百醜千拙草

何とかやっています

日米医療政策に思う(2)

2009-07-31 | Weblog
前々回の続きですが、医療のコストとサービスのバランスをどう取るかということをちょっと考えてみました。医療コストを下げる最も効果的な方法は、医者の数を減らすことであるのは間違いないと思います。20年前、医師過剰時代の到来を見越して、医学部の定員削減を国は行ってきました。現在の、特に地方においての医師不足という問題は、医師の絶対数の減少よりは、国が研修医制度を変更した結果としての医局制度の崩壊が地方医療を破壊したために起こった、というのはおそらく正しい解釈なのでしょう。つまり、従来、大学医局に権力が集中していて、その権力を背後に丁稚奉公的医局制度という医師の派遣業務があったからこそ、地方医療が成り立っていたということが、行政には十分認識されていなかったということだと思います。地方の医療をみると、少なくとも医師の数は減少し、病院は統廃合し、医療コストはおそらく減ったと思います。しかし、医者の数が減って、困るのは、必要な時に医者に診てもらえないという点です。
 現在、医師不足の地方病院で、医師が疲弊しているのは、医療の必要な人のケアに加えて、必要でないのに病院に来る人に対処する必要があるからであろうと思います。病院に何らかの問題を抱えてやってくる患者さんの中で、病院が何らかの役に立てるケースは、おそらく1割にも満たないでしょう。残り8割は病院に来ても来なくても、あまり大差ないケース、残りの1割は、ひょっとしたら来ない方がマシなケースであろうと想像します。つまり、その来なくてもよい、あるいは、来ない方がよい9割のケースの人の何割かでも、病院に来ないようにしてもらえれば、患者を減らすことによって医療コストを削減し、相対的医師不足を解消することが、理論的には可能です。一番の問題は、患者さんの側が、病院に行くべきか、行かないでよいのか、という判断が容易にできないということでしょう。また、病院に行かなくてもよいだろう、と考えていても、とりあえず安心のために行く、周囲がうるさいから行く、という人も多いと思います。病院に行って、検査でもして、ある限定的な問題に対して「だいじょうぶですよ」と医者が言ったからといって、本当にだいじょうぶかどうかなど、誰もわからない、ということを一般の人は余り深く理解していないのではないでしょうか。医療側は、患者さんが医者の言うことを素直に信じてくれる方が当然やりやすいわけです。「だいじょうぶ」とか「何かあったら連絡しなさい」と言ってくれる医者を患者さんは好きだし、医者の方もそのように言えば、患者さんは喜んでくれますし、かかりつけで来てくれる患者さんは経営上大切ですから、ついそんなことを言うのだと思います。「だいじょうぶ」と言われてだいじょうぶでなかった例も、何かあっても連絡がとれない例も、沢山あります。患者さんの側にもっと、現代医学、現代の医療の現実、とりわけその限界についての、もっと正しい認識が広がり、そしてもっと医学の知識があれば、何か問題がおこった場合に「病院に行かない」という選択をする人が増えて、病院は、本当に医療が必要な人たちに時間をさくことができるようになるのではないかと、理屈の上では考えられます。
 現在、医師不足だから医師の数を増やすというのは、長期的に、職業としての医師の利益の問題、その後にやってくるであろう医師過剰問題を必然的に孕みます。職業医師の数を増やすのではなく、病院にやってくる患者を減らすのが正しい方向でしょう。そのためには、一般の人の医学知識の増進を図らねばなりません。「医師はそもそも、治る病気しか治せない」という当たり前のことが、一般常識となれば、医療への過剰な期待も下がり病院へ来る患者さんの数も減るであろうと思います。そのためには、教育を変えねばなりません。かなり深いところまで踏み込んだ医学、保健教育を義務教育化し、なんらかの実地訓練を高校卒業後ぐらいででも、義務化するというわけにはいかないでしょうか。戦争が必要だった時代に徴兵制があったように、国の繁栄を保つには国民の健康は不可欠です。そのためには、例えば二年間の医療教育と実習を国民全員に義務化するような事はできないでしょうか。義務化でなくとも、医療教育やトレーニングを受けた人には健康保険を割引するとか、資格試験を設けて何らかの資格を与えるとかの特典をつけて、その教育に対するインセンティブを引き出すことはできるのではないかと思います。国民の多くを医者にしてしまえば、医師という職業が成り立たなくなるはずです。医学部の定員数を5割増やす、みたいな政策は必ず破綻します。いっそのこと、5割ではなく、500割ぐらい増やせばよいのです。もし実現できたら、医療問題はかなり解決するでしょう。医学部である必要もありません。医学教育を国民全員に行い、患者の医学知識を増やすというレベルを越えて、患者を医療者化できれば、病院へくる患者数は減ると思われます。現実問題として、医療、保健を国民全員に実習つきで教育するのは、ちょっと不可能かも知れません。誰が教育するのか、その教育の場をどう確保するか、という問題は解決困難です。それに、医師という職業で収入を得て来た人は安易には賛成しないでしょう。しかし、現在、一般市民の医療に対する期待と、医療側が実際に提供できるサービスの間には、かなりのギャップがあると私は思います。そのギャップの存在を一般の人は正しく認識していないと思います。ですので、医療の現実に対する客観的な情報を一般の人に知ってもらい、認識度を高めることが、医療の供給と需要のインバランスの解決のみならず、実は医療の質を向上させることにもつながると私は思います。医師不足への長期対応として、一般学校教育における医学、保健教育の強化という案を聞いたことがないのですが、様々なパーティの利害がからむのがその理由でしょうか?バカげた案と一蹴する前に、この教育効果を想像してみて下さい。多くの国民が医学、ヒト生物学の知識を持つということは、日本の経済発展を考えても、多大な投資効果を生むであろうと思います。外国に医療技術サービスを売るというビジネスも可能でしょう。名付けて、一億総医療人計画、どうでしょうか?
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ホワイトハウスのビールは警察体質を変えるか

