百醜千拙草

何とかやっています

大発見か大失態か

2010-12-24 | 研究
今月初め、リンの代わりにヒ素を使って生きるという生物がNASAからのfundingを受けた研究者によって発見されたというニュースが大々的なプレスカンファレンスで発表され、日本の新聞にも載りました。これが本当であれば、長年の常識を覆す大発見であり、にわかに信じ難いと私は思い、12-7のこのブログにもそう書いたのですが、「信じ難い」と思ったのは、当然ながら私だけではなく、世界中でそう思った人がいたようです。12-16号のNatureのEditorialでは、このことが取り上げられていました。インターネットで多くの研究者がこの発見に対して疑義を表していて、一例としてこのEditorialで上げられているのは、カナダの微生物学者、Rosie Redfieldがブログに書いたがかなり詳細な批判的レビューです( go.nature.com/ddesjw )。他にも多くの寄せられた批判に対して、この微生物を発見したNASAの研究者(Felisa Wolfe-Simon)は、自身のブログ( http://www.ironlisa.com/)で回答してはいるのですが、Redfieldはその回答に対してさらに批判を加えています (http://rrresearch.blogspot.com/2010/12/text.html)。批判は主に解析方法やデータ解釈の欠陥の可能性についてですが、微生物は素人の私が読んでもなかなか説得力があります。この「大発見」は科学的に余り厳密でなかったために誤った結論を導いてしまった可能性の方が高いと私は感じざるを得ませんでした。

「flimflam(ペテン)」という英単語を、このDr.Redfieldの批判記事の中で私は学んだわけですが、いくらブログでの批判記事とは言え、こういう言葉を使うと、論文内容の批判というよりは、個人的な攻撃に聞こえます。これはよくないのではないかと思います。事実、この論文の著者の研究姿勢、研究者としての資質を批判しており、それはちょっと行き過ぎでしょう。(仮にこの人が本当に経験の浅いsloppyな研究者であることが本当であったとしても、証拠なしに批判することは控えるべきだと思います)

NatureのEditorialの記事では、この論文の著者が、「peer reviewを経て、発表された論文に対して、blogなどの場で批判するのは不公平だ」と態度を硬化させているとあります。私は、これに関しては、研究者は疑いをもたれたら速やかに疑いを晴らす義務があると考えていますから、peer-reviewを盾に、批判への誠実な対応を怠ることは許されるべきではないと思っております。またpeer-reviewは、あくまで研究者が良心的に研究を行い、論文にはウソは書いておらず、その結論に責任を持つという前提で行われていますので、peer-reviewでは、意図的または非意図的な誤りは殆どピックアップできません。いくらレビューアが論文のデータなり結論が「ウソ」だろうと思っても、正当な根拠なく、「ウソっぽくて信じられない」と言いがかりをつけるわけにはいきません。ですので、Peer-reviewを盾にとって、果たすべき説明責任を果たさないというのは詭弁であると思います。実際、Natureも、研究内容の正式な発表の前に大々的にプレスリリースをしておきながら、批判に対してはreviewを通っていないからダメという態度は矛盾だと言っています。しかし、一方、Dr.Redfieldの批判は研究内容を越えて、研究者自身の攻撃にまで及んでいますから、批判を受けた方も感情的になるのはやむを得ないかな、とも思います。

私の属する学会でも、信用できないデータを一流雑誌に連発してきた評判の悪い人がいて、今年の学会では、その人とそのデータを追試して再現できなかった人を壇上で戦わせるという趣味の悪い催しがありました。私は今年は学会に行かなかったのでまた聞きですが、その再現できないデータを出した責任著者も筆頭著者も壇上に現れず、共著者が代わりに出てきて、自分たちのデータに問題はないと言い張り、「peer-reviewを受けていないデータを使って、peer-reviewを通って雑誌に載った自分たちのデータを批判するのは不公平だ」と言ったという話を聞きました。私に言わせれば、peer-reviewであろうとなかろうと、怪しいデータで世間をお騒がせして疑いをもたれたのだから、きっちり申し開きをするのが真っ当な研究者というものであって、逆切れするのは筋違いです。今回のNatureのEditorialを読んで、この学会での話を思いだしました。

