百醜千拙草

何とかやっています

オバマの演説、小沢問題の終焉

2010-01-29 | Weblog
水曜日の夜、オバマは、議員、閣僚と国民に向けて、”State of Union”のスピーチを行いました。経済の建て直しとヘルスケア改革におけるオバマの政策の理解を求めたものです。しかし、1時間余りの演説に対する共和党員の反応を見ていると、彼らのオバマ政策への反対の意志はかなり強固なようです。
 話は、経済、エネルギー問題、ヘルスケア、国防について多少具体的な内容を含めたものでした。オバマの経済刺激政策でかなりの額が投入され、国家の借金を増やしたことに共和党は批判的であり、失業率10%という数字の改善がないことを批判しているわけですけど、オバマはそれに対して、過去10年間の負の遺産というものがあり、この経済刺激政策を行わなければ、経済はもっと悪化していたであろうと述べました。これは確かめようがない話なので、共和党員に対しては言うだけムダなのですけど、一般国民にはそう説明しないかぎり納得は得られません。
 クリーンエネルギーに関してはかなりの肩入れをしているようで、事実、オバマの経済刺激政策によって、昨年はエネルギー省の予算(これは、医学研究をサポートするNIHの予算とほぼ同額なのですが)は二倍となりました。(一方、NIHの予算は約3割増です)つまり、クリーンエネルギー技術に投資し、外国へ売り、経済復興の推進力とする、そのための投資と考えているようです。
 過去、数十年以上、アメリカは「楽して儲ける」ことばかりにうつつを抜かし、金融商品の取引という博打をどんどん拡大させ、一部の胴元だけをもうけさせ、一方では何の価値も生み出さない不毛な経済システム(バブルですね)を野放しにしていました。国民は汗水たらして働いて、作物を育てたりものを作ったりするよりも、賭場で博打を打っている方が儲かる、と話に乗せられて、金というものが、金でない「もの」の流通のためにあることを忘れ、マネーゲームにうつつを抜かした結果、気づいた時には、「もの」と切り離されたドルの価値は随分下がっていました。
 エネルギー問題は、人間が近代的生活を行う以上は、常につきまとう問題であり、したがってクリーンエネルギー関係の技術は、大きな市場を生み出す可能性があります。技術開発によって、新しい市場を創造して来たアメリカの発展の歴史を振り返って、近年の金融博打経済を反省し、クリーンエネルギー技術をよりtangibleな経済への転換の鍵にしたいと考えているのでしょう。
 そして、オバマ政権の一つの目玉であるヘルスケア改革ですが、先のマサチューセッツでの選挙で、民主党議席を一つ減らし、共和党議席を一つ増やしてしまった民主党は、共和党が全員一致で反対すると、法案を通すのが困難な状況になっています。ヘルスケア改革が必要であることは、共和党もわかっています。「金がかかり過ぎる」というのが反対の主な理由です。しかし、これは、健康保険会社はじめ、多くの利権のからんだ問題であり、誰かが強力に押し進めない限り、簡単に成立するものではありません。現在は、そのまたとないチャンスであるのは間違いないのですけど、経済的苦境にあるということが、それを困難にしています。それで、一枚岩となって反対する共和党に向けて、オバマは、「国民のために、党を越えて協力して欲しい」と訴えた訳ですけど、残念ながら、共和党の反応は冷たいようです。
 そもそも、共和党は、ヨーロッパからの古い移民である既得者層を中心に構成されており、キリスト教系白人でないと、「本当のアメリカ人」とは思っていないような所がありますから、彼らは本音では、「オバマはアメリカ人ではない」と思っているのではないでしょうか。ただでさえ、「本当のアメリカ人」でない者が大統領をやって、エラそうにしているのが気に喰わない上に、またまた気に喰わない民主党主導のヘルスケア改革に、「協力して欲しい」といわれても、その心理的抵抗が大きく、容易にハイハイとは言えないのではないか、と想像するのです。アメリカも世界も刻々と変化しています。その変化を受入れて、動的に社会と繋がることができない人は構造的に不幸であると思います。
 少なくとも、オバマの演説は前向きなものでした。「共和党と民主党が足のひっぱりあいをしていてはいけない、建設的な議論を行わなければならない」と当たり前のことを言ったわけですけど、このことは、日本の自民党にも聞いてもらいたいものだと思います。

 それで、日本の話ですけど、どうも小沢氏の事情聴取は、検察の思惑と逆の方向に作用したようで、産経や他の自民党関連メディアを除くと、この件に関しては随分おとなしくなりました。今日のGoogleのニュースでも、もう小沢の「お」の字も見えません。一方、検察の暴挙と報道姿勢について、批判するメディアも出始めたようで、さすがに、一般国民をこれまでのように口先三寸でだますことが難しいと悟ったのか、自民公明や官僚組織と同調していては共倒れの危機を感じ始めたのでしょう、メディアも報道の風向きが変わって来たようです。
 一方、国会が始まって、自民党は、持ち時間の殆どを小沢氏の問題に割くという最悪の出だしを飾りました。これで、自民党の復活は当分ないでしょう。なぜ政権を追われたのかという理由が、自民党議員の人は未だに、理解できていないのではないでしょうか。「みんなでやろうぜ」でしたっけ、新総裁のスローガンは。みんなというのは誰のことでなのでしょう。自民党員のことなのか、国民のことなのか、いずれにしても、国の問題を話し合う場である国会の始めから、与党政党への攻撃をし始めたというこの出だしは、既に、国民、政府、自民党を含むみんなの足をひっぱってます。「自民党、みんなで沈む泥の船」というところですかね。
 国会という会議では、話し合わねばならないもっと大事なことがあるでしょうに。それをほったらかしにして、相手政党の足の引っ張り合いばかりにうつつを抜かしていたから国民に愛想をつかされたというのに、三つ子の自民党魂、百までですか、学習することをしないのですね。
  一方、民主党の前原氏、「政治資金で土地は購入すべきではない」と発言したということですけど、この人も何を考えているのでしょうか?検察とゴミメディアが一緒になって、政治責任の説明責任のと、ガナリたてていたのは、「違法行為」の証明なしに、おおっぴらに、小沢氏を攻撃できるからで、「法」の問題を恣意的基準の大きい「倫理」の問題にすり替えて、世論誘導するためでしょう。それによって、国民は「小沢氏が違法行為を犯したから、小沢は悪人だ」という結論ではなく、「小沢氏は悪人だから、法を犯したに違いない、悪人は罰せられて当然だ」という結論を採用するように誘導しようとしているわけです。
 このような理屈が通ってしまえば、法治とは言えません。当然ながら、違法行為を働くことと倫理的問題は、厳密に区別しないといけません。倫理には、明記された判断基準というものはないのですから、法ではなく倫理による処罰がまかり通るなら、「おまえら、人間じゃねえ、叩き切ってやる」の時代劇の世界です。現代日本では、建前上は「おまえら、人間じゃねえ」という判断は、「法」に照らされて、厳密な論理をもって結論されない限り、断じられてはなりません。そのそも、「おまえら、人間じゃねえ」という判断そのものが、独善的主観的な行為として慎まれなければならないものです。
 政治資金で土地を買うのが違法でないのならば、「政治資金で土地は購入すべきではない」という発言は、法的瑕疵のない行為を倫理的な問題に置換えた上に、主観的な価値観をもって断じたものです。自民党員が口にするのならまだしも、同じ民主党員が言うとは、あきれてものも言えません。政治資金で土地を購入して、秘書たちの住む寮を建てようとすることが違法でない限りは、そのことに対して、余計な感想を国会で口にして、敵に利用されるようなバカなことをしてはいかんのです。この人も小沢氏が気に喰わないのでしょうけど、こういう行為をして評判を落とすのは、小沢氏ではなく自分だということを自覚していないのでしょうか。