2009-07-28 | Weblog
先日、マサチューセッツ州ケンブリッジで、警察がハーバード大黒人教授を逮捕したという事件がありました。この小さな事件はその教授が著名人であったこともあって、全国的に報道され、未だに議論を呼んでいます。この事件について、オバマもTVで「ケンブリッジ警察は愚かな行動した」とコメントしために、それがケンブリッジ警察の反発を呼び、それに関して、後日、あらためて、ホワイトハウスで会見し、「自分のコメントが事態の悪化を更に呼び込んだことを後悔している」と述べました。さらに、オバマは事件の当事者である黒人のゲイツ教授(実は、オバマ同様、白人との混血)と逮捕したケンブリッジ警察のクローリー巡査と電話で話をした後、彼らをホワイトハウスに招いて一緒にビールを飲みたい、と言いました。この問題は、アメリカでくすぶる人種、民族、宗教の違いによる差別や偏見を煽り立てる可能性がある一方、オバマはこれを逆手にとって、ホワイトハウスに当事者を招いて、会談することで、アメリカ人は人種等の違いはあっても同胞であり、未来に向けて過去の対立を乗り越えていかねばならない、ということを国民に示すよい機会と捉えたのであろうと思います。
 私も、ケンブリッジ警察のとった行動は愚かな行動であると思います。逮捕理由が「Disorderly conduct」というわけですから、つまり、しかるべき罪状なしに逮捕したということです。近所の人が、自宅の鍵が開かないので、ドアをこじ開けようとするゲイツ教授を見て、家屋に侵入しようとしている怪しい男がいると勘違いして、警察に通報した、というのが事件の発端です。ですから、その怪しい男が、実は、その家に住んでいる住人であるということが明らかになった時点で、警察は「そうですか」と引き下がれば済んだことです。それを警察という権力のもとに、一般住民であるゲイツ教授を、気に食わない対応をしたからと言って「風紀を乱した」という罪状で、逮捕したのですから、これはいけません。ゲイツ教授の立場になって、ちょっと考えてみれば、この逮捕が如何に不当なものか、彼が警察を告訴するといっている気持ちもわかるというものです。
 出張から夜遅く、疲れて帰ってみれば、家の鍵が開かなかったのです。少しでも早く、シャワーでも浴びてくつろぎたい、という気持ちであったでしょう。なのに、ドアの鍵が開かない、というのは、それだけでも十分、彼をイライラさせたであろうと想像できます。ようやく、鍵をこじ開けて、中に入って、くつろごうとしたら、警官が家屋侵入の疑いで自分の自宅にやってきて、ウダウダ言い出したのですから、怒りが爆発するのもわかります。私でも、そんなことがあれば、「さっさと家から出て行け!」ぐらいのことは言うかも知れません。警察は通報を受けて、事実関係を確認しにきただけなのですから、本来、その事実が確認されて、犯罪性がなかったとわかれば、すみやかに引き下がればよいのです。それを、あろうことか、その場で別の罪状で、しかも本人の自宅で逮捕したのですから、これを「愚か」と言わずして、何というのでしょう。ただでさえ疲れて、いらだっているところに、警官がいきなり押しかけてきて、犯罪者の疑いをかけられたら、その警官に向って多少の暴言を吐くこともあるでしょう。警官は、その気持ちを察することができなかっただけでなく、それに対して、「風紀を乱した」などという罪状で逮捕するのは、あきらかに権力を嵩にきた嫌がらせである、と私は思います。しかし、ケンブリッジ警察は、この逮捕が正当なものである、と主張しているようです。これが正当であると考えていること事体、警察にある構造的な欠陥体質を示していると私は思います。自分が逆の立場に立たされたときのことを考えてみて欲しいと思います。疲れて帰って来て、自宅でくつろごうとしたら、いきなり警官が踏み込んで来て、本来の疑いとは関係ない罪状(風紀を乱した、つまり、警官への対応が気に喰わない、といういうことです)で逮捕されたら、どう思うでしょう。それでも、警官は職務を全うしただけで、風紀を乱した(つまり、警官に怒鳴った)自分が悪いと思えますかね。
 しかし、ここで警察の体質をいくら批判したところで、警官側に自己反省の意識がないのですから、これは感情的な反発を生むだけで、何の得もありません。オバマはそう考えて、釈明会見を行ったのだと思います。だから、本心では無論、「ケンブリッジ警察は愚かな行動をとったし、それは本来、非難されるべきものである」と考えているので、ケンブリッジ警察に対して、彼らの要求する謝罪はしなかったわけです。どうもケンブリッジ警察側はそれが理解できないようです。きっと、彼らは自分たちは、自分たちの仕事をしただけだ、と考えているのでしょう。「権力を嵩にきた嫌がらせ」をしたという意識もないのだと思います。つまり、ケンブリッジ警察の逮捕が不当である、というのはバランスのよい理性をもった人であれば、当然の結論なのですが、事件は最初から感情的になった双方が、それを正当化しようと頑固になっているので、既に理性でどうにかなる問題ではなくなっている、ということです。第三者が間に入って、双方を思いやる機会を与えて、頭を冷やさせないといけません。しかし、これまでの対応をみていると、警察側は、まだ、事件を客観的に理性的に見るということを拒否しているようです。警察という組織は、一種の宗教団体のようなものなのでしょう、彼らより上にある立場の人間からトップダウン式に変えないと、彼らの意識は変わらないのでしょう。そう考えて、オバマは事件の当事者をわざわざ、ホワイトハウスに招いて、公の場で「仲直り」を演出しようとしているのだと思います。この問題は人種の問題ではありません。ゲイツ教授が、「人種偏見だ」と罵ったことから、人種の問題ととらえられて、大騒ぎになりましたが、これは実は、一般市民に対する警察の暴力の問題であり、人種にかかわらず、誰にでもおこる可能性のある事件であると私は思います。
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日米医療政策に思う

