百醜千拙草

何とかやっています

腐敗したマスコミが日本を滅ぼす

2010-04-30 | Weblog
前回、民主主義を支持するという話をしたところですけど、小沢氏の政治資金規正法違反事件について、検察審査会が起訴相当という結論を出したと言う話を聞いて、民主主義をこのように悪用されるようでは、この国ではまだまだ民主主義国家となるための土台ができていないのだなあ、と思わされました。

この中世の魔女狩りまがいの馬鹿げた騒ぎは、既にネットでは抗議の声が乱れ飛んでいますし、私も憤怒の炎が納まりません。それにつけても、何より駆除しないといけない害虫はマスコミです。新聞購読をしている人には是非とも直ちに購読中止を勧めたいです。テレビ局には苦情の電話をかけましょう。マスコミは敵の本体ではないですが、マスコミに全く自浄作用も反省するという言葉もない以上、バカとハサミの例えそのまま、いいように使われているバカなマスコミは社会の危険物です。 国民自らの身を守るためには、この際、マスコミには一旦、潰れてもらうしかないと思います。本当にどうしてそこまでバカなのか。昔は新聞の社説や天声人語を読みましょう、と小学校では推奨されたものでした。いまや、社説は小学生の感想文未満、天声人語は意味不明の文章の見本と言われ、社会の木鐸たる公器であったマスメディアは、社会に害をまき散らす公害となりました。

この検察審査会というのは、クジ引きで選んだ一般人、11人が、検察側からの一方的な資料のみによって、検察の下した判断(不起訴)が妥当であるかどうかを審査するという会だそうです。今回は、ナゾの市民グループ(実態はある右翼団体らしいです)が、検察の不起訴という方針を不服とした告発によって開かれたもののようです。しかも検察側は、三月の小沢氏不起訴の決定の前から、この告発が起こって検察審査会で起訴相当の結論が出るという筋書きを用意していたようで、それをネタに石川議員を脅かしてたという情報が、Twitterを通じて流れています。この件に関して、「反戦な家づくり」の記事(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/blog-entry-862.html)の一読をおすすめしたいと思います。

検察審査会については、仮に本当にクジで決めた一般人であったとしても、マスコミのネガティブキャンペーンで洗脳状態にある可能性がある上に、その政治スタンスも不明のたかだか11人という少人数で、しかも検察側からだけのほぼ一方的な情報によって、不起訴が正当かどうか判断させるという制度のようで、これが一体何の意味があるのか、と思います。この審査会のメンバーを経験した人も、検察の調書や情報は誘導的なもので、不起訴や起訴の妥当性を素人が客観的に判断できるわけがない、というような意見を述べています。今回の審査会のメンバーを知りませんけど、仮に、検察の息もかかっておらず、政治スタンスも中立の人々であったと仮定しても、今回の判断を聞く限り、この素人衆が、今回の事件は政治資金規正法違反という罪状であること、即ち、政治資金の出入りの記載を年度をずらして秘書が報告したという(皆がやっている)ことに対して小沢氏の有罪性を問うているということであり、脱税でも不法献金でもない(その線で別件強制捜査を二回も入れたのにその事実はなかった)という、そもそもが検察のでっち上げのメチャクチャな事件であったということを理解しているとは思えません。即ち、これらの人々には事件の本質も検察の恣意的な誘導も公正に理解し判断する能力はないと思わざるをえません。あったら弁護士などという資格は必要ないですね。だからこれは、総数11名の単なる世論調査に過ぎない単なる参考意見であるということを国民は知らされていないといけないと思うのです。であるにもかかわらず、その素人衆11人の誘導された意見をもって、「民意は重い」などとザレ言を言っているバカ丸出しのメディアに私は憤っておるわけです。メディアがなぜバカかというと、こういう行為が自分の首をどんどん絞めているということに無自覚である(あるいは自覚はあっても止められない)からです。病膏肓、救いようがないです。

例えば、病気になったら、普通は、専門的知識を持ちとトレーニングを受けた医師にまず意見を聞くと思います。その医師の意見に納得できない場合は、セカンドオピニオンとして、別のやはり専門家の意見を仰ぐのが普通でしょう。今回のこの制度では、検察という(しかも逆にバイアスがかかった)専門家が、有罪にしようととんでもない捜査をした挙げ句に、なにも有罪に相当するものを見つけられなかったという結果です。即ち、前出のたとえでは医師がありもしない病気をあると言って、徹底的に検査を行った結果、病気は無かったという結論を得たということです。その見立てに不服なら、別の「専門家」(今回の事件では検察の不法捜査に疑義をもつ法律の専門家が中立の立場から捜査を評価する会を組織していましたね)にその結論の妥当性を評価してもらおうとするのが普通の考えではないでしょうか。自分が病気になって、主治医の見立てが不服であったときに、クジ引きで素人衆を10人ほど集めて、その見立てについて意見を聞こうと思うでしょうか?その医学的知識も医学データの解釈法も知らない素人衆に、「一般市民の感覚」で治療法なり診断をつけてもらいたいと思うでしょうか?

小沢氏側はどうもこうなることもある程度想定済みだったような様子で、強制起訴後の裁判もすでに計算に織り込んであるらしく、淡々と会見していたようです。どう考えても裁判では無罪になるでしょうが、検察の目的はあくまで起訴事実を作ることでしょうから、言いがかりでも何でも起訴してしまえば有罪か無罪かは二の次というわけです。それに、角栄の時や、最近の白バイ事件、植草事件、その他、数々の冤罪事件のように、裁判所もグルで、裁判でさえ公平さを期待できない国ですから何がおこるか本当の所はわかりません。

それにしても、仮に一般人とは言ってもマスコミの洗脳キャンペーンで最初からバイアスがかかっていると考えられる少数の素人が、検察側からだけの資料をもとに審査をするという殆ど最初から意味の乏しいシステムを悪利用して、小沢民主党を攻撃してくる売国奴どもとその尻馬に乗って思考停止して自滅への道を突き進むバカメディアどもに、私は怒りが納まりません。まず、その審査会の一般人とは誰か、どういう政治スタンスなのか、本当にランダムに選ばれたのか、その審査とはどのように行われたのか、そのあたりはある程度明らかにされなければ話になりません。一国の将来に関わる問題に、たかだか11人の素人衆の「市民感覚」とかいうフィーリングに基づく判断を加えようとすることを、「民主主義」とは私は呼びません。むしろ密室内の少人数の素人談義で出した結論が政治的に大きな影響力を持つことになるのなら、それは民主主義に反するものであると思います。

どうも、一般国民の多くに、政権交代というものが戦後ずっと占領状態にあった日本におけるどういう歴史的意義があるのかという点の認識が欠けていること、小沢民主党が目指しているものが理解されていないこと、30年前に同じ手口でアメリカに潰された日本独立のチャンスがようやく訪れたのに、それを潰そうと抵抗勢力が全力をかけて、政権交代を無効にしようとしていることに対する危機感に欠けていること、そして、自分の国の将来のことよりも、とにかく権力者や有名人がスキャンダルに巻き込まれて不幸な目にあうのを見る方が面白いという下種な根性が少なからずあるということを考えると、マスコミに誘導された民意にまかせていたのでは、日本はずっとこのままアメリカの属国状態のまま、生かさず殺さず、搾り取られるだけ取られて、一般国民は捨てられることになる、と憂慮に耐えません。
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民主主義の理由

