子供の時、フィンガーファイブの歌がヒットしたとき、彼らの歌はそれまでの歌謡曲とは随分違うと思いました。子供がリードシンガーのバンドというのも目新しくて、音楽番組で彼らの歌を良く聞きました。それから随分経ってから、ジャクソンファイブの「ABC」、「I want you back」や「I’ll be there」を聞いて、本物とイミテーションの差を実感しました。というより、振り返れば、それはマイケルジャクソンの突出したユニークな才能であったのだと思います。クインシージョーンズのプロデュースでソロとなり、82年、「Thriller」という不朽の名盤を出して、彼のキャリアはピークに達します。Thrillerが大ヒットした時、私は当時のクインシージョーンズのジャズやR&Bのロックとのクロスオーバーみたいな音楽には興味がなかったのですが、Thrillerのビデオを見て、マイケルジャクソンの才能に圧倒されました。この時期の彼のビデオや音楽を聞いて「才能が溢れる」という言葉を思い浮かべない人はいないのでは無いでしょうか。シンガー、パフォーマー、作曲家、それぞれのトップレベルの才能が、この個人の中に溢れている、私はそう思いました。
32年前、エルビスプレスリーが死にました。長らくテレビに出る事もなく、忘れ去られようとしていた1968年に、42%という視聴率を叩きだしたTVコンサートで復活し、神話を作りました。そして今回、マイケルジャクソンはロンドンでの神話的復活コンサートの直前でした。エルビスは「The King (of Rock’n’Roll)」と呼ばれ、そして、マイケルジャクソンは「The King of Pop」と呼ばれました。エルビスは白人側からの黒人音楽へのクロスオーバーによって人気を得ました。そして、マイケルジャクソンは黒人音楽側から白人系ポップスへのクロスオーバーによってあらゆる層の若者にアピールしました。マイケルジャクソンがジャクソンファイブから脱皮しようとしたとき、そこにクインシージョーンズがいて、そして類い稀なる才能が存分に引き出されたのです。
この才能ある二人、エルビスとマイケルジャクソンは、私の中でイメージが重複します。そして、二人の悲劇的ともいえる人生の後半を考えると、痛ましい思いがします。エルビスの場合はトムパーカーの演出像に縛られてしまったという感じがするのですが、マイケルジャクソンには、そんな特定の個人の存在はないものの(あえて言うなら父親でしょうか)、音楽のためにかけがえの無い子供時代、青年時代をショービジネスの中だけで過ごしたこと、それが彼の内向的な性格とあいまって、彼の人生後半の転落劇につながったのではないのか、という感じがします。マイケルジャクソンの死に際して、彼を知る有名人がテレビで思い出話を披露していました。グラディスナイトがたまたま出ていました。マイケルジャクソンも彼女のようにキャリアのピークを越えた後、もっと自然体で音楽とつきあって行くことができなかったのだろうか、と思いました。「We are the World」の時、一緒に歌ったスティービーワンダー、ライオネルリッチーや、あるいはスモーキーロビンソンやクインシージョーンズみたいに、キャリアの後半、もっと肩の力を抜いて、もっと自然に、ジャクソンファイブのころの気持ちに戻って、活動することはできなかったのだろうか、と思います。「Thriller」で頂点に達した時、そこできっと何かが限界点を越えてしまったのだろう、そんな気がします。その時に、自分の殻から外へ出て、自然体で開き直っていたら、今回のような死に方はしなかったのではないか、そうできていたら、あのobsessiveな整形手術やエキセントリックなライフスタイルに落ち入ることもなかったのではないか、そんな気がします。
エルビスとマイケルジャクソンは黒人音楽と白人音楽とのぶつかり合う所のエネルギーにのって王座に上り詰めました。現在、音楽シーンはより多様化し、交じり合っていて、そこに以前のようなはっきりした住み分けも、ぶつかりあいもないように思います。あえて言うなら、ラテンは、北米やヨーロッパのポピュラー音楽と余り交じり合うことなく独自路線を行っているように思いますが、ラテンが、クロスオーバーすることで、新しいスターが生まれる可能性は、スペイン語という言語の壁のために、低いと思います。(もちろん、これまで、グロリアエステファンとかリッキーマーティンとか英語でのラテンポップスのヒットはありましたし、60年代のブガルーに代表されるラテンフュージョンが流行したことはありましたが、エルビスやマイケルジャクソンのように世界的規模の影響力を持ったスターが現れることはありませんでした)
