百醜千拙草

何とかやっています

悲劇の意味

2014-08-29 | Weblog
STAP騒動からこの半年ちょっとで、死人を出し、組織そのものが瓦解の危機に瀕する、というのは何とも壮絶なことです。不謹慎ながら、サラエボの暗殺事件がきっかけになって、ヨーロッパ全域、中東、アジアにまで広がり2千万人の戦死者を出すに至った第一次世界大戦を思い出します。中村先生の言うように、一つのボタンの掛け違えの処理を誤り、ボヤですんだ火事を山火事にしてしまったと思います。論文として誤りが多過ぎるということがはっきりした段階で、さっさと強引にでも撤回させて、著者を処分して終わりですむところでした。それが、いまや、検証実験などというバカげた意味の無いことに何百万円というカネと労力を費やして、ただでさえ膿んでしまった傷をゴリゴリ拡げるようなことし、結局、体裁が着かなくなって、組織全体を縮小するに至ったということです。いっしょに詰め腹を切らされるであろう(?)無実の理研研究者の人は本当に気の毒ですし、もっと早い段階であれば、逃げ場も用意できたであろうOさんを追い込む結果になっています。

それはともかく、私が興味を持っているのは、この一連の事件によって、個人的な苦痛を受けた人々のことです。とくに、自殺したS氏と、当事者のOさん。自業自得だといえないこともありませんけど、自殺してしてしまったS氏はともかく、Oさんは多分まだまだ長い人生があります。思うにOさん本人は本当に悪いことをやったという自覚さえなく、軽い気持ちで不正に手を染めてしまったのであろうと思います。その結果、自殺者を出し、組織が瓦解する寸前という状況を生んだということになります。いくら、本人の責任とは言え、30そこそこの人にこの現実はいくら何でも重過ぎるでしょう。

「乗り越えられない試練は与えられない」と私は普段から考えているわけですが、その観点から、Oさんに与えられた現実を眺めた場合に、一体、この試練によって神はOさんや関係者の人に何を学ばせようとしているのか、ということについて自分なりにあれこれ考えたりしているわけです。ちょっとしたことで、誰でもOさんのような立場に置かれかねません。全然関係ない喩えですが、ちょっと携帯電話に気を取られた隙に交通事故を起こして、他人や自分に永久的な障害を与えてしまった、などという例は、沢山、見聞きします。昨日のニュースでは、アリゾナで銃の試射をしていた9歳の子供の銃で横にいたインストラクターの男性が死亡したという話もありました。誰も、このような悲劇を起こそうという意図はないのに、悲劇は起こるのです。事故とは言え、人を射殺してしまった9歳の子供というのは、加害者にとっても悲劇です。そういう悲劇に意味があるとしたら何なのか、誰にとってどういう意味があるのか、ということを考えてたりしております。

話かわって、また別の悲しくも腹立たしいニュース。

辺野古の岩礁破砕許可、埋め立てへ環境整う
2014.8.28 19:26
 沖縄県は28日、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古移設に向け、沖縄防衛局が提出した辺野古沿岸部の岩礁破砕申請を許可した。防衛局が辺野古沿岸部の埋め立て工事に着手する法的環境が整った。海底の岩石の掘削や土砂の採取、護岸の設置など本格的な工事が可能になる。


これが、政府はまず自国民に対して戦争をしかけるという例です。フクシマ事故後の被害者への対応もそうです。国家は権力をもっており、その権力はまずその国民に向けられるのです。力のない地域住民をブルドーザーで踏みつぶすかのように、強引に珊瑚礁の海を埋め立て、ただでさえ戦後七十年もの間、犠牲を強いられた沖縄に更なる苦痛を与えるのです。
これは人ごとではありません。消費税増税にしてもそうです。政府が決めた以上、従わなければなりません。従わないと権力によって押しつぶされます。戦争にしてもそうです。政府が力ずくで国民を徴兵し、戦地に送りだして、殺すのです。
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旅立ちの前後

2014-08-26 | Weblog
岩下おじさんのブログで、スイス、チューリッヒへの旅行者が増えているというという話を知りました。昔、「天国に一番近い島」というフレーズが流行りましたが、さしづめ、チューリッヒは天国に一番近い街、ということでしょうか。

誰でも苦しいのはイヤです。苦しんで死ぬことにも意味がある、というフロイトのような人もいますが、苦しいのが好きな人は少数派でしょう。回復の見込みのない末期の病気なら、最後は苦しまずに死んでいきたいという気持ちはよく分かります。そういうニーズは少なからずあり、それに答えるサービスがスイスにしかないのであれば、困った人はスイスへ行くでしょう。

スイスでも、医師の補助による安楽死の問題は議論になっているようですが、結局、住民の7割は安楽死に賛成だということらしいです。下種な勘ぐりですが、この安楽死を求めてやってくる旅行者たちの落とすカネが街を多少は潤しているのでしょう。そうい損得のレベルで賛成している人も少なくないだろうと想像します。しかし、"Suicide Tourism"という言葉はいただけませんね。地獄の沙汰もカネしだい、ちゅー感じがします。

