百醜千拙草

何とかやっています

大学人の言動には社会的責任があると思います

2008-10-31 | Weblog
ちょっと古くなってしまった話ですが、池田清彦さんや養老猛司さんの環境問題に関する本について、思ったこと。
「構造主義生物学」についての本で池田清彦さんを知ったのは、もう15年以上は前と思います。科学とは何かということを深く考えるとどうしても哲学の問題となってしまいます。その辺でひっかかって、実験科学者から道を踏み外した人が少なからずいます。私の「構造主義生物学」の印象は、これらの試みは生物学とは書いてあるが、生物を客観的な立場で研究する「生物学」とは、関係ないということでした。結局、池田さんらの「構造主義生物学」がやっていることは生物学とは何かということをあれこれ考えることであって、普通の生物学者が目指していると思われる目標への到達に役するものでありませんでした。「構造主義生物学」というのは、実は「生物学という学問を構造主義的観点から考え直そうという生物学学なのであって、生物学そのものではないようでした。構造主義生物学などと振りかぶらずに、正直に「構造主義的科学論を生物学者が論じている本」とでも書いてくれればよかったのに、と何か騙された様な気になりました。ちょうど宇宙の果てに何があるのかを考えるのと同じように、生物学を極めたらどこに行き着くのか、そんなことを考えることも必要なのだろうとは思います。とりあえずその思考は目の前の生物現象を理解したいという普通の生物学者の欲求には役立たないので、生物学者からは評価されないのでしょう。その後、池田さんの本は全くフォローしていなかったのですが、数年前に環境問題についての本が出ていることを最近になって知りました。とりわけ地球温暖化の影響と温室ガスの温暖化への寄与について懐疑的な意見を述べられているようです。「環境問題のウソ」とかいう名前の本です。ちょっとびっくりしました。へそ曲がりで人と違うことを考えるのが好きな人なのだろうとは思っていましたが、こういうタイトルのついた本を一般人向けに出版するという態度は、大学人としてはいただけないのではないかと思いました。言論の自由が大切であることは間違いありません。しかし、それは何を言ってもいい、ということではないと思います。大学の肩書きを使って学問の徒が一般の人に語りかけるということは、良識と誠実さと責任が付随する行為であるはずだと信じています。一般人に本を売るために扇動的なタイトルをつけて大学の肩書きを使うならば、医学博士と大腸内視鏡第一人者の肩書きを使って、健康食品を病気でもない人に売って商売しているH.S.先生とかわりないと思います。つまり、中身が問題なのではなく、大学教授という立場の人が、「環境問題のウソ」というタイトルで本を出したということそのものが問題であると私は思います。科学的に十分な裏付けのないようなタイトルを論文につけたら、タイトルを変えろと言われる世界にいる人間にとっては、もと科学者ともあろう人が専門外のことを「ウソ」と断じるような本を出版することの無責任さには失望を感じます。(生物学は科学とは言えない部分の方が多いので、生物学者は科学者とは限りませんが)

アルゴアは金星と地球は組成的には、殆ど同じであるが、金星の表面温度は800度Fもあるといい、大気という極めて薄い空気の層が地上の環境を極めて狭い範囲にコントロールするのに重要な働きをしていると言います。地球規模でみると大気の容量は微々たるものですから、地球の環境維持能力というのは有限なのです。一方で、「金星の温度から比べたら、地球の温度が一度や二度上がることは大したことはない」そんな考え方をする人がいるのもおかしくはないと思います。そういう人は、地球には60億もの人間がいるのだから、自分自身や自分の肉親がいわれのない拷問にあって、苦しんで死んでも、大したことはないというのかも知れません。地球の過去には、もっと厳しい気候もあったのだから、今の温暖化など大したことはない、グリーンランドの氷が融けて、海面が数メートル上がって、多くの海辺の都市が水没しても、地球規模でみたら大したことはない、そういう考えに欠けているのは、人間の視点です。地球が氷河期になろうが、温度が数度上がって、人類が絶滅しても、地球規模でみたらもちろん、大した問題ではありません。大昔には人類などいなかったのでしょうし。しかし、毎日生活している人の身になってみれば、環境破壊によって昨日できたことが明日できなくなって、それによって自分や身の回りの人が不便を被る、あるいは自分たちの子供たちが環境破壊のツケを払わないといけなくなるかもしれないということは大問題であると思います。そういう危機が近い将来に起こってくることを示唆する科学的データが多数あるにもかかわらず、わざわざそれに異議を唱えて、一般向けの本にして意見を広めようとする態度には賛同できません。私たちの子供のころと比べても随分、自然は破壊され、多くの生物が地上から消え去りました。北極付近では氷がどんどん解けて、生態系は影響をうけ、野生の生き物がまた絶滅しようとしています。父母から受け継いできた地球を汚さずにできるだけきれいなままで次の世代に渡したいというのは、ごく自然な人間の感情ではないでしょうか。汚したり壊したりするのは、きれいなまま保存するのの何倍も簡単なことで、地球を汚さないように気をつける習慣を身につけるのは、なかなか容易なことではありません。今、ようやく人々が反省して地球をきれいに使おうと思い始めた時に、その気分に逆行するような論調の本をわざわざ出すのは、大学人として思慮が足りないと私は思います。
多くの人が認識している環境問題の理解の仕方が必ずしも正しくないというのはそうでしょう。著者も「環境問題そのものがウソである」というのではなく、環境問題が正しく人々に伝わっていないことを伝えたいという意図なのであろうと想像します。私がまずいと思うのは「環境問題のウソ」とか「本当の環境問題」とかという誤解を招くタイトルそのものです。そう書かねば本が売れないのでしょうが、ウソとか本当とかいう言葉を使うと、あたかも「真実は一つで世の中の人はウソを信じているのだ」というウソを主張しているように見えます。
 また著書の中の一つの主張である、例えば、「人間の活動が温暖化を促進している」という結論が「十分科学的に立証されていない」という反論は正しいと思います。ただし、この問題の場合、「証拠がない」ことは「ないことの証拠」ではありません。「人間の活動が温暖化を促進している」という確たる証拠が上がるまでは、「疑わしくは罰せず」という態度でいるならば、手遅れになるでしょう。確たる証拠はなくても、示唆的な証拠は沢山あります。やっても効果があるかどうかやってみないとわかりませんが、できることがあるのにやらないのは怠慢です。仮に本人が温暖化や環境問題というのは大した問題ではないと信じていても、大勢の人が身の回りのゴミを拾っているのに、大学人という権威をもって、わざわざそれに水を注す様なことをいうのは、まずいことだと思います。本などにして一般人向けに売り出さずに、自分の家のふすまの下張りにでも書き付ける分には、誰も文句は言いません。
 池田さんや養老さんの本来の意図が、環境問題を別観点から見ようという提案であったとしても、誤解を招く様な本を誤解を招く様なタイトルで書店に並べることに、大学人としての良識の欠如を感じざるを得ません。「李下に冠を正さず」という言葉もあるでしょうに。
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キー配列の説についての専門家からの反論

