STAP騒動からこの半年ちょっとで、死人を出し、組織そのものが瓦解の危機に瀕する、というのは何とも壮絶なことです。不謹慎ながら、サラエボの暗殺事件がきっかけになって、ヨーロッパ全域、中東、アジアにまで広がり2千万人の戦死者を出すに至った第一次世界大戦を思い出します。中村先生の言うように、一つのボタンの掛け違えの処理を誤り、ボヤですんだ火事を山火事にしてしまったと思います。論文として誤りが多過ぎるということがはっきりした段階で、さっさと強引にでも撤回させて、著者を処分して終わりですむところでした。それが、いまや、検証実験などというバカげた意味の無いことに何百万円というカネと労力を費やして、ただでさえ膿んでしまった傷をゴリゴリ拡げるようなことし、結局、体裁が着かなくなって、組織全体を縮小するに至ったということです。いっしょに詰め腹を切らされるであろう(?)無実の理研研究者の人は本当に気の毒ですし、もっと早い段階であれば、逃げ場も用意できたであろうOさんを追い込む結果になっています。
それはともかく、私が興味を持っているのは、この一連の事件によって、個人的な苦痛を受けた人々のことです。とくに、自殺したS氏と、当事者のOさん。自業自得だといえないこともありませんけど、自殺してしてしまったS氏はともかく、Oさんは多分まだまだ長い人生があります。思うにOさん本人は本当に悪いことをやったという自覚さえなく、軽い気持ちで不正に手を染めてしまったのであろうと思います。その結果、自殺者を出し、組織が瓦解する寸前という状況を生んだということになります。いくら、本人の責任とは言え、30そこそこの人にこの現実はいくら何でも重過ぎるでしょう。
「乗り越えられない試練は与えられない」と私は普段から考えているわけですが、その観点から、Oさんに与えられた現実を眺めた場合に、一体、この試練によって神はOさんや関係者の人に何を学ばせようとしているのか、ということについて自分なりにあれこれ考えたりしているわけです。ちょっとしたことで、誰でもOさんのような立場に置かれかねません。全然関係ない喩えですが、ちょっと携帯電話に気を取られた隙に交通事故を起こして、他人や自分に永久的な障害を与えてしまった、などという例は、沢山、見聞きします。昨日のニュースでは、アリゾナで銃の試射をしていた9歳の子供の銃で横にいたインストラクターの男性が死亡したという話もありました。誰も、このような悲劇を起こそうという意図はないのに、悲劇は起こるのです。事故とは言え、人を射殺してしまった9歳の子供というのは、加害者にとっても悲劇です。そういう悲劇に意味があるとしたら何なのか、誰にとってどういう意味があるのか、ということを考えてたりしております。
話かわって、また別の悲しくも腹立たしいニュース。
これが、政府はまず自国民に対して戦争をしかけるという例です。フクシマ事故後の被害者への対応もそうです。国家は権力をもっており、その権力はまずその国民に向けられるのです。力のない地域住民をブルドーザーで踏みつぶすかのように、強引に珊瑚礁の海を埋め立て、ただでさえ戦後七十年もの間、犠牲を強いられた沖縄に更なる苦痛を与えるのです。
これは人ごとではありません。消費税増税にしてもそうです。政府が決めた以上、従わなければなりません。従わないと権力によって押しつぶされます。戦争にしてもそうです。政府が力ずくで国民を徴兵し、戦地に送りだして、殺すのです。
それはともかく、私が興味を持っているのは、この一連の事件によって、個人的な苦痛を受けた人々のことです。とくに、自殺したS氏と、当事者のOさん。自業自得だといえないこともありませんけど、自殺してしてしまったS氏はともかく、Oさんは多分まだまだ長い人生があります。思うにOさん本人は本当に悪いことをやったという自覚さえなく、軽い気持ちで不正に手を染めてしまったのであろうと思います。その結果、自殺者を出し、組織が瓦解する寸前という状況を生んだということになります。いくら、本人の責任とは言え、30そこそこの人にこの現実はいくら何でも重過ぎるでしょう。
「乗り越えられない試練は与えられない」と私は普段から考えているわけですが、その観点から、Oさんに与えられた現実を眺めた場合に、一体、この試練によって神はOさんや関係者の人に何を学ばせようとしているのか、ということについて自分なりにあれこれ考えたりしているわけです。ちょっとしたことで、誰でもOさんのような立場に置かれかねません。全然関係ない喩えですが、ちょっと携帯電話に気を取られた隙に交通事故を起こして、他人や自分に永久的な障害を与えてしまった、などという例は、沢山、見聞きします。昨日のニュースでは、アリゾナで銃の試射をしていた9歳の子供の銃で横にいたインストラクターの男性が死亡したという話もありました。誰も、このような悲劇を起こそうという意図はないのに、悲劇は起こるのです。事故とは言え、人を射殺してしまった9歳の子供というのは、加害者にとっても悲劇です。そういう悲劇に意味があるとしたら何なのか、誰にとってどういう意味があるのか、ということを考えてたりしております。
話かわって、また別の悲しくも腹立たしいニュース。
辺野古の岩礁破砕許可、埋め立てへ環境整う
2014.8.28 19:26
沖縄県は28日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に向け、沖縄防衛局が提出した辺野古沿岸部の岩礁破砕申請を許可した。防衛局が辺野古沿岸部の埋め立て工事に着手する法的環境が整った。海底の岩石の掘削や土砂の採取、護岸の設置など本格的な工事が可能になる。
2014.8.28 19:26
沖縄県は28日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に向け、沖縄防衛局が提出した辺野古沿岸部の岩礁破砕申請を許可した。防衛局が辺野古沿岸部の埋め立て工事に着手する法的環境が整った。海底の岩石の掘削や土砂の採取、護岸の設置など本格的な工事が可能になる。
これが、政府はまず自国民に対して戦争をしかけるという例です。フクシマ事故後の被害者への対応もそうです。国家は権力をもっており、その権力はまずその国民に向けられるのです。力のない地域住民をブルドーザーで踏みつぶすかのように、強引に珊瑚礁の海を埋め立て、ただでさえ戦後七十年もの間、犠牲を強いられた沖縄に更なる苦痛を与えるのです。
これは人ごとではありません。消費税増税にしてもそうです。政府が決めた以上、従わなければなりません。従わないと権力によって押しつぶされます。戦争にしてもそうです。政府が力ずくで国民を徴兵し、戦地に送りだして、殺すのです。