百醜千拙草

何とかやっています

アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ?

2008-03-28 | Weblog
シェークスピアでハムレットは悩みます。ハムレットはデンマークの王子という設定ですが、明治期、ハムレットは「新しい日本の芝居、ハムレツさん、ダヌマルクの守(かみ)」という見出しで日本語で上演された可能性があるそうです。因に、デンマークでは「デンマーク」は「ダンマルク」と発音するらしいです。「上演された可能性」というのは、実はその根拠が「The Japan Punch」という当時横浜の外人居留地に住んでいた外国人むけの風刺漫画誌の記事に基づいているからです。一説では、このハムレット上演の記事は、当時のピジン日本語、つまり意思疎通のために外国人が使う日本語、に対しての皮肉を込めた架空の記事ではないかという説があるからです。Wikipediaでは、ピジン日本語の例として、団伊玖磨のエッセイからの例を引用しています。「オツキサマ マチガイマース、ポカーン」は、「流れ星が落ちました」の意味であるとあります。またWikipediaによるとピジンという言葉は英語のbussinessが中国語的に発音されたものであると説明されています。ビジネスの取引のための意志疎通のために簡便化された断片的言語がピジン語ということのようです。この「ハムレツさん、ダヌマルクの守」上演を伝えるJapan Punchの挿絵では、ちょんまげ袴姿の役者が悩んでいるようすが示されており、日本人役者が外国人の観客にわかるようにハムレットをピジン日本語で上演したのではないかと考えられているようです。一方、当時の居留地にいた外国人でハムレットを知らんない人は殆どいなかったであろうと考えられることから、有名な文学作品をおかしなピジン日本語で上演すること自体が冗談であって、このJapan Punchの記事は、ピジン語を使う事が滑稽であると皮肉るための架空のものであったという説を支持する学者もいるようです。そのJapan Punch (因に、滑稽漫画のことをポンチ絵というようになったのは、Japan Punchに由来するらしいです)の記事では、ハムレットの有名な台詞、「To be, or not to be: That is the question...」は「アリマス、アリマセン、アレハナンデスカ?モシ、モット ダイジョウブ アタマ ナカ、イタイ アリマス、、、アナタ サヨナラ、 ソシテ テ ポンポン」という訳がローマ字で添えられています。「アナタサヨナラ、ソシテ テ ポンポン」はおそらく、終演と拍手を表しているのでしょう。また、このハムレツさん上演は本当に行われ、外国人俳優がわざわざちょんまげ姿で日本人向けに演じたものであって、日本でのシェークスピアの初演であると考えている学者もいるようです。数年前に亡くなった漫画家の杉浦日向子さんの作品の中で(確か「東のエデン」の中だったと思います)、この「ハムレツさん、ダヌマルクの守」上演の様子がちょっとだけ取り上げられていましたが、そこでは、外国人観客が大笑いしている絵が書かれていましたから、時代考証家でもある杉浦日向子さんの解釈は、これは仮に上演されたとしても外国人むけのパロディーであったということなのでしょう。杉浦さんの漫画の中では横浜の外人向け劇場の「ゲイエティ座」で上演されたように描かれていますが、それを裏付ける上演記録は見当たらないとのことで、上演されたとしても少なくとも正式な出し物ではなかったようです。また他の芝居小屋で上演された可能性も考えられるものの、やはり裏付けとなる証拠は見つかっていないそうです。

ところで、このハムレツさんの話を持ち出したのは、インターネットのブックマークを整理していて、自動翻訳のサイトがブックマークされていたのを見つけたからでした。ちょっと遊んでみたら、余りに訳がヘンで笑ってしまいました。 試しにビートルズの「Yesterday」を翻訳させてみるとこうなりました。

「昨日、とどまることをここにあるように私の悩みすべては今のところ離れていた、今それ見るオハイオ州、私昨日信じるようである。 突然、私は私があるのが常であった半分の人でない私、オハイオ州に掛かる影が昨日突然来たある。 彼女がなぜ行かなければならなかったか私知ってはいけない、彼女は言わない。私は昨日に、何か、今私憧れる間違って言った」

どうも「Oh」という感嘆詞はオハイオ州(OH)と訳してしまうみたいです。「昨日突然来たある」という中国訛りみたいなのが織り交ぜられている所が味わい深いです。

ハムレット、「To be or not to be,,,」をやってみます。

「あるため、次のとおりでないため: それは質問である」

ピジン日本語版ハムレツさんといい勝負しています。
このサービス( http://babelfish.altavista.com/ )はUTLを入れるだけでウェッブページをそのまま翻訳もできます。

自動翻訳機ってユーモアにあふれていますね。
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クリントンのエゴ、一粒の麦