2008-10-29 | Weblog
前回、キーボードのキー配列について「へーえ」と感心した話を「内田樹の研究室」から拾って紹介したのですが、キー配列研究の専門家の方からのobjectionがありましたので、それをさらに転載させていただきます。
深いですね。また「へーえ」と思ってしまいました。
私たちが事実と信じている歴史というのは、このようにして作られていくのかもしれませんね。


付記:先日「学校選択制」のところでキーボードのQWERTY配列について書いたところ、安岡さんという専門家の方から「それは間違い」というご指摘を受けた。
私がどこかで読み囓った情報が間違っていたようであるので、ここで謹んで訂正させていただく。
私の説明では用を弁じないのであろうから、ご叱正のメールをそのまま転記したい。

タイプライターやテレタイプやコンピュータにおけるキー配列の歴史を研究しております。貴殿のblogに昨日掲載された『学校選択制』というエントリーを拝読したのですが、そこでレトリックとして掲げられている「QWERT配列」に関する言説に、非常に大きな問題を感じましたのでメールいたします。

| この文字配列は「打ちやすい」ように並べられているわけではない。「打ちにくい」ように配列されているのである。
| 初期のタイプライターではタイピストが熟練してくるとキータッチが早くなりすぎて、アームが絡まってしまうということが頻発した。それを防ぐためにキータッチを遅らせるキー配列が工夫されたのである。
| 最初はごく一部のタイプライターにしか採用されなかったが、大手のレミントンがこの配列を導入したことで、一気にデファクト・スタンダードになった。

この3つの文章に書かれている内容は、全て誤謬であると思われます。まず、世界初の商用タイプライター『Sholes & Glidden Type-Writer』を1874年に発売したのは、レミントン(当時はE. Remington & Sons社)で、しかもその時点で既に上段のキーはQWERTYUIOPと並んでいました。『Sholes & Glidden Type-Writer』以前にはタイプライターという機械自体存在せず、したがって「タイピストが熟練」などということはありえません。また、『Sholes & Glidden Type-Writer』はアップストライク式のタイプライターですので、アームなどという機構を有しません。アームを有するフロントストライク式タイプライターは、1893年発売の『Daugherty Visible』が最初のもので、それ以前には存在しないのです。

さらに、QWERTY配列がデファクト・スタンダードになっていく過程では、レミントンよりむしろThe Union Typewriter社によって形成されたタイプライター・トラストが大きな役割を果たしているように思われます。ただ、このあたりに関しては、かなり複雑な歴史過程が渦巻いていますので、詳しくは拙著『キーボード配列 QWERTYの謎』をごらんいただけますと幸いです。ちなみに「打ちにくいように」というネタそのものは、1930年代にAugust Dvorakが独自のキー配列を考案した際、既存のキー配列を攻撃するために言い出したいわばイチャモンで、元となった論文(August Dvorak: "There Is a Better Typewriter Keyboard", National Business Education Quarterly, Vol.12, No.2 (December 1943), pp.51-58,66.)に書かれている記述そのものに、すでに誤謬があります。

なお、貴殿がお書きになった「QWERT配列」に関する言説は、すでに
http://blog.goo.ne.jp/tatkobayashi/e/06f88e608897a4e6043a95d776917515
http://blog.goo.ne.jp/hkaiho/e/f5ee6c7ecd5d74c44f1f3b5ba94fceda
などに飛び火しています。技術史研究者の私としては、このようなガセネタが広がっていくのは困りますので、とりあえず
http://slashdot.jp/~yasuoka/journal/456534
を書いたのですが、残念ながら、貴殿の言説の方が強く、まだまだ広がっていくものと思われます。貴殿がなぜ私の研究分野に土足で踏み込んできて、このようなガセネタをバラ撒いていくのか理解に苦しむのですが、どうしてもそのような必要があるのでしたら、是非メールあるいはブログでご説明くださると幸いです。

というものである。
ご叱正を多としたい。
私が「間違ったことを書いた本を読んで、それを真に受けた」のか「正しいことを書いた本を読んだのが、それを間違って記憶したのか」は判じがたいが、いずれにせよブログの読者のみなさんはこの機会に正しい情報をぜひご記憶にとどめておいていただきたいと思う。
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進化するシークエンサー

2008-10-28 | 研究
現在の大量平行シークエンシングはPyrophosphate法を使った454/Rochegが先陣を切り、ついで、Solexa/Illumina、ABIの合計三社が機器とサービスを提供していますが、更に第三世代のシークエンシング法といえるsingle molecule sequencingが、既に商業化されていることを知りました。2008-6-20のエントリーで紹介しましたように、一分子シークエンシングは現行の平行シークエンス法と違って、PCRを使わないので、長いシークエンスが読める可能性という利点があり、「ヒトゲノムシークエンスを$1000で行う」という目標に向けて、必須の技術となるであろうと考えられます。
現時点では、 マサチューセッツ州ケンブリッジの会社、Helicos (http://www.helicosbio.com/) が最初の単一分子シークエンシングを商業化したようです。そのテクノロジーについては、今年のScience四月号での論文で紹介されており、その号の表紙も飾っています (Science. Vol. 320, no. 5872, pp. 106-109. 2008)。残念ながら、私の理解した範囲ですと、この第一世代の一分子シークエンス法では、それほど長いリードは読めないようで、現在の平行シークエンス法と性能的には大差はないのではないかという印象です。現在、Genome-wide association study (GWAS) のサービスを提供している会社、Expression Analysis社が、Helicos True Single Molecule Sequencing (tSMS)を使った遺伝学のプロジェクトをサポートするグラントの応募を募っています(http://www.expressionanalysis.com/grant/)。この技術は基本的にはPCRを使わない点だけが、従来法との違いのような感じで、肝腎のリードの長さに関しては、余り進歩がないように思います。またあと数種類違った原理を使う一分子シークエンス法が開発中なので、将来的にこのHelicosの技術が生き残れるかどうかは分かりませんが、今後の発展が楽しみです。Helicos自身も現在の技術を第一世代の一分子シーエンス法と言っていますから、この発展系を今後リリースする予定はあるのでしょう。マクサムギルバート法を前世代、サンガー法を第一世代、PCRを使った平行シークエンス法を第二世代、一分子シークエンスを第三世代のシークンス法と呼ぶとするならば、このHelicos tSMSは第三世代シークエンシングの第一世代ということになります。一分子シークエンシング技術の開発に関しては、日本では岡崎統合バイオセンターの永山博士が、電子顕微鏡を使って、一秒間に数万塩基を読み、一年にテラベースをシークエンスするためのシークエンシング法の開発を目指し、その名もズバリ、テラベース社というベンチャーを数年前に立ち上げています。あいにく、現在の所、こちらは実用に至る道はかなり険しいそうです。いずれにせよ、こうした技術に支えられた遺伝子の大量データ生産は加速する一方ですが、この大量のデータは人間の頭ではそのまま理解することはできません。大量の塩基データを人間が解釈できるような形に加工、抽出していくことは、実はそう簡単なことではありません。解釈できないデータは役に立ちません。シークエンシング法のハードの進歩は、必然的にソフトの進歩を引き起こすであろうとは思いますが、実はこのソフトの進歩の方が律速段階になるのではと、私は思っています。

