百醜千拙草

何とかやっています

R.I.P. the King of Pop

2009-06-30 | Weblog
子供の時、フィンガーファイブの歌がヒットしたとき、彼らの歌はそれまでの歌謡曲とは随分違うと思いました。子供がリードシンガーのバンドというのも目新しくて、音楽番組で彼らの歌を良く聞きました。それから随分経ってから、ジャクソンファイブの「ABC」、「I want you back」や「I’ll be there」を聞いて、本物とイミテーションの差を実感しました。というより、振り返れば、それはマイケルジャクソンの突出したユニークな才能であったのだと思います。クインシージョーンズのプロデュースでソロとなり、82年、「Thriller」という不朽の名盤を出して、彼のキャリアはピークに達します。Thrillerが大ヒットした時、私は当時のクインシージョーンズのジャズやR&Bのロックとのクロスオーバーみたいな音楽には興味がなかったのですが、Thrillerのビデオを見て、マイケルジャクソンの才能に圧倒されました。この時期の彼のビデオや音楽を聞いて「才能が溢れる」という言葉を思い浮かべない人はいないのでは無いでしょうか。シンガー、パフォーマー、作曲家、それぞれのトップレベルの才能が、この個人の中に溢れている、私はそう思いました。
 32年前、エルビスプレスリーが死にました。長らくテレビに出る事もなく、忘れ去られようとしていた1968年に、42%という視聴率を叩きだしたTVコンサートで復活し、神話を作りました。そして今回、マイケルジャクソンはロンドンでの神話的復活コンサートの直前でした。エルビスは「The King (of Rock’n’Roll)」と呼ばれ、そして、マイケルジャクソンは「The King of Pop」と呼ばれました。エルビスは白人側からの黒人音楽へのクロスオーバーによって人気を得ました。そして、マイケルジャクソンは黒人音楽側から白人系ポップスへのクロスオーバーによってあらゆる層の若者にアピールしました。マイケルジャクソンがジャクソンファイブから脱皮しようとしたとき、そこにクインシージョーンズがいて、そして類い稀なる才能が存分に引き出されたのです。
 この才能ある二人、エルビスとマイケルジャクソンは、私の中でイメージが重複します。そして、二人の悲劇的ともいえる人生の後半を考えると、痛ましい思いがします。エルビスの場合はトムパーカーの演出像に縛られてしまったという感じがするのですが、マイケルジャクソンには、そんな特定の個人の存在はないものの(あえて言うなら父親でしょうか)、音楽のためにかけがえの無い子供時代、青年時代をショービジネスの中だけで過ごしたこと、それが彼の内向的な性格とあいまって、彼の人生後半の転落劇につながったのではないのか、という感じがします。マイケルジャクソンの死に際して、彼を知る有名人がテレビで思い出話を披露していました。グラディスナイトがたまたま出ていました。マイケルジャクソンも彼女のようにキャリアのピークを越えた後、もっと自然体で音楽とつきあって行くことができなかったのだろうか、と思いました。「We are the World」の時、一緒に歌ったスティービーワンダー、ライオネルリッチーや、あるいはスモーキーロビンソンやクインシージョーンズみたいに、キャリアの後半、もっと肩の力を抜いて、もっと自然に、ジャクソンファイブのころの気持ちに戻って、活動することはできなかったのだろうか、と思います。「Thriller」で頂点に達した時、そこできっと何かが限界点を越えてしまったのだろう、そんな気がします。その時に、自分の殻から外へ出て、自然体で開き直っていたら、今回のような死に方はしなかったのではないか、そうできていたら、あのobsessiveな整形手術やエキセントリックなライフスタイルに落ち入ることもなかったのではないか、そんな気がします。
 エルビスとマイケルジャクソンは黒人音楽と白人音楽とのぶつかり合う所のエネルギーにのって王座に上り詰めました。現在、音楽シーンはより多様化し、交じり合っていて、そこに以前のようなはっきりした住み分けも、ぶつかりあいもないように思います。あえて言うなら、ラテンは、北米やヨーロッパのポピュラー音楽と余り交じり合うことなく独自路線を行っているように思いますが、ラテンが、クロスオーバーすることで、新しいスターが生まれる可能性は、スペイン語という言語の壁のために、低いと思います。(もちろん、これまで、グロリアエステファンとかリッキーマーティンとか英語でのラテンポップスのヒットはありましたし、60年代のブガルーに代表されるラテンフュージョンが流行したことはありましたが、エルビスやマイケルジャクソンのように世界的規模の影響力を持ったスターが現れることはありませんでした)
 再び、「King」と呼ばれるような才能が近々、現れることがあるのでしょうか。あるとしたら、どんな形で現れるのでしょうか。私には今は見えません。
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本命に全額

