百醜千拙草

何とかやっています

レヴィ=ストロース、再び

2009-12-29 | Weblog
12/17日号のNatureの訃報欄で、10/30に亡くなったレヴィ=ストロースが取り上げられていました。Yale大学のAdam Kuperという人が書いています。民俗学者とは言え、彼の仕事は主に哲学的意義を評価されたわけで、彼の訃報が、自然科学の雑誌であるNatureに取り上げられるのは、その分野を越えた影響力を表しているのではないかと想像します。一方、数年前に同様の自然科学雑誌であるScienceでは、アメリカ構造主義言語学にかわって生成文法を提唱したNorm Chomskyが著者の一人として、総説を書いているのを見たことがあります。しかし、Chomskyの場合は、言語学とはいっても、言語学者から言わせると彼の言語学は科学なのだそうです。

以下、レヴィ=ストロースの訃報欄の記事の抜き書きと多少捕捉と感想(括弧)。

1908年生まれ、ソルボンヌで法学と哲学を学ぶ。1935年、サンパウロ大学に赴任(この時の話が、後、「悲しき熱帯」になります)。ジャン ジャック ルソーはかつて、文明の現れる前の人間を研究することで、人間の真の性質がわかるのではないか、と言い、レヴィ=ストロースは、その仮説を確かめたいと考えた。
 このブラジル紀行は本にもあるように、期待はずれのものと終ったが、フランスへ帰ってすぐ、ドイツのフランス侵攻があり第二次世界大戦が勃発、アメリカのニューヨークへと難を避け、コロンビア大学民俗学研究サークルの非公式なメンバーとなる。ニューヨークで、同様にヨーロッパから逃げて来たロシア人言語学者ヤコブソンと親交を持つ。(ヤコブソンはソシュールに始まるフランス構造主義言語学の流れを汲んでいます)ヤコブソンは言語の音声を最小単位(Phoneme)へと分解して解析するという仕事をしていたが、最小単位の音声にも対立する二つの要素があることを見いだした(二項対立)。このことから、レヴィ=ストロースは、分類のシステムというものは、同様に二項対立をベースにしているとの議論を展開した。
(ところで、私は、生物科学においても、生命の基本のロジックは二項対立であろうと思います。細胞は一つが二つに別れることによって増殖ますし、数々の複雑な生命現象も、プラスかマイナス、上がるか下がる、という基本的にバイナリーな反応の組み合わせ、積み重なりで多くの生命現象が説明可能なのではないか、と思います。一がニ(三や四ではなく)になることが、生物学的多様性と複雑さの根源となっているのではと考えています)
 1949年にパリに戻り、近親相姦がタブーとされることが、自然と文化とを分ける指標(動物的存在としての人間と社会的存在としての人間との差ということでしょう)であると述べ、このタブーが、男にその姉妹を別の男と交換することを強制することによって、社会のネットワーク(つまり、文化ですね)を形成するのであるという説を発表した。(もしも、近親相姦がタブーでなければ、人間は他の血族と交流する必要がなくなり、よって、「自己」で閉鎖してしまって、社会を形成する力が働かない、ということでしょう)そして、ここにも、結婚不可能な親族と結婚可能な姻戚という二項対立の構造が見られる。
 1959年、パリのコレジュ ド フランスの代表となり、一連の思考のシステムについての著書を出す。実存主義を批判し構造主義の地位を不動のものとした「野生の思考」では、アメリカ、オーストラリアやアフリカの原住狩猟民族は”logic of the concrete” (具体思考法とでも言うのでしょうか?) と彼が呼ぶ思考法を使うことを報告している。つまり、具体的に存在する周囲のもの、(例えば、太陽と月のような)のイメージを、二項対立で並べるのである。多くの言語で、太陽は男性を指し、月は女性を意味する。このような言葉や(もの)の分類は、社会における対比、性別、職業などを象徴することになる。
 1964年から、彼は、アメリカ神話の研究についての連作を発表し出す。ここで、二項対立を基本にする分類のシステムが、神話の世界においても同様に存在していることが示される。彼は、「神話的思考における論理というものは、近代科学での論理と同様に厳密なものである。神話と科学との差は、その論理性や知的プロセスにあるのではなく、それが適用されるものの性質にあるのである」と述べている。(これは、ユングが精神病患者の話に神話と同様の類似構造を見いだしたという話を思い出させますね)
 レヴィ=ストロースの理論は野生と文明の二項対立の上に生まれた。彼は、野生は環境への適応であるが、文明(文化)社会は、環境と文化の多様性の破壊であると信じていた。この悲観的世界観にもかかわらず、彼は、つまるところ、人間は皆、結局は同じように思考し、そして、文化のぶつかり合いというものは人類の適応にとって必要なものである、と考えていた。