2008-03-25 | Weblog
アメリカ大統領選の予備選、地方議会選挙は終盤と言ってもよいにもかかわらず、オバマ、クリントンの民主党候補が接戦を演じ、民主党候補が未だにはっきりしていないという異常事態となっていますが、先日、ニューメキシコ州、州知事のビルリチャードソンがオバマをエンドースしたというニュースを聞きました。メディアの取り上げもそう大きくはなく、対するクリントン側もリチャードソンのオバマエンドースメントは「大して意味はない」との発表しました。以前触れたように、私はリチャードソンが大統領選撤退を表明したときから、オバマ、クリントンのどちらを彼がエンドースするかが民主党予備選ならびに大統領選本選に大きな影響を与えるのではないかと考えていました。まず民主党予備選においては、アメリカ合衆国唯一人のヒスパニック系州知事であるリチャードソンが、これまで、ヒスパニック系ならびにワーカークラスのアメリカ人を主な支持層としてきた白人のクリントンではなく、半黒人のオバマを支持したということは、複数の含みがあると思います。すぐに心に浮かんだのは、このリチャードソンのエンドースメントによって、マイノリティーの中での黒人対ヒスパニックという対立構図を越えて、マイノリティー対保守派白人というレベルへと構図を昇華させることで、民主党の重要な支持層である黒人とヒスパニックをまとめることができるのではないかということです。リチャードソンは賢い人(と私は思っています)ですから、彼は民主党のことを考えて、このタイミングでエンドースをしたのであろうと思います。このエンドースメントがクリントンにとって痛手でないわけがないと思います。リチャードソンはビルクリントン政権時代にエネルギー省長官を務め、クリントンとは個人的に強いつながりを持っていたのですから(確か今年のスーパーボールもリチャードソンとクリントンは一緒に観戦していたはずです)、そのリチャードソンがクリントンではなく、対立候補のオバマの支持を表明したということは、リチャードソンが大統領候補としてのクリントンを見限ったとも取れますし、必ずしもそうでなくても少なくともオバマに協力する方が自分自身、ヒスパニック層そして民主党にとってプラスになると計算したからに違いありません。私は必死に巻き返しを図っていたクリントン陣営にとって、リチャードソンのオバマエンドースはfatal blowとなるのではないかと思います。いつまで経っても決着のつきそうにない民主党候補指名争いは長引けば長引くほど、本選での共和党との戦いへの準備が遅れ、民主党にとってはマイナスとなります。リチャードソンは、クリントンに対して間接的に撤退を進言したということだと思います。民主党候補の指名争いが長期に紛糾してきた結果、この両候補の人間性みたいなものがニュースやテレビ画面を通じてはっきりしてきたように思います。政治家としての能力は分かりませんが、少なくとも人間性という点で、オバマの方が器が大きいと感じざるを得ません。おそらくアメリカ国民の多くも同じ感想でしょう。オバマの方が若く人間的にも大きそうだとなると、人種と性の問題は双方とも抱えているわけですから、もうそろそろオバマで民主党はまとまるべきであろうと私は思います。このエンドースメントにおけるリチャードソン個人の思惑は、副大統領候補への指名ということがあると思います。もしこれが実現したら、アメリカ政治史きわめて画期的なことが起こり得ます。つまり大統領候補が半黒人、副大統領候補がヒスパニックというマイノリティーがアメリカのトップをとる可能性がでてくるわけです。しかし、共和党との本選を考えると、半黒人とヒスパニックの大統領、副大統領候補で勝てるかどうかという危惧が民主党内に出てくるのは当然であろうと考えられ、最終的にはリチャードソンの副大統領候補という線はないのではないかと私は思います。前回の大統領選で民主党から出馬を表明したものの、予備選早期に撤退したハワードディーンが現在、民主党委員長を努めています。前回の大統領選では、彼は知識層には非常に支持されていて、ダントツの前評判でした。実際に彼がしゃべっているところを聞いたところでは、私はハワードディーンは非常に頭の良い人であると思いました。これがヒラリークリントンならTVレポーターの挑発的な答えにくい質問に対しては、ポイントをずらせてあいまいにしてごまかそうとするでしょう。ディーンは良い質問には良い返答で答えるし、悪い質問にはその質問がどのように悪いのかを端的に指摘するのです。レポーターはインタビューしている自分がバカに見えてくるのでディーンのインタビューをするのはさぞ嫌であっただろうと思います。頭が良すぎる人は普通の人には嫌われたりしますから、そういう人は表に出るよりは、裏で調整係をする方が向いていると思います。そのハワードディーンが民主党委員長を努めているということは民主党にとって、大変心強いと思います。オバマはディーンほど頭は切れないかも知れませんが、ディーン以上の包容力というか度量があるのではないかと思います。そこが一般人に好かれるのでしょう。あいにく、クリントンには頭の良さも包容力も感じません。オバマが民主党大統領候補というのはおそらく動かないであろうと思うのですが、副大統領候補はどうなるのでしょうか。オバマの包容力とディーンの采配でクリントンに副大統領候補を受けさせるというのが、本選を戦う上でベストのシナリオではないかと私は思います。しかし、クリントンの方に自らのエゴを殺して、喜んで副大統領候補を受け入れるだけの大局観と度量があるのか、そこが鍵のような気がします。クリントンには、是非、聖書の一節を思い出してもらいたいと思います。「一粒の麦も死なずばただ一つにてありなむ、もし死なば数多の実を結ぶべし」民主党政権という実を結ばせるためには、クリントンのエゴにはここで死んでもらわねばならないように思います。
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ナノテクとステムセルとベンチャービジネス

