困難です。多くの場合、会話のコンテクストの理解があって始めて、文章の理解が可能になるのだと思います。逆に言えば、コンテクストさえ理解できていれば、文章のうちの最も重要な一つ二つの単語さえ聞き取れれば、意味はほぼ正しく想像することができるということです。言語によるコミュニケーションは、言うまでもなくその言語が話される文化や歴史的背景の知識なしでは成り立ちません。例えば、私が読む英文の科学論文をそのへんのNative speakerである一般アメリカ人が読んだり聞いたりしてもチンプンカンプンでしょう。これは極端な例ですが、文化背景を共有していないものどうしのコミュニケーションはいくら使用される言語が共通でも困難です。

この会社が英語を社内公用語化した理由には二つの可能性があると私は思います。
一つ目は、この社長が、英語を社内公用語とすることで、会社がグローバル化し、海外の顧客を引き寄せ、会社の利益に上昇させる、と本気で信じている場合です。この場合は処置なしです。どうぞご勝手にとしか言うしかありません。
第二に、私はこちらの方の可能性が高いと思っているわけですが、グローバル化というのは必ずしも海外でのビジネスを促進するという意味ではなくて、会社を「非日本企業化」するという意味である場合です。

会社にとって最も大きな支出はおそらく人件費でしょう。そして、人件費の削減が短期的には会社の収益を上げる最も簡単な方法です。英語が社内公用語となれば、社員の勤務評価にもう一つの妙な基準が導入されるということになるわけです。つまり、社員は英語の出来、不出来でも評価されるようになるということです。「英語の出来が悪いので、グローバル化を目指す当社に向かない」という理由で昇給、昇進が見送られたり、ヘタをするとクビを切られる例も増えるでしょう。「グローバル化」を口実に日本人社員のクビを切って、安くてクビにしやすい外国人労働者で入れ替えるというようなこともするかも知れません。そう考えると、こういう新しい「しばり」をわざわざ導入するのは、実は、従業員を使い捨てにしたい会社経営者や株主の都合なのではないかと勘ぐりたくなります。

勘ぐりどおり、このハーバード出らしい社長が、自らの会社の同胞たる日本人従業員を英語という言語をツールに使って支配しようとしているのなら、これは恥ずかしくも悲しい話です。この社長、外見はコテコテの日本人の顔をしていますが。

いずれにしても、こういう企業は、日本企業を半分やめたようなものですから、政府も税金をがっちり取り立てて、財政再建の足しにでもしてもらいたいものです。
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成長なき再建

2010-08-06 | Weblog
最近、どちらを向いても明るい話題に当たりません。貧すれば鈍する、景気が悪いと気分も暗くなります。金は多くの人の悩みの種であるのは間違いないでしょう。日本はこれからしばらく前のヨーロッパ諸国のようにスローダウンしていくのでしょう。「ものづくり」を極めて、安くて高品質のものを外国に売ることで、日本経済は発展してきしましたが、そのモデルは人件費の安い国々に採用されてしまい、だんだん競争に勝てなくなってきました。高齢化が進み、新しい儲けのパターンも見いだせないのに、政府は「経済を成長させる」とかいう出来もしないことを未だに言っています。経済成長は止まって30年経っているのですから、いい加減、成長しないことを前提に政策を議論すべきではないでしょうか。どうしたら経済が成長しなくとも、国民が何とか喰っていけるのかを考えるべきで、成長しない経済を何とかしようとしている間に、食い詰めた人々はどんどん死んでいきます。

そう考えたら、贅沢はやめて自給自足できるようにすることがまず思いつくと思うのです。政府はこの自給自足方針を嫌うでしょう。これはますます経済活動が縮小し、国の税収が減って、国の多くの機能が損なわれることになり、結局、世界の二流国へ格下げになるということですから。しかし、上れば下るのがあたり前です。株価と同じでいつまでも上がり続けることはありません。下がればまた上がる日も来るでしょう。だんだんと贅沢しない小さな生活に慣らしていけば良いのではないでしょうか (と、思うのですけど)。

