百醜千拙草

何とかやっています

卵の側に立つ(4)マスコミの罪

2009-03-31 | Weblog
小沢氏続投会見の後、大手新聞社などのマスメディアが伝えた、「小沢氏秘書、違法献金認める供述」という報道は、やはり、ウソでした。この誤報(捏造?)記事に対して、秘書に接見した弁護士が、「そのような事実はない」ことを確認し、新聞社に対して抗議を行ったとのことで、その抗議全文を朝日新聞から、下に転載します。

大久保隆規氏の起訴後、新聞、テレビ等において、同氏が政治資金規正法違反に係る起訴事実について、その大筋を認めている等の報道がなされているところですが、同氏の弁護人らの認識は全く異なっております。この点について、検察庁が前記の報道内容に沿った事実を公表することなどあり得ないことから、誤解に基づく報道ではないかと考えております。公判に向けて予断を排除するためにも、今後は、十分な取材に基づき、客観的かつ公正な報道を行っていただきますよう申し入れます。


この抗議の記事がごく小さく社会面で扱われた一方、この記事のもとになった捏造記事は今でも、同じ朝日新聞のネットで削除も説明もされずに残っています。この抗議に対して、マスコミはいつもの無責任音頭で、何のコメントも訂正記事も何もなく、無視しています。捏造記事を書いた責任者は「説明義務」があると思いますし、事実と反することを平然と匿名で書き散らして、人々に誤った情報を流しながら、それを指摘されてもなお、誠実な対応というものをしないというのは、「人間として失格」である、と私は思います。

 日本では、滅私奉公みたいな、組織のために個を殺すという悪習があります。この考え方が、民主主義を阻み、ファシズムを許すことにつながっていると思います。われわれは、「卵」の側に立たねばなりません。卵を阻む「壁」は、もともと、卵を守るために作られたもののはずです。その壁側に入ってしまった者は、壁という体制の中で、すでに「卵」である個人であることをやめ、組織の単なる部品となることで、自己保身を図ろうとします。新聞社で、捏造記事を垂れ流す記者は、既に人間であることをやめ、組織の部品と成り下がってしまったのでしょう。だから、「人間失格」なのです。彼らは、名前を持ちません。だから、自分の書いた記事に署名もしないし、ニュースソースを明らかにすることもありません。部品だから、善悪の判断もできず、何を書いているのかもわからないし、わかる必要もないと思っているのでしょう。
 研究者であれば、捏造論文が明らかになった時点で、その人の研究者人生は終わりです。マスコミは学術論文などよりもはるかに影響力が大きいのに、書いた人は記事に署名さえしません。研究者の常識からすると、このような無責任で卑怯な行為がどうどうと為されいることは、(日本以外の先進国での常識に照らせば)既に犯罪であります。若い人でも「体育会系」とか言って、いまだに肯定的にこのファシズム思想を語る人がいますが、それは、体制側の思想であり、個人の尊厳を蹂躙し、「卵」をつぶそうとするものです。日本のマスコミや読者に足りないのは、記事を書いているのは、個人であるという認識ではないでしょうか。マスコミ人が、組織の中で、自らの責任を放棄し、匿名の気安さで、他人を名指しで貶めるようなガゼネタを平気で垂れ流す、そういう卑怯な態度に私は反吐がでます。
 組織の効率のために(まして、体制側の利権を守るために)個人を犠牲にするようなことは、あってはならないことであると私は信じております。それは文化とかいうレベルの話ではありません。また、なにより悪いことは、この全体効率主義は暴走します。検察の今回の行動は暴走と言っても良いのではないでしょうか。安全とスピードは両立しません。腐敗しない権力はありません。だからこそ、常に属する個人がブレーキをかけ続けることで、組織は非効率である必要があると私は思います。
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主権在民実現へ、希望の続投