私もそのうち死ぬのは頭ではわかっているのですが、そこに至るまでのプロセスがいまいち、具体的に想像できません。私はできたら一人で誰にも看取られずに自然の側で死んで行きたい、と思っておりますが、実際問題として難しいでしょう。心臓病とかでポックリいけばラクかも知れませんが、だんだんと衰弱して体の自由がきかなくなって死ぬというのもかなりありがちで、辛そうです。

また、死んだあとのこともつい気になるのです。無人島のジャングルでヒョイと死んだりしない限り、誰かが自分の死体を片付けてくれる必要があります。死んでしまえばどうでもよいような話ではありますが、発った後のことをつい心配してしまうのが日本人というものです。

それで、耳にしたのが、最近、献体希望者が増えているという話。人体の解剖実習は医学教育の大切な一環で、医学生のイニシエーション的な意味もあると思います。こういう経験を通じて学生は将来の医師、医学教育者、研究者としての自覚をも育んでいくのであろうと思います。遺体を提供する側は、多くはそうした医学教育に貢献したいという尊い気持ちからの行いだろうと思いますが、近年の献体希望者の増加というのには別の動機も混じっているようです。別に家族もいないし死ぬことに抵抗はないが、死んだ後の処理が心配だ、というような人々が献体を志願するのだそうです。死ぬと、死体を引き取ってくれて、解剖が終わったあとは、火葬してくれて、法要もやってくれる、人に迷惑かけるどころか医学教育にも貢献できる、といいことずくめだということだそうです。私も、なるほど、と思いました。そのうち献体登録しておきたいと思います。臓器ドナーでも問題ないようです。ただ、死体の引き取りを拒否されることもあるというのが多少心配です。死んだときに実習に使えるような良質の死体になれるよう普段から気をつけておこうと思います。
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失うものは何も無い

2014-08-22 | Weblog
前回の続きみたいなものですが。
グラント書いていて、鬱になりそうです。期待していたデータもちょっとインパクトに欠けるし、共同研究者の人とは連絡とれないし、後、実質一ヶ月ちょっとしかないのに、確かな手応えの感覚がまだなく、ふわふわしています。しかたがないので、とにかくゴリゴリやってみて、その間にしっかりした形が見えてくるだろうと言い聞かせながらやっています。

やっぱり、グラントを書くというのは、いくらデータに基づいているとは言っても、半分はフィクションですから、現実の手触りに欠けます。グラントで展開する話にうまく現実の力強さを盛り込めるとゴジラの特撮のような臨場感がでるのでしょうが、これはデータ次第です。ま、できるだけのことをやるしかありません。
一休和尚の究極のアドバイス、「なんとかなる」を唱えながら、やってます。

私は、昔から傷つきやすい上に、物事をペシミスティックに見る傾向が強く、「パンを落とすとバターの付いた方が必ず下になって床に落ちる」タイプの人間でした。しかし、長年、そういう経験や思考指向性を通じて、多少の図太さと楽観性を獲得してきました。最近になって実感をともなって理解できるようになりましたが、誰でも「そのうち死ねる」という事実は私にとってその楽観性のもっとも強い基本です。「誰でもそのうち死ぬ」ことを実感することは「生きてるだけで幸運だ」、「死ぬこと以外は軽症だ(ロッキー青木)」と考えるのと、本質的に同じだと思います。

いずれにしても、あと数十年もすれば、友人、先輩の少なからずがこの世を去り、自分もあっちにいってしまいます。残された時間はわずかです。そう思うと、くだらないことにかかわっている時間は、私にも世の中の誰にもないのです。もうこれからは、人間としてもっとも大切なことに集中しないと、死ぬ間際に後悔するかも知れません。そして、私には、一度きりしかない人生で最も大切なことが、人類同胞を利用したり、盗んだり、殺したり、破壊したりして、カネもうけしたり名誉や地位を手に入れるというようなことであるはずがない、と確信しておるわけです。戦争は絶対悪であり、どんな大義もそれを正当化しません。

「キレイごとを言うな、自分の身や国を自分で守るのは当然だ」という意見もありますね。そういう意見の方が多いでしょう。最近の中村先生の論調を見ても思います。私も日本人は平和ボケしているとは思いますけど、最近はそれでもよいのではないかなと思います。(皮肉な言い方ですが、そもそも外国との戦争になる前に、だいたいまず政府は自分の国民に対して戦争を始めるのです。戦争は防衛という建前で、自国民も含めた他人の命と財産を賭けて、やるビジネスにしかすぎません。どの国も「戦争する」と言い出したものがまず最前線に行くというルールを作れば、戦争は確実になくなるでしょう)

それはともかく、そもそも、そうまでして本当に守るものなどありますか?盗まれまい、殺されまい、と戦々恐々として、人をみれば泥棒と思い、他人の親切は信用せず、自己責任で自分一人で死んで行く、それで満足な人生でしょうか。裏切られて、たとえ殺されても、いきている間はお互いの善意を信用して生活する方が余程、毎日は楽しいと思います。それで人の良さにつけこんで悪人がやってきて盗み、殺されることになるかも知れませんけど、それがそんなに大変なことでしょうか?そのような「恐れ」に支配されて、毎日の幸せを犠牲にして、盗まれまい、殺されまい、と気を抜く事なく、他人の悪意に気を配って生きて、多少の財産なり命なりを守ったところで何なのでしょう、どうせ誰でもそのうち死んで裸であの世にいく事になるのに、と思います。