2008-03-21 | Weblog
一昔前、ナノテクノロジーが鳴り物入りで生物の世界に入ってきて、大勢の人々が、ミクロのレベルを超えたレベルでの生物のスーパーマイクロマニピュレーションの可能性に多大なる期待を寄せたわけですが、現時点では残念ながらその期待に十分答えられているとはいえません。勝手に過大な期待を寄せる方が悪いといえば悪いのですが、そんな世間の期待とは無関係にナノテクノロジーの研究は現在も進行中です。生物技術の分野で、最近有望視されているナノテクノロジーといえば、カーボンナノチューブを使ってのデリバリーシステムの開発ではないかと思います。炭素はいろいろな立体、平面構造を取り得ます。もっとも多く生活上で利用されているいるのはグラファイトで、これは炭素のシートが何層にも重なったものです。グラファイトについては、以前からこのグラファイトのシートをばらして、薄い一層の炭素シート(Graphene)を取り出し、超高速のトランジスタの作成などの目的に使用しようと何十年来、試みられていますが、なかなか困難なようです。カーボンナノチューブは、その名の通り、カーボンシートでできたチューブですが、このナノチューブを薬剤などのキャリアに使用して生体に利用しようと大勢の人々が研究を重ねています。最近Natureのゴシップ欄でとりあげられた、カリフォルニアのPrimeGenというバイオテクカンパニーは、カーボンナノチューブを利用して、iPS細胞をつくろうとしています。iPS細胞の問題はレトロウイルスを使っての遺伝子強制発現を行うことで、レトロウイルスがホストの細胞のゲノムDNAへの組み込まれるため、長期的な安全性という点で問題視されています。そこで、ウイルス経由ではなく、直接iPSをつくるのに必要な転写因子を蛋白の形で細胞内へ導入することができれば、ゲノムのウイルス挿入変異を避けつつ、iPSを作成することが理論的には可能と考えられます。PrimeGenはカーボンナノチューブにiPS化で使われた4つの遺伝子産物ともう一つのES遺伝子であるNanogを含む蛋白の複合体をくっつけて、細胞内へのデリバリーを試みたらしいです。人の精巣細胞と網膜細胞を使用した実験の結果、ナノチューブ複合体は80%の細胞に取り込まれ、3日目ぐらいからES様形質を示すようになったとのことです。しかし効果は2週間ぐらいしか持続しなかったと述べています。この細胞を実際に目にした人は少なく、勿論論文にもなっていません。この発表には二三、うさんくさいところがあって、特にPrimeGenがこの結果を科学雑誌や学会ではなく、株主集会で最初に発表したという事実に対して不審に思う人が多いらしいです。最近はマウスiPSを使ったtranslational researchも手がけているMITのJaenischはその発表の翌日、PrimGenのboardをやめたそうです。二年前にもPrimeGenは精巣細胞からES様細胞を作り出したと発表しながらも、科学論文として発表されていないという事実をNatureは指摘しています。興味深いのは、この会社のテクノロジーの基盤になっているのがStanford大学のDr. Daiの研究成果という点です。彼のグループは最近PNASに単層の炭素シートからなるカーボンナノチューブをマウスに投与したところ、二ヶ月で体内から排出され、非常に安全性が高かったという論文を発表していますが、一方、その他の研究者は、ナノチューブは毒性がありデリバリー効率が悪いと考えているようです。最近の日本のグループからの発表では、多層のカーボンナノチューブを使用したマウスの実験で、アスベスト同様に高い効率でmesotheliomaが発生したという報告もあります。これはチューブの大きさに依存するようですし、日本の研究では多層のチューブを使っていますから、必ずしもPrimeGenの結果と相反するとはいえないと思いますが、PrimeGenがStanfordのグループの研究に依存しているという点、そして成果を正当な論文出版という型で発表しないという態度にやはり怪しげなものを感じてしまいます。いずれにせよ、ナノテクノロジーとiPSというホットな題材を扱っている以上、世間はフォローするでしょうから、額面通りの発見なのか、ベンチャーキャピタルから金をせびりとるためのものなのかは、そのうちはっきりするであろうと思います。
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Slap down SLAPPs