これだけ莫大なコストと労力をかけて開発する新しいシークエンサーですが、新しいものが必ずしも古いものよりよいとは限らないし、よいものが必ずしも市場を制覇するとは言えないというあたりがビジネスの難しさですね。ついさっき、 「内田樹の研究室  http://blog.tatsuru.com/」で知った話。

QWERT配列というのをご存じだろうか。
みなさんのコンピュータのキーボードの配列のことである。
この文字配列は「打ちやすい」ように並べられているわけではない。「打ちにくい」ように配列されているのである。
初期のタイプライターではタイピストが熟練してくるとキータッチが早くなりすぎて、アームが絡まってしまうということが頻発した。それを防ぐためにキータッチを遅らせるキー配列が工夫されたのである。
最初はごく一部のタイプライターにしか採用されなかったが、大手のレミントンがこの配列を導入したことで、一気にスタンダードになった。
そして、私たちは今やキーをどれほど早く打ってもアームが絡まる気遣いがないメカニズムにシフトしたにもかかわらず、「打ちにくい」配列をそのまま踏襲しているのである。

機能的にすぐれたものが生き残るとは限らないという自然選択説に反するような話ですが、一分子シークエンス法に関しては、リードの短いヘリコスの方式では勝ち残れないでしょう。Roche、Illumina、ABIという大企業が手がけているシークエンサーが十分利益をあげて市場を飽和させるまではヘリコス方式は、いくら、PCRを使わないので正確性が上がるとか、リードの数が多いとかいうマイナーな長所があったとしても、それが大企業が売っている現行のシークエンサーと比べて、劇的によいわけではないですから、メジャーにはなれず、HD DVDやβ式のビデオテーブのような運命になってしまうのではないでしょうか。もしも、リードの長さが数キロ塩基というレベルになったら、その劇的な性能の向上によって、一分子法は、すぐに現行のparallel sequencerを駆追してしまうとは思います。
とここまで書いた所で、実は、Pacific Bioscencesというカリフォルニアの会社が一分子法で1キロ塩基以上読めるシステム(Single Molecule Real Time; SMRT)を開発、3-4年後を目処に販売開始を予定しているという話を知りました。この技術のもとになっているナノの世界の特性を最大限に生かしたアイデアは、普通の化学者ではちょっと思いつかないのではないでしょうか。詳しくは、 http://www.pacificbiosciences.com/index.php?q=observation-window でどうぞ。
これが実現すれば、「ヒトゲノム解読$1,000」の目標にぐっと近づきそうです。
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sustainabilityに必要な「もったいない」精神

2008-10-24 | Weblog
元アメリカ副大統領で、8年前のアメリカ大統領候補のアルゴアは、以前から地球温暖化に警笛を鳴らしてきました。その長年の活動が認められ、昨年は、その教育ドキュメンタリー映画、「The inconvenient truth」でアカデミー賞を受賞、さらにノーベル平和賞を授与されました。彼の地球温暖化、環境問題に対する興味は、40年前にハーバードの学生であったころからのもので、在学中、Roger Revelleの地球気候の変化についてのコースを取ったのがきっかけのようです。昨日、ゴアはハーバードヤードで開かれた大学の環境保護活動の一環としての講演会に現れ、ハーバード総長のDrew Faustの約15分間のゴアの紹介を含む講演に引き続いて、約30分間の講演を行いました。ハーバードは数年前から、環境にやさしい大学を目指してキャンペーンを続けています。このゴアの講演会には多数の大学関係者ならびに一般の人が集まりました。研究の世界では余程のスーパースターでも講演会にこれほどの集客力はありませんから、ゴアのネームバリューというのは大したものです。会場では、寒い曇り空の下、ところどころにキャンペーンキャッチ「Green is the new Crimson」が書かれたバナーが下げられていました。濃い紅色(Crimson)はハーバードのスクールカラーであり、ハーバード大学そのものをさしています。このキャッチフレーズは、つまり、ハーバード(crimson)は今はエコフレンドリー(Green)だという意味です。講演はハーバードの校舎が取り囲む中庭で行われ、講演に先立って地元で取れたカボチャを使ったビスクととアップルサイダーが振舞われましたが、それには大量の使い捨て容器が使用されました。
 ゴアの講演そのものは、とくに目新しい内容はありませんでしたが、「ガリレオが地動説を唱えたころは誰も認めなかったが、いまや真実として受け入れられている。同様に地球の温暖化が人の化石燃料の燃焼などによる人為的なものであるという考え方も最初は誰も認めなかったが、現在では受け入れられてきている」とゴアが語ったとおり 、長年、地道にあきらめずに継続してきた彼の活動が認められるためには、繰り返し同じことを訴え続ける必要があったのだなと思いました。地球温暖化は加速しつつあり、それを食い止めるためには、一人一人が協力して、皆で努力しなければならないと言うことを説きました。その時にゴアが紹介したアフリカの諺が印象に残りました。「早く行きたいなら、ただ一人で行くがよい、しかし遠くまで行こうとすれば、皆で行かねばならない」。この言葉は、様々な活動において真実だと思います。研究、教育、社会、経済などなど、そうした活動で個人ができることは限られています。とりわけ環境や社会の問題など、全員が同じ方向に向かなければ効果が上がらない問題については、ゴア言うように個人の活動に加え、より多くの人の意識の変化と協力が不可欠であるのは明らかです。ノーベル賞、アカデミー賞、エミー賞などの受賞によって、彼の発言の重みも随分増し、環境問題に対する一般人の意識は随分上がってきたとは思いますが、環境の悪化に対して彼はかなりの危機感を持っているようです。「(石油の代替となるクリーンエネルギーの開発、人口の調節、ライフスタイルの変更など、困難な問題を解決するために)われわれは皆で遠くにいく必要がある」と皆の協力を呼びかけましたが、一方では現在の状況は緊急を要するものであり、「遠くへ、しかも早く行かねばならない」と述べました。また一方で、近視的、利己主義的な金融機関の暴走が招いた現在の金融危機を例にあげて、目先の利益のために「不都合な真実」を隠したり、折り曲げたりする 人間の利己主義、刹那主義的行動を強く批判しました。

