百醜千拙草

何とかやっています

サリンジャーの死に思う

2010-02-02 | 文学
1月27日、J.D. サリンジャー死去とののニュースを聞きました。91歳だったそうです。ニューハンプシャーの自宅で自然死とのこと。 このニュースを聞いて、昨年のレヴィ= ストロースの時と同様の感覚を覚えました。
 「ナインストーリーズ」や「ライ麦畑」がヒットしたのは1950年代で、私が初めて、「ナインストーリーズ」を手にした70年代には、サリンジャーは、既に絶筆状態になってから、随分経っていました。「ナインストーリーズ」を梅田の古本屋で買った時、私はサリンジャーのことを知りませんでした。その本は文庫になる前のハードカバー版で(多分)和田誠さんの魚とヒトデ(だったような気がします)のイラストの表紙に惹かれて、何か別の本と一緒についでに買ったのでした。本のタイトルも、「ナインストーリーズ」ではなく、「九つの物語」だったような気がします。これは、その後に明かされる(多分)架空の一家、Glass家にまつわるエピソードの短編集で、最初の「バナナ魚に最適の日」で、いきなり主人公が自殺をするという話で始まり、当然、当時少年だった私は、よく理解できなかったのですけど、妙に心惹かれるものを感じ、以来、その他の作品も読むようになりました。バナナ魚とは何か、主人公の自殺の意図は何か、何も明かされないまま、この短い話は終わってしまいます。「ライ麦畑」の主人公が、「セントラルパークの池の白鳥は冬はどこに行くのか」という疑問になぜ取り付かれているのか、説明されぬまま話が終わっているのと同様です。これらは、深い隠喩であったのか、あるいはそもそも大した意味はないのか、小説が伝えたいものは何なのか、あるいは、本人が言ったように、自分の楽しみだけに書いている物語で、伝えたいものがあるわけではなく、ただ読者への素材を提供しているだけなのか、私はよくわかりません。
 でも、私は、サリンジャー作品の「雰囲気」が好きでした。当時少年だった私に、サリンジャー研究者が議論するように、彼の作品の意義が理解できたわけではありません。読んでみて、何だかわからないけど、面白いと思っただけなのです。振り返って思えば、それは、現実逃避傾向の強かった私に、サリンジャー作品が、全く異なる世界を見せてくれるように感じたからではなかったか、と思います。そのページの間から漂う昔のニューヨークの香りと私の周囲には見たことのないような行動をする人々は、演歌の流れるパチンコ屋とニンニクの匂い漂う餃子店の前を通って毎日通学していた私の現実を、つかの間、忘れさせてくれました。現在でも、現実逃避癖は残っていますが、今は、不思議なことに、昭和の高度成長期の日本の映画を見たりすると、サリンジャーを初めて読んだときのような気分になるのです。
  いずれにせよ、彼のスタイルがヘミングウェイらのロストジェネレーションの後の現代アメリカ文壇に強い影響を与えたのは間違いありません。その後の近代アメリカの作家がしばしば、サリンジャーの影響を述べていますし、その流れはおそらく、日本では(庄司薫は言うまでもなく)村上春樹らに受継がれているのだろうと思います。
 サリンジャーに私がもう一つ負っていることは、禅仏教へ親しむきっかけを作ってくれたことです。私が禅仏教に興味を持ったのは、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」を読んだからでした。ヘンな話です。きっと戦後の欧米での禅ブームのころと、作品が書かれた時期が重なっているのでしょう。ただ、作品としてのフラニーとゾーイーは、ちょっと登場人物が饒舌すぎて、余り面白いと思えませんでした。そして、絶筆前に出された「大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア:序章」で、ようやく、ナインストーリーズの「バナナ魚」に、背景が与えられるのです。
