百醜千拙草

何とかやっています

Pursuit of happi(y)ness

2015-03-31 | Weblog
前回の「うつ」に関連して、今日は「幸せ」について。
週末、「Happy」という数年前のドキュメンタリー映画を見ました。世界の色々な国や地域での人々の生活を通じて、幸福であるということはどういうことかという考察をしています。映画の中で、幸福度の低い国の例として日本が取り上げられています。自動車会社に勤めるまだ若い男性が過労死した例が紹介され、満員電車で疲れきって目を閉じている人々が映し出されます。一方で、世界有数の長寿の人々が住む幸せの島として、沖縄の人々が笑顔で登場します。

現実は、沖縄は大戦後にアメリカ占領下に置かれ、返還後も現在に至るまで世界最大の国外アメリカ軍基地によって多大な苦しみを受け続け、現在も日本政府がやろうとしている在日米軍の永久化のための辺野古埋め立てを阻止するための長い戦いの最中であり、加えて、同じ日本といいながら金銭的、立場的な不平等を受けてきています。しかし、そこに住む人々は、公称年間3万人が自殺する日本の内地の人々よりも幸福度は高いようです。

「幸福」はこの十年位で心理学の研究対象として注目されてきました。アメリカの研究によると幸福度を決めるものは、50%が遺伝的要因ですが、外的な要因は10%に過ぎず、残りの40%は本人がコントロールできる内的要因なのだそうです。日本の社会でこの数字がどれほど当てはまるのかは微妙ですが、確かに幸せかどうか、というのは「心の持ちよう」だろうと思います。

幸せであることはいろいろなメリットがあります。最近の記事によると、幸福度の高い子供の学校の成績はよいのだそうです。ま、そうでしょうね。同様に、幸せな人は、仕事のパフォーマンスがよく収入も多いのです。幸せそうに頑張っている人に結果がついてくるのは当然でしょう。
 しかるに、大勢の人は、自分が幸せでないのは、仕事が面白くないとか収入が低いとかベンチがアホだとか、とりあえず自分以外の人やものに責任を求めてしまう傾向があります。そうなると悪循環ですね。ますます仕事も面白くなくなり、ずっと不機嫌なので人からも相手にされず、パフォーマンスはますます落ちる、そしてもっと不幸になる、というわけです。アメリカのデータが正しいのなら、仕事や給料や成績やその他の不満というのは幸福度の10%にしか寄与せず、40%は自分の「心のもちよう」で何とかなるのです。その40%をマイナスの方向に使うのは愚かなことです。

まずは、外的な要因と無関係に、幸福を感じることができるようにトレーニングをして幸福度をあげることが大切なようです。「Circumstances do not matter; only the state of being matters」とバシャールは言うわけですが、一理あります。自分の不幸せを環境のせいにしていては環境が変わらない限り幸せにはなれませんが、大抵の場合、環境は簡単には変えれるものではありません。そうなると不幸に釘付けです。逆に、環境とは無関係に40%の「心のもちよう」の枠を使って、とりあえず自分が幸せになる、そうすると仕事のパフォーマンスが上がり収入が上がり、環境の方が変わり始めるという理屈のようです。

つまり、成功して収入が上がって成績がよくなるから幸せになるのではなく、まず幸せになるから、仕事の効率も上がり収入も上がるということで、まずこのポジティブ フィードバックを正しい方向にエイと回し始めること、回り始めたら回し続けることが重要であろうと思われます。

どうやれば幸せになれるのかの実践的なコツはあるようです。まず、幸せになると決心する。幸せになるのに外的な要因はさほど重要でないことを理解することが基本かと思います。具体的な行動のうちでは、感謝の習慣、思いやりの実践、というのは簡単にできて、かなり効果が高いようです。
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私的うつ考

2015-03-27 | Weblog
取り立てて大きな変化のない日々です。実験は論文をまとめるための確認的なものが主体になっているので、あまりワクワク感がありません。論文もほぼ投稿が見えてきていますがその状態のままです。グラントも当分どうなるかわからないので、いま新しいことを始めるわけにもいきません。いろんなことが宙ぶらりんという感じです。ちょっと休んで美術館にでも行ってみますかね。

昨日は、以前の知り合いの人から投稿間際の論文が送られてきました。フォーマットから予測するに、ハイクラスのジャーナルを狙っているようです。in vivo live imagingを使って組織修復での細胞の移動とそのメカニズムを解析しています。確かに力作で、データは厚いのですけど、ストーリーの継ぎ目に少しずつ隙が残っているような気がしました。肉付きはよいのですが要らない所についており、必要な所についていない感じがするのです。データを絞って弱点をもう少しカバーすればすっきりと読みやすい形になるのではないだろうかという感想です。いずれにしても、こういうハイテク技術にアクセスできてカネのかかる解析法がとれるのでうらやましいです。私の方は未だに90年代の実験法です。