子供のころから「もったいない」という言葉を常々、聞かされて育ってきた私は、高度成長期時代の「消費は美徳」やバブルのころの「もったいないは、貧乏くさい」というような考えに随分嫌なものを感じていました。現在、「環境維持性」の意味で、アメリカでよく使われる「sustainability」という言葉は、つきつめれば「もったいない」精神に行き着くのではないかと思います。以前のアメリカでは「節約」するのは、その分をどこかでドンと使うためでありました。しかし、最近、エネルギーや消費を節約するのは、無駄なものを節約することによって環境への悪影響を減らすためである、つまり、無駄なことやもので環境を悪くしては「もったいない」というような意識が広がってきたように思います。アメリカの環境問題への対処に欠けているものは、実は、この「もったいない」という言葉ではないかとも思います。もし「もったいない」という言葉が英語にあったのなら、人々の環境問題への意識の改革はもっと容易に進んでいたのかも知れません。

追記。
インターネットで検索してみたら、「Sustainabilityは、即ち、もったいないである」という趣旨のことを述べておられる人が多数あることを知りました。中でも、http://www.ewoman.co.jp/winwin/40ej/ での環境ジャーナリストの枝廣 淳子さんの対談記事がよかったです。
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日本の国際化について思うこと(2)

2008-10-21 | Weblog
前々回からの続きです。

国際化の建前は、世界が経済的、物理的、文化的に小さくなった現在、日本は他の国々と積極的につきあっていかなければならない、という考えに基づいているのだと思います。上に述べた理由で、今の30台半ば以上の人は、多かれ少なかれ、外国(というか欧米)コンプレックスというものがあると思います。そういった人々にとって、日本の国際化とは、即ち、日本人の外国コンプレックスからの脱却そのものに他ならないのではないかと私は思います。コミュニケーション力がどうとか、英語がどうとかいう表面的な問題ではないと思うのです。振り返ってつくづく思うことは、第二次大戦後に、くどいまでに日本人に植付けられた負け犬根性というか、植民地根性に由来する後ろめたさというものは、その当のアメリカでさえ半世紀も効果が持続するとは思ってはいなかったのではないでしょうか。言葉が悪いですが、そんな負け犬世代の国際化とは、アメリカという先生に「よくできました」と頭を撫でてもらえるようになることであって、決してアメリカや諸外国と対等の関係を築いていくということではなかったのだと思います。
年月がたって、インターネットで世界中の情報が瞬時に手に入るようになり、負け犬根性が薄らいだ今の若い世代の人々は、国際化なんて、実はどうでもよいと思っている人が多いのではないだろうかと想像するのです。日本の国の中で楽しく暮らせたら、別に外国人が日本に来なくても良いじゃないか、外国と仕事以外でつきあっていく必要のある人はともかく、一般人は、素直に普通の人間であるだけで十分ではないか、というように考えている人も増えてきたのではないかと思います。世界中からの移民に囲まれ、英語で意思疎通するアメリカ人でも、その殆どは、外国人のことを十分に理解し外国人の立場に立って考えることのできるような「国際人」とはほど遠い人々です。日本では、昔は、洋行して箔を付けたりしたものですが、現在の情報社会で、しかも洋行しない人の方が少なくなってきているような時代に、戦後のアメリカの洗脳政策の呪縛から解かれた若い世代の人が、これまでのような「国際化」などいらないと思い始めているのだとしたら、私は、極めて健全なことのように思います。小学校で英語教育などすることは、日本のアメリカの植民地化には有用かも知れませんが、国際人を育てるという観点からは百害あって一利なし、と私は思います。
 ところで、日本が国際化を促進する最も有効な方法は、日本が重国籍を認めることではないかと私は思っています。日本が重国籍を認めないせいで、外国に長期に住む日本人は、日本を捨てるか、外国を捨てるかという選択を迫られることになります。このことによって、日本人の外国と国内との流動性は著しく制限されていると私は思います。例えば、アメリカに住む日本人の場合、アメリカ市民権を取ることで、法律上、日本国籍を離脱しなければなりません。一方、アメリカ市民権を取らないことは、長期的には、居住権の喪失の可能性や社会保障でのデメリット、アメリカ国外での活動の制限などの多くの問題を引き起こしてくる可能性があります。こうした長期海外居住日本人にとって、二重国籍を日本が認めることによるメリットは測り知れません。外国市民と結婚して子供を持った日本人が増えている現在、そういった人々のためにも重国籍を認めるべきであろうと思います。一方、現在の時点で、日本が重国籍を認めることで、どんなデメリットがあるのか、私には、ちょっと思いつきません。特にないのではないでしょうか?だからこそ、多くの先進国で重国籍が認められているのだと思います。お役所が、国際化だの、英語教育だの、言って、大金を使って外国人を呼んでくるぐらいなら、日本人の出入りをもっと自由にする重国籍を認める方が、余程効果があると思います。とりわけ今後、日本経済はますます沈滞するであろうと思います。格差社会でありながら、福祉サービスがどんどん削られ、少子化が促進している現状を見ると、今後、日本はますます、住みにくい国になっていくでしょう。一方、日本人の几帳面さや高いモラルは、外国では、重宝がられると思います。そうなると、日本で食い詰めた高学歴の人は、国籍のしばりがあろうとなかろうと、やがて外国に職を求めるようになっていくのは不可避です。その時に二重国籍を認めないことは、そんな海外で活躍する優秀な日本人が、いざ日本に帰りたいとなった時の道を閉ざすことにつながっていくと思います。それでは、国際人の日本人を日本から閉め出すことになるのではないでしょうか。日本と外国との行き来を易くすることで、優秀な人材を共有することができます。結局、人は金を追いかけて動きます。アメリカが強いのは強い経済に引かれて人が集まるからでしょう。対して前世紀に強かったヨーロッパ諸国は、一旦、アメリカへ出た人材を逆輸入していくことで、一定レベルを保っているように思えます。この十年余り、ヨーロッパ諸国は比較的安定した経済を維持できています。それに対して、20年前世界を驚嘆させた日本の経済力は、今や、見る影もありません。日本は負の螺旋を落ちていくばかりです。日本の経済が沈滞すると、自然に外国人は来なくなります。この日本とヨーロッパの差は何なのか。日本の政治がひどいのははっきりしていますし、この三流、四流の政治が日本の没落の最大の理由であるのは間違いありませんが、これを言い出すとキリがないのでやめます。
国際化ということに関しては、日本は態度を決めるべきです。もっとオープンな国にして、本当に国際化したいなら、アメリカやシンガポールなみにとことんやらねばなりません。ヘンな外国人が入ってきて困るからと中途半端に規制すると、よい外国人も来てくれません。それが嫌なら国際化など考えずに鎖国すればよいのです。私は鎖国しても、日本の産業構造を第一次、第二次産業中心に変えれば、日本は十分やっていけるのではないかと思っています。そうなれば却って、外国人はビジネスではなく、文化や観光を求めて、来てくれるようになるかも知れません。その方が「良い」外国人が来てくれるようになるでしょう。