スリランカ仏教では、たとえ殺されても、怒ってはいけないと教えるそうです。怒ることは恐れに支配されていることであり、それはすでに自分で自分を殺しているようなものだということなのでしょう。
 聖書の「汝、復讐するなかれ、復讐は神の怒りに任せよ。復讐するは神の仕事である」というローマ人の手紙の句は私の好きな一節です。怒り、恨みは「恐れ」から来ています。何かを失うことに対する恐れです。でも人間には失うものなど最初から大して何もないのです。裸で生まれて、裸で死んで行くだけのことです。それどころか、恐れた瞬間、怒った瞬間に、われわれは既に、自分の人生の幸福を失うのです。 (追記、神の怒り、"wrath"は、われわれが恐れの感情をもと反応的に怒るようなものとは異なる上から下す絶対的な怒りであると解釈しておきます)
「恐れ」に支配されず、愛と善意に注意を向けて、残りの限られた日々を生きたいものです。(と、自分に言い聞かせております)
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人生は実験

2014-08-19 | Weblog
先週は、女性で初のフィールズ賞授賞が話題になりました。女性にとっては女性がフィールズ賞を授賞することはうれしいことのようです。アカデミアやビジネスでかつても今も女性の地位が男性よりも不当に低いという話はよく聞きます(が、私の周辺では別に感じません)。そのような世界で生きて行きたいと思う女性がいるのですから、男女平等であるべきだと私も思います。かつて、アメリカ政府はウーマンリブを密かに後押しした、という話を聞きました。女性が家から出て仕事を持てば、政府の税収が上がるからという理由だそうです。本当かどうか知りませんけど、現在、世の中で社会や仕事の機会は男女平等であるべきだというルールがある以上、男女が同様の機会を享受できて、同様の成果を出していくことが当然の世の中になるべきでしょう。しかるに、女性がフィールズ賞を授賞するということが喜ばしいニュースになるということは、裏返せば、まだまだ男女の不平等があるということでしょう。それが機会の不平等なのか、偏見なのか、あるいは生物学的な差によるのか、本当のところはわかりません。そのうち、女性が授賞しようと男性が授賞しようと、性差や人種のことが話題にならないような時代になってもらいたいものです。私は"Affirmative action" と呼ばれる人種や性に関する優遇措置が、どうも理解できません。おそらく、教育や雇用機会が一般に低いと考えられている特定の人種や性に属する人を優遇することにより、「同化」をすすめて、性、人種間のコンフリクトを減らそうという政治的意図に従ったものでしょうけど、ま、一種の差別です。アメリカの一流大学ではアジア人の入学を制限しているという話も聞きました。(一般にアジア人が優秀なので、学力だけで審査すると学生がアジア人だらけになるからだそうです。もちろんこれはステレオタイプだし、おそらく同様の理由でユダヤ系学生への差別もあるのでしょう)

さて賞とは無縁の私の日常、再び、グラント書きに苦しんでおります。例によって、ここ一月弱、最初のページにかかり切りになっていました。ある日、ひらめいて書けたと思ったら、翌日読み返してボツにするということを延々と繰り返して、ようやく何とか形が見えてきました。最初のページが出来さえすれば、残りは推敲を含めて一ヶ月で何とかなるのではないかと考えていますが、この間に学会があり、論文投稿原稿と実験があるので余り余裕はありません。加えて、もう一つ重要なデータがまだでていません。そのデータが正否のカギを握るような気がします。それにしても、自分で選んだ仕事とはいうものの、今年は何かと忙しく、仕事以外の面でもいろいろあり、体力と記憶力は衰え、精神的にも肉体的にもつらい年です。これも修行のうち、あと長くても二十年ぐらいだろう、それぐらいは辛抱しようと言い聞かせて毎日、勤めております。

これまで、「人生は修行」と思って辛い事も乗り越えようとしてきた訳ですが、そう考えても辛いものは辛いのです。最近、もっと良い比喩を見つけました。「人生は実験」です。これはいいです。実験だからうまく行くこともあるし、失敗することもあります。とにかくいろいろ考えて実験してみて、その結果を見て、次の仮説を立てて実験を繰り返す。これ以上に適切な人生の比喩はないと感じました。仮説のもとに正しく組み立てられた実験であれば、何らかの結論が得られます。失敗しても何かを学べます。失敗は予備実験の条件検討だと思えば良いのです。「実験」と考えるだけで、何となく自分の人生、第三者の目から眺めることができるような気がします。冷静に論理的に見れるようになるように思います。そうなれば、「人ごと」ですから、感情の問題が薄まります。辛いこともあまり辛いような気がしないような感じがします。
 理研のS氏もロビン ウィリアムスも、人生は実験だから、だめだったらまたやり直すなり、別の実験に切り替えればいいや、ぐらいの軽い気持ちでいるわけにはいかなかったのでしょうか。その実験に文字通り命をかけてしまったのですね。そこまで追い込まれる前に、一歩下がって、実験は問いに対する解答を見つけ出すという目的のための単なる手段にしか過ぎないと考えて、手段と目的を切り離してみることはできなかったのだろうか、と思ってしまいます。
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ヘリクツとデタラメに憤る(2)

