百醜千拙草

何とかやっています

大事な雑用、ポランスキーのこと

2009-09-29 | Weblog
出張から返って来て2週間たって、ようやく学会がらみの雑用とその前に引き受けていた雑用と、その他、二つの雑用が終わり、実験に本格的に戻ろうとしています。この雑用と学会のおかげで、本業に半月分ほどの遅れが出てしまい、焦っています。まだもう一つ来週に雑用が残っています。私の場合、研究活動とグラント書きが本業で、それ以外は雑用という振り分けですが、雑用、雑用といっても雑用をバカにしているわけではありません。雑用を通じて研究界その他に貢献できるのですから、雑用は重要です。英語ではChoreと言いますね。やりたくないけど、やらないといけない日常の活動のことですけど、この言葉には明らかに雑用をバカにした響きがあります。ある人が「人間は雑用をするために生きているのだ」と言ったのを聞いた事があります。若い時は、雑用どころか、ご飯を食べたり、トイレに行ったり、風呂に入ったりすることでさえ面倒くさいと思っていました。近頃は、休みの日に掃除したりすると良い気分になります(滅多にしませんけど)。私たちが雑用と思っている仕事の多くは、本当は私たちが「重要な仕事」だと思っていること以上に重要なのではないかと最近は思うことがよくあります。ただし、研究の場合は、前向きな活動なので、やってくる雑用を捌いているだけでは、一歩も前に進みません。研究の目的にフォーカスし、そのゴールの達成に直接関係ないものにはできるだけ時間を割かないようにしないと、なかなかゴールへ到達できないので、私は雑用が嫌いなわけではないのですけど、研究以外の仕事を雑用というワクで区別して、それに割く時間をできるだけ少なくしようとしているのです。それなら、このブログを書いているのは何だ、と思われる方もおられるかも知れませんが、これは柳田先生が言うように、仕事の一部だと思っております。研究活動には自由にものを考えたり、息抜きをしたりすることが不可欠なので、そういう頭と時間に隙間をつくるための、改行のようなものと思っております。

 今朝のニュース、ロマンポランスキー監督、スイスで逮捕とのこと。何十年も前に、アメリカで13歳に淫行、裁判中にアメリカ逃亡していました。映画祭での受賞のためにスイスに現れた所を逮捕。二年前にもちょっと触れましたが、映画は好調のようで「Pianist」でもアカデミー賞受賞しました。今回、何度も来ているスイスなら大丈夫だろう、と思って授賞式に出席したのでしょうが、アメリカ当局もドッコイ忘れていませんでした。2005年から国際指名手配していたそうです。何十年も前の事件なのに、どういう事情でこのたびの逮捕となったのか、分かりません。スイスもアメリカも政治的意図は否定しています。しかし「見せしめ」にはうってつけの逮捕劇です。フランスとポーランドはポランスキーの減刑をアメリカに要請したそうですが、筋違いもいいところでしょう。被害者の女の人は既に過去の事で蒸し返して欲しくないという意向もあるようですが、法治国家の建前は通さねばなりません。ポランスキー、76歳、立派に罪を償って欲しい、と私は思います。
 映画も小説もヒューマニズムの推進をその究極の目的としているものと私は思っています。「Pianist」で、しつこくナチのユダヤ人弾圧を描いたポランスキーの意図は、アウシュビッツで殺された自分の母に関するナチスドイツへの単なる憎しみの表現ではないと思います。人間の尊厳と人権の尊重を訴えているのなら、30年前に13歳の女児の人権を踏みにじり、性的暴行を加えたポランスキー自身の行動は、自らの映画に対する侮辱であります。ポランスキーは、罪を認めて謝罪し、反省の言葉を述べ、そして刑に服してもらいたい、そうでなければ、彼の映画はゴミくずになってしまう、と私は思います。
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voting for the status quo

2009-09-25 | Weblog
八ツ場ダム建設中止を公約に揚げた民主党は、その直接の関係者である県や住人の一部から、建設中止反対の強い要望を受けており、メディアは例によって民主党が「建設中止」の前提を崩さないと非難しているようです。公約に挙げて、国民の多くがそれを支持したのですから、「建設中止」を中止するわけにはいきません。これは非難されるべきことではなく、公約を守ろうとしているのですから、誉められてしかるべき態度であると思います。メディアは一体、何が言いたいのでしょうか?国交省の前原氏は、推進派の人々に頭を下げて、「国」がこれまで、計画から50年以上も、やるやらないで、関係者の人に迷惑をかけて来たことを謝罪し、具体的な補償案を提案しました。正しい態度であると思います。50年も前に計画して、その予算の7割を使っていながら、ダムの建設は殆ど進んでいないという現実から、その必要性と投資回収効果を考えれば、誰でも、ダム建設は中止するのが正しい判断と思うのではないかと思います。