2009-03-27 | Weblog
検察は、小沢氏の秘書を起訴しました。今更、後にひけないという気分なのでしょう。今回の小沢氏失脚が不成功となった場合、官僚政治の解体が待っていますから、検察や警察機構も安穏とはしておれないでしょう。まして、今回、明らかな選挙妨害であると国民の多数が考えているような検察の行動ですから、小沢首相が誕生した暁には、検察や警察の腐敗体質への自己批判は避けられません。かといって、ここで検察が、日和ってしまっては、検察の強制捜査の不法性を自ら認めるばかりか、かえって、民主党を波にのせてしまうことになりかねない。というわけでで、「起訴しない」という選択はあり得ないというのはよく分かります。もしも運良く、小沢民主党が政権を取ることを阻止できれば、官僚政治はなんとか安泰、しかしもし政権交代となれば、どっちにしても、検察も改革の対象なので、ここまで、やってしまった以上は、やり続けるしかない、検察は、そんな気持ちなのではないでしょうか。読みどおりなら、今回、形式犯で起訴というのは、まさに、検察は、「国策捜査をやりました」と自ら、白状しているようなものです。
 検察特捜の責任者は必死でしょう。普通に見れば、どう考えても有罪にはできない嫌疑で、強制捜査、逮捕までしたのですから、でっちあげてでも、収賄罪にしたい、そう考えているはずです。そうでなければ、自分が破滅します。身から出た錆びとはいえ、窮地に陥っているのは検察の方でしょう。国民と小沢党首をナメ過ぎました。検察は小沢党首が党首を辞任してくれさえすれば、そっと事を収めるつもりだったのでしょうが、予想以上の強い検察批判を呼んだことで、後に引けなくなったということですね。大手マスコミの必死の世論操作(見ていると、恥ずかしくなりますね)も効なく、小沢党首続投表明で、検察の負けが確定しました。もちろん、民主党としても、ここで検察や与党の思惑通り、党首辞任をしてしまっては、官僚政治解体、国民主権の実現という目標達成が困難になるばかりではなく、マスコミと検察の作り上げた虚像を肯定することになり、大打撃を受けますから、小沢氏が辞めるという選択はないわけです。
 私はこの続投会見で、政権交代が実現し、日本が民主主義国家へと一歩前進するであろうと確信しました。自己保身を図ろうとする検察は、これから、とんでもない手を出してくる可能性がありますが、ここまで、国民の検察批判を受けてなお、強硬手段を取ってくるとしたら、自爆テロ以外の何ものでもありません。もし検察がこれまで以上の暴挙に出るとすれば、それは、差し違えの覚悟が要ります。おそらく検察特捜にそんな根性はないだろうと私は思っています。組織に守られているから弱いものいじめができただけの半端者なのです。今回の暴挙と、それに対して、一切の釈明も説明もしない、そのくせ、マスコミには都合のよい情報を垂れ流す検察の態度によく表れています。卑怯者です。
 数日前にここまで、小沢氏の続投決定のニュースを聞いて書いたのですが、早速、「秘書が起訴事実の一部を認めたらしい」という例によって出所不明のニュース。秘書の起訴と小沢氏の続投は、双方とも想定内であったでしょう。これが検察の次の手ということでしょうか。もちろん、私は真偽のほどはわかりませんから、推測ですが、企業からの献金と認識していたかどうか、が争点なのですから、どんな証拠があろうとも、本人が「認識していない」と言い張れば、検察はどうしようもないわけです。無理にでも有罪にするために、このような記載ミスのような罪なのに、わざわざ、逮捕、拘留し、密室で毎日、気が狂いそうになるまで、脅したり、なだめたりして、言質をとろうとしているわけです。あるいは、これは、よく警察がやる「無実の証明ができないことをもってを有罪と解釈する」という故意の曲解かも知れません。研究者でネガティブデータの意味を知っているものは「無実の証明」が、極めて困難であることは知っています。「無実であることの証拠がない」ことを有罪の根拠とするならば、誰でも好きな罪状で有罪にできてしまいます。
 話がそれました。今回の検察の行動について、政権交代の暁には、その責任者は、国民の前で、誤りを認め、謝罪し、辞任してもらわねばなりません。検察の傍若無人ぶり、また、そのリーク情報を恥もプライドもなく、垂れ流すマスコミを見ていると、北朝鮮とは日本のことかと、思ってしまいます。
 中学生のころ、星新一の「人民は弱し、官吏は強し」を読んで、正義感の強かった私は随分、ショックを受け、国家権力の暴力に随分、憤りました。でも、それは、昔の悪い時代の過ぎ去った話だと思っていました。とんでもないですね。日本は今も、民主主義国家ではないのです。官僚政治で、明治時代や実は江戸時代と構造的には同じなのですね。小沢党首が言うように、議会制民主主義を日本の社会に導入するためには、政権交代を通じて、霞ヶ関を解体し、官僚構造の中に戦後六十年余りの間にどんより溜まった澱を洗い流さねばなりません。それができるのは、現在のところ、民主党しかいないわけで、ここで、国民がマスコミに乗せられて、民主党への支持を取りやめるようであれば、それこそ、検察、官僚の思うつぼです。叩いてホコリの出ない政治家などいないのです。検察は小沢氏だけを叩いて、同様に献金を受けて来た与党議員には全くノータッチです。そっちを叩けばもっといろいろ出てくるでしょう。それに、昔はともかく、今は小沢氏はおそらく、クリーンな方に入るでしょう。国家権力を使って、異常な逮捕劇を行い、マスコミを使って大事でないことを針小棒大に言いふらして、国民の目をくらまし、自己保身を図ろうとするその態度には辟易とします。目先の小事に気を取られて、戦後60年間、官僚と癒着政党、企業が作り上げてきた国民搾取機構を潰し、主権を国民に取り戻す最大のチャンスをフイにしてはなりません。
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わしが見ていた

2009-03-24 | Weblog
近所の図書館で、Wayne Dyerの本が目に付いたので、借りてきました。1989年の「You’ll See It When You Believe It」という本です。私は、Dyerがテレビに出て講演しているのをたまたま見て、そこで、私が密かに信じている世間の常識とは相容れないことを、どんどん肯定的にしゃっべているのを聞いて、興味を持ちました。Dyerの訳書は、日本では自己啓発書のカテゴリーで、残念なことに、すごく安っぽいタイトルになって、多数出ています。
 私のような考えかたは、一くくりに「神秘主義」とか呼ばれるわけですが(悪い言葉の響きですね)、要は、この世の中を唯物的な見方で理解しようするのは無理があると確信しており、目に見えない高次構造を通じた、より高度な理解の方法があるはずであると考えるような態度であると言ってよいのではないかと思います(例えば、二次元空間に住むフラットランド人の生活を三次元空間の人間が観察するという寓話、フラットランドの話を以前、書きました)。われわれの普通の世の中の理解は、時間や空間が私たちが知覚するような様式で存在するということを前提に出発します。時間が存在しなければ、因果関係みたいなものも存在基盤を失うので、現代の通常、科学的といわれる見方は全て否定されてしまいます。つまり、科学の前提となっているものの正当性を疑えば、科学という方法論そのものの恣意性とでもいうべきものに行き当たるということです。
 ところで、このDyerの本の中で、Mark Helprinという人の書いた小説、「Winter’s tale」(ハヤカワ文庫に訳書出ています)の「Nothing is random」という章の一節が紹介されていました。「時間」についての記述に、大変、感心したので、書き留めておきたいと思います。
 自然や世の中のものがいかに協調的に動いているかという例をあげて、ランダムなものは何もないと、述べた後、この著者は、こう問いかけます。
もし、ランダムなものは何もないとしたら、世の中で起こることは全て、決定論的に、前もって決まっているはずだ。それなら自由意志とは何なのか?
 続けて、著者はこう結論します。
答えは単純である。前もって決まっているわけではないのだ。今、決まり、かつて、決まり、将来、決まるのである(つまり、時制と関係のない決定の仕方をするということを言いたいのだと思います)。実は、すべてのこと(過去、現在、未来の出来事)は同時に起こっているのだが、我々人間が、ありのまま全てを理解するための能力が足りないので、「時間」というものが発明されたのである。、、、宇宙は静止しており完全である。 、、、、