2009-06-26 | Weblog
6/12号のScienceのフロントページで、今回の日本の2700億円の科学研究費を30人の天才に振り分けるという(私からすると、気違い沙汰の)政策について、一ページを割いてあります。ニュートラルな立場で書こうとしているのはわかりますが、端々に皮肉のような表現が散りばめてあります。表題に、Science Windfall Stimulates High Hopesとあって、その後にダッシュして、and Political Maneuveringとあります。この Political Maneuvering が正確に何を意図しているのか本文を読んでも曖昧です。研究者が政治力を使って、その資金獲得を狙うという意味にも取れますし、あるいは、政治家がこの政策を駆け引きの道具として使っているという言うような意味にも取れます。
 この記事では、この大盤振る舞いは、「世界をリードする研究」を支援するためのプログラムであり、野田聖子が昨年科学技術庁への就任後に、研究者がグラント書きに忙殺されて研究している時間がないという不満を知って思いついたとあります。写真入りでの野田聖子の紹介には、職業政治家であり、まったく研究に関連した責任職を経験したことがないと書いてあります。これは、経験がないからこそ思い切った政策が取れたという意味かもしれませんが、素直に読むと、研究がどのように進むものか知らないのに、大金を集中投下すれば世界をリードする研究が推進できると考えるナイーブさを揶揄しているように取れます。そして、これは完全にバカにしていると思うのですけど、首相のアホウ氏が、「自ら研究費の受領者の最終決断をする」と宣言した、と書いたあとで、「驚くまでもなく、大勢の研究者が偏った資金の配布になると心配している」とあります。
 一方で、京大の本庶佑は、このプログラムは資金の使用は従来のグラントに比べてフレキシブルであり、よい先例をつくるであろうと述べています。(他に誉めるところが無かったのですかね)このために現在、研究費の使用法(多年にわたっての使用が可能となる)に関する法律の改正を行おうとしているところであるとあります。確かに単年度ごとに研究費を清算させるという現行のやりかたでは、年度末に、資金が余りそうになって余計なものを買い込んだり、逆に足りなくなってあわてるということがありますから、多年度でフレキシブルな資金使用が可能となれば、ムダも省けますし、効率もよくなると思います。しかし、そんなことは当たり前のことで、何も2700億円の大盤振る舞いをしなくても、研究費使用に関する法律をちょっと改善すればすむことです。研究者はとにかく研究費が欲しいのですから、どんなひどい政策でも、自分のところの研究資金が増えるような政策には賛成します。某元大学教授は、研究者にとっての研究費は、馬の目の前にぶらさげられた人参のようなもので、反射的に喰いつくのだ、と言っています。ま、その通りです。だからこそ、大きな長期的視点で研究界を睥睨して政策を決めることが必要だと思うのですけど、このような素人の思いつき政策で、何も知らないアホウ氏が最後は自分が決める、とか言っているような、無茶を見過ごしていてよいのでしょうかね。
 岡目八目で見れば、今回の2700億という資金は、愚かな金の使い方であろうと思わざるを得ません。研究の当たりはずれは競馬で勝ち馬を予想するようなものです。ある程度の資質と研究力のある人なら、誰でも大発見をする可能性はあるのです。今回の金の使い方は、本命単勝に全額賭けるようなものといってもよいでしょう。しかも本命と穴馬の差は極めて小さいということをアホウ氏は当然として、野田さんもわかっていないのだと思います。

その後、自民党古賀氏が、もとお笑いタレントの宮崎県知事に出馬を打診して、コケにされた、という話を聞きました。あきれて言葉もありません。末期を自覚しているのなら、じたばたせず、せめて、去り際はきれいにするのが日本人の美意識というものだと思うのですけど。
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研究界の老若男女