2009-07-24 | Weblog
アメリカでは、長年の懸案であったヘルスケアのリフォーム法案をオバマが8月の議会休会までに通したいということで、賛否の激しい対立の中で議会は揺れています。先進国の中で、唯一、アメリカだけが国家的な健康保険制度を持たず、民間の健康保険機構(HMO)に頼っています。また、HMOは民間である故に、その収入の1/3が役員の賞与や事務費用など、医療と関係のない所に使われ、そのために、特に自主加入する場合健康保険の保険額は高額となり、健康保険に入れないという人も大勢います。また、仮に健康保険を持っていたとしても、重篤な疾病に罹患し、高額医療となった場合に、HMOの支払い拒否などのため、患者側は十分な医療が受けれない、あるいは、受けられた場合も医療費の支払いために破産してしまう、などのcatastrophicな事例が後を立ちません。国民が皆、保険を持てる国家的健康保険制度にしよう、というのが今回の法案の主たる目的と思いますが、この運動は今に始まったわけではなく、過去、アメリカで何度も取り上げられては、廃案となってきた問題です。医療や医療保険をビジネス活動という点から捉えたい人々にとっては、国の介入は歓迎されません。HMOは抵抗していますし、多くの医療機関でも、健康保険制度の改革によって、急激な患者の増大が見込まれることになり、現場のキャパシティーや医療コストの点で大変な負担増となると、反対する所が多いようです。また、従来のHMOで保険を買うことのできない低所得者には国が補助することになるでしょうから、その費用をどうするのか、と例によって共和党を中心に反対の声があがっています。金の問題は、いつも最も大きな障害となります。日本経済が良かった頃、日本の医療は総じて世界トップクラスのケアであると私は思っておりました。(今はよく知りません)しかし、同様に国民皆保険制をとるイギリスでは医療は崩壊しています。医療費削減の圧力が強く、高額医療となるような患者は診療しないという風潮が強いようです。つまり、助かる患者であっても、助けようとする努力が金銭的に見合わないと助けないということだそうです。結局、自腹で金を積むことのできる人しか、昔の日本なみの医療は受けれないということのようです。二十年前は、私は日本の医療がサービス業であるという意識は殆どありませんでした。少なくとも一線の国公立病院の医療は国や自治体の福祉の一端であると思っておりました。一つはまだ医師の数が少なく、医師が患者さんに対してoverpowerであったことがありますし、もう一つは、日本経済が良かったので、支払い基金も比較的潤沢であり、患者さんをお客さんという扱いにする必要がなかったということだと思います。それはそれで功罪ありますが、その後、医療費の抑制という意図があったのでしょう、政府が医療はサービス業であると明言しました。つまり、よいサービスを受けたければ金を積みなさい、お金のない人の医療が悪くなるのは医療が(福祉ではなく)サービス業だから当然だ、医療機関はサービスを良くして競争しなさい、というメッセージを送ったのだと思います。医療機関に対しては、これは、政府や自治体に頼らず、自己責任でやりなさい、という競争原理を押し付けたわけで、結果、中核病院であっても医療機関の第一の目標は「地域住民の健康増進に向けての貢献」から「経営の安定化」へとシフトせざるを得なくなりました。一方、アメリカでは昔から医療はサービス業であり、金の多寡によってサービスが変わるのは当然だという意識がありましたから、国民が健康保険というサービスをを持つ、持たないかは、各自の選択であると考える人が多いと思います。しかし、現在の余りに高い医療費のために、疾患を抱える患者の人生が、疾病だけでなく、経済的な面からも破壊されていくケースが余りに多くなり、経済の低迷とあいまって重大な社会問題となって再び注目を浴びるようになりました。昨年の大統領選で、アメリカ国民は、ヘルスケア改革を掲げたオバマ民主党を選びました。同党、テッドケネディーにとっては、ヘルスケアリフォームは悲願でもあります。現在、改革への強い抵抗にあってなお、ヘルスケアシステムの現状維持はこれ以上容認できない、というオバマは強い決意を見せています(この辺が、マニフェストの内容は選挙が終わったら、すっかり忘れてしまう日本の政治家と違うところですね)。そして、岡目八目でみれば、オバマの言うことは正論です。その正論に反対するのは、とりもなおさず、目の前の金の問題ゆえです。国民皆保険にするための金をどうするのか、医療費が払えなくて破産していく人の医療費をどう捻出するのか。とりわけ、小さな政府を好む白人保守派の多い共和党の反対は強いです。保守派とリベラルの視点の違いからくる意見の相違ですから、妥協点を見つけるのは容易ではありません。保守派の人々は、基本的には、自分たちの小さなコミュニティーの利益が最も大切で、アメリカの知らない所にいる貧乏人の問題は彼ら自身で解決すればよい、と思っているわけです。一方、民主党を主とする改革促進派は、自分たちの小さなコミュニティーの利益は、国全体としての繁栄と安定なしには、あり得ないと考えているわけです。保守派白人の裕福層は、アメリカ一般の国民が健康に安心して暮らせない状態でも、それは自分とは関係のない問題であると思っているということです。私はもちろん、世の中、持ちつ持たれつですから、汝の隣人が幸せでなくて、自分の幸せがいつまでも続く訳がないと思っています。オバマも、保守派にしつこく金のことで反対されるので、健康保険制度改革は、隣人愛の実現に必用なのだ、みたいな意味のことを言っていました。歴史を振り返れば、当然、アメリカの繁栄はアメリカ人全体の繁栄なしにはあり得ず、そのためには、自分さえ良ければよいというような、XXの穴の小さい考え方をいつまでもしていてはいかんというのが、たぶん将来的には常識となるであろう考え方でしょう。
 それで、高まる医療コストの問題と国民の健康維持をどう折り合いをつけるかという問題ですが、それはまた次回。
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日本の科学技術力の転落