2008-03-18 | Weblog
前回、Pfizerの弁護団が、薬害訴訟で弁護に有利な証拠材料を求めて、科学雑誌、New England Journal of Medicine (NEJM)にピアレビューを含む編集プロセスの開示を求める申し立てをおこした事件について触れました。私は法律には全く知識が無いのですが、その後、SLAPP (Strategic Lawsuit Against Public Participation) と呼ばれるタイプの裁判があって、今回のPfizerのNEJMに対する裁判もこれに準じるものではないかとの意見を述べている人がいました。SLAPPは、大企業や団体など力のある勢力が、反対意見や住民運動を封じ込めるために起こす高額の恫喝訴訟を一般に言うようです。法律のルールを悪用したオドシということらしいです。今回のPfizerの場合、NEJMを含む科学雑誌業界に対して、「言うとおりに情報を出さないと、どんどん訴訟をおこして、科学出版業界の営業を妨害してやるぞ」という嫌がらせであるとも解釈できるということです。日本のSLAPP WATCH (http://slapp.jugem.jp)というサイトでは、SLAPPの実例と判例を収集、公開しています。多くのSLAPPは特定の集団の利益のために言論の自由を封じ込めるために行われているようです。もちろん、言論の自由と称して特定政党のプロパガンダを垂れ流すマスコミや、嘘八百を並べ立てただけのタブロイド紙のようなものが存在するから、それを訴えるものがいるわけではあります。科学論文は科学界のルールの範囲の中で処理されるという建前がある以上、その科学界のルールの妥当性にまで、その業界外のものが疑いを挟もうとするのは、越権行為であると私は思います。
ところでSLAPP WATCHの中で、SLAPPとはいえないようですが、ちょっと情けない例が紹介されていたので、転載します。コーヒーショップチェーンの「ベローチェ」を経営するシャノアールが、雑誌「おとなの週末」昨年10月号の「人気カフェ チェーン ランキング」という記事で、11チェーン中最下位と記載されたことに対し、出版元の講談社に、1100万円の損害賠償と出版差し止めを求める訴訟を東京地 裁に起こし、すでに口頭弁論も始まっているという事件です。ベローチェ側は、ランキングが一般的評価に基づくものではなく、担当したライターの個人的感想に基づいていると指摘。このランキングについて、「個人の主観的評価であるこ とを示す記載が目立たず、わかりにくい」と主張、「記事の内容が客観的事実であるかのような印象を読者に与えている」と述べています。うーん、大手のコーヒー店が、たかだか一雑誌のランキングにいちいち目くじらを立てるようなものでしょうか?これを機会に他店よりも優れたサービスを提供しようと思えないのだろうかと思ってしまいました。人間、お金が絡むと必死になってしまうのでしょうが、少なくともその記者に最低と感じさせたのは事実のようですから、子供のけんかではあるまいし、もうちょっと大人の対応をした方が長期的にはプラスではないのかと思ってしまいました。同雑誌のある編集者は権威あるミシュランのレストランガイドも同様に審査員の主観によるランキングであることに触れています。サービスの提供者と受け手というやりとりがあるのですからお互いに評価しあうことは当然でしょう。たかだか一雑誌のランキングの書き方が気に食わないから訴えるというのは大人げないのではと思います。そもそも雑誌の読み手もコーヒーショップのランキングなど真に受ける人は余りいないでしょうし、雑誌のランキングなど星占い程度の信用性しかないのは皆知っていることです。
 もっと影響力の強い新聞や放送局などのほうがよっぽどひどい情報操作を行っているようです。以前にも触れましたが、一時は日本最大の総合商社であった神戸の鈴木商店が崩壊にいたったのは、大阪朝日新聞の悪意ある中傷デマ記事がきっかけでした。また、同サイトによると、現時点でも、大手のY新聞は自社に批判的なジャーナリストに対して不当な言論妨害を行っているそうです。
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司法が科学界に振るう暴力