2014-08-15 | Weblog
反吐が出そうになる官僚のキャッチコピー、最近は、「積極的平和主義」だそうです。
あのxxに問題のある操り人形に、キャッチコピーを考えるだけの能力はないでしょうから、考えて教え込んでいるのは官僚でしょう。その怪しげなキャッチコピーに何となく騙される人間がいるから、官僚も国民をバカにするのでしょう。

「アベノミクス」というのもありました。レーガノミクスをそのままパクって、なんとなく景気がよくなるような雰囲気を醸し出すためにどこかのコピーライターが5秒でひねり出したのでしょう。中身は、ただの金融緩和、もっと平たくい言えば、ジャブジャブと円を刷って、国民の財産を目減りさせ、円安にして物価を上昇させ、財政出動という名の公共事業などの政府のムダづかいにそのカネを回して役人と利権業者で山分けするだけの、国民の実質経済を一方的に悪化させるだけのものでした。

その前には、「税と福祉の一体改革」というあたかも福祉のための増税というイメージを振りまいたコピーがありました。「福祉の改革」って何をしたのですかね。先にやったのは消費税増税。しかも増税分は福祉以外のところの補填に使われる。改革とは名ばかりで、その実、貧乏人からもカネを巻き上げるための、「増税」のためのスピンにしか過ぎませんでした。

この二つの悪政策が相まって、物価は上昇し、消費税でますます使える実質金額は減り、不景気が目に見えてきました。こうなることは火を見るより明らかでしたが、xxの弱い操り人形、傀儡師の振り付けのままに、その厚顔と無神経さで押し通し、結果、舌足らずの口上とは全く逆に、「三本の矢」はわずか数ヶ月で全て逆効果となって、国民生活の急所を射てしまったのでした。

首相官邸のウェッブサイトには、『「どれだけ真面目に働いても暮らしがよくならない」という日本経済の課題を克服するため、安倍政権は、「デフレからの脱却」と「富の拡大」を目指しています。これらを実現する経済政策が、アベノミクス「3本の矢」です。』などと、悪ふざけもいい加減にしろというような冗談がシャーシャーと書いてあります。「暮らしがよくならない」ことを、いきなり「日本経済の課題」と論点をすりかえて、あたかも「日本経済」をよくすれば、「暮らしがよくなる」かのような印象操作をしています。日本経済とは何のことか、株価が上がったり、GDPが上がったり、そんな実質経済と必ずしもリンクしていない指標のことを言っているのでしょうか。あるいはもっと端的に日本経済を良くするとは、社員を低賃金重労働の使い捨てにして、大企業を単に黒字にしたいという支配者側の本音のことを言っているのですかね。

デフレから脱却して富を拡大することと「暮らしが良くなる」こととの間には、風が吹くのと桶屋の儲けぐらいの因果関係しかないと思います。円を大量に印刷して価値を下げれば、輸入品の値段が上がって、ものの値段はあがってインフレにはなるかも知れません。それで経済活動が活発化するとは思えません。むしろ逆です。そもそもデフレが悪くて軽いインフレがよいというのは、モノが売れて経済活動が活発になっている指標として物価を見ているからでしょう。デフレはモノが売れなくて不景気になったことに対する結果であり、原因ではなく、むしろ防御反応です。それを無理にインフレにして、そのために却って、消費活動が低下するのであれば、これはスタグフレーションで、踏んだり蹴ったり、最悪の状態です。経済活動が低迷したままなのであれば、一般国民にとっては、デフレの方がよっぽどマシです。こんな状態では、企業はとても拡大投資はできません、雇用は上がらず、給料も増えません。モノの値段と消費税だけが上がります。暮らしはますます悪くなります。「富の拡大」も、「国民の富」とは一言も書いてありません。国民の資産を政府が財政出動などと通じて間接的に転移していくことにより、一般国民の富の減少の一方で、官僚と一部の利権企業の富が拡大する、そういう一部の人間の富のことを言っているのでしょう。

それで、今度は、「積極的平和主義」と来ました。「平和のためには戦争もやむを得ない」、いや、「平和のためなら積極的に戦争してこれから戦争しそうな奴を殲滅すべきだ」、「戦争こそが平和実現のための手段だ」、「ま、平和のことはとりあえず置いておいて、とにかく戦争しよう」そういう流れでいきたい、ちゅー事ですね。もう、あまりにあからさま過ぎて、冗談にしても笑えません。この矛盾は「健康のためなら死んでもいい」健康オタクと変りませんが、連中は戦争をしたいがために意図的に国民を騙そうとしているところが悪質です。コピーライター、本来なら、ブッシュ ドクトリンをもじって、アベドクトリンとでも言おうとしたのかも知れません。そすがにそれでは余りに悪ふざけだと思ったのでしょう、結局、「積極的平和主義」。それでも、お茶を鼻から吹き出してしまうほど、十分、ふざけてます。こういうふざけたなキャッチコピーを考える小賢しい官僚どもは、廊下に正座させて、スリッパのウラでその頭を片っ端から殴ってやりたい気分になりますね。