そういうわけでlow keyな日常ですが、そんな中でも小さな楽しみを見つけて前向きに生きようと思っています。
前向きに生きるで思い出しました。先日、Robin Williamsが主演したPatch Adamsという実在の医師のエピソードに基づいた16年前の映画をビデオで見ました。映画そのものは余り感心しませんでしたが、映画の中で「うつ」になって、試練と挫折にあって自殺しようとするRobin Williamsを見て、複雑な心境になりました。映画の中では、自殺しようとした時に飛んできた蝶(殺された医学生の恋人のシンボルと思われる)によって踏みとどまるのですが、現実の世界では、結局、長年の「うつ」との戦いのあとで自ら死を選んでしまいました。

「うつ」はおそらく人間特有の病気で、非常に多いです。私も多少「うつ」傾向があると自覚しているので、これまで気をつけていました。個人的な意見ですが、やはり「うつ」は過去への後悔と未来への不安と恐怖からきていると思います。過去も未来も実在しないものです。その「ない」ものに対するネガティブな感情がその原因と思います。「ない」もの対する後悔や不安や恐怖を和らげるのは、言うは易し行うは難しです。理性的に考えれば、過去は変えれないのだから、過去のイヤなことは忘れるしかありません。未来のイヤなことは、来ていないのだから心配したり恐怖に感じたりするのではなく、イヤなことが起こらないように準備するしかありません。しかし、こういった感情はコントロールすることは困難です。感情を生み出すのは思考ですから、思考のクセを変えるトレーニングをするというのが実際的な解決法です。とはいうものの、思考もコントロールするのは簡単ではありません。なので、放っておくとネガティブ思考とネガティブな感情が作る無限ループから抜け出せなくなります。

思考のコントロールの他に、最近やっているのは、「うつ」や「ネガティブな感情」を敵だと見なさないことです。そういう感情も自分の一部なので、それを敵と見なすことは自己の否定に繋がります。そのようなネガティブな部分を、自分の一部として認めてやり、否定したり無視しないでやれば、そこで大人しくしているような気がします。あとは、目の前のことに集中することですね。

何らかの喪失であったり経済的困難であったり、という外的なきっかけがあるにせよ、うつの苦しさの大部分はネガティブな思考と感情のループによって自分自身がつくりだしているものだと思います。そのループを行動や思考トレーニングや薬などでまずは断ち切るようにする、その時に、これらのネガティブな部分は戦うべき敵ではなく、自分の一部であることを認めてやることは、多少、役立つのではないかと思います。
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ノウルーズ

2015-03-24 | Weblog
数日前は春分の日は、イランやその周辺の国ではノウルーズと呼ばれるの新年の始まりの日でした。古代ペルシャのゾロアスター教の祝日に由来するそうで、新年は一年で最も重要な祝日です。豊作と繁栄を願って「S」で始まる7つのシンボルを供え、新年のお菓子を食べます。カルダモンとローズウォーターの上品でエキゾティックな香りのするクッキーやTamrixという砂漠の木の樹液とピスタティオからつくられるキャンディーなどです。

中学生のころ、千夜一夜物語を読んで、その芳醇な古代ペルシャ文明に憧れを抱いたものでした。「ペルシャの市場にて」というイギリスの作曲家の曲を聞いては、そこで売られているであろう色々な珍しい商品や商人や芸人を想像しました。高貴なペルシャ猫やペルシャ絨毯の繊細な模様、サフランとバラの香り、、、。インターネットもなく外国の情報は本やテレビ番組に限られていたころです。しかも日本はアメリカの外圧に負けて開国し、第二次世界大戦でコテンパンに負けたために、外国の情報というものは、欧米経由でした。そうして間接的に限られた量の情報しか入ってこないペルシャは私にとって、もっともエキゾティックな憧れをそそる国の一つでした。

そう思うと、インターネットで海外の情報がどこでもすぐに手に入る現在、私の想像の中の不思議の国々は真昼の太陽に晒されて、随分その神秘性を失ってしまいました。想像力に支えられた異国の豊かさは、現実の情報の前にすっかり色あせ、グローバル化という金儲け効率第一主義によって豊かな伝統は失われてしまいました。

加えて、イスラム革命によって、華やかなペルシャ王国は終焉を迎え、現在のイランは宗教の戒律に縛られたモノトーンな国に私には見えます。私の想像の中にあった神秘の国のワクワクするようなペルシャのバザールというのものは現実には存在しないものなのでしょう。そして、北からロシア、西からイスラエルとアメリカ、南からはサウジアラビアと圧力に晒され、オバマによる対話が始まるまで三十年、国際的に利用され孤立させられてきました。ペルシャの人々の過去の栄華に馳せる思いは想像するばかりです。