 メディアが検察の犯罪行為について論じはじめました。「国会議員である石川氏を国会の直前に逮捕する」ということが、石川氏を選出した選挙区民の権利を踏みにじる、反民主主義行動であることをあらためて強調しておきたいと思います。また、石川議員の弁護士団が、法務省、検察、裁判所にあてた申立書によると、この逮捕が、そもそも逮捕に価しないものであり、「別件逮捕」であること、取調室の密室内で、石川氏に対して、事実上「拷問」が行われていること、各報道機関の報道はウソであることなど、が明言されています。 反小沢派の人は、検察批判を即ち小沢擁護であると勝手に解釈して、的外れの批判を展開して、辟易とさせてくれますが、そもそも、これは、検察と小沢氏の戦いではなく、特定政党と結びついて権力を後ろ盾に犯罪行為に手を染め、恣意的基準をもって自分たちに都合の悪いものを不法に弾圧する検察と、その被害者となっている一般国民との戦いです。 田中良紹さんの「国会探索」で描写されている、数々の検察をトップとする官僚組織の、国家権力という「力」を不正に使った、国民支配の構造は、止められなければなりません。
 政権が旧利権政党から引きはがされた今、ようやくそのチャンスが訪れました。内側からの改革を狙った大連立の線が消えてから、小沢氏には正面切って正攻法の勝負をする手しか残されていません。そして、国民支配を続けたい官僚組織(特に検察は)国民の代弁者たる政治家を、おのれの利益のために、必死で潰そうとしています。検察の腐った部分は取り除かなければなりませんが、自浄作用を失った検察や警察組織は、外から潰される必要があるのでしょう。今後、ますます厳しくなる社会情勢を生きねばならない国民にとっては負けられない戦いです。負ければ、江戸時代の農民のように、殺さぬように生かさぬようにと、官僚に搾取され続ける一般市民の姿がもっと明らかな形で具現化するでしょう。
  そもそも、強大な国家権力をもつ検察であるからこそ、その権力の行使に適切なブレーキがかかるようなシステムにしないといけないのです。検察の権力は、軍事力と同様に、行使によって人やその権利を損なう「不祥の器」です。無闇に使われてはなりません。既に、検察は石川議員の選挙区民の権利を障碍しています。次はわれわれかもしれません。
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検察のけもの道

2010-01-26 | Weblog
小沢氏、検察の事情聴取を受けました。検察はあいかわらず汚い手を使い、聴取直前に右翼団体に小沢氏を刑事告発させ、それをもって、小沢氏を「被疑者扱い」とし、黙秘権を与えて、聴取しました。先走った産経新聞は、一時、小沢氏を「小沢容疑者」として記事に発表し、非難を受けて、その記事は削除されました。
 このやりかたは、以前からの国策捜査で、ターゲットを「嵌めていく」やりかたと同じです。ゴミメディアは、この被疑者扱いでの事情聴取をもって、今度は、「政治責任、政治責任」とまた意味も知らない言葉を連呼してました。しかし、週明けの今日、メディアの調子は低調なようです。この事情聴取も国民が冷静で思ったほど効果がなく、ヘタに煽ると却って反発を買うとでも判断したのでしょうか。
  事情聴取のあと、小沢氏は早速会見を開き、事情聴取の内容を明らかにし、あらためて事件性のないことを述べました。この会見が広く報道されたのは良かったと思います。このことによって、多少は検察のでっちあげのリーク情報にブレーキがかかるでしょう。
  さて検察、次はどうするのでしょうか。負けを認めて、正々堂々と自己批判できるような連中ではないでしょう。追いつめられて、またやみくもに刃物を振り回すのでしょうか?どうしてもこの件で起訴困難となれば、おそらく、小沢氏の後をまた付け回して、また秘書や関係の人の別件逮捕を繰り返そうとするのかも知れません。

ところで、官僚組織という序列式の組織では、トップが腐れば、組織そのものが腐ってしまうようです。
  最近、複数のサイトが、検察の組織的な裏金作りを告発したために不当逮捕、有罪とされた元検事の三井環氏が2006年に行った講演について取り上げています。そのソースはこれのようですが、この話によると、現在の検察と自民党との腐った関係は、この三井氏の検察の告発に端を発しているようです。検察が民主党よりももっと悪質かつ高額の自民党議員の不正献金には一切、手を出さず、なぜ、民主党ばかりを標的にしているのかわかります。これが今の国策捜査の動機であるとすると、検察というのはどうしようもないゴミです。そう言えば、去年の西松事件の時も、西松から多額の献金を受けていた自民党議員は大勢いたのに、前内閣の漆間官房副長官が「自民党には捜査は及ばない」とうっかり口を滑らせて騒ぎになったことがありました。なるほどと腑に落ちました。
  小沢氏に対する国策捜査とゴミメディアを使った情報操作は民主主義の冒涜であり、国家権力を使って国民をコントロールし、私欲を追求しようとする腐った官吏の暴力です。検察は暴力団の親玉と言われていますが、やっていることはまさに暴力団そのものです。これは民主党と自民党という政治の対立ではなく、特定政党と結びついて民主主義を破壊しようとする官と一般国民の戦いであると解釈されなければなりません。検察、警察は、彼らの気に入らない人間は誰でも暴力によって弾圧できるということです。事実、数多くの警察、検察側の意図的な冤罪事件(つい最近では高知の白バイ事件で警察に濡れ衣を着せられ、実刑判決となった事件が思い出されます)が後を絶ちません。裁判所もどうもグルのようです。
  日本が、こんな不条理が通ってしまうような前近代の国であっては、少なくとも先進国からは相手にするに値しない野蛮な国だと思われることでしょう。