(民俗学者でも言語学者でもない私にとって、レヴィ=ストロースの仕事の内容が直接的に仕事に影響することはありませんが、彼の人生やその仕事の発見のきっかけになった歴史的な経緯をなぞっていくことによって、見えてくるものは興味深いです。もし、ブラジルに行かなかったらどうなっていたか、もし第二次世界大戦がおこらなくて、ニューヨークは亡命することがなかったらどうなっていたか、もしニューヨークでヤコブソンと出会うことがなかったらどうなっていたか、そんなことを考えると、数々の些細な出来事の歴史的必然性というものを実感します(当たり前ですけど)。そして、ブラジルの僻地で大した成果もないまま、昔の同僚が出世して行くのを横目にみながら、「自分は何のためにこんなことをしているのだ?」という疑問にさいなまれたレヴィ=ストロースは、何十年も経ってから初めて、アマゾンのジャングルでの彼の経験の意味を知ったのです。この事実は、私の日々の生活に大変relevantであります)
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オクラホマの砂嵐

2009-12-25 | 研究
オクラホマといえば、ミュージカルでも知られる通りの中西南部の典型的「田舎」です。スタインベックの「怒りの葡萄」では、1930年代におきた耕作地の荒廃のため、オクラホマの農民が土地を捨ててカリフォルニアへ移動する際の困難が描かれています。これらの持たざるオクラホマ農民は貧乏な田舎者として「オーキー」と呼ばれ、蔑まれました。土地の荒廃は、機械化農業のための土壌の疲弊によるもので、結果、耕地は半砂漠化し、季節風によって巨大な砂嵐(Dust Storm; Dust bowl)を引き起こし、その砂嵐は遠く、東海岸にまで達したといいます。
12/11のScienceでは、そのオクラホマで「霊長類を用いた炭疽菌の研究が、大学の事務レベルで中止決定させられた」というしばらく前の事件が、とりあげられています。表題の「Rejection of Anthrax Study Kicks Up a Dust Storm in Oklahoma」は、おそらく、この「怒りの葡萄」の時代の土地の荒廃とそれに伴うオクラホマ農民の脱出をきたした、砂嵐、Dust Bowlに因んでいるのでしょう。オクラホマ農民がよりよい場所を求めてオクラホマを脱出したように、今回の研究者(Shinichiro Kurosawaという名前から想像して日本人であろうと思います)もオクラホマの大学を脱出して他州の研究施設へと研究を移そうとしてしています。
 オクラホマにはOklahoma Medical Research Foundation (OMRF) という田舎にしては立派な研究所があります。OMRFは大学ではないので、オクラホマ州立大学(OSU)などの周辺の施設と連携して研究を進めているようですが、Kurosawa氏はもとOMRFの研究員でした。現在、Boston Universityへと移っており、今回、サルを使って炭疽菌毒を研究する計画を、アメリカNIHに認められ、レベル3の動物施設をもつOSUで研究を施行することを計画したということのようです。
 アメリカNIHの研究費は、研究費支給の判断が下されても、Just-In-Timeと呼ばれる、研究施行準備の完了を証明する書類の提出をしなければ降りません。中でも動物実験のプロトコールの承認を得る手続きは最も面倒なものです。このKurosawa氏の場合は、NIHが研究計画を承認、OSUの動物実験委員会がその研究プロトコールを承認したにもかかわらず、OSUの学長のレベルで、「霊長類を死亡させる必要がある研究」であるということで、却下されました。これは、きわめて異常な自体であり、この事件は、研究界にかなりの反応を引き起こしました。即ち、国の研究費支給団体であるNIHも、施設の動物実験委員会も研究を承認したにもかかわらず、大学の事務レベルがそれを棄却したということは、研究者の立場から言えば、越権行為に近いものです。
 Kurosawa氏本人は、「大学の決定である以上、従うのが筋である」として、他の施設を探すとのコメントを出していますが、これは学問の自由に、本来、すべきでない政治的な干渉を加えたということで、私は憂うべきことであろうと思います。 この事務決定の一つの事情は、OSUに多額の寄付をしている人が動物愛護運動にかかわっているからであるという話も書かれています。普通、研究者がNIHから研究費をもらうと、その額の7割ほどの金が大学側にindirect costとして支払われます。例えば、5年で総額、一億二千万円ほどの通常サイズ研究プロジェクトですと、加えて8千万円ほどが大学に支払われることになります。こうして、所属研究者がグラントを獲得すると、大学も潤うというわけです。しかし、そのNIHからの収入が見込めるにもかかわらず、あえて、大学がその研究を却下したのは、その動物愛護活動家がその額の500倍ほどの金を最近、寄付したという事情があるのではないかと思われます。大学としても、NIHからの金よりも、その寄付者の気持ちを尊重する方が得だと思ったのかも知れません。あるいは単に、霊長類を使った動物実験で刺激することになるかもしれない過激動物愛護団体からの暴力的な攻撃の的になるのを嫌って、日和ったということなのかも知れません。
 OSUの内部の研究者は、今回のような事務レベルでの研究計画の拒絶は、将来の共同研究にかなりの悪影響を及ぼすであろう、と危惧を表明しています。大学は研究を守る場であり、学長はそのために尽力するのが筋です。この動物実験プロトコールは、動物実験に関しての倫理的問題を含む諸問題について、動物実験委員会が全国のガイドラインに沿って議論し、その結果、承認されたものです。「霊長類を殺すことを認めない」というアドホックなルールを動物実験承認プロセスが終了してから後出しにし、委員会での議論を無視して、事務レベルで一方的な研究不承認の決定は、議会制民主主義で法治国家たる国の大学にあるまじき態度であると思います。(アメリカでは、大統領の拒否権でさえ、2/3以上の議会の賛成によって覆さえるのですから)大学が学問の自由を守る場所である以上、大学関係者の委員会の決定を政治的意図で干渉することは、大学の精神そのものに対する冒涜であると私は思います。
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世界劇場について

