百醜千拙草

何とかやっています

日本の子供とトルコの山の環境問題

2007-10-30 | Weblog
Science誌にビデオゲームの「ムシキング」のことが紹介されていました。日本の男の子にとっての夏休みの楽しみの一つは、カブトムシやクワガタムシを飼うことだと思います。私の子供時代も夏休みは親に頼んで朝早くに山の中までムシを探しに行きました。幻のオオクワガタを捕まえるぞと意気込んだものですが、現物は見た事はありません。コクワガタ、ミヤマクワガタとか、良くてノコギリクワガタとかを捕まえた覚えがあります。捕まえたクワガタムシは友達と見せ合ったりして楽しみました。ムシは見つけて捕まえる所が最も面白いと思っていましたが、私の子供の頃からデパートでは、カブトムシの成虫や幼虫が子供向けに売られていました。最近はそのビデオゲームのためか、普通のカブトムシではなく、外国の変わったムシが好まれるのだそうです。当然、日本にはいませんから輸入されてくるわけです。年間一億匹という数だそうです。その中で最も人気なのが、Lucanus cervus akbesianusという学名の稀なクワガタムシで、南トルコのアマノス山脈のみに生息するものだそうです。既にアマノス環境保護協会では、このムシの過剰捕獲による絶滅の可能性に対して警告を発しているとのことです。一方、日本でも有識者は、外来性輸入種が野生に入った場合におこる可能性のある国産種の駆逐を危惧しているそうです。
本来、田舎の子供のローカルな遊びであったクワガタムシ採集が、ビデオゲームなどの影響で外国の環境問題にまで発展していっていたとは知りませんでした。
買ってでも珍しい昆虫を手に入れたいと思う子供の気持ちはよくわかりますが、おそらく買ってやるのは親だと思います。売っているから買うわけですし、買う人がいるから目の色変えて、この稀少なムシを捕まえてはお金に替えようとする人がいるわけです。でも、これが外国の自然の破壊に繋がる行動であるかも知れないことを分かった上で、それでも子供のためにと買ってやってやる親は少ないと思います。産業革命以来、人の需要を満たす以上の有形無形のものが、富を蓄積という目標のもとに作られ、浪費され、破壊されています。富とは金であり、「金で何でも買える」時代は金を蓄積することが最優先されることは理解できます。しかし現在、金では買えない環境や自然や文化(稀少民族や言語の絶滅の問題は以前から注目されています)が失われていっています。そしてやがては自然からの恵みである食料が金では買えないようになる可能性があります。世界での情報交換が信じられないような規模とスピードでできるようになった今日、我々のちょっとした欲が、それを利用して利潤を得ようとする者の欲を刺激し、その悪循環があっと言う間に地球規模での大問題と発展し得るわけです。情報を得ることがより易しくなったからこそ、情報を正しく取捨選択し、正しく理解し、正しい行動に結びつけることができるように人はもっと賢くなる必要があります。情報は力であり、悪用すれば極めて危ないものです。危険物はそれをコントロールできる人のみによって扱われるべきだと思います。
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環境問題、宇宙からのメッセージ

2007-10-26 | Weblog
随分前に出版された立花隆の「臨死体験」という本では、臨死体験の体験者へのインタビューを通じて、その体験とはどういうものかを多面的に考察されているのですが、その中で著者は、死にいく過程の研究で有名な精神科医であるエリザベス キューブラー ロス博士にインタビューしています。私も若いころ、病気で若くして亡くなっていく人々に接する機会が少なからずあったので、「死んでいくこと」がどういうことなのか知ろうとして、キューブラーロスの著作も含めて死について書かれたものを数多く読んだ覚えがあります。結局、何ら満足できるような答えは見当たらず、死ぬということは非常に個人的なものなのであろうという漠然とした思いが残っただけでした。ロスの活動は後に、他の人の手によってホスピスという概念と実践に結びつく事になります。ロス自身は三年前に亡くなってしまったのですが、十年近く脳梗塞の後遺症に苦しんだ後、彼女自身の死の床に際して、「自分のやってきたこと(死にいく人の心理を科学的手法において理解しようとすること)は無駄だった」という旨のことを言ったと伝え聞きました。死への心理的プロセスとは客観的に記述できる類いのものではないとの実感から出た言葉なのか、あるいは死のプロセスの研究が自分自身の死へと向かう苦しみに対して無力であったことを実感したからなのか、今となってはロスの心境は想像する以外には知りようもありません。その立花隆のインタビューで、ロス自身が臨死体験者であること、幽体離脱といわれる肉体からの解離体験の持ち主であることを私ははじめて知りました。興味深いことに、ロスは臨死体験に際して、自分が死に向かっていることを自覚しており、「死んでいく」ことに対して大変ポジティブな興奮を覚えたことを(いわば、死んでいくことの喜び)語っています。
 またロスは幽体離脱体験を雄弁に語っています。幽体離脱とかいうと、常識的な人はすぐ眉につばをつけ出しますが、体験者は相当数いるわけで、これを皆が理解できるように説明できないために、こうした経験は余り深く研究される事なく放置されています。しかし、いわゆる「ニューエイジ」が流行った頃は、 幽体離脱 (Astral projection, astral travel)の訓練法の手引書なども出版されており、私の知る中では、30日のトレーニングでアストラルトラベルができるようになるという本を見たことがあります。目的は自分の体を抜けて空間と(時間)の制限を越えて移動できるようにすることです。私もちょっと試してみましたが、トレーニングの二日目で脱落しました。どうもトレーニングすれば誰でもできるといった類いのものではないようです。ともあれ、ロスが立花隆に語ったアストラルトラベルの話は、かなり驚くべきものでした。本はもう手元に無いので記憶を頼りに書いていますが、アストラルトラベルができるようになったロスは、何万光年を旅してどこかの星雲に住む人間よりはるかに優れた知能を持つ宇宙人と話をしたというようなことを語ったのです。そして興味深いことに、その宇宙人は現在の地球の環境破壊の様子について、この環境がもとに戻るには非常に長い時間がかかるというようなことを言ったと彼女は語っています。私はいわゆる霊感とか超能力とかゼロの人間ですが、そういった特異能力を持つ人と何人か話した経験から、自分の目に見えないものも無闇に否定しないし、むしろ積極的に存在の可能性を認めようとする立場です。フロイトよりはユングの説を支持しますし、オカルトとかニューエイジとか十把一絡げにして「怪しい」とレッテルをはっておしまいという非科学的な態度は軽蔑していますから、いつかは是非とも自分自身でこうした経験をしてみたいと望んでいます。自分の身近な人の体験談などから、「死後の世界はあって、死に行く時にはお迎えがやってくる」ということは、私自身は見たことはありませんが、文字通りに信じています。昔の知り合いの小児科の先生は、お迎えや死んだ人が見える人で、病棟の誰かの死が近づくとお迎えの人が見えるのでわかるのでした。この程度のことは私も信じているのですが、宇宙人については、宇宙人と話をした人が身近にいないこともあって、私もロスの話をどう解釈していいのかよくわかりませんでした。常識的には、何万光年も離れた所に幽体とは言え移動できるのか (アストラルトラベルの訓練書では、徐々に肉体から距離を離していくようにトレーニングするように書いてあります)、その知能の高い宇宙人とはどのように会話をしたのか、(少なくとも私は幽体状の人と会話できる自信はありません)どういう言語を用いたのか、あるいは言語以外の方法で意思疎通したのか、どうしてその宇宙人が何万光年も離れた地球の様子を知っているのか、考え出すと謎だらけです。ロスが虚言を吐くような人であるとは思えませんから、ロスの語ったところは、事実であったか、少なくともロスが事実であると認識しているところのものなのだと思います。その経験そのものは置いておくとして、もし全て本当だとした場合、宇宙人の地球環境へのコメントは、ちょっと怖いものがあります。宇宙人でさえ地球環境の破壊度を心配しているのですから、これはやはり大問題なのだと思います。
 人類が誕生するずっと前からの地球の歴史を遠方から眺めれば、現在人類の「破壊」した環境というのは、ちょっとした変動のうちにしか過ぎないかも知れません。変わらぬものなどないのですから、「破壊」と言わずに「変化」と呼ぼうとする立場があっても不思議はありません。しかし、こういう考えは、人類が自ら滅亡に向かって加速しながら一直線に進んでいるという現状を少しも変えはしません。人類の滅亡もその「変化」のうちですが、自分もその子孫も先祖も人間の一人であるという事実を実感として持っており、自分や家族や子孫はかけがえのない大切なものであると考えているのなら、日々おこっているこの「変化」は滅亡に向けての人類の「自己破壊」であると認識しなければならないと私は思います。
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イグ ノーベル賞で非殺傷兵器炸裂(?)