再び、「King」と呼ばれるような才能が近々、現れることがあるのでしょうか。あるとしたら、どんな形で現れるのでしょうか。私には今は見えません。
32年前、エルビスプレスリーが死にました。長らくテレビに出る事もなく、忘れ去られようとしていた1968年に、42%という視聴率を叩きだしたTVコンサートで復活し、神話を作りました。そして今回、マイケルジャクソンはロンドンでの神話的復活コンサートの直前でした。エルビスは「The King (of Rock’n’Roll)」と呼ばれ、そして、マイケルジャクソンは「The King of Pop」と呼ばれました。エルビスは白人側からの黒人音楽へのクロスオーバーによって人気を得ました。そして、マイケルジャクソンは黒人音楽側から白人系ポップスへのクロスオーバーによってあらゆる層の若者にアピールしました。マイケルジャクソンがジャクソンファイブから脱皮しようとしたとき、そこにクインシージョーンズがいて、そして類い稀なる才能が存分に引き出されたのです。
この才能ある二人、エルビスとマイケルジャクソンは、私の中でイメージが重複します。そして、二人の悲劇的ともいえる人生の後半を考えると、痛ましい思いがします。エルビスの場合はトムパーカーの演出像に縛られてしまったという感じがするのですが、マイケルジャクソンには、そんな特定の個人の存在はないものの(あえて言うなら父親でしょうか)、音楽のためにかけがえの無い子供時代、青年時代をショービジネスの中だけで過ごしたこと、それが彼の内向的な性格とあいまって、彼の人生後半の転落劇につながったのではないのか、という感じがします。マイケルジャクソンの死に際して、彼を知る有名人がテレビで思い出話を披露していました。グラディスナイトがたまたま出ていました。マイケルジャクソンも彼女のようにキャリアのピークを越えた後、もっと自然体で音楽とつきあって行くことができなかったのだろうか、と思いました。「We are the World」の時、一緒に歌ったスティービーワンダー、ライオネルリッチーや、あるいはスモーキーロビンソンやクインシージョーンズみたいに、キャリアの後半、もっと肩の力を抜いて、もっと自然に、ジャクソンファイブのころの気持ちに戻って、活動することはできなかったのだろうか、と思います。「Thriller」で頂点に達した時、そこできっと何かが限界点を越えてしまったのだろう、そんな気がします。その時に、自分の殻から外へ出て、自然体で開き直っていたら、今回のような死に方はしなかったのではないか、そうできていたら、あのobsessiveな整形手術やエキセントリックなライフスタイルに落ち入ることもなかったのではないか、そんな気がします。
エルビスとマイケルジャクソンは黒人音楽と白人音楽とのぶつかり合う所のエネルギーにのって王座に上り詰めました。現在、音楽シーンはより多様化し、交じり合っていて、そこに以前のようなはっきりした住み分けも、ぶつかりあいもないように思います。あえて言うなら、ラテンは、北米やヨーロッパのポピュラー音楽と余り交じり合うことなく独自路線を行っているように思いますが、ラテンが、クロスオーバーすることで、新しいスターが生まれる可能性は、スペイン語という言語の壁のために、低いと思います。(もちろん、これまで、グロリアエステファンとかリッキーマーティンとか英語でのラテンポップスのヒットはありましたし、60年代のブガルーに代表されるラテンフュージョンが流行したことはありましたが、エルビスやマイケルジャクソンのように世界的規模の影響力を持ったスターが現れることはありませんでした)
再び、「King」と呼ばれるような才能が近々、現れることがあるのでしょうか。あるとしたら、どんな形で現れるのでしょうか。私には今は見えません。