百醜千拙草

何とかやっています

数え満貫的論文

2007-05-29 | 研究
そろそろ今やっていることを論文にまとめなければいけなくなってきました。期待したようには話はふくらまず、そこそこの仕事です。面白い話にならないかと思っていろいろ検討してみましたが、満塁場外ホームランの可能性は低そうです。心の中で、今あるデータから結論できることとその結論の価値を計算して、どこのジャーナルをトライするかを考えていました。以前出した論文を読んでくれた人とたまたま話をする機会があって、「あの論文はあれで打ち上げですね」みたいなことを言われたことがあります。つまりその論文の内容の研究を継続的に発展させようという様子が読み取れなかったと言われたのですが、言外には「なんとか形にした」という青息吐息の様が見て取れたというような意味が含まれているのです。私は図星をつかれてちょっとひるんでしまったのですが、読む方もそういう「何とか形にした」みたいな論文は読みたくないのだろうなと申し訳ないような気になりました。確かにこの論文はあるところまで来て、行き詰まってしまっていたのです。他の事に力を入れていたのでしばらくほったらかしになっていました。たまたま手にいれた変異マウスとの複合変異の解析データが出たので、論文を書く条件がなんとか整ったというような感じでした。大学時代にはたまに麻雀をすることがありましたが、麻雀で言えばメンタンピンドラドラぐらいの手でした。小さな手が重なってなんとか点数になったような論文だったのです。九蓮宝燈とは言いません。四暗刻ぐらいの役萬で上がるのが理想です。数え満貫ではちょっとインパクトが弱いです。今回の論文のネタは、扱っている主題にすでにドラがついていますので論文出版という点では有利ですが、このドラもおそらく今年限りですから急がないといけません。データが自然に整合性のあるモデルに収まってくれて、きれいなストーリーが出来上がるようなことはなかなかないものですね。きれいな話にはならないようですが、今回、最後にやってきたデータは、将来的に面白くなる可能性のあるネタを含んでいるので、次回のお楽しみになりそうです。
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防御は攻撃の基礎

2007-05-26 | 研究
しばらく前にプロの棋士(碁)の誰かが言ったことで、「囲碁での攻撃は動きではなく状態であり、攻撃するとは相手に比べて優位な状態にあることであって、故に自陣を固めていくことがしばしば優位に立つこと即ち攻撃につながる」というような言葉があることを知りました。即ち防御こそ攻撃の基礎ということです。攻撃は最大の防御という言葉はおそらく短期決戦にはあたるかも知れません。しかし勝負が連続している実社会においては、防御を第一に考える方が戦略的に正しいように思います。孫子も「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」と言っています。どこからやってくるかわからない敵を知ることはしばしば困難ですが、己を知りそれを固める事は(現実は難しいものでしょうが)理論上は常に可能なような気がします。己を固める事は、研究者としての生き残るための最大の攻撃だと思います。研究者にとっての世間一般的な意味での「勝ち負け」は、競争資金の獲得と論文の発表にあります。しかしこれらも基本的には研究の内容の善し悪しが最終的には決定するので、レトリックやお化粧で一度二度は勝てても、長期的に勝ち続けることは難しいです。研究における攻撃はレビューアーやピアに発見の意味をアピールし説得することですが、常に懐疑的に研究成果を評価される研究社会では、レビューアや論文読者がこちらのいう事をそのまま納得してくれることはまずありません。逆に彼らは弱点と思われる場所を攻撃してくるので、結局はその懐疑に耐えるだけの防御力が勝敗を決定していきます。自分の弱点と思われるところを発見できる能力とそれへの対処能力を身につけるには、勝負経験、しかも負ける経験が必要です。自転車に乗ることを覚えるのと同じで失敗を繰り返す事なしには身に付かないものだと思います。それが研究者としての基礎体力であると思います。つまり如何に攻撃を予測しそれに対応できるような研究をしているか、あるいは打たれ強い研究をしているかいう点が研究の完成度、質を最終的に決定するのだと思います。アイデアはよいのだけれども、研究としてなっていない論文原稿をしばいば目にします。自然科学においては、アイデア(思いつき)は確かな実験結果として示されなければ、何の価値もありません。攻撃に出たが自陣が疎かになってしまった、そんな感じです。ごまかして株価を上げてみたが実体はなかったというある会社みたいです。そうした論文原稿を見て思う事は、著者自身がその論文の基礎の部分の危うさに気がついていないことが多いことです。砂上に楼閣を築くかのように、その危うい部分を少し叩くと、ぼろぼろと崩れ去ってしまうような論文原稿が結構多いのです。反対にリアルタイムで浮かんでくる疑問に対して答えが常に用意されているような論文は読んでいて気持ちのよいものです。たとえ発見の内容がそれほどでなくても、しっかりした研究であることが感じ取れれば、その論文や著者に対して好感を持ちます。
どんな懐疑に対してもどっしりとして揺るがないような研究を自信を持って示せるようになることが理想です。(言うは易しですが)
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感情をコントロールするのは難しい