ダム建設を継続すれば、中止に伴う補償費用などを考慮しても、中止するよりも多くの支出となる上に、その効果については疑問というわけで、「冷静に」考えたら中止するのが当然です。推進派には、国全体の視点で「冷静に」考えられない事情があるわけで、ハコモノ-天下り-ゼネコンという従来の癒着構造でおいしい思いをしたい人は、ダム建設に税金が注ぎ込まれて、国の借金がいくら増えようと、一般国民の福祉が切り捨てられようと、自らの不利益になることには首を縦に振らないでしょう。また、一部の住民には、ダムになるという前提で家を移転したり、職を替えたりと将来設計を行ってきた以上、いまさら計画の変更は困る、という意見があるのもよく分かります。しかし、一方で、推進派以上の数の反対派が活動してきたことも事実であり、ダム建設がこれ以上進んでは困ると思う人も多いのも間違いないでしょう。この推進派と反対派の利害の衝突をどう解決すればよいのか、考えていたのですけど、一つ、思いついたのは、これまで国が国民に対して良くとってきた方法が最適なのではないか、と思いました。つまり、「問題の先送り」です。ダム建設は50年以上前からやってきて、まだダム本体の建設は手つかずという状態です。50年間、無くてもやっていけたものですから、今後50年間(あるいは永久に)も無くても大丈夫だろう、というのが常識ある人の推論でしょう。前原氏、地元住人の理解が得られるまで、中止手続きは取らない、と言ったらしいですから、引き分け時間切れで、問題が自然消滅するのを待つというストラテジーではないかと想像するのです。工事の推進を凍結すれば、仮に中止にしなくても、反対派は、いずれ中止するからと言えば、しぶしぶ納得するでしょうし、推進派には、凍結はしたが中止したわけではない、と強弁することも可能でしょう。それで、あと50年どっちつかずでやっていれば、直接利害の及ぶ地元住民の多くは世代交代し、ダムなどどうでもよくなっているでしょうし、ハコモノ-天下り派もすぐ金にならないと悟れば、あきらめるでしょう。
 利害の衝突が激しい場合に、すぐに解決を望むのは、傷が深くなります。ここで、一呼吸おいて頭を冷やすために、問題を先送りする、という手は、しばしば有効ではないかと思います。反対派と推進派がそれぞれの理由で激しく対立しているとき、どちらかに決めて問題の帰趨を決定するというやり方以外に、対立して平衡化している現状を意図的に維持するという方法があってもよいと私は思います。私も決断しがたい決断を下さないといけないときは、常に決断を先延ばしにするという手が無いかどうか探るようにしています。問題を先送りすることは解決ではありませんが、時にはそれが長期的によりよい解決に結びつくことがあると思います。物事を成り行きにまかせ、意図的な問題解決に伴う抵抗を受け流す、決断しないという決断が、多くの異なった価値観を持つ人々からなる社会において、ときには有効なのではないかと思うのです。
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ちょっといい言葉(3)

2009-09-22 | Weblog
 子供のサッカーシーズンが始まりました。クラブチームでプレーし出したので、日曜日は試合で半分は結構遠くの町まで試合に行きます。先週末は車で1時間ぐらいの所まではるばる遠征しました。数年前に比べて試合のレベルも上がって来ているので、試合を見るのもなかなか楽しいです。 
 ウチの子はスピードがあるわけでも、ストライカーでもないのですけど、ときどきうまく相手のボールをトラップしてよいパスを出すことがあって、主にミッドフィールダーとして使ってもらっています。実際、本人も、はミッドフィールドでボールを奪って、アシストするというスタイルが好きなようです。ところが、前のシーズンの終わりの試合では、ウチの子は後半でゴールキーパーをやらされ、試合の後その事が気に食わなかったようで、たらたら文句を言っていました。キーパーは余り人気のないポジションで、しかも出来る子が少ないので、試合では、二三人で交代しながらやっていたのです。その試合を横から見ていて分かった事は、両チームとも守備が悪いということでした。ディフェンスが余り機能していません。それまで、ウチのチームは、体は大きいが動きが遅いゴーリーを使っていて、2点を入れられていました。守備にもう少し力を回さねばならないのは明らかで、それでコーチはゴーリーを変えたのです。ウチの息子は、そのコーチの配慮が読めなかったのです。「彼ならゴールを守ってくれるだろう」というコーチの期待を汲み取ることができず、どうも、ミッドフィールドで活躍する機会を失ったとしか、彼は考えられなかったようなのです。
 このゲームは一点差でウチの子のチームが勝ちましたが、ウチの子の不満を聞いて、夏目漱石の「則天去私」というのは、この試合においては、ミッドフィールダーとしての自分のエゴを取り去り、コーチの意を汲み取って、チームのために働くということであろう、と私は思いました。それが、結局は、巡って、自分自身の満足となるのです。この手の話はスポーツ漫画では繰り返し扱われて来た題材です。個人のエゴとチームの利益とのコンフリクトは、スポーツに限らず、この世の常です。政党利益か個人の権力欲か、ソロデビューかバンド活動か、日本の国益か地球の平和か、例を挙げればきりがないですが、こうした集団と個人という関係でなく、もしも相手が「天」であった場合は、個人に勝ち目はない、というのは明らかです。
