百醜千拙草

何とかやっています

ピア レビューの崩壊と中国

2022-01-28 | Weblog
ちょっと前からのピア レビューの話の続きですが。
中国からの大量の論文は現在のピア レビューシステムの不調の大きな原因の一つであろうと私は考えております。これは中国が悪いとか、雑誌社の金儲け主義が悪いとかいう話ではなくて、単に、世の中は状況に応じて変わっていくものであって、現在は50年前と比べて、科学研究のグローバル化もコミュニケーションの方法や技術も随分変化しているのに、その出版プロセスのコアの部分はその変化に応じきれていないということだと思います。

かつて、論文はタイプで、図は写真を張り合わせて印刷したものを郵便で送り、Faxでやりとりしていたころは論文の作成も投稿もレビューもそのやりとりも、現在の数倍の時間と手間がかかっていたと思います。そんな状況では、投稿する側もダメもとで投稿しまくるというやり方はしなかったと思います。多くの手間と時間をかけて原稿を用意し、高い国際郵送料を払い、何ヶ月も待ってリジェクトの返事をもらうことになるなら、投稿者は論文の質をできるだけ上げて、リジェクトされにくい投稿先を熟慮した上で投稿したでしょうから。現在はインターネットとコンピュータソフトのおかげで、原稿のフォーマッティングも図の作成も投稿そのものも非常に簡単になりました。それが、かえって質の悪い論文が多くレビューシステムに流れ込む一因になっていると思います。

最近は随分、改善してきましたけど、これらの中国から大量に投稿される論文の質が総じて悪いという問題がありました。それで、中国の研究は信用できないという先入観ができて、さらに中国人研究者を論文出版プロセスに積極的にリクルートするのを躊躇う理由の一つになっていたのではないでしょうか。この先入観には十分な根拠があるわけです。私も二流雑誌に投稿される少なからぬ量の中国からの論文を見ましましたが、10年前の中国からの論文は総じてひどいものでした。科学論文の基礎的事項は無視、フォーマットも英語もでたらめ、不注意ミスはてんこ盛りで、読むだけでも苦労するようなレベルでした。言葉の通じない人に話しかけられて無理やり会話させられるような感じのイライラ感を感じたものです。最近は出来の悪い論文には出来の悪いレビューで対応していますけど、それでもそんな論文を読むのは時間を喰う上に得るものはほとんど何もありません。

思うに、これは、中国での論文至上主義に基づく激しい出版に対するプレッシャーと、国のサイエンス教育の問題、それから中国(や東洋の農耕民族の)実利主義のコンビネーションによるものだと思います。日本も含む東洋によく見られる実利主義というのは、過程の厳密さや原則への忠実さよりも、研究者にとっての目的達成を優先する態度で、これは西洋科学のreductionism、ボトムアップのアプローチと相性が悪いと思います。論文出版には強い結論が必要ですので、普通は強い結論を得るために様々な実験を繰り返して批判的に仮説をテストしていくという作業が必要ですが、実利主義者はしばしば逆のアプローチを取ろうとします。結論が先にあって理屈を後付けするやり方、と言えば言い過ぎかもしれませんけど、あたかも結論にあわせて都合のよいデータを選択して配置しているのが見え見えで、個々のデータの厳密さと論理に欠ける論文が多い、というのが中国からの科学論文の全般的な印象でした。

当然ながら、アカデミアの職業研究者にとって、論文を発表する一つの大きな目的は、研究内容のdisseminationという本来の意味以上に、研究費とポジションと出世という実利があります。そうした実利追求と科学的厳密さや正直さはしばしば相反しますので、実利主義と過当競争の組み合わせがあるところでは、とりわけ厳密さの欠如や不正が起こりやすいと想像されます。

かつて日本からの論文もそういう目で見られていたと思います。日本からの論文は信用できない、日本の製品は安いが粗悪だと思われていた時代がありました。同じ内容であっても日本の研究室から出すと論文のランクが二つ下がる、と随分昔、アメリカ帰りの研究者の人がぼやいていました。日本からの論文は信用できないという評価が逆転したのはそう昔のことではありません。(残念ながら日本からの研究が高評価を受けていたのも、すでに昔の話となりつつあるようですが)ですので、多分、これから十年もたてば、中国からの論文の評価も上がり、それにつれて中国人研究者のコミュニティー活動への貢献も増えていくであろうとは予測されます。事実、最近みる中国からの論文は10年前よりはずっと質のよいものが増えてきたと思います。