 その三井氏の講演内容ですが、引用元が長いので、一部だけを、転載したいと思います。

(転載)
話は戻りますが、3月末にそういうかたちで(注:検察の裏金作りについて)刑事告発しました。そして、その3月末頃の情報では、当時大阪地検の検事正だった加納駿亮氏が高松高検検事長になるということが事実上内定していたんです。
 検事長人事というのは内閣の承認がいります。法務当局はどうしたのかと言いますと、当時は高村法務大臣ですが、高村法務大臣にはこの告発の事実を隠していたんです。隠したまま、「加納氏を高松高検検事長に」という上申を高村法務大臣にしたんです。そして、4月23日がその内示予定だったんです。
 その直前に川上氏が高村法務大臣の秘書官に告発状を全部持って、会いに行ったんです。そこで初めて、この事実が高村法務大臣の知れるところとなった。そのために、加納氏の人事は先送りです。
  この時期、4月28日の政変で森総理から小泉総理に代わりました。法務大臣は森山真弓に代わりました。それでもまだこの人事をあきらめきれずに、法務当局は交渉した。しかし、連休明けの5月7日、結論は先送りになったんです。加納氏の1期下の宗像(むなかた)氏が高松高検検事長になった。これが5月の人事です。ここまではいいんです。
  次に、その年の11月15日に福岡高検検事長が定年で辞めることになったんです。この時も、やはり森山法務大臣です。今度は、法務省は福岡高検検事長に加納氏を上申したんです。しかし、(大臣は)なかなか難色を示して、どうにもならなかったんです。そこでどうしたのかと言いますと、検察・法務当局は困ったんでしょう。いわゆる「けもの道」を通ったんです。
  「けもの道」というのは私が付けた名前ですけれども、当時の原田明夫検事総長、事務次官の松尾邦弘、刑事局長の古田佑紀、古田は後藤田正晴氏が法務大臣だったときの秘書官だった人間です。その3人がそろって、10月26日だったと思いますが、東京・麹町の後藤田事務所を尋ねました。そこには後藤田元法務大臣と秘書官がいました。
  それで、彼らは「加納の検事長人事を内閣で承認してくれないと検察が潰れます」と泣きを入れたんです。潰れるというのは、検察の裏金問題が表ざたになるという意味だと思います。当時は、週刊文春とか週刊朝日がすでに裏金問題を報じていました。そして、(後藤田氏は)小泉の秘書官の飯島に電話連絡しました。そして、その日の会談はそれで終わって、翌日、小泉に原田検事総長が直談判をした。そこで事実上、加納の検事長人事が承認されました。正式な閣議は11月13日なんです。そこで正式に承認されました。
  こんなことをしたらどうなりますか。「検察が内閣に借りを作る」という一番やってはならないことをやったんです。内閣の助けを求めた。こんなことをしてしまったら、内閣を構成している大臣クラスを事件にはできません。ここまでやるんです。
  「国策捜査」は昔からありましたが、私は、ここが最近の国策捜査の原点だと思っています。例えば、内閣の誰かを逮捕できるような事件があったとします。そしたら、小泉が「裏金どうするの?」と言う、それだけでいいんです。事件にできません。できるはずがないんです。後藤田さんはもう亡くなりましたけれども、この事実は彼の秘書から聞いた話なんです。
  本来、検察というところは真実を明らかにするところなんです。加納の事件は、この直後に「嫌疑なし」になりました。「真っクロ」なのを「真っシロ」にしてしまったのです。内閣にとってみたら、加納の刑事告発が残ったままでは承認できません。それでは内閣の責任になります。「真っシロ」なんだという判断が下っていれば、内閣の責任ではないんです。
  刑事告発事件で「真っクロ」であるものを「真っシロ」にしてしまった、これは検察の原点の崩壊です。これが1点。もう1点は、最もしてはいけないことをしてしまった。内閣を利用してしまった。その2点なんです、私が義憤を感じたのは。それから先は義憤だけです。加納のことは頭にありませんでした。
  そして、この問題を追及するために私が協力を求めたところは、やはりマスコミと政治家です。それからは、マスコミにずっと会ってきました。政治家では、民主党の管直人。彼には大阪の財界人を通して3回ほど会ってもらって「了解」を得ました。「了解」というのは法務委員会でこの問題を追及するということです。
  新聞では朝日新聞東京本社の落合博実さん。最終的には4月18日に心斎橋の日航ホテルで会って最終了解を得た。その内容は、5月の連休明けに朝日新聞東京本社が裏金問題を1面トップで報道する。社会面では、私が実名のまま1問1答形式で答える。そういう方法です。そして、NHKとか他の新聞社は、「朝日が書くのなら後追いします」ということを言った。
  そして、管直人氏の方は朝日新聞の記事を持って法務委員会で追及する。そして、その過程で私を参考人招致して、私が証言する。そして、私が国会で記者会見して、検事のバッチを外して辞める。そういう段取りが全部できあがっていたんです。それが4月18日です。  そして、4月22日に何があったのかと言いますと、その日の昼から「ザ・スクープ」の鳥越俊太郎さんが大阪に来て、裏金問題についての取材・収録の予定だったんです。あとは、4月24日に大阪の毎日テレビの取材・収録の予定がありました。 4月22日。昼に「ザ・スクープ」の取材・収録をするその日の朝、私は8時半頃任意同行をされて、何の弁解も聞いてもらえずに逮捕された。これが第1次逮捕なんです。
  これがもし、私を逮捕していなかったらどうなっていたと思いますか?その予定通り進みますと、朝日新聞東京本社が報道する、管直人氏が法務委員会で追及する、私が証人として出廷し証言してバッチを外す。これは、外務省の機密費どころの話じゃないんです。
  まず、当時の現職検事70名が辞めなければいけない。検事総長ももちろん、森山法務大臣も辞めなければならない。それだけではありません。引退したOB連中、何人生きているか知りませんけれども、1000人くらいはいるでしょう。その人たちもみんな勲章を剥奪(はくだつ)されます。使った金を返さなければいけません。当然、国民から刑事告発を受けます。そうなれば、一時検察機能が麻ひします。私を逮捕しなかったらそうなっていたんです。だから相手も必死だったんです。
  その辺のことを考えてもらえば分かると思います。検察の置かれた立場、検察の組織的な裏金作り、これは事実です。それを隠蔽(いんぺい)するということです。仮に、私がもう少し早く公表しておればこの逮捕はなかったんです。逮捕できません。5月の連休を挟むと報道が途切れるから公表を連休明けにしたんです。それをもっと前にすれば、私の逮捕はなかった。
  裏金というのは、国民の血税なんです。にもかかわらず、こんなことまでするんです、検察は。確かに、検察はちゃんとしたこともやってきました。国会議員を逮捕したりして、ある程度は国民の期待に応えてきました。しかし、自らが犯罪者になるとこんなことまでやるんです。これが許せますか?  最近の国策捜査の原点はその「けもの道」なんです。10月の末に裏金問題で内閣を利用したことです。それから何がありましたか。  鈴木宗男の逮捕がありました。昔は、贈賄者が時効になった事件では逮捕しなかったんです。時効になればいくらでも自由に話ができるじゃないですか。しかし、鈴木宗男の事件では、本来目的としていた事件では逮捕できずに、昔の事件についてのみで逮捕起訴した。捜査の失敗です。
  それから、社民党の辻元議員の問題もありました。あれは衆議院総選挙前にやられたんです。その2年くらい前に彼女の議員秘書の問題は発覚していたんです。全部、弁償しました。なのにそれを総選挙前にやられて、社民党はどうなったと思いますか。事実上崩壊したじゃないですか。これが、内閣(自民党)指導による国策捜査なんです
  最近は、ホリエモン(堀江貴文・前ライブドア社長)とか、経済犯罪の方に特捜部は向かっておりますけれど、そうやっている限りは10月末のその問題、「けもの道」は問題になりません。  私の予測では、小泉が辞めても自民党内閣が続く限りは自民党の大臣クラスは事件にできないでしょう。「けもの道」が平成13年の10月の末でしょう。そこから現在までの5年間で東京地検特捜部がやった事件を見てもらったら分かります。誰もやっていません。できないのです。
 (中略)
そして、問題は裁判所なんです。最近の裁判所というのは、逮捕状でも勾留状でも〝自動販売機〟なんです。チェックしないんです。そして、裁判そのものが最近おかしいです。
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米民主党の挫折、小沢氏事情聴取の意図

2010-01-22 | Weblog
アメリカではテッドケネディーの死去に伴う、マサチューセッツ州の代議士補充選挙がこの火曜日に行われました。
 この選挙がなぜ重要であったかといういうと、テッドケネディーの悲願であり、現在オバマ政権がhigh priorityとして取り組んでいるヘルスケア改革法案が無事実現するかどうかきわどい所だからです。この件に関しては、民主党と共和党は全く意見を異にしており、民主党は先進国で唯一国家的健康保険制度のないアメリカの医療制度を改善したいという点で一致している一方、共和党は全員一致で、この案が金がかかりすぎるという理由で反対しています。ここで、もしも民主党議員であったテッドケネディの後任が共和党員となった場合、この法案の採決が通らなくなる可能性がでてくるというわけです。歴史的に民主党の強いマサチューセッツで、州の司法長官のMartha Coakleyが早々と民主党候補として名乗りを上げました。一方、共和党からは無名に近いScott Brownが立候補。数ヶ月前の調査では二桁の差をあけてCoakleyがリードしていましたが、直前には、浮動票がBrown側に流れ、僅差となりました。火曜日の投票では、結局、5%以上の差でScott Brownが逆転勝ち、Coakleyと民主党にとっては痛恨の敗退となりました。
 この構図は、先のアメリカ大統領選の民主党の予備選でのオバマとクリントンによく似ています。やり手の女性候補で知名度の高いCoakleyは、民主党の州であるマサチューセッツで、まさか無名のBrownに負けるなどとは思ってもいなかったでしょう。 一つの理由は、投票の前のしつこいぐらいのCoakleyのBrownに対するnegative campaignが、私は裏目に出たのではないのか、と思います。Coakleyは司法長官のエリート、パワーウーマンであり、官吏です。既にCoakleyの上から目線を感じていた州民は、非官吏で一般人代表のBrownに対するCoakleyのくどいnegative adを見て、嫌気を感じたのではないかと思います。即ち、民衆はこの選挙を、民主党と共和党の戦いと見ず、官と民の戦いと見てしまったのではないかと思うのです。それで浮動票が民の代表と見たBrownに流れたのではないかと想像します。
 とすると、これはCoakley側の選挙戦略担当者の大失敗でしょう。Coakley側は、なぜここで民主党員であるCoakleyが選ばれることが、マサチューセッツの州民にとって大切かをもっとアピールするべきでした。特に終盤、「Brownは共和党だからダメだ」というような意味の無い攻撃キャンペーンに終始したのは愚かでした。
  ヘルスケア改革は、もし実現すれば、アメリカの歴史で奴隷解放に匹敵する歴史的出来事であると、私は思います。その成立が危ぶまれています。いずれ、ヘルスケア改革はなされることになると思いますが、その実現へ向けての民主党政権の一つの挫折であることには違いありません。