  それにしても、サリンジャーの作品が、未だにこれだけ広く読まれ続けているということが私には不思議に思えます。時代をこえて、若者の感性と共鳴するところがあるのでしょう。あるいは、彼の作品が近代アメリカ文学の新しい潮流の源になったという歴史的認識ゆえでしょうか。私はサリンジャーの出世作の「ライ麦畑」を少年時代に読み損なったので、「ライ麦畑」を読んだのは、もうおじさんになりかけてからで、当然というか、あまり、面白いとは思えませんでした。でも、若者時代に読んだ彼の他の本は、とても好きだったことを覚えているのです。
  本人は、とっくに書くことを止めてしまったのに、五十年以上も前に書いた作品が、未だに世界中で読まれ続けていることを、サリンジャーはどう思っていたのでしょうか。そして、この五十年間、秘密に満ちた彼の生活の中で、書くことを止めた彼の精神を支えていたのは何だったのでしょう。想像できません。まるで、彼の人生はこれらの少数の作品を生み出すためだけにあったようです。そして、その仕事が終わった後に、彼はニューハンプシャーの山の中に姿を消してしまいました。その五十年間の孤独の中で、どういう気持ちで暮らしていたのか、そのことを考えると痛々しいような気持ちもします。
  サリンジャーの死亡を伝えるニューヨークタイムスの1/28/10の記事で紹介されている様々な話は興味深いです。若者に対する彼の著作の影響力の例として、ジョンレノンを暗殺したデイビッドチャップマンが、暗殺の説明は「ライ麦畑」を読めば分かると、言ったというようなことが書いてあります。レーガン暗殺未遂の犯人も「ライ麦畑」の愛読者だったそうですし、「ライ麦畑」が禁書になったこともあるそうです。このように社会的インパクトの大きい作品を書いた作者が、社会との関わりに病的な嫌悪感を持っていたことは興味深いです。
 サリンジャーはおそらく激しい潔癖性だったのでしょう、出版に伴うゴタゴタやファンからの手紙、そうしたものに極度の嫌悪感を示したようで、1974年に実現したインタビューでは、書くことは好きだが、自分のためだけに書く、出版することは酷いプライバシーの侵害であると言って、作品の発表を拒んだのだそうです。世の中の作家志望の人の多くとは逆ですね。 私生活やそのパーソナリティーには謎が多く、批判も多いようですけど、私たちにとっては、とんでもなくつき合いにくい変人だが優れた作品を書く作家の方が、とってもいい人なのに作品がつまらない作家よりも、数百倍も有益であるのは論を待ちません。(政治家もそうですね)
 本人が幸せであったかどうかは分かりません。世間とかかわることがここまで苦痛だったのであれば、人間はそもそも社会的動物ですから、たぶん、つらいことも多かったでしょう。
 サリンジャーの死を聞いて、寂しい気持ちに捕われた、元文学少年少女のおじさんやおばさんは多いのではないでしょうか。前出のニューヨークタイムスの書評欄では、サリンジャーをアメリカのトルストイと例えていました。彼の死によって、彼の作品は、現代アメリカ文学ではなく、古典と分類されるようになるのかも知れません。それはちょっと寂しいなあ、という気がするのです。
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丹霞焼仏と南泉斬猫