そしてその一方で、辺野古移設へブイ設置秒読み 反対派と海保にらみ合い、という悲しくも腹立たしいニュース。こうして、戦後日本は、カネのために国土を切り売りし、アメリカに貢ぎ、弱者を踏みつぶしてきたのです。沖縄の人々の悔しさは想像するにあまりあります。この奇麗な海を埋め立てて、騒音をまき散らし人を殺し環境を破壊するための飛行場をつくるのです。沖縄の人々や自然のことなど何とも思わない、米軍にいつまでも日本を占領してもらいたい軍事利権官僚、政治家の自己中心的な欲望ゆえのことです。


もう一つ、原発の汚染水問題や使用済み核燃料の取り出しなど、どうなっているのか、最近、ニュースが殆ど入ってこないと原発事故関係ですが、地下水流入を防ぐ目的で、以前から専門家から無理があると指摘されてきた凍土法による地下水流入ブロックについて、結局、『福島第1、凍らない「氷の壁」断念か - 産経』という内容を各社が報道。挙げ句に、「東京電力<9501.T>は11日、福島第1原発の建屋周辺の汚染地下水を井戸でくみ上げて、放射性物質の濃度を一定以下に薄めて原発前面の港湾内に排水する計画を公表した ー ロイター」そうです。薄めるというのは放射性物質除去処理をしてから、という話ですけど、その除去装置というのは例のどうせマトモに動かない装置でしょうから、結局は、これまでコッソリやってきた垂れ流しを今後は堂々とすると宣言したようなものです。汚染水タンクの話は最近は聞きませんが、おそらく、タンクは満杯でその水はどうすることもできず、かつタンクそのものの劣化が始まってきますから、まもなく、これもおおっぴらに垂れ流されることになるのでしょう。
フクシマ原発事故は、もう手のつけようがなく、自然に収束するのを待つしかなさそうだということは、普通に考えればわかっていたことでした。政府と東電が、ごまかし、責任を避け続けてている間に、二次的な被害がひどくなって、状況はますます悪くなっていっているようです。
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プーチン怒りの鉄拳、PhDの価値

2014-08-12 | Weblog
先週の話ですが、ロシアが逆制裁を発表したという話。
ウクライナ情勢、加えてマレーシア機撃墜に際しての、アメリカの傲慢で一方的なロシア非難に対して、プーチンがついに怒ったということでしょうか。
ロシアはEU、アメリカからの食料輸入を一部禁止、今後、ヨーロッパとアジアを結んでロシア上空を飛ぶ飛行機の領空通過を見直す可能性があると表明したそうです。
アメリカ、バカですね。ロシアに制裁返しをされて困るのはEUでしょう。天然ガスなどのエネルギーはかなりの部分をロシアに頼っているはずですから。これから冬になって、ロシアがEUへの天然ガス供給を止めるとでも言えば、ヨーロッパはパニックになるのではないでしょうか。アジア-ヨーロッパ航空が影響を受けるとなれば、この経済的損失はバカになりません。
一方で、NATO側は、ロシアがウクライナ東部の人道支援を口実にウクライナ侵攻をする準備をしているのだ、と批判。どうでしょうか。軍事的要所と考えられるクリミア半島はすでに実質ロシアの支配下にあります。これ以上、ウクライナ(西側)に介入してロシアは何かいいことがあるのでしょうか?ウクライナはこれまでロシアからの天然ガスなどの支援を受けており、ロシアに多大な借金があります。加えてソ連時代からの負の遺産、チェルノブイリもあり、ロシアが進攻して(仮にウクライナを併合した)ところで、マイナスしかないような気がするのですが。一方、EUにとってはウクライナが西側に入ることに多少のメリットはあるかも知れません。
いずれにせよ、こうした政治ゲームのしわ寄せを喰うのはいつも、一般の人々です。
現在のところ、ロシアは比較的低姿勢で冷静に対応している様子に見えます。一方、アメリカ、とにかく戦争したい戦争ビジネスマンが口を出すのでしょうが、完全に悪人になれない(ように見える)オバマは、さすがにロシア相手に本気でケンカするわけにはいかず腰が引けてますから、おそらく、お互い、口喧嘩でグダグダやっている間に問題は自然消滅、それを狙っているのかも知れません。かわりにイラクのイスラム過激派に対して軍事行動、この辺が妥協点なのでしょうな。イラク人にとってはいい迷惑でしょう。

話かわって、日本のポスドク問題についての昨日の柳田先生のブログ。日本人が外国で通用するように教育して海外で活躍してもらおう、というご意見のようです。具体的にどの国の話を考えておられるのでしょうか。現在、日本やEUの約4倍、世界最高額の研究費を使っているアメリカでのアカデミアのグラント採択率は10%強という厳しい現状です。また生物系PhDのアカデミア以外の道としての製薬大手企業はどんどん研究開発部門を閉鎖縮小していって、多くをバイオテクベンチャーなどにアウトソースしているような状態です。かなり優秀なアメリカ人ポスドクでも職を探すのに苦労しています。そこへ世界中から研究者が文字通り、生き残りをかけて集まって来ています。他の国でも大同小異でしょう。潤沢に研究にカネを回せる国や企業はどこにもないと思います。つまり、需要に対して供給過多になっている買い手市場ということだと思います。そこへPhDを輸出するのであれば、そのPhDは、昔の日本車のように他の車に比べて、十分に「安く」、パフォーマンスがよくなければ売れないでしょう。そういう市場というのは主にはポスドク市場だと言えるでしょう。そこから上に行くには「価格」は余り関係なく、能力勝負です。すでに供給過多となっている英語環境の市場で、アメリカ人研究者や他の国からのハングリーな研究者と張り合って彼らに勝つ必要があります。思うに、そのレベルの人なら日本国内にでもどこか職はあるのではないでしょうか。