2007-10-23 | Weblog
毎年笑わせてくれるIg Nobel賞、10賞が、10月4日、ハーバード大学で授与されました。Ig Nobel平和賞には、オハイオのアメリカ空軍研究所からの研究計画が選ばれました。そのアイデアは、敵の兵士同士がお互いに性的に引きつけられてどうしようもなくなるようにさせる催淫薬の開発で、名付けて「gay bomb」、「おかま爆弾」とでも訳すのでしょうか、そういう兵器を作るのが目的だそうです。これはテキサス オースチンのサンシャインプロジェクトのためのものらしく、そのディレクターが、「non-lethal weapon」推進のCDを見た時にこの計画に気づいたそうです。因に、サンシャインプロジェクトは生物兵器の情報公開とその使用に反対する運動です。(生物兵器は太陽光線で不活性化されるものが多いことからの名称のようです)この「おかま爆弾」計画が今後遂行されるかどうかはわからないそうです。というのはこうした国防のアイデアは本来、最高機密扱いで、一般に情報が漏れることはないからです。「おかま爆弾」計画が一般市民に漏れた以上は、その新兵器の開発が実際に行われる可能性は低いのではということです。
その他のIg Nobel 賞については、言語学賞は、バルセロナ大学の研究者に授与され、ラットは日本語を逆向けにしゃべる人とオランダ語を逆向けにしゃべる人をいつも区別できるわけではないという発見(?)に対して与えられました。Ig Nobel航空学賞は、ハムスターの時差ぼけを治すのにバイアグラが効果があることの発見に対してアルゼンチンのクイルメス大学の研究者に授与されました。
(Nature 449, 648 2007より)
因みに、本年の日本人受賞者は、国立国際医療センター研究所の元研究員、山本麻由さんで、化学賞に選ばれたそうです。牛のふんからバニラの香りの成分である「バニリン」を抽出する方法を開発した功績を評価されたとのこと。こうして抽出したバニラ成分は何に使われるだろうと、昨日バニラアイスを舐めながら考えました。昔、はやった究極の選択、「カレー味のXXX」か「XXX味のカレー」のどちらを選ぶかでハムレットになってしまった自分を思い出しました。そう言えば、誰かのエッセイでこの究極の選択を外国人を交えてやった時の話を読んだことがあります。この究極の選択の面白みは、誰も「XXXの味」を知らないからこそ成り立っていると考察してあるのですが、その外国人の中にいたモンゴルの人は、なんと自分のXXXを子供の時に食べたことがあると告白したらしいです。モンゴルでは体の弱い子供にXXXを食べさせることがあるらしく、その会で彼が「XXXの味わい」を多少具体的に語ったために、「架空」だからこそ可笑しい話が、急に気持ち悪い現実となって居合わせた人々の目の前に突き付けられたということでした。

、、、これ以上のコメントはやめておきます。
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環境問題、未来からのメッセージ