2009-10-16 | 文学
先日、仏像を焼いて暖をとったお坊さんの話を書いた時、出典が思い出せず、そのお坊さんのことをどういうわけか古霊だと思って、そう書いたのですが、その後、偶然、本を読んでいて、誤りに気がつきました。仏像を焼いたのは古霊ではなく、丹霞天然で、羅漢に供養をしていたのは、その弟子の翠微無学でした。その丹霞が仏像を焼いた時の話が、「丹霞焼仏」という公案になっていることもそれで知りました。

丹霞は寒い日に木仏を焼いて暖を取ったが、それを他人から譏られたため、その人に「焼いて、木仏から舎利を取る」といった。
しかし、その相手は、「木仏から舎利が取れるはずもない」というので、丹霞は、「それならば私を責める理由は無かろう」と答えた。

この話は理解しやすいです。一休さんのとんち問答みたいですね。偶像崇拝に対する批判でしょう。 丹霞の弟子、翠微無学の羅漢供養の問答を再録。

「あなたの師匠は仏像を焼いたというのに、あなたはなぜ供養をするのか」
「焼いても焼き尽くされるものではない、供養したければいくらでも供養すればよい」(焼くも良し、拝むも良し)

偶像崇拝やその批判というレベルを越えた境地を見よ、ということでしょうか。

翠微が羅漢を供養しているのを見て、僧が問う、 「羅漢を供養すれば、羅漢は供養を受けに戻って来られますか」
翠微の答え、 「お前は毎日、何を喰っているのか」

供養は羅漢の問題ではなく、供養者その人の問題であるとの謂いでしょうか。

「丹霞焼仏」と漢字四文字にすると、何となく詩的ですけど、言っていることは、「丹霞が仏像を焼いた」という極めて散文的な叙述です。この「丹霞焼仏」という言葉の響きで思い出したのが、「南泉斬猫」です。南泉が猫を斬るということですけど、これはかなり有名な公案で、画のモチーフ(例えばコレ )としてもよく使われています。 この話は次のようなものです。

ある時、東堂の僧たちと西堂の僧たちとが、一匹の猫について言い争っていた。 南泉は猫を提示して言った。 「僧たちよ、一語を言い得るならば、この猫を助けよう。言い得ぬならば、斬り捨てよう」  
誰一人答える者はなかった。南泉はついに猫を斬った。  
 夕方、趙州が外出先から帰ってきた。南泉は彼に猫を斬った一件を話した。趙州 は履(くつ)を脱いで、それを自分の頭の上に載せて出て行った。
南泉は言った。 「もしお前があの時おったならば、猫は死なずにすんだのに」

公案ですから、決まった答えがあるわけではなく、自分なりの答えを考え抜いて見つけるしかないのですけど、私は、未だに、なぜ南泉が猫を斬らねばならなかったのか、よくわかりません。僧たちに落ち度があったのはわかります。猫の生死がかかった瞬間にあって、何一つ言えなかった僧たちは仏徒としてふがいないと思います。猫ではなく、苦しんでいる人だったらどうでしょう。その苦しむ人を救うことが僧の役割です。死んでからお経を上げるだけの葬式仏教では意味がありません。生死の刹那に、理性の判断を排した所から出てくる(生死を超えた )ものを引き出して見せよ、そういう問いだったのでしょう。思うに、その言葉の中身よりも、まず、何かを言い、行動することができなければダメだということなのではないかと思います。そうしていれば、少なくともおそらく南泉は猫を殺さない口実ができたはずだと想像するのです。仏徒たるものは危機に際してまずは体で正しく反応できるようでなければならない、だからこそ南泉は趙州の奇怪な行動を認めたのではないでしょうか。
 この公案には、もっと哲学的な解釈も多々あります。例えば、趙州が普段左右に分けて履く靴を揃えて頭の上に載せたという行為を、「生死というような二元的立場を超越する」と意味にとらえる説もあります。しかし、そもそも禅仏教はそんな哲学臭いことを嫌いますし、公案を何かの比喩として読むことは誤りを生む思いますから、私は泥臭い常識的な解釈が好きです。(もちろん正解はありません)  
 でも、いくら弟子を指導するためとは言え、本当に猫を殺すことが必要だったのか、私はわかりません。とくに、南泉は、死んだら牛に生まれ変わるといい、畜生道こそが道だ、と言っていた人ですから。
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ふるさとの訛り無くせしモボ足穂