日本がPhD取得者達のの海外への大きな輸出国になることを夢見ています。上の二点を何とかすれば世界最大の輸出国になるのもあながち夢ではないです。スイスなどは完全にそうなのですが、あまり知られていないですね。日本人は、人柄的に尊大でもなくエリート的でもなくずるくもないし、世界から愛される博士研究者達の輩出国なるでしょう。

柳田先生は、スイスをその例に上げていますが、これまでを見ると中国がそうなのではなかったのではないでしょうか。アメリカやヨーロッパの中国人研究者はかなりの数に登るでしょう。彼らの多くが中国国内にポジションがないので国外にチャンスを求めた人々だと思います。今、中国での経済の発展に伴う研究職の増加で起こっていることは、海外で活躍していた中国人研究者の母国へのUターンです。結局、研究もカネ次第ですから、カネのあるところに向かって研究者は流れます。日本でもやっていける人は多分、海外でもやっていけるし、その逆も真であろうと思います。どこに行っても競争は激しく、客観的な数字だけでいうと、博士取得者で研究者として将来的にメシを喰っていける人の割合はそう高くないだろうと思わざるを得ません。日本国内で難しいから外国ならチャンスがあるというのは、かつてはそうであったかも知れません。しかし、世界的に経済危機となって、研究というリスクの多い投資活動(と政府や製薬会社は考えているでしょう)が制限されつつある今日、世界中、どこに行っても研究者でメシを喰うのは一様に苦しいと思います。

私、もっとも健全な態度は、「医学博士」の場合と同様、PhDは「足のウラの米粒」で、取っても取らなくても大差はない(が、取らないと気持ち悪い)という程度のものである、つまり、研究は趣味の活動と見なすことではないかと思います。「博士」はアカデミアのキャリアを目指す人には必要なものですが、もはや、ただそれだけの実用的意味のない形式的なものに過ぎません。(私もエラそうに言えませんけど、早稲田大学の例を見れば、博士号など、自動車教習所で運転免許を取るのと同じで、授業料さえ収めれば誰でも取れるようですから)最初から「博士」などには大した価値などないと思っておく方が精神衛生によいのではないでしょうか。
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死は終わりでも解決でもないと思う

2014-08-08 | Weblog
死は人の終わりではなく、連続する生の区切りのイベントの一つに過ぎないと私は思っているのですけど、日本では死は忌むもので、死んだばかりの人について、あれこれ言うのは不謹慎というように考える人も多いでしょうから、どうも、自殺の話は話題にしにくいですね。

先日、理研エリート研究者、S氏の自殺というショッキングなニュースがありました。自身の医学研究キャリアの始まりであった神戸中央市民病院に運び込まれて死亡が確認されたとのこと。何とも痛ましいことです。

私は直接知りませんが、一緒に研修をした知り合いの人は、自信にあふれた秀才だったと言っていましたから、少なくとも仕事上では順調に成功を積み重ねた人だったのでしょう。ところが、IPSの大発見で再生医療研究での日本の第一人者という立ち位置が揺らぎはじめ、そして一発大逆転だったはずのSTAPで大チョンボをやってしまい、その後のメディアによる過度のいじめが追い打ちをかけた、ということだと想像しますが、悲しいことです。

下種な言い方をすれば、S氏はSTAPの言わば興行主、大花火を打ち上げるはずが、ガセネタをつかまされ、しかもそれを見抜けずに、大スキャンダルに発展してしまったのですから、落込むのもわからないではありません。加えて、おそらく責任感の強い方だったのでしょう。それで追いつめられたのでしょう。水に落ちた犬を叩きまくる日本のマスコミ、過ちを許さない日本人の偏狭さがこの人を追いつめたのは間違いないでしょう。当初、割烹着パフォーマンスなどでマスコミを利用したのが、最後には売るためにはヤラセでも偏向報道でも何でもアリのマスコミに逆に追いつめられる結果となりました。私も普段からマスコミは日本の害毒の最たるものだと思っておりますが、この件に関しては、(同じくマスコミの餌食にされそうになった研究者として)中村先生のコメントに強く同意します。知らない間にシカゴに移っておられたのですね。ご本人は自分のことを「雑草」と言っておられますが、中村先生が雑草なら、われわれ凡人研究者は何なのでしょう?カビ?ぐらいでしょうか?その辺、へりくだる時には、もっと下々の人間のことを考えて比喩表現を工夫してもらいたいと思います。