2007-10-19 | Weblog
環境問題の続きですが、大気の汚染に加え、化学物質や油、産業廃棄物、殆ど全ての毒性物質や人間のつくり出す有毒な廃棄物は結局、海へ流れ込み、汚染が海に蓄積することになります。食物連鎖による脂溶性化学物質の蓄積により、マグロなどの大型魚類はかなり危険なレベルまで汚染されており、妊婦や子供は摂食しないようにとの勧告がなされています。大人でも週に一回一切れぐらいに留めるようにしないとメチル水銀などの神経毒などによって発病する可能性がでてくるようです。ツナの缶詰を週に一回食べていた女の子の髪の毛のメチル水銀のレベルは食べなかった姉妹の数十倍近い数値であったというような話も聞きます。
日本の食文化に海の幸は欠かせません。漁業やその周辺でのビジネスの規模を考えると、マグロなどの大型魚類やその加工品のかまぼこなどを食べないようにしましょうというようなキャッンペーンを行うとかなり大きなパニックになる可能性があると思います。おそらくそういう理由で、現在のところ日本では海産物の摂食について、政策側が積極的に抑制をかけようとはしていませんが、このまま放置すれば、近いうち水俣病患者が全国規模ででることになるのは間違いないだろうと思います。少なくとも私は魚やその加工品はなるべく食べないようになりました。もちろん危険なのは海のものだけに限りませんが、海に全てが流れ込むという性質上、海のものが最も危険であるのは間違いありません。この汚染され、破壊された環境は将来どうなっていくのでしょうか。いったい人類にとって安全なレベルまで回復する可能性はあるのでしょうか。

ところで、昔から生まれ変わりの例が数多く報告されています。私も東洋の人間ですから生まれ変わりはあるであろうとは思っていますが、自分自身でそうした例に直接遭遇したことはありません。私が結構納得させられた例は、イギリス女性、Jenny Cockellの生まれ変わりの話でした。彼女の「Across time and death」というタイトルの本は、過去の生涯の記憶を実際に確認していく過程を綴ったものです。彼女は彼女の産まれる二十年程前に35歳で死んだアイルランド女性、Maryの記憶を持っていて、その記憶を頼りに自分の過去の人生をたどり、Maryや彼女の記憶にあるものが実在した事を確認し、最終的にMaryの子孫に会うという話です。興味深いのは、彼女はどうも未来の自分の人生の記憶も持っていて、ネパールでの少女時代の一部の記憶があるらしいです。未来のことなのでこれは確かめようがありませんが、彼女の記憶に基づいた村の様子に非常に近い所がネパールに存在するらしいです。もちろん、彼女はネパールに行った事もなく、ネパールについて殆ど何の情報ももっていませんでした。(今ならインターネットで世界中の情報が瞬時に手に入りますが、この本の出版されたころはインターネットやe-mailは使えない時代でした)こうした未来の記憶をもっている人の話は他にも複数、読んだり聞いたことがあります。時間が一定方向に流れていくという現代の常識から考えると、未来の経験を過去形で語れる経験があるというのは理解しがたいことですが、ホーキングによれば宇宙の終焉には時間は逆方向に流れるらしいですし、時間が私たちの感覚のみによって考えられているような形でしか存在しえないとは結論できないと思います。生まれ変わりとか未来の記憶とかのこうした常人には理解困難な話のメカニズムの説明はともかく、私のいいたいことは、これらの例では、比較的似通った未来の世界の様子が描写されているようだということなのです。今から百年ぐらい先の未来では、地上は静かで緑にあふれているのですが、人口はかなり減少しています。しかし海の汚染はひどいままです。こうした話を私は十五年以上は前に出版された本によって知ったのですが、その出典がどうも突き止められないので、私が覚えているこれ以上のことについての未来像はわかりません。少子化や海洋汚染による海産物の危険の問題は比較的近年クローズアップされてきたように思うのですが、割合古いこれらの本にこうしたことが、いわば予言的に書かれているというのは、私にとってはちょっと驚きなのでした。これまでの傾向を見ていると、未来の人口減少と海洋汚染はかなりの確率で実際におこることだと思います。一見、静かで緑あふれる地上が実は激しい汚染によって人口が減少したためであるという未来像は、ちょっと怖いものがあります。中学生時代に読んだレイチェルカーソンの「沈黙の春」に私は強い恐怖を覚えたのを思い出します。この有名な本はエコロジスト、カーソンが1962年に出版した化学物質による環境汚染の告発書で、この本がアメリカ社会を揺り動かし、DDTなど合成殺虫剤などの大量使用に歯止めがかかる原因となりました。しかし現在では、合成化学薬品の開発は、以前にも増して盛んとなり、バイオテクノロジーの分野では、微小合成化学分子のライブラリーなどを用いて生物活性があり、薬となりうるような化学薬品の開発、発見に余念がありません。そうした新しい薬が発売される時には、その薬品が長期において人間や他の生物にどれぐらいの影響があるのかはもちろんわかってはいません。せいぜい百名足らずの限られた数の臨床試験で、短期間に目に見えるような副作用がないことぐらいしかわかっていないはずです。まして、商品となった場合、大量に合成された生理活性をもつ薬品が、世界中にばらまかれ、多くの人に長期間使用され、人体に入り、排出されて、環境にどんどん蓄積していく、その影響がどれほどのものか誰も知りません。そして万が一、思いもかけない悪影響があるということがわかった時には、こうした化学物質を環境から除去する方法はまずないのです。実際、これまでに環境に蓄積されてきた生理活性物質の影響と思われる動物の奇形、不妊が報告されています。人間の男性の平均精子数は、近年、激減しているおり、人間の環境に存在するホルモン様作用を持つ化学物質が原因となっている可能性が示唆されています。こうした現状を人間はすぐにはどうすることもできません。
 十五年前、12歳のセヴァンスズキさんは、リオデジャネイロで開かれた地球サミットで、子供代表として「伝説のスピーチ」をしました。インターネットでその全文の訳を見つけたので、転載します。YouTubeでもそのスピーチの様子がアップされていました。