翻って、日本では、小沢氏、検察の事情聴取に応じる意向とのニュース。
本当でしょうか?本当だとしたら不可解です。小沢氏の作戦は何なのでしょうか?
  検察がしつこく事情聴取を要請し、マスコミや自民党議員らがXXの一つ覚えのように、説明責任、説明責任と連呼してきたのは、「小沢氏が事情聴取を受けた」という事実を作るということそのものが目的でした。 角栄、金丸と自分の師の検察による失脚劇を間近に経験している小沢氏に検察の目的が読めない筈がありません。「事情聴取を受けた」という事実を宣伝するだけで、小沢氏への一般国民への疑惑を増幅できます。鈴木宗男氏の場合も形だけの事情聴取を受けた後に、マスコミを使って民意誘導し、そして逮捕まで突き進みました。つまり「事情聴取」というのは、その事実を、マスコミを使って針小棒大に宣伝し、あたかも有罪の線が強いような印象を国民に与え、その上で小沢氏の逮捕もやむを得ないのではないか、というような雰囲気の世論につくり出し、無理筋にでも、小沢氏失脚を狙いたい検察の見え見えの布石なわけです。そもそも、このような犯罪性すら明らかでない疑惑で、国会中に与党の最高実力者の現職議員をそう簡単に逮捕できる訳がありません。多分、ここでも「逮捕状が出せそうだ」という状況さえつくり出せればよいと考えているわけで、実際に逮捕したり起訴して有罪判決へもっていくことが目的ではなくでしょう。あくまで、小沢氏の政治家としての失脚が達成できればよい、そう考えているから検察は、マスコミを利用し、姑息で卑怯な手段を用いるのをためらわないのです。この時点における「事情聴取」というのはそういう一連の姑息な陰謀の一手なわけで、それに、ホイホイと小沢氏が乗るワケがないと思うのです。
 一方、検察の方もここまでやるということは、かなり追いつめられているのは間違いないでしょう。おそらく、検察は、前回の西松事件が空振りになりそうだという焦りに焼け付く思いであろうと思います。今回の石川議員の逮捕は、多分、「毒を喰らわば皿まで」の心境で、やったに違いありません。いわば、自爆テロを行うと同様で、半ばやぶれかぶれで闇雲に刃物を振り回しているようにも見えます。
 検察はもう既にキチガイの閾に達しつつあると思います。死にものぐるいの狂気でしょうか。検察は「やらねば、やられる」と思っているのではないでしょうか。それでは、もしこの小沢氏失脚計画が失敗した場合、一体、検察は誰を恐れているのでしょう?ネットの情報を総合してみると、小沢氏失脚に失敗した場合、検察が恐れているのは小沢氏や民主党ではなく、むしろ検察の裏にいる連中のようです。 この点で、検察の歴史的な設立経緯とアメリカとの繋がりを以て、小沢氏がなぜ検察に狙われるのかを考察している記事は興味深いです。一読をおすすめしたいと思います。
 この記事の示唆するところが真であるとすると、どうして鳩山氏や小沢氏がこれほどの検察の露骨な攻撃にあっていながら、与党となってからは、その検察批判をむしろ和らげて来ているのかが見えてくるような気がします。つまり、鳩山氏も小沢氏もおそらく、検察の後ろにいる連中の思惑は十分に知っていて、検察が利用されているだけであると見ているのでしょう。だから、おそらく、検察批判をして、検察の連中を追い込むことを避けている、そのように見えます。検察のみを断じて、その背後の巨悪を手つかずで逃すわけにはいかないと考えているのではないでしょうか。
 それでは、小沢氏の検察事情聴取を受諾の意図は何でしょう。あるいは、このニュースそのものが、例によって「関係者」がでっち上げた、単に小沢氏の挑発目的のガセネタである可能性もありそうです。ネットの新聞では、この情報も「関係者によると」という信頼性のない不明ソースから得たような書き方になっています。一体誰ですかね。ニュースソースを明らかにするのは報道の「いろは」でしょうに。
 ある人によると新聞に「関係者」としか書いていない場合のニュースソースは検察なのだそうです。「検察関係者」と書くと、検察の守秘義務の違反がバレるので(すでにバレてますけど)立場上、新聞はそう書けないのだそうです。これも、検察が「23日ごろに事情聴取できたらいいな」とか言った勝手な希望をゴミメディアが脚色して、「事情聴取の予定」と書いただけのことなのかも知れません。
 しかし、この話が本当で、もし小沢氏が聴取を受ける意向であるならば、どうでしょうか?囲碁が趣味の小沢氏、局面を多角的に分析してかなり深く読んでいるいるのは間違いないし、検察の意図は透け透けに見えているはずです。その検察のワナにわざわざ乗るというならば、あるいは、驚くようなどんでん返しが用意されているのかもしれません。検察を逆にうまく抱き込んで、その背後の陰謀の退治に使おうというような構想でもあるのでしょうか。そうなら、これは肉を切らせて骨を断つ壮大な戦略の一部なのかも知れません。相手を囲ったと思った検察が、実は、小沢氏の構想を読めずに、逆に囲まれていた、そんなことが起こると面白いのですけど。

 いずれにせよ、私は、この手の陰謀論や権力争いのレベルで政治が語られるという低レベルの話が嫌いです。床屋政談には面白いかもしれませんけど、そんなレベルで国の政治をやられたのではいつまで経っても日本や世界は良くならんです。
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腐った検察、幇間マスコミ