2007-05-23 | Weblog
先日、「国家の品格」を読んで多少の感想を述べました。その中で強調されている家族愛や祖国愛に私は何か引っかかるものを感じていて、それが何故なのかしっくりわかっていなかったのです。愛国心が怪しいものであることは述べました。人類愛が怪しいのと同じです。しかしそうした概念上だけからでも怪しさが指摘できる場合と違って、例えば家族愛や故郷への愛着というものは一見分かりやすいと思われるにもかかわらず、もっと各々のケースを実際に見てみればその実体に大きな幅があることが見て取れるのではとふと思ったのです。人間がどうして争うのか考えていた時、この間のVirgina Techでの無差別殺人事件をふと思い出しました。大学の学生であった犯人は、異常に孤立していました。友人もなく誰ともしゃべらず、まわりの人間に対して抱いていたのは憎しみだけでした。しかしこの犯人も20年ばかり生きてきたわけで、その間にはきっと楽しかったことも少なからずあったに違いないと思うのです。きっかけはささいなことだったのかも知れません。友人に冷たくされたとか、無視されたとか、大人になってしまえば大した問題でなくても、思春期の子供には大きく堪えることもあるでしょう。大人であれば友人に冷たくされたなら、他に友人を探すとか、自分の欠点を改めるとか、自分の責任というものを知って改善法を見つけようとするでしょう。憎しみが健康に悪い事は大人は知っています。しかし、もっと子供だったらどうでしょう。例えば幼児だったら。親のない子、実の親から虐待される子供、そんな例はいっぱいあります。その子供たちにどんな家族愛を期待するのでしょう?自分の育った地域社会で差別されてきた人々、地域の人に受入れてもらえず、他にも行く場所がなく毎日辛い思いで生きてきた人々にどのような郷土愛期待すればよいのでしょう?日本人として日本に生まれ育ったのに、その日本から理不尽な仕打ちを受けてきた人々は、どのような祖国愛を持てばよいのでしょう?愛を持ちましょうと言うのは簡単だし、言われなくても自然と持っている人は幸せだと思います。家族や故郷や祖国に憎しみしか持てない人もいっぱいいるのではないでしょうか。その感情を理屈で押さえようとしてもそれは無理です。Virgina Techの乱射事件は、犯人の異常に蓄積した周囲への憎しみを感じます。大人の眼から見れば、マイナスの感情をうまくコントロールできなかったその犯人が悪いというでしょう。しかし感情というものは大人でもコントロールするのは難しいのです。振り返ってどうしたらこの事件が防ぐことができただろうと考えても、困った事に答えが見つかりません。こうした事件は防ぎようがないという結論が正しいように感じます。仮に99.999%の人が、コントロール可能なレベルの憎しみしか持っておらず、幸いにも家族や故郷への愛情を持っており、日本という国に対しても悪く思っていないとしても、10万人に一人はやばいのです。そういう人は自殺したり、他に害をおよぼしたりする可能性があるわけです。早い話が99.999%の人に家族愛や祖国愛を説く必要はない。それらの人はそれなりに社会に適応しそれぞれの生活を営んでいきます。家族愛や郷土愛は自然な愛着であって、言われて身につけるものではないと思います。そういった感覚を持っている人にはそれをあらためて言ったところで大して意味はないでしょう。問題なのは、不幸にして家族愛や郷土愛を育むことのできなかったごく一部の人で、そういう人には、家族愛や郷土愛についてそれを感覚的に知っている人間がいくら説明してもわかってもらえないものだと思います。私はと言えば、日本の嫌なところは山のようにあります。故郷の好きなところもありますが、嫌いなところも結構ありました。何事に関しても好き嫌いあるのが当たり前で、そうした個々の好き嫌いを超えた愛というものが本当にあるのか私にはよくわかりません。家族の絆というのならわかります。しかしそれは必ずしも愛とイコールとは限りません。家族のつながりは、きっともっと複雑でもっと多様なものだと思います。
家族愛や郷土愛を育むにはそれなりの恵まれた環境がまず必要なように思います。最初に愛されることによって愛する事を学ぶのだと思います。そうした感情が尊いものであることに異論は全くありません。しかし、そうした感情を(愛情にかぎらずすべてに感情においてそうだとおもいますが)意識的に育てようとしても育つものではありません。感情がそう容易にコントロールできるなら世の中に争いは起こらないでしょう。私たちができるかもしれないことは、家族愛や郷土愛を持ちましょうというような、私たち自身がコントロールできないことではなく、憎しみや恨みといったネガティブな感情を解消してできるだけゼロに近づけることでしょう。もし不幸にして家族愛や郷土愛を与えられることなく、故にそれを育むことなく育った人にとっては、最初からないものを作り出せといっても困難でしょう。それよりは良くない感情をコントロールする方法を身につけることを考える方が実際的なように思うのです。
「国家の品格」の中で、著者は、祖国を愛さない人は失格だみたいなことを述べていますが、私は以上のような理由から、それは偏狭な考えだと思います。現代人に求められるのは、他人の価値観を尊重できる許容力であり、祖国が好きでなくても、家族に愛情を感じられなくても、それは感情の問題なのだから、それでもいいんだよと思える力ではないかと思うのです。
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地盤沈下するミドルクラス