というわけで、最近のピアレビューシステムの不機能には複数の厄介な理由があると思います。また長くなってしまいましたので、続きは次回。
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ピア レビューとホームズ事件

2022-01-25 | Weblog
ピア レビューと出版ビジネスの話の続きを書こうと思っていましたが、二週間ほど前にNatureのフロントページでカバーされていた今月始めにあったElizabeth Holmesの有罪評決の記事を目にしたので、少し。この事件はバイオテク業界の人ならよくご存知かと思いますし、詐欺事件として大手新聞にもとりあげられたので、彼女の写真を見た人も多いと思います。若くてブロンド美人、革新的アイデアでハイインパクトなビジネスを展開するスタンフォードの才女、それが15年前の彼女のイメージでしょう。

この事件は、新規科学技術をネタにしたニュービジネスに関しての詐欺事件ですが、ここまで大規模な詐欺事件に発展したのは、Natureによると、ピア レビューが働かなかったことだと分析しています。しかしながら、ピア レビューはdue deligenceを助ける一つのシステムにしか過ぎないと思います。論文であれビジネスであれ、騙す方が悪いのは間違いないですが、結局は、簡単に騙される方にも非があります。これだけ多くの投資家、薬局、それから従業員などの関係者がいながら、ごく初歩的な問題を誰も真剣に考えたり検証したりすらしなかったというのは驚きです。研究者や企業者のカリスマ性は容易に事実に対する批判的な眼を曇らせるのでしょう。有名研究者だから、大手の企業や投資家や有名人がついているから、という理由で、その主張を盲目的に信じてしまう人間心理ですね。しばしば有名研究室からあやしいデータが出版されるのも同じメカニズムなのでしょう。

ふつう、二十歳かそこらの若い女の子が現実も知らずに描いた餅の絵にホイホイとカネを出す方も出す方です。もしこの人がブロンド美人ではなく、スタンフォードでもなかったら、カネを出した方もビジネスのパートナーとなった方ももっと慎重だったであろうと思います。

弁護するつもりはないですけど、Holmes本人も最初から騙すつもりはなかったでしょう。若さゆえの成功への野心で、猪突猛進し、絶対に失敗できないと思い込み、小さなウソが積み重なって、引くに引けない状況に追い込まれていったのではないだろうかと思います。

DeepLで一部翻訳。

エリザベス・ホームズ評決:研究者が科学への教訓を語る

血液検査に革命を起こすと約束した悪名高いバイオテクノロジー企業の最高経営責任者、エリザベス・ホームズが詐欺罪で有罪になった。セラノスの創業者は意図的に投資家を欺いたと、米国連邦陪審は約4カ月に及ぶ裁判の末、昨日結論づけた。ホームズはおそらく、最高で20年の禁固刑と高額の罰金を科されることになる。彼女にはまだ判決は下っていない。

この事件は、バイオテクノロジーの起業家が投資家にアプローチする方法を形作ることは間違いないと、Nature誌に語った研究者たちは言う。そして、ピアレビューを通じて初期の研究を検証することの重要性をはっきりと示している。
、、、
ホームズは2003年、カリフォルニアのスタンフォード大学を中退する直前、19歳でセラノスを創業した。彼女の目標は、血液検査を消費者が直接受けられるようにする会社を作ることだった。標準的な診断機器を操作するために必要な、大きな針や血液のチューブをなくしたいと考えたのだ。そのために、わずか数滴の血液で200以上の検査ができる装置を開発したという。

このように、ホームズは野心的で魅力的な人物であったため、メディアは実験室診断にかつてないほどの関心を寄せるようになった。、、、
カリフォルニア州パロアルトに本社を置く同社は、約9億4500万ドルを調達し、従業員数は800人以上にまで成長した。また、いくつかの大手小売業者との契約も結んだ。2013年、薬局チェーンのウォルグリーンはアリゾナ州の店舗にセラノスの「ウェルネスセンター」を置き始め、最終的に40カ所を設置した。