2009-03-03 | 文学
先日、アメリカの音楽コンテストの様子をテレビで見ていたときのこと、一人の審査員が、ふと、観客に向かって「Y’all」と言ったので、あれ?と思いました。Y’all (You all) という呼びかけは、アメリカ南部もので、南部以外ではまず使わないと思います。それで、ああ、この人は訛りに気づかなかったけど南部の人なのだな、と思ったのでした。これは、関西人以外の人が「もうかりまっか」と言わないのと同じでしょうか。このことがきっかけになって、私は、稲垣足穂の作品に感じる妙な違和感の理由に思い当たったのでした。稲垣足穂は明石で育ち、日本のショートショートの元祖と考えられる「一千一秒物語」や「少年愛の美学」、「A感覚とV感覚」などの作者として知られていると思います。私も随分前に文庫の「一千一秒物語」を読んで、そこに現れる独特の都会の雰囲気に魅了されました。文章を一行読んだだけで、そこにすでに独特の世界が醸し出される作家というのはそう多くないと思います。私の読んだ中では、足穂と藤原審爾ぐらいではないかと思います。もう20年以上も前、藤原審爾が死んだときの新聞記事の顔写真を未だに何となく覚えているのですが、その写真と、後になって知った「藤真利子の父」というイメージがなかなか結びつきませんでした。しかし藤原審爾の小説を少し読めば、藤真利子の父というのも納得できるのです。それでこの間、急に藤原審爾の作品を読みたくなって、街で一番大きな書店にいってみたのですが、ただの一冊も見つけることはできませんでした。どうも殆どは絶版となってしまっているようです。昭和が遠くなってきた今、残していくべき作家だと思うのですが、そうもいかないのでしょうか。インターネットの世の中ですし、読みたい時にすぐ読めるように出版社が電子化して売るようにはできないだろうかと思いました。
 足穂に話を戻しますと、例えば、「星を売る店」では、神戸の街が小説の舞台となっています。そこには、大正期のガス灯が灯り、路面電車が走り、異人が行き交うエキゾティックで華やかな街の様子が描かれています。今やすっかり廃れてしまった湊川、新開地は、当時は神戸一の歓楽街で、今は無き聚楽館で外国の奇術師がショーをするというような話もでてきます。私がものごころついたころには、すでに聚楽館は駐車場になっていました。多くの舞台劇場は最初は映画館に、そしてパチンコ屋へと変わっていきました。それでも私が子供の頃の新開地近辺はまだ活気がありました。元町の大丸へは母の買い物でよく着いていきましたが、今でも覚えている、帰りの車の中から眺める神戸の山手の景色というのは、足穂の小説の雰囲気とそのまま一致するようです。その都会的で洒落た足穂の小説の舞台になっている神戸なのですが、出てくる登場人物は、なんと、神戸の住人でありながら、関西弁をしゃべらないのです!そのことに私は、先日初めて気がつきました。舞台が山本通でも新開地でも、登場人物は店の店員も含めて、関西弁を使わないどころか、むしろ東京言葉を使っているのです。どうもこれが、違和感の原因であったようです。思うに、当時、足穂は佐藤春夫の下、東京で創作活動をしていたはずで、それで神戸が舞台なのに登場人物が東京言葉という作品になったのかも知れません。もっとも足穂の作品は現実感の少ないファンタジックなものが多いので、山本通のガス灯の下を歩く登場人物が、関西弁をしゃべったのでは、雰囲気ぶちこわしになりそうです。ですので、小説としては、それはそれでよかったのだろうと思います。神戸の言葉はお世辞にも奇麗とは言えません。同じ関西弁といっても、京の女言葉だと雅もあるのでしょうが、大阪や神戸の地元の言葉をよく言ってくれる人は少ないようです。もっとも、神戸の人は、京都には好感を持っていても、大阪は嫌いというのが少なくなくて、同じ関西でも大阪とは一線を引いているような人が多いようです。自分の街をお洒落な街だと思っていたいのでしょう、お洒落な街に「もうかりまっか」ではいかんと思っているのではないでしょうか。足穂は晩年、精力的に過去の作品を校訂したり、書き直したりしたそうですが、当時は京都に住んでいたらしいので、ひょっとしたら関西弁に変更するという計画もあったのかも知れません。思うに、神戸の人はお洒落な街に住んでいると思っていながらもお洒落とは言えない関西弁を使うことに妙に抵抗があるのではないでしょうか。関西弁はその土地の誇りを失い、関西弁を使い続ける人も、関東アクセントに対する僻みみたいなものなしに、屈託なくしゃべるというわけにはいかないようです。「細雪」の時代がうらやましく感じられますね。
 と、書いたところで、本当に「細雪」の時代は良かったのかな?、と思い直しました。足穂のこれらの初期の作品は細雪よりも20年ぐらい前に出版されています。その後の20年で、小説に関西弁を使うことに対する抵抗が少なくなったのでしょうか?あるいは、東京出身の谷崎だからこそ、関西弁の小説を書くことができ、関西出身の足穂だから関西弁を作品に使うことに抵抗があったのでしょうか?
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無事の人