2009-12-22 | Weblog
人生は修行の場で、それが終わったら、天国で楽しく過ごせる、というのが私の信条で、これを信じているので、私は、現世を、まずまず楽しく生きております。しかし、数ヶ月前に引っ越をしてから、最近、ちょっと困った隣人に悩まされています。それで、これは修行の一つに違いないと思って、この困った隣人を神が私に与えた意図は何かを読もうと努力してきているのですけど、ちょっと読めません。
  世の中にはソリやウマの合わない人というのが必ずいて、たいてい、その場合、言外に共有しているはずの常識というものに思いもしないような差があるのだと思います。例えば、笑顔ややさしい言葉というのは、普通、友好やおもいやりのしるしであると私たちは思っています。しかし、場合によれば、詐欺師や政治家のポスタ-を思い出すまでもなく、笑顔が異なる意味を持つ場合も考えられます。昔、私が、友好さを示すために微笑むと、「何をへらへら笑っているのだ」と怒り出す人にであったことが何度かあります。一方、アメリカでは、全く知らない他人でも、目が合えば微笑むという習慣がありますから、目があったのに微笑みもせず、挨拶もしないと、これは敵意を示していることになります。
  以前、「笑いながら怒る人」というのを持ち芸にしている芸人さんがいましたが、こういうシニフィエとシニフィアンの不一致とでも言うようなものは、予告無く現実に起こるとかなり不気味なものです。例えば、私は「嘘をつくことは良くないことである」と思っており、「嘘つきは泥棒のはじまり」と教える社会で育ったわけですけど、世の中には「自分の利益を守るために、嘘をついたり他人を利用したりするのは当然の権利である」というのが常識の人々もいるようです。こういう常識の不一致による揉め事を回避するために、法律とか決め事があるわけですけど、当然、後者の人々は、「自分の利益を守るためには、法律に違反するのは悪いことではない」とも思っていますから、やっかいです。
  そうした常識の基盤が異なる人々に対しては、私は常に、「君子危うきに近寄らず、鬼神は敬してこれを遠ざく」という経験上の智恵を以て、対処してきました。然るに、危うきの方が向こうからいきなり近づいて来て、鬼神は敬しても遠ざかって行ってくれないなら、どうすべきか、というのが最近、私に与えられた問いというわけです。
  昔、さだまさしの関白宣言で、「姑、小姑かしこくこなせ、容易いはずだ、愛すればいい」という歌詞がありましたけど、「愛すること」がたやすいのなら、世界に戦争はありません。(ところで、私は、彼の作詞家、作曲家としての才能には、感服しております)「汝の隣人を愛せよ」とわざわざイエスが言うのは、それが極めて困難である場合が多いからでしょう。隣人を除く地球の全人類を愛する方が隣人を愛するよりも、しばしば容易いです。それで究極的には、「汝の隣人を愛する」ことで隣人との問題が解決できれば理想なのですけど、愛憎という感情の問題は理屈でどうなるものでもありません。私はそういう時は、あぶない人には、近寄らないようにしているのですけど、ことが隣人の場合はそれも難しいというジレンマがあります。
  しばしば、人は憎しみ合います。誰かが自分なり自分の側の人間に害をする場合、左の頬をも差し出すのは易しいことではありません。そんなとき、私は「世界は劇場である」というシェークスピアの言葉を思い出します。世界という舞台の上で、悪人は悪人の役を演じており、善人は善人の役を演じているだけで、彼らは本当は悪人でないかもしれず、善人でないかもしれない、そう思うと、たとえ自分に困難をもたらす困った人間でも、同じ舞台に立つ役者同士としての親密感も持てるような気がしないでもありません。「汝の敵を愛せよ」という言葉にも無理があります。そもそも多くの場合は、愛せないで、憎らしいから敵なのであって、愛することができるような人間なら最初から敵にはならないはずです。親が敵同士のために、本当は愛しているのだけど、敵である、というようなロミオとジュリエットやトニーとマリアのような状況は多くないでしょう。憎らしい隣人に無理にやさしさで応えようとしても、それは精神に負担を強いるだけです。世界は舞台であり、憎らしい隣人は、そういう役を演じていて、自分を悩ませるのはそういう役回りなのだ、自分が隣人に悩まされるのは、そういう台本の筋なのだ、と観客の立場で眺めれば、多少、気分も晴れてきます。いずれ、劇は終わりますし、緞帳が下がれば、あとは楽しい打ち上げが待っているのだろうと思います。
  そんなことを考えていたとき、ふと、昔に小説版で読んだ、つかこうへいの「熱海殺人事件」を思い出しました。スタイリストの部長刑事が冴えない殺人事件の犯人を一流の犯人に育て上げるという話ですが、この演劇が、シェークスピアの「世界は劇場である」という言葉とだぶっていることに、今まで気がつきませんでした。