2009-07-21 | Weblog
7月9日号のNatureは、Editorialsで日本の科学政策の問題について、ニュース欄で横浜の科学高校について取り上げています。Editorialでは日本の科学が(沈没に向けての)転換点にあるという話。NatureのEditorがそう考えているのですから、日本の中にある不安というのは、外見にも明らかであるということなのでしょう。出版論文や去年のノーベル賞を見ていると、日本の科学技術が落ち目にあるというのが信じられない人もいるかも知れませんが、科学が落ち目なのは日本だけではないと思います。日本が相対的により悪いということであろうと思います。この記事で取り上げられているデータで、興味深かったのは、約10年前と比較して、大学での研究者の数は15%増えているのにもかかわらず、37歳以下の若手の占める割合はむしろ減少しており、現在、研究者人口の21%に過ぎない、ということそして大学で理系に進む学生の数は1992年の100万人から激減して2008年では63万人しかいない、ということです。これは勿論、2次ベビーブームが終わって、若年人口の減少を反映している部分が大きいと思うのですが、確かに狭い私の研究分野でも、パッとした若手が目につかず、残っているのは、昔からいる私より上の世代だけ、という感じになっているように思います。研究業界は研究資金の慢性的な制限のため、厳しい競争があって、若手には簡単にはお金があたらないようにできています。そこでじっと耐えて、こつこつ論文を書いて、経験を積んで、ようやく仲間に入れてもらえるという、閉鎖的な社会でもあります。われわれより上の世代で研究業界に残っている人々は、皆、そんな厳しい生き残り競争の中で残って来た人々で、彼らは若手も、自分たちが通って来た道を通るのだろうと思っているのでしょうが、やはり、若年人口が減って来た現在、そんな研究業界に入って、長年下積みを喜んでする若者も減っているのではないかと思います。
 日本社会と日本の研究界の閉鎖性にも言及してあります。日本の研究界で働く外国人数が少ない、海外へ留学する日本人も減少しているなどのことが書かれています。私は、日本が閉鎖的であるのは、日本の科学にとって、悪いことではないと思っています。研究など、そもそも、非常に個人的で閉鎖的な活動ですし。誰も認めてくれなくてもオレはやる、というような研究の中からこそ、ブレークスルーが生まれるものだと思います。開放的にすれば研究が進むかと問えば、おそらく答えはノーでしょう。外国人研究者について言えば、日本で長期活動を目指す外国人研究者のキャリアパスは、アメリカに比べれば、格段に悪いと思います。日本はそもそも、外国人が来たがらない環境なのですから、無理をして外国人研究者を増やす必要はないと私は思います。そんな余裕があるなら、もっと日本人の若手に投資するべきです。
 最後にこのEditorialでは例の270億円の研究資金の集中投下について触れてあり、長期的な日本の研究界の発展を考えたら、この大金は、(通常の)競争的研究資金や若手のサポートなどに使われるべきであると批判しています。私もそう思います。先日、近所での学会の帰りにひょいと訪問してくれた人も、日本の科学政策について、エリート施設だけを残して、残りを淘汰しようとする方向に進んでいるようだが、淘汰対象の施設にはそれを明言せず、不平等な政策によって格差を拡げようとしているようだ、と教えてくれました。言い出せばきりがないですが、これは日本の科学研究界の自殺行為に他なりません。最後に、このNatureの記事は、「若手研究者の独立支援の慢性的な失策のために、科学技術力の点で、日本は(転落への)限界点を越えつつある」と締められています。
 もう一方の記事では、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高校(YSFH)について紹介されており、この30年ぶりの新設公立高校は、最新の実習設備を備えた科学系高校で、理研ゲノム研究センターに隣接し、その設立には理研の和田昭允さんがアドバイザーの一人として関与していることが述べてあります。初年度の競争率は5倍とのことで、神奈川県の公立高校では最高の人気をとったらしいです。若者は決して理科系に興味がないというわけではなく、研究者で喰って行くのが難しいから、理系研究者への道を避けているだけなのだと思います。それでも研究者をやりたいという若者が出てくる確率を増やすには、やはり、このような裾野の努力が必要なのだと思います。私は、研究など、どうしてもやりたい、という人以外はやらなくてよい、と思っていますから、安易に若手にこびるような政策よりは、とにかく若者の知的好奇心を刺激するような教育を早いうちから導入して、研究に興味を持つ人のマスを増やしていくのが大切だと思います。この横浜のYSFHのようなお金のかかる教育をどこでもやるわけにはいかないとは思いますが、日本の科学振興の上では、初期教育、高校教育に投資するというのは、もっとも投資効率が高いと思います。実のところ、私は日本の科学が振興する必要は別にないと思っておりますし、研究など物好きな人が、できる範囲でやればよいと思っております。日本の研究環境がもっと悪化して、研究が困難になっても、それでもやりたいという人はいるでしょう。そういう人が、研究をすればよいのだと思っております。しかし、国が科学研究を支援する以上は、ヘンに大学や施設ごとに格差をつけようとすることは、百害あって一利なし、であると思います。支援するなら公平にやらないと、支援しないよりもずっと悪いと私は思います。そもそも、日本は、他の諸国の追い上げの厳しい中で、人材も乏しくなっていく中、いつまでも科学工業技術一本で立国していくのは厳しいでしょう。世界の目は、日本は二部リーグに転落しつつある、と読んでいます。私は日本は二部リーグでよいと思います。そして、もっと第一次産業の振興を考えた方が住み易い良い国になるだろうと私は思います。
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Enter ye in at the strait gate