一方、Knoepflerブログに寄せられたコメントを読むと、悲劇であるとの一致した意見の一方で、自殺することによって問題解決を図る日本の伝統的風習に対して批判的コメントもありました。確かに、死んだところで自殺者自身の問題しか解決されませんから、むしろ自殺するというのは無責任な行為だと考えるのは論理的です。日本では「死んでお詫びする」伝統があり、逆に言えば「死ねば許される」というような感じがありますが、(この件に関しては、多分S氏は「死んでお詫び」というのではなく、精神的に追いつめられしまった結果の行動であろうとおもいますけれども)私、これは捨て去るべきメンタリティーと思います。政府閣僚などでも、失敗の責任を取って辞める、という選択があるのが、昔から私は違和感を感じます。責任を取るとは、問題の尻拭いをして最善を尽くすことだろうと私は思うのですが、逆に、辞任して、自分が作った問題を他人に丸投げして逃げることのがどうして責任をとることになるのか、大変不思議です。

遺書には「STAPを再現して下さい」との言葉があったそうですが、この真意は何なのでしょうか。理性ではSTAPはウソだと考えてはいても心情的には存在していて欲しいという矛盾した願望のあらわれなのでしょうか。死の間際に当てつけとも思えませんし。いずれにしても、本来ならばSTAPの検証実験が始まっている以上、その帰趨を見守るのが本来の責任でしょうが、S氏は本当に追いつめられてしまっていたのでしょう。死ぬ間際のこの言葉は、残されたOさんに宛てられたものと読み取れます。Oさんにとってみれば、これはもう呪いの言葉ですね。
思うに、理研ももうこれで、STAP検証実験などというバカげたことはやめて、Oさんを解雇して幕引きした方がいいでしょう。そうでなければ、更なる自殺者が出かねません。「メディア殺人」という言葉があるように、たとえ本人が自殺を選んだとしても、そこまで追い込んだのはメディアだろうと思います。彼らほど反省という言葉の意味を知らない無責任な連中はいません。彼らには何を言っても無駄でしょう。自覚がないのですから。

自殺は心の病です。病気だったのですから、何を言っても難しいのですけど、今、死ななくてもそのうち死ぬのだから、辛くてもとにかくダラダラと生きていれば良かったのに、とやっぱり思ってしまいます。人生、研究の世界が全てではないし、世の中は広いのですから、イヤになったらスッパリやめて別のことをやるとかすればよかったのではないか、秀才なのだから、視野狭窄に陥って恐怖に捕われて自殺にまで追いつめられてしまう前に、何か自分自身を救う方法を見つけることはできなかったのか、と思います。

研究者を長年やっていると、研究に限らず、世の中のものの殆どはマヤカシであることに気がつきます。再生医療研究の第一人者であれ、ノーベル賞受賞者であれ、学会長であれ、総理大臣であれ、そのような肩書きや地位はただのクソです。実体のないものです。カネもそうです。そんなものにこだわるのはバカらしいことです。普通の人ならそう思えるのに、優秀な人ほどそうしたワクや世間の評判に捕われてしまうのは不思議なものです。そうして固定した対象に向かってマスコミは集団リンチを加えるのです。日本偏向報道協会(NHK)やアホ日やゴミ売りのようなマスコミもただのクソだとわかっていたら多少は違っていたのでしょうか。わかりません。たとえクソでもクソにボロクソに言われ続けるとそれなりにダメージはありますからね。(汚い言葉ですいません)
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必ず終わる

2014-08-05 | Weblog
この一月足らずで、ガザでの死者は1800名を越え、負傷者は1万人に達したというニュース。ガザの人口は多分200万人ぐらいでしょうから、これは、強烈な数字です。そのうち子供の死亡者は350名にも昇っています。学校を攻撃するのですから狂気です。イスラエルにはイスラエルの言い分があるのでしょうが、これでは、猫がネズミをなぶり殺しにするようなものに見えます。とにかく、学校を攻撃して子供を殺すというだけで、イスラエルに何の大義があろうとも、許されないと私は思います。イスラエル軍には、わが子が殺されることを想像するだけの想像力がないのでしょうか。楽しそうな笑顔の子供を突然殺されて失うことが、どういうことなのか、理解できないのでしょうか。

数年前にイスラエル賞を授賞した村上春樹の「卵と壁」のスピーチを思い出します。あれから、数年たっても、この東洋の一小説家の言葉は、イスラエルのシオニスト政権の心には響かず、パレスティナとの対立は深まるばかりです。しかし、われわれはヒューマニストとして、常に卵の側に立ち続けなければならない、と強く思います。いくらシオニストやナチやアベが、卵を押しつぶそうとしても、われわれは卵の側に立ちつづけなければ、それは人間をやめたのと同じことになる、と思います。ハマスのテロリストににも同じことが言えます。みずからを犠牲にして壁にぶち当たってはいけません。

話をちょっと変えて、たまには明るい話でも。

最近、自分の残りの人生のことをよく考えます。人間、いつ死ぬかわかりませんから、自分であと数十年あると思っていても、実は明日、寿命が尽きるかも知れません。人間の命に終わりがあるということを考えると、私は、苦しい登山の途中に「頂上まであとxxキロ」の表示版を見るのと同じような気分になります。私も、若い時は人並みに「死にたい」と思ったことも何度かありましたが、今では、無理して死ななくても、どうせ遠からず死ぬのだから焦らなくてもいいか、と思うようになりました。いつまでも生きていると漠然と思っているから今の苦しみが永遠に続くように感じて苦しいのではないでしょうか。一方で、死にたくない、という人もいます。死にたくないのは、多分、死ぬときのプロセスが苦痛に満ちているように見えるからではないでしょうか。だれでも苦しいのはいやです。私も苦しみながら死ぬのは、いやだなあ、と思います。