2009-06-23 | Weblog
柳田先生のブログで、日本の研究環境で、性別や年齢による差別のある問題について、アメリカとの対比で、議論されているのを読みました。アメリカでは、雇用や昇進条件において、性別人種を問わず平等を明記してある研究所が普通です。(もちろん、建前があるからといって、差別がないわけではありませんが)加えて、所謂、「Affirmative action」によって、女性や少数民族や人種に対する優遇処置のある場合も多く、研究現場に女性は多いです。私はこのAffirmative actionに対して、以前は余りよく思っていませんでした。いわば、これは逆差別なわけです。例えば、アメリカの一流大学にはアジア人枠が決まっていて、アジア人の入学を制限しています。そうしないと、一流大学はアジア人ばかりになってしまうからです。一方、黒人やヒスパニックの特別枠もあり、そういう枠を利用すると、真っ向勝負ではアジア人に勝てない少数民族(人種)の人でも、よりよい大学に入ることができたりします。各個人の観点からみると、別に自分の意志で、人種や性を選んだわけではないのに、それによって不利(あるいは有利)な競争を強いられる不公平な制度であります。 しかし、いくらAffirmative actionで女性の研究者が増えても、研究の生産性を考えたら、フルタイムで研究に集中できる男性研究者と、子供や家庭の世話をしながら働く女性とでは、差がでるのは当たり前で、現実には、トップレベルの女性研究者は、女性とは言いながら、シングルであることを選択したり、理解のある夫のサポートがある例に限られるというのが現実ではないかと思います。残念ながら、現在の研究資金の限られた現場で、研究者でありつづけるためには、生存競争に勝ち続けるしかありません。周囲を見回すと、研究者を志して研究の世界に入った人のうち、独立研究者として生き残れる人は、10人のうちの1-2人ぐらいではないかと思います。フルタイムで必死でがんばってもその程度なのですから、子供や家庭の世話をしなければならない女性研究者は困難です。それでも、そんな生き残り競争の中でも、弱者を守って、強いものだけのモノポリーとならないようにするシステムは、研究界全体の視点から見ると、必要なのであろうと私は思います。Affirmative actionは女性と男性の公平を目指しているのではなく、女性ならではの研究センス、ユニークさを残し、研究上の多様性を維持するためのシステムだと考えれば、存在理由に納得がいきます。あいにく、現実には、Affirmative actionによって、研究上にどのようなメリットがあるかは、測定、評価できません。ただ、アメリカでは、研究は市場原理だけにゆだねてはいけない、ということを研究者や研究政策担当者は理解しているということだと思います。なぜなら、研究の指向性は一定ではないからです。市場原理は強いものが勝ち、それによって、市場は効率化する、という理屈ですが、研究には明快な勝ち負けはありません。研究は効率的であるよりも、むしろ効率を目指さない方が長期的には益が多いと私は思います。だからこそ、2700億円を30人に集中投下するようなことは愚の骨頂であると思っています。特に基礎研究に外部から指向性を与えてはいけません。結局、そうすると局所最適解を得るのには良いかも知れませんが、その局所解が長期的に最良とは限りませんから、もし別の所に方向転換しないといけないとなった場合に、その間にないがしろにした分野を一からやり直さなければならなくなります。長期株式投資の最良かつ最もリスクの低い方法はインデックスファンドを買って、必要になるまで売らないことだと思います。リスク分散のためのDiversificationは、同時に長期的にはリターン効率を最も高める方法でもあります。研究界でも、全体としての効率を長期的展望でみるならば、研究分野や資金を集中してはいけません。まずは、できるだけ広く、そこそこの資金を行き渡らせる必要があります。ひろく浅くバラまく金がないのに、弱者を犠牲にして強者だけに金を集めるのは長期的に非常に有害であろうと私は思います。
  女性研究者のクリティカルマスが必要なと言うのは、女性ならではの研究があるからではないかと思います。私の個人的な印象ですが、研究分野の得意、不得意が男女で差があるように思います。近代生物学研究に限っておおまかなトレンドを追うと、生化学の時代があって、70年代からの分子生物学の時代となって、ここ20年は分子遺伝学の時代、そんな感じがします。分子生物学的手技を使った実験系は、バンドがでる、でないといった比較的抽象的な情報を使って、論理で全体像を構築する、そういう仕事が多いと思うのですが、この手の研究は(例外も思いつきますが)、やはり男性が得意だと思います。対して、画像的情報を使って、より直感的な解釈が可能な研究、例えば、発生生物学などで組織の染色などを使うような研究は、女性の研究者が多いように思います。私は、女性は、画像的データの直感的解釈、男性は、抽象的データの論理的解釈、が得意(あるいは好き)なのではないか、と想像しています。私は、マウスを扱っているので、普段は、組織の写真を見ていることの方が最近は多いですが、バンドのデータを見て、いろいろその背後を想像するのも好きです。仮説を考えて、論理的に証明していく、という謎解きのプロセスがじっくり味わえるのは、抽象的データを扱っている時の方が多いような気がします。
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アホウさんお笑い劇場

2009-06-19 | Weblog
先日の記者会見での話。
自民党代議士会で、古川環境政務官が「我々自民党はこの際、大政奉還を決断して、国民の懐にふかく帰るべきだ」と、総理の退陣を求めるともとれる発言をしたが、どのように受け止めたか。との記者の質問に、アホウさん、こう答えました。