2007-06-14 | 文学
自分の子供をみていると、「うちの子供はよくできているなあ」としばしば思います。人の子供をしげしげ見る機会が余りないので、人の子供がどれほど素晴らしいかよくわかりませんが、きっとその子供の親は私は同じように思っていることでしょう。子供を何かに比較して良い、悪いと判断しているわけではなくて、子供の姿形、一挙一動を眺めていて自然に湧き上がってくる感動なのです。
臨済の説法で、次のような一節があります。
「君たちは、祖師に会いたいと思うか。ほかならぬ君たちという、今わしの目の前でわしの説法を聴いているのがそれだ。、、、毎日のさまざまの働きに、いったい何が足りないか。眼と耳と鼻と口と身と心という六すじの不思議な輝きは、いちどだって止まった事はない。もしこう考えることができるなら、諸君はもう死ぬまで何事もない男(無事の人)である。」
子供を見ているとそういったことを実感します。人の知恵の及ばない神秘が目前にあるのですね。子供は私たち大人よりももっと「何事もない人」に近いと思います。迷うことなく毎日精一杯生きています。この「何事もない人」という表現は、よく掛け軸などにみる「無事是貴人」のことです。何事もない人が即ち仏であるとの謂いです。何事もないというとちょっと誤解を生みそうですが、達磨の無心論の中には、心が無いことを知ることが最高の知恵であるというようなことが書いてあります。無心であることと無事は同意だと思います。そこに引かれている法鼓経の一文には『心を見る事ができぬとわかれば、対象もまたみることはできず、罪も徳も見る事はできぬ。生死も寂滅も見る事ができないし、およそ何ものも見る事はできず、見る事ができないことも見る事はできない』とあります。更に質問者の、その無心というのは木石に心が無いというのとどう異なるのかとの質問に対して、達磨は次のように答えています。「われわれのいう無心は木石と違う。そのわけは、例えば天界の太鼓だ。無心といっても、おのずと霊妙な教法を打ち出して人々を導く、、、無心といっても存在の極相を悟り、真実の知恵を備えて、三種の身が思いのままに働いて止まぬ、、、無心とは真実心である、真実心というものは無心のことだ」もっと平たく言えば、無心の人、無事の人とは、自らの生そのものをそのまま100%肯定しながら(肯定しているという意識すらなく)生きている人のことでしょう。無心とはその「生」に意識の注釈を付け加えることなく、そのままに味わえる心です。子供をみているとそうしたストレートに力強い「生」の不思議に心を打たれずにはおられません。そして、そんな子供と一緒に生活できる幸せを感じずにはいられません。
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究極の幸福

2007-06-10 | 文学
2日前に、半年前に応募した研究費申請が通らなかったことを知りました。8割以上が落とされるので、まず予想の範囲ではあるのですが、やはりちょっとがっかりしました。最近はこういったことに耐性が着いてきているので、落ち込みも一日以上持続することはありませんが、いつまでたっても落ち込んだり、まれに喜んだりを繰り返しているなあと思ったときに、昔読んだ詩の一節を思い出しました。

山のあなたの空遠く
「幸い」住むと人のいう。
ああ、われひとと尋(ト)めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ。
山のあなたになお遠く
「幸い」住むと人のいう。

この有名なカールブッセの詩は、私も上田敏の海潮音を読んで知りました。確かこの詩が一番最初にあったような気がします。読んだのは中学生ころだったような気がしますが、子供心にも幸福とは虹のようなものなのだなあと共感した覚えがあります。今になってみれば、この詩の何が良かったのかピンときません。
以前にも取り上げた蘇東坡の詩、

慮山は烟雨  浙江は潮
未だ到らざれば 千般恨み消せず
到り得帰り来って 別事なし
盧山は烟雨 浙江は潮

に比べてみれば、深みが足りないように思うのです。これらの詩はよく似た構造をもっていますが、前者では、幻の「究極の幸福」を求めたが見つけられなかったので悲しい、という内容なのに対し、後者では「究極の幸福」の正体について述べられています。「別事なし」というのは、「悟りの前は山は山、川は川であったが、悟ってみると山は山ではなく、川は川ではなかった。しかしもう一段上ってみると、山はやはり山であり、川は川であった」ということと同意なのだろうと思います。達磨大師の「無心論」、盤珪禅師の「不生禅」に代表されるように、仏教は昔から、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色、、、」と分別の起こる前を会得すること、幸福と不幸が分かれ起こる前を見よと教えています。そこに気がついて「別事なし」の心でいられることが究極の幸福なのでしょう。(研究費申請、通るもよし、通らざるもよし、、、ということで)