農業の技術が随分進歩して、少ない面積で効率よく安定して作物が取れるようになり、農作物の供給は昔から比べたらずっと良くなったことでしょう(にもかかわらず、7/29/10号のNatureでは、発展途上国での栄養失調にある人の割合はいまだに15%以上あり、ここ数年は増加傾向にさえあることを伝えています)。衣類もその他生活必需品にしてもそうではないでしょうか。昔に比べて、日本人の衣食住が比較的容易にずっと安価に手に入るようになっているのに、経済苦を理由に自殺する人が後を断ちません。なぜでしょうか。一方、満足に食べることができない栄養失調の子供が5割もいるようなインドやアフリカの国々で、経済苦で自殺という話は、私は聞いた事がありません。経済苦で自殺するというのは、人が生きていくための手段を「金」に頼りすぎている現代日本のライフスタイル、即ち生活の資本主義化から来ているのだろうと思います。

昔は、近くの親類、ご近所さんとの間でモノや金を融通し合うのがあたり前だったのではないでしょうか。リソースをある人からない人へ融通することで、助け合う、またそうすることで無駄も省けます。長屋の住人のように小さな共同体があってメンバーは助け合い、弱者の面倒をみる、いわば「究極の地方自治」が昔はあったという話を聞きます。あいにく、私が子供のころには、既にすっかり経済第一主義で、人間の活動の多くの部分で金の仲介を必要とするようになっていました。煩わしい近所付き合いに時間と労力を割いて助け合うという形より、必要に応じて金でサービスを買う方が後腐れがなくてよい、と人は考えるようになりました。そのうち人間関係ですら「金で買えないものはない」という拝金主義が跋扈し、家庭は核家族化し、人々は孤立していきました。人々の結びつきが希薄になり、故にますます人々は金に頼り、そして逆に金に支配されるようになってしまいました。このようなことは私があらためて言うまでもありません。資本主義社会での人間の孤立、人間が金に支配される傾向に対して、ずっと批判がなされてきましたが、残念ながら、一旦、動き出して加速がついてしまったシステムを止めるのは容易ではありません。

日本では、人はますます都会に集中しています。そして、昨今の経済状況では、都会で孤独に生きる人々の不安とvulnerabilityはますます増大していっているのでしょう。金がないと幸せになれない、と人々は思っているのではないでしょうか。そして、金を得るためには、田舎で農業や小さな商売をするよりも、都会で働く方がよい、そういう理屈で人は都会に集まるのではないかと思うのです。あいにく、都会では本当に金がないと生きて行けません。金のためにイヤでも働かざるを得ません。そして都会では病気やリストラで収入の手段を失うと一気に破滅まで突き進む人も出てくるのでしょう。

財務省に丸め込まれて、怪しげな増税プランを口走り、参院選惨敗を招いた(とんちん)カンさん、財政を立て直す、と就任時に抱負を述べました。先の参院予算委では、「経済、財政、社会保障を一体に考え、成長から財政再建につなげていく」考えを述べたそうです。これだけだと具体的に何をしたいのか分かりませんが、経済成長がどうも鍵のようです。しかし、政府が何かしたからといって経済がそう簡単に成長するのですか、と聞きたいです。政府ができるのは、規制緩和と大企業優遇税制ぐらいでのもので、それは結局、カツカツでしのいでいる中小企業にますますしわ寄せし、弱者により多くの犠牲を強いることになるのではないでしょうか。成長、成長と言うが、そもそも経済成長が止まって30年という事実をどう考えているのか聞きたいですね。

ところで、この方は「最小不幸を実現するのが政治の目的だ」などということを言っていますが、私、正直、この言葉にこの人の政治家としてのセンスのなさを感じざるをえません。「最小不幸社会」と言うと、幸せとか不幸とかいう主観的な感じ方の量について言っているように聞こえます。しかし、世間には、貧乏で病気で天涯孤独でも幸せな人もいるでしょうし、逆に物質的に恵まれていても不幸せな人も大勢いるわけで、幸せや不幸は心の持ちようですから、それを政治家がなんとかできるものではありません。政治家が国民に喋る時はもっと具体的で客観的な指標を使って語るべきでしょう。 例えば「国民の生活が第一」という理念です。「最小不幸」とは何割の国民がどの程度の不幸さであれば達成したと言えるのでしょう。それよりも、国民全員の生活が保障される社会を目指す、とは言えませんかね。
話がズレました。