2010-04-27 | Weblog
先日、研究を手伝ってくれている若者(二十台女性、一流大学出身)と昼ご飯を食べていたときに「民主主義」の話になりました。私が、「民主主義は最適の政治形態ではないが、、、」と言いかけたとき、彼女は妙に興奮して、「私も、民主主義は良くないと言い続けて来たのに、誰も賛同してくれない」と言ったので、私は「あらら」と思いました。私は、続けて、チャーチルの言葉、「民主主義は最適ではないが、他の政治形態よりましである」を引用しかっただけで、私は基本的に民主主義を支持しているのですけど、彼女はどうも、私が反民主主義者であると勘違いしたようなのでした。
 過去の歴史を振り返って、民主主義が衆愚政治と呼ばれるように、現代の我々の基準に照らしてみて、「愚かな判断」をしてきた例には枚挙がありません。彼女の意見のウラには、民衆は愚かであり、彼らの集合的意志が政治的判断に反映される民主主義という政治形態は、非効率で誤りやすい、それよりも、もっと賢明で思慮深い人々に判断を託す方が効率的で誤りにくいはすだ、という理屈があるのだろうと思います。彼女は医家の出で一流大学を出た才女ですから、おそらく、これまでの人生では、競争に勝ち続けて来た人なのだろうと思います。そこは、優劣、賢愚、正誤が比較的明らかに判断できる世界です。多分、彼女にとっては、ある種の判断は「明らかに誤り」であったり、「明らかに正しい」かったりするわけででしょう。そして実際に、彼女の属する社会の中で、彼女の意見に反して、「明らかに誤った判断」を人々が支持して、彼女の予想通りに良くない結果になった、という事例を少なからず経験してきたのだろうと私は想像しました。
 私は、それに対して、正しい、誤っている、ということを判断する絶対的な基準はどこにもないから、そもそも「明らかに誤った判断」というものは存在しないのだ、と反論しました。愚かな民衆は誤った判断を下す、あるいは、賢者は誤った判断を下しにくい、という文脈での、「正誤の判断」というのは誰がするのか、という話です。誰も何が本当に正しいのか誤っているのか、プロスペクティブにはわからない、正誤の判断は振り返ってみて、その時代の人々の(恣意的な)判断基準によって判定されて始めて、評価が可能となるだけし、そのレトロスペクティブな評価でさえ絶対的なものではない、と私は主張しました。ならば、「正しい判断」とは判断するものが正しいと心から信じて行う判断のことであると定義するしかないのではないかと私は思うのです。例えば、放射性物質が最初に発見されたころ、それを服用すると健康を増進するという販売会社の宣伝を信じて、毎日、健康のために放射性物質を服用した結果、著しく健康を損ねて死んでしまった人の実例を私は知っています。当事者にとって、「放射性物質は健康に良いから毎日服用しよう」という判断が正しいか誤っていたか、それはその後の数々の放射線障害の実例が積み重ねられてから、誤った判断であったと後から判定されるものですし、その判定でさえ、しばしば覆ります。そして、歴史の一回性のために、たとえ同じような状況が繰り返されたとしても、その場その場における判断の正当性が絶対的に証明されることはありえません。ならば、地球という一つの星を共有している人々が、それぞれの事情に基づいて、正しいと信じることの最大公約数を行う、民主主義はおそらくベストの選択なのであろうと私は思います。

先週末の「内田樹の研究室」のエントリーで、表現に対する法的規制を加えることについて書いてありました。表現を法的な規制のもとに置くことの是非を論ずる以前に、そもそも「有害な表現」というものが何であるのか、正しく理解されていない、というか、「有害な表現」などというものは存在しない、というようなことが議論されていました。多くの人々は「有害な表現」というものがアプリオリに存在すると思い込んでいるようですが、それは本当にそうなのか、という話です。一つの例え話として、次のようなことがことが述べてあって、これを読めば多くの人はその通りだと賛成するのではないでしょうか。

それ自体有害であるような表現というものはこの世に存在しない。
マリアナ海溝の奥底の岩や、ゴビ砂漠の砂丘に、あるいは何光年か地球から隔たった星の洞窟の壁にどのようなエロティックな図画が描かれていようと、どれほど残酷な描写が刻まれていようと、それはいかなる有害性も発揮することができない。
「有害」なのはモノではなく、「有害な行為」をなす人間だからである。

表現においてそれが有害であるかどうかは、それを見る観測者によって判断されるというわけで、その判断の主体がなければ、有害も有益もないということです。「表現の規制」問題は、当然、誰かがそれを見て判断する、ということを前提として議論されているので、「有害な表現」という言葉尻をとらえて屁理屈を言うな、という怒る人もいるでしょうが、それでもなお、誰が判断するのか、ということが厳密に議論されていない以上、もちろん、その判断の基準には人によってかなりの幅があると思われますし、よって、Blanketに「有害な表現」と判断されるようなものは、やはり存在しない、と私は思います。

同様に、民主主義での民意も、民意そのものが正しかったり誤っていたりするのではない、と私は思います。人々の最大公約数的意見を聞き、その成り行きを見た者が、正しい、誤っているという判断を下すわけで、民主主義が誤った判断を下すと判断するのは、その判断なり、その判断がなされた後に起こったことなどが気に入らない人々です。勿論、人にはもの分かりの早い遅い、素質の優劣、そんなものがありますから、多くの人々よりも、いち早く、彼らが後に誤った判断であったと反省することになる判断に気づく人もいます。前出の若者もそういう人の一人なのであろうと思います。
 しかし、先を見通せる頭の良い人が「民意」を斟酌せず政治を行えば良いという意見には私は反対です。それは同じ地球という一つしかない場所に住む仲間同士として衆愚もエリートも、共に成長しなければならないと思うからです。いわば、地球は永久にクラス替えのない学校のようなものです。いくら自分の頭が良かろうと回りのそう賢くないクラスメートとずっとつき合って行かなければなりません。地球は自分だけのものではありません。そこに必要なのは思いやりであってエリート意識ではありません。回りのクラスメートがより良いと思える判断ができるように助けてやるのがエリートの役割であり、衆愚と見下すようでは、それは良い判断ではない、と私は考えるからです。ソクラテスが毒杯を敢えて飲んだように、人は例え愚かな判断であると知っていても、皆が決めたことを尊重しなければならないと思います。その思いやり、お互いを尊重する気持ち、というものが大切であると思うからです。


これまでの議論と矛盾するように聞こえるかもしれませんけど、実は、私は、善悪というものは比較的絶対的な基準で決まっていると考えています。
 私は、人類は成長するために生きていると思っています。それは、低い段階から高い段階へ、遅れた段階から進んだ段階へと移行することです。この点において、私は「絶対的な善」というものを信じています。この善に近づいていくことが人間の成長であると思っています。(こういう基準がなければ、高低、進遅、成長する、しない、というようなことを議論できません)この善は人間が判断する「善悪」ではなく、善として絶対のものです。ですので、人間の行う判断そのものに善悪、正誤は内在していなくとも、物事や判断には、絶対的に善に近いこと、あるいは、悪に近いことはある、と思います。
 有害表現というものが、人間なり何かに対して害を及ぼす表現、という意味であるなら、確かに有害表現というものは存在しないか、少なくとも定義をもう少し精密にすべきであろうと思います。しかし、例えば、「善い表現」というものなら、存在すると私は考えております。それで、子供には、言葉遣いや振る舞いに気をつけよ、と私はいつも言うのです。それは、良くないと考えられている言葉を使うことで周囲から受けるであろうネガティブなconsequenceを避けるというプラグマティックな理由以上に、人間は成長するために生きており、それは絶対善に近づくことであると私が信じているからです。言霊という言葉もあります。言葉にしたことは現実に実現する可能性も高くなります。そういう意味で、自らが良くないと判断する表現を使うことは有害な結果を及ぼす確率を上げることになるでしょうから、個々人にとって「有害表現」というものがあるのは間違いないでしょう。加えて、私にとっては、絶対的な善を理解し実践する妨げになるようなものは有害であると言えます。(絶対的善の存在については、これは殆ど信仰の問題にちかいもので、幽霊が見えない人に幽霊の話をするようなものなので、ここではこれ以上触れません)
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最先端研究開発支援プログラムのこと