 「あの、大政っていうのは、奉還するっていうのは、何の大政をどう奉還するのか、ちょっと、正直、意味が分かりませんでしたので、どういう意味かなーと思って、拝聴していましたけど、いずれにしても、あのー、若い方々には、緊張感っていうものが、非常におありになるんだというように受け止めましたけども」

このアホウさんの発言、余りにおかしくて、大笑いしてしました。確かにこの質問にまともに答えるわけにはいかないのはよくわかりますが、質問をそらすにしてもやりかたがあるでしょう。「どういう意味かなー、わかんないなー」というのは、「ここはどこ?私はだれ?」と言うのと同じではないでしょうか?自民党員自身が、自民党が余りに国民を蔑ろにしてために支持を失って来たことに危機感を持って、何とかしなければならない、と言っているのに、言うに事欠いて「若い方には緊張感っていうものが非常におありになる」というのは、どこのバカ殿のセリフでしょうか?これは「パンがないならケーキを食べればいいじゃない?」レベルですね。この発言、是非、全国の自民党支持者の人に聞いてもらいたいです。しかし、ここ数代の首相を見ていて思うのは、自民党には本当に人材がいないということですね。世襲で二代目、三代目のボンボンというのが悪いのでしょう。

 第二回目の民主、自民の党首会談では、鳩山(弟)大臣の辞任のもとになった日本郵政社長人事に触れ、「民主が政権をとったら、社長を辞めさせる」との鳩山(兄)代表に対し、アホウさんは民間会社の社長人事への政府の介入には慎重でなければならない、と心にもないことを言いました。そもそも、社長を辞めさせるという線でアホウさんと鳩山(弟)大臣が一緒に動いていたのに、小泉竹中に脅かされて、日和ってしまい、挙げ句に血迷って、鳩山大臣の方を切ってしまった、という話だそうですから、何をかいわんやです。国民の多額の財産を預かる国営組織を、安値で切り売りするために形の上だけ民営化したくせに、民間会社だから政府の介入はまずいとは、余りに情けない言い訳です。自分でも政府が100%の株主であると言っているのですから、株主がダメ社長を罷免するのは当然でしょう。
 アホウさん、選挙に勝つ見込みが無くなったので、投げやりになっているのでしょうか。あるいは、本当に単なるバカ殿だったのでしょうか。鳩山総務大臣の更迭で評価を下げた所なのに、次々と自爆を繰り出すアホウさん、これは来月始めの玉砕解散の線が濃厚となってきました。
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子供と如々

2009-06-16 | Weblog
さわやかな週末でした。土曜日に午後、下の子供が小学校の校庭で遊びたいというので、連れて行きました。子供は早速、二人の友だちに電話して話しをとりまとめ、私は、その子たちを拾って、小学校までついて行きました。校庭には大きな楓の樹があって、その下の木陰のベンチに座って、子供たちが原始的なボール遊びをしているのを、横目に見ながら、今月末の締め切りのグラントの推敲をしました。仲良く遊んでいると思っていたら、次の瞬間には喧嘩をしていて、仲裁に入ると、また一緒に何事もなかったかのように遊んでいます。いつまでも細かいことを根にもつ大人とは違って、子供はで自然でさわやかです。「如々として別事なし」という調子です。そのうち、近所の子供が一人やってきて、4人になりました。気温が上がって来たので、4人を連れて、近所のコンビニまで行って、シャーベットを買ってきて、一休みさせて、引き上げることにしました。子供たちに「ありがとう」と言われて、「楽しくさせてもらっているのは、こちらの方だな」と思いました。子供の時、父のなじみの飲み屋などに連れられて行くと、そこのおかみさんみたいな人が、「ぼく、ちょっとおいで」とにこにこしながら、近所の駄菓子屋まで連れて行ってくれて、お菓子を買ってくれたことを思い出します。子供ごころに、どうして、そんなに親切にしてくれるのだろう、と思った記憶があります。私がお菓子を受け取るのを、にこにこしながら見ているのです。「ありがとう」とお礼を言ったのか言わなかったのか、記憶は定かでありません。子供の喜ぶ顔を見るというのが、大人にとってなぜうれしいのか、その理由はよく分かりませんが、気持ちはよく分かるようになりました。子供の素直な反応を見るのが面白いのかもしれません。自分が老いて死んだ後に地球を引きついでくれる子供に何かしてあげれることがうれしいのかも知れません。
そんな夏の午後でした。
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ニュース雑感

