ちょっと前からのピア レビューの話の続きですが。
中国からの大量の論文は現在のピア レビューシステムの不調の大きな原因の一つであろうと私は考えております。これは中国が悪いとか、雑誌社の金儲け主義が悪いとかいう話ではなくて、単に、世の中は状況に応じて変わっていくものであって、現在は50年前と比べて、科学研究のグローバル化もコミュニケーションの方法や技術も随分変化しているのに、その出版プロセスのコアの部分はその変化に応じきれていないということだと思います。
かつて、論文はタイプで、図は写真を張り合わせて印刷したものを郵便で送り、Faxでやりとりしていたころは論文の作成も投稿もレビューもそのやりとりも、現在の数倍の時間と手間がかかっていたと思います。そんな状況では、投稿する側もダメもとで投稿しまくるというやり方はしなかったと思います。多くの手間と時間をかけて原稿を用意し、高い国際郵送料を払い、何ヶ月も待ってリジェクトの返事をもらうことになるなら、投稿者は論文の質をできるだけ上げて、リジェクトされにくい投稿先を熟慮した上で投稿したでしょうから。現在はインターネットとコンピュータソフトのおかげで、原稿のフォーマッティングも図の作成も投稿そのものも非常に簡単になりました。それが、かえって質の悪い論文が多くレビューシステムに流れ込む一因になっていると思います。
最近は随分、改善してきましたけど、これらの中国から大量に投稿される論文の質が総じて悪いという問題がありました。それで、中国の研究は信用できないという先入観ができて、さらに中国人研究者を論文出版プロセスに積極的にリクルートするのを躊躇う理由の一つになっていたのではないでしょうか。この先入観には十分な根拠があるわけです。私も二流雑誌に投稿される少なからぬ量の中国からの論文を見ましましたが、10年前の中国からの論文は総じてひどいものでした。科学論文の基礎的事項は無視、フォーマットも英語もでたらめ、不注意ミスはてんこ盛りで、読むだけでも苦労するようなレベルでした。言葉の通じない人に話しかけられて無理やり会話させられるような感じのイライラ感を感じたものです。最近は出来の悪い論文には出来の悪いレビューで対応していますけど、それでもそんな論文を読むのは時間を喰う上に得るものはほとんど何もありません。
思うに、これは、中国での論文至上主義に基づく激しい出版に対するプレッシャーと、国のサイエンス教育の問題、それから中国(や東洋の農耕民族の)実利主義のコンビネーションによるものだと思います。日本も含む東洋によく見られる実利主義というのは、過程の厳密さや原則への忠実さよりも、研究者にとっての目的達成を優先する態度で、これは西洋科学のreductionism、ボトムアップのアプローチと相性が悪いと思います。論文出版には強い結論が必要ですので、普通は強い結論を得るために様々な実験を繰り返して批判的に仮説をテストしていくという作業が必要ですが、実利主義者はしばしば逆のアプローチを取ろうとします。結論が先にあって理屈を後付けするやり方、と言えば言い過ぎかもしれませんけど、あたかも結論にあわせて都合のよいデータを選択して配置しているのが見え見えで、個々のデータの厳密さと論理に欠ける論文が多い、というのが中国からの科学論文の全般的な印象でした。
当然ながら、アカデミアの職業研究者にとって、論文を発表する一つの大きな目的は、研究内容のdisseminationという本来の意味以上に、研究費とポジションと出世という実利があります。そうした実利追求と科学的厳密さや正直さはしばしば相反しますので、実利主義と過当競争の組み合わせがあるところでは、とりわけ厳密さの欠如や不正が起こりやすいと想像されます。
かつて日本からの論文もそういう目で見られていたと思います。日本からの論文は信用できない、日本の製品は安いが粗悪だと思われていた時代がありました。同じ内容であっても日本の研究室から出すと論文のランクが二つ下がる、と随分昔、アメリカ帰りの研究者の人がぼやいていました。日本からの論文は信用できないという評価が逆転したのはそう昔のことではありません。(残念ながら日本からの研究が高評価を受けていたのも、すでに昔の話となりつつあるようですが)ですので、多分、これから十年もたてば、中国からの論文の評価も上がり、それにつれて中国人研究者のコミュニティー活動への貢献も増えていくであろうとは予測されます。事実、最近みる中国からの論文は10年前よりはずっと質のよいものが増えてきたと思います。
というわけで、最近のピアレビューシステムの不機能には複数の厄介な理由があると思います。また長くなってしまいましたので、続きは次回。