 わたしたちはしばしば天の配慮が理解できません。多くの人が、世界というチームが果たすべき目的に沿って、天からしかるべき役割を与えられているという自覚が乏しいのです。だからゴーリーなのに、敵陣に走って行って、点をとられて、痛い目にあうということがしばしば起こるのです。私たちが、折りにつけて、神仏に祈るとき、自分の欲望を満たしてくれるようなお願いをします。「無事、試験に合格させて下さい」とか「昇進させて下さい」とかですね。それが天の配慮に合わなければ、いくら祈ったところで、かないません。ケネディーは就任スピーチで、「国が諸君に何をしてくれるか期待するのではなく、諸君たちが国にどう貢献できるかを考えて欲しい」と言いました。国を天と言い換えれば、私の言いたいことと同意です。もしも、天の配慮にしたがって、その目的を達成するために、自ずから努力するならば、天は手助けしてくれるはずです。チームの勝利のために与えられた役割を果たせば、自分が目立ったプレーをしたいというエゴを満足させるよりも、チームの勝利というより大きな喜びが得られます。また、エゴにドライブされる勝手なプレ-はしばしば、逆にチームに悪い結果をもたらし、「自分があんなに活躍したのに、チームが負けた」という勘違いとフラストレーションをもたらします。これは不幸です。世の中の「自分はこんなに頑張っているのに報われない」と文句を言う人を横から見ていると、自分の属する共同体の目的が見えていないでやみくもに動き回っているだけだったりするのに気がつくことが多々あります。謙虚に、天が自分に求めていることを感じ取り、どうやったら自分が世界に貢献できるかを考え、行動すること、これが、成功と幸せへのコツだと思います。私は事実、このことを思い出すことによって、グラント危機での精神的ストレスを乗り切りました。その話はまた今度。(続く)
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出張の間のできごと

2009-09-18 | Weblog
出張の間の数日、パソコンを持っていかなかったので殆どコンピュータを見ない生活でした。情報は朝の新聞とテレビでしたが、いろいろニュースがありました。
 テニスのUS openは見られなかったので、フェデラに勝って優勝したというアルゼンチンの選手のプレーをみることができず、残念でした。セリーナウィリアムスが、線審のフットフォールトの判定にブチ切れて、その小柄な線審の女の子に向かって「オマエのxxxな喉にテニスボールを押し込んでやる」とか暴言を吐いて、問題になっていたようですが、確かにあの体格のセリーナに脅されたら、マイクタイソンでも命の危険を感じますね。この月曜日、ゴールデンタイムに初登場したJay Lenoの番組では、早速、「食べれるテニスボール」をセリーナが売り出すらしい、とジョークのネタにされていました。VMAの授賞式でアイドル系歌手の受賞スピーチに乱入して、マイクを横取りし「ビヨンセの方がエラい」とか言って顰蹙を買った黒人の兄ちゃん(誰か私は知りません)は、同じJay Lenoのショーに出演して、説教くらって反省していました。私、最近の歌手は殆ど知らないのですけど、ビヨンセは知っています。そのVMAの賞をもらったアイドル系の人、テイラースウィフトが歌っているのは一、二回聞いたことがありますが、どこが良いのか全然わかりません。一方、ビヨンセは才能あると思います。歌もかなりうまいと思いますし、まずまずのルックスなのに、黒人英語丸出しなのもユニークでよいと思います。関西弁丸出しの美人というのは想像難しいのですけど、そんな感じですかね。
 日本では、鳩山内閣発足。これから支持率は徐々に落ちていくでしょうけども、是非とも、初心を忘れず、国民のために公約を実現していって貰いたいと思います。小沢氏も「闇将軍」化することなく、明朗会計で民主党を支えていって欲しいと思いますけど、読めない人ですから、心配です。
 iPSの山中さん、ラスカー賞受賞。iPSの論文から3年でラスカー賞というのは、すごいことです。それだけ、この発見の価値がわかりやすかったということです。素晴らしい。昨年のラスカー賞、基礎部門のmicroRNAは発見から15年、臨床系のメバロチン(でしたっけ?)の三共(でしたっけ?)の遠藤さんの場合は発見から30年以上経ってますから、発見から3年でラスカー賞というのは最速記録ではないでしょうか。ノーベル賞の前哨戦とも言われるラスカー賞ですから、山中さんへのノーベル賞への期待も高まっていると思いますが、私は以前にも述べたように、iPSがノーベル賞に至るまでには、もう一ひねり必要であろうと思います。iPSの臨床応用とその成功です。基礎研究として、細胞のリプログラミングのメカニズムに分子的実体を与えたという功績は疑う余地はありません。しかし、もともと臨床応用へ強い含意のある研究で(だからこそ、これだけ研究価値が早くに広く理解されたわけです)、故に、ノーベル賞にいたるには、この研究が「成功裡に」臨床応用される必要があると私は思っているのです。基礎研究としての価値だけで、ノーベル賞へ行く可能性も勿論あるとは思いますが、もし、iPSが臨床応用に失敗した場合、世間の一般の人は、本来の発見の価値まで疑い出すことになる可能性があると思います。そう考えてノーベル賞財団は、iPSの臨床応用への帰趨を見守っているのではないかと私は想像しています。