言語構造そのものが、時間の観念を内包するので、こうした考え方を言葉で表すのは難しいですね。言葉を使うと、どうしても誤解を生むのは避けられないようです。決定論は、宇宙の始まりの時点で、その後におこること全てが既に決まってしまっているという考え方で、それには明らかに物事の生起を、起点と時間軸に沿った因果関係によって捉えようという従来の態度が認められます。この時間軸と因果関係のワナから逃れられない限り、決定論であれ、非決定論であれ、堂々巡りの水掛け論になるだけです。それに対して、この著者は「あらかじめ」決まってしまっているのではない、宇宙が始まった時点で、同時に現在も未来も存在しているのだ、と言っています。この直感は素晴らしいです。多くの説明不能なできごとが説明できます。そして、なにより、この完全で静止した宇宙という宇宙観は我々の精神に安らぎを与えてくれると思います。
 こういう考えと同様の言葉に、鈴木大拙がキリスト教研究者の国際会議で発したという質問があります。大拙は聴衆に向かってこう訊きました。
「聖書に、神が光あれ、と言ったら、光があった、と述べられているが、一体、誰がそれを見ていたのか?」
この問いに対して、誰一人として、答えうるものはなかったそうです。後に、大拙は弟子にこの話をして、自ら答えます。
「わしが見ていたのだ」と。

禅仏教には、西江の水を一息に飲み干す」とか「須弥山を芥子粒に閉じ込める」とか「万里を刹那に飛ぶ」とかという表現が、よく見られます。(私はまだ体験したことがないのではっきり言えませんが)これらは、どうも、ものの喩えでも言葉遊びでもなく、どうも、文字どおりの体験であるようです。時間や空間のその本来の姿を掴むことができれば、可能なのでしょう。
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流れる

2009-03-20 | Weblog
昨日の夜中、ふと目が覚めて、昔のことを思い出していました。私にとって、もっとも懐かしく思い出すのは、小学校の高学年から中学生のころです。それから後は、時間が経つのが随分速くなったように感じるせいか、懐かしさが付属して思い出すことは余りないように思います。
今でも思えているのですが、小学校高学年になったある日、母が食卓のテーブルの前に私を座らせて、塾に行って勉強したいか、と聞きました。私は、深く考えもせず、何か新しいことができるのならトクだと思って、行きたいと即答しました。振り返れば、それまでの私は学校の成績など気にしたこともなく、勉強することに、別段大きな意味も感じず(とは言っても、別に嫌いというわけでもなく、学校に行くことはゴハンを食べて寝るのと同じように、日常の生活の一部と思っていたのだろうと思います)毎日、遊ぶことに夢中でしたので、そもそも、塾が何のためにあるのかさえ、分かっていませんでした。当時、田舎に住んでいたので、もっとも近い学習塾まで一時間かかりました。電車とバスで行くのですが、塾は楽しかったです。塾の名前は「XX受験研究会」という仰々しいもので、子供心にも、ここは「受験を研究するところなのか」と、研究という言葉の響きに違和感を覚えた記憶があります。その塾ではタハラ君という神戸支部トップの秀才がいて、いつも20パーセンタイルぐらいの成績だった私には、雲の上のような人でした。私よりもチビで華奢でしたが、何となく、カリスマの漂う人でした。神戸支部は最も小さかったのですが、他にも大阪、西宮にも教室があって、同学年で最もデキる人は西宮のアマミヤ君という人で、タハラ君でも、試験では常にその後塵を拝するという噂の人でした。彼らは今、どうしているのでしょうか。それにしても、昔の知り合いの名前は忘れないのに、昨日、覚えたことの半分はすぐ忘れ去ってしまうというのは悲しいですね。塾で新しい友だちができて、新しいことを覚えて、試験で競争するという活動は楽しかったです。その経験がなければ、大学へ行って、研究者を目指すというような道には進まなかったであろうと断言できます。現在の大学のあり方に、私は悲観的ではありますが、喰うために誰かに雇われて、嫌な仕事をしなくてよい、という点で、私は今の仕事(というか趣味ですね)は悪くないと思っています。そう思えば、あの食卓で、母が、子供によりよい教育を受けさせてやろう、と考えて、塾に行きたいか、と聞いてくれたことは、多分、私の人生での最大の分岐点であったのではないか、とそんなことを夜中に目が醒めて考えました。塾は遠かったので、母はしばしば、送り迎えしてくれました。その後、進んだ私立の中学も遠かったので、朝、早くから起きて、お弁当の用意を毎日してくれました。私に、それだけの労力をかけてくれたのだなあと思うと、余りにリターンが少なすぎて、ちょっと投資のかいが無かったよなあ、悪いなあ、という気持ちになりました。その私も今や、小学校高学年の子供がいます。私に似て、向学心というものが余り感じられませんが、それなりにやっています。団塊の世代ちょっと下で、日本が競争社会だった私が子供のころは、明らかに教育のレベルと就職、収入がリンクしていました。現在の不安定な社会では、必ずしもそういうわけではありませんし、学問のためではなく就職のために難しい大学に行く、というのは、もはや必ずしも賢い考え方とは言えなくなっていると思います。私は、自分のやりたいことを自覚し、その達成に向けて自発的に努力することが、大切だと思うので、勉強は大事だというのと同時に、そんなことをよく子供に言いますが、あんまり分かってくれないようです。私は大学院を卒業するまで、それこそ流れるがままにフラフラしていたので、その反省から言うわけですが、そもそも自分自身、30過ぎるまで無自覚だったのだから、子供にわかるわけはないですね。流されるままというのは良くないと思うのですが、流れるように生きるのは大事だなあ、最近、また思うようになりました。何かやりたいことを決めて、それに向けて努力すれば、必ず、抵抗にあいます。ちょっと前までは、それに負けずに頑張るのが大事だと思っていましたが、今は、そもそも、抵抗にあうような目標の設定や努力の仕方が悪いのだと思うようになりました。つまり、努力の目標を外部に設定してはいけないということですね。目標は如何に自分が満足できるか、そして、その目標に向けて流れるように近づく、そうあらねばならぬと思うようになりました。
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検察の暴力が民主主義を破壊する