私の感想では、Dr.Redfiledの反論は、科学的に説得力のあるもので、この「リンの代わりにヒ素を使って生きる細菌」の大発見は、多分、実験手法の問題によるデータの解釈間違いだろうと思います。このような大発見でありながら、論文を発表した研究者の研究手法は十分注意深いとは言えません。ビッグ ストーリーの可能性が見えはじめた時に妄想が眼を曇らせてしまい、自分に都合の良いデータや解釈しか眼に入らなくなってしまったのかも知れません。そんな時に、一歩下がって、自分自身を客観的に批判的に見れるかどうかが研究者の資質というものでしょう。この研究者は写真入りでNASAやメディアに登場して、発見の宣伝をしたのですから、しばらく前の韓国のステムセル研究者や日本のRNA研究者のように、確信犯ではないと思いますが。

また、この一連の事件の初期の動きは下のブログに詳しいです。
http://blogs.discovermagazine.com/notrocketscience/2010/12/10/arsenic-bacteria-a-post-mortem-a-review-and-some-navel-gazing/
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアのグラント

2010-08-03 | 研究
先日、イタリアの厚生省(Italian Ministry of Health)から、グラント審査依頼のメールが来ました。私、最近、主筆の論文を出しておらず(努力はしているのですけど、、、)、論文やグラントのレビューの依頼も随分、少なくなっていましたので、最初は、SCAMかと思って危うくゴミ箱に捨てるところでした。

どうもイタリア政府に、労働-厚生-社会政策省といものがあって、その内の厚生(保健)部門の中に、Department of Innovation(科学技術開発部といったところでしょうか)、保健技術研究総局とでもいうような組織があって、そこが生命科学研究グラントを担当しているようです。

イタリアの生命科学のレベルはお世辞にも高いとは言えません。しかも経済困難と官僚主義で、高学歴の人間がマトモな職に就くのも難しいと聞いたことがあります。知り合いのイタリア人は医学部を出ているのですが、当時は大学教官職は永久職であり、ポストがとにかく少ないのだと言っていました。彼女は教官職をオファーされたらしいのですが、そのポストでさえ年収が当時で100万円ほど、とっても大学教官では食べて行けないと、国を後にしたのでした。その後、EUが成立してから、イタリアも多少マシになりつつあるようです。数年前には欧州分子生物学研究所(EMBL)がローマ郊外に立派な研究所をオープンし、アメリカ人教授が招聘されたという話も聞きました。しかし、ドイツ、イギリスと言った国に比べると、まだまだ見劣りがします。ローマ帝国、ルネッサンスとイタリアはかつて世界の中心であり、現在も芸術や文化の点では一流なのに、科学技術はイマイチです。科学研究という地味な活動がラテンの人には合わないのでしょうか。

それはともかく、イタリアも科学政策はこれまでの官僚主義ではイカンと思っているようです。それでイタリア厚生省は、アメリカの国立衛生機構(NIH)のグラントの評価様式を取り入れることにしたらしく、英文で申請書を提出させて、研究セクションごとにレビューアを割当て、スコアをつけるというやり方を始めたようです。官僚主義を排するためか、あるいは国内のレビューアプールが乏しいのか、その辺の事情はわかりませんが、そのレビューを国外にアウトソースしているようで、それが私にも回って来たということのようです。

アメリカの場合、NIHのレビューアを一定年数つとめることが、Professorへの昇進条件になったりしていますから、レビューアは負担は大きくても、研究コミュニティーのため、そして自分の昇進のために、依頼があれば、基本的に無償で引き受けると思います。一方、こういう外国のグラントの審査には、そういう見返りが乏しいので、それは研究者としての善意とお互いさま意識(良く言えば使命感)で引き受けることになります。以前、イギリスとイスラエルのグラント審査を引き受けたことがありますが、勿論、ボランティアでした。ところが、今回のイタリアからの依頼は、一件につき50ユーロを支払うとあります。太っ腹です。全部でどれぐらいのグラント申請がなされるのか知りませんけど、例えばアメリカでは通常タイプのグラントは、年間8000本位が与えられていると思います。採択率を20%と仮定すると、年間、4万本のグラント申請があるということです。仮にイタリアの科学規模がアメリカの十分の一と仮定しても年間4000本の申請があるわけで、一本の審査に50ユーロかければ、審査費用だけで20万ユーロという結構な金額になります。