追記。
今回のノーベル物理学賞、日本人三人との日本の発表に対して、アメリカでは日本人二人とアメリカ人一人と発表されました。南部博士は日本が重国籍を認めないため、日本国籍を捨てアメリカ市民となっているようで、厳密にいえば日本人三人という表現はもはや正しくありません。どうも南部博士のノーベル賞をアメリカにカウントされたのが原因なのか、日本でも重国籍を認めようという動きが出てきたそうです。重国籍を認めることは、海外に流出した頭脳を呼び戻すための実際的方法として有効であろうと思います。しかし、戦後60年経って、かつては世界トップクラスの経済力を誇った日本で、頭脳流出が引き続いて起こっており、日本の研究環境が全く改善しない(どころか悪化し続けている)のを、何とかしないと根本的な解決にはならないように感じます。

アメリカ大統領選に関する小話。
NBCのコメディーショー、Saturday Night Live(SNL)のTina Feyが散々、サラペイリンを茶化して、話題になりましたが、先週末、なんとペイリン本人がSNLに出演、Tina Feyと競演しました。SNLは過去14年間で最高の視聴率となりました。その様子は、http://www.nbc.com/Saturday_Night_Live/video/clips/gov-palin-cold-open/773761/でどうぞ。一方、週末、ブッシュ政権での元国務長官で共和党のコリンパウエルがオバマをエンドースするという大きなニュースがありました。マッケーンの経済対策とペイリンを副大統領候補として選んだマッケーンの判断力を強く批判しました。共和党でありながら、民主党のオバマを支持するという表明は、オバマにとっては大きな追い風でしょう。このエンドースメントが、オハイオ、フロリダといった民主党と共和党が拮抗している大きな州で、どのような効果をもたらすかは、選挙結果を見てみるまでわかりません。
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Overnight Fame, 配管工ジョー

2008-10-17 | Weblog
今日はこの間の続きを書こうと思っていましたが、変更して、昨日のオバマとマッケーンの最後の討論会の感想を。
 これまで二回あった討論を見なかったので、この二人の直接対決を聞くのは私は初めてでした。最後にオバマがスカッと決めてくれるのを楽しみにしていましたが、これまで分が悪いマッケーンが殆ど全ての回答にオバマの批判を盛り込んだネガティブな攻撃をしかけ、対してのオバマは攻めよりも守りを固めるような比較的防御的な討論となりました。スカッとはしませんでしたが、オバマがリードを守りきったという印象です。税政策、ヘルスケア政策において、オバマとマッケーンははっきりした差があり、95%のミドルクラスの減税を約束するオバマに対し、マッケーンは企業、裕福層への減税によって、企業の競争力を高め、仕事を創り出す(ブッシュ同様の)金持ち優遇政策を支持しています。オバマのプランでは、大多数を占めるミドルクラス、スモールビジネスオーナーで年収が25万ドル(2,500万円)以下の人の税金を減らすかわりに、それ以上の収入のあるビジネスオーナーに関しては、増税や従業員のヘルスケアへの負担の増額で穴埋めをするという計画です。一方、マッケーンは、ビジネスオーナーへの増税はアメリカンドリームの実現を阻むといい、ミドルクラスの税金を優遇するかわりに企業から増税するというのでは、富をばらまいているだけで、それではアメリカの経済の発展を阻害するとの批判を展開します。マッケーンのプランでは、95%の一般アメリカ人の減税はなしでオバマはこの点を攻撃できたのですが、、オバマはマッケーン政策を批判するかわりに、自分の政策を強調することで一般アメリカ人にとって減税となることを明言しました。この税政策では、マッケーンが先制攻撃を出し、マッケーン自身のプランでは一般アメリカ人の減税が行われないという弱みを隠すために、アメリカンドリームを達成しようとするビジネスオーナーにとってオバマの政策がマイナスであることをアピールしました。その例として、先日オハイオでのオバマのキャンペーンに現れて、「ビジネスを持った場合にオバマのプランでは増税となってビジネスが難しくのではないか」とオバマに批判的な質問した配管工、ジョーのことを、マッケーンは突如持ち出し、一日10時間以上も働いてお金をため、ビジネスを買い取ろうとしている彼のアメリカンドリームの実現をオバマのプランが阻むとオバマを批判、テレビを見ているであろうジョーに向かって、語りかけました。もちろん、これはオバマの税政策に批判的な質問をした一般人ジョーを利用した詭弁です。多くのスモールビジネスでは、オバマの負担増となる25万ドル以上の年収には達しませんから、むしろ大多数のスモールビジネスオーナーのとっては減税となるはずです。アメリカ人の平均所得は5万ドル程度でしょうから、25万ドル以上の収入があれば、金持ちとは言えずともミドルクラスとは言えない層で、平均的アメリカ人とは言えないでしょう。勘ぐるに、こんな詭弁を弄してまで裕福層の権利を守ろうとするのは、マッケーン自身が奥さんの一族がもつ大ビール会社から多くの支援を受けているからではないかと思います。自分を支援してくれている身内の損になるような政策は打ち出せません。討論では、マッケーンが一般ミドルクラスアメリカ人の代表のようなジョーに、TVを通じて、オバマの税政策がマイナスであると語りかける様な形になったものですから、マッケーンへの反論の際に、オバマもジョーに直接語りかけるような口調で、ミドルクラスのアメリカ人にとっては減税になり、スモールビジネスオーナーになっても税金もヘルスケアの負担も増えないということを強調しました。結果、二人の大統領候補は、全国ネットのテレビを通じて、まるで、オハイオの一配管工へメッセージを伝えているかのような様相になりました。議論の際にジョーのことが何度も持ち出されたものですから、翌朝のナショナルニュースでは、このジョーの話題で持ち切りとなり、一夜にしてジョーは有名人となり、配管工ジョー(Joe, the plumber)のエピソードは早速Wikipediaにも収載されました。
 今回の討論、マッケーンのオバマへの攻撃は私はやはり逆効果ではなかったかと思います。挽回のためには他に取る手だてがないので、ネガティブ攻撃に出るしかなかったのでしょう。うまくいけば、オバマを抑え込めるし、あるいはオバマが挑発に乗って、うっかり失言でもしてくれて、自ら墓穴を掘ってくれるかもしれないと考えたのでしょう。しかし、オバマは渋く冷静に受けました。一般国民もそう捕えたようです。マッケーンの攻撃にカウンター攻撃を返すのではなく、自陣を固めて、マッケーンの攻撃を丁寧に防御する姿勢は、スカッとはしませんが好感の持てるものでした。結果、マッケーンがしつこいネガティブ攻撃に走ったというマッケーンの討論戦略に対する後味の悪さが残ってしまったように思います。ただ、オバマはマッケーンの言いがかりに対して、苦笑いを見せるところが多々ありました。これはちょっといただけません。これは8年前、ブッシュのアホさ加減に溜め息をついてしまったアルゴアと同じように、国民に真摯さを見せるという点でマイナスになってしまいます。
 今回のマッケーンの攻撃ぶりをみて、アメリカ人の半分ぐらいはマッケーンもなかなかやるなあと感心したでしょうが、結局、マッケーンの政策をじっくり考えると、オバマの政策と比べても具体性を欠きますし、また、ブッシュ同様の裕福層優遇、既得権利の保護と、「ワシントンを変える」と言いながらも、これまでとどう違うのかも見えてきません。国民の多くは、口先だけのマッケーンの「Change」や見せかけだけのVP候補を既に見抜いていると思います。今回の討論、私見では、マッケーンの捨て身の攻撃は、オバマに見切られて丁寧に受けられてしまい、オバマは頓死の筋を消して勝利を確実なものにしたものと思いました 。