2010-04-23 | Weblog
先週、論文を投稿してホッと一息、と思ったのもつかの間、早速、rejectionのメールでがっくり。私の論文と内容的にオーバーラップする競合者の論文を既にアクセプトしてしまった、雑誌のポリシー上、その出版を遅らせることはもはやできないので、私の論文をレビューに回している時間がないとのこと。申し訳なさそうな文面ではありましたが、これで、私の立場はちょっと苦しくなりました。彼らの論文が6月に出版されるまでに、別の雑誌に投稿してレビューに回してもらって、リバイスのチャンスをもらわねばなりません。早速、論文を書き直し、いつもの所に投稿。
 このネタでは、無事にグラントも貰えたので、論文については、高望みはせず、妥当なところが取ってくれれば、それで満足しなければと、自らを慰めています。最初にキメラマウスを作るところでうまく行かず、一年近く足踏みしていて出遅れたのが痛かったですが、それでも、なんとかまとめることができて、競合者に大きく水をあけられなかっただけでも有り難いと感謝すべきだと、思い直すことにしました。論文出版というゲームは、特許同様、ちょっとのタイミングの違いで入賞と落選が決まる場合も多いわけで、これもゲームのうちと割り切らねばなりません。
 それにしても、どうして雑誌はしょっちゅう、体裁を変えるのですかね。同じ雑誌のくせに、投稿する度に、ちょっとずつ、参考文献リストの様式や投稿方法が変わっていたりするので、「おっとっと」ということが、しょっちゅう起こります。参考文献リストの作成にはエンドノートの最新版を使っているのですけど、その雑誌別の様式がもう既に変わっていました。それで、気が急いているのに、エンドノートの使い方から学び直しです。そもそも、いろいろな雑誌が様々な体裁を使うのが大変不自由です。雑誌社どうし話し合って、体裁を統一するとかいう考えがあってもよいのではないかと思うのですけど。こういう内容に関係のない(つまらない)ことをちょこちょこ直したりする時間というのは、私にはとても無駄に思えます。しかし、初めて論文を投稿したころ、何部も紙に印刷して、高いお金を払って図を作ってもらって、郵便で投稿していたころのことを考えれば、最近はほとんどオンライン投稿ですから、随分と便利になったのは間違いありません。それでも、便利になればなったで、ちょっとした不便というものが我慢できなくなってくるのですね。人間とは勝手なものです。

さて、本題ですが、4/15号のNatureのEditorialsとNewsのセクションでは、再び、日本の科学研究費のことについて触れられています。自民党政権時代に何十億という規模の金額を少数の研究者に集中投下するという政策が決まり、政権交代後に、規模を縮小して施行されることになった、例の悪名高いFIRSTというプログラムです。FIRSTというのはFunding Program for World-Leading Innovative R&D on Science and Technologyという恥ずかしげな名前のAcronymの様ですけど、私、この手の名前を聞く度にシャツの中にナメクジを落とされたような、気持ち悪さを感じます。そして語呂の良い略称にするために無理矢理こじつけたのが丸わかりのプログラム名に必ず、“World”という言葉が入っているのが、辺境民としての日本の劣等感の裏返しであるところが悲しいです。どうして、堂々と日本人が日本で独自の研究を行うというプライドというか矜持というかそういうものを持てないのか、そもそも、冷戦時代の米ソ対立ではあるまいし、日本の研究が世界をリードすることに何の意味があるのか、いつまでも上目遣いに世界、世界と周囲をキョロキョロして、勝ったの負けたのと下らない競争の結果に一喜一憂することが、そんなに大事なのか、とつい思ってしまいます。日本人のいう”World”とは、アフリカでもインドでもブラジルでもなく、欧米のことであり、そのネーミングには、日本人は体力や物質力で欧米人に劣っているし、事実、第二次大戦ではコテンパンに負けてアメリカの属国となってしまったが、大和魂を奮い起こせば、必ずや毛唐に勝って、敗戦でうけた屈辱を晴らせるはずだ、という欧米に対する愛憎入り交じった複雑かつ卑屈な感情が読み取れます。戦後の娯楽としてプロレスがあれだけ流行ったのも、日本の正義の見方の力道山やジャイアント馬場が悪いガイジンを懲らしめるという筋書きに、敗戦国の劣等感の昇華作用があったからでしょう。敗戦後、欧米に劣等感を持ち続ける日本が、世界(即ち、欧米)と肩を並べれるようになりたい、彼らに対等の友人と見なしてもらいたい、そういう気持ちが未だに尾を引いているのでしょう。もしも、日本人がその研究や民族性に自信を持っているならば、Worldなどという言葉を使わないと思うのです。世界(欧米)と肩を並べて、「並」の国であることを望んだりはしないでしょう。それどころか、唯一無二の誇り高い孤高の君子国でありたいと望むはずです。確かに近代科学はヨーロッパで生まれ、アメリカで開花しました。日本は彼らからいろいろ学んだ生徒でありました。しかし、古人も言うように、「弟子の見識が師匠と同程度では師の徳を減ずる」というものです。日本は後発であるがゆえに、師を越えねばならず、そして師を越えてなおかつ謙虚でなければなりません。そうあることが日本が世界をリードする条件であると私は思います。
 日本の科学政策プログラムを組む人々は、未だ、敗戦後の負け犬根性が尾を引いているのではないでしょうか。日本のプログラムに”World”という文字を見る度に私は、その卑屈さを感じてしまうのです。アメリカ、ヨーロッパの研究プログラムで”World”というような文字がプログラム名に入っているのを見たことがありません。大体が日本の研究者をサポートするためのプログラムに、わざわざ英名で恥ずかしい名前をつける必要がどこにあるのか、と思います。日本の研究者に頑張ってほしいのなら、「日の丸基金」とか「立ち上がれ日本基金」ぐらいでよいではないですか。英語論文のAcknowledgementsの欄には、”Hinomaru Fund”とでも記載すればよろしい。
 話がそれました。その”Winner takes all”と題されたNatureのEditorialの趣旨ですけど、私が批判してきたと同様、国の資金を既に資金が比較的潤沢にある研究室に上乗せするようなことをするよりも、もっと広く小額の競合的資金を増やす方がよいのではないか、という意見です。事実、この記事によると、研究助成金の平均額は2003年が334万円だったのが、2008年には289万円と減っていることを述べています。これは結局、多くの問題を作り出したポスドク制度の後遺症として、研究者人口が科学予算に比してアンバランスに増えすぎたためであるとあります。
 一方、ニュースのセクションでは、この研究資金を受け取ることになったヒタチ研究所のトノムラアキラ氏の話がカバーされていて、超高性能原子顕微鏡を作るというプロジェクトに長年取り組んで来たのに、資金不足で、プロジェクトをあきらめざるを得ない状況に近かったのが、今回の50億円の資金のおかげで夢が復活したという話が紹介されています。確かにこのような大規模プロジェクトに資金投入するのは、ある程度、必要なことだと思います。こういうプロジェクトは顕微鏡の建設費もろもろで、そもそも金がかかるものですから、資金難だからプロジェクト規模を半分にしろ、といわれてもできるものではありません。しかし、生物科学系であればどうでしょう。この記事では、生物系として、阪大のアキラシズオさんや山中さんの話にも触れられています。アキラ氏はこの金でもっとリスクの高い「ギャンブル」(的研究)ができるとコメントしています。(そもそも良い研究は結果が予測しがたいという点でギャンブルなのですけど)一方、山中さんはこの資金で当初はiPSを使った糖尿病に対する前臨床試験を計画していた、という話です。これらの研究は、顕微鏡開発の場合と異なって、研究資金の大きさに従ってフォーマットを比較的フレキシブルに変えることができます。ギャンブルに使う金が乏しいのなら、その金がたまるまで、ギャンブルを延期すればよいだけの話です。臨床応用の話なら、税金がベースの研究資金に頼らずとも、製薬会社をはじめとして多くのスポンサーが比較的簡単に見つかるでしょう。そういう意味で、殆どの生物学研究は本来小規模なオペレーションで個人的な活動を基礎にしており、資金の融通性という点で、ある種の物理学研究のような大規模プロジェクトとは性質を異にしていると私は思います。ですので、この研究資金にしても、大規模プロジェクトで絶対的に巨額の資金の必要なプロジェクトとそうでないものを分離して扱うべきであろうと私は思います。
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普天間鳩芝居