セヴァン=スズキスピーチ全文

こんにちは、セヴァン・スズキです。エコを代表してお話しします。エコというのは、子供環境運動(エンヴァイロンメンタル・チルドレンズ・オーガニゼェーション)の略です。カナダの12歳から13歳の子どもたちの集まりで、今の世界を変えるためにがんばっています。あなたがた大人たちにも、ぜひ生き方をかえていただくようお願いするために、自分たちで費用をためて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。
 今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。
 私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。
 太陽のもとにでるのが、私はこわい。オゾン層に穴があいたから。呼吸をすることさえこわい。空気にどんな毒が入っているかもしれないから。父とよくバンクーバーで釣りをしたものです。数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまで。そして今、動物や植物たちが毎日のように絶滅していくのを、私たちは耳にします。それらは、もう永遠にもどってはこないんです。
 私の世代には、夢があります。いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。でも、私の子どもたちの世代は、もうそんな夢をもつこともできなくなるのではないか?あなたがたは、私ぐらいのとしの時に、そんなことを心配したことがありますか。
 こんな大変なことが、ものすごいいきおいで起こっているのに、私たち人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。まだ子どもの私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきりわかりません。でも、あなたがた大人にも知ってほしいんです。あなたがたもよい解決法なんてもっていないっていうことを。オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのかあなたは知らないでしょう。
 どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。
 ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。あるいは、報道関係者か政治家かもしれない。でもほんとうは、あなたがたもだれかの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなんです。そしてあなたがたのだれもが、だれかの子どもなんです。
 私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。そうです50億以上の人間からなる大家族。いいえ、実は3千万種類の生物からなる大家族です。国境や各国の政府がどんなに私たちを分けへだてようとしても、このことは変えようがありません。私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。私は怒っています。でも、自分を見失ってはいません。私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。
 私の国でのむだ使いはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それでも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を分かちあおうとはしません。物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。 カナダの私たちは十分な食物と水と住まいを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。
 2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。
 「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」
 家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。
 これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじきをしてたかもしれないんです。
 もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどこのことを知っています。
 学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、

争いをしないこと
話しあいで解決すること
他人を尊重すること
ちらかしたら自分でかたずけること
ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
分かちあうこと
そして欲ばらないこと

 ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。
 なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。 親たちはよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」といって子供たちをなぐさめるものです。あるいは、「できるだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。しかし大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。
 父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたがた大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。
 最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。

このスピーチから十五年、人類に多少の進歩はあったでしょうか?私は小さな進歩はおこりつつあるように思います。しかし、それらの進歩は余りに小さく、現在の破壊され汚染された環境を目に見えて改善するほどの力はまだないようです。しかも一方では、車、産業、様々な方法で私たち人間は環境を破壊し続けています。でもできることしかできないのだから、それをやるしかありません。 行動しないよりは、小さくてもできることをやるほうがずっといいです。ひょっとしたらその小さな歩みをずっと続けるうちに、光明が見えるかもしれません。百年先は無理でも、千年先ぐらいには。
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ノーベル平和賞とゴアの挑戦

2007-10-16 | Weblog
アル ゴアがノーベル平和賞を受賞しました。彼の地道な努力がとりわけ最近数年、実を結びんでこの受賞に結びついたのだろうと思います。
2000年の大統領選では、がっかりさせてくれました。最後の天下分け目のフロリダの投票が僅差でもつれにもつれた上に、投票用紙の不備や数え間違いが重なり、最高裁まで投票結果の有効性について審議が上って、結局、最高裁の判断が勝敗を決めたのでした。そのため、彼は結局、2回もConcession speechをしたのでした。皮肉なことに、この大統領選での彼のベストスピーチはおそらく、最後のConcession speechでしょう。票数を数え直している間に早々と「勝利宣言」をしてしまうブッシュの厚かましさに比べると、ゴアの大統領選にかける情熱は控えめに見えました。実際のところ、「大統領になりたい」という欲は、それほど強くなかったのではないかと想像します。彼の情熱が地球の環境問題であった以上、一国のしかも環境破壊のリーダーともいえるアメリカの大統領となった場合、アメリカの利益と地球全体の利益との間で板挟みになってしまうのが嫌だったのではないかとも思います。環境問題は、地球規模で対処しなければならない大問題となっています。京都プロトコールで二酸化炭素の排出量抑制の基準が示されましたが、先進国で真っ先に京都プロトコールを遵守しないと宣言したのはアメリカでした。地球の環境よりアメリカ経済の方が大切だというわけです。アメリカの国益を優先するためにおこる、いわば国レベルでの「外部不経済」です。アメリカ経済がアメリカ一人で持っているわけではないのですから、このまま環境破壊が進めばアメリカだって困るはずです。このことは皆が多かれ少なかれわかっているのですが、遠い先のことと思って見て見ないふりをしてきたものです。地球規模での環境問題を解決するということは、この「外部不経済」を内部化する必要があります。しかし内部化するための代償は誰が払ってくれるのかということになると、アメリカは世界のリーダーだと言っているわけですから、アメリカ以外の誰も払うはずがないのです。そしてアメリカが自国の経済にマイナスになることがわかっていることを自らする筈がありません。そうすると、この外部不経済の内部化がおこるためには、アメリカよりも上の地球全体を統括するような権力が必要です。勿論、そんなものができる筈はりません。ゴアがアメリカの大統領となって、果たして環境問題の解決に向けて政策面から動けるかというと、まず無理でしょう。アメリカ人に限らず、皆利己主義なのです。アメリカ人の多くが、地球の未来よりも、今日一日をどう生き延びるかということに心を向けています。国民は地球の未来のことより、自分の現在のことを優先してくれと言うでしょう。ゴアが政治から身を引いてやってきたこと、地球市民のひとりひとりに問題の重大さを認識してもらい、上からではなく下から世界を動かそうとすることは、大統領になって政策面からなんとかしようとするよりも、もっと効果的であったであろうと思います。結局、政治はどうやってもゲームの領域を出ないのです。この点でゴアの選択は正しかったと私は思います。このノーベル賞受賞を受けて、早速ゴアを2008年の大統領選に担ぎ出そうとする人も出てきています。ゴア本人は出馬することはないでしょうが、ゴアが環境問題にプラスに働けるような候補者をendorseすることで、特定の民主党候補者が民主党の指名並びにその後の大統領選を有利に戦える可能性があります。(民主党では、既にヒラリークリントンの独走状態のようですが、こればかりは蓋を開けてみないとわかりません。前回の大統領選で、ゴアのendorsementを受けたハワード ディーンが、予備選挙前の絶対優位の予測に反して、早期の予備選挙での大敗を喫して早々と大統領選から脱落しました。前回のゴアは2000年の大統領選に敗れた人でしたが、今回のゴアはノーベル平和賞受賞者かつアカデミー賞受賞者という勝者ですから、彼のendorsementの価値は随分違う可能性があります)
環境問題におけるゴアの努力が生前に報われる可能性は高くはないと思います。彼の努力もあるいは全人類の努力も、すでにここまで破壊が進んだ地球環境にとっては焼け石に水かもしれません。しかし、この困難な問題に真摯に取り組んで努力する姿勢が人々に評価されるようになってきています。このような地道な活動が地球の将来を心配する人々の手によって、大きく拡がっていくことを私も願っています。
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「お話し」のお話し