投資家も一般大衆も、セラノスは受け取った血液サンプルを斬新な機械で分析しているのだと信じていた。しかし、実際には、同社のプラットフォームで実施できる検査はごくわずかであった。残りの検査は、他社が開発した従来型の血液検査装置を介して行われていた。そのため、指を刺して採取した血液を希釈して量を増やす必要があり、検査結果の信頼性に欠ける。

シアトルにあるワシントン大学の診断学開発者兼研究者であるポール・イェガーは、「一滴の血液からすべてを得るという考え方には、根本的な欠陥がありある」と言う。

2015年、ホームズの策略は崩れ始めた。ディアマンディスがセラノスを罵倒した後、ウォールストリート・ジャーナル紙の記者ジョン・キャレルーがセラノスの機械の欠点を派手なニュース記事で暴露したのだ。、、、

セラノス社のスキャンダルは、本や映画、ポッドキャストなどの刺激的な題材を提供している。しかし、それ以上に重要なのは、この物語が、血液診断会社や起業を志す科学者への訓話になっていることだ。、、、ホームズの破滅の一因は、「セラノスの技術を専有物とし、それを公表せず、コミュニティと共有しようとしなかった」ことだ。ホームズがピアレビューに参加していれば、投資家を欺く前に技術の問題点を発見できたかもしれない、と専門家は言う。そうすれば、ホームズは方向転換を余儀なくされるか、会社を閉鎖せざるを得なかったかもしれないが、犯罪を犯すこともなかったかもしれない。このように、科学は何度も何度も自己修正し、私たちを救ってきた」とイェガーは言う。、、、「問題は、このようなことが二度と起こらないようにするために、我々は何を学ぶことができるのか、ということです。

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ピア レビューの崩壊 (2)

2022-01-21 | Weblog
前の話の続きのピアレビューの問題の話を書こうとしたら、ちょうどとある中流雑誌からリバイス論文のレビューの依頼がきました。しばらく前、リジェクトが妥当と返事をした論文でした。リバイスで出版すべきレベルに達する可能性があると思われる論文には私はリジェクトの評価は基本的にしませんので、この論文は私的には救済の余地なしと思ったのに、編集者はリバイスが妥当との判断をしたということです。不思議に思ってもう一人のレビューアの評価を見てみましたが、私とほぼ同様の評価でした。
リジェクトが妥当と評価した論文が返ってくるということはこれまでも何度か経験があります。エディターが論文著者のかつてのメントアであったということがありましたし、また三流雑誌で明らかに論文掲載のノルマがあると思われる場合もありました。一定数を出版しないと、雑誌社は運営していけませんからね。しかし、これらの例では、雑誌社の商業的理由や縁故主義でピア レビュー システムが歪められているということになります。しかもレビューという作業はボランティアですから、ボランティアの善意を踏み躙る行為であるとも思います。とりあえず、今回は、すでにリバイスで改善の見込みなしと評価した論文なわけで、そのリバイス原稿を私が再び評価するのは適切ではない、と言って断りました。こういうことが続くとレビュー活動の無意味さを感じざるを得ないです。

そんなこんなで、レビューのような奉仕活動が時間と労力のムダだと思う人が増えたということにことに加えて、絶対的なレビューア数の不足が状況を更に悪くしています。とくに中国からの凄まじい量の論文が欧米にベースを置く雑誌に投稿されることによって、これらの雑誌のピアレビュー プロセスが目詰まりを起こしています。これらの雑誌の編集者は多くは中国人ではない関係で、中国からの論文は、自然と欧米や日本のレビューア中心に回され、結果、中国人研究者がレビュープロセスに寄与する機会が少ないことがレビューアと投稿者の不均衡を産んでいると思います。

中国人研究者がレビュープロセスに十分寄与していないことには、複数の理由もあると思いますが、私の経験から思う一つは、中国人の名前の問題です。中国人には同音異語となる名前が多過ぎて、英文表記だと多くの異なる研究者の区別がつきません。中国人研究者が有名ジャーナルに掲載されるような仕事をした場合でも、それが誰の仕事なのかは名前だけでは覚えにくく、検索もしにくい、ということで、欧米のEditorや編集部が、レビューアやエディターを中国人の中から選ぶのが単純に難しいという状況があるのでは、と思います。レビューアやエディターを選ぶ時の業績などは名前ではなくORCIDなどの共通の研究者IDを使って管理していくのは一つの解決策だと思います。