2009-06-12 | Weblog
今週は、何かと注意を引く出来事が多い週でした。それらについての感想を。

人口14億の中国という大国を、中国政府が治められるわけがないと私は思います。インド、ロシアと接した辺境の地の中国には、きっと中国政府など関係のない話だと思っている住人も多々あることでしょう。チベットのように中国人が入って来て占領されたような場所では尚更でしょう。日本が大陸に侵攻して、満州を作った時、アジアにおけるアメリカ合衆国のような理想郷を夢見た一般人は日本人も中国人も含めて、多かったはずです。しかし、現実は、日本の軍事侵攻による植民地化にしか過ぎなかったわけで、満州での中国人は日本人よりも一段低い処遇しか与えられませんでした。中国は確かに大国ですが、旧ソビエト連合のように、大き過ぎて纏められない、のではないかと思います。また、中国人気質とでもいうか、極めて現実的な思考様式がありますから、中央の中国人でさえ、中国という国家を本当に信じていない可能性もあると思います。中国が国家としての体勢をこのまま維持するためには、国民の意識のコントロールが必要なわけで、多分、そのために、外目には滑稽なだけの、北京オリンピックでの様々なやらせ、パフォーマンスや情報コントロールを行って、中国国民への愛国心の植え付けを試みたのでしょう。チベットに対して、政策上、弱気に出るわけにいかないのはわかりますが、中国政府、どうみても、無理に無理を重ねています。無理はいずれ破綻します。その破綻するのがわかっているのに、無理を通そうとして、人々に迷惑をかけ、世界の顰蹙を買っているのが、今の中国政府であり、中国政府はその長期的な弊害を過小評価している、と私は考えざるを得ません。
人権宣言がなされたフランスのパリ市が、ヒューマニタリアンの代表的存在としてダライラマにパリ名誉市民を与えたことは、ごく当然のことであると私は思います。一方、これに目くじらを立てて抗議する中国政府は、「ちょっといい加減にしなさいよ」という感じです。これが、フランスが国として中国のチベット占領に対して抗議し、ダライラマ氏を政治的な意味で支持したというのなら、中国政府が抗議するのもわからないではありません。パリ市が個人に与えた名誉市民の称号は、中国政府を非難しているわけでも何でもないわけで、にもかかわらず、チベットの指導者が外国でちやほやされるのが気に喰わないのは、それによって中国国民の洗脳効果が薄れることを心配しているからであろうと思います。それほどまでに、中国政府は切羽詰まっている、そう私には見えます。

西松献金事件での第三者委員会の報告の内容が報道されています。小沢氏には、献金がどう使われたか、という点で説明が不十分であるとされましたが、主には、検察による秘書の不当逮捕、と検察側が権力の乱用について説明をしていない、などと検察への批判が重点を占めるのもでした。正しい意見だと思います。検察と同様にデマ記事を垂れ流したNHKも含む大手メディアも、糾弾されるべきです。今回の事件では、(今回の事件に限りませんが)彼らは、何をやっても、自らの身に危険は及ばないと思っているのでしょう。権力や権力の犬を放し飼いにしていてはならない、そんな国民の気分が、新聞購読の減少、や冤罪事件での検察への強い批判として、現れて来ていると思います。政権交代間近ですが、その暁には、是非とも、官僚政治解体を実現し、権力に尻尾を振るだけのマスコミに矜持という言葉を思い出させてやって欲しいものだと思います。

2700億の研究費を30人に集中投下するという馬鹿げた科学研究政策については、しばらく前に批判しましたが、数日前の柳田先生のブログでも、散々で、柳田先生のこの政策への怒りが溢れていました。政策担当者、研究業界の方に、読んでもらいたいと思います。柳田先生の提言はこちら

ワシントンDCのホロコースト博物館で、白人至上主義者の老人が発砲し、黒人スタッフが死亡とのこと。悲しい、胸の悪くなる話しです。八十過ぎるまで生きて来て、何を学んできたのか、と思わざるを得ません。毎日、何を考えて生きて来たのでしょうか。小人閑居して不善を為す、という言葉を思い出します。一方、Scienceのゴッシップ欄では、トランジスタの発明でノーベル賞を貰ったShockley氏の遺産の土地を公園にするに当たって、公園に彼の名前をつけるかどうかでもめています。Shockely氏は人種偏見者で、黒人は知能が低いと言い、IQの低い人は避妊すべきだと考えていたそうで、市民は彼の名前を公園に残すのに抵抗しているということです。Shockley氏が、このように考えていること自体が、この人の知能の低さを表しています。知能の低い人が別人種の知能が低いと言うのだから、つける薬がありません。公園については、もしも、名前を外すことができないのであれば、名前の下に次のような文を入れるという妥協案を市は提案しているそうです。
「この公園はあらゆる人種、民族、信仰、教育レベル、知能、職業の平和と調和の中で共に生きる人々のためのものです。黒人アフリカ系のバラクオバマがアメリカ大統領となった2009年に寄贈されました。」
ノーベル賞をもらっても、隣人に嫌われるようではいけません。
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仏教聖典を読んで