 カーター氏、「オバマのヘルスケアリフォームに対する(主に保守系、共和党系白人の)根強い反対は、オバマが黒人系だという人種差別に基づいている」と発言し、この発言がまた、保守系白人の反感を買いました。アメリカ社会に根強い人種差別があるのは、皆知っていることで、皆が知っている当たり前のことを、公衆の前で発言して、問題になるというアメリカ社会の方がよっぽど、問題ではないかと私は思います。カーター氏、しばらく前も、「ジョージW.ブッシュは史上最低の大統領だ」と本人以外は皆が知っていることを、公の場で言って問題になっていましたが、真実を堂々と述べて問題視されるような社会はイカンと思います。これは、個人の中傷などではなく、国全体の社会と未来に関することなのです。カーター氏の発言は、田中眞紀子の政治漫談とは、ちょっと違います。彼は叩き上げの大統領でした。ジョージアの田舎の政治的背景の乏しい中から大統領になりました。あいにく、大統領としては成功したとは言えませんが、今、存命中の元大統領の中で、彼のように民衆の側に立って率直にものの言える人はいません。アメリカ人にとって、アメリカは希望に満ちた明るい国でなければならないのでしょう。その闇の部分や恥部に目を向けたくないというバランスの欠けた態度が、アメリカ人自身の問題を大きくしてきたのではないかと想像しています。人種差別や性差別があるのは皆知っています。それを無くしていくには、そういう問題を直視することから始めるべきで、あたかも問題がないように振る舞うことは何の解決にならないと思います。とは言え、根は深いです。特別な理由無く、人種の差を唯一の根拠に差別する場合もありますが、差別される方(嫌われる方)にも差別される(嫌われる)だけの理由がある場合も多いのです。人種が違うという以上に文化的、習慣的な差もあるわけで、そういったものが特定の人種と結びついて、差別の構造ができてくるのだろうと思います。人種に関係なく、特定の宗教の人が別の宗教の人とつき合いにくいのと同じではないかと思います。その辺、国の問題ですから、感情の問題をできるだけ切り離して、なるべくロジカルに議論を進める必要があると思います。「話せばわかる」と私は信じております。
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社会の成長

2009-09-11 | Weblog
明日から学会で、学会がらみの二三の雑用も引き受けてしまったので、真面目にやらねばなりません。それで、来週は多分、エントリーできません。
今日もまた、ちょっと、政治がらみの話を。
 昨夕、オバマは、オバマ政権の大課題で故テッドケネディーの悲願であったヘルスケアリフォームを実現するため、反対の多い共和党を説得すべく、全議員を集めての一時間の演説を行い、全国放送されました。「国民がその文化的健康的生活を送るために健康保険には誰でもアクセスできるべきである」という主張に反対する人は誰もいません。健康保険のコストの上昇は賃金の上昇の3倍のペースで、保険会社は利益にならない病気持ちの人の保険を拒否したり高額医療の支払いを拒否したりして、病気になって治療が受けられず死んでいったり、高額医療のために破産したり、そういう先進国とは思えない現実がアメリカにはあるあわけで、その状況を変えねばならないことは明らかです。しかし反対する共和党は結局は「金」の話になります。その財源はどうするのか。オバマはこのプランで一ダイムたりとも借金を増やすことはないと言いましたが、その根拠は確かに説得力に欠けます。オバマは「金」の問題を懸念する共和党に、健康保険が手頃に買えないために、アメリカ人の生活が破壊され、中小企業は雇用者に保険手当てをつけることもできなくなっている、こうした現状がアメリカ経済にも非常な悪影響を及ぼしていると、ヘルスケアリフォームがアメリカ経済振興にとっても重要であると強調しました。オバマにとっても、この仕事はかつての歴代大統領が成し遂げることのできなかった課題ですから、意欲満々であり、オバマ政権の「肝」でもありますから、是非とも共和党の支持を得て、実現したい、それが、今回の異例の全議会演説となったものと思われます。「ヘルスケアリフォームを行わなければならない」という結論に対して、共和党の言質を取ることで、現状維持という選択を消し、具体的なリフォームの計画へと突入する、そのために打った芝居であります。