2009-07-17 | Weblog
実験のデータがチョボチョボと出だして、今後の展開について、頭を悩ませています。データが出だして、次の一手を考えるというのは、研究のもっとも楽しいところの一つです。私は、携帯電話も持ってないし、ビデオゲームもしないし、iPodも聞かないのですけど、研究に関しては、流行もののハイテクの話を聞くと、やってみたくてムズムズします。数ヶ月前は、次世代シークエンサーを使った遺伝子発現解析の実験を始めることができました。ハイテクに手を出せば、意味のあるデータがでるとは限りませんが、新しいことに手を出すのはワクワクします。今回は蛋白発現解析をやろうとその準備をしています。十年前にICATという包括的蛋白発現解析法が開発されました。何年か前、その開発をした人に、ICATやりたいのですけど、と言ったら、ちょっと大変な実験になりますよ、といようなことを言われて断念したことがあります。ICATは、以来、洗練された型に進化して、数年前に、iTRAQというシステムが開発され、広く使われるようになりました。今回の私の実験ではRNAレベルの発現解析ではおそらく役に立たないなので、もっと簡便なDNA microarrayではダメなのです。それで、調べてみたら、近所にiTRAQができる施設があることがわかり、早速、話を聞きに行こうとしている所です。あとは、サンプルの問題とお金の問題ですが、何とかなるのではないかと思っています。もし、iTRAQがダメなら、昔ながらの二次元電気泳動ということになるのですが、随分昔に、二次元電気泳動に手を出して、玉砕した苦い思いでがあるので、二次元電気泳動には心理的に抵抗があります。それに、「iTRAQ]という「ナウ」な言葉(ナウという言葉がすでにナウでないですね)は二次元電気泳動みたいな大昔の教科書に出てくる様な言葉より、響きが良いです。「にじげんでんきえいどおー!」と叫ぶと、まるで忍者の使う忍法のようです。ただ、蛋白プロファイリングの問題は、差が出たピークをシークエンスするまで、それが何かわからないという点で、シークエンスには、1サンプルごとに手間とコストがかかっていきますから、DNA microarrayのように、一回やれば全遺伝子の発現パターンがすぐにわかるというわけにはいきません。それが、蛋白プロファイリングがmicroarrayなみに普及しない理由ではないかと思います。蛋白のプロファイリングにおいては、iTRAQでも二次元電気泳動に本質的には、そう大差はありません。しかし、RNAプロファイリングでのDNA microarrayとDifferential displayやSubtraction hybridizationには質的に大きな差があります。それが、microarrayが大普及した理由であろうと思います。

私は、普通に考えたら面倒に見えて、人が手を出さないようなところが好きです。そういう分野では、競争も低くなりますし、それに、大抵の困難はやってみれば、根性で何とかなるものです。聖書にも、「狭き門より入れ。滅びに至る道は広く、それを選ぶものは多い」とあります。広く通り易い道を通って、オリジナルな研究ができるのは最初の数人だけで、経済的、人的なハンディを抱えている私がそこを目指しても勝ち目はありません。幸い、私の扱っている細胞を分離するのはちょっと面倒なので、それをこうしたhigh throughputのアッセイに使おうということを考える人が少なく、余り競争相手はいません。こういう所では成功に必要なのは、根性だけです。
 受験生の頃、競争の激しい難関校に合格することを「狭き門」と喩えていましたが、実社会では、実は逆で、狭き門は、むしろ競争の少ない所だと思います。一見、そこを目指すのがためらわれるような場所のことで、だからこそ、私のような弱小研究者がニッチを見つけることができるのだと思います。ピンチはチャンスであり、困難は祝福であるというのは、そういう意味ではないか、と思っています。
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政権交代の意義、東京の勘違い君