古代ペルシャ文明が今は夢であったと同様に、子供のころには、豊かでチャンスに溢れた陽気な国に見えたアメリカは、ハリウッドが作り上げた虚構にすぎませんでした。現在ではすっかり落ちぶれて、二十歳の美貌を失うまいと整形手術を繰り返す中年女のような悲しさを感じます。アメリカに限りません、日本が近代化のお手本としてきたヨーローッパの文化とは、残忍で傲慢な帝国主義に基づく他国の侵略と多人種の搾取の血の上に築かれたものでした。現実というのはそんなものです。

それはともかく、今日はいい天気です。古代ペルシャの人々もきっと今日のような青空を仰いだことだろうと想像しました。そして、昔の琉球の人々もそうだったでしょう。美しい空と海を愛でたことでしょう。沖縄の新知事、翁長氏、辺野古埋め立て阻止に向けて、岩礁破砕許可の取り消しの検討に入ったとの話を聞きました。最後の最後で寝返ってしまった前知事の轍を踏まぬよう願うばかりです。
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ネガティブなプラス思考

2015-03-20 | Weblog
イスラエル選挙の結果は、結局、開票の終盤になってからネタニエフのリクードが盛り返し、第一党となりました。単一政党としては過半数には届かないので、入閣をエサに対立政党以外の政党に連立を呼びかけているという話。新政権はもっと過激で右寄りになるだろうとの予測。

しかし、私は、楽観的に見ています。前回言った通り、勢いのあるものほど、ちょっとしたことで派手に転ぶのです。その勢いの一部は恐怖からきていると思います。イランが核開発をして、周辺のイスラム圏国家と一緒にイスラエルを潰しにきたらどうしよう、という恐怖です。そもそも、現在に至るまで、ほぼ一方的にパレスティナの土地を奪って強引に入植して周辺諸国の反感を買ったのはイスラエルの方です。己の態度を改めずして相手を責めることをするから恐怖を感じるのです。自分が正しいと信じているのなら恐れることはないのです。恐怖に突き動かされる行動は愚かな結果を生みます。アベ政権にも言えることです。
 
高く跳ぶには、まず低く沈まねばならない、という言葉がありますが、逆も真であると思います。高く飛ぶものは落ちるとダメージが大きいのです。そして、物事には始めがあり終わりがあります。イスラエルの極右政権も日本のアベ政権も必ず終わります。今回のリクードの勝利は、将来の中東の(即ち、世界の)平和のためには、一旦、逆方向に大きく振れる必要があるから起こったのだと私は解釈しています。オプラも「失敗というものは存在しない。それは人生が我々を別の方向に導こうとしているだけのことだ」と言っています。ネタニエフの政権がいましばらく続くことは、中東の平和にむけた挫折ではなく、必要なプロセスなのだと解釈したいと思います。

「ほお、ここがちきゅうのほいくえんか」(てい先生 著)の中の一部の話を読んで、「ポジティブなマイナス思考」という言葉を知りました。今回のネタニエフの勝利に対する私の感想は「ネガティブなプラス思考」かも知れません。

ほお、ここがちcきゅうのほいくえんか」から

男の子「ぼく かわいいのきらい!かっこいいのがすき!」
さくら「(泣きながら)せんせい…○○くん(男の子)にきらわれちゃったぁ…」
先生「どうして?」
さくら「だって わたし かわいいから…どうしよう…」
まずその自信がすごいな。

ポジティブなマイナス思考に陥ったようです。


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小石に飛ばされる

2015-03-17 | Weblog
注意一秒、怪我一生、人生は危険が一杯です。
ここ数年、研究の世界でもその他の社会でも、高速で疾走してきた人が、ちょっとしたことにつまずいて回復不能な状況に落込むという例を何例か目にしてきました。外からみて教授になるのが当然と思うような人が教授選を連敗してアカデミアから身を引いてしまった例、明らかにそのフィールドのリーダと自他ともに認める人が、スキャンダルで失脚した例。振り返ってみれば原因は分かるのですが、その原因というのが普通だと全く何の危険もない小石のようなちょっとしたものなのです。しかし高速で疾走中であったために、悪いタイミングで転がってきた小石に飛ばされて、脱線転覆に至ったというように見えます。普通に安全運転しておれば避けれただろうし、避けれなくても大事故にはならなかったでしょう。スピードと危険は比例するのです。これはSTAP事件にも言えます。あんなに派手にやらなければあれだけ派手にずっこけることもなかったのです。

