出張から返って来て2週間たって、ようやく学会がらみの雑用とその前に引き受けていた雑用と、その他、二つの雑用が終わり、実験に本格的に戻ろうとしています。この雑用と学会のおかげで、本業に半月分ほどの遅れが出てしまい、焦っています。まだもう一つ来週に雑用が残っています。私の場合、研究活動とグラント書きが本業で、それ以外は雑用という振り分けですが、雑用、雑用といっても雑用をバカにしているわけではありません。雑用を通じて研究界その他に貢献できるのですから、雑用は重要です。英語ではChoreと言いますね。やりたくないけど、やらないといけない日常の活動のことですけど、この言葉には明らかに雑用をバカにした響きがあります。ある人が「人間は雑用をするために生きているのだ」と言ったのを聞いた事があります。若い時は、雑用どころか、ご飯を食べたり、トイレに行ったり、風呂に入ったりすることでさえ面倒くさいと思っていました。近頃は、休みの日に掃除したりすると良い気分になります(滅多にしませんけど)。私たちが雑用と思っている仕事の多くは、本当は私たちが「重要な仕事」だと思っていること以上に重要なのではないかと最近は思うことがよくあります。ただし、研究の場合は、前向きな活動なので、やってくる雑用を捌いているだけでは、一歩も前に進みません。研究の目的にフォーカスし、そのゴールの達成に直接関係ないものにはできるだけ時間を割かないようにしないと、なかなかゴールへ到達できないので、私は雑用が嫌いなわけではないのですけど、研究以外の仕事を雑用というワクで区別して、それに割く時間をできるだけ少なくしようとしているのです。それなら、このブログを書いているのは何だ、と思われる方もおられるかも知れませんが、これは柳田先生が言うように、仕事の一部だと思っております。研究活動には自由にものを考えたり、息抜きをしたりすることが不可欠なので、そういう頭と時間に隙間をつくるための、改行のようなものと思っております。
今朝のニュース、ロマンポランスキー監督、スイスで逮捕とのこと。何十年も前に、アメリカで13歳に淫行、裁判中にアメリカ逃亡していました。映画祭での受賞のためにスイスに現れた所を逮捕。二年前にもちょっと触れましたが、映画は好調のようで「Pianist」でもアカデミー賞受賞しました。今回、何度も来ているスイスなら大丈夫だろう、と思って授賞式に出席したのでしょうが、アメリカ当局もドッコイ忘れていませんでした。2005年から国際指名手配していたそうです。何十年も前の事件なのに、どういう事情でこのたびの逮捕となったのか、分かりません。スイスもアメリカも政治的意図は否定しています。しかし「見せしめ」にはうってつけの逮捕劇です。フランスとポーランドはポランスキーの減刑をアメリカに要請したそうですが、筋違いもいいところでしょう。被害者の女の人は既に過去の事で蒸し返して欲しくないという意向もあるようですが、法治国家の建前は通さねばなりません。ポランスキー、76歳、立派に罪を償って欲しい、と私は思います。
映画も小説もヒューマニズムの推進をその究極の目的としているものと私は思っています。「Pianist」で、しつこくナチのユダヤ人弾圧を描いたポランスキーの意図は、アウシュビッツで殺された自分の母に関するナチスドイツへの単なる憎しみの表現ではないと思います。人間の尊厳と人権の尊重を訴えているのなら、30年前に13歳の女児の人権を踏みにじり、性的暴行を加えたポランスキー自身の行動は、自らの映画に対する侮辱であります。ポランスキーは、罪を認めて謝罪し、反省の言葉を述べ、そして刑に服してもらいたい、そうでなければ、彼の映画はゴミくずになってしまう、と私は思います。
今朝のニュース、ロマンポランスキー監督、スイスで逮捕とのこと。何十年も前に、アメリカで13歳に淫行、裁判中にアメリカ逃亡していました。映画祭での受賞のためにスイスに現れた所を逮捕。二年前にもちょっと触れましたが、映画は好調のようで「Pianist」でもアカデミー賞受賞しました。今回、何度も来ているスイスなら大丈夫だろう、と思って授賞式に出席したのでしょうが、アメリカ当局もドッコイ忘れていませんでした。2005年から国際指名手配していたそうです。何十年も前の事件なのに、どういう事情でこのたびの逮捕となったのか、分かりません。スイスもアメリカも政治的意図は否定しています。しかし「見せしめ」にはうってつけの逮捕劇です。フランスとポーランドはポランスキーの減刑をアメリカに要請したそうですが、筋違いもいいところでしょう。被害者の女の人は既に過去の事で蒸し返して欲しくないという意向もあるようですが、法治国家の建前は通さねばなりません。ポランスキー、76歳、立派に罪を償って欲しい、と私は思います。
映画も小説もヒューマニズムの推進をその究極の目的としているものと私は思っています。「Pianist」で、しつこくナチのユダヤ人弾圧を描いたポランスキーの意図は、アウシュビッツで殺された自分の母に関するナチスドイツへの単なる憎しみの表現ではないと思います。人間の尊厳と人権の尊重を訴えているのなら、30年前に13歳の女児の人権を踏みにじり、性的暴行を加えたポランスキー自身の行動は、自らの映画に対する侮辱であります。ポランスキーは、罪を認めて謝罪し、反省の言葉を述べ、そして刑に服してもらいたい、そうでなければ、彼の映画はゴミくずになってしまう、と私は思います。