2009-07-14 | Weblog
名古屋市長選、静岡県知事選、奈良市長選で、民主党推薦候補の連戦連勝の後、 東京都議選でも、民主党の大勝、自民の大敗という、予期された結果となりました。これも、自民党がずっと国民をないがしろにし、郵政民営化に代表される売国政策で、国民の富を売り飛ばし、弱者を切り捨て、格差を拡大してきた悪行の報いです。ずっと政治への関心の低かった日本人でしたが、戦後60年にわたっての自民党支配下で作られてきた政官財の利権をめぐる癒着構造を潰さない限り、一般国民の生活の向上はない、と自覚したその危機感の表れでしょう。それが高い投票率に反映されています。
 もちろん、自民党にも国民のことを考えて日本をよくしたい、という情熱をもった政治家もいることでしょうし、民主党や野党の中にも、国民よりは自分の利益のことばかり考えている議員もいるでしょう。だから、次の衆院選で民主党が第一党となったからといって、政策が劇的に変わるということでもないでしょうし、一人一人が考える基本的な政策に大きな差もないであろうと思います。次の衆院選で民主党が政権交代をめざす目的は、政権交代そのものにある、と私は思います。政権交代のみが、長年にわたって続いてきた癒着構造を揺さぶることができるからです。そして、とりもなおさず、金持ち、政治家、官僚という力を持つものだけのお互いの利益だけを追求するするために一般国民を利用する、その癒着構造に対して、一般国民ができることは、政官財の「政」を選挙によって変えることしかありません。次の衆院選で、国民にとって最も大事なのは、民主党がどんな政治をしてくれるかということよりも、とにかく自民党の与党としての力をそぐこと、すなわち「政権が交代すること」であります。これまで、自民党はその与党の地位を確保するために、あらゆることをしてきました。公明党と組むということ自体、とにかく第一党の地位を確保して、利権癒着構造を死守する、という目的のためなら、何でもするという浅ましさの現れ以外の何でもありません。自民党は一旦、野党となって、利権構造から切り離され、真摯に国民のための政治を考える機会を与えられる必要があります。そして、もし次回の衆院選で民主党が与党となった後、民主党が「国民第一」の意識を忘れるようなことがあれば、自民党が国民の支持を得て再び政権を取り戻せばよいのです。とにかく、一党による長期政権が癒着構造の温床なのですから、複数の力の拮抗した政治団体が政権交代を定期的に繰り返すこと、それが民主主義の維持のために必要なのだと私は思います。
 政権交代は、マスメディアにもよい影響を与えるであろうと思います。これまで、自民党、経団連の利益を守るために、ガセネタを流し、偏向報道をして、執拗に民主党叩きを続けて来た、産経をはじめとする大手マスメディアは、民主党政権となったら、どういう態度に出るのでしょうか?いまから楽しみです。

もう一つ、今回の東京議選での自民党の大敗について、東京都知事をやっている勘違い君は、「大迷惑な結果だ。政府が作った人心の離反のツケを、東京が払わされた」と前総理なみの、他人事コメントを出したそうです。さすがにそれを聞きとがめた報道陣が「石原都政への不支持とは受け止めないのか?」と質問、それに対し「それは違うんじゃないですかね」と否定したとの話。前総理は少なくとも「自分を客観的に見れる」と信じていたようですから、この東京の勘違い君も、前総理に客観的なものの見方を指南してもらったらどうでしょう。
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故人二題

2009-07-10 | Weblog
 マイケルジャクソンのメモリアルが火曜日に行われ、アメリカのテレビでもいまだに連日、マイケルジャクソンがらみの話題ばかりです。トップラインのニュースが芸能ネタということは、世の中は比較的平和なのだ、というわけではおそらくなく、世界の様々な問題を取り上げるより、マイケルジャクソンの遺産騒動や子供の親権争いをトップにする方が視聴率が取れるということなのでしょう。
 ウイグルでの民族対立、中東や旧ソ連のジョージアのようにならなければ良いのですが、その可能性は高いように思います。やはり多民族国家で世界最大の人口の中国が漢民族をトップとするヒエラルキーの中で国を統治するというのは、無理があります。世界最初の法治国家を作ろうとした始皇帝でさえ、一代もたせるのが精一杯でした。民族独立運動は不可避だと思いますし、それを中国政府はどんなに頑張っても抑えることはできないであろうと私は思います。私は世界はglobalismへの反省をもって、diverseな小コミュニティーの流動的集合状態へ別れて行くのが自然であると思います。それらの比較的小さな単位がブラウン運動しながらお互いのベクトルを相殺し、全体として安定した状態をつくるような社会が理想ではないかと思います。しかし、残念ながら、人間の産業、軍事活動、そしてそれを促進してきた征服欲は、既に放置しておくと人類を滅亡させうるレベルにまで大きくなってしまっており、世界的な統制が必要なのは事実です。世界が一斉に、核や車や飛行機や大量生産を捨て、産業革命前のような生活に戻ることが、私には唯一有効でダメージの少ない方策に思えます。それができれば、民族問題、環境問題をかなり劇的に改善させると考えられます。勿論、そんなことは不可能ですから、結局、人類は自らの足を喰う蛸のように、自らの破滅によってしか、バランスを取り戻すことができないのでしょう。