長いフリでしたが、まもなく結果がでるであろうイスラエル総選挙からの連想です。任期を2年残しての解散総選挙は、もちろんネタニエフの率いる右派政権に勝算があってのことでしょうが、すでに風向きは変わりつつあって、現時点では野党優勢という話が聞こえてきます。ま、間もなく結果は分かります。
 イスラエルのシオニスト政権と日本のファシストアベ政権政権、共通点があると思います。おそらく支持を過大評価しているのでしょう。独善的でやり方が強引で細部への気配りがないように見えます。つまり己を過信し危険を過小評価しているように見えます。
 先日、ネタニエフがアメリカ共和党の招きでアメリカ議会で演説をして、オバマのイラン政策を批判しました。これは(一部の)共和党の暴走であり、ネタニエフの暴走です。アベ政権にも共通していますが、そこにある「傲慢さ」が、私には「線路の小石」に見えます。彼らは遠からず劇的な展開で失脚することになるような予感がします。

イランの核開発をネタに制裁を加えててきた西側諸国ですが、オバマはこの一方的な制裁をゆるめて対話を始めようと努力してきました。長期的なアメリカの繁栄を考えれば当然のことであると思います。しかし、アメリカ軍需産業にとっては、どこかで戦争をやってもらったり、どこかの国が仮想敵国でなければ困るのです。平和になってしまうと彼らの商売になりませんから。それに都合がいいのがイスラエルのシオニスト政権ということだったのでしょう。

CNN Japanのニュースから。(http://www.cnn.co.jp/world/35061748.html)
(CNN) イランの核開発問題を巡る同国と欧米など6カ国の交渉について、同国の最高指導者ハメネイ師は12日、「あざむき、ぺてんにかけようとしている」と6カ国を非難した。イラン国営メディアが伝えた。また国営テレビによれば、ハメネイ師は米上院議員47人が発表した公開書簡についても批判した。
この書簡では、もし核協議で合意に達しても、米議会の支持が得られず次の大統領が共和党から選出されれば白紙撤回される可能性があるとしている。、、、
 ケリー米国務長官は12日、上院外交委員会の公聴会に出席し、書簡は「2世紀以上にわたる前例」にそむくものでまったく事実に即していないと述べた。書簡をまとめたのは共和党のトム・コットン議員。オバマ政権の対イラン交渉を妨害するためだとはっきり認めている


つまり、周辺中東アラブ諸国と対立を深めるイスラエルのシオニスト政権とそれをバックアップするアメリカの軍需産業の手先の一部の共和党議員らが、民主党の弱体化に乗じて、オバマの対イラン宥和政策を妨害しようとしているわけです。ブッシュがイラクに言いがかりをつけて侵攻し都合の悪い人間を殺したのと同様、イスラエルとアメリカ軍需産業は、イランの核開発に言いがかりをつけてイランを叩きたいのです。全ては「欲」の話です。
 私は、ユダヤ人がパレスティナの土地へ入ってきて、イスラエル建国を宣言して、パレスティナ人を追い出し、迫害して領土を拡大してきたやり方は、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に移住してきて現地人を迫害して土地を奪ったり、日本が満州にコロニーをつくろうとしたりしたのと同じ、反人道的帝国主義的やりかたであると思います。

しかし、今や人類は、大義名分さえ立てば他人を騙して奪って殺してもよいというやり方を反省し、帝国主義は悪であると認識するようになっているのです。一人一人の一般人の平和、共存への思いというには取るに足らない小石のようなものかもしれません。しかし、暴走するイスラエルのシオニスト政権やアベ政権にとっては、取るに足らない小石にちょっとつまづくだけで、転覆、大脱線することになると思います。

このイスラエル総選挙の結果が今後の世界を占うような気がします。
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今日という贈り物

2015-03-13 | Weblog
グラントを出し終わり、書くべき論文にとりかかりました。グラントが通るか通らないかわからない状態なので、節約モードですが、論文文を一本出すと、$2,000 - $4,000かかります。今の所3本半がパイプラインに入っているので、出版費用だけでもバカになりません。二つはそれなりの雑誌を狙えると思うので、早期に書いてださないとまずいのですが、なかなか遅々として筆が進みません。
もう一本は、書いてきてもらったのを直そうとしたのですが、ちょっと構成や英語表現のレベルから難があり、うーんとうなってしまいました。自分が一から書き直した方が早いような気がするのですが、中身にも問題があり、うまくいっても、書いた本人の希望のジャーナルよりも1-2ランクは最低下がるだろうと考えざるを得ませんでした。しかし、このあたりはまず本人が納得してもらわないといけません。本人が自分の論文を客観的に見て世間の評価とだいたいマッチする評価が下せるのならば、問題はありませんが、大抵、人間は自分のことは他人が自分を見る場合よりも高く評価する傾向にあります。彼女の場合は、この現実の認識のずれが普通の人よりも多少大きいようです。こう言う場合、ヘタに介入すると後に禍根を残すことになりかねません。美容外科みたいなものです。患者さん本人の希望が医師の見立てよりも高いと、いくら医師がベストの結果だと思ったとしても患者さんは納得しないでしょう。
 それで、言いたいことをグッとこらえて、おおまかなアドバイスだけして、あとは本人に任せることにしました。人間は感情の動物ですから、いくら建設的な目的であっても、自分のやったことを批評、批判されるのはイヤなものです。本人の意向のジャーナルを二、三、試してみてからリーズナブルな雑誌に投稿するという手順を踏むことにしました。幸い、論文の内容と英語については時間をとって話したら、反感を呼ぶこともなく、わりとスムーズに話は進み、ホッとしました。