 健康や命は「金」で買えないものです。しかし「金」がないと維持困難であります。ですから、国が教育に投資するのと同様、国がある程度、国民の健康増進に投資をする必要があるのは当然のことだと私は思います。世の中のことを何でも「金」に換算する人は、福祉社会となったら、それにただ乗りする人が現れる、福祉の程度が大きくなればなるほど、ただ乗りする人のために「自分たち」が納めている税金の負担が増える、などとxxの穴の小さいことを言います。税金を納めることができる立場にあるというだけでも恵まれているのだから、福祉の世話で生きている人の一部を「ただ乗り」とか言って非難せずに、友愛の気持ちを持って、世の中、持ちつ持たれつの助け合いで、助ける側にいれて幸せだ、と思えないものでしょうか。福祉は金だけの問題ではなく、友愛の実践の機会でもあります。

 さて、日本では、衆院単独過半数をとった民主党が、弱小政党、社民党と国民新党と連立政権を樹立で合意。なぜ、単独過半数の大政党が、小政党と連立政権を組む必要があるのか、政治は数の勝負という点から言えば、確かにその必要はありません。一つの可能性は、民主党も参院では単独過半数に達していないので、参院での民主の立場を強め、時期参院選に備えて、(時期参院選では、今回のように民主の圧勝とはまずならないでしょうから)衆院で連立して関係を作っておこうということかも知れません。あるいは、寄り合い所帯の民主内で、いずれ、反小沢派の謀反がおきて、かつての自民党のような派閥争いとなって分裂するような時に多少の援護が受けれるように鳩山派と小沢派がこれらの政党に恩を売っておこう、ということかも知れません。つまり、民主が分裂した場合でも、かつて小沢氏が8党連立で担いだ細川政権のような連合政権を作って、権力を保持するためのバックアッププランとして、社民と国民新党とパイプを繋いでおこうということを考えているのかも知れません。
 しかし、私は別の解釈があってよいと思います。私は、政治イコール権力闘争という下世話なレベルは、そろそろ脱却して、「政治は国民のために社会を良くするためのものである」という建前に正直なものになって欲しいと思っています。それこそが政治の、そして社会の成長であり、社会は将来的にそのように成長するのが本当である、と私は思っているからです。井戸塀政治家の時代に、医療でいえば医が仁術であった時代に、つまり初心に立ち返ってもらいたいと思います。「利権と世襲で、政官財癒着して一部の利益を守るための自民党政治はウンザリだ」これが今回の選挙の答えなのですから。確かに、これまでは社会は生き残りのための戦場で、政治はまさに戦争でした。陰謀の渦巻くキタナイ世界でした。だからこそ、野球の勝ち負け同様、誰が勝った、誰が負けたと、床屋政談で盛り上がるわけです。政治は選挙で勝って競技権を得れば、後は何でもアリの力の勝負というわけです。そういう政治の裏の陰謀やスキャンダルを皆が好きなのはよく分かりますが、政治はそろそろ、そういうレベルを越えて、建前に誠実になってもよかろうと私は思うのです。ですので、鳩山さんの連立政権のやりかたは、私は悪くないと思っています。ある程度政治理念に共通のある旧野党が協力する、そのかわりに少数派意見も汲み上げて議論する機会を作る、「友愛社会」を目指す鳩山内閣が、対立路線ではなく、なるべく協調路線をとって、できるだけ多くの国民のお互いの利益になるような政治を実現する、そういう理想を照れることなく、素直に語れるのであれば、素晴らしいことだと思います。単独過半数いるのだから、少数政党は無力だ、と考えるのでは、数の暴力で悪法案を強行採決してきた、前政権の自民党と同じです。上から力でねじ伏せて、やりたいようにやる、そういう様にやってきた結果が今回の政権交代でした。民主党は「国民第一」のスローガンどおり、下から積み上げていって社会を変えていって欲しいと思います。そのために少数派の党にも発言力をあえて与え、間違いのない方向へと、建前に誠実に舵を取っていってもらいたい、そのように思います。
 世の中は、弱肉強食の市場原理に対する反省を込めて、助け合い、協力していく社会を人々は欲するようになりました。これは、必ずしも福祉国家である必要はないと思います。理想的には、友愛の社会、助け合いの社会は、政府からの福祉に全て頼る必要はないのです。こういう話をすると、欧米では、笑い話かも知れませんが、日本ではあり得ることです。日本は儒教を道徳として教えており、その子供の教育というのは、馬鹿にならない効果を及ぼしていると私は思うからです。
 私は人類(および各個人)は成長するために生きていると思っています。一方、生物科学の進化論的パラダイムを採用する人は、人間は単にその環境において生存に適したものが選択されるだけの遺伝子をまき散らすことだけを至上目的とした遺伝子増殖機械であると考えるような人もいて、そういう人には分かってもらえないかも知れませんけど、私は、人類の滅びる日まで、社会は人類の成長と共に同様に成長していくべきものだと思っています。そして実際、百年前、二百年前の社会と比べたら、現在の社会は成長したと思います。これはレトロスペクティブに現代人の価値観で判断していますから、公平でないかも知れませんけど、その辺を差し引いても、ヒューマニズムの観点から社会は成長してきたと思います。同様に、政治も政治家と社会の構成員の利益獲得の競争に過ぎないという「動物的」なレベルから脱却して成長していって貰いたいものだと思います。