 人を殺したからって犯人になれるわけじゃない。犯人にふさわしい人間でなければ犯人にもなれない。事件は犯人と被害者だけのものじゃない。刑事、警察、弁護士、裁判官、新聞記者、国民―みんなのものだ。がんばって、みんなに満足してもらえる立派な事件、立派な犯人にならなければならない。そのためには犯人も刑事も取調べではすべてをさらけ出し助け合う

犯人は「みんなのために、もっと犯人らしい犯人を演じなければならない」という舞台監督の部長刑事に演技を指導される、というわけです。「熱海殺人事件」の一つのテーマは、たぶん「世界は劇場である」ということであり、いわば、「劇を演ずる役者についての演劇」という入れ子構造を持つ「世界劇場」のパロディーなのでしょう。
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発見のメカニズム

2009-12-18 | 研究
先日、遺伝学がらみの半日シンポジウムがあることを当日の朝に気がつきました。演者を見てみると、前から話を聞きたいと思っていた大物が二人も名を連ねているのに気がついて、急遽、午後の予定をキャンセルして行きました。その研究ビルは数年前に新築されていて、何度も行ったことはありましたが、講堂に立ち入るのは初めてでした。生憎の交通渋滞で、着いた時にはちょうど、最初の演者が話始めたところで、講堂はほぼ満員だったのですけど、例によって演者席のすぐ後ろに空席があったので、こそこそと、そのかぶりつきの席までいって座り込みました。ふと、左右をみると、NatureとScienceに毎年二本ずつ論文を出しているあの人とか、ScienceとCellの常連のこの人とかの顔が見えます。最初の演者の人は、お目当てのうちの一人ですが、20年ぐらい前からの老化の研究で有名になった人で、ある蛋白修飾酵素を研究しています。有名人なので、仕事の内容や顔ぐらいは雑誌で知っていましたが、実際に話を聞くのは初めてです。その蛋白修飾酵素の活性を上げると、アルツハイマーが良くなったり、パーキンソンが良くなったり、内分泌機能がよくなったりする、という殆どS先生の「ミラクルエンザイム」みたいなちょっと怪しさの漂う話でした。骨粗鬆症や癌にも効くそうです。確かにデータはそうなのですけど、実験科学的興味という点ではイマイチでした。この方は既に老化ビジネスにも関与されているせいか、プレゼンテーションが、何となく、はったり臭いところがあるのもちょっと戴けません。乏しい経験から思うのですけど、スライドの文字が多色のパステルカラーでやたら大きいフォントを使う人の話は要注意だと思います。
 そのあと続いて女子学生さんの発表が二つ。私よりもはるかに話し方がうまいです。聞き手の反応を見ながらしゃべり方を微調節しているのがわかります。大したものです。一人の人はバクテリアでのシステイン残基の酸化が、従来わかっていた経路の他に、ビタミンKを活性化する分子によっても行われるということを発見しました。この話に私は感心しました。この子の場合は、バクテリアならきっとどんな種でも同様の方法でシステイン残基の酸化が行われるはずだ、という普通の人なら無批判で受け取るであろう「常識」をあえて疑ったところに、発見の種がありました。成功する研究者というのは、まず自分の足下を微細な観察眼で深く凝視して、誰もがうっかり見過ごすような小さな穴を見つけるものです。彼女のこの発見からワーファリンを使って結核を治療するというような話へ展開していこうとしています。