というわけで、いろいろ先のことを考えると不安がつきません。それで現在の今日だけのことに集中しようとしています。人に記憶や想像力というものがなければ、今の瞬間だけが唯一存在するものです。「Carpe Diem」、「今日が最後の日であるように生きよ」とよく言われますが、頭ではわかっていても心から実感すること、ましてそれを行動に移すことはなかなか難しいです。

先日の記念日に東北大震災のことを思い出していたら、ふと、私が現在生きているのはすべての私の体の臓器がそれなりに機能しており、事故にも天災にもあわなかったという希有な条件の積み重ねの結果であるということを感じました。ちょっとものを喉に詰めたり、心臓の脈が乱れたり、脳の血管が切れたり、歩道に車が突っ込んできたり、そういう「よくあること」の一つでも私に起こっておれば、私は今の時間に生きた存在として在ることがなかった可能性もあったのだ、という感覚に打たれました。生きていることは奇跡の積み重ねです。生きているだけですごいことで、しかもそのことに私はほとんど積極的に関与していないのです。心臓も腸も腎臓も私の意志と無関係に動いています。だから、心臓を動かしたり腸から栄養を吸収したりさせているのは私ではなく、私以外の誰かです。とすれば、私の命というものはその誰かからの贈り物に他なりません。私が今日の一日を過ごせるのも、その誰かのお陰です。そして、私が存在しなければ、当然ながら「今日」を認識する私という存在はありません。

ここまで考えて、「今日が最後の日である」というのは比喩ではなく厳然たる事実なのであり、その「今日」とは誰かからの「贈り物」なのだということに深く気づかされました。「今日という最後の日は贈り物である」、これは明日になって明日が今日になっても真理です。今日という一日は「誰か」の厚意によって与えられたものであることには間違いありません。贈り物ですから、文句を言ったり突き返したりしてはいけません。その「厚意」はただただ有り難く受け取るのだと思いました。
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罪と罰と責任

2015-03-10 | Weblog
先週の話、山梨大の若松さんが、STAP問題の責任をとって停職処分となったという話がありました。理研の野依理事長も辞任するそうです。
STAP問題というのは、研究倫理の問題というより、社会構造に組み込まれた日本人的陰湿さの問題ではないかな、という気がしてきました。

確かにOさんがやったことは非難されるべきことでしょう。ただ、彼女自身はやったことがそれほど大したことではないと認識していただろうと想像されます。些細な火の不始末が大火事になるというのはよくある話です。今回は、理研、Natureといった花火工場でのちょっとした火遊びが大爆発につながって、関係者の自殺や処分などに至ったということではないでしょうか。

責任を辿っていけば、確かに火遊びした本人に加えて、十分に教育しなかった人、引火物となるようなものを管理していなかった人、などというところに行き着くわけですが、思うのは、果たしてそうやって責任を追求していって、最終的に何らかの良いことが期待できるのか、ということです。見せしめには十分なっているでしょう。しかし、不正に関わった人々を見せしめにすることが日本の社会や研究の世界においてプラスに働くか、と考えれば、とてもそうは思えません。
 ヘンな喩えですが、出来心で浮気して離婚した子供のいる家庭みたいなものです。責任を追求していって誤った行いに何らかの罰が下ったところで、それだけのことです。浮気した方は家庭と子供と信用を失い、子供は親を失い、浮気された方は配偶者を失って深く傷つきます。弁護士以外に得をする人は誰もいません。このSTAP騒動で、週刊誌やマスコミ以外に、誰か一人でも得をした関係者はいるのでしょうか?