2010-04-20 | Weblog
毎日、毎日、飽きもせず、マスコミは、小沢叩き、鳩山政権叩きばかりの偏向報道、捏造記事を垂れ流しています。小学生でもおかしいと思うような記事の体裁さえとっていない駄文を恥ずかしげもなく発表して、社会にゴミを撒きちらし、どんどん評判を落として、新聞購読者の激減を呼び込み、自分の首を締めているメディアの愚かさ加減にウンザリします。しかし、最近の普天間基地を巡る鳩山叩きは、これは本当にメディア自身の首を締めることになるのではないかと成り行きを半ば楽しみに見ています。
  自分の国の首相が5月末には結論を出す、と断言しているのに、あれこれとイチャモンをつけて、アメリカ様が納得しない、とか、決着しないのなら首相は退陣すべきだとか、その期日が来る前から、散々、ネガティブキャンペーンを続けています。これは報道ではなくてチンピラヤクザのイチャモンというやつですけど、毎日、毎日、一般国民は聞きたくもない無根拠の悪口を続けられたら、「タイガイにせーよ!」と思うのが普通の人の感覚だし、メディアを政治目的で世論誘導のために使っている連中のアホさ加減ばかりが目立って、「逆効果」というものだろう、と思います。
  鳩山氏、5月と区切った割には、ノラリクラリと質問をかわし、腹案があるけど言えない、とじらしてみたり、岡田氏や仙谷氏に好き勝手に言わせてみたりして、政権が基地問題をうまく扱えていないという印象を与えています。そこをメディアは、しめしめ、と思って攻撃してくるわけですけど、これは鳩山氏の「芝居」であると読んでいる複数の人々の意見を知って、なるほど、そうかも知れないと私も思った次第です。
  前にも書きましたけど、私、解決案は「国外」しかない、と思っています。鳩山氏の腹案という言葉を聞いた時にそう確信したのですけど、その後、国外は難しいとか、県外国内と県内の折衷案が有力だとか、という話が民主党内の人の言葉として報道されたので、不安に感じていたのでした。アメリカは前からグアムに殆どの戦力を移すことを決めていたわけです。それを、わざわざ、"Ne me quitte pas"と袖にすがって、「辺野古の珊瑚礁を埋め立ててもっと大きな基地を作りませんか」と提案したのは、基地利権にぶらさがりたい連中とそれに利用された旧自民党です。連中は、自分たちさえ良ければ、日本がずっとアメリカ植民地であっても、沖縄県民がどれほど苦しもうとも、知ったことかという売国奴なわけです。第二次世界大戦後におかれたアメリカ国外の米軍基地のうちの8割以上は既に外交交渉で閉鎖となっているという中で、日本は未だに、複数の在日米軍基地を持ち、想像上の産物でしかない安全保障条約という詐欺商品に金を払い続けています。これまでアメリカの奴隷であり続けることで利権を貪り続けていた一部の権力層が、国民の富をアメリカに差し出すことによって、その上前をピンハネしてきたわけで、その利権を守りたい連中が、マスコミ、検察を使って、経世会の流れを汲み、日米関係の改善を考える小沢氏と現政権を必死になって攻撃しているわけです。
  そんな中で、鳩山氏、軽々しく普天間問題の「腹案」を、「敵」の手先であるマスコミにホイホイとしゃべるわけがない、というのが識者の読みです。「国外」という線での交渉はおそらく、最初の最初から決まっていたのだが、下手にその線でいきたいということを早くから公にすると、マスコミその他に潰される、そういう理由で、ワザとノラリクラリと対応しているのだろう、とネットでは少なからぬ人が考えているようです。そういえば、辺野古陸上案や県外との折衷案をマスコミに向かって口にしている民主党員は、岡田氏であったり小沢氏に嫉妬の炎を燃やし続ける困り者の渡部老人ご一行の七奉行(ネーミングが余りに恥ずかしくて口にもしたくないですね)の一人の仙谷氏であったりするわけで、この人々には鳩山氏は、おそらく、本当の「腹案」を明らかにはしておらず、敵をあざむくにはまず味方からと、わざと好き勝手に言わせているのであろうとも想像されます。マスコミは、散々、そのノラリクラリを叩き、沖縄や県外候補地と言われる地元の人々の反対運動の様子を大きく報道して、基地の移転は不可能だ、普天間問題は暗礁に乗り上げている、と(たぶん)見当違いのことを無批判に垂れ流します。これが、実は鳩山氏の戦略ではないか、というのが、ネットの識者の意見です。
「マスコミの言うように、県内はおろか、県外でも普天間の代替候補地は決まりません、普天間基地の移設は不可能です。仕方がありませんから、グアムにお引き取り願います」と、国外移転の交渉の根拠とするために、わざわざ反小沢派に好き勝手言わせて隙を見せ、マスコミが調子に乗って「普天間の移転は不可能だ」という「世論」を盛り上げてくれるのを誘う、そのためのノラリクラリの「鳩芝居」であるというわけです。
  私、これが本当なら、鳩山氏、一見、理想主義の育ちの良いお坊ちゃんのように見えて、実は、青田赤道顔負けの大した役者だ、と思います。そして、この大逆転劇をわざわざ参院選の告知に合わせて仕掛けたという戦略もたいしたものだ、とうならされます。 さて、この読みがどれだけあたっているか分かりませんけど、もう少し待てば、答えは分かります。
  いずれにしても、新聞やマスコミはもういりません。私自身は新聞を購読したことがありませんし、テレビも殆ど見ません。国民が自ら政権交代を実現させたように、ダメなマスコミも民意によって消え去るべきであります。二三年以内に産経はおそらく本当に廃刊するでしょう。毎日、読売、朝日も多分かなりの規模縮小を余儀なくされるでしょうが、すべて自業自得です。最近の記事を見ていると、新聞社の断末魔の叫びが聞こえるようです。とても不愉快な声です。

 追記。 ここまで書いたところで、普天間問題と腹案についてもっと良い解説をトニー四角さんのブログでみつけましたので、リンクします。ご一読、おすすめします。
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一人称単数