2009-06-09 | Weblog
フレンチオープンのフェデラーの優勝は複数の点で意味深いものですが、今年は、なぜか、もうテニスについて蘊蓄する情熱が湧きません。かわりにこの前、読んだ本の感想を。

仏教伝道協会という組織が仏教を広めるために編纂した仏教聖典という小本が図書館にあったので、借りてきました。聖書やコラーンと違い、仏教には皆が手軽に使える定本みたいなものがありません。そして仏教の経典や伝本を集めると膨大な量になるので、伝道教会は、おそらく仏教における聖書のようなものを意図して、有名なものの中からところどころを抜き出して、編纂したもののようです。聖書には、人生で何か困った事があったときに聖書の中の話を参照できるように、索引がついていますが、同様の工夫がこの本になされていることから考えても、ホテルなどに聖書とならんで備えてもらうようなことを想定して作られたようです。見開き左が英訳で日本語は右ページになっています。1966年に初版のようで、なかなか面白く読めました。聖書のような定本があるのは、善し悪しとも言えます。勘違いする人は、キリスト原理主義みたいに、書いてあることを例え話と考えずに、真実であると信じ込んだりするわけですし。そもそも、文字になった時点で、既に真実ではないと言ってもよいと思います。イスラムの子供たちはコラーンを丸々暗記、暗唱するそうです。文字に書かれたものは、どうしても編集されたり、変更されたりするので、そうならないように信者が全員丸暗記し、教えを口承するのだという話を聞いたことがあります。禅仏教においては、教えは教典に書いてある事からだけからは学べない、禅の教えは文字に頼らない、ということを「教外別伝、不立文字」という言葉で明言しています。というわけで、「聖典」という小本を編むことは、功罪あるわけですが、仏教になじむという観点から、また、私のように娯楽として読むという点からは、有益なものであろうと思います。

その本の中にあるたくさんのちょっとした寓話が面白かったです。その一つ一つが考えさせられるものであったり、冗談のような話であったり、するのですが、そのうちから一つ、心に残ったものを紹介します。もう本は返してしまったので、正確ではありませんが、こんな話です。
 頭が二つある蛇がいました。一方の頭はいつも要領よく、美味しいものばかりを食べています。一方、もう一つの頭は、余り美味しいものを食べることができません。そのうち、要領の悪い方の頭は、美味しいものをいつも食べて幸せそうにしている方の頭に、妬み心をおこします。もう一方の頭に思い知らせてやろうと考えて、毒の果実を食べると、その毒が全身に回って、二つの頭とも蛇は死んでしまった、という話です。
 ここで、要領のよい頭が、なに不自由なく育った二代目のボンボンとして、もう一方の頭が、貧乏に生まれついて、安い賃金でそのボンボンに仕えている使用人であるとすると、彼ら二人が共に幸せになるにはどうすればよいか、という話へ転換可能だと思うのです。人はだれでも一つしかない地球に住む同胞であると、私は考えたいと思っています。要領の悪い頭は、きっと、「世の中は不公平だ、なんで、俺だけ、こんな目にあわねばならないのだ。金持ちに生まれついて、へらへらと楽しく世の中を渡っている奴が憎らしい」みたいなことを、思ったのでしょう。この思考において、「世の中は不公平だ」と思うのは問題ないと私は思います。その通りだと思いますから。しかし、「なんで俺だけ」というのは思い込みで、正しい認識ではないでしょうし、まして、「楽しくしている奴が憎らしい」というような気持ちを持つようになるとまずいです。この蛇の寓話では、要領の悪い頭は、普段から美味しいものも食べられず、それを不満に思い続けた挙句、妬み心を起こして、破滅します。ここでは何一ついいことはありません。一方、要領のよい頭の方は、妬まれて、結局、死にますが、少なくとも、普段から美味しいものを食べて楽しくしていたのですから、まだまし、であると思います。つまり、要領の悪い頭は、自らの不運を自ら増幅して、自ら不幸を招いてしまったということです。一方、要領のよい頭は、もう一方の頭の欲求不満を思いやることができずに、自爆テロに巻き込まれることになってしまいました。
 この話を聞く人は様々な立場で教訓を読みとることができるでしょう。「人を呪わば穴二つ」というレベルで解釈することもできますし、人間は「友愛」を持って、同胞を思いやらねばならない、と考える人もいるでしょう。
 不運な境遇を得難い学びのチャンスであると考えると、要領の悪い頭の方は、よい課題を与えてもらったのに、それを嫌な宿題だとしか考えることができずに、せっかくの機会を無駄にしてしまったとも考えられるでしょう。要領のよい方は、学びの機会を自ら探すことを怠り、与えられた幸運を自分で浪費することしかしませんでした。どちらにも悪い点があるのですが、どちらの罪が重いかと聞かれれば、教えてもらったのに学ぼうとするどころか、それを恨みにさえ思った、要領の悪い頭の方が罪が重いのではないかと私は思います。
 この本の他の部分には、「忍び耐えること」の重要性が何度も説かれています。よく忍び耐える者が、もっとも豊かな学びを手にするものであると書いてあります。耐え忍ぶ機会を与えられること自体、幸運なのだと思います。「苦しみは啓示である」とオスカーワイルドも言いましたし、「貧しい人々は幸いである」と聖書にも書いてあります。
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冬のインフルエンザ