訂正と追記。
マッケーンの税政策ではミドルクラスの減税が盛り込まれていました。マッケーンはその減税などで政府の減収となった分を、政府の支出を削減することでバランスをとるとの計画ですが、具体的な政府支出の改革案についての明言はありません。大学研究者などの連邦予算にその活動を依存している者にとっては、「研究費」というのは、削られやすい部門ですので不安に思っていると思います。マッケーンはNIH予算は上げるとはいっていますが、それは、彼の政府の経済規模を縮小する方針とは相容れないような気がします。確かに社会がうまく機能している時はできるだけ「小さな政府」が望ましいと思いますが、現在のような経済危機に陥っている時期では逆に政府の積極的なinterventionが不可欠と思います。マッケーンの「富の再配分」が悪いという考えは、30年前の共産、社会主義に対する批判で、共産、社会主義が結局、うまく機能しなかったので、それに関連する思想も悪いとの理屈でしょう。しかし、現時点で資本主義がうまく機能しているかといわれたら、結局、資本主義に基づく市場原理主義が今日の格差社会を作り出し、種々の問題の原因となっており、過去の資本主義が相対的に共産、社会主義に比べて多少よかったからといって、現在もそうであるとは思えません。資本主義もかなり危ない所まで来ていて、それに対する批判と揺り戻しが必要とされているのが現在であると思いますし、その点において、マッケーンの見方はちょっと甘いのではないかと感じさせます。
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日本の国際化について思うこと(1)

2008-10-14 | Weblog
老若男女を問わず、日本には多くの習い事のための教室があります。実用的なものから文化的な活動、さまざまです。習い事に通う人や子供を習い事に通わせる人は、何事かを身につける、つけさせるという目的の他に、習い事をすることそのものの楽しみ、習い事を通じた社交活動、時間つぶし、そんな様々なことが副次的な目的としてあるのだろうと思います。私は、こうした課外活動が日本で盛んであるのは、社会的、文化的活動という点でも、経済活動という点でも、好ましいことだと思います。子供の塾通いにしても、子供は学校外の社交活動の一つとして参加し、楽しんでいる面もあると思います。私自身、子供のころに通った塾での経験は楽しいものでした。好奇心が強く勉強好きの日本人にとって習い事に時間とお金をつかうことは悪いことではないと思います。しかし、数々の習い事の中でも気に入らないのもあって、その筆頭は英会話教室です。純粋に他の国の文化を知る手段として外国語を習うことは悪いことではないと思います。ただ、英会話教室というのは、英語でしか意思疎通が困難な人と会話をできるようにするという目的が建前としてあると思います。ですので、他の習い事と違って、英語でしか意思疎通できない人という対象がいて、その人と会話をする機会がなければ、その習い事の成果は役に立ちません。そのような機会はそれ程多いとは思えません。過去を振り返ってみても、英語会話が役にたったことはほんの数回で、むしろ、切実に意思疎通が必要であった外国人は英語も日本語もどちらもわからなかったことの方が圧倒的に多いです。ビジネスで外国人との交渉が必要である人であっても、交渉においては、英語などしゃべれない方が有利に物事が進むこともあるのではないかと思います。しゃべれなくとも筆談であれば、日本人は英語の能力は通常高いわけですし。英会話教室の英語が実用に役に立つこともまれにあるかも知れませんが、私には、英会話教室というのはスキー場のない所でスキーの滑り方を教えるようなもののような気がするのです。にもかかわらず、英会話教室のビジネスがやっていけるのは、二つの理由があるのではないかと思いつきます。一つは第二次世界大戦敗戦後のアメリカの日本洗脳政策で、日本人に叩きこまれたアメリカ文化の優位性が戦後六十年たったいまでも残っていること、もう一つはやはり、アメリカ追従で甘い汁を吸い続けてきた日本の政官財が、アメリカによる経済支配を促進するため、経済のグローバリゼーションを、文化的側面にまで拡大してきたことではないかと思います。そのため、日本の「国際化」、その実体はアメリカの植民地化、は良いことであるとの信仰に近いコンセンサスが官民に広がっているのだと思います。国際化とは何か、その定義は人の立場によって異なると思うのです。アメリカ追従で経済的な優遇をうける政官財は、国民の税金をうまくアメリカに流れるように操作して、その見返りをもらうことが、国際化でしょう。一方、一般日本人にとっては、逆に、アメリカや諸外国と対等な立場で文化的、経済的な交流が行われるなることが国際化であろうと思っていると思います。後者を真の国際化と呼ぶとすると、その国際化を促進する上で、英会話力というのは、殆ど重要でないと思うのです。国際化と英語を結びつけたがる政官財は、日本のアメリカの植民地化を促進し、自らの利益を増加させるのに、言語教育が都合がよいから、それを宣伝するのではないかと、私は考えています。ちょうど、戦時中に日本がフィリピンなどで日本語を教えたようなものではないでしょうか。ドーデの「最後の授業」で描かれているように、言語は国の文化そのものだと思います。日本の政府の考える「国際化」という名のアメリカ植民地化にとって、英語教育は都合の良い洗脳手段なのであろうと思います。アメリカが世界経済の中心にいる限り、学問、ビジネスで英語を使うのは必要ではありますが、そういう目的の英語は簡単なものですから、現在行われているように、それに備えて小学生から英語教育をする必要は全くないと言えます。むしろ、頭の若いときに必要もない英語教育をするというのは百害あって一利無しであると言えるでしょう。(続く)
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ノーベル賞に語らせる