 7月2日号のNatureは久しぶりに読み応えのある、興味深い論文や記事の多い号でした。再生医学、ステムセルがらみの論文が、生物系原著論文の半数ぐらいあります。中でもサンショウウオの足の再生の論文はシンプルかつエレガントな方法を用いて、重要な疑問に答えた、美しく力強い佳作でした。それから、私は、いつも訃報欄を楽しみにしているのです。と言っても、人の不幸は蜜の味、というのではなくて、そこに個人的な科学の発見の歴史がレトロスペクティブにまとめてあるからです。この号では、先日、92歳で亡くなったRobert Furchgott博士の血管拡張因子としてのNOの発見について述べられてあります。狭心症の治療薬としてニトログリセリンがNO供与体として臨床でも用いられていますが、内在性の血管拡張因子が血管内皮細胞で産生されるNOであるということがわかるには大変な年月がかかったこと、最初のきっかけはテクニシャンの失敗した実験であったこと、NOを突き止めたとき、Furchgottは70歳で、ラスカー賞とノーベル賞をもらったのが73歳、75歳の時であったこと、というような話は、大変inspiringです。Midlife crisisにある中年の人々に感動を与えるような話だなあ、と思います。このような発見をすることができたというのは、研究者冥利でしょうし、私もそんな研究がしたいものだと思いました。

 故人をレトロスペクティブに振り返る(重複表現ですね)ということで、マイケルジャクソンのキャリアを眺めれば、やはりクインシージョーンズがいなければ、マイケルジャクソンはジャクソンファイブのマイケルで終わっていただろう、クインシーとの出会いが彼のターニングポイントであったのだなあ、という気持ちが湧いてきます。それで、クインシージョーンズの日本でも大ヒットした「愛のコリーダ(Ai no Corrida)」(この曲、オリジナルはイギリスの歌手だそうです)をYouTubeで聞いて、昔を思い出してしみじみしました。このころは、 Earth Wind and Fireが大ブレークした後で、クインシーのアレンジもファンキーです。後になって、クインシージョーンズは昔はビッグバンドジャズの人でサラヴォーンの曲のアレンジなどをやっていたと知って驚いたのを覚えています。時期的には、ちょうどマイケルジャクソンの「Thriller」の前に出ています。
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アラスカの勘違い、宮崎の勘違い

2009-07-07 | Weblog
ウィンブルドン男子シングルス決勝は、フルセットの激闘でした。ロディック対フェデラという対戦になるのがわかった時点で、私は興味を失ってしまっていまいした。前回、この二人の試合を見たときは、プロながら余りに力の差が歴然としていて、ロディックはさながら蛇ににらまれた蛙という感じでしたので、今回も、どうせストレートでフェデラが一方的に勝つのだろうと思っていたからです。ふと、TVをつけてみたら、5セット目でした。フェデラが2セットも落としたのかと驚いて、続きを見る気になりました。実際に、ロディックのプレーを見て、私は驚きました。彼は、私が覚えている、サーブとストロークが速いだけの、あの知性を感じさせないプレーヤーではなく、5セット目終盤というのに係わらず、極めて高度なプレーをしていました。結局、16-14というスコアでフェデラが競り勝ちました。この試合でフェデラは50本ほどのサービスエースを奪い、サービスエース数の記録をつくり、グランドスラムタイトル15勝という世界記録をつくりました。しかし、私にとっては、ロディックを見直した名勝負でした。

先週末、アメリカ独立記念日を目前に、アラスカ州知事のサラペイリンが任期途中にして知事の辞任を表明しました。会見の様子からはその動機は不明で数々の憶測を生んでいます。サラペイリンは、ご存知のように、先のアメリカ大統領選で、劣勢の共和党大統領候補のマッケーンが、窮余の奇策として繰り出した、副大統領候補でした。デビュースピーチで民主党を派手にこき下ろし、人気を取ったのはよかったのですが、その後のキャンペーンで、無知と実力のなさを露呈し、結局、奇策は裏目に出て、共和党は大敗しました。任期途中での辞任理由の憶測として、主に次の3理由が挙げられています。1)自分の知事としての限界に気がついて、政治の世界に嫌気がさした。2)大統領選で名前と顔を売ったので、タレントとして金儲けをしたいが、そのためには公人をやめなければならない。3)国政に入り、次の大統領選を目指すため、アラスカからでる。私は1)であって欲しいと思いますが、世間の多数は2)か3)を考えている様子です。いくら、彼女が空気を読めないナイーブな勘違い君であったとしても、私はさすがに大統領選であれだけのバッシングを受けたのだから、3)の線はないだろうと思うのですけど、このニュースを聞いていて、もう一人の勘違い君の宮崎県知事のことを思い出さずにいられませんでした。自民党から出馬要請に「次期総裁候補にしてくれたら、自民党から衆議院議員として出馬する」と答えたという話を聞いたとき、私は、ストレートに断るかわりに、落ち目の自民党に対する当てこすりを言ったのだと思って、なかなか言うなあ、と感心したのですけど、その後の展開から、これは冗談ではなくて、本気だった、という話を聞いて、すっかり全身脱力してしまいました。その後、総裁候補どころか、入閣もないという待遇を聞いてさえ、それでも知事の仕事は掘り投げてでも国政に行きたいという意味の発言を連発し、すっかり正体がばれてしまいました。どうして、負ける可能性の高い自民党から出るのか、という質問に、「民主党だったら、代表になれないから」とふざけた答えをした上に、「ぼくが自民党に行ったら、自民党は負けません、負けさせません」と言ったらしいですから、これが「お笑い」でなければ、病気です。何年前か前には、ライブドアの堀江被告を選挙に担ぎ出した自民党ですから、タレントでも何でも名前が多少国民に知られていれば良い、とにかく選挙で票を集めれればよいと考えているわけです。その単なる選挙対策用の出馬要請であることがわからないわけがないと思うのですけど、「総裁候補にしろ」というのが冗談ではなかったというのは、ビックリでした。この県民をコケにした話を聞いた宮崎の人はさぞかし怒っているだろうと思ったら、意外に好意的な意見があることを知ってまたまた、驚きました。中央に行きたいために県知事を踏み台にしようとしているような人に何を期待しているのでしょうか?国政から地方分権を推進したい、とかいうふざけた言い訳を勘違いして真に受けたのでしょうか?
 アメリカンアイドルのオーディションを見ていると、とんでもない勘違いの人が出てきます。自分を客観的に見ることが出来ない人というのがこんなに多いのか、と驚きます。そういえば、前の首相は、「発言が他人事のようだ」という記者の批判に対して、「私は自分のことを客観的にみれるのです、あなたと違うんです!」と切れて、辞任しました。自己中心で自分を客観的に見れない勘違い君と、自分が首相の器でないことを知っていたのに首相になった人、どちらもどちらですが、勘違い君は、見ていて恥ずかしいです。
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顰蹙のCIEAの蛮行