2008-03-14 | 研究
論文のピアレビューというのは、研究の世界ではなくてはならないボランティア活動です。一つの論文のレビューに最低でも2-3時間は普通かかると思いますが、殆どの場合これは無償の労働です。私はどちらにせよ、通勤中に読むものが必要なので、それほどレビューを負担に思ったことはありませんが、それでも忙しい時にやってくるレビューの依頼は、どうしてもしなければならないもの以外は断ってしまいます。私でさえこんな調子ですから、もっと偉い人々はもっと多くの数のレビューの依頼があって、多くの依頼は断られ、適当なレビューアを探してエディターは苦労することになるのでしょう。論文にせよグラントにせよ、ピアレビューというボランティアをそれでも引き受けるのは、持ちつ持たれつだと思っているからです。ですから、時間を割いてレビューした論文のできがひどいとやはりちょっとムッとします。逆によい論文だと、面白い論文を読ませてもらえてよかったと思います。私の場合は「誰が」論文を書いたかという点はレビューにはほとんど影響しませんが、一般論として、どこから出た論文かということがレビューに大きく影響する可能性は勿論あると思います。これまで実績のある有名な研究室からの論文は、読む方もある意味、安心して論文を読みますし、そのために問題点を見落としたり、甘い点になったりするでしょう。また、知り合いの研究者であれば、好意的な点をつけてあげようと思ったりもするでしょう。逆に知らない無名の人が、妙にスゴいデータを出していたりしたら、レビューはより厳しい目で見られると思います。一般的に論文の質は研究者の過去の実績とかなり相関しますから、レビューアがこうした先入観を持つのはやむを得ないと思います。
 以前からレビューでのこうした先入観を排除するために、レビューをDouble Blindにしたらどうかという意見があります。賛否両論あります。もっとも多い反対(?)の理由は、名前を伏せたところで、この狭い研究者の世界でアイデンティティーを隠すことはできず、誰が書いた論文かはどうせ簡単にわかってしまうということのようです。10年前、実際に調べた結果では、名前を伏せても40%の論文で著者を正しく推測することが可能であったそうです。しかし、これは駆け出しの無名の研究者にはあてはまらないと思います。また実際にDouble blind reviewをやってみて、掲載論文の質が向上するかどうか見てみてもよいのではないかという賛成意見もあります。著者がレビューアに分かっている場合は有名研究室は有利になると思われますが、トップクラスのジャーナルがDouble Blind reviewに消極的なのは、そうした有名研究者からの圧力があるのではないかと推測する人もいます。いずれにせよ、論文レビューという研究業界にとって欠かす事のできないボランティアワークを如何にそのintegrityを保ちながらも効率よくしていくかというは重要な問題ではあります。
 さて、製薬会社のMerckが関節炎治療薬、Vioxxの副作用のために膨大な数の訴訟をおこされ、最終的に総額$4.8 billionという金額で和解に至ったのは、つい最近のことです。Vioxxと同じCOX2阻害薬は、あと二つ市場に出ていて、いずれも世界最大の製薬会社、PfizerがCelebrexとBextraという商品名で出しました。Vioxxの問題を受けてBextraは市場から撤回されたのですが、Celebrexは未だに臨床で使用されています。当然、Vioxxでみられたような副作用がCelebrexやBextra使用患者で現れた場合があって、訴訟になってます。これらの薬剤の臨床研究の論文の多くが、権威ある臨床医学雑誌、New England Journal of Medicien (NEJM)に発表されているのですが、 Pfizerの弁護団はNEJMでこれらの論文掲載へいたった経過を調べれば、CelebrexやBextraの安全性を示す証拠となるデータなどが見つかるのではないかと考え、 NEJMに情報公開を交渉してきました。NEJM側は、論文の著者とEditorial Officeとのやり取りだけを含む合計246ページの文書を提供しました。Pfizerはさらにピアレビューの内容と他に投稿された関連論文をNEJMに提供するように求めたのですが、NEJM側は拒否、結局、Pfizerは法的機関に訴えてNEJM側に論文レビューのプロセスを開示するように求めました。つまり、Pfizerの弁護団はNEJMのような雑誌は他にもCelebrexやBextraと副作用との因果性を否定するような論文を受け取っている筈だし、また論文のレビューの中にもPfizerの主張を裏付ける様な記述があるかもしれないと考えているのです。この弁護団の要求は、Pfizerにとって都合の良い裁判材料を手に入れるためには、Confidentialであることを大前提に成り立っている科学論文出版のプロセスの原則など知った事かという傍若無人なものであると思います。更にPfizerの弁護団は、「一般人は科学雑誌の編集システムの保護などよりも、薬害についての知識を明らかにして欲しい筈だ」という暴論を吐いています。対して、NEJMのeditor-in ChiefのDrazenは、もしConfidentialであることが大原則のピアレビュー、科学雑誌編集で、情報開示が裁判で認められたりしたら、これは科学論文出版でなくてはならないピアレビュープロセスに重大な悪影響を及ぼすであろうとコメントしています。レビューアにとっては彼らの研究時間をわざわざ割いて行ったボランティアの仕事のために、へたをすると裁判のごたごたにまきこまれしまう危険性があるとなれば、ただでさえできたら断りたい論文レビューなのですから、レビューの依頼を受けないという人は増えるでしょう。いわば「善意」のボランティアで成り立っている科学雑誌編集に、基本的に裁判当事者と弁護士の「利益」を求めて動く裁判関係者が侵入してきたら、自由な科学的議論さえ妨げられてしまうであろうと私も思います。彼らにとっては挙げ足取りは答弁上の正当なテクニックなのですから。サイエンス誌のChief editorのDon Kennedyは、「ひょっとしたらPfizerに有利な情報が見つかるかもしれないからとにかく見せろ」というPfizerの態度を、悪い科学研究に例えて、(仮説の欠如した)「fishing expedition」であると酷評しています。その他にも、前NEJM editor, Angellを含む複数の科学者、科学雑誌編集者たちは、今回のPfizerの動きに対して、ピアレビューシステムに依存している科学論文出版のシステムを台無しにする暴挙であると不快感をあらわにしています。いずれにせよ、もしPfizerの主張が通れば、科学界全体が大きな痛手を被ることになりそうです。科学の世界に司法が自分たちの理屈を並べ立てて土足で踏み込むようなまねをするのは、善意で支えられているピアレビューシステムにボランティア参加してきた研究者にとってはきわめて不快に感じられます。 「虎とガラガラヘビと弁護士といっしょに閉じ込められた、弾丸は二発、誰を射つか? 答え、弁護士を2度射て」という弁護士ジョークがありますが、ルールの抜け穴を利用して世間の人が納得できないような理屈を通そうとする弁護法というのはちょっと社会の害だと思います。
 判決は本日の予定ですが、どうなるでしょうか。
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魂の向上、功徳を積むこと