2008-10-10 | Weblog
「自分では語らない、理論に語らせる」という南部陽一郎博士の名言を、大学院で研究を始めた頃に知って、シビれました。ニヒルな正義の味方みたいではないですか。若い私が目指していたカッコいい研究者のイメージがこの一言で形成されたといっても過言ではありません。ナイーブな若者であった私は「そんな水戸黄門の印籠のような発見をしてみたいものだ」と思いました。結局、だんだんと理論物理と生物学というのは、同じ科学とはいいながら全く異なるものであるということがさすがの私もわかってきて、生物学では、自分で語らなければ誰も聞いてくれないこと、一生懸命語ってもしばしばやっぱり誰も聞いてくれないこと、聞いてくれてもすぐ忘れられてしまうこと、が身にしみて分かって来ました。結果、ニヒルな正義の味方タイプの生物学研究者というのは架空のヒーローにしか過ぎないことに気がつき、それを目指すのは全く現実的でないことを知りました。生物学研究者というものは、「ニヒルなヒーロー」ではなく、「愛想の良いセールスマン」を目指さねばならないことがわかったときには、進路の変更には手遅れでした。
 その南部陽一郎博士が他の二人の日本人物理学者と共に、今年のノーベル物理学賞を受賞されたので、それで私は初めて南部洋一郎博士がどんな人なのか、テレビを通じて知ったのでした。ご本人は、ナイーブな若者を惑わせるような名言を残されたことさえ、あるいは覚えておられないかも知れません。私があの言葉を知ることがなければ、私はもっと平凡で幸せな道を歩んだかも知れません。決して繰り言を言う訳ではありませんが、非凡な天才の一言というのはそれほど、影響力があるのだと思います。出身地の福井の様子をテレビで見ると、早速、高校生の男の子が、「将来は物理学に進んでノーベル賞を目指したい」と話していました。昔の私を思い出します。
 ともかく、日本の科学界にとって、このノーベル賞のニュースは喜ばしいことです。若い人に夢を与えてくれます。ノーベル賞受賞者のちょっとした台詞一つで人々の科学研究に対するイメージを大きく変えることも可能だと思います。今回の受賞者の先生には、ご自身が、若い世代を刺激し、社会の科学研究への理解を促進するもっとも効果的なアドボケーションであることを積極的に利用して、日本、世界の科学界の発展を支えていただけたらと思います。
 今回は、「自分では語らない、ノーベル賞に語らせる」といったところでしょうか。出来の悪いセールスマンの私は、それでもやはり、ニヒルなヒーローに憧れるのでした。

ここまで書いたところで、ノーベル化学賞がGFP発見の下村博士に授与されることを知りました。下村博士の場合だと、「自分では光らない、GFPに光らせる」という感じでしょうか。ウーン、これもシビれます。(失礼ながら、テレビで拝見した下村博士は、ご自身も頭部付近が多少光っておられました)
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旧友交歓、階前の梧葉すでに秋声

2008-10-07 | Weblog
昨日、久しぶりに昔の仲間にあって、積もる話をしみじみとして、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。昔、もう二十年も前の社会に出たばかりの若かった頃に毎日顔を合わせて、将来への夢に胸ふくらませながら、共に研修した友人は、今は二人とも偉くなって、社会を支える重責を負う立場となっています。なのに、久しぶりに会ってしゃべってみると、ペーペーの研修医の頃と全然、変わっていませんでした。翻って、自分自身の二十年という月日を振り返ってみると、光陰矢の如しと嘆息するするばかりです。未だにフラフラとポスドク気分でその日その日を送っている私には、彼らの活躍ぶりは眩しいばかりです。そんな私に昔の仲間として、わざわざ忙しい時間を割いてくれて、変わらない友情で接してくれた彼らの好意がつくづくうれしく感じられて、涙と鼻水が出てきました。T先生、S先生、本当にありがとう。
 若いときは、いい仕事をして社会に貢献し、十年後には立派な仕事を成し遂げるのだという心意気に燃えていました。しかし、実際は現実の厳しさを思い知ることばかりで、大幅な目標修正の挙げ句に、毎日ちいさなことからコツコツやれば、死ぬまでには結ぶ実もあるであろう、と遅々たる歩みを繰り返す日々です。少年老いやすく学なり難しの句を噛みしめるばかりです。二十年前であれば、現在の自分を見れば、きっととても情けなく思うことでしょう。でも、月日が経って、雨風にさらされて多少角もとれて、「まあ、しょうがないか」と思えるようになりました。人生を生きることは、即ち、それを肯定することですから、どんな嫌なことがあっても全てを受入れていくことしか人間にはできないのだ、できることは自分のベストを尽くす努力をすることしかないのだ、と開き直った今では、藤村操や太宰治の苦しみを知ることなく、普通に家庭を持って、フラフラしながらも、それなりに生きてこられたことが幸せであったと思うのです。昨日の二人の友人も、私と同じように、苦労しながらもいままで生き抜いて来た、とそんな気持ちを共有することができたような気がします。手を振って別れた彼らの笑顔は永く忘れないことでしょう。
 今回は父の法事で帰郷したのですが、父の二十五回忌に集まってくれた父の兄弟や親類の人は、この二十五年の間に、皆がそれぞれ大病の一つ、二つを経験しています。その話を横で聞いていると、自分も知らぬ間に年をとって人生の半分以上が終わったしまっているのだということを思い出して、突然、人生には限りがあるという事実とこれまで他人事のようにしか思っていなかった「年をとって、老い、病気になって死んでいくこと」がどういうことなのか、そしてそれが自分自身に起こっているのだということをつくづく実感したのでした。
帰ったら、生命保険を掛け始めようと思います。
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役者バイデンの芸