2009-03-17 | Weblog
今回、政治活動に多大な影響を与えるのを明らかに予期して、検察が行った強制捜査と逮捕は、癒着財政団体による陰謀であると、事情を多少なりとも知っている国民のほとんどは考えていると思うのですが、柳田先生のブログで指摘があったように、実は、検察そのものがある種の政治的イデオロギーを持っていて起こしたクーデターの可能性もあるという意見を聞いて、「無いとはいえない」と思いました。
そして、次の様なニュース

地域政党「新党大地」代表の鈴木宗男衆院議員は6日、BS11デジタルの報道番組「インサイドアウト」に出演し、小沢一郎民主党代表の資金管理団体を巡る政治資金規正法違反事件について「検察が世直しするという正義感をかざす青年将校のような動きだ」と指摘。受託・あっせん収賄容疑で逮捕された経験を踏まえ「検察は世論の反応を聞きながら事件を作る」と非難した。

2.26事件ほど直接的ではないだけに、余計、不気味です。いきなり強制捜査、逮捕という信じがたい暴挙を行っておきながら、検察はその行動の正当性について、全く何の発表もしません。これでは、検察はキチガイに刃物と非難されても仕方ないでしょう。
もういい加減、この話題をやめようと思っているのですが、相変わらず、読売をはじめとする自民党広報新聞の偏向報道はひどいもので、ノンポリの私でも、辟易とします。マスコミにおいては、「社会の木鐸」とか、もっといえば、「プライドや矜持」とかいう言葉はとっくの昔に、死語なのでしょうね。「関係者によると」という言葉で始まる原典不明の信用性のない情報を垂れ流す前に、マスコミはまず、その関係者とは誰であるかを明らかにしなければなりません。この時点で、報道のいろはの「い」もできていないということです。これは既に「風説の流布」であり、匿名で誹謗中傷を書き散らす卑怯者と同じです。検察が捜査情報をマスコミに流すこと自体、違法ですから、「検察のリークによると」とは書けないことをマスコミは知っているわけで、彼らも自分たちが、検察の犯罪の片棒を担いでいることには、十分わかっているのです。
 検察が主導したにせよ、癒着財政団体が手を回したにせよ、今回のような検察の行動は憲法違反であり、民主主義に対する重大な冒涜です。そして、もしこれが検察の内部にいる人間の政治的信念に基づいたものであるとするなら、検察はオウム真理教と変わりません。ならば、今回の小沢民主党を狙い撃ちにしたガサ入れは、テロと言ってもよいでしょう。テロは始末に悪いです。やっている本人に病識がないからです。数年前、病気の我が子を、悪霊が取り付いたためであると思い込み、悪霊を追い出すためと信じて、両親が叩き殺した事件がありました。またベジタリアンの親が新生児に動物性だからという理由で母乳やフォーミュラを与えず、餓死させた事件もありました。検察がこういった異常精神の支配下にあると考えるのは、単に利害関係に基づいて悪を為す場合よりもはるかに、やっかいです。
 今回、検察は、従来、自ら禁じ手にしていたことを、しかも次期首相の可能性の高い野党党首を狙って、やってしまいました。ということは、小沢氏を絶対に失脚させるという相当の覚悟があってやったか(そうでなければ、小沢氏失脚に失敗して、小沢氏が首相となれば、今回の特捜の責任者はただでは済みますまい)、あるいは病的な信念に基づいて、後先考えずにやってしまったか、いずれかであろうと思うのです。従来、政治への影響には神経質であった検察が、今回のように傍若無人な捜査を行ったというのは、ひょっとしたら、異常精神のなせる業であったのかも、とふと思ったのでした。あるいは、単純に、ロッキード、リクルート、佐川急便事件と、これまでは、検察のリーク情報をそのまま垂れ流すマスコミを使っての世論誘導が成功してきたので、検察は、国民を甘く見ているのかも知れません。現在、インターネットによって、国民が手に入れる多角的な情報量は何十倍にもなり、国民の多くは既に新聞やテレビの言うことを素直に信じなくなっていることを計算に入れていないのなら、今回の暴挙でしっぺ返しを喰うのは検察の方でしょう。
 最近、Time誌に小沢一郎の特集インタビュー記事が載っていることを知りました。Timeも、現代日本の政治と官僚構造を正すことができる人材は、他にはいないと考えいるようです。政治家が官僚に牛耳られている日本の状況では、国民の声は結局、社会に反映されません。官僚支配の終焉、霞ヶ関解体を目指す小沢民主党を、国家権力が必死に潰そうとしているわけですが、もし、これが検察の精神の病によるものなら、それこそ、政権交代を通じて、このような病がはびこる体質を改善してもらわないといけません。      
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世間じゃない、あなたでしょう?