2009-06-05 | Weblog
5/22/09号ScienceのNewsのセクションもインフルエンザの流行を扱っています。過去のインフルエンザの流行パターンから今回のブタインフルエンザが、冬になってからどう流行するか予想できないかという点について議論がされています。
 インフルエンザがどう流行するかを読むのは困難なようです。前回の1976年、ニュージャージーの軍隊で見つかったブタインフルエンザの場合は、流行を恐れたアメリカ政府の対応は結果的には過剰反応に終わりました。ワクチンを開発し、接種を始めた所、結局、インフルエンザによる死者は一名のみ、ワクチンによる副作用での死者が25名という皮肉な結果となったそうです。しばらく前の号によると、今回のインフルエンザに対するワクチンの開発も始まっているようで、大流行の恐れがあれば、生ワクチンを考慮するという話があったように思います。生ワクチンは、低温(25C 鼻粘膜の温度)でしか増えることの出来ないウイルス株を単離して、鼻粘膜に接種するという方法で、これだと、極少量のワクチンで済み、十分に免疫が出来るまでウイルスが増え続けるので、ブーストの必要がない、という利点があるらしいのです。勿論、不活化ワクチンに比べると、危険性が高いと考えられます。しかし、インフルエンザシーズンまでに、国民に行き渡るほどの量の不活化ワクチンを作るだけの生産キャパシティーはどうもないらしいです。
  今回のブタインフルエンザは、これから北半球の気温が上がって行くに従って、南半球へ移動し、その間に性質を変え、冬のシーズンの到来に伴って、北半球へ帰って来て、流行を引き起こす、というシナリオが考えられています。(しかし、H3N2の例での過去の検討では、多くが東南、東アジアで始まって、南半球へ南下はするものの、それが再び北半球へ戻ってくることは認められなかったそうです。)H1N1ウイルスの親株は、ヒト、ブタ、トリに感染できる節操のないウイルスで、今回のブタインフルエンザもこの先、インフルエンザシーズンまでの間に、多種の動物への感染を通じて、他のインフルエンザウイルスとの間で遺伝子のやり取りを行い(Reassortmentと呼ばれる現象だそうです)、抵抗性や毒性を獲得し、強力化する可能性が心配されています。
 結論は、インフルエンザの流行は予測不可能であるということなのですけど、この記事の図に示されている過去の何度かの流行パターンをみると、今回のブタインフルエンザは、1889 – 1892年のロンドンでのインフルエンザ流行に近いように思います。この時は、1889年の冬のシーズンに小さな流行があり、一年後のシーズンが終わった3 –6月の間に、中規模の流行があり、その後、同じ年の冬のインフルエンザシーズンに大流行しています。このパターンを踏襲するという何の根拠もありませんが、今回、ブタインフルエンザがこのまま一段落するとすると、そのぶり返しは今年の12月からのインフルエンザシーズンにやってきて、大流行するのかも知れません。とすると、本当に必要なのはこの冬の対策ということで、今回の失敗を踏まえ、政府には、よりよい対応策を事前に十分論議しておいて貰いたいと思います。

追記、Scienceのブログコーナーでインフルエンザ情報が継続して発信してあるのを見つけました。
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臭い匂いは元から絶つ