 その後の一人のシニアの演者は、ある種の細胞では、局所的に遺伝子が何倍にも増幅されているという話をしました。この増幅は、細胞周期の一回の進行の間に「DNAの複製は一回だけおこり、非増殖期の細胞ではDNA複製は起こらない(はずだ)」という常識を疑うことで発見されました。つまり、ゲノム上に多数ある複製起点(Replication origin) の一部で、細胞周期と独立して、発火がおこることで、複製起点を中心に、複製回数に応じて、タマネギ状にふくらんだ異常なクロマチン構造を持つ細胞ができるというわけです。(こういう細胞はもちろん、それ以上増殖できないので、最終分化した細胞に限られるようです)私はこういう現象があることも知りませんでしたし、こういうことが生理的に起こっているということにショックをうけました。生命の神秘を感じさせられます。
 そして最後の演者で、もう一人のお目当ての人は、私も研究対象にしているsmall RNAの第一人者です。演者の紹介で初めて知ったのですが、この方も前のDNA複製の方も、今年ノーベル賞を受賞したJack Szostakの研究室の出身なのだそうです。昔の研究の世界は狭かったのでしょうね。このsmall RNAの発見は複数のグループから異なった手法で独立してなされたのですけど、そのパイオニアとなった人々はお互いに研究上の交流は殆どなかったものの、皆、この半径5キロぐらいの地域で、間接的に誰かを通じて繋がっているのです。不思議です。
 この人の顔は雑誌の写真とかで知っていましたが、写真ではスーツを着て眼鏡なしだったせいか、初めて見た実物は随分印象が違いました。70年代ファッション、細身のノープリーツのチノパン、格子柄のシャツ、で中途半端に長い髪の毛を8/2ぐらいで分けて銀縁眼鏡、おまけにアディダスの黒のスニーカーという、Nerdyな出で立ちで登場しました。話も先の女子学生ほどの滑らかさはなく、オタクっぽく細部にこだわるので、ちょっとギクシャクしたものでした。しかし、私は、彼の実験科学者としての態度に好感を持ちました。彼の話もまた、「microRNAは遺伝子の翻訳を抑制する」という数年来のドグマを疑ってみるところから意外な発見があり、また、「出芽酵母にはRNAiはない」という常識を疑ってみるところに発見がありました。
 久々に刺激的な話をいろいろ聞けて、楽しかったです。Take-home-lessonは、「自分の立っている場所を疑ってみることが、発見につながる」ということでしょうか。燈台もと暗しとも言いますね。
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一殺多生の屁理屈

2009-12-15 | Weblog
先週、オバマがノーベル平和賞の授賞式でスピーチを行いました。アフガニスタン戦闘への兵員の増員を決めた後での平和賞受賞式という皮肉なものとなりました。オバマは自分にとって、アメリカ大統領としての職務が何より優先であることを述べて、戦争大統領でありながら平和賞の受賞を受ける立場の理解を求めたように思います。オバマの立場からすれば当たり前ですけど、世界の人々は多少失望したかも知れません。オバマはアメリカの国益のために働いているのだと明言し、アフガニスタンのアルカイーダは、アメリカの(そして世界の)脅威であり、放置できないと述べました。
ロイターのニュースでは、