2007-10-12 | 研究
科学論文での「お話し」の話なのですが、先日の柳田充弘先生のブログの中で、「お話し」性に乏しいが、キラリと光るデータがある論文を投稿した時の話が、ありました。「お話し」、ストーリーのある論文というのは、読み手からみると読みやすくて面白いのは間違いないです。生物科学論文での典型的なお話しというのはこんな感じです。

実験なり観察の結果、何らかの新しい現象を発見した。その現象を詳しく調べてみると、ある分子が変動していることがわかった。その分子を操作してやると、発見した現象が再現されることがわかった。こうして新しい現象とそれが起きてくる機構を明らかにした。

実験の結果、何らかの新しい現象を発見するということさえ、簡単なものではありません。実験そのものが困難であったり、実験結果の解釈が難しかったり、再現性がなかったり、します。新しい現象が見つかれば、まず論文にはなるということです。一人の人が一生懸命頑張って実験して出せる論文の数を見てみれば、この部分も簡単でないことがわかります。しかし現在では、ハイプロファイルのジャーナルは多くが、ほぼ完全な「お話し」を要求することが多い訳です。いくら大発見がそこにあっても、それを別のレベルで説明する、いわゆる「メカニズム」の部分にきれいなデータがなければ、「descriptive」と一言いわれてrejectされることになります。実際のところは、そんなきれいな「お話し」がそうそう見つかるわけはないのです。最近の生物学はテクニカルに高度なものとなってきていますから、分子(または遺伝子)で細胞や組織や個体を語ることが要求されます。遺伝子と一言で言っても、少なくとも何万種類はあるわけで、それらの遺伝子産物の天文学的な数の分子が天文学的な数の相互作用をし、その結果、細胞なり組織なりのレベルでの現象となって現れていくわけです。ですから、そこにまるで一直線の矢印のように、ごく限られた分子をつなぐシンプルでわかりやすい因果作用があるというようなことを「お話し」しなければならないとすれば、それは現実を大きくデフォルメしたものにならざるを得ません。「お話し」は読者が本来複雑な現実をわかったように感じるための方便であると私は思っています。しかし、最近の傾向を見ていると、「お話しは(嘘であるとは言いませんが、現実のごく一部を強調したものですから)方便である」という私のスタンスは、論文の出版を左右する人々の中では、どうも少数派のような気がするのです。実際に自分の手を動かして実験をやっている人なら、私の意見にかなりの率で同意してくれるとは思います。実験というものを昔のことで忘れてしまった人や、研究は論文を出すのが究極の目的だと思っている人、科学論文にSF小説並みの娯楽性を求めてしまう人、そういう人たちが「お話し」至上主義とでもいいますか、この傾向を助長しているのではないかと思うのです。中には、しっかりした観察事実に基づいた本当に素晴らしい「お話し」がある論文もあります。ところが、多くの論文では、現象を違うレベルで語る「メカニズム」の部分は、怪しいものが多いのです。でっちあげでもない限り、そんな簡単に面白いお話しが現実に発見できるわけがないというのが実験研究者の常識でしょう。私の分野でもトップジャーナルに論文を量産している人がいますが、最近は「お話し」さえ面白ければいいとでも思っているような論文ばかりで感心しません。要するに本末転倒なのですが、きっと本人はこの辺は確信犯で、都合の良いデータを組み合わせて「お話し」を作り上げるのは、論文を書く上での正当なレトリックのうちとでも思っているのでしょう。論文の現象面はおそらく本当なのだと思います。(最近は、それさえ怪しいと言われているのもあるようです。前述した通り、新しい現象を見つけるだけでも大変なことなのです)「お話し」部分は、きっと、どうせきれいなメカニズムなどわかるわけがないのだから、都合の良いデータを拾って、面白いお話しを作ってしまえ、とでも考えているのではないかと勘ぐってしまうような論文が多いのです。あるいは、自分で手を動かして実験しているわけではないでしょうから、ひょっとしたら自分の考えに沿ったデータがたまたま出た瞬間、自分の嘘を信じてしまうのかもしれません。事実を知っているわけではないので、これ以上の勘ぐりは止めておきます。
有名雑誌に論文が載る事が、研究費も昇進も含めて研究者のキャリアに最も大きい影響力を持っている現実がある以上、論文を通すためなら何だってやるという人がいてもおかしくはないです。面白そうな現象を見つけ、探っていくうちに、本当だったらすごく面白い「お話し」が心に湧いてきます。研究者にとってそうした瞬間が最もワクワクするものだと思います。十中八九、その期待は裏切られるのですが、人間、自分のアイデアにうっかり惚れ込むと、中々それを捨てる決心がつかないものです。こんなデータがあったら「お話し」が完結して、Natureに載るかも知れないと思うと、どうにかしてその「お話し」に沿ったデータを出してやろうと思ってしまうのは人の性でしょう。まともな人は、そこで踏みとどまって、客観的にデータを眺めて、その仮説の妥当性を検討しなおして仮説が間違っている可能性が強ければ、それを捨てて新たに仮説を立て直して実験を繰り返し、本当の「お話し」を求めて、苦労を続けることになります。しかし、もしも最初に思いついた美しい「お話し」が本当だったらNatureだったのです。そして答えがあるかどうかわからない疑問を辛い思いをして追求する必要もなかったのです。仮に真実のお話しが見つかってもNatureに届かないような話なのかも知れないのです。このように、研究者にとって「お話し」が当たるかどうかは天国と地獄ぐらいの差があることを考えると、ちょっとくらいという気持ちからデータを捏造したり、故意に誤った解釈をしたりするものがいても不思議はありません。
それにしても、この「お話し」至上主義は、健全な科学の発達のためには、一般に認識されている以上に有害なのではないかと私は思っているのです。因に過去十年間で、私が最も感銘を受けた論文は、2001年のScienceに3グループから報告されたmicroRNAのクローニングの論文でした。クローニングしたというだけの論文で、お話し部分は全くのゼロでしたが、その発見の衝撃は強烈でした。実際、現在の私の研究題材はそれらの論文の影響によっています。その後、2003年にNatureに、microRNA 23がNotchシグナルを制御して神経細胞の分化をコントロールするという、非常にきれいな「お話し」の論文が、東大を懲戒解雇された某グループから出ました。後に、上手の手から水が漏れ、捏造の尻尾を捕まえられて、論文撤回となりました。皮肉なことに、この論文は、私が最も「お話し」が美しいと思った論文の一つだったのでした。「お話し」に限りませんが、きれいなものには注意しなければならないということを改めて学んだのでした。
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スーパーマリオのノーベル賞