つい先日、エコノミークラスの小さな座席に10時間以上も縛り付けられるという拷問を繰り返し受けてきました。長距離の飛行機に乗ることは、多分、私の最もやりたくないことの一つですが、これも10時間ガマンすれば苦しみは終わると思って準備していったので、苦しいながらもそれなりに有意義に過ごせました。本を読んだり、音楽を聞いたり、映画を見たりしました。その合間に食事をしたり、居眠りしたり、瞑想したりしました。
 人間、終わりが近いことを感じると、頑張れるそうです。終末努力というそうですが、きっとマラソンのラストスパートみたいなものでしょう。死ぬときの苦しみも終末努力で乗り越えれたらいいのですけど。

それはともかく、終わりがあることを知っていると、毎日の小さな事柄をよりよく見るようになります。それらのことに感謝の気持ちが湧いてきます。そして、しみじみしたりします。これは精神衛生上、大変よいことだと思います。

止まない雨がないように、苦しみは必ず終わります。人は必ず死ねます。その過程は苦しいかも知れませんが、それも必ず終わります。そう思っていると、毎日が楽しいです。

パレスティナ問題もいずれ終わるときがくると信じたいです。戦争は人間性に対する冒涜ですから。
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ヘリクツとデタラメに憤る

2014-08-01 | Weblog
人間、汗水足らして、人の役に立つようなことをするのが「仕事」であるべきだと私は思います。人の役にも立たず、むしろ害を及ぼし、我が身の利益だけを考えて行う行為を「仕事」だと言って、普通の人の何倍もの給料を貰っている存在意義がマイナスの連中もこの世には多いです。
 デタラメの違憲政策を正当化するために内閣解散、選挙での勝利を企んでいるのか、あるいは単に支持率が落ちてきたからなのか、全く何の意味もない「内閣改造」をやり、次の総裁選での勢いを削ぐためだけに幹事長を辞めさせる、この自分のことしか考えない連中、「公僕」の身分を強調して選挙で選んでもらったくせに、このような国民に全く何の益もない「ままごと遊び」をして、恥ずかしくないのでしょうかね。それをまたあたかも何らかの意味があるかのように報道する新聞のアホらしさ。そんな政治ゴッコをしているヒマがあるなら、福島に行って工事の一つでも手伝った方がよっぽどマシです。
 先日もイスラエルがガザの小学校を攻撃して子供を殺しました。ままごとしているヒマがあるなら、ガザに行って体を張って停戦を仲介してみたらどうですかね。日本の株はグンと上がるでしょう。政治家なら、国民や世間の人々の役に立つことをしましょうよ。選挙の時だけ適当なことを言って当選したら、あとはその地位を利用してオノレの利益だけを追求する、それでは、研究費だけもらって実験しない研究者と同じです。恥ずかしくないのでしょうかね。恥という言葉を知っていたら、政治家は最初からやってないでしょうけれども。

アメリカ、相変わらず、マレーシア機撃墜のことをネタにロシアの非難を続けていますが、オバマも平和賞を貰い、もう今期限りで終わりなのだから、本当に世界のためになることをしてくださいよ。ロシアの声では、ウクライナ軍がマレーシア機を撃墜した、とアメリカとは全く逆の論調で言っております。ヨーロッパ諸国もメディアは、マレーシア機の撃墜は親ロシア ウクライナではないという見方が優勢のようです。日本では当然、アメリカ様の言うとおりの垂れ流し報道しかしませんから、ロシアの支援を受けた東ウクライナの仕業であると決めつけておりますが、いい加減、国民をバカにするのもタイガイにしたらどうですかね。だから読売の購読数は急降下しているのではないでしょうか。アメリカとロシアの言うことが逆なわけですが、どちらがより本当らしく聞こえるかというと、私はロシア側の説の方が信憑性が高いような気がします。アメリカが主張している説、即ち、ロシアが供給したミサイル「ブーク」により、親ロシアウクライナがマレーシア機を攻撃したという説には無理があります。そもそも動機がないし、それからブークは上から下に攻撃するのに、墜落した飛行機は下、横から攻撃を受けているというロシアの声の記事もあります。

アルゼンチンどうも二度目のデフォルトということです。アメリカの金融マフィア、ホンマに困ったものです。これでまた、人々は苦しみ、自殺者が出ます。アルゼンチンの経済財務相は、交渉で譲歩しないアメリカの投資ファンドを「ハゲタカ」と非難。人の屍肉を喰らう「ハゲタカ ファンド」という表現も、すっかりクリシェになってしまいました。カネで他人を縛り、人の生き血をすすり、自ら放火しておいて火事場泥棒を働く、そりゃアメリカ人の引退資金の多くが投資ファンドで運営されているでしょうから、アメリカのハゲタカファンドもアメリカ人の老人の生活のためには、アルゼンチンが国家破綻して自殺者が出て、世界経済が影響を受けるのも仕方ないということかも知れませんが、私にはそういうのは「ヘリクツ」にしか聞こえません。そもそもカネなど実態のないもの、イワシの頭のようなものですからね。
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