2009-03-13 | Weblog
日本が警察国家で、経済界、政界、官僚の一部の利権者がつるんで、恐怖政治を行おうとしている傾向を感じるという話を前回しました。柳田先生のブログでも同様の意見が述べられているのを読みました。それで、もう少し「国」というものについて、(以前も「国家の品格」に関してちょっと同じようなことを書いたと思いますが)思うところを書きたいと思います。

以前、ロシアからアメリカへ移住した人と話をしていたとき、「自分はアメリカという国に大変、感謝している」と言ったのを聞いて、ちょっとびっくりしたことがあります。アメリカで暮らす外国人がアメリカのことを良く言うのを聞いたことが余りなかったからです。アメリカが移民を受入れているのは、もちろん移民が国益につながるからです。アメリカの社会は、最初に移住してきた人が、後から移住してくる人を利用する、ねずみ講のようなシステムによって成り立っています。それでも、アメリカに移住してくる人がいるということは、自分の国にいるよりはましだからです。このロシア人の場合も、アメリカに感謝するというのは、つまり、この人がロシアでは満足な職がなく、食べていくことも困難であったのに、アメリカが自分を受入れてくれて、よりよい生活を送る機会を与えたくれたから、という理由でした。私は、感謝の気持ちを持つことは(持たないよりは)はるかに精神衛生上、素晴らしいことであると思いますが、この人が感謝している「アメリカ」とは、そもそも一体なんであるのか、と疑問に思いました。世界の他の国を侵略し、日本の経済をコントロールし、その名の下に数多くのアメリカ人も含む世界の人々を殺し続けて来た「アメリカ」と、このロシア人に、より良い暮らしの機会を与えてくれた「アメリカ」はどういう関係なのでしょうか。
 昔、「人類は皆兄弟」という意識に目覚めず、お互いに侵略し、殺し合っていた時代は、「国家」というメタ共同体概念は有効なものであったであろうと容易に想像できます。第二次大戦でも「お国」のために、片道分の燃料と爆弾だけを積んで、敵艦に向かってつっこんでいった若者も多くいました。その「お国」とは何だったのか、天皇陛下を象徴に使ったその実体とは何だったのか、「日の丸」とか「君が代」とか「日本!チャチャチャ」とかの裏にあるものとは何なのか。私は一種の宗教心であろうと思います。宗教がしばしば、犯罪や洗脳に使われるのと同様、愛国心は色々な目的で利用され、ヒューマニズムを侵害してきました。カトリックの家に生まれたからカトリックとなり、真言宗の家に生まれたので寺で法事をするのと同様に、多くの国民は「日本人」であることを当然とし、日本人が世界で活躍することを喜び、オリンピックで日本人がとったメダルの数を気にします。しかし、私にとっては、オリンピックでメダルをとった日本人もノーベル賞をとった日本人も、都会の雑踏ですれ違う人と同じ、知らない他人です。
 「日本人は、日本という国が持っている社会システムの中で育ち、教育を受け、食べさせてもらって来たのだから、日本という国に感謝しなければならない」とか言う人が必ずいます。私は「感謝する」ことは大切だと思いますが、「日本という国」に感謝をするのはむしろ、良くないことであると思います。それはまるで、仏像を拝むようなものです。挑発的に言うと、錦旗を守るのに命をかけたり、天皇陛下万歳と叫んで自爆テロを行うと同様です。日本の社会のシステムを利用して育ったのはその通りです。しかし、それは「日本」という実体不明のものが、育ててくれたのではなく、自分の父母や、近所の人や、故郷の土地や、そんな具体的な様々のものの中の関わり合いの中で、私が育ったということで、私の感謝の対象の中には、それらが仮に日本の領土内での出来事であったとしても、少なくとも「日本」という実体不明のものは含まれません。日本の社会の有り様に関しては、事実、感謝するどころか、恨みに思っていることも多いのです。

太宰治の「人間失格」の中で、主人公が心の中で言います。

それは世間が、ゆるさない。
世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?
そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ。
世間じゃない。あなたでしょう?

この文脈で、「世間」が「日本」であるとしたら、「あなた」とは誰に当たるでしょうか、私は、Nationalist であろうがPatriotであろうが、「愛国心」を振り回す人を見ると、常に「日本」という実体不明の言葉の裏にある具体的なものの存在に気を回してしまいます。
かつて、戦争のため、国民の洗脳に「お国」や「天皇陛下」が使われましたが、今も変わっていません。「国家」という概念は、国民をワクにはめ、コントロールするために使われています。それ以外には無用なものです。まして、権力側でもない一般国民にとっては、「国家」など「いわしの頭」です。でも、そこに信心がつくととても危険なものに変わり得ます。その裏にある実体は、規制緩和という名の元に国民を搾取し、郵政民営化と名のもとに国民の富を外国に横流しして、日本を世界最大の借金国にした連中であり、また、自らの存在意義を権力闘争の中に求めるような者です。
 んー、暗い話になりそうなので、もう止めておきます。
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卵の側に立つ(3)、暗澹たる警察国家

2009-03-10 | Weblog
日本が戦前なみの警察国家で、国というシステム(壁)は国民という卵を管理し、搾取し、一部の既得権者の利益を守るために存在しているということが、今回の献金疑惑強制捜査の事件(に限りませんが)で、ますます実感されてきて、気が滅入ります。

ところで、先日、「日々是好日」ブログで、次にような事件があったことを知りました。
  
昨年10月28日夕、同県米子市のJR米子駅前で米子署員2人が自転車に2人乗りしていた高校生を見つけて職務質問。(一人の高校生はポルフィリア症で日光を避けるために頭巾をしていた)そのとき、この病気を知らなかった署員1人が「お前はタリバーンか。自転車はだれのものか」と強い口調で問い、ずきんを取るよう迫ったという。高校生がその場で病気を説明したため、ずきんは取らずにすんだ。