2008-03-11 | Weblog
The Ultimate Journeyというオムニバス形式の生と死にまつわる実話を集めた本を読みました。2000 年に出版されているので、しばらく前の本です。その中では、複数の著者自身や身近かな人が死にかかったりした時の話も少なからず収載されているのですが、P.M.H. Atwaterがコントリビュートしたある臨死体験者の神とイエスとの遭遇の話が、その他の同様の体験や、そして仏教など非キリスト教でのこの世というものに対する考え方と極めて強い類似性を示していて、あらためて興味を引かれたので、書き留めておきたいと思います。話は薬剤の副作用と電気ショック療法のために致死性不整脈をおこした女性が語ったものです。彼女が「死んでいた」間、イエスと会います。彼女は不信神者で全く宗教的ではなく物質的な人でした。彼女はイエスと二三の会話をし、イエスは古風な言い回しの言葉で答えたとのことです。そこで、イエスは彼女の向かって再び生れ変わりたいかどうかと尋ねられたそうです。臨死体験者が死んでいる間に遭遇した誰かに「再び生まれ変わる、または元の体に戻る」かどうかを尋ねられるというのは、よく臨死体験者の経験することのようです。(また、臨死体験者でこの選択の機会を与えられたものは、多くの場合、そのまま天国(?)にとどまりたいという気持ちを強く持つのが通常のようです)そのイエスとの会話の間に、神が近づいてきたことを彼女は感じます。神は光であって人の形はしていません。そこで再び、地上に戻るか、ここに残るかの選択をするように訊かれ、それと同時に自分の地上でのこれまでの人生を見せられます。そして、神は彼女に「私はお前に生命という尊い贈り物を与えた。お前はその贈り物で何を成したか?」と尋ねられたそうです。彼女はこれに対してよい答えが思いつかず、自分はまだ若いのでよく分からないというようなことを答えた処、生き返ったということです。「生命や肉体が(神からの)贈り物である」という考えは、神やそれに準ずるものとの遭遇した場合によく感ぜられるもののようです。そして、このエピソードではもう一つ興味深いことをこの女性は神から聞いています。つまり、この世に生まれる前に、私たちは、時間や空間というものが本当に存在すると思い込むように指示されるのです。そのことによって、私たちはこの世の生まれる事ができて、自らを向上させることが可能になるのだそうです。時間や空間が本物であると思い込めない者は生まれてくる事ができないということらしいです。この世が魂の向上のための「修行場」であるという考えは、仏教や他の宗教にも見られます。時間や空間が私たちが感じているようには本当は存在していないというのも、仏教や量子物理学のパラダイムと一致します。この無神論者の臨死体験者の話を読んで、私は仏教やその他の宗教が示すところのこの世の中と生命の見方と、彼女が「死んでいる」間に、神から直接教えられた事が驚くほど一致していることにあらためて興味を引かれたのでした。
 生命は贈り物であり、私たちがこの世の中で不自由な生を生きる目的は魂を向上させることである、という考え方は本当なのだろうと思います。神がなぜ私たちの魂を作ったのか、なぜ私たちは向上しなければならないのかについては、私ははっきりした答えを知りません。何かの実験なのかも知れません。また「魂が向上する」とはどういうことなのかも曖昧です。しかし、魂の向上については、おそらく釈迦が悟りを得るに至った体験と極めて近いものなのであろうと想像できます。いわゆる「功徳を積む」ということが魂を向上させるということなのであろうと私は思います。それでは功徳を積むとはどういうことでしょうか。社会活動を行う上での儒教的価値観、道徳を身につけるというようなことではないであろうとは考えられます。例えば、親孝行をしたり、困っている人を助けたりするようなことは尊い行いで、大切なことではあろうと思いますが、そうした行いをすることそのものと魂の向上とは直接関係はなさそうです。むしろこれらの行いは功徳を積んだことによって自然と現れる慈悲の結果に過ぎないのであろうと思います。
功徳を積むということについては、達磨(ダルマ)と武帝の会話の記録が残されています。