今の政府は、材料を輸入して加工して売る、昔の工業立国のビジネススタイルに他の後発諸国の追い上げで、限界が見えて来ているのに、一昔前の経済成長を前提とした国づくりを未だに目指そうとしていると見えるのです。それではジリ貧というものだろうと思います。経済さえ成長したら、そして税収が上がれば、国民も幸せになって財政再建も進む、という短絡的なタラレバ思考を離れて、もっと客観的に現実を見て、国のあり方を考えれませんかね。どんな計画にもプランBが必要です。経済が成長しなかったらどうするのか、その時の計画を聞いたような覚えがありません。研究申請書なら、バックアッププランが十分、議論されていないグラントはまず落とされます。

経済成長のない社会のあり方を考えたら、私は、食料自給率をもっと上げることが第一にすべき事だろうと思います。そして、地方、とくに農村の振興、地方への分権が第一に考えるべきことだろうと思います。国民生活に直結する部分の中央政府の役割を限定し、 教育、福利厚生などはできるだけ地方自治に任せるようにしたらよいのではないでしょうか。つまり、霞ヶ関を解体し地方に機能を分散し、各自治体にオートノミーを持たせるようにするのがよいと思います。もちろん、政府も官僚も自らの利益のために中央集権を維持したがるでしょうから、実現は難しいでしょうけども。
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イタリアのグラント

2010-08-03 | 研究
先日、イタリアの厚生省(Italian Ministry of Health)から、グラント審査依頼のメールが来ました。私、最近、主筆の論文を出しておらず(努力はしているのですけど、、、)、論文やグラントのレビューの依頼も随分、少なくなっていましたので、最初は、SCAMかと思って危うくゴミ箱に捨てるところでした。

どうもイタリア政府に、労働-厚生-社会政策省といものがあって、その内の厚生(保健)部門の中に、Department of Innovation(科学技術開発部といったところでしょうか)、保健技術研究総局とでもいうような組織があって、そこが生命科学研究グラントを担当しているようです。

イタリアの生命科学のレベルはお世辞にも高いとは言えません。しかも経済困難と官僚主義で、高学歴の人間がマトモな職に就くのも難しいと聞いたことがあります。知り合いのイタリア人は医学部を出ているのですが、当時は大学教官職は永久職であり、ポストがとにかく少ないのだと言っていました。彼女は教官職をオファーされたらしいのですが、そのポストでさえ年収が当時で100万円ほど、とっても大学教官では食べて行けないと、国を後にしたのでした。その後、EUが成立してから、イタリアも多少マシになりつつあるようです。数年前には欧州分子生物学研究所(EMBL)がローマ郊外に立派な研究所をオープンし、アメリカ人教授が招聘されたという話も聞きました。しかし、ドイツ、イギリスと言った国に比べると、まだまだ見劣りがします。ローマ帝国、ルネッサンスとイタリアはかつて世界の中心であり、現在も芸術や文化の点では一流なのに、科学技術はイマイチです。科学研究という地味な活動がラテンの人には合わないのでしょうか。

それはともかく、イタリアも科学政策はこれまでの官僚主義ではイカンと思っているようです。それでイタリア厚生省は、アメリカの国立衛生機構(NIH)のグラントの評価様式を取り入れることにしたらしく、英文で申請書を提出させて、研究セクションごとにレビューアを割当て、スコアをつけるというやり方を始めたようです。官僚主義を排するためか、あるいは国内のレビューアプールが乏しいのか、その辺の事情はわかりませんが、そのレビューを国外にアウトソースしているようで、それが私にも回って来たということのようです。

アメリカの場合、NIHのレビューアを一定年数つとめることが、Professorへの昇進条件になったりしていますから、レビューアは負担は大きくても、研究コミュニティーのため、そして自分の昇進のために、依頼があれば、基本的に無償で引き受けると思います。一方、こういう外国のグラントの審査には、そういう見返りが乏しいので、それは研究者としての善意とお互いさま意識(良く言えば使命感)で引き受けることになります。以前、イギリスとイスラエルのグラント審査を引き受けたことがありますが、勿論、ボランティアでした。ところが、今回のイタリアからの依頼は、一件につき50ユーロを支払うとあります。太っ腹です。全部でどれぐらいのグラント申請がなされるのか知りませんけど、例えばアメリカでは通常タイプのグラントは、年間8000本位が与えられていると思います。採択率を20%と仮定すると、年間、4万本のグラント申請があるということです。仮にイタリアの科学規模がアメリカの十分の一と仮定しても年間4000本の申請があるわけで、一本の審査に50ユーロかければ、審査費用だけで20万ユーロという結構な金額になります。