2010-04-16 | Weblog
前回、論文の投稿の目処がついてホッとしたというような話を書いてUpした直後に、どうも競合者の論文がアクセプトされたらしい、という話が舞い込んできました。一息つく間もなく、また緊急非常事態となり、二日以内に投稿すべきだという結論になりました。私は推敲に時間がかかる方で、通常、第一稿を書いてから十回以上は書き直すので最終稿に至るのに少なくとも2週間かかるのが普通です。それにいつもは少し原稿を寝かせて自分の頭の中がカラになるのを待ってから、読みにくいところを直していってスムーズにしていきます。ちょうど、磨き上げられた廊下がむらなく光を反射するように、磨いては、その都度つやの具合をチェックしてまた磨く、そういう作業を一定期間で繰り返して、論文は贅肉が落ちて筋肉質のものになっていきます。
 今回はそんな悠長なことは言っていられません。その緊急情報のおかげで、結局、その当日は徹夜で最後の実験と原稿書きをするハメになりました。明け方の四時までかかって、なんとか原稿を書き上げました。それで緊急に内部で原稿を読んでくれる人に回し、即日、その意見をとり入れて書き直して、投稿した次第です。コンピューターの前にぶっとうしで十時間以上座って書きものをしていると、目はしょぼしょぼしてきますし、タイプする指先はしびれてきますし、集中力が途切れてくると関西弁で悪態をつきはじめすし、これは健康に悪いとつくづく思いました。こんなに短期間で論文を書いたのは初めてです。いつもはそれなりの自信をもって投稿するのですけど、今回は、自信が持てるほど推敲も十分な実験もできなかったので、さてどうなるやらわかりません。
 今回の論文は私一人が著者ですけど、もちろん多くの人々がその研究に寄与してくれています。マウスを供与してくれた人やノックアウト製作のためのキメラマウスを作ってくれた人、マイクロアレイの実験と結果の解析をやってくれた人、などなど。ただ、最近は、誰が論文のどの部分にどれだけ寄与したかを明らかにし、いわゆるhonorary authorを含めてはいけないというガイドラインがあります。また料金をとってサービスを提供する場合の研究への寄与は原則的に共同研究と見なさないという慣例もあり、昔に比べて、誰が著者になるのかに関して恣意的な融通性がなくなってきました。それで結果として私一人が著者ということになりました。
 単一著者の論文は、一人称単数で書かれることが多いのですけど、研究には著者としては加わっていなくとも多くの人の間接的な寄与があったという意味も含めて、論文は一人称複数形を使って書きました。単数の著者が複数形(We)を使う場合という場合は昔からあります。柴田元幸さんのエッセイであげられている例を引けば、例えば”Editorial We”と呼ばれる場合などは、雑誌の編集者が編集部全体の意見を代表して文を書く場合、単独著者でもWeとなります。また、王室の人が、「朕は楽しゅうない」というような場合、”We are not amused”と自分自身だけのことを指していても”We”という言葉が使われます。こういう”We”を”Royal We”と呼ぶのだそうです。この場合は、王は神に権力を託されたものであり、自分の言葉は自分だけのものではなく神の言葉でもあるというような概念が土台にあるようです。また、二人称、三人称単数を指して一人称複数を使う場合もあります。この場合は、暗に、話者自身を会話の主体に含めてしまうことによって、相手に対する共感、同情心を示す場合です。例としては、医者が患者に「今日は、具合はどうですか」と尋ねる場合に、”How are we feeling, today?”と言うような場合があり、”Patronizing We”と呼ばれているようです。因みにボストンのレッドソックスファンは日本の虎キチと同様、彼らとレッドソックスは一心同体だと思っているようなところがあって、レッドソックスが勝つ度、負ける度に”We won”、”We lost”と一喜一憂するのですけど、このWeはうざったいものです。多分これも一種のpatronizing weなのでしょう。
 ところで、論文の場合、私は、一人称単数で書かれている論文を見ると、なんとなくある種のArroganceというか、自己主張というかエゴというか、そんなものを感じるような気がします。これは多分、日本人特有の感じではないでしょうか。自分や相手を直接指す言葉を避けるのは、対立を防ぐという作用があると思います。例えばデパートの店員がお客に対して一対一で会話するとき、お客を指して「あなた」とは呼ばず、「お客様」と三人称を使って相手のことを指します。そこでお客と店員が「あなた」と「わたし」で呼び合えば、大きな栗の木の下に二人っきりでいるわけではないのですから、きっと居心地の悪い親密感か、あるいは逆に敵意が生まれることでしょう。一人称、二人称単数で何かを主張するということは、「オマエはオレ様の言うことを聞け」と言っているような気がしてなんだかヤな感じがします。一方、一人で論文を書くということは、実は他に一緒に実験をやってくれる人がいない寂しい人、と勘ぐることも可能です。(そういう実例を知っているので)とにかく複数著者が普通の原著論文で単独著者というのは体裁が悪いのは間違いないでしょう。科学論文では、通常、筆頭著者の人がその論文の多くの実験や解釈を行い、論文責任者(通常最後の著者)がその研究を指揮して資金を工面する、という場合が多いので、論文のクレジットは筆頭著者の取り分が5割、論文責任者の人の取り分が3割、残りが2割といった具合ではないかと思います。私の場合は別に自己主張が強いとかエゴが大きいとか皆に嫌われているという理由で単独著者になっているのではなくて(たぶん)、単にお金がなくて人を雇えなかったというのがその理由です。陳腐な例えで言えば、社長兼、部長兼、平社員兼、アルバイト、合計一名の超零細企業であったわけです。ちょっと大変でしたが、その分、人間関係の軋轢に悩むことがなかったので仕事はやりやすかったです。
 というわけで、論文緊急事態宣言は解除され、今日からは普通の日常生活です。
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個人的な話ですみません

2010-04-13 | Weblog
最近、頭痛の発作によく悩まされるのですけど、これまで月に一回あるかないかぐらいだったのが、この論文緊急事態になってから頻度が増して、先の日曜日もあんなに良い天気の日だったのに、頭痛発作で一日中ベッドで寝ていました。前の晩に知り合いの家でパーティーがあって、普段食べない高タンパク高カロリーのものを食べ過ぎたのが原因ではないかと思っています。頭痛発作を誘発しやすくなるので、アルコールは二年ほど前に止めましたし、ここ数ヶ月は殆ど動物性蛋白質を取らないようにしていたのですけど、久しぶりにチーズ料理や肉料理を食べるとおいしいと感じますし、その後、手作りティラミスがでてきた時は、「食べてはいけない、これは毒だ」と叫ぶ理性の声は余りにか弱く、ついついおかわりまでしてしまったのが敗因かと後悔しています。
 私は昔から一人でじっとしているのが好きなので、パーティーとか学会とか、人の集まるところが苦手で、行く前はいつもどんよりしているのです。でも、行くと行ったで、それはそれなりに楽しいし、それでつい度を過ごしてしまうのです。そういう場では、結局、普段は寡黙で余りしゃべらないのに、ついついおしゃべりが過ぎて、ずっと喋り通しになって、何を飲み食いしたかわからなくなってしまうこともしばしばで、結果、起伏の少ない規則正しい生活を心がけているのに、今回のように、食べ過ぎ、しゃべり過ぎとなって、翌日にそのツケが出たりすることになってしまいます。
 結局、人間というのは本来、社会的な動物で、他人とどうでもよいことでも語り合って、愉快に過ごすということが好きなのだなあ、と思います。「森の生活」で、森の中で一人暮らしをしたソローは、どういう心境だったのだろうと思ったりします。そういえば、ちょっと昔のトムハンクスの映画では、無人島に流れ着いたトムハンクスが、一緒に流れ着いたサッカーボールに目鼻を描いて、ウィルソンという名前をつけ、何かにつけて語りかけていました。筏でウィルソンと一緒に無人島脱出を試み、嵐に遭って、ウィルソンを見失ってしまうトムハンクスが「ウィルソーン!」と叫ぶ場面、最初はギャグかと思いましたが、最近はその気持ちがわからなくなくもありません。
 それで、日曜日は子供のサッカーシーズンが始まったのに見にも行けず、論文で気が焦っているのに仕事も進まず、ということになってしまいました。しかし、休むことも仕事のうちと思って、家族には悪かったですけど、ベッドでじっとしていました。