2007-10-09 | 研究
本年のノーベル医学生理学賞の発表があり、ジーンターゲッティングの技術の発見、開発に対して、ユタ大学のマリオカペッキを含む3人に賞が与えられたというニュースを聞きました。マウスのジーンターゲッティングの技術は、現在でマウス遺伝学手技を用いた研究を行うものにとっては必須のものとなっており、この技術が現代の医学生物学研究に与えた影響を考えると、ノーベル賞は当然です。結局これだけノーベル賞が遅れたのは、おそらく誰を受賞者の3人に絞るかという点が問題になっていたのでしょう。この技術は数多く技術革新が複合的におこってはじめて可能になったものです。まずは安定したES細胞の培養の確立、これはフィーダー細胞やLIFがESの分化抑制に有用であるという発見が不可欠でした。またES細胞とホストの胎児とのキメラマウスを作成する技術、違った種類の細胞を混ぜ合わせて一個体をつくるための技術、そのキメラの胎児を代理母の子宮へ返して育てる技術、決して簡単に開発できたものではありません。そして何より大きな技術的革新が、ES細胞のゲノムの一部を外来性のDNAで置換する技術(狭義にはこれがジーンターゲッティングですが)で、マリオカペッキの貢献はここにありました。アメリカの医学生物科学への主たる研究基金であるNIHは非常に保守的な機関で、研究計画の審査に当たっては、リスクの小さい研究、即ち研究の結果が確実に知識の増大につながるようなものが優先されます。成功すればその成果は大きいが成功する見込みが小さいか、あるいは成功する見込みが読めないような研究は、歓迎されません。ちいさなことをコツコツやるような研究計画が好まれるのです。ある意味、知識の隙間を埋めるような、最初から結果やその成果が予測できるような研究(逆説的には、やってもやらなくても大して変わらないような研究)が好まれます。カペッキのジーンターゲッティングのアイデアも当然ながらハイリスクであると考えられて、初期の研究資金の獲得に苦労したという話を聞いた覚えがあります。1980年代の後半、多くのグループがノックアウトマウスの作成にほぼ同時に成功したので、なおさらこの技術に関して誰が最も大きなクレジットを取るべきかという問題があったようです。
 マリオカペッキは現在ユタ大学在職ですが、イタリア移民で、数年前Natureのフロントページで彼が特集された時、その小説のような生涯に興味を引かれたものでした。イタリアでの幼少時は恵まれず、貧乏の中、盗みを働いたりして生き延びたというようなことが書いてあります。アメリカに渡って学問を志し、アメリカンドリーム研究者版を実現しました。彼はハーバードではDNA二重螺旋のジムワトソンのポスドクで、大変面白い現象を発見したにもかかわらず、ワトソンがそれを認めようとしなかったので、実験ノートを焼き捨ててしまったみたいなエピソードが披露されています。結果、誰かがすぐ彼の発見を再発見し、彼のせっかくの努力はワトソンの見る目の無さのために報われなかったのでした。ワトソンは学問を追及する科学者と言うよりは、例えは悪いですが、成功願望の強い山師的な人のように思います。ノーベル賞の相棒、クリックが学者の鑑みたいな人で、二重螺旋以外にも多くの非常に重要な科学的発見に寄与し、ノーベル賞受賞後も生涯一研究者であることを選び、一研究者として亡くなったことを考えると、ワトソンはクリックとの二重螺旋の後、研究的にはぱっとしませんでした。しかしハーバード、コールドスプリングハーバーと要職に就き、政治的な意味で科学界に貢献したのは事実で、ヒューマンゲノムプロジェクトなどの彼が主導した企画の成功が、現在の医学生物学研究に大きく寄与しているのは疑いもありません。
 私がカペッキの実物を見たのは一回だけです。小さな講堂だったので間近に話を聞きました。パターン形成に重要な働きをするHox遺伝子群の機能をマウスリバースジェネティクスを用いて解明するというのが彼の主な研究テーマです。訥々と誠実に研究の成果を語る様子が、ワトソンとはウマが合わないだろうなと思わせました。
私の現在リバイス中の某米国雑誌投稿中の論文と以前の同雑誌論文もアソシエイトエディターとしてカペッキを選びました。何となく、私にとってはラッキーパーソンのような気がしているので、彼の今回のノーベル賞受賞は、私もうれしく思っています。(実際、彼がジーンターゲッティングのアイデアを思いつかなかったら、私のこれらの論文はありえませんでした)
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白ける上に恥ずかしい日本の科学政策?