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20年の雌伏

2009-09-08 | Weblog
床屋政談はやめるつもりだったのですが、ちょっとだけ。
  週末、図書館で1991年発行の松下政経塾魁の会が出したフィクション、「2010年霞ヶ関物語」という本を見つけて、ちょっとだけ立ち読みしました。もちろん、既に絶版となっているので、こんな本は普通の本屋にはおいていません。約20年前の政治関係者が2010年に霞ヶ関、日本の政治はどうなるだろうか、という予想をしているわけです。当時は自民党の小沢一郎のインタビューもあって、彼は、二大政党制となることを予想していました。鋭いなあ、と一瞬思ったのですが、日本のシステムはだいたいアメリカのマネをして発展してきていますから、今のアメリカを見れば日本の将来も見える、そう考えれば、二大政党制の予測というのは、誰でもが考えたことではなかったか、とも思いました。また、彼は現在の小選挙区選挙への政治改革を実現させましたし、小選挙区制は中選挙区で複数の候補が同党から立候補することでおこる派閥間対立を減弱し、政権の交代の可能性を上げるためのものでしたから、もともと、派閥間権力闘争にうんざりしていたのかもしれません。事実、当時、竹下派の金丸直下にいた小沢一郎は、リクルート事件で議員辞任にいたる金丸の力の衰退で、反小沢派の強い反発を受けて、自民党の権力中枢の竹下派を去らざるを得なくなり、自民離党することになります。結局、小沢さんは自民党を飛び出して、現在は政権政党となった民主党の中枢にいるという状況を考えると、二十年前に小沢氏の権力を摘み取ったと思ったであろう自民の反小沢派は、雌伏の後、再自民の外から小沢氏が再び権力を手にしたというこの歴史の皮肉をどう思ったことでしょう。
 ところで、同書には、日本のどこかの大学で教鞭を執っていたクラーク教授という外人(きっと有名な人なのでしょうが、知りませんでした)の人が、「イデオロギーに乏しい日本人に二大政党制は似合わない、日本は派閥政治が似合っている」というような話を書いていて、私もおもわず頷いてしまいました。思えば、現在の民主党と自民党というのは、形上は確かに別の政党ではありますが、アメリカ流の二大政党とはちょっと言えません。そもそも、どちらも、もとを正せば、多くが自民党で、派閥権力闘争の結果として、党が分裂しただけのものです。政党の主義、イデオロギーというものがあって、党があるというわけではないように思います。その点では昔の社会党みたいな党が大政党であったころの方がアメリカ的とも言えます。ただ、結局、実際には社会党は自民党に反対することだけが、そのレゾンデトールであったのに、現実派の村山委員長が自民党の権力欲のために自民に担がれて連立政権となった結果、その唯一の存在理由を無くし崩壊してしまいました。自民も民主も、視点が違うだけで、その内容は、頭に「自由」がついているかついていないかぐらいの差しかないのかも知れません。事実、今回の自民対民主は、政党間のイデオロギー闘争ではありませんし、むしろ、角栄の弟子の小沢氏と、福田赳夫の流れを汲む小泉とその後継の闘いであって、つまり、第二次「角福戦争」という(党内)派閥抗争に過ぎない、と見る人もいます。中卒で叩き上げの角栄と東大エリートの福田、庶民目線の民主党と霞ヶ関目線の自民、なるほどと頷けます。しかし、疑似二大政党(その実は派閥権力闘争)という政治でも、権力のためには国民の支持が必要なわけで、それで国民の生活や社会が改善するなら、どんどん競争してもらえればよいわけで、むしろイデオロギーなどという厄介なものを扱わずに済むのなら、それに越したことはないと思います。特に若者がそんなものにかぶれたりすると、学園紛争盛んだった時代の革マルと中核の内ゲバや日本赤軍事件みたいな不幸な事件に発展する危険があります。私は、イデオロギーのような怪物は麻薬の様なもので、正しく使用する方法を知らないのなら、うかつに近づくべきものではないと思っております。(とは言うものの、とりわけ秋口には、バイロンではありませんが「人は恋愛と革命のために生きている」という若者の情熱をうらやましく思ったりすることもしばしばあります)
  こんなことを考えていたら、 たまたま読んだ「 カフェ ヒラカワ店主軽薄」で、もっと詳細かつ納得できる今回の政権選択の解釈が披露されておりました。一読をお奨めします。これもシンクロニシティーですかね。
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民主党の科学政策など

2009-09-04 | Weblog