2007-05-21 | 研究
研究室には同じ博士研究員であっても、明らかに2種類の人がいます。つまり、研究者として独立してそれで食っていこうと考えている独立起業型の人と、誰か別の研究者の下請けをしてやって報酬を受け取るのを目的とするサラリーマン型またはアルバイト型の人です。ポスドクを始めて間もないころ、私にはそれらの人々の違いが余りはっきり見えていませんでした。医学部の臨床教室で大学院をした私は、臨床系の大学院には明らかに2通りの人間がいることを知っていました。研究には興味がないが研究している教室員が沢山いました。彼らの目的は博士をとることであり、彼らはいわば教室の指導教官のために働いて見返りに学位をもらうというアルバイトであったわけです。実際、学位のための研究労働は「ティーテル アルバイト」と呼ばれていました。その大学院を終えて博士をとってからもなお研究室にいる人がアルバイトやサラリーマンのはずがないと私は思っていたので、ポスドクは皆最終的には独立を目指して頑張っているのだろうと考えていました。それに実際、表向きはポスドク期間はトレーニング期間とされていますから、そのトレーニングを終えて独り立ちしていくのが建前です。しかし、現実には研究室を主管する独立ポジションを得るのはなかなか困難なことですし、最近ではますます難しくなってきているのは間違いないです。そんな中でポスドクをトレーニングと考えるのを止めて、賃金を得るためのアルバイトとしてやる人が増えてきているように思えます。特に夫婦共稼ぎで子供がいる女性研究者の人では、結局家庭と研究者としての仕事の両立が困難だということで、時間的に自由のきく研究職で責任の余り無いポスドクをやっているという人が多いような気がします。またポスドクを雇う方も明らかにポスドクをアルバイトとしてしか見ない研究室主幹者がいるのは悲しいことです。自分の手足となって動いてくれるだけの低賃金労働者ぐらいにしか考えていないのです。不思議な事に因果は巡り、そういう研究室にはそういうレベルのアルバイトポスドクが集まるようです。アルバイトポスドクも真剣に上を目指しているポスドクも表面上は同じに見えますから、平均的なアメリカの研究室を見ていると、「皆のんびりやっているのに研究を続けていけるのだなあ、いい国だなアメリカは」みたいな感想を持つのです。実際はアメリカだと研究費から人件費を払えるので、日本には殆どいないアルバイトポスドクが沢山蓄積しているというだけのことだったのです。独立を目指す研究者にとってアメリカの研究室の実体は日本と同様に過酷なものです。しかも会社と同じで独立はゴールではなくただの始まりに過ぎないのですから、上を目指すポスドクは、独立のために必要な仕事に加え、独立後に順調に会社を運営していくための準備もしなければならないわけで、自然そうした人と賃金が目当てのアルバイトポスドクとの間には大きな溝が生まれてきます。まさに社会の縮図ですね。資本主義的社会と共産社会主義的社会があるように、研究室にもそこにいる研究者の質によって文化とか主義とかが異なります。競争、市場原理の強い研究の世界では、競争を避けていては勝ちはなく、競争に加わるにはそれだけの力を蓄えねばなりません。アルバイトポスドクの増加は、そうした競争の熾烈化が生み出した共産社会主義的研究社会へのあこがれの表れのような気がします。しかし結局研究社会は結果主義なので、そうした共産社会主義的研究室は単にアルバイトポスドクが蓄積し長期的には淘汰されていってしまうのですが。皆が充実して研究を楽しく行って食っていける世の中というのは理想なのですが、研究に限らず現在の世の中(昔からずっと)は、浮かぶ者あれば必ず沈むもののある世の中で、現在の社会形態がそう簡単に変化するとは思えません。アルバイトポスドクの数が増えてくると、結局独立を目指すまたは独立したての研究者は少数派となってきて、いわゆるミドルクラス層が減少して研究者の二極化が進んでくるような気がします。これは研究社会にとっては基礎体力の低下、多様性の減少を招く悪い傾向だと思います。しかし、生存がかかっている各々の研究者にとってはとりあえず自分が生き延びることが第一なので、結局は競争に勝つかアルバイトなりサラリーマンとなって誰かに賃金を払ってもらうかの選択をすることになり、この二極化はますます加速することになるのではないかと思われます。 これも研究のグローバリゼーションによる弊害でしょう。結局、どこの雑誌に論文が載るかで研究資金からポジションの獲得まで決まってくるのです。本当にユニークな研究は分かってもらいにくく、有名雑誌に載りにくいわけです。皆が同じような手法を使って流行のものをやるのは、この論文至上主義が世界的に浸透しているからに他なりません。残念ながら、この傾向も逆にもどすことはできません。地盤沈下した資本主義社会の自称ミドルクラスが底辺へと落ちてきた事を実感し出した時に改革が起きるかもしれませんが、それはきっと大きな痛みを伴う事でしょう。
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余裕のない社会