2007-10-05 | 研究
9/20号のNature誌のニュースのセクションで、日本のWorld Premier International Research Center (WPI) の選定が終わり、多額の資金が投入されるとのニュースがあらためて取り上げられていました。この短文では、WPIは、外国人科学者を引きつけ、外国との共同研究を促進することによって、世界をリードする研究施設をつくることを目標としていると述べてあります。これを聞いて白けてしまうのは私だけではないでしょう。選ばれた大学が、東大、京大、阪大、東北大、筑波ということで、わざわざワールドプレミアとかいう恥ずかしい名前のプロジェクトを作ってお金を落とさずとも、以前からお金には比較的苦労の少ない大学で、私は例によって実際を何もわかっていない官僚が机上の理屈でぶち上げた無責任プロジェクトを旧帝大が煽ったのだろうと、穿った見方をしてしまいました。外国人を引きつけ、云々といいますが、多額の報酬以外に外国人を引きつけるどのような魅力を創ろうとしているのでしょう?物価が高くて住環境が悪く、街では英語もろくに通じない日本での不自由な生活を余儀なくされるのが目に見えているのに、喜んでアメリカではなく、日本で働きたいという外国人がいるとはとても思えません。また外国人を雇うことが日本の研究施設にとってどれだけのメリットがあると考えているのでしょうか?平均を比較していみると、日本人並みの頭脳を持ち、日本人並みの正確さで仕事をし、日本人並みに長時間働ける研究者が、外国にそんなにいるとは思えません。ワールドプレミアと言うぐらいですから、雇いたい外国人は、プロダクティブな教授クラスの人なのでしょう。そういう人は既に十分よい研究環境にあることが多いわけで、日本がそうした人を呼んでくるには法外な報酬を払う必要があると思います。それだけの価値がある外国人がそうそういるとは思えません。更に、外国人を引きつけて外国と共同研究をする云々ということと、世界トップクラスの研究を行うこととは何の関連もありません。ワールドと言ってしまったので、外人コンプレックスの日本人官僚が、外人を入れなければワールドにならないとでも思ってしまったのでしょうか?あるいは手すりの飾りのつもりで外国人研究者を使うつもりなのでしょうか?また、外国人を引きつけといっている人は、多数の優秀な日本人研究者がアメリカやその他の国に引き抜かれたり、あるいは自ら研究環境に惹かれて外国で研究することを選択しているこの現実をどう思っているのでしょう。日本にそれだけの良い研究環境が用意できるなら頭脳流出はおこらないと思います。外国人でも来たいと思うようなそういう研究環境が整備できるのなら、まず優秀な日本人を優先的に雇うべきでしょう。日本の研究システムに外国人を入れてどうなるか具体的に考えてみると、まず、トップクラスの外人PIを多額の報酬で雇った場合、PIにとっては、優秀な日本人ポスドクにすぐ手が届くというメリットはあるかもしれません。しかし、だからといって、研究は人間の生活のうちの一部にしか過ぎないわけで、物価高と住居環境が悪く、文化や言葉で苦労する日本でそう長期に頑張ろうと思っている人はそんなにいないであろうと想像できます。それなりに数年やって、優秀な日本人ポスドクを利用するだけして結果が出れば、アメリカなどのよりよい施設に移動してしまうのがオチでしょう。そうして税金で高い報酬を払い日本人ポスドクを使わせてあげて、利用されて捨てられる、それでも「ワールドプレミアインターナショナルリサーチセンター!」と胸を張って言えるのでしょうか?ジュニアクラスの外国人、例えば他のアジア人とかであれば、日本に来たいという希望者はいるでしょう。そんな中から世界トップクラスを目指すような研究者が出るかというと、出ないであろう、と答えざるを得ません。世界トップクラスになるつもりの人なら、最初からアメリカに行くでしょう。英語を母国語としない国の人が、日本でジュニアクラスのポジションで研究をやるというのは、よほど特殊な理由があるか、つまり日本の特別な研究室でしか学べないなどの場合や、あるいは研究はそこそこでもよいから、自国に近いところで給料のよいところに留学したいと思っている場合ではないでしょうか。世界トップクラスの研究基地とつくるというのは悪くはないアイデアかも知れません。明らかな誤りは、外国人を入れると世界クラスを実現するのに役立つかもしれないと思っていること、資金を集中投入するとトップクラスの研究ができると思っていることではないでしょうか。むしろ逆だと思います。トップクラスの研究を促進するには、優秀な日本人研究者に投資し、ヘンな外人を入れないこと、資金は施設や大学にではなく人に投下することです。
この企画の本音を知っている訳ではありませんが、実際のところは、ワールドプレミアインターナショナルでも、ヒノマル研究センターでも、プロジェクトの名称や建前はなんでもよくて、お金さえ旧帝大に落ちるようにしてくれれば、体裁は何とでも整えますよ、という世界なのかも知れません。おそらく、みんなで楽しく冗談言っているのに、真に受けて青筋立てて真面目に意見されてもなあ、というのがその筋の人の思っているところなのでしょう。
とここまで書いていて、柳田充弘先生のブログでこのことに触れてある場所があったようなことを思い出して再訪してみました。その一部を以下に転載します。

年間15億円程度の研究費をだして、世界的にみて国を代表するものをつくりたいというのだそうです。名前はWorld Premier International Research Center (WPI) Initiativeというすごそうなものです。
これには、もちろん京大からも申請がでるのでしょう。ところが、なんと、京大からのは、出すと100%通ると最初から分かっているのだそうです。冗談だとおもいますが、担当副学長(理事)がいってるのだそうです。

というわけで、私の下種の勘ぐりも当たらずとも遠からず、すっかり白けてしまいました。この官と旧帝大の癒着体質は日本の研究界に極めて害悪であって白けている様な問題ではないのですが、旧帝大とその他の大学との格差がどんどん開いて非旧帝大系大学の一勢蜂起でもおこらない限り一歩の改善もないのでしょうね。官僚の多くが東大出身というのが諸悪の根源ですか。
そもそも現在の日本の研究を見渡して、世界トップクラスの研究が出ていないという人はいないでしょう。現に、同号のNatureに掲載されている研究論文14本のうち、日本人がトップ、またはシニアオーサーの論文は4本もあります。約30%が、日本人の重要な寄与によって形になったものです。因みに日本から出た論文は旧帝大からではなく、東工大からです。ハードコアセル/モルキュラーバイオロジーの論文で、Back-to-backのもう一本のイギリスからの論文の筆頭著者も日本人です。こうしたアネクドータルな例からだけ結論するわけではないですが、日本人および日本の研究施設の自然科学への寄与の度合いというのは、既に世界トップクラスなわけです。まるで旧帝大へ資金を都合するためのワールドプレミアなどという大袈裟な名前のこんな茶番をやるぐらいなら、外国人PIを一人雇うかわりに、ジュニアの日本人を二人雇い、旧帝大にセンターをつくってお金を出すのではなく、日本全体を見回して研究室レベルで投資を行うべきです。その方が日本の研究という点では百倍もよい。(と、また正論を吐いてしまいました)