2010-01-19 | Weblog
例の政治資金規正法違反疑いで、前回衆院選前に小沢氏の秘書が国策操作で狙い撃ちされたと同じ手口で、今回も東京地検特捜が小沢氏の資金管理団体の元事務担当者で現職議員を逮捕した事件、この特捜の行動に私は怒りを覚えると同時にその幼稚で身勝手で悪質なやりかたが本当に情けなく思います。
  仮に何らかの違反があったとしても前回同様の事務手続きの不備による形式犯、しかも5年も前の話で、担当者本人も捜査に協力しているのに、わざわざ国会前に、派手にマスコミに宣伝してから、ガサ入れの様子をテレビや新聞に流した上で、逮捕して身柄を拘束するとは、普通の常識のある人間からみれば、信じられない暴挙であります。これを見た一般人の多くで、小沢氏と民主党へのイメージダウンを狙った三文芝居と、却って特捜とその背後の連中に対する嫌悪感をあおられたのではないか思います。
 本来、守秘義務があるはずの取り調べの内容を、マスコミに意図的に流し、ゴミメディアはそれを無批判に垂れ流すという犯罪が国家権力を後ろ盾に堂々と行われています。しかも、そのリークの内容は前回の西松事件の時と同様、直接接見する弁護人でさえ知らない、でっちあげのウソ八百であったりします。これは検察の犯罪であると同時にマスコミの犯罪(違法行為)です。良識ある人は、これまでの検察の行動を散々と非難してきましたが、それを知ってか知らずか、彼らの陰湿な行動は全く治る気配がありません。
  マスメディアではない一般市民によるメディアのJANJANでの論調を拾ってみると、大体、7割ほどが検察とマスコミの行動に対する批判、のこり3割が「政治と金」という問題に対する批判といった感じです。先週の「ここに来て東京地検特捜部の全面敗北は決定的」という記事では、週刊朝日からの「小沢VS検察 最終戦争」という記事を引いて、特捜の嫌疑は言いがかりであること、検察は、とにかく、民主党の霞ヶ関解体で検察へ及ぶ影響を阻止するために、民主党の参院選過半数を何としてでも止めたい、という見え透いた自己保身的意図のもとに行動していること、そのためには、ガセネタのリークでも無根拠の逮捕でも、自ら法を犯すことを厭わない体質であること、をあらためて強調しています。その通りだろうと私も思います。
 検察は国家権力でこれまで守られてきたために、すっかり腐敗し、遵法のための機関であるというプライドを失い、自ら法を犯しても罰せられない特権者だとでもと思い上がっているのでしょう。
 柳田先生のブログからのまたまた聞きですが、自身も国策捜査の被害者となった鈴木宗男氏の「検察のやっていることは平成の2.26事件」という言葉には共感を呼ぶものがあります。しかし、あの特捜トップの人の言動を見ていると、その行動の根拠にあるものは、2.26の青年将校の独善的正義感ではなく、自己保身を図り甘い汁をすうために国家権力を利用して他人を貶める、という正義感のカケラもない低次元の醜い欲望ではないか、という感じがします。
  その腐った検察のご機嫌取りしかできないゴミメディアはそれ以上に腹立たしいです。「社会の木鐸」として、こういう官、民が行う不正行為を見張るのが、本来の役割であったはずです。それが、あろうことか、逆に権力側の違法行為に加担して全く恥じるところなし、これまたプライドのカケラもない幇間芸を炸裂させています。国民の目線を忘れた検察とゴミメディアは、既に国民の信頼を失っていることを自覚していないのでしょう。
 前回は選挙前、そして今回は国会前というタイミングで、小沢氏を狙い撃ちしての、デタラメな逮捕劇、これらの無茶であからさまな検察の行動は、あるいは検察が逆に追いつめられていることを示しているのではないかとも思います。なり振り構っていられないのでしょう。政権交代によって顕在化してきた社会の病巣が捨て身の抵抗をしようとしている、そのように見えます。とすると、これは、参院選では、衆院選でおこったと同じことが起きるという前兆かも知れません。そうなれば、いよいよ腐敗した検察にメスが入ることになるでしょう。
  私はどうも正義感が人並み以上に強い方なので、こういう検察やマスコミの卑怯で不公平な行動を見ると、怒りがこみ上げてくるのです。日本は仮にも「法治国家」のはずです。法を守らずに行う活動は、その意図が純粋に善であったとしても慎まれなければなりません。世の中には自分の基準でしか考えられない独善家がたくさんいますから。検察は法遵守を強めるのがその目的でありながら、自ら違法行為を堂々と行うという異常事態が以前から繰り返されてきました。日本がまだまだ民主主義からほど遠いという証拠です。その健全な日本の社会の成長を阻む検察とマスコミの罪は極めて重いと思います。
 マスコミや自民党は小沢氏の「政治責任」とか「説明責任」とか連呼していますが、本当にばかばかしくて見ていられません。言っている本人たちも政治責任とか説明責任とかいう言葉が具体的にどういう意味なのか何も知らないに違いありません。 彼らは政治家を攻撃するときに使う便利な言葉とぐらいにしか思っていないのでしょう。
 「説明責任」の意味をきちんと説明できるマスコミの人間などおそらく皆無であろうと思います。ある民主党議員が言うように、「そもそも存在しない犯罪が本当に存在しないことを証明するのは難しい」のです。小沢氏の「説明責任」といいますが、本当にやましいことがないのなら「やましいことはしていない」という以上の説明ができるわけがありません。それでも「説明責任を果たしていない」というのなら、これは、「無罪だったら証拠を見せろ」という屁理屈と同じです。科学者であれば、この手の「不在の証明」が大変困難なことは知っています。「無罪だったら証拠を見せろ(見せれないなら有罪だ)」という理屈でいうのなら、生まれたての赤ん坊ででも無い限り、国民全員、有罪です。
 「おまえ、人を殺しただろう」と言いがかりをつけられて、「殺していない」という証拠を示すことができる人は、まずいないでしょう。私たちに、「人を殺した」というpositiveな証拠がないので、とりあえず「有罪とはいえない」と考えられているだけなのです。そして世間は一般に「有罪とはいえないこと」を「無罪」と呼ぶようにと慣わしているだけのことです。すなわち、無罪というのはすべからく「推定無罪」なのです。
 一方、検察のやっていること、意図的に捜査情報(しかも、しばしばウソのでっち上げ)をマスコミにリークしたり、恣意的な基準でガサ入れしたりすることは、犯罪行為です。つまり、検察には犯罪行動を行っているpositiveな証拠があります。一方、小沢氏側には不正献金を示唆する証拠はありません。西松事件では、検察にとって都合のよい証拠を見つけて、犯罪に仕立て上げようと、強制捜査の根拠も無いのにガサをいれたわけです。こういうのをFishing expeditionといって、やってはいけないこととされています。しかも、今回のガサ入れに到っては、そもそも昨年のガサ入れで資料はすでに特捜がほとんど押収済みなわけです。その去年より前の資料に関しては殆どからっぽの事務所をわざわざ7時間もの時間をかけて、仰々しくあたかも捜査したフリをし、空っぽのダンボール箱をさも重そうに持ち出す様子をマスコミを使って報道し、まるでなんらかの証拠を押収したかのような猿芝居をかましたわけです。これは、やっている本人も、アホらしかったのではないでしょうか。7時間もの間、ろくな資料も残っていない事務所で大の大人が時間つぶししながら、空っぽのダンボールの箱を組み立てている様子を想像すると、情けなくなります。多分ダンボール箱の中にはトイレからでも押収してきたトイレットペーパーぐらいしか入っていないでしょう。
 あらためて強調しておきたいと思いますが、検察とマスコミの行為は明らかな犯罪です。取調べ中の検事しか知らないはずの情報が、マスコミに「関係者によると」という怪しい匿名のソースからリークされ続けています。マスコミはこういう報道をするのなら、一体「誰がその関係者」なのかを明らかにする義務があると思います。ウソの情報を垂れ流すのは犯罪です。こういう根拠を明らかにしない情報をそのウラをとる努力もせず、無批判に公器を使って垂れ流すマスコミ、自らに都合によい情報をでっちあげてまで意図的に漏洩する検察には、まったく反吐がでます。検察やマスコミは、彼らをしょっぴく権力が実質的にないので、やりたい放題やっているわけで、こういう連中は本当にどうしようもないと私は思います。
  本当の民主主義国家としての日本を実現するには、まず、この国家権力をかさにきた腐った連中とそのタイコ持ちゴミメディアを一掃する必要があると思います。それは現政権が民主主義の手続きを正当に踏んで、法的に疵瑕のない方法で実現しないといけません。それが、日本の近代民主主義国家へむけての第一歩だと思います。それを期待しています。
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ハイチの地震、有害な新聞

2010-01-15 | Weblog
ハイチの地震の被害状況は情報が集まるにつれ日増しに拡大している様子で、心が痛みます。被害者の数からみると、阪神大震災に匹敵する規模のようです。
 20年ぐらい前、カリブのフランス語系クレオールの音楽に多少興味を持っていた時、ハイチの歌手(ミッシェル何とかという女性歌手、忘れてしまいました)のCDも手に入れて、聞いたことがあります。他のカリブのフランス語系音楽(マルティニークのマラヴォアとか、グアドループのズークマシ-ンとか)と違って、歌詞を見ているとラブソングよりもプロテストソングが多く、同じフレンチクレオールと言ってもちょっと趣きが違うなあ、と思ったのを覚えています。後に、同じ島で国境を接する隣国のドミニカ共和国出身の人と話をする機会があって、彼から、ハイチは武力政治の国で、そのため常に政情不安であったこと、また一般国民は極めて貧しいのだというようなことを聞きました。当然、都市のインフラなどにも全く投資が行われておらず、都市の構造が地震や天災に極めて脆弱であったことが、今回の災害を一層大きくしたものと考えられます。
 災害は弱者に尤も冷酷です。数年前は地層学者が、この地域の大規模地震の可能性を指摘していたそうですが、仮に地震の危険性が高いと分かっていたとしても、自給自足に近い貧しいハイチの人々に、一体何ができたでしょう。また、多くのハイチの人が外国へ出稼ぎに出て、ハイチの家族を養っています。地震で通信網が分断された状態でハイチの家族を心配する外国のハイチの人の気持ちを思うと、何ともいえません。
 復興は容易ではないことが予想されます。ハイチが世界でももっとも貧しい国の一つであり、自力で蘇る余力が乏しいことが何より大きいと思います。国民一人一人が自分のことで精一杯で、困っている隣人(それも数百万人の規模)を助ける力がないのです。諸外国からとりあえず約200億円ほどの金銭的支援と人的支援がされるようですが、長期的なサポートは難しいでしょう。阪神大震災の時も、弱者は立ち直る力がつく前に、社会はそうした人々のことを忘れてしまいました。復興は、結局は、ハイチの人自身に頼るしかないというのはその通りなのですが。