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ダイセツ スズキのゼン

2007-04-25 | 文学
数日前の「剣を長空に揮う」の出典をインターネットで調べていた時、 有名な「 三界無法何處求心 」と言う言葉もこの盤山という人の言葉で 碧巌録 の中におさめられていることを知りました。 この言葉も鈴木大拙の著書の中でとりあげられていたので覚えていたのだと思います。その部分で大拙は、漢字、漢文が中国で発展してきた禅仏教に如何に重要かを説いています。「サンガイムホウと声にして読むだけで、仏法のすべてがつくされる」と書いてあります。確かにこれらの字を見ながら読み下すだけで、何かしら訴えかえる力があるように思います。
鈴木大拙の著書に親しむようになったのは、高校生時代に好きだったSalingerの小説を読んだからでした。私の若いころはSalingerと言えばちょっと生意気な文学少女の愛読書という感じでしたし、男が余り堂々とSalingerが好きとか言えない雰囲気がありましたからこっそり読んでいました。ナインストーリーズを最初に読んで気に入ったのですが、Salingerの小説は基本的にすべての作品が繋がっているので、自動的に他のも読むようになったのだと思います。不思議なことに「ライ麦畑」は、好きだったころに読んだことがなく、随分たってから原書を読んでつまらないと思いました。おそらく今読みかえしたら他の本も随分違ったように感じることでしょう。若者にしか分からない感性というものがあって、だからこそSalingerは若者に強く支持されるのでしょう。Salingerの作品の「フラニーとゾーイ」だったかあるいは、「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」だったかで、登場人物の誰かの長いモノローグの中で「ダイセツ スズキ」の名を知ったのです。私のように仏教関係者ではない普通の人が仏教にしかも禅仏教に関心を持つようになる場合の多くが、ダイセツ スズキの影響ではないかと思います。ダイセツ スズキは、アメリカのみならず世界の若者にゼンを広めた思想的リーダーでした。ゼンや少なからぬ部分の日本の一般人の禅仏教は、ダイセツ スズキによって現代に蘇った新しい仏教の形であったと思います。勿論功罪あるわけですが、若かった私が大拙の著書に容易に扇動されてしまったのは無理ありません。罪の部分については、大拙のゼンの解説は仏教を哲学的な思索の方法と誤解させてしまうことではないかと思います。実践を知らずに頭の中だけの概念として仏教を理解しようとすると誤解につながるでしょう。「説似一物即不中」は中国禅仏教の祖、六祖慧能の弟子であった七祖懐譲の言葉ですが、「口に出したとたんにはずれる」という意味です。禅を文字から理解しようとするとまさにそうなってしまうでしょう。本来仏教は空海が持ち帰った密教の様に多分に功利的な側面がありました。具体的に何かに役に立つものであったわけで、禅にしても表面上は、後生を頼むとか救済とかいうことを一切消し去っていますが、当然それを実践する事で得られる何かがあるわけです。それは頭の中の理解だけでは得られないものでしょう。高校の時、大嫌いだった倫理の先生がいました。生徒の親からの評判も悪く、倫理を教えるのにこれほど不適格な人もいないと思ったものでしたが、その先生が哲学についての最初の授業で言ったことは未だによく覚えています。言ったことはもっともなのですが、だからといって発言者に好意を持てるかというと別問題です。ともあれ、その先生は、「哲学を学ぶということは哲学することを学ぶことである」と言ったのでした。高校生の私は「哲学」の定義をまず教えて欲しかったので煙にまかれたような気がしました。今になって思えば当たり前ではありますが大変重要なことであったことが分かります。仏教や禅についても同じことが言えます。仏教をすること、禅に生きることが何より大事なのです。そう気づいたら「禅問答」の意味がわかってきます。そこに書いてある文字にとらわれてはいけないのですね。それを気づくには多少の経験と試行錯誤が必要だと思います。そういうことをわかっていなかった高校生の私がききなり禅語録などを読んでもおそらく全く理解できずに放り投げていたでしょう。そのいわば解説書として鈴木大拙の本は高校生レベルの頭でも理解するきっかけをつかめるように書いてあったわけです。以来、折りに触れては鈴木大拙の本を開くようになりました。仏教を実践している人にとっては大拙の本は両論あると思います。いってみれば素人のために多少誇張も含めて書かれた本なのです。しかし私のような一般人は十分楽しめます。今、世間で鈴木大拙がどのように受け取られているのか知りません。私が高校の倫理社会の教科書で再会した時、大拙はすでに二十年近くも前にこの世を去った後でした。大拙は著書の中で、禅は若者のものであると断言しています。もう若者でなくなった私はこうして若かった頃を懐かしんでいる部分もありますが、心の中では高校生時代と余り変わっていないと思っていますからまだまだ大拙の本は面白いです。
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剣を長空に揮ふ日