2009-07-03 | Weblog
この一ヶ月間、グラント書きで忙殺されて、目を通していない雑誌がたまっていましたが、ようやく、グラントも提出し、気分よく、たまった雑誌をパラパラしていますと、6月2日号のNatureのNewsセクションの記事が目に留まりました。折角の気分を暗くさせるような記事です。
 私は知りませんでしたが、川崎市にCentral Institute for Experimental Animals (CIEA)、財団法人実験動物中央研究所という施設があり、マウスのstrainの開発などを行っているそうです。そのCIEAが実験用マウスの世界最大の研究施設であるthe Jackson Laboratory(Jax)をパテント侵害で、事前通告なしで訴えたというニュースがNatureに掲載され、その無作法に対する非難を呼んでいます。マズいことだと思います。「日本人は何を考えているかわからない」という悪印象は少なくともJaxの研究者の間に広まるでしょう。(Jaxには日系のPIもいますし、日本人ポスドクも受入れていますから、彼らが気の毒です)
 記事のよると、ことの発端は10年前にCIEAが免疫不全マウス開発したNOGというマウスで、これは二つの免疫不全マウス、SCIDとNOD、に加えてIL2受容体γのトリプル変異を持つマウスらしく、重度の免疫不全のために、移植実験に利用できるということらしいです。CIEAは2006年にNOGのアメリカでのパテントを取得し、販売しているそうです。2006年にJaxが作ったNSGという同様のマウスがあって、これをJaxはパテントを取らずに研究施設に供与してきているのですが、CIEA側はNSGがNOGのパテント侵害にあたると告訴したというのが今回の話の筋です。
 CIEA側は、これは利益の問題ではなく、CIEAの仕事の認知の問題であると言っているそうですが、このNOGマウスの使用にあたっては、異常に厳しい制限があるそうです。つまり、このNOGマウスから派生する発明や知見にまで影響が及ぶようになっていて、すぐ「言いがかり」をつけることが可能なようにできているらしいです。
 SCIDとNODの掛け合わせはJaxとCIEAで90年代にされていて、その後IL2Rgとの掛け合わせも独立に行われたとあります。Jackson Labの弁護士、Einhornは、事前に何の連絡もなく、いきなり訴訟で訴えられたということに対して、激怒しており、私もこの問答無用の無作法なやりかたは大変まずいと思います。アメリカ人ならパールハーバーを思い浮かべるでしょう。CIEAのマエノ氏は、なぜ訴訟の前に事前にコンタクトを取らなかったのか、というNature側の問いには答えず、「Jackson Labとの過去の関係には満足しており、今後もそういう関係を維持したい」と答えたとありますから、ますます何を考えているのかわからない、気持ちの悪い相手だと普通の感覚を持っていたら思うでしょう。いきなり人の横っ面を引っ叩いておいて、今後も友好的な関係を維持したい、と言うのですから、キチガイ沙汰です。Jaxのマウスリソースに出資しているNIHもかなり頭に来たらしく、SCIDマウスを無断で交配したことに関して、CIEAに対しカウンター訴訟を起こすようJaxに要請したとあります。この動機不明のCIEA訴訟に対しての質問にCIEAはノーコメントを通しているようで、よけい顰蹙をかっています。
 最後に、この記事を書いた人も怒っているようで、CIEAのことを、労働者クラスの街の川崎市の見すぼらしい小さな建物にある旧世界の施設である、とこき下ろしています。前述のマエノ氏は、「科学研究は世界的な事業であり、国益のことは考えになく、科学の発展を阻害するつもりは毛頭ない」と言い訳していますが、やっていることと言っていることが、これでは合致していません。
 いきなり訴えるというやり方がまずいのに加えて、それに対する説明責任を回避しようとする態度は卑怯であり、状況をますます悪化させています。こういうことは一時が万事で、日本人は何を考えているのかわからない不気味な連中だ、という悪印象は無関係の人にも広まって、先入観や偏見を作り上げることになりす。
 CIEAの人は、表にでて、正直に質問に答え、誠意を尽くして、無作法を詫びる必要があります。Natureの記事の書き方からは、CIEAは田舎者の礼儀しらずの野蛮人で、現代人の常識が通用しないのだと解釈するしかない、という印象を受けます。 このままノーコメントで殻に閉じこもっていたら、そのうち人は忘れて、昔のような友だち関係に戻れると考えているのなら、大間違いです。果たすべき責任を果たさないものは、交際に値しません。
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