 最近の日本の新聞の記事はヒドいなあと見るたびに溜め息がでます。また小沢氏献金問題で特捜がガサ入れしたようですけど、この特捜の暴挙に対しての批判がマスコミからはまったく聞こえてきません。逆にあたかも小沢氏の有罪感を煽るような記事ばかりで辟易とします。
 産経は「与党の最高実力者の事務所に捜査のメスが入るというのは尋常ではない」と述べておきながら、だからこそ「特捜はおかしいのではないか」という一般人なら思う常識的な結論を無視して、「小沢氏が悪いことをやったに違いない」という民主党攻撃に都合の良い結論へ誘導しようとしています。まだ何が確定したわけでもないのに、「政治責任を問う声がでないのは不思議なことだ」と述べてありますが、これだけ子供騙しの屁理屈を捏ねれる方が私にはよっぽど不思議です。衆院選前に西松建設献金でガセネタをさんざん煽って、小沢氏が代表辞任したので、参院選に向けてまた同じ手で小沢氏の力を削ごうと考えてでもいるのでしょう。産経は最初から民主党攻撃という目的を持っていますから、産経の屁理屈のおかしい点をあげればきりがないのは当たり前ですけど、世間には、このように程度の低い新聞の低能記事でも、繰り返し聞いていれば、納得してしまう人もいるでしょうから、結構、有害だと思います。
 それにしても中立的立場に立って、物事を伝える報道者としての矜持をもったマスメディアは無いのですかね。検察もかなりおかしいと思いますけど、マスコミもそれに劣らず腐っています。国家権力を嵩にきたならず者が検察だとすると、マスコミはそのならず者の機嫌をとるタイコ持ちでしょう。検察の横暴、暴走は本当に日本の社会の害だと思いますが、そのタイコ持ちのゴミメディアも(多分、自分たちが社会の害だとう自覚はないのでしょうが、それだけに一層)有害だと思います。まもなく、大新聞はビジネスとしては成り立たなくなるでしょうから、これらのゴミメディアは消えて行くことになるでしょうが、去り際ぐらいは奇麗にしてもらいたいものだと思います。
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吉兵衛の話

2010-01-12 | Weblog
前回、鳩山内閣の不満をボヤいてみました。鳩山氏のリーダーシップ不足に足並みそろわぬ民主党、一丸となって頑張っているという気迫がイマイチ足りないのが不満なのですけど、先週末、更に神経を逆撫でするようなニュース。

民主党の渡部恒三元衆院副議長は8日、福島市のホテルで講演し、鳩山由紀夫首相の政権運営について「頼りないと批判を受けているが、後ろにおっかねえしゅうと様がいるから、かわいそうだ」と述べ、政権内で発言力を強める小沢一郎幹事長を暗に批判しながら首相に同情してみせた。

 脱力しますね。前内閣では、講演での大臣の失言がもとで次々と更迭されたというのに。口は禍いの元、早速、民主党攻撃メディアに揚げ足とられてます。この方のあだ名は「おしゃべり恒三」というらしいです。
  後ろに小沢さんがいることぐらい、わざわざ身内が言わなくても、日本国民全員知っていることで、それを見ないふりして、総理を立てるのが、大人の態度というものです。同じ角栄の弟子で東北出身ということで、小沢一郎には私怨も妬みもあるのかも知れませんけど、身内でありながら、こういうことをしてはいけません。
 こんなことだから、いつまでたっても日本の政治は三流と言われ続けて、政党制でなく単なる派閥間権力争い、国会といえばただのヤジの飛ばし合いで、弱い者いじめと仲間はずれの子供のケンカというレベルから上にいけないのでしょうか。
  国のことを考えるのが国会議員なのだから、大きな視点を持って、その上で発言して欲しいものです。国会議員に限らず、日本に欠けているのは、長期的視野と大局観ではないかと思います。

ところで、このニュースを聞いての連想ゲームで、思い出した物種吉兵衛の話を書き留めておきたいと思います。
 物種吉兵衛(ものだねきちべえ 1803-1880)は大阪の商人で在家の浄土真宗信者ですが、死の問題と取り組んだ人で、「吉兵衛言行録」という本にその言葉が残されています。物種吉兵衛のように、比較的教育の乏しい人で念仏の教えによって安心を得た人のことを妙好人と呼ぶのだそうです。
  吉兵衛は、平生業成(生きながらにして往生の安心を得ること)を願い、数多くの師を訪れました。吉兵衛が終に安心を得たのは、大阪の西方寺の僧が「領解文」という短いテキストを使って吉兵衛をテストしていたときでした。
 「どうしても安心が得られません。このままでは死んでゆけませぬ」との吉兵衛の訴えに、
「死ぬことができればよいのかな」と言って、西方寺の僧は領解文を取り出します。
  領解文は「絶対他力」を教えるもので、往生の安心への願い、領解文を聞きたい、という念でさえ「自力」から発するとして否定するものだそうです。

(ところで、他力というと、自己努力の放棄のように聞こえますが、それは表面的な誤解だと思います。往生は自己が世界と一体化するところにあるのであって、その時には自己は消え去って、自も他もない「一」があるだけです。ですので、他力というのは自力という言葉に対する方便で、自己、自力を消し去るという意味であり、決して自己とは別にあるものを意味するものではなく、それは自己をも含んだOnenessとでもいうようなものであると思います、そのように、私は「他力」を理解しております。ですから、念仏でもキリスト教でも何でも、最終的には「他力」、即ち、自己を取り去り「無(かつ、全)」となること、でなければならない、と私は思います)

(自力で)安心を得、(自力で)死んでいこうとする、吉兵衛に、西方寺の僧は、「そのまま死んでいけば良いのだ」と言います。そして僧は最後にこう尋ねます。
 「あなたはまだ、私はそれを聞いた、という念を抱いているのではないか。あるいは、私は聞かされたという念をまったく捨てているのか」 これに対し、吉兵衛はこう答えます。
「私は、聞こえましたとも申し表せません。また聞こえませぬとも申し表すこともできません」
この答えによって、僧は吉兵衛が絶対他力の境地に達したのを認めたのでした。(聞いた、聞かされた、聞こえる、聞こえない、という念があるうちは、自他の区別が残っているという証拠です)

その吉兵衛とある一般人との問答。
「吉兵衛さん、あなたのようになったら、もう腹は立たないでしょう」
すると吉兵衛さんが答えた。
「腹は立ちますよ。凡夫だからね。でも、如来様に根を切ってもらっているから、実がならぬだけです」

腹が立つのは、人間である以上、自然なことです。人間である以上、腹も立てば、誰かを妬ましく思ったりもする、その辺を理屈でどうにかすることはできません。感情があることは人間である証拠であり、何かを「感じ、思う」ことそのものは人間にとって必要なことです。しかし、問題はそういったマイナスの感情に引きずられて起こす色々な厄介事です。
 「第二の矢に射られる」と言うような表現があります。何か気に喰わないことに出くわすことが第一の矢に射られるということならば、それだけに留まらず、それに余計な判断を加えて小さな不愉快を大きな問題にしてしまうようなことです。
 講演会で身内の悪口を言うのもそういうものの一つではないか、と私は思うのです。おしゃべり恒三の胸の内には、小沢一郎が気に喰わない、妬ましい、そういう思いが折りにつけ、涌くのでしょう。そういう思いが湧くのは仕方ないです。誰でもエゴというものがありますから。しかし、それは、そのままで終わりにして、自分の胸にとどめておくべきことで、講演会で他の人にしゃっべって、鬱憤晴らしをしようとしてはならぬのです。
 人間であれば、嫌なことは必ず起こります。それをいちいち根に持って、いらぬ実をならせてしまうようではいけません。 その辺が、吉兵衛さんとおしゃべり恒三との違いではないかと思ったのです。
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二大政党制と無政党制の分かれ道

2010-01-08 | Weblog
沖縄米軍基地問題で優柔不断な態度を見せ、不評の仕分け芝居をやり、そしてガソリンの暫定税率廃止の約束を事実上破ってしまった鳩山氏、一連の出来事のそれぞれが単発であれば、それほどの大きなダメージはなかったと思われるのですが、これらのことが一斉に起こり、おかげで、産経をトップとする民主党攻撃専門メディアに散々、針小棒大にあることないこと書き立てられていています。そしてこの度の藤井財務省相の辞任、健康上の問題のようですが、タイミングが悪いです。昨年の政権交代に対する国民の期待が大きすぎたのか、これまでのところ、鳩山内閣は順風満帆とは言えぬ厳しい船出となり、ここにきて既に逆風に煽られています。このままでは参院選までに、民主党の評判を大きく落とすことにならないかと心配しています。
 とにかく、公約やぶりは大変マズいです。約束を守らなくても、謝ったら許されるというのでは、約束はないに等しいのです。約束を破れば、前もって約束が守れるかどうかどうかの判断もできない無能であった、とみなされるか、悪ければ、人気取りのために故意に嘘をつく信用できない人間と思われてしまいます。約束した以上、守る、どうしても無理だと思うのなら、なぜ約束を守ることが困難なのか、まず国民に十分説明し、あらかじめ、できるだけの理解を得なければなりません。その時間がないというのなら、時間の管理のできない無能なヤツという評価を更に受けるだけです。アメリカではしばしば、重大な決議に際して、大統領が直接国民に語りかける”State of Union”のようなスピーチを行い、全国放送されます。公約破りのような国民の反対が出る決議に際しては、鳩山氏も直接テレビで国民に対して広く演説して、分かってもらう努力をしなければならないと思います。