2007-04-20 | 文学
なかなかうまく行きません。うまく行かないのが研究の普段の姿ですから、うまく行かないのは研究が普通に進んでいると解釈すべきなのでしょう。そうわかっていても論文は出さないといけないので、あせりをどうしても感じてしまいます。周囲のことは気にせず、目前のことに集中し一生懸命やるしかないのです。それでも毎日のように小さな期待や希望が潰されて落ち込んでしまうような時、思い出す句があります。鈴木大拙の本のどこかにあって気に入ったのですが、いったい誰がオリジナルなのかは知りません。

剣を長空に揮ふてその及ぶと及ざるを問わず

大拙の本には確かこう書いてあったように思ったのですが、今インターネットで調べてみると、出典は祖堂集十五巻の中にあるようで、そこには、

禅徳、譬えば剣を擲て空に揮うが如く、及ぶと及ばざるとを論ずる莫し。斯れ乃ち空輪の跡無く、釼刃の虧(か)くるに非ず。

とありました。前後をちょっと読んでみると、馬祖の弟子であった盤山と言う人の言葉のようです。最初に大拙の本で知ったときに前後の句が欠けていたので意味を多少勘違いしていたようで、これが原本であるとすると「禅徳あるいは道というものに実体があると思ってはいけない」というような意味であったのだろうと思います。しかし、大拙版のようにこの部分だけを取り出してもっと俗流に解釈した方が、原本の意味以上に味わいがあるような気がします。例え話ではなく実際に剣を揮ってみようという元気がでてきます。揮うことそのものに真実があり、結果のみによって剣が評価されるべきではないというように解釈できます。まあ自分に対する慰めですね。
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雨の日

2007-04-03 | 文学
一転してどんよりした日となりました。夜中から雨が降っていたようです。どこにも出かけなくてよくて家の中でじっとしていていいのなら、雨や雪の日もまた楽しですが、そういう訳にはいきません。雨の日が好きだという人は余りいないと思います。でも、乾いた日々が続けば雨が欲しくなるし、暑い夏の夕立なんかは歓迎でしょう。また逆に陽も照りすぎるのは困ります。南の島に憧れるのは寒い冬が長かったからでしょう。

どんよりした空から降ってくる雨を見ていると、

Sunshine, blue sky, please go away. My girl has found another, and gone away.....
....... I search the skies, well, desperately for rain 'cause rain drops will hide my teardrops and no one will ever know......

というTemptationsの歌の一節を思い出します。雨は暗い気分と響きあうのですね。もう一つ雨で思い出すのは、 蘇東坡の詩、

盧山烟雨浙江潮
未到千般恨不消
到得帰来無別事
盧山烟雨浙江潮

慮山は烟雨  浙江は潮
未だ到らざれば 千般恨み消せず
到り得帰り来って 別事なし
盧山は烟雨 浙江は潮

慮山の烟雨がどんなものか私は知りませんが、東洋的で荘厳な景色なのでしょうね。そのような感動的な景色を感動をもって眺めたことということ が、 日々日常の生活同様に、自然で当たり前のことであるという意味なのでしょう。日々の天候に気分が左右されるような私とっては、小さなことに一喜一憂する生活が自然で当たり前なのだと開き直るしかないようです。
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