梁の武帝、「余は、寺を造営し、僧を供養し、施しをなした。功徳は如何ほどか」
達磨、「功徳はない。それは福をおさめただけである。功徳は報身に関わっている。福徳とは関係がない」

菩提達磨はインドから中国へ仏法をもたらした中国での宗教の祖です。よく禅問答に見られる「祖師西来の意は何か」、つまり達磨が西の国のインドから中国へやってきた意味とは何かという問いは、「仏法とは何か」という問いと同意です。達磨は、それまで儒教とか礼とかいった社会制度しかなかった中国に初めてもたらされた宗教、新しい教えそのものであったのでした。武帝が達磨の答えを理解できなかったのも無理ありません。

もし、功徳を積むことが魂の向上に至るのであれば、六祖壇経で六祖慧能が次のように言ったことが参考になると思います。達磨から数えて六代目の慧能は、いわばインドからの借り物であった宗教を初めて中国の宗教にした人です。

「自己の本性を悟ることこそ功であり、すべてをひとしく見てゆけるのが徳である。一念一念に澱(よど)むことなく、常に本来の自己の真性に目ざめていて、真実で勝れた働きをするのが功徳というものだ。外に対しては折り目正しくあるのが功であり、内にあってはおのれを謙抑するのが徳である。自己の真性が一切の存在を打ち出して行くのが功であり、心の本体に執われの思いがないのが徳である。自己の真性を離れぬのが功であり、その真性が物に働いて執われることのないのが徳である。こういう功徳をもった法身が得たいなら、ただこのように行動することこそ、まことの功徳である」

釈迦は、四諦の中で悟りに至る方法として、正見、正思、正惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、の八正道を示しています。これが自然とできる様に努力することが魂の向上を目指すということであろうと思います。しかし、言うは易し、行うは難しです。
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環境問題のビジネス化は時期尚早

2008-03-07 | Weblog
地球温暖化は地球に生きる生物にとって緊急の対策を要する最大の環境問題です。その主な原因は化石燃料の燃焼による人間の活動であると考えられています。温暖化の原因の主な要因である炭素ガスの排出を抑制し、炭素ガスを固形有機化合物へ固体化させることがその解決法です。炭素ガス排出を地球規模で抑制するための最も実際的なアイデアは「Cap and Trade」だと私も思います。地球全体で許容できる年間の炭素ガス排出量を設定して炭素ガス排出量を炭素排出者に割当て、その間で炭素排出権を売り買いするというモデルです。現在、中国の近代化により、中国の炭素ガス排出量が急激に増えてきています。地球規模でみるとこれは脅威です。しかし中国にしてみれば、これまでアメリカやヨーロッパや日本が自分たちの都合でさんざん地球環境を汚しておきながら、今になって、よりよい生活を求めようとする中国の産業化を抑制しようとするのは、割にあわない話だと思うでしょう。そういう意味でも、炭素排出権の売買を通じて地球全体での炭素ガス排出量を抑制しようとするCap and Tradeは多分唯一機能しそうな方策です。中国は他国の炭素ガス排出権を買うことで、化石燃料に変わるよりよいエネルギーの実用化までの当面の間の近代化をまかなえる可能性があります。
 一方、ここで炭素排出権の売買というトレードが絡むということは、ここにビジネスチャンスが生まれる余地があります。炭素排出権をゼロからつくり出せば、それを売って利益を出すことが理論的には可能です。炭素ガスを減らすには、炭素ガス排出の抑制と、炭素ガスの固体化があります。炭素ガスを固体化する最も効率のよい方法は、植物の光合成によって二酸化炭素を糖に変えてしまうことです。地球上の二酸化炭素濃度は季節変動し、秋から冬にかけて、二酸化炭素濃度は上昇します。北半球の植物の光合成活動が冬に低下するからです。南半球の植物の光合成は勿論増えるのですが、地球全体でみると北半球の方が陸地が広いので、全体としては冬の間の光合成は落ちます。ですから植物の光合成の活動というのは地球規模で大気中の二酸化炭素濃度と直接結びついていると考えられます。この光合成を人工的にコントロールしようというアイデアが海洋富養化法でした。以前触れたように(繰り返す過ち、危険な人間の浅知恵)、海洋の光合成を行うプランクトンの増殖限界を決めているのは、鉄の濃度です。これまでの実験で海洋への鉄の散布により光合成プランクトンの急激な増殖を引き起こせることが分かっています。これらのプランクトンは二酸化炭素を糖に変えて固化したあと、急激に海洋底へと沈んでいくらしいことが明らかになっています。これを利用して大気中の二酸化炭素を海底奥深くへ沈めてしまおうというのが、海洋富養化法のアイデアでした。これに目をつけたのがカリフォルニアのPlanktosという会社でした。Cap and Tradeで二酸化炭素排出権の売買が行われるようになれば、こうした方法によって二酸化炭素を減らせれば、減らした分を売ることによって利益を得るというビジネスモデルです。そのPlanktosはこの1月、大西洋での実験を始めたのですが、先日、結局このビジネスプランを追求することを中止すると発表しました。問題は複数あります。海洋富養化法でどれぐらいの二酸化炭素が実際に減らすことができるのかが明らかでないこと、それを測定することすら困難であること、また、ビジネスを続けていくには大量の鉄を継続的に海洋散布する必要があり、その環境への影響が不明であること、などが最大の問題でした。結局、海洋に大量に鉄を散布することに対する環境破壊を心配するグループからの反対キャンペーンのため、資金を集めることが困難となったのが、今回のビジネスの中止の最大の原因となったようです。アイデアは面白いし、科学的にも興味深い、しかし、ビジネスという経済活動へ直結させようとする態度は感心しません。人間、金のためなら、ものを壊したり、人を殺したりすることを何とも思わない者もいっぱいいるのですから、環境の問題にすぐビジネスを割り込ませはいけません。特に環境問題は自分の周辺の環境さえよければ良いと思っているような人間によって引き起こされてきたのです。ビジネスの自己保存の本能はしばしば、周囲(環境)との利害相反を引き起こします。海洋富養化法というアイデアはSF小説の中にとどめておくべきでしょう。科学は半分はエンタテイメントなのですから、それで十分ではないですか。
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ラクしたツケ

