百醜千拙草

何とかやっています

愚かな話

2021-02-26 | Weblog
ちょっと愚痴っぽい話ですみません。
昨年はコロナで精神的きて、その後不整脈がひどくなり心不全となりました。その数年前からスランプが続いていたこともあって、これは、きっと膿出しが起こっているのだから、まもなくコロナも収束して心臓もよくなって、明るい方向に向かうだろう、と楽観的に考えていました。しかし、まだまだ明るい兆しは見えず、心臓は後遺症が残り、新たな新人を雇って再起をかけたプロジェクトは一歩も進まず、どうも、これは一時的なディップであるという見方を修正しないといけないと思い知らされました。もうそろそろ上向きに転ずるはずと思い続けた挙句に、この現状、「『もう』は『まだ』」なり、とはよく言ったものです。

それで、近年起きたことは、これまでのような生き方を根本的に見直せというサインだったのではないかとようやく思い直しはじめました。これまで、それなりに情熱を注いできた(と自分では思っている)研究活動のこれまでと今後を自分と家族の残りの人生というコンテクストの中で見直そうとしています。この数年のスランプで、何度も考え直す機会はあったのに、あえて真剣に方向を見直すことをしようとしなかったことを多少、後悔しています。過ぎ去った時間はもう帰ってこないですから。私が鈍いのか、サインが遅いのか、手遅れになりかけてから行動するハメになるのがいつものパターンです。

結局は、何事においても、どんなに情熱を注ごうとも、あるいは人や世の中のために使命感をもってやろうとも、そしてどんな偉業を成し遂げようとも、その主体たる個人にとっては、やることすべては「死ぬ時までの暇つぶし」なのだという虚無的な感想が湧いてきて困っています。昔と違って、この言葉が今は重いです。昔は、どうせ暇つぶしなのだから深く考えず軽快に行こうと思っていましたが、今は同じ暇つぶしなら、残された時間の使い方を積極的に考えなければならないという気持ちになっています。

研究の楽しみや喜びは、数多くの経済的困難や競争や批判に基づくストレスなどと引き換えにしても価値のあるものだと私は信じていたのですが、どうも、それは自分でそう無理に思い込もうとしていた部分もあるということに気きづかされました。思い返せば、数年前から心の奥底ではそのことを知っていたのに、あえて直視しないようにしていたのでした。つまり、「たかが研究」と「されど研究」のバランスがいつのまにか逆転しつつあったのが意識上に顕在化したということです。

事実、ちょっと現在の研究分野を客観的に眺めてみれば、大変な努力の上にすばらしい成果をなしとげた研究の論文が半年で忘れ去られ、毎週、私の狭い関連分野だけでも数百本の論文が出版される状況は、すでに研究者も研究そのものも使い捨てにされるティッシュペーパーの一枚に過ぎなくなっています。ほとんどの論文は人々の記憶からは瞬時に失われて、大海に注ぐ大河の一滴のように、電脳空間に漂う無数の知識のカケラとなって散ってしまいます。ま、それは他の人類の活動と同じなので、別にいいのですけど、しかし、その使い捨てのティッシュペーパー一枚にかけられる労力と時間はリアルの人間のものです。

かつては興味をもった疑問を追求する努力は自分にとって、その時間や労力やその他のものを引き換えにしても価値あることだとは思っていました。趣味に全財産と時間を費やす人も大勢いますように、研究は趣味だとでも思わなければ続きません。しかし、病気になり、コロナで精神をやられ、親や家族の問題を抱え、というような状況になった今は、一連の近年のできごとは、そうした姿勢を考え直せというサインだったと解釈すべきだったと感じるようになりました。

おかしな話で、生物系の研究を職業にしたいいう若い人がいれば(滅多にいませんけど)、私は、何年も前から「辞めたほうがいい」とためらいなく言えました。なのに、一方で、若い人が幸せになれないと自分で思っているようなところに私はいて、それでも自分はOKだと思い込んでいたようです。多分、私は必要以上に辛抱強く諦めが悪いのでしょう。愚かな話です。
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農耕民族と民主主義

2021-02-23 | Weblog
テニスの全豪オープン、日系の大坂ナオミ選手が二度目の優勝。テニスに加え、社会問題にも関しても信念に基づいて発言し行動する姿勢は素晴らしいと思います。