2007-05-19 | 研究
研究の分野ではよく「publish or perish」と言われます。論文を書かなければ生き残れないということなのですが、この言葉が示すように、残念ながら研究者は論文出版競争、研究費獲得競争に勝っていかなければ研究を続けられません。効率の点でこの競争はある程度必要なのは間違いないのですが、以前述べたみたいに今日のように競争が激しくなってくると、研究の中身はともかく勝ちさえすれば良いと考える人が増えてきます。競争に勝つと自分は他の人よりも偉いような気がしてくるようで、そうするとますます増大するEgoのため、より大きな競争に勝ちたいと思うようです。人間の欲望は限りがないです。その欲があるからこそ辛い努力もし、科学も進歩してきたのですから、人間の欲望は積極的に認めていくべきなのだとは頭ではわかるのですが、昔からその欲望充足を追求していった先にあるのは自滅だと確信しているので、素直にそれを追求している人を見ると目を背けたい気持ちになるのです。研究活動は基本的には、観察事実からいかに面白い話を作れるかというゲームなのですが、ゲームそのものには勝ち負けはありません。あるとしたら自分が納得がいく話ができたかどうかという自己満足でしょう。昔の競争が比較的緩やかだったころは、研究者はそうしたゲームを楽しみながら食っていけるという特権階級だったのですが、競争の激化に伴って研究者は限りある研究資金を奪い合う敵どうしみたいな空気が強くなってきてました。長年研鑽して下積みを重ねても、殆どの場合金銭的には全く報われないし、研究を楽しむことも困難になってきていては、何のために研究者をやっているのかと思う人が増えてくるのも無理はないと思います。ある著名な研究者が、研究と性行為の類似点として、「どちらも時折、素晴らしいものが生まれるが、普通はそれを目的として行うものではない」と言ったそうです。研究はやはり研究することそのものに意味があって、根本的に何かに役立てるためにするというものではないのです。社会がこうした「無駄」というか文化というかそういったものを尊重する余裕がだんだん無くなってきているのですね。残念なことです。
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困難に打ち勝つ!

2007-05-17 | Weblog
困難はそれを乗り越えることのできる人のみに与えられると言いますが、なかなか仕事が進まず落ち込み気味です。困難を乗り越えると言うと力強いのですが、私の場合は乗り越えるというよりは、困難の攻撃を何とかかわしつつ判定でかろうじて勝ったという場合の方が多いです。もちろん困難にぼこぼこにされることも多いのですが、単に負けを認めないので勝敗がペンディングになっているに過ぎません。「なんとかなる」と思いながらやっています。困難と感じるのは、自分が思い描く理想の目標に届かないからで、目標のレベルを下げればその精神的負担は減少します。喜びも苦しみも生きている間しか続かないのだと思うと、あらゆることが小さなことのように思えてきます。というわけで、しばらく困難には待ってもらうことにして、これを書きながら息抜きをしています。
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おべんと、おいし!

2007-05-14 | Weblog
よい天気の週末でした。この間、子供が運動会への招待状を作ってくれました。中を開けてみると、余白のところに、「おべんと、おいし!」と書いてありました。「お弁当がおいしい」ということなのですが、まだ多少読み書きに難があるのでこんな調子です。学校でその招待状を書いた日、おにぎりと卵焼きなどのありふれたものを持たせたのです。「おべんと、おいし!」には、子供の飾らない喜びがあふれています。おなかが減って、何の変哲もないおにぎりを頬張って、「おいし!」と思ったのでしょう。それがそのまま文字に表れています。「おべんと、おいし!」には、人を微笑ませる力があります。生きていることの本質みたいなものをストレートに突きつけてきます。人生いろいろですが、食べて寝て働く、その基本は単純なものです。その単純な活動の一つ一つに喜びを見いだせることが幸せなのだと思います。朝おきて朝ご飯を食べる時に、「ああ、ご飯がおいしい、幸せだ」と思える人がどれほどいるでしょう。多くの人がたいていその日の仕事のこととかを考えたり、ニュースか新聞のどうでもよい記事を見ながら、うわの空で食べているのではないでしょうか?昔、マイケル J. フォックスがパーキンソン病のために引退を決意した後、自分の娘と手を繋いでスキップをした時のことを語っているのを聞きました。自分の子供と手を繋いでスキップをするという何でもないような事が非常に尊いものに思えて、幸せを感じたと述べています。治らぬ病気になり仕事を引退することを決めたということは、働き盛りの男にとって大変辛い事であったであろうと思います。しかし、そのことによって彼は生きることそのものへ真っすぐに向き合う機会が持てたのでしょう。「子供とスキップ」は、「おべんと、おいし!」と同じです。生きている事を100%味わうことです。その時、人は自由も不自由もない本当の自由を知るのかもしれません。
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自由と不自由