2009-06-02 | Weblog
5/21/09号のNatureのCommentaryとEssayのセクションはインフルエンザの流行を扱ったものでした。これによると、1918年のスペイン風邪の時はいは、3500万から一億人が死んだということで、これは最大、当時の人口の5.5%にあたるものでした。生命保険会社のデータによると、アメリカでは労働人口の3.26%がこの疾病により死亡したらしいです。罹患率が25 - 40%とすると、致死率、8 -13%という恐ろしいものでした。これは主に、第一次世界大戦にともなう兵隊の移動によって、ヨーロッパ中に伝播したわけですが、アメリカでは、当初、この疾患の流行が緩徐であったこともあり、このインフルエンザを余り重大視しておらず、過剰な警戒は恐怖感を増大させて、社会に悪害が多いとの判断で、政府および地域行政、メディアは常に流行の現状、帰趨について、楽観的な見解を示し続けました。新聞や行政は、国民に正確な流行情報を伝えることをせず、結果として、行政やメディアに対する国民の信頼は失墜し、アメリカ国民は、過剰な恐怖に捕らわれ、労働者は欠勤し、多くの社会機能が麻痺に陥り、社会そのものが消失する危機に瀕したとのことです。一方、サンフランシスコでは、積極的に情報開示とキャンペーンを行い、比較的パニックが少なく、社会機能の麻痺が軽度であったとあります。興味深いことに、今回のH1N1インフルエンザでは、日本の過剰な反応が、世界から異様な目で見られていますが、1918年のスペイン風邪の場合のサンフランシスコでは、当局と赤十字が、マスクを着用するキャンペーンの広告を出し、積極的に情報開示と疾病予防に務めたそうです。Natureには看護婦さんらしい人が顔の下半分を覆うようなマスクをした古い写真が沿えらています。新聞広告には、「マスクをして命を守ろう。ガーゼマスクはインフルエンザに対して99%有効」とあります。今回のインフルエンザでは、一般国民の多くがマスクをしているのは日本ぐらいのものだろうと思うと、当時のサンフランシスコと現在の日本の政府のインフルエンザ流行に対する対応は相似でありながら、その効果は殆ど逆であったというのは皮肉です。
 ところで、このCommentaryとEssayの両方の中心のメッセージは、「流行病に当たっては、一般国民への正直で公正な情報の開示が重要である」ということのようです。政府がパニックを恐れて、情報開示をためらったり、逆に、今回の日本のように過剰反応することは、いずれも有害な結果をもたらします。先日の朝日新聞では、現役検疫官公衆衛生専門家で、今回の政府のインフルエンザ対策の筋が悪いことを批判してきた木村盛世医師を、参院での意見を求める参考人として招聘するかどうかで紛糾し、当初の招致の判断が覆えされたというニュースがありました。インフルエンザ政策批判を恐れる与党と厚生省が出席に反対したという話で、木村さんのウェブサイトでは、その厚生省の態度を、「くさいものには蓋をする隠蔽体質で、彼らたちの大切なのは自分の進退であり国民の安全ではない」と批判されています。
 スペイン風邪は、社会機能の麻痺を恐れたアメリカ政府、地域当局が、正しい情報を国民に開示しなかったために、必要以上のパニックを引き起こす結果となりました。今回の日本では、与党、官僚が、おそらく政治的目的のために、インフルエンザ騒動を必要以上に煽り、その政策に批判的な専門家の意見を封殺しようとしました。この国においては、官僚、その傀儡となっている自民党こそが、第一にメスを入れられるべき病巣となっているようです。
 インフルエンザに関しては、スペイン風邪の恐怖を思い出して、当初、過剰反応するのはやむを得ないことではないかと思います。H5N1、トリインフルエンザの時も、中国では当局の誠実な情報の伝達がなされず、国民をパニックに陥れました。今回の日本の大騒ぎでは、疾病の現状が徐々に明らかになり、毒性が比較的強くないこと(スペイン風邪の時は感染した目や耳からも出血を起こし、フィラデルフィアでは毎日数百人の単位で人が死んで行ったらしいです)や感染伝播の状況などが分かって来た段階で、当初の方針を見直し、改善していく、国民には状況や専門家および政府の見解を正直に伝える、そういう誠実な態度に欠けていたのではないか、と感じられます。政府が政策についての「説明責任を果たしていない」のではなかったかと思います。
 政権交代がいよいよ現実味を帯びて来た今、与党政治家と官僚は、失敗を非難されることを恐れています。自らの身が危ないことを感じているので、誤りを認めたくないのでしょう。これまで、臭いものには蓋をする隠蔽体質が、臭いものをますます溜め込むことに繋がり、現在の日本の役人、政治家の腐敗を助長してきたわけで、今回の選挙で、政権交代を通じて、臭いものを元から断ってもらいたい、と私は願っています。
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