論文のほうですけど、苦しいところは峠を越えつつあるようです。時間が限られているので、やらねばならないこととやりたいけれどもやれないことがはっきりしてきたし、ストーリーも大体決まってきたので、多少道筋が見えて、気持ちが安定してきました。後、一、二週間ぐらいで読める論文にはなるだろうという感じがあります。投稿後もreviseまたはrejectionの場合の再投稿に備えて、やりたいけれども今回できなかった部分の実験を継続する必要があるので、当分、気は抜けませんけど、トンネルの出口が多少見えているというのは精神衛生上、随分違います。関連したプロジェクトでpactを組んでいたイスラエルのグループに競合相手の状況を伝えたら、彼らはこのプロジェクトからしばらく前に撤退したとのこと。ちょっと一人取り残されたような感じです(もともと、研究というものは個人的な活動ではありますが)。よく言えば、ゴライアスに石つぶてを持って立ち向かうダビデのような心境、悪く言えば野党に転落してから離党者が後をたたない自民党幹事長のような心境です。
 論文のストーリーは、ほぼ決まりはしたのですけど、まだちょっと弱いのです。正確にはメカニズムを明らかにできたわけではありません。結局、競合者とぶつけて、同じ雑誌に投稿して、雑誌側の反応を見る、という強気の策に出ることにしました。雑誌社側が主題に興味があれば、チャンスはあるのではないか、と読みました。その雑誌は基本的には分子生物学雑誌なのですけど、何故か発生生物系の遺伝学研究論文もよく採用されるというちょっと変わった雑誌です。私の論文は基本的にマウス遺伝学的手法を使った発生生物的研究なのですけど、扱っている遺伝子産物が分子生物でここ十年注目を集めている分子群の一つなので、雑誌の興味とは合致していると思います。編集者レビューの関門を越えて一般レビューに回り、そこで何とか引っ掛かれば、私、レビューアの心理を読むのは得意なので、最終的にねじ込むことができるだろうと思っています。今は、それに備えて、実験結果の解釈を確実にしておくための実験を繰り返しているところです。まだまだ気は抜けませんが、気持ち的には随分ストレスは減ってきました。一段落したら、温泉に入っておいしい手打ちそばを食べたいなあ、などと思っています。
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原発推進反対

2010-04-09 | Weblog
平沼氏、与謝野氏という高齢の自民党議員が、沈む泥舟から逃げ出して、新党結成を試みていますが、新党結成のための5人目がなかなか見つからず苦労しているとのこと。新党といいながらも中身は古い人ばかりで、若者は誰もついてこなかったという寂しい船出。自民党議員からは、小選挙区の選挙で落選して比例復活したゾンビのくせに自民党の恩を忘れて、離党、新党結成するとは、心得違いも甚だしいとの当然の意見。この世の義理と人情を軽んじるような人間についていく若者はいません。そして、あの東京の勘違い知事が名付け親となったらしい新党の名前は「たちあがれ日本」だそうですが、このセンスのないベタベタの命名、巷ではすでに、老人新党「たれぽん」と省略されることになっているようで、焼き肉、餃子、野菜炒めには合いそうですが、メインディッシュには絶対なれない運命のようです。この古い人ばかりの新党については、是非、政治漫談の田中眞紀子師匠の辛口のコメントを聞いてみたいものです。後が短い老人たちが集まって、自民党から逃げ出したその意図を勘ぐると、ウーン、寂しくもあり、悲しくもあり。

さて、悪口はこの辺までにして、4月1日号のNatureのNewsでは、日本の原子力発電計画の拡大についてカバーされています。話の中身は、原子力開発でのエネルギー問題解決を考えている政府が一般国民の強い反対にあっているということなのですけど、私が余り知らなかったことも書いてあるので、それを箇条書きにしてみたいと思います。
1 日本のエネルギーの80%以上は輸入に頼っている。国としてはそれを今後20年で30%ぐらいまでに減らしたいと考えている。そのため今後、十年で新しく8基の原子力発電所の建設を予定している。
2 日本のエネルギーはガス、石炭、原子力が約25%ずつ、ついで石油が14%ほどを供給源としている。
3 日本には既に54基の原子力リアクターがあり、そのエネルギー産生量はアメリカ、フランスについで、世界第三位である。
4 今年3月世界のウランの20%を埋蔵するといわれるカザフスタンとウランの安定供給と引き換えに原子力発電技術を供与する取引を結んだ。
5 イトチューは政府のバックアップのもと、ナンビアのウラン鉱を開発するイギリスの会社に高額の出資をしている。
6 3月19日に開かれたUS-Japan Nuclear Energy Steering Committeeで、両国は古い原子力リアクターの使用年限を延長するための共同研究を行うことを同意した。
7 日本国民の原子力発電に対する抵抗は大きい。(2007年では新潟地震で閉鎖となった柏崎原発から日本海への放射線漏れ事故がありました。その他、この記事にはとりあげられていませんが、数々の原発で同様の放射線漏れがありました。少なからぬ放射線漏れは多分、もんじゅの時のように密かにその事実が隠蔽されていると考えられています)1995年に放射線漏れがあり、それを隠蔽しようとしたことが明らかとなって、活動停止となった実験的核リアクターのもんじゅは、fast-breeder technologyを使っているが、ほとんどの国では安全性の問題でこの技術は使われなくなっている。にもかかわらず、日本では再開が予定されている。3月11日には29人の科学者がもんじゅ再開反対声明を出し、その点検の杜撰さを指摘。
8 一方、隣国の中国では原子力発電に対する反対は少なく、現在20基の原子力発電所が建設中である。

私の小さいころも、日本は唯一の被爆国であり、原子力は恐ろしいものであるという教育がありました。その後もチェルノブイリやスリーマイルなどでの大きな放射線事故があり、原子力発電の危険性はその都度知らされてきました。にもかかわらず、地震大国の日本ですでに54基もの原子力発電所が存在し、ニュースになっただけでも、複数の災害や人為的ミスによる放射線漏れの事故がおこっています。新聞はとりあげなくても、ブログとかでの情報では、原子力発電所の近隣住民に白血病などの悪性腫瘍が高頻度に発生、周辺の植物や魚類の奇形の異常発生など、放射線との因果関係を示唆するような事例が認められているそうです。
エネルギーの海外依存度を減らしたいという政府の意向はわかりますが、そのために安易に原子力発電を拡大するなら、払わねばならない代償はきわめて大きくなると思います。ネットで誰かが提案していましたが、原発が安全だというのなら、首相官邸の真横にでも原発を建設して、安全であるところを実地に国民に示してから、計画を進めるべきでしょう。違う話ですけど、沖縄基地問題でも、それほど安保が大事なら、羽田空港を米軍基地に解放すればよいと思います。エネルギー問題は、そこまでわかりきった危険を冒し、将来の世代に放射能、放射能廃棄物というやっかいな遺産をたっぷり残してまで、現在の日本人のアメニティーの向上のために、解決しないといけない問題とは私は思いません。事実、もっとクリーンで安価なエネルギーはあります。例えば、風力発電と太陽光線、太陽熱の利用です。スペインではかなりの規模のウインドミルファームがありますし、世界各地で風力の得られそうな所にウインドミルはたっています。知り合いの話だと、海岸近くに住む人が自宅に小さなウインドミルを建てたところ、使い切れない電力が得られるので、余った分を電力会社に売っているという話でした。ウインドミルを自宅に建てることが困難な日本の街でも、太陽エネルギー利用は十分可能だと思います。もっと高性能の太陽電池の開発を進めれば、自宅で使う電力ぐらいは自給できるようになるでしょう。私の小さいときは、祖父母の家には太陽熱で温水を作るためのタンクが屋根にすえつえてあって汲み上げた井戸の水を日中暖めていましたから、お風呂のお湯はただでした。
 そもそも、エネルギーが足りないなら、足りないだけで我慢すればよいではないですか。足ることを知ること、足りないなら足りないなりに満足できるようになること、これが大人になるということです。足りないからといって、後先考えずに「もっと、もっと」とねだるのは、駄々っ子です。
原発推進反対。
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政局雑感