総じて、中国からの投稿が問題の大きな原因であるのは間違いないと思うのですけど、これはそもそも、科学研究というものが西洋のものであって、日本や中国の後発国の参入は本来、想定されたものでなかったわけで、仕方がない面があります。かつて、日本が西洋型の科学研究スタイルを取り入れて、積極的に英語で科学研究コミュニケーションをするようになったのは、戦後の経済成長と同期していると思います。それまで、日本の研究はもっとローカルで日本人は日本語で日本人に向けて必要な研究情報を発表していました。思うに中国も最近まで同じようだったでしょう。それが、中国の急激な経済成長に伴って日本の十倍以上の人口を持つ中国が、西洋型研究を自国に取り入れて西洋型スタイルで発表しだしたのですから、半世紀前に日本が英文論文を量産しはじめたころとは桁違いのインパクトを及ぼしているのは想像に難くないです。

また長くなりそうなので、残りは今度にします。
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ピア レビュー 崩壊

2022-01-18 | Weblog
今年を最後にこうした活動から手を引くつもりなので、最後のご奉公のつもりで、論文のレビューや編集活動はできる範囲でやっていますけど、もう、このピアレビューのシステムは破綻していると感じざるを得ません。

軽い気持ちで数年前に引き受けたとある二流雑誌のエディターですけど、論文ハンドルの依頼は週に2本ぐらいやってきます。幸い多くが専門と離れているという理由で断ってはいますけど、月に二本というノルマやその他の事情でときどきは引き受けることになりますが、その都度、結構、時間と手間が必要になっていつも後悔することになります。

その雑誌の統計では、二人のレビューアを確保するのに、平均7人に声をかければよいということになっていますが、私の経験ではその二倍以上は必要な感じです。今回のは、ハンドリンングを引き受けてからすでに十日以上経ちました。これまで、17名に頼んで、なんとか一人確保しましたが、6人に断られ、10人はスルー、あと一週間たってももう一人が見つからなければ、自分でやるしかないかなあ、という状況です。これではエディターをやりたい人もレビューアをやりたい人もいなくなるでしょう。

かつて、研究者がこのような役割を引き受けるのは、自分の論文を出版するときには誰かにレビューをやってもらわないといけないので、研究活動をお互いに支えあう重要な活動だと認識されていたからだと思います。通常、論文レビューの活動は業績に加えられるようなものではないですが(最近はPublonなどでレビューも研究活動の実績として認めようとする動きがありますが)、一方で、出版前の研究にいち早く触れることができる「特権」だともと考えられていました。これらの手間はその「特権」に対する必要経費であり、誰かがやらざるをえない必要不可欠の奉仕行為と考えられてきました。そこには同じ研究分野に属する研究者としての「お互い様」意識があったのであろうと思います。

しかるに、競争が激しくなって奉仕活動は時間のムダだと考える人が増え、Pre-printがルーティンとなってきた現在では、レビューや編集活動は、特権ではなく誰か自分以外にやらせるべき雑用だとみなされるようになりました。研究資金やポジションへの競争が激化するこの業界では、コミュニティー意識はうすまり、同じ分野にいる人間は仲間ではなく敵であり、ボランティア行為は見返りのない時間と労力の無駄であると考えられるようになりました。つまり、研究者が自分自身の利益を確保するのに精一杯で、業界全体を考えるような余裕がなくなったということだと思います。

一事が万事で、このことをみても、すでに現在のアカデミアというシステムそのものが崩壊しつつあると感じざるを得ません。ま、カネや運営がすべてに優先する社会において、アカデミアの精神を維持していくのは容易ではないです。とりわけ、資金が絶対的に足りていない現在では。いまや、研究のために資金を集めるのではなく、金を集めるために研究をダシにつかっているという方が現実をよく示していると思います。

ピアレビューの話のマクラのつもりでしたけど、ちょっと長くなりそうなので、続きはまた次にします。
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動物利用への意識変化