(オバマは)武力行使は人道主義的理由に基づく場合など正当化されることもあるとし、武装組織アルカイダに対しては交渉は武力放棄につながらないと指摘した。 また、国際法を順守しない国に対し「実質的な代償を強いる」厳しい措置が必要と主張した。核問題をめぐって欧米と対立するイランと北朝鮮について、交渉引き延ばしなどの外交戦術に触れ、国際社会とゲームすることは許されないと述べた。

とあります。
 平和賞でのこのスピーチの内容を知って、私は勧進帳での山伏問答を思い出しました。 富樫に、仏徒の身でありながら山伏はどうしていかめしい格好をしているのか、と聞かれて弁慶はこう答えます。
 「それ修験の法といっぱ、胎蔵、金剛の両部を旨とし、嶮山悪所を踏み開き、世に害をなす悪獣毒蛇を退治して、現世愛民の慈愍を垂れ、あるいは難行苦行の功を積み、悪霊亡魂を成仏得脱させ、日月清明、天下太平の祈祷を修す。かかるがゆえに、内には慈悲の徳をおさめ、表に降魔《ごうま》の相を顯わし、悪鬼外道を威服せり。これ神仏の両部にして、百八の数珠に仏道の利益を顯わす」
 更に弁慶は、太刀を持っている理由については、
「仏法王法に害をなす、悪獣毒蛇はいうに及ばず、たとわば人間なればとて、世を妨げ、仏法王法に敵する悪徒は、一殺多生の理によって、ただちに切って捨つるなり」と答えます。
 つまり、山伏は「善い」人々に害をなす「悪い」獣や人をやっつけるのだ、と言っているわけです。オバマの理屈もこれに近いものがあります。人間であっても悪いヤツは、「一殺多生」のことわりのもとに殺すべきだ、そうすることによって、もっと大勢の善良な人々が救われるのだから、そして、世界平和のためにはアフガニスタンでの戦争もやむを得ない、という理屈です。しかし立場を転じてみれば、アルカイーダもおそらく同様の理屈でテロを行っているのだろうと想像するのは難くありません。彼らにとっては、自分たちこそが正義の味方、アッラーの神のしもべであって、世界に害を及ぼすアメリカや西洋に天誅を加えているのだと思っていることでしょう。ですので、「一殺多生の理」などというものは最初から身勝手でおかしい理屈なわけです。
 戦争によって平和を実現する」というのは「核抑止力」と同じ理屈です。これは、自分が正しく、相手が悪いという前提がひっくり返れば、成り立ちません。ところが、誰もが自分は正しいと思っていますし、もちろん、自分が間違っていると信じていながら相手を攻撃する者などいません。
 だからこそ、オバマはここで、自分はアメリカ大統領であってアメリカの国益のために働いているという断りを言う必要があったのです。正しい間違っている、良い悪いという主観的な基準ではなく、アメリカの国益という比較的客観的な物指しを導入することによって、「一殺多生の理」は戦争の口実になります。他の国々と同様にアメリカはその国益を追求する権利があり、その代表たるオバマはそれを守るという職務を全うせねばならない、ということをあらためて言う必要があったということです。
 この辺りが、「テロリストは敵で、敵は殲滅しなければならない」と頭ごなしに決めつけ、胎生幹細胞技術を指して「悪魔の行だ」と言った低能独善家のブッシュと違うところです。
 アメリカ国民の安全と平和は世界の平和に優先するというアメリカ大統領としては当たり前のことと、北ヨーロッパの賞であるノーベル平和賞の意図とおこすコンフリクトのために、あのような内容のスピーチになったのだと思います。これが、現職を退いた後であれば、もっと違った話をしたでしょう(ジミーカーターの言動を思い起こすまでもなく、現職でなければ、責任はもっと軽いはずですから)。
 そう考えると、オバマの平和賞受賞スピーチは世界平和を呼びかけるものではなく、アメリカの行動に対する言い訳に終始したということになるでしょう。そして、現役のアメリカ大統領としては、たとえ、心の中で「戦争は絶対悪だ」と思っていても、それを口に出すことはできませんし、このスピーチでも言い訳以上のことをしゃべることはできなかったのであろうと思います。
 賞はくれと言ってもらったのではなく、向こうが勝手にやると言って来たのです。それでは、その賞を辞退するという選択があったであろうか、と考えれば、それもあり得なかったと思わざるを得ません。オバマはおそらく辞退を真剣に考えた筈です。しかし、世界のリーダーという立場を貫き通さなければならないアメリカの大統領に、ノーベル平和賞を辞退する、という選択は許されないでしょう。それではアメリカの国益を損ないます。
 ノーベル賞委員会は、オバマにアメリカ大統領という立場を超越して世界平和に協力して欲しかったでしょう。しかし、オバマは現職大統領という立場を離れるわけにはいかなかった、その釈明となった受賞スピーチでした。あいにく、ノーベル賞委員会が引き出したかった言質をオバマは与えることをしませんでした 。勝負は引き分けですね。
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deCODEの破産