その後、米子署は謝罪したそうですが、そもそも、一般市民に向かって、この口の利き方は何だ、と私はむっとしました。知らない人に対して、いきなり「お前」と呼びつけるのは失礼でしょう。こういう普通の人が知っている礼儀を、一部の警察の人間とかは、知らないのか、あるいは無視しても構わないと考えているということだと思います。昨年末、私も高校生らしい人が自転車で道路を走っていて、パトカーに止められたのを見ました。横を通りすぎるときに、複数の警察官が高校生を取り囲んで、かなり横柄な口調で、補導するとかしないとか、脅しているのを見て、嫌な気持ちになりました。高校生が自転車で道路を走っていて危ないというのなら、ちょっと注意すればすむことでしょう。高校生にむかって、警官の制服を着たいい大人がよってたかって脅かすこと自体、情けないし、そもそも、高校生を取り締まるよりももっと大事な仕事があるだろうと思ってしまいます。この警官たちは、その場面において、明らかに力の上下関係があることに意識的であって、自分たちが、高校生に対して支配的権力を持っているということを当然のように考えているような口に利き方なのです。日本では、人間一人一人は、法のもとでも、人間としてでも、平等であるという意識が本当に根付いていないと思うのです。お互いを敬い尊重するよりも、国民を権力が作るワクの中にはめ込んでしまったほうが管理がラクだから、「目上を敬い、先生の言うことを聞きなさい」というような教育をして、上下関係を通じて支配体系を作っているのでしょう。目上、目下という言葉があること自体がすでに問題ではないですか。人間であれば、年令、性別、職業に係らず、他の同胞を敬い、尊重するのは当たり前です。その、私にとっては当然のことを、日本の国のシステムというのは、平気で蹂躙する、それが気に障ります。警察のユニフォームを着ていたら、一般市民を横柄に扱ってもよい、検察特捜という名のもとには、目をつけたところには、いきなり土足で踏み込んで人やものを拘束しても構わない、そう思っているのでしょう。そして、一般市民にこれまで多大な迷惑をかけた冤罪事件を散々、おこしてきているくせに、責任をとるということを全くしないどころか、高知の白バイ事件のように、しばしば事件をでっちあげてでも身内を庇い、一般市民を犠牲にすることをいささかもためらわない、それが、日本の国家権力という「壁」なのです。
  50億円といわれるロッキード事件で、うち5億だけが関係した田中角栄をスケープゴートにして、ほとんどの金を持って逃げ延びた連中はそんな国家権力に守られてのうのうとしています。今回の事件でも、法律的には企業献金は合法であり、民主党だけでなく自民党も含めて多くの政党の政治資金の一部となっているのは皆が知っています。そのあったかどうかさえ分からない事務上の誤りに言いがかりをつけて、事情聴取もなしに、いきなり強制捜査と秘書の逮捕を行ったくせに、同様に献金を受けた自民党には手を出さない、という異常な検察の行動を許してはなりません。小沢さんはもちろんロッキード事件の全貌をよく知っているはずですから、彼は今後の展開を全部読んでいるはずです。自民党を使って国民財産を外資に横流しし、国民を搾取してきた連中が、小沢一郎に角栄の轍を踏ませようと考えたのでしょう。そして、つい先日、検察がとってつけたように自民党議員の事情聴取を行うとの報道、これも余りに胡散くさい。なぜ、強制捜査と秘書官の逮捕ではなく、自民党に対しては事情聴取なのか、検察の捜査内容を知りえないはずの、官房副長官の「自民党は大丈夫」失言に対するゴマカシにしか見えません。そして、今度は幹事長が、「小沢一郎の秘書は釈放されないだろう」と言ったという話を聞きました。これはどうゴマカすつもりでしょう?どうして検察の密室で行われている取り調べの帰趨について、自民党内閣閣僚や党幹部がこのような意見を言えるのか、グルになっている証拠を晒しているようなものです。それにしても、副長官が口を滑らせたのはまだしも、幹事長が更に追い打ちをかけるとは、これらの人々は、単に学習能力が低いのか、それとも何らかの意図があってわざと失言を連発しているのか、ちょっとわかりません。
  今後、どう小沢さんが反応するか、楽しみです。清濁併せ呑むようなところがありますから、そう簡単にこんなスキャンダルぐらいで失脚するはずはないでしょうが、あるいは、角栄のようにこれを期に裏に回って、闇将軍化するのでしょうか。読みにくい人ですが、前回の「大連立」みたいな、意外な一手が出そうな気がします。民主党党首としての問題は、民主党党員の多くが彼の読みについていけないという点ではないでしょうか。彼は自分が表でやるより、裏で操る方が向いているような気がしますが、残念ながら、他に小沢一郎以上のカリスマを持つ人がおらず、自分が看板もやらねばならないというところが、弱みなのでしょうね。
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卵の側に立つ(2)