2010-04-06 | Weblog
先月末の党首会談の様子を見ると、自民党総裁は相変わらず揚げ足取りみたいな質問しかしませんし、これでは本当に自民党はダメですね。55年体制のぬるま湯の中で国家レベルでの理想を語ることのできるスケールの大きな人がすっかりいなくなって、野党になってからは、与党の批判ぐらいしかできない烏合の衆であることが露呈していまっています。とくに普天間基地問題で、「十年前に日本がアメリカと合意した国同士の約束を反故にして逆戻りするのは許されない」と攻撃を繰り出してみたものの、「約束だ、計画だというが、十年前に決めたことでありながら、自民党政権中、杭一つ打てなかったではないか(十年前に約束したことを全く実行してこなかったくせに何をいうか)」と鳩山氏に逆襲されてグウーとなっていたのは情けないの一言。
 その鳩山氏、普天間問題について、まだ言えないが「腹案」があると言いました。「腹案」とはなんと芝居がかった古風な言葉かと宇宙人のセンスに感嘆しました。いやがおうにも期待が膨らみます。一体、「腹案」とは何か、これはきっとあっと驚くような名案に違いない、「腹案」という言葉には、そのような常識を覆すような名案である、という含意があるように私は感じました。
 さすがに自民党案のキャンプシュワブ沿岸埋め立てという線はないでしょうが、これまでの様子からは辺野古陸上案とか、ホワイトビーチ沖埋め立て案とかの県内移設が有力視されてきている状態です。それらの案では、おそらく沖縄県の強い反対にあって先に進まないと思われますから、ここで意味ありげに「腹案」と言ったからには、私には、鳩山氏、「沖縄米軍基地の国外移設」を考えているとしか思えません。辺野古埋め立ての利権に絡んだ連中は、何としてでも辺野古を埋め立て、珊瑚礁を破壊したいと思っているでしょうが、小沢氏が辺野古の珊瑚礁の奇麗な海を埋め立てるべきではない、というかつての発言を思い出せば、トロイカ体制を維持したい民主党の党の帰趨を決定しかねない沖縄基地問題に、辺野古埋め立てという線は既に消えています。辺野古陸上案もかなり無理がありますし、ホワイトビーチ沖埋め立ては、辺野古ほどではないにせよ、沖縄住人は絶対反対の姿勢をとるでしょう。県内の策を採ることは民主党の自殺行為に近いと私は思います。
 では、肝心のアメリカはどう考えているのか。沖縄から撤退することを極東覇権における敗北であるから、手放さないだろう、と考える人もいるようですが、日本には沖縄以外にも米軍基地があるわけですし、安保というものが残っている以上、日本がアメリカの植民地であるという事実に変化はないわけですから、アメリカの本音は別に沖縄にこだわってはおらず、十分に金を積んでくれたら、ホイホイとグアムに行きますよ、といったところだと思います。地獄の沙汰も金次第、アメリカはプライドよりも目の前の金が欲しいはずです。沖縄米軍基地のグアム移設は、後々、日米安保を終了させ、日本が日本国民のために存在する国へと成長する上で、計り知れないメリットがあると思います。沖縄の珊瑚礁を埋め立て、引き続いて県民に苦しみを 押し付け、日本の米軍占領状態が継続することになる国内移設と、グアムに出て行ってもらうことを比べたら、多少の手切れ金は工面してでもお引き取り願う方が余程賢い選択であろうと私は思います。
 この「腹案」という言葉を聞いて、鳩山内閣は国外の線で交渉する気なのだ、と私は思いました。国外の線で強く交渉するつもりであれば、鳩山内閣の支持は一気に上昇し、参院選にも順風が吹くでしょう。あと、二ヶ月足らずで「腹案」が国民に示されると期待されますが、どうでしょうか。もし国外案でなければ、逆に、内閣へのダメージはかなりのものがあるだろうと私は思います。
 そう考えていたとき例の平野官房長官と鳩山氏、岡田氏の会談があって、県内辺野古陸上案と県外移設の併用案でまとまりつつあるというような話が聞こえてきました。これが本当だったら、党首会談で「腹案」という言葉を使って切った 鳩山氏の見栄は何だったのでしょうか?鳩山氏、別に見栄をきったつもりではなくて、宇宙人の軽いセンスで「腹案(ふっふっふ)」と言ってみただけなのでしょうか。わかりません。あるいは、新聞の言っていることは、例によって民主党イメージダウン作戦のためのただのガセネタなのかもしれません。最終的にどういう判断がでるか、いずれにしてもこの判断が民主党政権の今後を大きく左右することになることは間違いと思います。

自民党若林議員、代返で青木議員の投票ボタンを押したことが発覚し、辞任。「魔がさした」と言い訳。
 情けなさに言葉もありません。これこそが、官僚丸投げ政治の自民党のぬるま湯に浸かり続けた人の成れの果てというものでしょう。国会議員は民主主義の原則のもとに選ばれた国民の代表であり、国民に奉仕することが職務であるという当たり前のことを理解していないわけです。議会での票の重みを何と心得ているのか、いい年をしてこれまで何を学んできたのか。「魔がさした」とかいうふざけた言い訳も噴飯ものですね。魔がさして、十回も人のボタンを押さないでしょう。これは議員辞職ぐらいではなく、刑事事件として糾弾されるべきであります。議員辞職はどうせ引退予定で痛くもなし、票田を世襲で息子に譲るつもりだったそうですが、有権者もこの事件を聞けば、国民の代表者たる意識があるようには思えないこの人の後に、その息子を送り込むことには再考することになるに違いありません。
 加えて、大事な評決に席を外した青木議員も何を考えているのか。選挙区の代表として、その人々と日本国民の利益を一生懸命考えて政策の決定に係るという最も大切な国会議員としての仕事を放棄するとは何事か。ただただ情けないの一言です。