日本以外の多くの国では社会問題というのはイコール個人の問題です。個人が集まってできたものが社会であり、それは社会の構成員一人一人の意志によって形作られるものという考えが根底にあると思います。一方、島国で封建制度が長く続き、外圧と敗戦で民主主義を外から与えられた日本という国では、民主主義はいまだに形だけです。現在の政治では江戸末期に外圧を利用して権力を手にした薩長の子孫の世襲政治屋が、まるで国の支配者であるかのように振る舞っています。かれらは下々の国民が納めた年貢は自分たちのものであり、それを自由にで使うのは当然だとでも思っているのでしょう。

フランス革命では、コンコルド広場で国王はギロチンにかけられ、この時の革命歌で現在フランス国歌となったラ マルセエーズのサビでは、「武器を取れ 市民らよ、隊列を組み、進め。汚れた血が我らの畑の畝を満たすまで」と歌われます。市民が自らの手で民主主義を手にいれました。先日のトランプの扇動によって議会に乱入し議員を拘束しようとした人々も、その行動の源には、おそらく、西洋の自由主義と民主主義もあったのだろうとは想像できます。権利は勝ち取るものだという意識があると思います。だからこそ、市民の目の前で国王は処刑されなければならなかったのでしょう。

一方、日本は和の文化であり、東洋思想の仏教の陰陽のバランスを重視してきました。悪人には悪人の意味があると考えるのが東洋的な考えだと思います。敵と味方で戦って勝敗によってやりかたを決めるというやりかたを嫌います。それは土地から離れられない農耕民族であるという条件が大きく影響しているという話を聞いたことがあります。土地から離れられないのに、近隣に住むもの同士が、敵味方でとことん争うことはダメージが大きすぎるからだろうと思います。個人の権利よりも、その土地全体の安定が第一となるわけで、日本人や中国人が論理的(logical)ではなく実際的(pragmatical)であり、そして全体主義に馴染みがいいのはそういう理由であろうと思います。

しかるに、民主主義は西洋で生まれ、それは原則的に二元論にしたがって論理的な議論の勝敗によって政策を決定してくというプロセスだと思います。そして土地という現実に縛られがちな農耕民族とは違い、西洋の論理的思考は現実の束縛の外を自由に考えることができるという長所があるのではないかと思います。

民主主義のプロセスというものは、現実的であるということ(つまり与えられた現状の中で最大利得を目指す)とは相入れない部分があります。現状を変えて、理想とする世界を描きそれに向かって努力する、あるいは困った状況を予測しそれを回避するように工夫する、ということができるためには論理的思考力、想像力が必要であり、それは、現実的であることや人間の感情としばしば対立すると思います。日本人は、空気を読んだり、忖度したり、付和雷同して、丸く収めることを好みますけど、西洋型民主主義という観点からみると、丸く収めるのを目指しているという段階で、民主主義プロセスは機能不全に陥っていると思います。国会で、ごまかし、その場をやり過ごすのが目的としか思えないような官僚答弁を聞いていると、彼ら「支配者層」が民主主義を形骸化していることがよくわかります。

「理に働けば角が立ち、情に竿せば流される」と言われる通り、論理は理性に基づき、人間の行動は感情に基づくので、実際的である日本人や中国人は感情に注意を払います。そのために「理」が曲げることもしばしばある。戦後民主主義という枠組みが西洋(アメリカ)から与えられて、それに沿って国家運営を行うことになったのに、全体が個人より優先し、感情が理屈よりも優先し、理想の実現よりもその場を丸く収めることを優先する農耕民族のやりかたが、日本の政治を極めて未熟なものにしていると思います。

つまり、日本の政府、特に、今の自民党政権には、「理」がありません。ついでにいうと「情」も身内と自分に対してあるだけで、国民に対しては極めて冷酷です。だから、やって悪い事がわからない。モリカケ、サクラみたいな事件が平気で起こり、追求されると国会で数えきれない数のウソをつく。GoTo、 オリンピック、やってはならないこと、できるはずのないことをやろうとする、つまり理性的な思考力がない。原発にしてもそうだし、少子化にしてもそう、パンデミックや災害にも満足に対応できない。批判を正直に受け止めて、とるべき責任をとれば、それで進むのに、絶対に非を認めようとしない。非を認めたら「負け」だとでも思っているのでしょう。その感情を理屈よりも上位においてしまうことが、アベの119回目のウソに繋がっている。国民側も農耕民族思考で民主主義的プロセスに反対する自民党応援団がいるのが大きな問題でしょう。彼らの「野党は批判ばかりするな、対案を出せ」、「国会でサクラをいつまでやっているのだ、もっと大事なことを議論しろ」、「終わったことをいつまでもグダグダ言って時間を浪費するな」みたいなズレたことを言う。論理的な議論を拒否し、嘘を並べて議論の進行を阻止し、多大な時間と金を浪費しているのは自民党の方ですよ。