2022-01-14 | Weblog
ヨーロッパでは動物実験に関して、その全面廃止も含む規制の強化の動きが高まってきているという話を少し前取り上げました。人間には侵すべからず基本的人権があって尊重されなければならないという近代民主主義国家のイデオロギーが拡大して、動物にも同じく基本的権利があってそれを無闇に侵してはならないと考えるのは、そもそも人間がもつ「他を思いやる心」ゆえだと私は思います。過去を振り返って将来を予想すると、動物を人間が利用するということに関して、ますます人々は意識的になって、その結果として規制は強まっていくでしょう。

人間による動物の利用の一番は食料としてだと思います。動物の肉や乳や卵を食べるのはそれが人間の体に必要な物質を取り込むのに効率がよいのに加えてアミノ酸が豊富で美味であるからだろうと考えられます。そういう観点から考えると、人間にとっては人間の肉を食べるのが栄養的には最も理にかなっていると考えられるわけですが、現在、人肉を食べるのは禁じられています。そこには物質的な合理性以上にこれを禁忌とする理由があるわけです。思うに、自分が殺されたり、食べられたりしたい思う人は余りいないでしょうから、されて嫌なことはしたくないという心理的なレシプロカリティが働くのでしょう。

そうした意識の拡大のせいか、食料として動物を消費するということを嫌って、少なからぬ人々が、肉食の快楽を捨てて、菜食主義やビーガンになることを選択しています。いずれにしても、植物にせよ動物にせよ、他の生き物を食べて自分の血肉に変えずに人間は生きていけないわけですから、何を食べて何を食べないかという線引きはある程度、恣意的なものにならざるをえません。しかし、大切なのは、多分、その「気持ち」でしょう。人がされて嫌なことは他人にもしないと思うと同じように、自分がされて嫌なことは動物や他の生き物にもしたくない、というのは人間が大人の想像力を持っている証拠だし、またそれを実践することは、多分、精神上に良い効果があると思われます。

このような動物の権利への人々の関心の高まり、あるいは、動物虐待を目の当たりにして感じる不快感を何とかしたいという欲求によって、食料に供される動物の飼育も、一般消費者らの声を受けて変わりつつあります。

アメリカ、マサチューセッツ州、カリフォルニア州などでは、卵の値段が今年になって二倍ほどに上がっています。この原因はひょっとしたら今月から始まった法的規制のせいかも知れません。これらの州では、鶏卵採取用の鶏をケージで飼うことが法律で禁じられました。これによって、おそらく単位面積あたりの鶏の飼育数は減少し、また飼育や卵の収穫の手間などのコストも上昇したのではないだろうかと想像します。

子供のころ、町をはずれた山の麓の農家が採卵用の鶏を飼っているのを見たことがあります。鶏は金属の格子のついた狭いケージの中に入れられ、産んだ卵は自動的にケージの下に回収されるようになっていました。まさに、鶏が卵を産む機械として飼われていたのを見て、子供心にイヤな気持ちになったのを覚えています。私は閉所恐怖症なので、自分があのケージに一生、閉じ込められている様子を想像すると窒息しそうな怖さを感じました。おそらく多くの人もケージ飼いの様子を目の当たりにしたら、嫌悪感を感じるとおもいますけど、そうしたケージ飼いされた鶏の卵を食べたくないという一般消費者の声は数年前から高まり、それが農家の飼育法にも影響を与え、さらに今回、法制化にまで至った模様です。

また、同州では豚肉を取るための豚、や仔牛肉を取るための仔牛の飼育に関してもまもなく同様の法律が施行される予定です。これらの動物を狭い生殖させるためだけの空間で飼育することが禁じられるようです。

肉食をやめれば、この辺の問題は解決するわけですけど、食文化に関することであり、すぐに人類が肉食をやめることはないでしょう。肉体的な快楽である肉食を主義の前に抑制するのは簡単なことではないですし、また、肉食には栄養的な利点もありますので。しかし、想像するに、少しづつ、世界は肉食の抑制の方向に向かっていくと思います。主義的なものを別にしても、食料として肉を生産するのは野菜や穀物をつくる数倍のコストと自然の破壊を伴いますから、地球的な食糧危機に対応するためにも、肉食を減らして穀物と野菜中心の食事にするのは理にかなっていると思います。
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Sci-hub 訴訟がもたらすもの