2007-05-12 | Weblog
昨日今日は、暑いぐらいの陽気となりました。夜寝る時に掛け布団なしで寝転がって、窓から入る風に吹かれるのは気持ちいいです。長い冬の後で春が来た時の喜びはひとしおです。しかし喜びは長続きしません。もうすぐ暑い夏がやってきます。こう考えるとやはり世の中苦しい事ばかりです。自分が進んで求めているわけでもないのに、つらい事ばかりがやってくるような気がします。前回の「国家の品格」の本の中で、著者は「自由と平等」というのは幻想だと言っています。その通りだと思います。存在する可能性があるとすれば個人の心の中だけでしょう。人はみな自由でありたいと願っていますが、実際には自分の体ひとつ自由になることは少ないわけです。人は、不自由な現実を受入れてその中で幸せな心を維持できるようにする修行をせねばならぬのですが、難しいものですね。
 死後を訊かれて「檀家の家の推古牛に生まれかわる」と言った南泉は、「およそ沙門たるものは、畜生の生活を行じなくてはならなぬ。畜生の生活を行じなければ、道理というものはない」と言ったそうです。私の勝手な解釈では、明日何を食わんと思い煩い、何を着んと悩むことなく、ただただ栄光に満ちた生を生きているように見える動物たちのように、真っすぐに生を享受しようという提言なのだと思います。仏教で言う「無」は、単に存在がないという受動的な意味でなく、「存在する、存在しないという分別が現れる前の状態」を指していると思います。畜生の生活を行ずるとは、あれこれ思い煩う人間らしさを無くせという意味では勿論なく、そうした人間しか持たない分別の生まれる以前を見る努力をせよとの謂いでしょう。「自由や平等」が幻想であり、この世は不自由でいっぱいだと思うのは、この人間の持つ分別のせいです。こうした不安を単純に分別を捨てることで回避するのではなく、分別の生まれてくる前に注意することで解消しようと南泉は言っているのでだと思います。掛け軸などによく見る「州曰無」は、南泉の弟子であった趙州が、「狗犬に仏性ありや」と訊かれて「無」と答えたという有名な公案から来ています。すべての生き物は仏性の中に生きていると考えるのが仏教の常識でしょう。なぜ趙州が「無」と答えたのか、その答えを見つけるのが修行なのですが、私の解釈では、この「無」こそ分別前の分別(無分別の分別)を指しているのだろうと思います。まだ「有」も「無」も「無い」状態、そこでは「仏性がある、ない」という問題さえ無いのでしょう。だから犬に仏性が無いと言うとき、当然人間にも他の動物にもどこにも仏性はないのであって、犬はその自由や不自由が生まれる以前を生きているということを言っているのだと思います。
 これをすわって書いているとだんだん腰が痛くなってきました。喉も乾いてきました。体の方が腰を伸ばせ、水を飲んでこいと命令するのです。不自由なことです。自由も不自由もない本当の自由ってどんな感じでしょう?私のレベルでは、不自由であることが当たり前であるということを受入れるというのが最も現実的みたいです。
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チョムスキーの憂鬱