このように不正に厳しく責任追及する風潮で、今後に起こるであろうことは、PIは責任をおそれて、必要以上に疑心暗鬼となり、管理を強め、データや試料などのチェックを過剰にせざるを得なくなり、規制がどんどん増えて、研究から自由が失われ、余計な雑用が増えて成果があがりにくなるいうことでしょう。研究も人間のすることですから、故意であれ事故であれ何らかの誤りは必ず出ます。加えて、成果主義で職も出世も決まる世界ですから、研究費と研究ポジションが不足している現状では、研究不正のリスクを犯してでも成果をあげたいと考える研究者は大勢いるでしょう。ならば、不正を暴いてその責任を追求するという「科学」にとっては非生産的なことに労力を費やすぐらいなら、最初から不正の可能性を考慮に入れておく方が、遥かにコストは低くなるのではないでしょうか。基本的に研究では、推定有罪ですから、不正が疑われて速やかに晴らすことができなければ、論文はすみやかに撤回するというルールを作り、それに使用された研究費を返還させて終わりにすればどうでしょう。検証実験などというバカげたことに余分な労力と時間とカネをかけて、ただでさえUglyな傷を酷くする必要はありません。

結局、人間は感情の動物ですから、研究不正をした人間がそれなりの罰を受けるのを見たいのです。そうやって水に落ちた犬を叩きたいのです。このような行為が全く非生産的であることは言うまでもありません。他人の批判をしたりしているヒマを自分の研究に振り当てた方がはるかに生産的であるのは間違いありません。加えて、不正を働いた人間もその後の人生があるわけですから、論文が撤回された時点で忘れて「次にいく」のが武士の情けというものです。

もう一つ、私が全く解せないのが、日本人特有の「責任の取り方」です。責任をとるとは、自らが起こした何らかのダメージを何らの方法で回復するということではないかと私は思います。今回、若山さんが停職3ヶ月という処分を受けた、ということですが、これは単に罰を与えただけのことで、ダメージの回復には何の効果もありません。この「罰を受ける」ということと「責任をとる」ということが、どうもごっちゃまぜになっているのが、私には理解できません。

若山さんがOさんの話を信じていたころのインタビューとかを読む限り、この方も被害者と言ってよいでしょう。もちろん、論文の責任著者となった以上は責任を取らねばなりませんが、それが停職であるとか役職の辞任というのは違うのではないでしょうか。論文に関しての責任は、論文を撤回して不正をおおやけに認める以外にはないでしょう。それについやされた研究費の返還というのも責任かもしれません。

この「罰を受けること」イコール「責任を取ること」という妙な考え方がもっとも顕著なのが政府閣僚ではないでしょうか。例えば、閣僚がなんらかのスキャンダルで要職を辞任することはしょっちゅうあります。税金で給料もらっておきながら、その仕事を途中でほっぽり出すことになるのですが、罰なのかも知れませんが、こういう行為は、むしろ、無責任でしょう。加えて不思議なことは、仕事がマトモにできず、辞めてマシな人にかわってもらわうことこそが責任をとることになるような人に限って、仕事を全うすることが責任だ、というような理屈を捏ねるのです。

話をもどすと、若山さんは騙されたことに気がついて論文撤回を呼びかけた時点で、責任は取っていると私は思うのです。それ以上のことを求めるのはおかしいと私は思います。理研という組織にしてもそうです。それ以上の罰を与えたり、あるいは逆に自ら罰を求めたりということは、やめるべきだと私は思います。それは単なる代償行為にすぎないのではないのかと思うのですけど。

福島原発のあれだけの悲惨な事故はあっという間に風化し、東電も政府も誰一人として「責任」をとっていないのに、しかるべき責任を取った若山さんらにいらない罰を与えるという社会はおかしいと私は思うのですが。
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危ないイスラエル

2015-03-06 | Weblog
最近のイスラエルのシオニスト政権、アベなみの暴走をしているような感じがします。非常に独善的で柔軟性に欠け好戦的な感じがしますね。
私は、次のアメリカ大統領選挙の後のことを心配しています。この調子でいくと次は共和党の可能性が高いでしょう。またロムニーが出てくることになるのでしょうが、国際政治においてオバマの路線を引き継ぐことはないだろうと思います。となると、このイスラエルの暴走がとまらなければ2-3年後に中東はかなり危険な状態になる可能性があると思います。

オバマがイランへの経済制裁を緩める方向で調整してきたのがイスラエルは気に入らないのです。そして、中東でイスラエルの後ろ盾となっているアメリカの議会でネタ二エフが演説してオバマを批判したという話を聞きました。もちろん、これはアメリカ軍需産業をバックアップする共和党のお膳立てがあったのでやったことでしょうが、例えば、これが日本であればどうでしょう。どこかの国の首相が日本の国会にやってきて、アベのやりかたは生ぬるい、とでも批判すれば、いくら反アベ派が力を持っていたとしても、その批判で物事は悪くなりはすれ、良い方向に進むとは思えません。あせっているのか、あるいは逆に傲慢になっているのかどちらかなのでしょう。