幸い現在の日本では国民はフランス革命の時のように力ずくで自民党議員を広場に引き摺り出して処刑する必要はなく、選挙にいって落とせばいい。それがなかなか実現しないのは、民主主義という西洋の精神が自ら勝ち得たものではないこと、それから、連綿とつづく農耕民族の思考のくせではないでしょうか。つまり、将来の理想の社会の実現のために戦うのではなく、与えられた目の前の現状を丸くおさめることを優先する農耕民族の本能的指向です。

よく言えば和を尊ぶですけど、それは同時に個に犠牲を強いることに繫がっています。この農耕民族思考が悪く出ると、和を乱すものをイジメることになるのでしょう。露骨にイジメるとイジメる方も和を乱す者と思われる可能性があるので、こっそりイジメるかみんなで責任を分散して輪になってイジメる。よりよい社会に変えていこうとする努力は冷笑され、出る杭は打たれることになる。これが、日本人の奥ゆかしくて親切であると同時に一方では意地悪く陰湿な性質の元なのではないでしょうか。
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Brain-body conflict

2021-02-19 | Weblog
男と女の間には深くて暗い川があり、頭と体の間には愛憎入り混じる葛藤があります。頭は「何かを達成したい」と欲する一方で、体の方は「楽をしたい」という相反する指向性があるという話で、これがわれわれの「生産性」の違いを説明していると思います。頭の指示に体が従えばなんらかの成果が出はじめ、体と頭が協調して「ノってくる」とその成果が倍増します。一方で、頭と体が不調和だと成果がでません。発達した大脳皮質は人間らしさを実現する源であり、頭が適度な力で体を引っ張っていく状態が望ましいのだろうと思います。

歳をとってくると、頭の力も体の力も衰え、それを自覚するのは寂しいことですけど、いいこともあります。ようするに、もう無理ができないとわかっているので、頭が走りすぎることも体が空回りすることも少なくなり、その結果、私は最近は、ずっと中速定速走行です。マラソンが趣味の人の話では、年をとると瞬発力は減るが持久力はむしろ増えるのだそうで、体の抑制が持続力を高めるのかもしれません。

私は、とりわけ昨年のコロナでの施設閉鎖をきっかけに、まずメンタルがやられ、加えて後遺症の残る心臓病を発症し、心身がお互いの足を引っ張りあうような負のサイクルに陥ってしまいました。しかがたがないので、無理をしないようにして、頭と体のバランスの維持に気をつけて、自然に浮上するのを待っている状態ですけど、あえて無理をしないというのは、無理して頑張るよりも生産性は高くなるように思います。

それで、今は毎日が金太郎飴のような日々で、同じ時間に起きて、同じような食事をして、同じ時間に仕事に行き、同じような時間に帰ってきて同じ時間に寝る生活です。週末は家事をしてダラダラし、夕方に一杯のビールを飲む。ブログを週に2回書く。若かった頃の自分が今の自分を見れば、なんとつまらない生活だろうと思うだろうと思いますけど、今の自分は、これでそう大きな不満はありません。これでなんとかそこそこ満足しながら仕事が進んでいます(なかなか成果には繋がっていませんけど、進んでいます)。毎日、同じような生活ができるのはありがたいことだと思います。

たぶん、歳をとって、型にはまった生活をするのは、人間の本能的な知恵なのだろうと思います。若い時のように、無理をしたりハメをはずしたりしたら、三倍返しでツケがやってきますし。そもそも頑張った時の高揚感やその後の爽快感というものはすっかり感じなくなり、頑張りたいという気持ちがなくなりました。そういう感情的なモチベーションが減ったのは、少なくとも私にとってはよかったことだと感じています。
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ワクチンと差別

2021-02-16 | Weblog
ファイザーのワクチンようやく日本導入のようです。ワクチンが効きにくい南ア型変異ウイルスが気がかりですけど、これでようやく収束へ向かう道筋がみえてきました。医学、医療という観点からは、今回のコロナによってRNAワクチンが初めて広く一般に接種されて、その効果が確認されることに繋がったのは(長期的には)プラスであったと思います。今回えられたノウハウによって異なる分野のRNAワクチンや他のRNAベースの医薬品の臨床応用が増加するのではないかと想像します。