 政権交代の意義は政権交代そのものにあると私は思ってはいますが、政権交代直後のここで、民主党が支持を大きく失ってしまっては、却って、国民の政治不信を招き、政権交代の意義も薄れてしまうどころか、逆効果となりかねません。国民は政権政党を変えれば、何かがかわるはずだ、と思って政権交代を実現したのに、蓋を開けてみれば全く期待はずれ、となれば、国民は政治に興味を失い、日本の政治はますます腐り、三権独立は夢と消え、官僚政治がはびこり、国民はその手足を彼らに縛られることになるでしょう。民主党には少なくとも、あと数年、二大政党制(もどき)が根付くまではがんばって貰わねばなりません。(そのためには、対立政党が必要です。今の自民党ではダメです。自民党にはしばらく辛酸を舐めてもらって、もっと実のある政党として復活してもらわねばなりません。そのためにも後、数年、民主党が頑張る必要があります)このまま自民党が自滅して民主党が空中分解すれば、二大政党どころか、日本は無政党制となってしまうでしょう。メディアの世論操作の逆風、経済低迷、財源不足、歴史的赤字という苦しい状況であるのはわかります。しかし、政権交代した以上、もう逃げ場はありません。全力で、背水の陣で戦って貰いたいと思います。
 その辺のところ、鳩山さんの気持ちがイマイチ伝わってきません。危機感を持っていないはずはないと思うのですけど。国民はその覚悟のほどを聞かせてもらいたいのに、なんとなくはぐらかされているような感じです。世の中がここまで切羽詰まっていなければ、宇宙人でもいいのでしょうけど、苦しい中を一丸となって乗り切って行くためには、カリスマというものが必要です。その点、田中角栄は傑出していました。鳩山さんに角栄のカリスマを求めるのは無理でしょうけど、宇宙人ではいかんです。と言っても、今の政界、どちらを向いてもそんなカリスマ性のある政治家は見当たりませんけど。

 ところで、背水の陣というのは、自らの逃げ場を断つことで、雑兵の戦意を高めるのが一つの目的でしたが、本来は別の目的がありました。韓信が圧倒的不利な軍勢で、この戦法をとったとき、攻める趙軍は、その陣形をみて、兵法を知らぬ愚か者であると油断し、城を開けて全軍で攻撃に回りました。そこへ、別に用意しておいた別部隊が城を背後から攻撃して占拠し、趙軍の混乱を誘って、戦いに勝ったということだそうです。つまり、大将ひきいる主要部隊そのものをおとりとして使った大胆な戦略だったということです(項羽と劉邦から)。とすると、背水の陣で、もう一つ重要なのは、実はその裏に隠された戦略であると言えます。今の民主党をみていると、まさに韓信群同様の寄せ集めの雑兵で、連合政権内の統制も十分ではありません。鳩山さんの優柔不断ぶりを見ていると、自ら窮地に追い込む気迫も余り感じられません。裏の戦略はあるのでしょうか?あるとしたら小沢さんなのでしょうけど、例によって、小沢さんも何を考えているのか分かりません。
 「選挙に勝って、裏で院制を敷くために、選挙前に小沢さんは辞任して、鳩山神輿を担いだのだ」というシナリオを、マスコミはとにかく国民に植付けようとしているようです。もしも、そのマスコミを黙らせるような戦略がない(あるいはマスコミの言う通り)なのであれば、鳩山神輿を担いだ以上は、小沢さんは、ここは我慢して、できるだけ目立たないように蔭に隠れている必要があると思います(海部内閣の時の教訓もあります)。首相を差し置いて沖縄基地問題に関する私見を述べたりしてはいけません(私、意見そのものには賛成ですけど)。この段階で、担ぐ神輿が軽いと思われては、この内閣は総崩れになってしまうのでは、と私は心配します。鳩山氏がリーダーシップをアピールするのは当然として、他の民主党員および連合を組む政党の人も、私を捨てて、鳩山氏をもっともり立ててもらいたいと思うのですけど。とにかく、鳩山さん、もうちょっとしっかりして欲しい。小泉さんみたいにウソでも中身がなくても、自信満々で大きな声で叫ぶだけで、国民はついてくるのです。ここで失敗は許されないのですから、「絶対に成功させる」という決意をもっと国民に示さねばならないと思うのです。このあたりの頼りがいのなさというのは、育ちの良さの欠点なのでしょうか。
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日航再建の是非

2010-01-05 | Weblog
先週末のBBCニュースのアジアと経済のセクションでのトップニュースは、日航再建に政府が当初の1000憶円を二倍に増額しての支援を決めたという話でした。航空業界はどこでも苦しいのでしょうけど、日本人人口の減少と経済不振を鑑みると、いずれはダウンサイズされるべき業種であるのは間違いないと思います。政府支援が業務縮小の運命にある業種につぎ込まれるのは、この場はやむを得ないとは言え、釈然としないものを感じます。航空業というのは、リーマンショックの時の金融業というように、社会の潤滑油的役割を果たすのに不可欠という業種というわけではないでしょうし、だから潰れたら国民みんなが困るという類いのものではないと思うからです。少なくとも、私は日航が潰れても困らないと思います。
 子供のころ、「兼高かおる世界の旅」という番組が好きでよく見ていました。外国への憧れというのは、私の世代に最も強いかも知れません。私よりももっと上の世代は、海外に旅行するということは大変特別なことであったでしょうけど、私の子供のころには、ちょっと小金があれば、行けるようにはなっていました。それでも、一般庶民には海外旅行はとても贅沢なことで、テレビのクイズ番組でも、一等賞がハワイ旅行だったりしました。そんな時代、私は学校の図書館で、外国での人々や生活を紹介する本を読みふけり、その様子を想像しては楽しみました。北杜夫のドクトルマンボウ旅行記シリーズを読んで、船医になれば外国のいろいろなところにいけるのだと思ったのも、医学に興味をもった一因かも知れません。
 兼高かおるさん、実は私の母親よりもずっと年上のようですけど、子供心にも美人だなあ、と思った記憶があります。しゃべり方が「、、、でございますの」とかいう様に、古きよき時代の山の手の奥様風であったのも、子供の私にとってはエキゾティックに響いたのかも知れません。その「世界の旅」の初期の協賛をしていたのが、今は無き「パンナム」でした。私が初めて海外旅行をした時、パンナムはまだありましたが、滅亡の一歩手前で、すっかり落ちぶれていました。ですので、私自身はパンナムが世界航路を持って、世界の航空業界の王座に君臨していた様子はよく覚えていません。ただ、大相撲でのスポンサーでもあったのか、千秋楽では、パンナム極東支店の外人さんが、優勝力士に「ヒョーショージョー」を授与していたこととか、テレビ番組のスポンサー紹介で見たPAN AMのロゴとかは覚えています。小学生のころ、ハワイ旅行に行った友達が持っていた青い字の地球のマークとロゴの入ったパンナムバッグを見て、とてもうらやましく思ったことも覚えています。
 そのパンナムはアメリカ覇権主義を体現する企業として、度々テロの標的にもされるほどでしたが、その高コスト経営体質を変えることができず、プライドの高さゆえに自滅していきました。パンナムの興亡の歴史を振り返ってみると、本当に「驕れる平家は久しからず」という言葉を思い出します。(日本の大正期の総合商社、鈴木商店を思い出します)パンナムは経営不振に陥った後も、残った資産を切り売りし、王者のプライドをかなぐり捨てて、なんとか生き残ろうと痛々しい努力をしましたが、没落貴族の悲劇そのままに、滅びてしまいました。
 日本航空はどうなるでしょう。パンナムに喩えたのでは、日本航空関係者の人の気分を害するかも知れません。パンナムが王者として驕り高ぶったがゆえに自滅したのとはおそらく事情は違うでしょうし。(後で、山崎豊子の「沈まぬ太陽」という本に日航のパンナム体質が描かれていることを知りました。昨年に映画にもなっていたようですが知りませんでした)現在、アメリカの大手航空会社のほとんどが破産したか経営難となっています。航空産業は既に拡張しつくして縮小期に入ろうとしているわけで、そういう状況では、企業努力だけでは何ともし難いのだろうと思います。
 乗客一人を一定距離運ぶのに必要な飛行機の燃料というのは、車並みなのだそうです。仮に車でアメリカ=日本間の約一万キロを移動するとしたときのガソリンの量を考えたら、大変な量の燃料が日々消費され、環境に負荷をかけていると考えられます。昨今の環境問題への人々の意識の向上を見ても、航空機が世界の空を飛び回ることを単純に「景気が良い」と喜ぶ人も少なくなっていると思います。それに、インターネットがここまで発達してきた今、飛行機で人々が移動する必要性は、ますます減ってきているでしょう。私も今では、子供のときは、あれほど強かったエキゾティックな外国への憧れは、この情報化時代のせいか、ほどんど感じなくなってしまいました。
 日航は、合併廃業も視野に入れた縮小時代の長期目標をうまく設定し、政府からの支援金を有効に使ってもらいたいものだと思います。
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不生と不滅