再び、田中宇さんの記事から
テロ戦争を再燃させる

 最近の記事で、イスラエルが自国とシリアの国境地帯でアルカイダ(アルヌスラ戦線)を支援し「イスラエル・軍産複合体・アルカイダ・ISIS」の連合体ができていると書いた。米オバマ大統領は、この連合体と対峙している「イラン・イラク・シリアのアサド政権・レバノンのヒズボラ」の連合体を宥和(強化)する傾向で、その一環としてオバマ政権は、かつて米国自身がかけたイランの核の濡れ衣を解こうと交渉を続けている。イスラエルのネタニヤフ首相は、軍産イスラエルの傀儡色が強い米議会に自らを招待させ、イランと核協約をめざすオバマに反対する演説を3月3日に行う。アルカイダやISISを支援するネタニヤフと、イランへの宥和を強めるオバマとの敵対が激化している。
「イスラエルがアルカイダ(ISIS)を支援している」と指摘しているのは私だけでない。米国の、軍産イスラエル系の共和党勢力「ネオコン」(米政府にイラク侵攻を挙行させた勢力)の中心に位置する「権威ある」雑誌ウィークリースタンダードが最近、イスラエルの対シリア国境でのアルカイダ支援の事実を指摘し、イラン容認のオバマと、イラン敵視・アルカイダ支援のイスラエルの対立がひどくなっていると、まさに私と同じことを書いている。
このようなテロ戦争の策略は、01年の911事件とともに米国が世界戦略として大々的に採用したものの、ネオコンが話をねじ曲げてアルカイダよりサダムが悪いという話にしてイラク侵攻を引き起こし、イラク占領が失敗してオバマが米軍を撤退させたことで、テロ戦争は失敗した戦略になった。しかし昨年6月、モスル陥落とともにISISが突然台頭し、ISISとの戦いが「テロ戦争Ver.2」となった。
軍産イスラエルの延命策である「第2テロ戦争」を終わらせられるとしたら、それはオバマ自身でなく、オバマが隠然と頼みの綱としているイランやロシア(露中)だ。ISISと本気で戦うアサド政権やヒズボラを支えているのはイランで、イランを支えているのはロシアや中国だ。シリアの停戦交渉を仲裁するのはロシアだし、最近はロシアとイタリアとエジプトで組んでリビアのISISを退治する米国抜きの軍事行動も計画されている。
 米欧日で流布するプロパガンダでは、イランや露中は「悪」で、プーチンの発言はウソばかりだと報じられている。実のところプーチンは最近、国際政治の中で、発言が最も信頼できる指導者の一人だ。ウクライナ危機についても、プーチンが言っていることが大体正しいことが事後に判明している。半面、米政府は間違ったことばかり言っている。


テロ組織、アルカイダにせよISISにせよ、を持ちつ持たれつと利用してきたのは、アメリカでありイスラエルなのです。オバマはそれに少なくともブレーキをかけようとしてきたように私には見えます。次のアメリカ大統領が共和党になったときにそのブレーキが外れて、中東での大規模な戦争が勃発するのではないかというのを、私は恐れています。第三次世界大戦はおこるとすれば、中東でおこり、ロシアがイスラエルの暴走を止めるために中東での激烈な核戦争となり、中東を荒廃させてしまうと考えられています。これは米露間の戦争に発展しアメリカ本土への核攻撃に繋がる予想する人もいます。そうならないことを願ってはおりますが、次のアメリカ大統領がその鍵を握るような気がします。
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拝金時代の道徳

2015-03-03 | Weblog
先日の東京新聞、筆洗を読んで、ちょっと思ったこと。

 文部科学省がつくった道徳教育の教材『わたしたちの道徳』に、こんな話が載っている。ある朝、少年がお母さんに一枚の紙を渡す。<せい求書/お使いちん 1ドル/おそうじした代 2ドル/音楽のけいこに行ったごほうび 1ドル/合計 4ドル>▼母さんは請求通りお金を払う。<お母さんからのせい求書/親切にしてあげた代 0ドル/病気をしたときのかん病代 0ドル…/合計 0ドル>と書かれた紙を添えて

話の内容に加えて、この話が日本の道徳の教科書に採用されるということと、そしてそれを読んだ子どもが何を感じるのかということを考えて、私はちょっとゾクッとするような違和感を覚えました。