2009-12-11 | Weblog
アイスランドのゲノム情報会社、deCODEが破産申請とのこと。資産70億に対し、負債がその約5倍らしいです。10年ほど前、deCODEが華々しくデビューしたころのことを覚えています。以来、ゲノム遺伝学において数々の業績を一流雑誌に発表してきましたが、ビジネスとしては収益を上げることに失敗しました。
 島国、アイスランドは遺伝的に比較的均一な人々が住んでおり、疾患と遺伝子型相関をゲノムレベルで調べるヒト遺伝学(Genome-wide association study; GWAS)を行うにはうってつけの対象に恵まれています。そこから住人の大量の遺伝型データ、疾患データを蓄積し、糖尿病や高血圧などの汎在疾患の遺伝的基礎を明らかにすることで、治療法を開発していこう、というアイデアで出発しました。結局、治療法としての開発はゼロ、情報サービスとしての製品は10余りという結果でした。治療法の開発がゼロというのは、決して会社が怠慢であったとかそういうのではなく(事実、高インパクトの論文を百以上も出しているのです)、ゲノム情報と治療との間を橋渡しするのはそう簡単ではないという経験的事実に即しているだけのことだと思います。医学の進歩がどのようになされてきたかを振り返れば、deCODEのように、アイデアは良いが成功の見込みが読めないプロジェクトをビジネスとして展開していこうとすることに無理があるのです。グラント申請と同じで、アイデアよりもデータ、理論よりも現物がものを言います。そして、ビジネスである以上、顧客と商品を具体的に押え、そのマーケットを前もって読む必要がありますが、deCODEは理念先行型で、その辺の末端のビジョンがあいまいなまま見切り発車したことが、今回の破綻につながったと思われます。
 最近では、個人のゲノム解読サービス、deCODEmeを提供していたそうですが、これは既に、末期的症状であったといわざるを得ません。同じような個人ゲノム解読サービスを提供するカリフォルニアの会社、23andMeも数年前の鼻息の荒さはもうなく、人員整理を繰り返しています。結局、経済が沈滞すると、直接何かに役に立たない情報に金を払う人は減ってくるということです。事実、このような個人ゲノム解読サービスを指して、「recreational genomics (娯楽ゲノム学)」と呼ぶ人もあり、こういうサービスはいわば贅沢品なわけで、経済状況が悪くなれば真っ先に打撃を受ける分野であるのは納得できます。マーケットのニーズが減っているのに、deCODEは他に直接収益に繋がるサービスを提供することができないという理由でdeCODEmeを始めたということで、こういう苦しまぎれのビジネス展開を行うこと自体、既に負け戦であるのを示しています。
 しかし、学問的には、deCODEのデータはヒト遺伝学上、極めて貴重なものです。現在、直接ビジネスのネタとして収益につながらなくても、将来的にそのデータが多くの面で大変役立つであろうということは、容易に想像がつきます。もし、deCODEの破産後、そのデータが霧散してしまうようなことになれば、世界にとって多大な損失であることは間違いありません。それで、イギリスのWellcome Trustが手を差し伸べて、資金援助をしようとしたらしいのですけど、結局、アイスランド市民の個人的情報が深く含まれたデータであることから、外国の会社が、deCODEプロジェクトに係わることが法的にできないという事情があるそうです。
 学問とビジネスというのは大抵、両立しないと思います。deCODEはきっとそのアイデアの美しさのために関係者が、ビジネスプロジェクトとしての現実を直視することを軽んじたのではないでしょうか。学問的には大成功と言ってもよいdeCODEでしたが、ビジネスとしては失敗しました。
 deCODEの歴史を振り返って、日本の研究現場を思い浮かべました。現在、日本の大学研究界では、例の事業仕分けで悪化するであろう研究環境に危機感を表している関係者が多くおります。私は事業仕分けという茶番は利よりも害の方がはるかに大きいと思っておりますが、一方、これは、税金によって支援されている多くの研究活動は国の経済状況に依存しているということを研究者にあらためて示したという点で多少の意味はあったのではないかと思います。今の日本の大学研究現場は、基本的にはビジネスではありませんけど、どこからか資金を得ないと研究活動がなりたたないのは同じです。昨今の厳しい経済状況をみると、そのうち多くの大学が破産申請して、活動停止になってもおかしくないという気分になってきます。そんな時に研究者ができることは大してありません。金がないのなら直接、金を生み出さない研究をしばらく休むのもやむを得ないと私は思います。私はビジネスに繋げるつもりで大学で研究すべきではないと思っておりますし、研究はそもそも、金にならないものだと思っています。だからこそ、苦しいときは研究者自ら身を屈めて、出来る範囲の中で、研究を継続する努力をするべきだと思っております。しかし、無理をしてまでやるようなものではありません。研究資金が切られれば、それで支援されているポスドクや研究者の生活に直接影響が及び、研究界やそれに属する人が多大な損失を被るというのはその通りだと思います。でもビジネスなら失敗すれば店を畳んで夜逃げするのは普通のことです。それはハーバードのビジネススクールを出てMBAを持っていようと経営学者であろうと無関係です。研究者も国の財政事情の悪化で研究費が得られなくなったら、それに応じて対応策を練るしか仕様がない、私はそのように思っています。
 deCODEのこれまでの仕事とデータは貴重なものです。しかし、それはダイヤモンドが貴重なのと同じで、空腹の時には、それよりも一片のパンの方がもっと貴重です。アイスランドや世界の景気が良くて人々の日常の生活が充足していた時には、deCODEの活動に資金提供しようとする人はいくらでもいたでしょう。しかし、今の社会状況では、直接役に立たないゲノム遺伝学研究は、無くてもよい贅沢品とみなさざるを得ないということなのでしょう。
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Tomorrow is another day