8/20号、総選挙の前に発行されたNatureのニュースセクションで、政権交代によって日本の科学政策がどう変わるか、という記事が鳩山さんの写真入りで載っていました。まずは、この政権交代の歴史的な意義に触れた後、民主党の科学政策、とりわけ、財源問題が及ぼす影響についての懸念を表しています。道路工事やダム建設などの大きな計画にかかる費用を削って、子供手当て、その他の財源に当てるという計画、官僚から決断権を政治家に取り戻すとの民主党の方針が紹介されています。理研の和田さんは、民主党がどれだけ官僚の描いた絵なしで、実行できるのか、と疑問を投げかけています。(官僚なしでは何もできないのは、自民党の方でしたが)民主党政権下では、大規模な科学プロジェクトは大幅に縮小することになる可能性があり、事実、マニフェストには、理研を含む日本の大きな研究施設の制度の見直しがあげてあります。私は、特に生物医学研究においては、トップダウンの大プロジェクトは、日本の科学の発展の上で大変、有害であると思っていますので、研究単位を小さくし、研究者主導のプロジェクトを増やし、大プロジェクトや大研究施設のビュロクラシーを無くしていく事が大切だと思いますので、この方針は歓迎です。スタンフォードで工学博士をとった鳩山さんは、Natureからのインタビューで基礎科学研究を強くサポートすると述べたそうです。民主党は、科学技術戦略省を設置するということで、現在問題となっている例の2700億円プロジェクトの施行見直しにかかわってくる可能性があります。そもそも、この2700億円を30人で分けるというバカげた計画は、科学研究政策の経験の殆どない野田聖子の思いつきで、その利権を享受できそうな有力大学関係者が煽ったという話ですから、私、個人的には中止するのが皆のためであると思います。元阪大総長の岸本さん(キシチュー)は、「これまでも、このような大きな大プロジェクトで資金が浪費されてきた。この2700億円は、一千万円単位の研究グラントにして、その1000倍の数の若手研究者をサポートする方が余程、有益であろう」と述べています。Natureは、地球温暖化政策について、自民党は京都プロトコールの目標値を達成できず、その達成目標もかなり甘いものであったことを批判し、民主党の10年間で1990年レベルから25%のCO2削減という計画を歓迎しています。対して、例の自民党幹事長は、そんなにCO2を削減しようとしたらGDPが3.2%も落ちてしまう、といつものようにGDP至上主義的発言をしたという話で記事は終わっています。前回の自民党の経済対策を自画自賛した時といい、この人は地球の未来よりGDPの方が大事なのね、と思ってしまいます。「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」というところですか。

続くページには、ヒトゲノムプロジェクトのリーダーで前のヒトゲノム研究センターディレクターのフランシスコリンズがNIHのディレクターに就任の記事。人柄も良いし、適任と思うのですけど、批判する人は、彼が遺伝学者であって、現在の医学、生物学研究の「分子遺伝学」偏向傾向がますます助長され、NIHのサポートの偏りが悪化するのではないかという懸念を挙げています。もう一つ、彼は敬虔なキリスト教信者であり、その宗教に基づいた判断を科学政策に持ち込むのではないか、という懸念があるようです。後者については、彼自身が否定していますし、私は、そもそも、宗教と科学は対立したりできるような同じレベルのものではないと思いますので、こういう懸念を持つ人の気持ちがわかりません。私は、特別な宗教を実践しているわけではありませんけど、科学のできることは限られており、その科学の閉じた世界の外には、宗教みたいなものでなければ扱えないものがあると考えていますので、天とか神とか、何と言ってよいのかわかりませんけど、そんなものを信じております。それなしに、科学が与える世界観やパラダイムのみを信じていては、人生は余りにミゼラブルです。それはまるで、自分で作った檻の中に自らを閉じ込めるようなものです。私はそう考えているのですが、Templeton Foundationや、コリンズ自身が今年作ったBioLogas Foundationのように、科学と宗教の間を埋めたいと、どうも西洋人は考える傾向があるようで、その辺の思考回路はちょっと私には理解できません。科学と宗教というのは、喩えてみれば、科学が今晩のゴハンであるとすると、宗教はそのゴハンの味であると思うのです。科学がTangibleな対象を客観的に扱うのに対して、宗教での経験はあくまで、ゴハンの味が味覚の神経を通じて脳内で再構築されたものであるのと同様、主体がなければ成立しないものだと思います。ゴハンが食べ物という物質として存在しているのは多くの人が認めるでしょう。物質としてのゴハンはいくらでも科学の研究が可能です。でも味わう人がいなければ、「ゴハンの味」というものは存在しないと思うのです。宗教とはそんな主観レベルのものだと思います。だから、ギャップを埋めると言っても、そもそも存在する世界もレベルも違うもので、ギャップがあると思うこと自体がおかしいし、それを埋めようとする事自体がナンセンスだと私は思うのですけど。
どうでしょうか?