この親子は請求書を交換する代わりに、正直にストレートに話あうということをしないのでしょうか。

子どもは、お小遣いが欲しいなら、請求書を突きつけるのではなく「お手伝いしますからお小遣いを下さい」とどうして正直にお願いできないのでしょうか。親は、その子どもの行動に対して、「何でもカネに換算して行いを計るようなことをしてはいけない。お小遣いが欲しいなら、そう言いなさい」と教えるべきではないのでしょうか。

この母親はカネを請求通りに支払った上に、意趣返しのメモを渡して、まるで子どもに罪悪感を植え付けようとしているかのようです。ちょっと穿った見方に思えるかも知れませんが、この母親の行動をみて「Passive Agressive」という言葉を思い出しました。他人をmanipulateするときに「罪悪感」を使うのはよくある手です。そもそも、親に請求書を突きつけるような子どもに育ったのはなぜなのでしょう。親に請求書を突きつけるということがどういうことなのかということに対する理解が乏しいということですね。何らかの行為に対して金銭的見返りを要求するのは当然であると子どもはその環境から自然と学んだのかも知れません。が、そもそもその環境を与えたのは誰なのでしょうか。

この母親の行動から、子どもは何を学ぶのでしょう。「無償の愛」でしょうか。私はとてもそうは思えません。愚かな子どもは親が子どもにしてくれることはタダで、子どもが親にすることにはカネが請求できるのだ、と思うかも知れません。あるいは、カネと引き換えに「罪悪感」を使って人をmanipulationする方法を学ぶかも知れません。

もっと穿って考えれば、この話は、家族の中でのお互いの行いをカネに換算して、有料だからダメで無料だから尊いなどというような短絡的な価値観を推奨しているかのように聞こえます。政府は本音では、国民は、何でもカネに換算して物事を考えて欲しいと思っているでしょう。彼らにとってみれば、子どものお使いは労働となり、お小遣いは収入と計算され、税収が発生することは望ましいことでしょうから。

本当のところは、カネは二次的なものです。カネのない動物の世界でも親は無償で子どもを守り、その子どもはそのまた子どもを守っていって、何の見返りも求めないのです。人間の世界でも、子どもは、お使いをするのと引き換えに、誰かの役に立てるという実感と幸福感を感じ取ることができるはずです。それこそが人が社会に生きる意味ですから。そういう活動を通じて学んでいきます。小さい子どもは見返りも求めずお手伝いをしたがるものです。お使いした時には子どもはすでに見返りを受け取っているのです。
 
ならば、子どもは「お使いさせてもらってありがとう」、親は「お使いしてくれてありがとう」と、カネを介さない人間関係とお互いを思いやる心を育むのが本来の姿ではないでしょうか。それをカネに換算して、相殺してチャラね、というのではただの「取引き」にすぎません。まして、意図的であれ無意識的であれ、親が子どもの「罪悪感」をカネで買うようなマネはすべきではありません。

それで思い出しました。しばらく前からマクドナルドでの「スマイル0円」というメニューが無くなっているそうです。
Twitterから
・「スマイルください」って注文したら、「そちらの商品はかなり前から生産中止です」と無表情で言われた
・バイトしてたことあるけど「スマイルください」って言われるの辛くてやめた
・店員にスマイルください!って言うと睨まれる

これは秀逸。
マクドナルドで注文中の親子の会話。子供「ねぇパパ?このスマイル0円ってどうして0円なの?」 親「それはね、店員の単なる義務感によって作り出された相手に対してなんの感情も抱いていない上っ面だけの1円の価値も無い笑顔だからだよ」と説明していた。


もし、この子どもが上の道徳の話を読んで、「どうして、お母さんからの請求書は0 ドルなの?」と聞いたら、この父はどう答えるでしょうか。

ちょっと関連して、別のサイトから引用します。
誰かのために力を尽くすこと

米国の著名な自己啓発家ジグ・ジグラーの言葉を引こう。
「人の望みを叶えるために十分力を尽くせば、不思議と自分の望みも何でも叶うものだ」
成功する人はもともと人の役に立ちたいという欲求がある。
そして、心から望んで誰かのために力を発揮しているとき、自分は正しい行いをしていると感じるのである。
心から人のために働くことで生まれる喜びは、自分が抱くどんな望みよりも尊いものだ。


誰かの役に立てることの喜びを教えるのが本来の教育というものでしょう。
そう思えば、この「道徳」の教科書に載っている話は肌寒いばかりです。

宗教に比べると、「道徳」は相対的なもので、その時の社会の要求に沿って変化します。この話はカネが全てのような今の世の中にふさわしい喩え話なのかも知れません。

しかし、この非人間的な現代の資本主義は間もなく崩壊し、こういう喩え話が意味不明になる日も遠くないと私は思っておりますが。

生活向上委員会大管弦楽団から、青年の主張(とにかく何でもいいからカネ)
コメント
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