2007-05-09 | Weblog
何年か前、日本で流行ったという「国家の品格」という本を読みました。何かと共感する部分が多かったですが、正直この本が日本で流行ったということがピンときませんでした。この本が支持されるということは、アメリカ流市場主義に対する人々の反感の現れであると思われたからです。にもかかわらず、実際の日本の社会の有様を見ていると、未だにアメリカのシステムを無理矢理まねして導入し続けているのですから、外から見るとそれほどに反アメリカ勢力が大きいとは思えなかったのです。しかしよく考えるとアメリカ流を導入しつづけているのは現場を知らないお役所なわけですし、実際の現場ではそのトップダウン式のやり方に迷惑しているのは知っているので、日本国民の多くがアメリカ流に反感を持っているというのも頷けない話ではありません。本の中で著者はPatriotismとNationalismを区別して議論していますが、私はPatriotismというのもヤバいものではないかと思っています。近代構造言語学の大御所であるNorm Chomskyは、ベトナム戦争以来、アメリカの対外政策およびマスメディア批判を続けています。自身を Libertarian socialism、つまり政治的、経済的また社会的階層のない社会を理想とする主義であると述べています。つまり反経済主義、反国家主義なわけで、anti-patriotismです。まず実現することはない社会の形であるとは思いますが理想と主義を持つことは大切です。こうしたanti-patriotism、マスメディア批判、アメリカ国策の批判のため、これだけの著名人であるにも関わらず、Chomskyはアメリカではメディアから黙殺されています。アメリカのマスメディアは政党のプロパガンダ機関で、国家というものを利用して金儲けをしようとする政治家とその仲間の手先ですから、反国家主義のChomskyを引っ張り出してくるわけがありません。そもそも国家というものにはそもそも実体はないのですから「日本国民としての誇りを持とう」などという言葉は、国民を操作するための政治的プロパガンダとしか聞こえませんし、事実そうでしょう。実際に存在しているのは、自分の家族や育った場所などに対する非常に個人的な愛着です。それがたまたま日本の国の中にあるからと言って、国家とかいう概念には繋がらないし、繋がるべきではないでしょう。PatriotismとNationalismを分けることは概念上、可能でしょうが、実際にはこれらは言葉の綾の範囲を出ないと思います。これを混同するなと言う方が無理でしょう。悪い事にNationalismは国家的利己主義であって具体的な意味がはっきりしているに、Patriotismは具体的でありません。早い話がPatriotismという言葉はNationalismの悪いイメージを隠すために用いられているだけの言葉なのだだと思います。
 ところで、「国家の品格」を思い出したのは、その中でイギリスのことが触れられていたからでした。イギリスが伝統を大切にし経済的には斜陽であっても他の国から尊敬されている国の例としてあげられていたのです。現在、そのイギリスのエリザベス女王II世が訪米中で、アメリカ大統領が昨夕、ホワイトハウスでの晩餐会を開きました。大統領任期中初の白ネクタイ着用での晩餐会となり、ひときわ絢爛豪華なもてなしであったということでした。ニュースでは"Pomp and circumstance"と形容されていましたが、この言葉も原典をたどれば、イギリスのシェークスピア、オセロの中の言葉です。今回の晩餐会を見ても確かにエリザベス女王は別格の扱いであり、そこにイギリス王室に対する尊敬みたいなものが窺えます。そうした尊敬の念は一朝一夕に生まれるものではなく、尊敬に値する行いを長年に渡って行った故の結果であろうと思います。翻って日本はどうでしょう。日本という国が他の国から尊敬されているとはとても思えません。しかし、個人のレベルでみれば、尊敬されている日本人は沢山います。アメリカも同じだと思います。国家というのはいわばオートポイエーティックな動的なentityであって、実体はないものだと思います。 理想を言えば、「国家」などという言葉は無くなってしまう方がいい。日本にあるのは様々な個人の集まりであってそれぞれが異なった文化と習慣の中に生きているのです。同じような顔をして、同じような言語を使い、同じような文化を持っていても、それは日本という「国家」があるからそうなったのではないのは明らかです。「国家」という概念は、他の国からの侵略や攻撃に対しわが身を守るための共同組織としてそこに住む国民の利便を図るために意図的に生み出されたものであって、自然発生的な共同体とは異なるものだと思います。仮に「日本」という国家が消滅しても、日本語はそこに人がいる限り無くならないし、トヨタやソニーは残るでしょう。むしろ「国家」という概念は、国民を搾取しようとする権力側にいる一部の人間にとって非常に都合のよい道具であることが、アメリカの様に政府があからさまに情報操作行って国民をコントロールしようとしている国を見ていると実感されます。ジョンレノンの歌うイマジンのように、国がなければそんなもののために生きたり死しんだりすることはないのです。そういう理想郷が実現できるとはとても思えませんが、少なくとも私たちは「愛国心」とか「国家」とかの実体不明のものを盲目的に信奉することを止めるべきでしょう。
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少子化問題