ワクチンによって集団で免疫を高めて、ウイルスを封じ込めるという目的からは、ワクチンはできるだけ広く短期間に接種することが望ましいと思います。しかし、このワクチン、一度めの感作時も局所痛が接種後しばらくしてから出て1-2日続くし、二回目の接種では、多くの人は、ひどい発熱、頭痛、筋肉痛に見舞われ回復に1-3日かかるようです。(これは逆に言えば、一度目の接種が効いているという証拠でもあるでしょうが。この点からすると、多少、効果は劣るもののジョンソン&ジョンソンの一回うちワクチンは魅力的ではあります)

こうした副作用に加えて、根強いワクチン陰謀論信仰などがありますから、一定数はワクチン接種を拒否して、ウイルスのホストになりうる人々がでてきて、そうした人々がワクチン耐性の変異ウイルスを生み出すことに繋がるという可能性は考えられると思います。ま、この辺りは、おそらく公衆衛生の専門家がこれまでのデータからシミュレーションをおこなって目標接種率などを計算していると思いますけど。

ところで、アグレッシブなワクチン接種を展開してコロナ対策の見本にようにいわれているイスラエルですが、藤永さんのちょっと前のブログでちょっと気分の悪い話を知りました。


「、、、問題は、NHKも日経もイスラエルが力づくで支配している地域に住むパレスチナ人たちがワクチン接種の対象から外されているという事実を伝えていないことです。しかし、世界のマスメディアがイスラエルに遠慮して口を噤んでいるのではありません。、、、今回のイスラエルでのコロナワクチン接種に関する差別は全く同じ入植者心理から生み出されたことです。邪魔になる先住民にはなるだけ多く死んでもらいたいのです。、、、」

対立の続くユダヤとパレスティナ。しかし、ウイルスは人種も宗教も民族も差別はしません。人間よりもウイルスの方が偉いのかもしれません。

実際問題としては、イスラエルでワクチン接種対象外のパレスティナ人がワクチン耐性ウイルス発生の原因となって、ユダヤ人に感染を広げてせっかくのワクチン接種の努力が無に帰するという可能性も考えらえます。ここはユダヤとアラブの根深い対立の歴史を越えて、同じ土地で同じ空気を吸っている人間として等しくワクチン接種を行うという賢明さをイスラエルは持ってもらいたいものだと思います。

しかし、差別の心というものは、思うに、自己の利益を守ろうとする本能からきているもので教育や教養でコントロールはできても、なくすことは容易ではありません。数々の著名な学者や政治家が「うっかり」差別的発言を公にしてしまうのは日常茶飯事です。そうした本能や感情を理性によって制御することができるのが人間の人間たる資質なのですが、あいにく、近年の風潮をみると、差別的発言や行動をとることを「恥ずかしいこと」と思わなくなった人々が増えてきたようです。感情豊かに思ったままを表現することが人間らしさだとでも勘違いしているのかも知れません。そういうネガティブな感情表現は裏庭に穴を掘って、そこに向かってやればいいでしょう。腹は減っても高楊枝、顔で笑って心で泣いて、ができるのが人間で、大袈裟に言えば、その機微を味わうことが人間としての生を生きるというものではないかと思います。
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シンクロニシティ

2021-02-12 | Weblog
エネルギー代謝の絡みから細胞内脂質合成の経路とそれに付随した経路に手を出すかどうかで、この一週間ほどいろいろ考えています。私は興味があるのですけど、癌とか代謝専門の組織での膨大な研究の帰趨をみると、私の分野で、手をつけたとしても遠からず壁にぶち当たるのは間違いなさそうです。そこから展開できるかどうかはやってみるしかないのですが、やってみるにも、あいにくツールが簡単に手に入らず、ツールを作るところから始めないといけないようで、どうしたものかと思っておりました。

研究現場の資金繰りは困難になる一方で、要求されるもののレベルは高くなってくるばかり。この十年ほど、「役に立つ(かも知れない)」研究でなければ、資金がおりなくなってきました。研究が応用されて役に立てば、誰でも嬉しいと思いますけど、そもそも、応用を目指した研究が成功することは滅多にありません。加えて、そうした研究がうまくいかない場合は、得られる情報の価値は、しばしば限られたものになってしまいます。悲しい現実ですけど、応用への道筋がかなり具体的に見えていない研究で資金を得るのは難しいのも事実で、壁の一つはそこにあります。