あるいは、払うと言って払わずにスカシ逃げるのかも知れません。イギリスの発生生物学の雑誌、Developmentは、レビュー依頼メールに、論文レビュー一本につき、25ポンド支払うと書いてあります(今はどうか知りませんが)。そしてその報酬の支払い方法について、一つは小切手で支払う、二つめは25ポンドの代わりに同出版社が出版する書籍のどれかを無料進呈する、三つめは科学研究のための財団に寄付する、という選択肢が書いてあって、さらに「多くのレビューアは三つ目を選択します」という意味の注意書きが添えられています。多分、本当に多くの人はレビューで報酬をもらうことに後ろめたさがあるのか、「寄付する」を選ぶのだと思います。(本当に寄付しているのかどうか知りません)私は一度、欲しい本があったので、寄付の代わりに本を選択したことがありましたが、結局、その本はいつまで経っても届きませんでした。以来、その雑誌からのレビューの依頼は来ません。

そのイタリアのグラント申請、若手研究者が対象と書いてありながら、引き受けた申請書のレジメを見ると、皆、中年です。官僚主義でまだまだ主任研究員となる若手が少ないのではないかと想像します。あるいはイタリアの研究資金事情が悪いので、とにかく数打ちゃ当たる戦略で若手でない人も応募しまくっているのかも知れません。数年前、EU加盟国の研究者を対象に研究グラントを出したところ、イタリアからの応募が最多で、その採択率は最低だった、という話を聞いたことがあります。これも研究資金が適正にイタリアの研究者に分配されておらず、多くのイタリア研究者が金に困っていることを示しているのだろうと思います。

そのイタリア厚生省のグラント申請書には、申請者の発表論文のリストの所に、雑誌のインパクトファクター、論文の引用回数、申請者の"h index"が記載されていて、正直、驚きました。"h index"は最近よく使われるようになった業績評価の指標で、例えば"h index"が5の人というのは、論文引用回数が5回以上の論文を5本書いたということです。つまり、"h index"は論文数と引用回数を一緒に評価するための数字です。私は前から研究生産性の評価を数値化することに批判的なのですけど、とりわけ、こんな数字はグラント申請の審査には全く必要ないものだと私は思います。申請者が研究遂行能力があるかどうかを見る助けとして、論文リストは参考にはしますが、その論文の掲載雑誌のインパクトファクターや、ましてや、本人の"h index"など知っても意味はないと私は思うのです。それよりも申請書の中身をちょっと読めば、その人の実力は自ずとわかりますから。

あいにく、引き受けた四つの申請書をザッと見た所では、どれもパッとしません。私の考えるよいグラント申請書とは、1) しっかりした根拠に基づく具体的な仮説が設定してあり、2) その仮説の証明のために実験法とその結果の予測と解釈についての議論が緻密になされており、3) 研究が不成功であった場合にそなえて良いバックアッププランが提示されていて、4) 予備データなどで研究のfeasibilityが示されている、もののです。この4つがしっかり押さえらているグラントは読む方も気分が良いです。残念ながら、今回の申請書はもっとも大切な最初の条件でさえ、ろくに満たしていません。実際の研究においては、重要な知見というものは、上のようなプロセスで発見されることは稀で、多くは思いがけないような偶然で見つかるものだと思います。しかし、だからといって、その偶然を当てるためにとにかく闇雲に思いつきでやってみるから金を下さい、という理屈はグラントの申請においては通りません。審査は、申請者が研究についてどれだけ深く考えており、そして思いがけない結果が出た場合にも十分対処できて、何らかの意義のある結果を導き出すための準備があるか、つまり金を与えるに価する研究者かどうか、を見るものですから、仮説からして無理があるような研究申請では、話にならないと思います。

また、どうでもいいことですけど、これら4人のイタリア人が同じような英語の誤りをするのが興味深いです。不可算名詞を複数にする(例えば、evidences)とか、名詞を形容詞化した時に複数形にする(例えば、16 years-old male)という誤りが何故か共通して見られます。イタリア語と英語との間での文法での違いでしょうか。

追記。Evidenceはごく稀にevidencesと可算名詞として使われることがあるそうです。Evidencesと複数にするのは主に創造説を信じる教会関係の人に限られるそうですが。
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