2009-03-06 | Weblog
聖マリアンナ医大で科研費を業者にプールしたことを、不正使用とされて学長の解任となった事件を知りました。メディアも「不正使用」という言葉を連発していますが、なんだかなあ、と思います。日本でいう「不正」という言葉には、どんなレベルでも、例えば、道徳のレベルでも、悪いこと、というような絶対悪的含意があると思います。不正、不正と言われると、今回、槍玉にあがった研究者の人たちがまるで、数代前の首相なみの悪人にように聞こえます。確かに、余った科研費を業者にプールすることは、余った研究費は返すこととする規範に反するという点で、正しくないのは間違いないです。しかし、これを皆がする(してきた)のは、その規則が、はっきり言って「悪法」であるからです。悪法でも法である以上、それを破っては法治国家としての建前が立たない、そういう理由でソクラテスは毒杯をあえて口にしました。しかし、破ったり、悪用したりするために法律はあるとしか考えていないような政治家や官僚を戴くこの国が、研究者が研究のためにやむなくコッソリと犯している規則違反をそんなに叩いて何の益があるのか、と思わざるを得ません。研究費が余りそうな場合に国に返すことを考えている大学などどこにもありません。年度末で余りそうになったら事務から電話がかかって来て、「使いきってくれないと困ります」と苦情がくるわけで、それであわてて必要も無いものを買って、無駄遣いするのです。そんな無駄遣いをするぐらいなら、将来ももらえるかどうか分らない研究費なのですから、業者にプールして、将来困った時に備えよう、と思うのは、自分の研究を第一に考える研究者としては当然の考えでしょう。家計をやりくりする主婦が、万が一、収入が途絶えた時に備えて、貯蓄をするのと同じ考えと思います。一方、国の方は余っている金は返しなさい、というわけですが、上述のように、大学事務は国に返すぐらいなら、無駄遣いする方がまし、と思っているわけで、文部省と大学事務という二つの官僚構造の間にそもそも、研究費の使用についての喰い違いがあることが問題だと思います。研究者に限らず、誰でも、一旦、もらったお金を返すのは嫌です。とくに研究など先の見えないものですから、いつ急に金が必要になるか、わかりません。せっかくの機会に遭遇したのに、金が無くて、みすみす、指をくわえて実験をあきらめないといけないのは悔しいものです。
 村上春樹の喩えではないですが、この官僚主義的規則を振りかざして、アカデミアの自由な研究の発展を阻むものが「壁」であるならば、自らの壊れ易い研究を守ろうとする研究者は「卵」です。仮に卵が規則の上で、間違っていたとしても、卵の側に立たないと、アカデミアの研究は益々逼塞していくでしょう。こういう時に、誰か発言力のある人で、文部省を怒らせることが怖くない人が、「研究の発展のために心を砕いている研究者を、こんな下らない規則で縛ろうとする方が間違っている」とでも言ってくれませんでしょうか。学長解任を決めた大学理事長は、「公的研究費という税金をずさんな管理をしていて申し訳ない」と謝罪したそうです。立場を考えれば、何らかの謝罪の言葉を口にせざるを得ないのは分かります。しかし、税金のずさんな管理、云々という言い訳は、いただけません。ずさんどころか、むしろ、研究費を無駄遣いしないように、研究の足しになるようにと、昔なら誰でもやっていたことをやって、下らない規則に反したというだけのことです。理事長も、槍玉に上がった学長その他を切って問題を小さく収めようとするのではなく、きっちり調査した上で、「研究費をより有効に使用しようとした結果、時代遅れの下らない規則に反してしまった」とでも弁明してもらいたいと思います。ついでに、「研究でノーベル賞ものの大発見をするのと下らない規則を守らせるのとどっちが大事ですか!」とでも一喝してもらえたら、愉快なのですけど。そういうことをすると、弱いものの揚げ足をとることしか考えていない日本のマスコミの餌食でしょうが。
 本来、大学では、普通の社会の人がやれないことを存分に研究し、それを教育を通じて伝えていくという特別な場所であったはずです。また、そうでなければ研究の発展など期待できません。それが、今や大学は教育ビジネスと成り下がり、二言目には、税金を使って研究しているから社会に還元しろ、と騒ぎ立て、社会は大学人の自由な活動を制限しようとばかりしているように見えます。研究という投資活動の性質を一般の人がよく理解できないのはしかたないのですが、それを守るべき立場の人間でさえ、「税金を使った研究だから」という枕詞を平気で使うようになっています。税金を使おうと使うまいと、良い研究は良いし悪いものは悪いし、国民への還元を考えても考えなくても、還元されるような研究はでるときには出るし、出ないときには出ないのです。優れた研究者が細かい金の心配をしないで、研究に打ち込めるような環境を作って、自由にやらせることが国民にとって、もっとも役に立つ研究成果を得る最良の方法でありますし、大学での研究に最大限の自由を保証することが、国の本来の役割であると思います。(国がやっていることは全く逆ですね)さもなくば、まもなく、日本からまともな大学はなくなり、優れた人材は皆、海外へ流出してしまうでしょう。

民主党、小沢一郎の公設秘書の献金疑惑での逮捕、自民党が特捜にやらせたのでしょうが、ひどいものです。小沢氏、毅然として疑惑を否定しましたが、当然です。そもそも西松建設からの迂回献金を受け取っていた多くは自民党議員で、その総額も民主党の二倍近くあるわけですから、なぜ今このタイミングで、小沢氏なのか、鳩山幹事長が言う通り、余りにあからさまな自民党がらみの小細工であるのが丸見えで、鼻白んでしまいます。国民も既に、アホウがトップにしがみつく死に体の自民党には愛想をつかしているでしょう。それに加えて、今回のような見苦しいやり方、逆効果と思います。(私の知る限り、今回の事件を自民党の陰謀による国策捜査であると読まなかった人は一人もいません。)しかし、自民党(というか、小泉竹中政権時に売国政策で散々おいしい思いをした連中)はもうなりふり構っていられないのでしょう。少なくとも、小沢氏は自民党議員と比べたら、はるかに金銭にクリーンな人ですから、間もなく首相となった時に行われるであろう、汚職システムの一掃に、小泉竹中を使って売国政策を押し進めた連中は戦々恐々としているはずです。
 この事件と上の科研費不正使用事件、多少の共通点があると思います。科研費を業者にプールすることなど、以前は誰でもやっていたことだし、迂回献金など自民党の得意芸です。そういう構造的な違法があること自体、法の方に問題があるわけです。現実には殆ど全員が規則違反しているのにもかかわらず、一部の人だけを槍玉に上げて非難するのは、法治国家がやってはいけないことである、と私は言いたいのです。ネズミとりをするなら、違反者全員を捕まえる気持ちでやって欲しい、違法駐車をレッカー移動させるのなら、移動させやすい車ではなく、本当に邪魔になっている車を移動させて貰いたい、わけです。一部の人だけを槍玉にあげて、見せしめに使うようなセコいまねを国がするから、国民もセコくそれを逃れようとするのだと思います。
三権独立のはずなのに、司法に手を回して、ライバル党党首の事務所をガサ入れし、それを、癒着新聞社などのメディアを使って、騒ぎ立てる「卑怯者のチンピラ」が政権を握っている日本の現況は、日本人として恥ずかしい限りです。また多くのこの事件を扱った新聞の社説のレベルの低さにあきれました。いまどき、こんな小学生なみの作文を読んで、なるほどと思ってくれるような読者がいるのでしょうか。これでは、誰も新聞を読まなくなるのも不思議ではないです。いくら、洗脳記事だからといっても、もう少し書きようがあるだろうと思います。
 小沢氏の今回の事件は、もう一つの冤罪事件、田中角栄のロッキード事件を思い出させます。今回は、次期首相の可能性が極めて高い野党党首への選挙前の失脚をねらったという点で、むしろロッキードよりもタチが悪いかもしれません。日本はこの30年間、政治的に何の進歩もないどころか、悪くなる一方でした。今回のような自民党のセコい陰謀(陰謀と言うには余りに露骨ですが)で、日本が成長できるチャンスを潰してしまうようなことにでもなれば、私は本当に日本の政治に未来はないと思います。
(と、書きましたが、私は今回の事件は楽観視しています。国民は、自民党を見限っていますし、それにかわって日本を立て直してくれるのは、現時点では小沢一郎しかいないことを十分理解していると思います。結局、マスコミは騒ぐだけ騒いで、検察は立件できるだけの証拠が揃えられずに、振り上げた拳の行き場に困ることになります。そして、特捜の担当者はどこかに移動にでもなって、尻すぼみに事件は収束し、自民党に対する後味の悪さだけが残ることになります。そして秋には大差で民主党政権となり、小沢内閣がかなりの高支持率で発足する、というよう進むであろうと予測しています。)
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ふるさとの訛り無くせしモボ足穂