2010-01-01 | Weblog
数日前のクリスマスに起きたデルタ/ノースウエスト航空でのテロ未遂事件でのニュースは、「どうして、犯人が、テロリストリストに名前が載っているイスラム系ナイジェリア人で、片道の航空券を現金で買うという珍しい行動をとり、その親も犯人がテロ行為に及ぶ可能性があるという知らせを各責任局に連絡まででしたというのに、飛行機内で事件が起こるまで誰もこの犯人を止めることがなぜできなかったのか?」という空港セキュリティーのシステムに対する非難に終始しています。これからは、搭乗前は全員が荷物の綿密なチェックを受け、飛行中はトイレにもいけず、コンピューターも使えず、両手は常に出しておかねばならなくなるそうです。
 こういう風な方向に流れるのは仕方がないのですけど、これではイタチごっこですね。テロリストは相手のシステムを見てから、その穴を見つけて、そこを突いてくるわけですから、いくら警備を厳重にしようとやる気さえあれば、テロ行為は可能です。航空機の自爆テロなど、ナイフ一本で可能になるのは、9/11のテロのやり口を見ても分かります。しかし、「テロを防ぐ方法は基本的にはない」という事実を、立場上、アメリカ国防省や空港は、受入れることは、もちろんできません。
 同様の事例は他にも多く見られます。例えば、交通事故はどうでしょうか?車の安全装置がいくら進化しても、交通事故死は減りません。医療過誤はどうでしょうか?いくら安全確認システムを導入しても医療過誤は起こります。「医療過誤はどうやっても防ぎようなく、ある確率でおこるものだ」と考えるのが、医療行為を経済活動として解析する人々の中では常識です。医療過誤でおこる諸問題をできるだけスムーズに解決するためには「医療過誤は必ず一定の率でおこる」というリスクを最初から医療活動そのものものの中に織り込んでおくのが現実的であります。同様に「テロは必ず起こり、防ぎようがない」ということを一般の人が、現代社会のリスクとして受入れれば、世の中はもっと楽になるはずです。
  テロリストは敵で倒さなければならない、病気とは闘わなければならない、こういう考え方は、二元論的に自己と他を区別する西洋の根本的な考え方に由来していると思います。聖書的には、アダムとイブが林檎を食べた時に、自と他、男と女、善と悪が生じ、この二項対立が際限なく増殖していって、現在に至るという訳です。テロリストと社会という二項対立において、現在の西洋社会の脅威となっているイスラム系テロリストをもしも仮に殲滅できたとして、次におこることは何でしょうか?言うまでもなく、西洋社会の内部もしくは別の場所に、新たなテロリストが違う形で現れるというだけのことでしょう。このことは、医療現場の院内感染で、「抗生物質を使えば使うほど、多種の抗生物質耐性のもっとやっかいな菌種が生えてくる」というのに似ています。空港セキュリティーの強化というのは、こういう治療方針と相似だと思います。そのうち、これが度を越えると(すでに越えつつありますけど)、治療は完璧だったが、患者は死んだということになります。つまり、テロという不可避の事態を根絶するために、航空システムそのものに強過ぎる負荷をかけることになるということです。それはやがて、航空システムそのものを破壊してしまうのではないかと思います。
  テロと西洋社会という対立は、テロへの警戒を強めれば強めるほど、より激化していくのではないかと思います。その対立の果ては虚しいです。テロリストはより過激な方法で社会を破壊しようとし、社会はそのテロを防ぎ、テロリストを殲滅しようとして、過大な負荷をそれ自身にかけようとするでしょう。双方の対立がエスカレートすればするほど、双方に、より強いダメージが蓄積していくだけです。
  対立解消への答は簡単なのですけど、実践は困難です。それに関して、昨日読み返していた本の中から、盤珪の話を書き留めておきたいと思います。
  江戸時代の禅匠、盤珪は、儒教の古典の一つである『大学』の中の「大学の道は明徳を明らかにするにあり」という一節にひどく悩み、「明徳とはなにか」を求めて、師を求め、苦行をしました。その苦行のためにあやうく死にかけた時、盤珪は、忽然として、苦行が何の意味もないことに気づき、そして、「すべて『不生』でかたがつく」という悟りを得ることになります。その『不生』について、盤珪は次のように言っています。

 「皆さんの誰もが親から受継いでいるものは『仏心』にほかならない。この心は決して生まれなかったもので、決定的に智慧と光明(霊明)に満ちている。生まれぬがゆえに決して死なない。しかし私はそれを『不滅』とは言わない。仏心は不生であり、この不生の仏心により、一切のことが完全に整うのである」

  不滅と不生の差、これが西洋と東洋の考えの差なのかも知れません。自己が生まれれば、自然と他が生まれます。自己の不滅を願えば、自己を攻撃する他を滅するしかありません。このジレンマを解決するには、不滅ではなく不生でなければならない、というのが盤珪の悟りの本体なのであろうと思います。(もっとも、仏教では不生不滅と、これらの言葉は同様の意味を表し、盤珪自身も「不生」である以上「不滅」であるのは自明であって、よってわざわざ「不滅」という言葉を使わないのだ、とも言ってはいますけど)
 二項対立、二元論が生まれてくる前を徹見せよ、というのは仏教での根本的な考え方です。それが、「隻手の声(両手を打ち鳴らす前の片手の音を聞くこと)」であり、「父母未生以前の消息(父も母も生まれる前、その子供はどこにいたのか)」というような公案となっています。そう考えると、現代社会のあり様はますます、間違った方向へ向かっているようです。
 そもそも、アメリカが現在の覇権を手にしたのは、自らの土地に他の国々からの移民を受入れ、彼らをその一部に取り込むという決断をしたからだと思います。即ち、固定的な自己を殺し、自と他の境界を流動的にしてシステムとしての柔軟性を図ったからです。イギリス清教徒の国という自己の死と引き換えに、他を入れることによって、多民族国家として生まれ変わることを繰り返し、アメリカは大きくなってきました。対立をそのまま包含するような自己をその都度設定していくことによって対立を昇華解決してきました。
 このことは、「一粒の麦も地に落ちて死なずば、ただ一つにてありなむ、死なば多くの実を結ぶべし」という聖書の言葉を思い出させます。
 しかし、そうして結んだ多くの実は、それからどうなるのでしょうか?アメリカは一粒の麦を殺して、もっと多くの実を結ばせることを繰り返して、大きくなってきました。しかし現在、アメリカというシステムは大きくなりすぎました。それが、近年のイスラム系テロが顕在化した理由ではないかと私は思うのです。どんどん麦の実を増やすことが、世界という農場にとって、脅威となって来ており、テロはその増えすぎた麦の実に対する「非-麦の実-社会」の反応として起こっているのではないか、と想像するのです。
 このコンテクストにおいて、「不生」は、「一粒の麦を見よ」と教えていると考えられます。地上の一人一人が、我々個人や社会が一粒の麦であることを思い出すことが出来るのなら、世界は確実に良くなるであろうと思います。
 最後に、無難 (1603 - 1676) の句をひいて、2010年が良い年となることを祈ります。

生きながら 死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき

(蛇足ながら、生きながら死人となることが、不生の実践であります)
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