いろいろ、ウジウジ考え、とりあえず、もしも手をつけるとすればどれから手をつけるべきかの優先順位を考え、具体的な計画を練り始めました。その候補の中から最初にターゲットにする経路を決めたら、数年前にその経路の阻害薬を使って実験をしていた同じ施設の人のことを思い出しました。私の場合、阻害薬ではダメで、遺伝的ツールが必要なのですけど、それを手に入れるにしても作るにしても数ヶ月は最低かかるなあと思っていたら、シンクロニシティーというのは結構、頻繁に起こるもので、どうしたものかと思っていたら、その人から、それこそ数年ぶりのメールがやってきたのでした。

要件は私の分野の関連分野の研究に手をだしたいから手助けをして欲しいという話で、二つ返事。私の方は、折角なので、実験のアイデアを話して意見を聞いたら、なんと、その人が私が欲しかったマウスの一つを持っているということがわかり、譲ってもらえることになり、時間とコストと労力が大きく省けました。「やってみたら」という神様のお導きのようです。
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日常

2021-02-09 | Weblog
久しぶりに子供たちと車に乗りました。ちょっと前までは私が運転して、スポーツの試合に連れて行ったり、旅行に行ったりしていましたけど、今日は私は後部座席で、運転は下の子、助手席は上の子。二人でよくわからない音楽をiPhoneをつないで聞きながら、よくわからない話をしているのを後ろの座席から見ながら、大きくなったなあ、とホッとする気持ちと多少の寂しい気持ちを感じました。

私が子供の頃、母が運転する車の後部座席で一人で寝転がって窓から空や街の一部を見るのが好きでしたが、その頃を思い出しました。

子供ができてからのこの20年ほどは本当にあっという間に過ぎました。何をして過ごしてきたのか記憶が余りありません。子供が小さかった時の懐かしい記憶は断片的に残っているのですけど、子供が友達と遊ぶようになってからは最後に家族で夏休みの旅行に行ったのはもう八年前です。

後部座席で窓から景色を眺めながら、人生というのは長いようで短いものだという実感をあらためてかみしめました。その短い人生の中で山があり谷があり、いろんな経験をしながら死ぬまで生きて、死んだら速やかに忘れ去られていく、そのことがとても自然なことに感じられてしみじみしました。

ふと、アーウィン ショウの「80ヤード独走」という短編を思い出しました。二十歳の時にアメリカンフットボールの花形選手で、80ヤードを独走してタッチダウンを決めた主人公、その後の人生は苦難の連続で今や35歳のしがないセールスマンとなったが、ある時、母校を訪れて、その人生のピークだった時のことを思い出すという話です。

現代では35歳は多くの業界では「子供」扱いですが、小説が書かれた頃のアメリカ人平均寿命は約60歳という時代ですから、35歳はすでに人生の半ばを超えてキャリアの先が見えてきた世代でしょう。私にはそうはっきりした人生のピークは思い出せません。ずっと崖っぷちを落ちないようにと思いながら恐る恐る歩いてきたという記憶があるばかりですけど、子供がそろそろ独り立ちしてく時期になって、もう崖から落ちてもそれはそれでいい、と半ば思えるようになったので気持ちは楽になりました。

今は、子供の独り立ちを見届け、親を見送り、そして自分も出番を終えて控え室に帰る、その幾つかの主要イベントをソツなくこなしたいとは望んでおります。そのイベントの合間には、死ぬ前、寝たきりになった時に退屈しないよう色々なことを思い出せるように、この世界の日常をじっくり味わっておきたいと考えたりしております。
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ギトリスのシャコンヌ

2021-02-05 | Weblog
偶然に見た日本のウェッブサイトの記事でイスラエルのバイオリニスト、ギトリス氏が昨年末に死去したことを知りました。98才。私もファンというわけではありませんし、生演奏を聞いたこともありませんので、語るべきものもありませんけど、以前、Youtubeで見つけたシャコンヌの演奏が衝撃的だったのを思いだしたので。

シャコンヌはブッソーニやブラームスによるピアノへの編曲をはじめ、ギター、オーケストラと色々な形で演奏され、親しまれていますが、もともと南アメリカ発祥のダンス曲が基になっており、バッハの曲の中では、情緒的、情熱的な魅力に溢れています。

オリジナルの無伴奏バイオリンでは、Youtubeで、二、三、聞いてみて、よかったのはパールマン。誰が聞いても素晴らしいといういうだろうという演奏と思います。しかし、ギトリスの演奏の演奏は、素人の私でもわかるほどのユニークさがあり、強く惹きつけられました。うまく説明できません。喩えが悪いですけど、パールマンが上質のスコッチとすれば、ギトリスはスモーキーなバーボンとでもいうか。好きな人と嫌いな人が別れるのではないかなと多います。