2009-12-08 | Weblog
しばらく、留守にしておりました。仕事から離れていると、昔と違って不思議に仕事のことは頭に浮かばず、むしろ、これから死ぬまでの日々をどうやったら楽しくすごせるだろうか、みたいなことをつらつら考えておりました。これまで、なかなか進まないプロジェクトでストレス溜まり気味だったので、よい気分転換ができました。帰って来てから、仕事のことをぼつぼつ考えたりしてますが、不思議なことに、ストレス気味だったはずの仕事にまた戻れるのが楽しみです。人間、毎日、何かすることがあるというのは良いことです。いくら、結果を出さねばならないというプレッシャーにストレスを感じていても、プレッシャーもないがする仕事もないというよりは、はるかにましだと思います。数年前は、プレッシャーもあり、やるべき仕事もあるが、資金が足りず、やりたい仕事もできない、という状態の時期もありましたから、今の状況はずっといいです。

結果を出さなければならないというプレッシャーに押しつぶされそうな時は、太宰治の詩「生活」を読むと、元気がでますね。
  
  よい仕事をしたあとで
  一杯のお茶をすする
  お茶のあぶくに
  きれいな私の顔が
  いくつもいくつも
  うつっているのさ

  どうにか、なる。

よい仕事をしても、それが、無事に評価されないと、借金が返せるかどうかわかりません。そして、借金がかえせなくなったら、仕事もできなくなるかも知れません。分筆業や自営業や、私のような研究者は、皆、よい仕事をするだけでは、生きていけません。よい仕事をして、その結果が売れてはじめて、お金になるわけですけど、それは、お客さん(なりレビューアなり)の外部の人の評価で決まります。しかし、私ができることは、できるだけ良い仕事をすることだけで、他人の下す評価を直接変えることはできません。だから、自分が満足できる様な仕事をしたら、それだけで、十分ではないか、と私は思うのです。それで、よい評価が受けられずに廃業になったところで、それは天意として受入れるより他ないのですから。
 イエスも「明日、何を着、何を喰わんと思い煩うな」と言っています。ボビーマクファーリンも「Don’t Worry, be happy」と歌っています。「明日できることを今日するな、他人ができることを自分でするな」という警句もあります。今日は、自分がやるべきことを楽しく精一杯やって、それで満足して、ぐっすり眠ります。明日は明日の風が吹きます。
 そんな感じで、残りの人生の日々、生きていけたらなあ、と思っております。
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