2022-01-11 | Weblog
昨年末のニュース記事に関してですが、、、

普通、学術論文を読みたいと思えば、所属する組織の図書館を通じて、購読している雑誌にアクセスすることになると思いますけど、これが個人である場合とか、小さな組織で多くの雑誌を購読できないなどの場合だと、論文のアクセスは容易でなくなります。雑誌は研究者が知見を広めるためのプラットフォームであるのに、雑誌社のビジネス上の都合でその知見へのアクセスが限られるというのは、本来の目的にそぐわないわけですが、特にカネが絡むことは法律で規制があるのでやむを得ません。

しかし、多くは税金が原資の公的資金で行われてきた研究成果を高額購読料を支払わないとアクセスできないという問題は、何度も取り上げられ、いくつかの解決策が模索されてきました。アメリカでは随分前から、税金を使って産み出された論文は、発表半年以内に国立図書館のサイト、PMCを使って無料公開することが義務付けられていますし、それ以前からオープンアクセスの商業出版でないジャーナルのPLoSなどの試みがあります。最近は、商業雑誌でもオープンアクセスで、運営費用を主に掲載者からの掲載料で賄うタイプの雑誌も随分増えました。

こうした正攻法で論文アクセスの問題を解決していこうとする動きは喜ばしいことですが、時間も手間もかかる話で、研究者の立場からすれば、とにかくすぐに読みたい論文にすぐにアクセスできるサービスというのはひたすらありがたいです。このニーズに応えようとしたのか、約十年前に、カザフスタンの二十歳すぎの女子コンピュータプログラマーによって作られたSci-Hubは、出版された科学論文を各地のサーバーを通じて網羅的に公開して、無料で論文が瞬時にアクセスできるサービスを開始しました。

研究者にとっては便利極まりないサービスで、このサイトは急速に世界中に広まりました。思うに、創始者はカザフスタンという国で論文へのアクセスが高い購読料によって制限されているという状況をなんとかしたいと考えただけだったのかもしれませんが、当然ながら、複数の大手出版社から、著作権侵害を理由に、これまで11の国で敗訴、それらの国ではアクセスはブロックされています。Sci-hubのツイッターアカウントも昨年、閉鎖されました。もちろん、これらの国は法治国家ですから、違法となれば、法に従うのはやむを得ません。研究者の便宜よりも法の遵守が上ということになっていますし。

というわけで、これまで、著作権侵害で連戦連敗のSci-Hubですが、最近始まったインドでの裁判では、インド特有の「教育に必要な書物の複製は違法としない」という法律のために、今回は違った結果になる可能性があるという話が紹介されていました。
 論文に発表される知識が研究者の食べ物であると例えると、それを商品として扱う出版会社が利益を確保のためにアクセスを制限するために、食糧不足が起きているとも言えます。極端に言えば、今回のインドでの裁判の争点は、飢えを救うためにやむを得ずパンを盗んだジャン バルジャンの罪をどう考えるか、という話にも多少通ずるものではないかと思いました。

さらに、もしも今回のインドでの裁判でSci-Hubが違法でないと判断された場合は、音楽配信によって音楽ビジネスが変わったように、論文出版ビジネス業界そのもの変えるきっかけとなることも期待されます。論文出版社最大手のElsevirの非常に高額な購読料は、アカデミアではすでに悪評高いです。主に税金で研究者によってなされた研究成果を研究者が評価した上で完成品となったものが論文であり、その発表のために、通常、研究者側は掲載料を支払います。そんな税金や研究者の努力によってできた論文を彼らは「商品」として売り、さらに研究者側から購読料を集めるという商売をしているというわけですが、それが悪どいレベルなのか、活動を維持するために不可欠のコストを分散した結果なのかは、私にはわかりません。ただ、購読料という壁が知識の伝播を阻んでいるという事実は存在します。論文の原資が主に税金であることを考えると、論文を出版する出版社の利益は制限されるべきだと私は思いますし、購読料は廃止して掲載料だけで運営するオープンアクセスのシステムを採用するべきだとも思います。そうなれば、Sci-hubは必要とされないのですから。

長くなったので、本題ははしょります。興味にある方は、続きはNatureの記事をお読みください。この記事は無料です。



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なんでこんなことをやっているのだろう

2022-01-07 | Weblog
小さな論文のリバイス投稿しました。小さな論文とはいえ、この実験のために4つの新しい遺伝子変異マウスを作って解析し、ちょっと特殊なRNA-seq解析のためにパイソン プログラマーを探し、それなりに時間と労力はかけたので、形にはなって欲しいと思っています。臓器別での専門分野のジャーナルに出すとウケが悪いのはわかっているので分子別での専門分野のジャーナルに出したものです。