2008-10-03 | Weblog
今日、セントルイスのワシントン大学行われるアメリカ副大統領候補のジョーバイデンとサラペイリンの討論会、楽しみにしていたのですが、移動中のため見れません。オバマとマッケーンの討論はあと二回あるはずですが、副大統領候補の討論はこの一回だけということで残念です。
 見どころは、ペイリンのボケぶりは勿論ですが、もう一つは、どれだけ大人の包容力を見せれるかというバイデンの役者ぶりではないかと思います。ペイリンの無知蒙昧ぶりは既に、TVのコメディーショー(Saturday night live)でのTina Feyによるパロディーが何回も繰り返し取り上げられているので、ネットでお楽しみ戴けたらと思います(現在、残念ながらYoutubeではニュースネタにされたダイジェスト版しか見られません)。この人、副大統領候補となって、いきなり共和党党大会でのオバマの悪口で人気を取り、人寄せパンダとして堂々たるデビューを飾りましたが、日にちが経つにつれ、さすがに一般人も張り子のパンダであることに気づき始めたようです。ボロがでないようにしばらくメディアには沈黙していたのですが、数週間前ようやくABCのTVインタビューに出演し、司会のCharlie Gibsonに(テロを行う可能性のある国への先制攻撃を肯定する)「ブッシュ-ドクトリン」についてどう思うかと聞かれて、立ち往生し、ブッシュドクトリンそのものを知らなかったということがバレてしまいました。またアメリカ国外に殆ど出たことがないペイリンは、外交政策の経験について聞かれて、「アラスカはロシアに近いしカナダにも近い」と意味不明の返答をして司会者を呆れさせました。これらの失態が、Saturday Night Liveのパロディーで散々、茶化されたと思ったら、続く、CBSのTVインタビューでもさらに、対パキスタン政策でマッケーンの主張と反対のことを言って、馬脚を現した上、今回の金融危機についての回答では、まったく意味不明のポイントがずれまくったことを延々としゃべりまくり、インタビュアのKatie Couricを呆然とさせました。おかげで、Saturday Night Liveは絶好調です。( http://www.nbc.com/Saturday_Night_Live/video/clips/couric-palin-open/704042/)。うわさによると、現在、アリゾナのとある場所で、討論に備えて、マッケーンキャンペーンの教育係が、付きっきりで教育しているらしいです。あれだけ国民の前で、「I’m ready for the vice president!」と大見得をきっておいて、少なくとも外交や経済の知識については、その辺の小学生なみに何も知らないのがまるわかりなので、見ている方が恥ずかしくてうつむいてしまいます。そして今晩、ジョーバイデンは、つまりこの小学生みたいなペイリンと討論することになります。問題は、一般アメリカ人の多くはペイリンなみであるということでしょうか。まともな英語もしゃべれない史上最低の大統領と言われたブッシュでさえ、2期も大統領をつとめた国なのです。大衆をあなどってはいけません。バイデンが討論でペイリンを完膚なきまでに打ちのめすのは易しいことでしょう。そうなると、少数派の知識層は、やっぱりペイリンはダメだなあとため息をついて終わりですが、多数の一般アメリカ人の半分ぐらいは、バイデンみたいな大人がペイリンみたいな若手の女の人をいじめている、バイデンは根性が悪い、というようにとってしまうことも十分、考えられます。人間は感情の動物ですから、ペイリンではとても副大統領など務まるわけがないことが理屈で分からない人々は、人の情の判官贔屓で、「がんばれペイリン、負けるな、一茶ここにあり」というようなことになりかねないということなのです。バイデンはあのお得意の作り笑いを控えめにして(この人が作り笑いしていない顔はパタリロみたいでちょっと怖いですが)、しかも論理的かつ冷静に、ペイリンと対峙しなければなりません。いくら本当に馬鹿なことを言っても、8年前のアルゴアのように相手を馬鹿にした態度をとることは許されませんし、完膚なきまでに叩きのめすことも駄目です。バイデンは、相手の意見を尊重しているふりをしながらも、それよりもよりよいプランを具体的に示して、国民に「なるほど」と頷いてもらえるような討論にしなければなりません。ペイリンには自分自身の考えは殆ど何もなく、マッケーン教育係に詰め込まれた付け刃の知識があるだけです。おそらく、ペイリンは共和党党大会の時のように、相手を批判することしかできないでしょう。バイデンは、ペイリンの根拠のない攻撃に対してまともにカウンターを喰らわせてペイリンをノックアウトするようなことをしてはいけません。そういう大人げない態度はマイナスです。想像するに、バイデンは噛み付いてくるペイリンの攻撃を丁寧にブロックしつつも、じわじわ利いてくるボディーブローをさりげなく打ち込んでいって、ペイリンの自滅を誘う、そういう展開をねらっているのではでしょうか。さりげないボディーブローはマッケーンの政策の批判を中心に討論を組み立てることで自然に可能でしょう。ペイリンはマッケーンの基本政策でさえ理解していない可能性がありますから、バイデンのマッケーン攻撃に対してペイリンがしゃべる機会が多くなるほど、自ら墓穴を掘る確率が高くなると思われます。もしも、今回の討論会で、TVインタビューのときのように、ペイリンが無知をさらけだして、壇上で立ち往生するようなことになれば、マッケーンキャンプは窮地に陥ります。ペイリン起用で押さえたつもりの共和党保守派の中からペイリンでは不安だという声が既に次々にあがっているのです。マッケーンはヒヤヒヤものでしょうね。なんとかゴングがなるまで立っていて欲しい、と思っているでしょう。一方、マッケーンキャンプは鵜の目鷹の目でバイデンのあら探しをして、前の「豚に口紅」のときのように、討論が終わった瞬間から、みっともない言いがかりをつけて大騒ぎして、ペイリンの無能ぶりから国民の注意をそらそうとするはずです。
本番は見れませんが、Saturday Night Liveが楽しみです。
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