2009-03-03 | 文学
先日、アメリカの音楽コンテストの様子をテレビで見ていたときのこと、一人の審査員が、ふと、観客に向かって「Y’all」と言ったので、あれ?と思いました。Y’all (You all) という呼びかけは、アメリカ南部もので、南部以外ではまず使わないと思います。それで、ああ、この人は訛りに気づかなかったけど南部の人なのだな、と思ったのでした。これは、関西人以外の人が「もうかりまっか」と言わないのと同じでしょうか。このことがきっかけになって、私は、稲垣足穂の作品に感じる妙な違和感の理由に思い当たったのでした。稲垣足穂は明石で育ち、日本のショートショートの元祖と考えられる「一千一秒物語」や「少年愛の美学」、「A感覚とV感覚」などの作者として知られていると思います。私も随分前に文庫の「一千一秒物語」を読んで、そこに現れる独特の都会の雰囲気に魅了されました。文章を一行読んだだけで、そこにすでに独特の世界が醸し出される作家というのはそう多くないと思います。私の読んだ中では、足穂と藤原審爾ぐらいではないかと思います。もう20年以上も前、藤原審爾が死んだときの新聞記事の顔写真を未だに何となく覚えているのですが、その写真と、後になって知った「藤真利子の父」というイメージがなかなか結びつきませんでした。しかし藤原審爾の小説を少し読めば、藤真利子の父というのも納得できるのです。それでこの間、急に藤原審爾の作品を読みたくなって、街で一番大きな書店にいってみたのですが、ただの一冊も見つけることはできませんでした。どうも殆どは絶版となってしまっているようです。昭和が遠くなってきた今、残していくべき作家だと思うのですが、そうもいかないのでしょうか。インターネットの世の中ですし、読みたい時にすぐ読めるように出版社が電子化して売るようにはできないだろうかと思いました。
 足穂に話を戻しますと、例えば、「星を売る店」では、神戸の街が小説の舞台となっています。そこには、大正期のガス灯が灯り、路面電車が走り、異人が行き交うエキゾティックで華やかな街の様子が描かれています。今やすっかり廃れてしまった湊川、新開地は、当時は神戸一の歓楽街で、今は無き聚楽館で外国の奇術師がショーをするというような話もでてきます。私がものごころついたころには、すでに聚楽館は駐車場になっていました。多くの舞台劇場は最初は映画館に、そしてパチンコ屋へと変わっていきました。それでも私が子供の頃の新開地近辺はまだ活気がありました。元町の大丸へは母の買い物でよく着いていきましたが、今でも覚えている、帰りの車の中から眺める神戸の山手の景色というのは、足穂の小説の雰囲気とそのまま一致するようです。その都会的で洒落た足穂の小説の舞台になっている神戸なのですが、出てくる登場人物は、なんと、神戸の住人でありながら、関西弁をしゃべらないのです!そのことに私は、先日初めて気がつきました。舞台が山本通でも新開地でも、登場人物は店の店員も含めて、関西弁を使わないどころか、むしろ東京言葉を使っているのです。どうもこれが、違和感の原因であったようです。思うに、当時、足穂は佐藤春夫の下、東京で創作活動をしていたはずで、それで神戸が舞台なのに登場人物が東京言葉という作品になったのかも知れません。もっとも足穂の作品は現実感の少ないファンタジックなものが多いので、山本通のガス灯の下を歩く登場人物が、関西弁をしゃべったのでは、雰囲気ぶちこわしになりそうです。ですので、小説としては、それはそれでよかったのだろうと思います。神戸の言葉はお世辞にも奇麗とは言えません。同じ関西弁といっても、京の女言葉だと雅もあるのでしょうが、大阪や神戸の地元の言葉をよく言ってくれる人は少ないようです。もっとも、神戸の人は、京都には好感を持っていても、大阪は嫌いというのが少なくなくて、同じ関西でも大阪とは一線を引いているような人が多いようです。自分の街をお洒落な街だと思っていたいのでしょう、お洒落な街に「もうかりまっか」ではいかんと思っているのではないでしょうか。足穂は晩年、精力的に過去の作品を校訂したり、書き直したりしたそうですが、当時は京都に住んでいたらしいので、ひょっとしたら関西弁に変更するという計画もあったのかも知れません。思うに、神戸の人はお洒落な街に住んでいると思っていながらもお洒落とは言えない関西弁を使うことに妙に抵抗があるのではないでしょうか。関西弁はその土地の誇りを失い、関西弁を使い続ける人も、関東アクセントに対する僻みみたいなものなしに、屈託なくしゃべるというわけにはいかないようです。「細雪」の時代がうらやましく感じられますね。
 と、書いたところで、本当に「細雪」の時代は良かったのかな?、と思い直しました。足穂のこれらの初期の作品は細雪よりも20年ぐらい前に出版されています。その後の20年で、小説に関西弁を使うことに対する抵抗が少なくなったのでしょうか?あるいは、東京出身の谷崎だからこそ、関西弁の小説を書くことができ、関西出身の足穂だから関西弁を作品に使うことに抵抗があったのでしょうか?
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