それにしても、狭い分野で自分の陣地を守ってきた専門家のコメントというのは鷹揚さがなくて剣呑ですな。この論文もそんなマニアックなレビューアに回ったようで、難易度は高くはないものの三人から沢山の細かい点を突っ込まれて、そこそこの量の実験を要求をされました。

マニアックレビューアが彼らの興味で実験を要求するのは、「通してやるから、それなりの誠意を見せろ」みたいな、不良グループの儀式的性質に近いもので、今回、要求された実験も、多くは論文の結論をサポートするのに不可欠とはいえないものでした。しかし、いくら立派な理由があっても、レビューアに口応えするのは、「忙しい中を時間を割いて原稿を読んだ上で、専門家の見地から論文の改善点を指摘した」レビューア様のエゴを傷つけ、さらなるリバイスか、悪ければリジェクトという結果に陥る高いリスクを伴うので、言われたことは基本的にやるしかありません。

このプロセスは多くの人がバカバカしいと思っていると思いますけど、私は、ピア レビューで論文を出版するという活動自体が、バカバカしいと感じるようになってしまいました。これだけ、再現性のない論文が一流誌に出るということ自体、現代の資本主義的、自由競争的側面が激化するこの業界では、従来の論文出版のシステムが破綻しつつあるという証左ではないでしょうか。ま、しかし、一歩下がってみれば、研究活動に限らず人間の活動というのは本来、やっている本人以外はバカバカしいと思うようなものがほとんどであるとも言えるわけですが。

論文の結論をサポートするのに必ずしも必要でない実験がリバイスでしばしば要求される問題は広く認識されており、論文出版のための通過儀礼に過ぎず、時間と金と労力の無駄であると、多くの関係者が感じつつも、長らく看過されてきました。しかし、近年、ようやくこの問題がまともに議論されるようになってきました。最近レビューを引き受けたある中流雑誌は、レビューアへの注意点として、結論をサポートするのに絶対的に必要でない実験は要求しないこと、実験が必要な場合でも三点までに限定するように、という但し書きがありました。

私の場合、この研究プロジェクトが論文になったところで、よくて自己満足以上のものは得られません。リバイスの原稿を直しながら、つい、なんでこんなことをやっているのだろうなあ、とつぶやいていました。

しかし、研究をしたり論文を書いたりするということは、私にとっては、多分、ラジオ体操のようなものだと思いあたりました。毎日、なにがしらかの作業をして時間を過ごすことそのものが目的なのだと思います。何もしないでいると人間は生死の問題の直面して精神が耐えれないので、日々の作業と気晴らしや暇つぶしが必要なのでしょう。
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あけましておめでとうございます

2022-01-04 | Weblog
あけましておめでとうございます。

というわけで今年も始まりました。
今年は個人的には変化の年になる予定で、人生の1/3以上を過ごした場所を移動するつもりです。寂しい気持ちがないわけではないですけど、一方ではとても楽しみでもあります。

現実には、家族の問題、健康の問題、金の問題がそれなりのマグニチュードで存在しておりますが、自分ではどうしようもない部分が大きいので、あまり心配しないようにしています。いずれにしても、これらの問題もこれから起こってくるであろうさまざまな問題も、どんなに遅くても、私の予定寿命の時期がくれば、全てが一挙に解決するので、これらは単に時間の問題であるとも言えます。

とういわけで、年の数字が一つ増えて、新年を迎え、感じることは、私のさまざまな問題は解決に向けて着実に進行しており、そして、また新たな経験をする機会を与えられたということです。将来、寝たきりになったときに思い出して退屈しないですむように、できるだけ沢山のさまざまな経験をしておきたいと思っています。

門松は冥土の旅への一里塚、ともいいますけど、極楽浄土という目的地に向けての旅が楽しくないわけがありません。若い時、初めて南国へ旅行に行った時の空港の賑わいを思い出しました。(毎年同じようなことを言っているようなきがしますが)

みなさま、よいお年を。
Bonne année et bonne santé 





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