2008-03-04 | Weblog
朝起きると灯りをつけて、朝ご飯を電子レンジで暖めて、コーヒーメーカーのスイッチをいれて、冷蔵庫からクリームやバターを取り出すのですが、これらの器具は全て電気エネルギーを消費しながら動いています。電気がなければ朝ご飯ひとつ普通に進まないと思います。実際、電気のないキャンプ場とかで、暖かい朝ご飯を食べてとコーヒーを飲もうと思って、朝からファイアーピットに炭火をいこし、料理をしたりお湯を沸かしたりすると、一時間以上は用意にかかります。テレビやコンピューターも電気がなければただの箱です。私たちの現代の生活は多くの電気や他のエネルギーを大量に消費しながら成り立っています。
先日、最近フロリダ半島でかなり広範囲にわたる停電がありました。南端マイアミから中西部のタンパあたりまで送電が止まったようです。原因は一原子力発電所の送電不全であったとのことです。つまりこの広大なフロリダ半島の多くの地域の電力が一つの原子力発電所に頼っていたということらしいです。これを聞いて、私は、高度に電力依存性の現代社会の脆弱さと同時に、あらためてエネルギー問題の大きさを感じました。現代人が今のライフスタイルを維持しつつ、地球温暖化の原因となっている化石由来のオイルを燃やすことを減らそうとするならば、原子力発電やその他のエネルギー源に頼らざるを得ません。原子力発電の事故は過去に何度も起こっていますから、再びカタストロフィックな事故がおこれば、何十年、何百年という単位での影響が残る可能性があるわけですから、原発がエネルギー問題の最良の解決法とも思えません。そんななかで太陽光線や風力や海流を使った発電法は期待が持てます。何より比較的安全でエネルギー源が安価であることが素晴らしいと思います。おそらく数十年後は殆どの乗用車は充電式の電気カーになるはずで、その動力源には太陽エネルギーなどのクリーンなエネルギーを電気に変えて貯蔵したものを使うとことが計画されていると思います。それはそれで、バッテリーの製造や廃棄に伴う有害物質などの問題もでてくるようではありますが。石油燃料は環境に悪いだけではなく、石油資源も限りがあります。石油価格も上昇し昨今では1バレル100ドル以上にもなっていますから、これを機会にみんなができるだけ石油燃料を使わない生活を取り入れ、代替エネルギー源の利用を促進していくようになればよいと思います。
 私は現代人のアメリカナイズされたライフスタイルが良いとは思えません。確かに「ラク」です。蛇口をひねれば暖かいお湯がでて、家の中は全館暖房、退屈したらテレビやビデオゲームがあって、おなかが減ったら冷凍食品をレンジで暖めるだけ、通勤には人間一人を運ぶのに2トン近くもある車を運転する。これらの「便利さ」つまり「ラク」は、かなりのエネルギーの非効率的な使用を伴います。人間はラクしようとして、地球環境を利用してきました。その結果、多量の無駄とゴミを作り出し、周囲への悪影響と引き換えに、自分の周辺だけを快適にしてきました。そのツケが回ってこようとしています。安楽にならされた現代人には困難なことかも知れませんが、50年前の豊かなアメリカのライフスタイルはそう長くは続けていくことはできないことを自覚して、「ラク」ばかりを追求しようとする態度を何とかしようとせねばならないのではと思います。国民に不自由を強いるのは政府のような機関がやらねばならないのですが、日本の政府はきっとアメリカから押し付けられるまで何もしないのでしょうね。(前と今の首相を見ていると、二代目のボンボンが日本という国の身上潰すのを、国民はそのまま見ていてはイカンと思います)
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