2007-05-07 | Weblog
子供の日の後にちょっと不適切なような気もしますが、最近、日本の少子化問題についての意見を二三のサイトで目にしましたので書いています。この少子化問題に関連した話題を目にするたびに、私には、「少子化が本当に望ましくないことなのか?」という疑問がいつも湧いてきます。きっと、世の中には私と同じように疑問を感じる人が多くいるに違いないと思います。国のレベルで考えると、若年の人口が減ると国の経済力が低下するであろうことは考えられます。そうすると非生産人口へ対する福祉などが悪影響をこうむるのは分かります。確かに急激な人口減少は年齢層のバランスが悪くなり、どこかにひずみがでるのは間違いないでしょう。しかし地球的規模で見ると、過去一世紀は、人類が誕生してからかつてなかった勢いで人口が増加した人口爆発が起こっており、そのためにまた信じられないような速度で環境が破壊され、地球は温暖化していっています。環境汚染、とくにすべてが蓄積する海洋の汚染のために後百年もすれば、海産物は危険で何も食べれなくなる可能性があるそうです。人間の数およびその活動(特に経済のための活動)の増加が急激に地球を破壊しつつある今、環境破壊に最も寄与している先進産業国で人間の数の増加に歯止めがかかりつつあるというのは、地球の恒常性の維持という観点からみれば、好ましいことではないだろうかとも思うのです。人間の視点でごく利己的に見れば、もちろんいろいろ困ったことがあるでしょう。しかし有史以来の人間と地球のかかわり具合を考えると過去一世紀は異常でした。地球を一人の人間、人間をそこに寄生する細菌というように例えてみると、最近の異常な人口の増加と環境破壊は、いわば細菌の変異(産業革命など)による異常増殖によって地球の生命が危険にさらされつつある状況とみても良いのではないかと思います。人口が減少せず、世界で「先進産業化」が進めば、地球はやがて死に、当然そこに寄生している人類もやがて死ぬことになると思います。そうなれば、その過程で世界的食料危機が訪れることになると考えられます。食糧危機はおそらく戦争を生み劇的な人口減少につながるでしょう。現在何百種という生物種が毎年、絶滅していっていることを考えると、人類もいずれは滅亡すると私は確信しています。地球上の特に先進国での人間の数が減ることは、逆に滅亡への道のりをゆるやかにするであろうと思います。少子化で先進国の人口が減らないと、いずれは戦争による殺し合いで人口を減らすことになるだろうと思うのです。先進国の人口を減らすことは人類の未来のために必要だと思います。そして少子化は最も穏やかな方法だと思うのです。日本だけを眺めてみると、この国は自分の国民を自力で食わせていけるような食料自給力がありません。江戸時代から比べてもとんでもない人口の増加があり、近代の産業化によって自然がどんどん失われました。今や、日本人が食っていくためには工業製品を売ったお金で食料を買わねばならないわけですが、私は将来的には世界的規模で食料の絶対不足がおこると思いますので、そうなるとお金の力は失われてきて、日本は飢え死にせざるを得なくなってしまいます。私は日本の将来のためにも、日本の人口は減少するべきだし、金もうけばかりにうつつを抜かさず、脱産業化を図るべきだし、食料自給率を上げる努力をすべきだと思っています。少子化はミクロでみれば確かに問題ですが、長期的には日本の将来という点で好ましいことであろうと思うのです。
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日本の伝統

2007-05-04 | Weblog
子供がYoutubeで「ナルト」という忍者漫画を見ています。忍者ものの漫画は昔からあって、使われている忍法も基本的には同じようです。「ナルト」は英語版で初めて見ました。忍法を使う時に印を結んで呪文を唱えるわけですが、その時の文句が、干支だったので吹き出してしまいました。「ウマ、サル、ヒツジ、トリ!」とか言っているわけです。てっきり英語の吹き替えのときにわかりやすい適当な日本語を使ったのだろうと思っていたのですが、どうも原作でも干支らしいのです。印を結ぶというと真言密教ですが、思い出すのは歌舞伎十八番の勧進帳の中の山伏問答です。私は歌舞伎を生で見たことがありませんし、十八番といっても勧進帳以外は何も知りません。勧進帳だけは音楽が気に入ってCDを買ったので、耳から聞いて筋を覚えました。源義経が兄の将軍、頼朝と不和になったため、身の危険を感じた義経と弁慶一行が山伏の姿に身をやつし、京を都落ちして陸奥へと逃げる過程での話です。源頼朝は各所の関所を立てて山伏を詮議せよとの命を出し、富樫が関守として弁慶一行を引き止める。勧進の旅といつわる弁慶に富樫が「それでは勧進帳を読んでみよ」と言う。「もとより勧進帳のあらばこそ、、、」白紙の勧進帳を見ながら弁慶はアドリブで切り抜けるが、富樫は更に山伏の因縁について質問を始め、幕の山場である山伏問答がはじまる訳です。そこで、山伏が仏徒でありながらいかめしい格好をして太刀をたずさえる理由について、弁慶は、「仏法王法の害をなすような悪獣毒蛇や悪徒を一殺多生の理によって、忽ち切って捨てるためである」と答えるわけですが、富樫は更に、それでは姿のない陰鬼陽魔はどうするのか」とたたみかけます。そこで、弁慶は、「無形の陰鬼陽魔亡霊は九字真言を以て、これを切断せんに、なんの難き事やあらん」と答えるわけですが、富樫は更に「それでは九字真言とは何か」と聞いてきます。それに対して弁慶は劇中最も長い台詞で答えるわけです。