これです。

因みにパールマンのはこれ。Partita 2番を全曲弾いていますが、Chaconneは5曲目、13:50からです。

二人ともユダヤ人。

五嶋 みどりさん こういうスタイルを好む人も多いと思います。吟醸越乃寒梅。

ヒラリー ハーン ボルドー5シャトーワイン。

帝王、ハイフェッツ、やっぱりユダヤ人。 ヘネシー パラディ。
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脂質代謝

2021-02-02 | Weblog
この一年ほど、複数のプロジェクトに関して、思いがけぬ偶然から細胞内代謝の勉強をすることになりました。それで、昨年、コロナで施設が閉鎖された機会を利用して、エネルギー代謝と糖代謝に関して基礎知識をお浚いしました。とにかく生化学的なことはほとんど忘れ去っていたので、学生時代に戻って一からやり直しでした。これには、Youtubeで学生が作っている試験対策用のシリーズが大変、役に立ちました。試験対策用にまとめられているので包括的で理解しやすく要点を覚えやすくできています。(これが無料なのは悪いと思ったので些少の寄付をしました)

それで、新たに小さな実験を始めましたのですが、その実験結果の解釈が一筋縄ではいかず、さらなる解析が必要になりました。とにかく、私にとってはこれまでさわったことのない分野なので、いろいろ文献を漁って総合的に考えた結論は、今度は脂質代謝を勉強しないといけないということでした。ま、エネルギー代謝、糖代謝、脂質代謝、アミノ酸代謝はすべて繋がっているので、当たり前ではあるのですけど。

生物学が好きで研究に興味をもった人で、生化学という分野が「好き」という人にはあまり出会ったことがありません。私自身、学生のころ生物学研究が面白いと思ったのは、当時、遺伝子組み換え技術など分子生物学的な技術を主に使って研究を行うことが主流となりつつある時期で、そのシンプルな記号的アプローチによって生命現象が説明されていくのが面白かったからです。一方、生化学と言えば、細胞や組織をすりつぶして酵素活性や化学反応を測ったりする地味で泥臭い研究というイメージがあったことと、学生の頃にひたすら数々の酵素や代謝産物の名前覚えさせられたのがトラウマで(そして試験のあとすぐ忘れた)、すっかり近寄ってはいけない分野という無意識のバリアができて、最近にいたるまで生化学的問題はなるべくスルーするという生活態度で過ごしてきました。

ところが、複数のプロジェクトで細胞内代謝に向き合わねばならにことになってしまい、逃げ道を塞がれたような状況に陥っています。しかし、やると決めたら、ちょっと気持ちは前向きになりました。トラウマを癒しアレルギーを治すチャンスと割り切ることにしました。

私の分野で脂質代謝にとりくんでいる研究室はわずかです。世界で多分大きなところだと二つのグループ。他に小さなグループが二、三。一つはベルギーの有名な血管ラボで、そもそも私の分野は専門ではなかったのに、偶然が重なってマイナーな私の研究分野に参入してきました。もう一つはもともとカナダのグループで、数年前からアメリカの有名研究大学へ移ってやってきますが、このグループも細胞脂質代謝をどこまで追求するつもりなのかはちょっと不明。多分、そもそもはIDH変異でおこる特殊な骨格系腫瘍への興味から、細胞内代謝に行きついて脂質代謝へも手を伸ばしたようです。彼らの仕事やその他のデータから、細胞内脂質代謝異常は骨格組織の発生に強い異常を起こすと考えられ、その重要性が示唆されていますが、現在、研究はそこで留まっています。なぜ脂質代謝が重要なのかはわかっていません。理論的には数多くの証明が難しいメカニズムが考えられるので、研究を進めるのは困難が予想されます。

しかし、困難な問題はチャンスでもあります。とりあえずは、伝統的なマウス遺伝学的アプローチである程度までは詰めていくことができるのではないかと楽観視しています。そこから先は、主に生化学的分析法で細部を見ていって、最終的には遺伝学的ツールで証明するという形にもっていけたらいいな、と思っています。とりあえず、生化学は素人の私、妄想ばかりしていても仕方がないので、メタボロミクスで脂質研究をやっている知り合いに知恵を借りようと話を聞いてもらうことにしました。
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