小沢氏、複数選挙区に複数の民主党候補を立てる方針で、地方の党連合の恨みを買っているとの話。衆院から参院への鞍替えさえさせる議員もあるとのことで、参院選に賭ける小沢氏の決意のほどが伝わってきます。地方としては、複数選挙区でも、民主党候補を一人に絞る方が安全だし、ラクなわけです。二人擁立して票を分け合っての共倒れは避けたいという安全策を取りたいのは分かります。小沢氏、その地方党連合に対し、「もっと努力して票を掘り起こせば、二つ取れる」という読みで、敢えて強気の策に出て、参院選の勝利に全力を尽くす覚悟のようです。確かに参院での単独過半数があるのと、ないのでは大きな差が出てきます。年令から考えても、小沢氏、この参院選が最後の正念場となると思っているはずです。複数候補を擁立する選挙区で、とりわけ現職を含む区で、複数の民主党候補が出た場合、候補者とその支持団体の目の色が変わってくるでしょう。共倒れになるか、共に勝利するか、という背水の陣になります。その覚悟で選挙戦を戦えば、安全策を取った場合よりも、必ず全体としての民主党票は増加するでしょう。それによって一人目は投票により当選を期待し、もう一人は仮に票が及ばなくても比例復活で救済するという戦略でいけば、安全策をとった場合よりもおそらく全体として民主党議員の当選数は増えると考えられます。地方の党連合の抵抗は、そんな背水の陣でしんどい思いはしたくないという怠け心にあり、この参院選の重要性、その民主党勝利の歴史的な意義、というものを十分に理解しておらず、いわば、野党時代の古い考えにまだ縛られているという点にあります。今や与党となって、旧自民党体制、即ち長いアメリカに巻かれろ政策でアメリカ植民地であった日本を、喰い尽くされてて荒土となる前に、自立、安定した国に変えていくことができる千載一遇のチャンスにあるということがわかっているのでしょうか。それゆえに抵抗勢力は、マスコミ、検察と手段を選ばず、小沢潰しにやっきになっている訳でしょう。まさに、この参院選に日本の興廃がかかっているわけです。その要の戦いにありながら、複数候補擁立は票の掘り起こしがしんどいから「やだ」とダダをこねるのは「なまぬるい」と思います。
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シノぐ日々続く

2010-04-02 | Weblog
論文スクランブル体制継続中です。
 研究というものはデータを出すのは易しくても、その結果を正しく解釈するのはとても困難なことが多いです。それで、そのデータの解釈を確かにするために、更に実験を積み重ねていくことになります。問題は、各実験において解釈不能の結果が出る場合が多分5割以上あって、そのために、解釈不能実験を解釈するための実験が解釈不能となるということがしょっちゅうおこることです。それで解釈不能の無限退行の泥沼にはまり込むということがよくおこります。研究やっててストレスになるのは、この解釈不能無限退行、研究者殺し油の地獄に落ち込んだ時です。
 しかし、私、それが現実の姿だと思うのです。「現実の世界が様々な物理的な分子や原子とその相互作用から成り立っている」という前提のもとに世界の理解を試みるのが近代科学の方法論であり、現実に、科学論文出版というゲームの勝敗が、そのルールに沿って、どれだけ面白いストーリーを提示できるかによって決まるものである以上、この前提のもとにプレーせざるを得ません。私はこの世界というものは、そのような物理学的前提や方法論で理解できる範囲は限られていると思っています。科学の方法論は余りに未熟であるというのが私の実感です。
 現実の世界が仮に構成分子とその相互作用で成り立っているという前提で、生物学データを解釈していこうとすると、多くのempiricalな困難に遭遇します。この世界観によれば、あるシステムにおいては大小様々な数多の因子が多く方向のベクトルをもって無数の相互作用していると考えられます。とくに生きた細胞や動物をまるまる扱うような研究において、ある因子を操作した場合になんらかの変化が検出された場合、その因子の操作がどういうメカニズムでその変化にいたるのかを明らかにすることはしばしば困難です。その操作と変化の間に、その因子はおそらく無数の別の因子と相互作用をし、その総和が検出可能な変化として表れると考えられるからです。因子の個々の振る舞いから全体を予想するのは不可能である、とカオス研究者も言っています。
 昔の生化学的研究では、実験系をできるだけ単純化し多くの因子を厳密にコントロールした上でその内の一つを操作してやることで、その分子の機能を探るという方法を取っていました。今でもその生化学的研究的手法(源流は物理学でしょうが)は、生物学研究がより複雑な系を使った場合においても、スタンダードとされています。遺伝学的技術が発達するにつれ、本当の動物をまるまる使って一つの遺伝子の働きを探る、という研究が生物学の分野での大きな手法となりました。ノックアウトマウスやトランスジェニックマウスの技術が代表で、私もそういうシステムを主に用いています。
 最近つくづく感じる問題は、この複雑な動物というシステムを使って、実験の結果を解釈するための方法というものが、旧態然とした「生化学的方法論」しかない、という実験法(というかその研究概念)の未熟さです。つまり、諸条件を厳密にコントロールするということが、原則的に困難な生きている動物において、昔ながらの物理学的基準を適用しようとすると、本当にRobustなものしか検出できないということです。私自身の例ですと、作ったノックアウトは再現性よくある形質を示します。それは正常マウスと比べて約10%ぐらいの差がでるマイルドな形質です。ですので、この遺伝子の喪失によってこの形質がでるという所までは問題ありません。しかし、現在の論文では、では、どういう理由で、その遺伝子の喪失がその形質の発現にいたるのか、というあたりに説明を加えなければ、出版が困難です。それで、人々は遺伝子発現の違いを比べてみたり、細胞増殖を比べてみたり、なんだかんだと調べてみるわけですけど、当然ながらマイルドな形質であればあるほど、それをきれいに説明できるようなデータはでません。各解析技術の感度というものが悪すぎるのも一つあります。例えば定量的RT-PCRを使う遺伝子発現解析法はお手軽なのでよく使われます。しかし、このアッセイのブレはかなり大きく、発現変化が少なくとも50%以上なければ信頼性のあるデータにはなりません。スナップショットで50%の差というのは、生きた動物では強烈な差です。例えば、人間であれば、血液検査で正常値より5割増の白血球数が数字が出ると、大抵の場合、重症感染症か白血病でしょう。マウスで正常に比べて10%ほどの差を説明するのに、50%以上の変化しか信頼性よく検出できない解析法を使って、意味のあるデータがとれると考えるのはナイーブすぎます。また動物という複雑なシステムで、例え一つの遺伝子を変化させただけであっても、その動物が生まれてから成長するダイナミックなプロセスの中でその一遺伝子の欠失が引き起こすであろう無数の変化の蓄積を考えたら、他の条件を厳密にあわせるということはまず不可能であろうと私は思います。にも関わらず、未だに生きた動物という複雑系を遺伝的手技を用いて研究する場合に、従来の系を単純化してパラメータを減してアッセイを行う生化学的方法論が適用されつづけているという所に、この研究分野の問題があると私は思います。
 正直に言って、多くの遺伝子改変動物の形質を報告した論文で、いわゆる「メカニズム」にアドレスした部分のかなりのものは信用できない、と私は思っています。その部分がないと出版できないのに、それを正しく研究する方法に乏しいこと、その部分のデータを評価するのに従来の生化学的研究手法による(複雑系を相手にするには)厳しすぎる基準を使い続けていること、それが信用できないデータの問題だと思います。研究者にとってみれば「メカニズム」がなければ一流紙は採ってくれないことを知っています。そして、良心的な研究者であれば、仮にメカニズムがわかっていたとしても、それを実験的に示すことは、複雑系の動物を使った系では、しばしばきわめて困難であることも知っています。そういう理由でしばしば良心的でない研究者の論文が一流紙に掲載されることになるのだろうと思います。
 私は現在論文投稿上、「メカニズム」部分の体裁をあと2週間以内に整えないといけないという状況にあります。面白ろそうなデータはありますし、多分その解釈も間違いないと思っているのですけど、これを実験的に無事証明できるかどうかはまだわかりません。証明できなかった場合は、残念ながら時間切れになるので、証明部分はなしで理屈で押すしかなくなってしまい、出版ゲームではちょっと厳しくなりますが、今回はそれ以上できることもないので、それでまとめるつもりです。
 しかし、フルタイムの研究者をやりだしてから、こんなに長時間毎日実験室にへばりつくのは久しぶりです。若さにまかせて夜どうし実験したりしていた昔のことのことを思い出します。たまには一つのことに没頭してしまうのも悪くないと思ったりします。
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