九字は大事の神秘にして、語り難き事なれども、疑念の晴らさんその為に、説き聞かせ申すべし。それ九字真言といッぱ、所謂、臨兵闘者皆陳列在前(りんびょうとうしゃかいちんれつざいぜん)の九字なり。将(まさ)に切らんとする時は、正しく立って歯を叩く事三十六度。先ず右の大指を以て四縦(しじゅう)を書き、後に五横(ごおう)を書く。その時、急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)と呪(じゅ)する時は、あらゆる五陰鬼煩悩鬼(ごおんきぼうのうき)、まった悪鬼外道死霊生霊立所に亡ぶる事霜に熱湯(にえゆ)を注ぐが如く、実に元品の無明を切るの大利剣、莫耶(ばくや)が剣もなんぞ如かん。武門に取って呪を切らば、敵に勝つ事疑なし。まだこの外にも修験の道、疑いあらば、尋ねに応じて答え申さん。その徳、広大無量なり。肝にえりつけ、人にな語りそ、穴賢穴賢(あなかしこあなこあしこ)。大日本の神祇諸仏菩薩も照覧あれ。百拝稽首(ひゃっぱいけいしゅ)、かしこみかしこみ謹んで申すと云々、斯くの通り。

形式美ですね。クレッシェンドでもりあがっていく日本語のリズムが力強く感動的です。魔除けとして、「臨兵闘者皆陳列在前」の真言を唱えながら九字を切り、刀の印を結んで邪を断つらしいです。本来、真言密教は呪術的な実用的(?)なものを多く含んでいるので、それが日本で田舎の大衆に真言宗が強烈に支持される原因であったようです。「ナルト」を見ていると現代でも日本の昔の伝統みたいなものがそれなりに伝わっているようで面白いです。四十年程前のテレビ漫画「サスケ」でも主人公の得意技は「影分身の術」でした。きっと江戸時代にも忍者ごっこははやったに違いありません。
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等価像

2007-05-02 | 研究
遺伝子変異マウスの細胞の異常を見つけようと顕微鏡をずっと覘いていました。個体レベルで異常がでるのは間違いないのですが、細胞レベルでも形態的な異常が認められるのではと思ってひたすら見ていました。同じ組織と言っても細胞は一個一個違った形をしているので、何かおかしいように見えても異常なのか、正常の変動の範囲内なのか、あるいは組織標本をつくる時のアーティファクトなのか、簡単に判断がつきません。科学は一応は方法的懐疑によって誤った解釈を消去していって正しい結論に到着していくので、沢山ある可能性をひとつひとつ検討していくのは結構時間がかかるし、答えは常に白黒はっきりするわけではないので、判断保留の解釈が複数残ってしまうことも多いです。そうしていても毎日進んでいかねばならないのでそうした解釈はとりあえず「括弧に入れて」次にいくようにしていますが、最後まで解決つかないことも多々あります。顕微鏡を覘いていて「懐疑的に検討するということ」を考えていて思い出した事があります。組織学の最初の授業でした。組織学だから顕微鏡で見た世界について研究するわけです。顕微鏡を使う心構えというか、そういったものについて最初に話があったのです。当時医学部の教官にはまだドイツ語で教育を受けた人も多く、黒板にかかれたのはドイツ語で「Aquivalent Bild (Aはウムラウト)」だったと思います。日本語だと「等価像」とでもいうのでしょうか。顕微鏡による観察法が科学に導入されたころ、「顕微鏡を覘いて見た世界が本当に実在するものと同じかどうか」という顕微鏡技術そのものへの懐疑に対する答えを先人はまず求めたのです。結果として「顕微鏡で覘いた世界が実在していると断言することはできない」という結論に達した訳です。しかしそうは言っても、私たちは顕微鏡で見ているものがまぎれもなく顕微鏡のステージの上に乗せたものであるという常識的な確信をもっており、見えている像はそれを拡大したものであると信じています。先人ももちろんその信念はあったのでしょう。しかし論理的に証明はできないという結論だったわけです。このへんの哲学的議論は大変興味深いのですが、一方、科学はempiricalなものですから、証明できないから顕微鏡での観察には意味がないと結論するわけにはいきません。その妥協案が Aquivalent Bildなわけです。つまり、顕微鏡で見えた世界が実在するものの拡大であると証明はできないが、あきらかに対応関係があるので、顕微鏡で見えた世界は実物と等価と見なそうという実際的な解決案です。今や顕微鏡の観察法に対してわざわざ「見えているものは虚像かも知れませんよ」というような実際の研究に役に立たないことを教える教官はいないかもしれません。しかし常識というものを疑ってみることは時に科学の分野では有効ですから、そうした先人の心構えを知っておくことは悪いことではないと思います。疑ってみた上で最終的に常識的な結論に到達するのが望ましいのだろうと思います。
顕微鏡で見る細胞の像が信じられなくなってきたので顕微鏡のせいということにしてみました。
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