少し話がかわりますが、研究費の分配について、しばらく前から柳田充弘先生のブログでJSTの研究費政策についての議論が進行しています。JSTの責任者の人の説明は、研究者の立場の人から非常に不評です。どうも政策の責任者の人は工学系の出身のようで、生命科学の基礎研究の性質というのも理解していないのが一つの理由のように思えます。工学ではトップダウン式のプロジェクトが比較的よく機能するようです。例えば、ソニーの北野宏明さんの、ロボカップのアイデアは大変面白いと思いました。プロジェクトのゴールはロボットチームと人間チームがサッカーの試合をできるようにするということなのです。目標とする所は極めて明快です。働く人の意欲をかき立てる夢のあるゴールです。しかし、サッカーができるロボットを作るということは、極めて多くの困難な問題を解決していく必要があります。ロボットの知能、知覚、判断力、運動能力、安全性、どれ一つをとっても、非常に高度なレベルが要求されます。真の狙いは、最終ゴールを設定する事で、解決するべき問題を明らかにし、それを解決していく過程で生まれる技術革新です。ゴールの設定、期間の設定は通常こうした応用科学である工学、技術系においては、研究を進める上でのよい指針となるようです。しかし、基礎生物学では、こうしたトップダウン式の研究方針は動きません。基礎生物学では、発明や工夫ではなく、発見することが第一であり、発見されるものは発見できるものに限られています。発見しようとして発見できるようなものではないのです。様々な研究の断片的な知識の集積、全く関係のない分野も含めての知識のマスという基礎があって、そこに努力と偶然が働いてはじめて、新発見につながるわけです。基礎生物学の営みの殆どは、この知識の断片のマスを増大させることに使われるわけで、そのごくごく一部が実地問題の解決に繋がる鍵となるに過ぎません。例えば「がんは重要な問題だから今後20年間で、がんを治す方法を見つけなさい」と言われて、具体的な研究計画など立てられるわけがありません。アメリカのNIHでも、トップダウン式のプロジェクト、ロードマップが思ったように機能していないとの批判があります。しかし、そもそもロードマップに投下される金額は全体のNIHの予算からすれば、ごくわずかです。NIHはトップダウンのストラテジーが生命科学では余り有用でないことをよく知っており、資金の大多数を、研究者主導のグラントに使おうとしています。また、大型プロジェクトのグラントを一本出すよりは、小さな研究者主導のグラントを5本出す方を好む傾向があるようです。日本においてはどうも逆方向に行っているように見えます。旧帝大を優遇して、研究界の格差を拡げ、研究の基礎体力である多様性をなくしていこうとしているようにしか見えません。私は日本の研究資金の管理責任者には、各分野ごとに研究歴のある人を据え、方針の決定においては官僚の関わりをできるだけ少なくする必要があると思います。私は日本の科学政策を正面切って批判する資格は本当はないのですが、ワールドプレミアとかいう恥ずかしい名前のプロジェクトは研究者のアイデアでないことは明らかですし、その政策の責任者の人には、こんなニュースをNatureのフロントベージで読まされて、赤面したり、白けたりする日本人の気持ちも汲んでくださいと言いたい気持ちです。
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僧侶に向けられた銃

2007-10-02 | Weblog
クーデターで軍事政権が確立して以来、英語による国名の正式名称が変わり、現在ではミャンマーと呼ばれていますが、私ビルマの竪琴のビルマと覚えていますので、ここではビルマと呼びたいと思います。中国とインド以外の大陸アジアの国々については私には大した知識はなかったのですが、今回のビルマでの反政府運動とその弾圧でビルマについて多少の知識を得ました。十数年前、ノーベル平和賞受賞者でビルマの民主化運動家のスーチーさん弾圧の事件は一時日本でもさかんに報道されていましたが、当時は私は海外の政治に全く興味が無く、遠い国の自分とは関係ないできごとと思っていました。ビルマの軍事政権により、彼女は1989年から軟禁状態に置かれているそうです。今回も私のよく知らない外国での騒動と思いつつニュースを見ていましたら、政府側がデモを行っていた僧侶に対してまで、威嚇発砲を行ったとのことで注意を引かれました。ビルマは9割が仏教徒なのだそうです。私たちがテレビなどでよく目にするような、シュプレヒコールが飛交うような激しいデモではなく、僧侶が読経しながら行進するという穏やかなデモだったそうです。私は人類の幸福を願い、人間の精神的規範を示すべく人々のために修行している僧侶の人に向かって、軍事力を後ろ盾にした政府が、威嚇とはいえ発砲したという蛮行にショックを受けました。
 最近の日本の特に都会では托鉢僧の姿を見ることは滅多になくなりましたが、以前はちょくちょく街角で見かけることがありました。僧侶の人たちは朝早くから厳しい戒律にのっとった質素な生活を行い、精進し、世の人の幸福のために祈って下さっているのだと思うと、自然にありがたい思いで頭が下がるような気がします。少なくとも私は、仏法を行じ精進する、とりわけ若い僧侶の人々に対してそんな風に思っています。托鉢に布施をするという行為は、お互いの感謝を表し、人間として生きていることを確認する行為であると思っています。僧侶の人たちは、自分のできないことをかわりにやってくれている人々であると私は思っています。(同様の思いは、私にはわからない難しい学問を真摯に追求している学者の人にも持っています。彼らの仕事は、現時点で直接自分たちに役立つということは少ないですが、そうした仕事を地道に続けていく事が、将来の世界の文化的豊かさを保っていく上で非常に重要であると信じています。ですから、そうした人々は自分にはできないことを将来の人類のためにやってくれているのだというように私は思っています)僧侶の人々というのは、私に限らず多くの人にとって尊敬の対象であると思います。まして、仏教国であるビルマが彼らを蔑ろにするはずがないと思うのです。軍事力、即ち人を殺し物を破壊する力を頼んで成り立っているビルマの政府が、人類の幸福のために修行している僧侶の人々に銃を向けるということは、ビルマのみならず、世界の人類の幸福を破壊しようとする行いであると思います。クーデターによる独裁政権が長続きしたためしはありませんし、人類の幸福を踏みにじらんとするような野蛮な政府が支持されるはずもありません。今回、政府の一方的かつ法外な政策が、この民主化運動に油を注いだようですが、おそらく権力に奢った政府が民衆を甘くみたのでしょう。これは、独裁国家の末期的兆候であり、まもなくビルマの政府は倒されるであろうと私は確信します。
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