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民主主義国家へと向けて

2009-09-01 | Weblog
今回の衆院選での最大の目的である、政権交代、即ち自民党を政権政党の座から引きずり降ろすこと、が無事達成されました。長年の自民政治にうんざりしてきた人々にとっては、これは日本の国の「夜明け」でしょう。この歴史的出来事を明治維新と比較する人もいます。確かに、長年人民を支配して来た権力構造が、壊されたという点において、明治維新と比するべきものであると思えます。また、維新時と同じく、比較的若手で従来の既得権力の外にいるような人々が、国民の信を受けて、従来の自民党のガチガチの既得権力の中で守られて来た大物議員を次々と蹴落としていくのを見ると、確かに時代の変化を感じさせます。 明治維新がアメリカからの開国圧力をきっかけに起こったのと異なり、今回の政権交代は市民革命です。日本の国民自らが政権を変える必要を感じ、自らの手で政権交代を実現しました。
過去数代の自民党総裁が、国民に愛想をつかされたというのは、もちろん彼らが余り有能でなかったからですが、思うにそれは、やはり、世襲議員の二代目、三代目のボンボンで、親の代からの票田の遺産で議員になった苦労知らずだからではないか、と思います。長期政権が財官との癒着を引き起こす腐敗の原因であるのと同様、地元の一部の(企業などの)既得権者の利権を図ることとの引き換えに票田を確保している「先祖の代から」の世襲議員が、政治の劣化の原因であろうと思います。今回の自民党の当選者の約半数が世襲議員、民主の1割が世襲議員であったとのことですが、これは、やはり政権政党であった自民党の議員と地元の利権保持者との長い間続いた持ちつ持たれつの構造が背後にあるということで、こういう一部に人間だけの有利に働くような構造を無くしていくことが、日本が民主主義国家として成熟してく上で必要なことであると思います。小選挙区では、アホウさん、首相時代にあれだけの醜態を晒してきたくせに当選しました。神奈川11区では、何の実績も経験もない首相経験者の息子が当選しています。これらの人に投票した人は、祖父や親の代から、自分の属する企業などに特別な便宣を図って来てくれた政治家の子供だからと言う理由で投票したのだと思います。今後も同様の特別扱いを期待して投票するわけで、議員としての能力も何も関係ないわけです。こういった世襲のボンボンが親からの遺産で権力を任されて、ママゴト気分で政権政党を運営するから、過去数代の首相の様な醜態をさらし、国民と世界に愛想をつかされるのです。今回の選挙で世襲議員も随分減りました。喜ばしいことです。
今回、民主が300議席以上を獲得して単独過半数となった、というのは、喜ばしいことかどうか分かりません。選挙の達人、小沢一郎も、ここまでは予想していなかったのではないかと思います。力のバランスが欲しいところです。大き過ぎる船は舵をとるのが難しくなりますし、暴走する可能性もあります。主に非世襲議員で構成する自民党が200議席弱ぐらいを占めて、二大政党で議会を運営していくのが良いのだろうと私は思います。鳩山さんは「数におごることなく国民の声が届く政治を目指したい」と述べました。その通りに実行されることを期待します。自民党は衆院過半数を利用して、「数の暴力」で党にとって都合の良い法案を強行採決してきました。民主党は「国民のための政治」を訴えてきました。真に国民にとってよりよい政策を、常に謙虚な姿勢を忘れず、実現していって欲しいと思います。
去年と今年は、アメリカ大統領選とこの衆院選で、楽しませて貰いましたが、これで、しばらく床屋政談はやめたいと思います。
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