小沢氏続投会見の後、大手新聞社などのマスメディアが伝えた、「小沢氏秘書、違法献金認める供述」という報道は、やはり、ウソでした。この誤報(捏造?)記事に対して、秘書に接見した弁護士が、「そのような事実はない」ことを確認し、新聞社に対して抗議を行ったとのことで、その抗議全文を朝日新聞から、下に転載します。
この抗議の記事がごく小さく社会面で扱われた一方、この記事のもとになった捏造記事は今でも、同じ朝日新聞のネットで削除も説明もされずに残っています。この抗議に対して、マスコミはいつもの無責任音頭で、何のコメントも訂正記事も何もなく、無視しています。捏造記事を書いた責任者は「説明義務」があると思いますし、事実と反することを平然と匿名で書き散らして、人々に誤った情報を流しながら、それを指摘されてもなお、誠実な対応というものをしないというのは、「人間として失格」である、と私は思います。
日本では、滅私奉公みたいな、組織のために個を殺すという悪習があります。この考え方が、民主主義を阻み、ファシズムを許すことにつながっていると思います。われわれは、「卵」の側に立たねばなりません。卵を阻む「壁」は、もともと、卵を守るために作られたもののはずです。その壁側に入ってしまった者は、壁という体制の中で、すでに「卵」である個人であることをやめ、組織の単なる部品となることで、自己保身を図ろうとします。新聞社で、捏造記事を垂れ流す記者は、既に人間であることをやめ、組織の部品と成り下がってしまったのでしょう。だから、「人間失格」なのです。彼らは、名前を持ちません。だから、自分の書いた記事に署名もしないし、ニュースソースを明らかにすることもありません。部品だから、善悪の判断もできず、何を書いているのかもわからないし、わかる必要もないと思っているのでしょう。
研究者であれば、捏造論文が明らかになった時点で、その人の研究者人生は終わりです。マスコミは学術論文などよりもはるかに影響力が大きいのに、書いた人は記事に署名さえしません。研究者の常識からすると、このような無責任で卑怯な行為がどうどうと為されいることは、(日本以外の先進国での常識に照らせば)既に犯罪であります。若い人でも「体育会系」とか言って、いまだに肯定的にこのファシズム思想を語る人がいますが、それは、体制側の思想であり、個人の尊厳を蹂躙し、「卵」をつぶそうとするものです。日本のマスコミや読者に足りないのは、記事を書いているのは、個人であるという認識ではないでしょうか。マスコミ人が、組織の中で、自らの責任を放棄し、匿名の気安さで、他人を名指しで貶めるようなガゼネタを平気で垂れ流す、そういう卑怯な態度に私は反吐がでます。
組織の効率のために(まして、体制側の利権を守るために)個人を犠牲にするようなことは、あってはならないことであると私は信じております。それは文化とかいうレベルの話ではありません。また、なにより悪いことは、この全体効率主義は暴走します。検察の今回の行動は暴走と言っても良いのではないでしょうか。安全とスピードは両立しません。腐敗しない権力はありません。だからこそ、常に属する個人がブレーキをかけ続けることで、組織は非効率である必要があると私は思います。
大久保隆規氏の起訴後、新聞、テレビ等において、同氏が政治資金規正法違反に係る起訴事実について、その大筋を認めている等の報道がなされているところですが、同氏の弁護人らの認識は全く異なっております。この点について、検察庁が前記の報道内容に沿った事実を公表することなどあり得ないことから、誤解に基づく報道ではないかと考えております。公判に向けて予断を排除するためにも、今後は、十分な取材に基づき、客観的かつ公正な報道を行っていただきますよう申し入れます。
この抗議の記事がごく小さく社会面で扱われた一方、この記事のもとになった捏造記事は今でも、同じ朝日新聞のネットで削除も説明もされずに残っています。この抗議に対して、マスコミはいつもの無責任音頭で、何のコメントも訂正記事も何もなく、無視しています。捏造記事を書いた責任者は「説明義務」があると思いますし、事実と反することを平然と匿名で書き散らして、人々に誤った情報を流しながら、それを指摘されてもなお、誠実な対応というものをしないというのは、「人間として失格」である、と私は思います。
日本では、滅私奉公みたいな、組織のために個を殺すという悪習があります。この考え方が、民主主義を阻み、ファシズムを許すことにつながっていると思います。われわれは、「卵」の側に立たねばなりません。卵を阻む「壁」は、もともと、卵を守るために作られたもののはずです。その壁側に入ってしまった者は、壁という体制の中で、すでに「卵」である個人であることをやめ、組織の単なる部品となることで、自己保身を図ろうとします。新聞社で、捏造記事を垂れ流す記者は、既に人間であることをやめ、組織の部品と成り下がってしまったのでしょう。だから、「人間失格」なのです。彼らは、名前を持ちません。だから、自分の書いた記事に署名もしないし、ニュースソースを明らかにすることもありません。部品だから、善悪の判断もできず、何を書いているのかもわからないし、わかる必要もないと思っているのでしょう。
研究者であれば、捏造論文が明らかになった時点で、その人の研究者人生は終わりです。マスコミは学術論文などよりもはるかに影響力が大きいのに、書いた人は記事に署名さえしません。研究者の常識からすると、このような無責任で卑怯な行為がどうどうと為されいることは、(日本以外の先進国での常識に照らせば)既に犯罪であります。若い人でも「体育会系」とか言って、いまだに肯定的にこのファシズム思想を語る人がいますが、それは、体制側の思想であり、個人の尊厳を蹂躙し、「卵」をつぶそうとするものです。日本のマスコミや読者に足りないのは、記事を書いているのは、個人であるという認識ではないでしょうか。マスコミ人が、組織の中で、自らの責任を放棄し、匿名の気安さで、他人を名指しで貶めるようなガゼネタを平気で垂れ流す、そういう卑怯な態度に私は反吐がでます。
組織の効率のために(まして、体制側の利権を守るために)個人を犠牲にするようなことは、あってはならないことであると私は信じております。それは文化とかいうレベルの話ではありません。また、なにより悪いことは、この全体効率主義は暴走します。検察の今回の行動は暴走と言っても良いのではないでしょうか。安全とスピードは両立しません。腐敗しない権力はありません。だからこそ、常に属する個人がブレーキをかけ続けることで、組織は非効率である必要があると私は思います。