あるいは、払うと言って払わずにスカシ逃げるのかも知れません。イギリスの発生生物学の雑誌、Developmentは、レビュー依頼メールに、論文レビュー一本につき、25ポンド支払うと書いてあります(今はどうか知りませんが)。そしてその報酬の支払い方法について、一つは小切手で支払う、二つめは25ポンドの代わりに同出版社が出版する書籍のどれかを無料進呈する、三つめは科学研究のための財団に寄付する、という選択肢が書いてあって、さらに「多くのレビューアは三つ目を選択します」という意味の注意書きが添えられています。多分、本当に多くの人はレビューで報酬をもらうことに後ろめたさがあるのか、「寄付する」を選ぶのだと思います。(本当に寄付しているのかどうか知りません)私は一度、欲しい本があったので、寄付の代わりに本を選択したことがありましたが、結局、その本はいつまで経っても届きませんでした。以来、その雑誌からのレビューの依頼は来ません。

そのイタリアのグラント申請、若手研究者が対象と書いてありながら、引き受けた申請書のレジメを見ると、皆、中年です。官僚主義でまだまだ主任研究員となる若手が少ないのではないかと想像します。あるいはイタリアの研究資金事情が悪いので、とにかく数打ちゃ当たる戦略で若手でない人も応募しまくっているのかも知れません。数年前、EU加盟国の研究者を対象に研究グラントを出したところ、イタリアからの応募が最多で、その採択率は最低だった、という話を聞いたことがあります。これも研究資金が適正にイタリアの研究者に分配されておらず、多くのイタリア研究者が金に困っていることを示しているのだろうと思います。

そのイタリア厚生省のグラント申請書には、申請者の発表論文のリストの所に、雑誌のインパクトファクター、論文の引用回数、申請者の"h index"が記載されていて、正直、驚きました。"h index"は最近よく使われるようになった業績評価の指標で、例えば"h index"が5の人というのは、論文引用回数が5回以上の論文を5本書いたということです。つまり、"h index"は論文数と引用回数を一緒に評価するための数字です。私は前から研究生産性の評価を数値化することに批判的なのですけど、とりわけ、こんな数字はグラント申請の審査には全く必要ないものだと私は思います。申請者が研究遂行能力があるかどうかを見る助けとして、論文リストは参考にはしますが、その論文の掲載雑誌のインパクトファクターや、ましてや、本人の"h index"など知っても意味はないと私は思うのです。それよりも申請書の中身をちょっと読めば、その人の実力は自ずとわかりますから。

あいにく、引き受けた四つの申請書をザッと見た所では、どれもパッとしません。私の考えるよいグラント申請書とは、1) しっかりした根拠に基づく具体的な仮説が設定してあり、2) その仮説の証明のために実験法とその結果の予測と解釈についての議論が緻密になされており、3) 研究が不成功であった場合にそなえて良いバックアッププランが提示されていて、4) 予備データなどで研究のfeasibilityが示されている、もののです。この4つがしっかり押さえらているグラントは読む方も気分が良いです。残念ながら、今回の申請書はもっとも大切な最初の条件でさえ、ろくに満たしていません。実際の研究においては、重要な知見というものは、上のようなプロセスで発見されることは稀で、多くは思いがけないような偶然で見つかるものだと思います。しかし、だからといって、その偶然を当てるためにとにかく闇雲に思いつきでやってみるから金を下さい、という理屈はグラントの申請においては通りません。審査は、申請者が研究についてどれだけ深く考えており、そして思いがけない結果が出た場合にも十分対処できて、何らかの意義のある結果を導き出すための準備があるか、つまり金を与えるに価する研究者かどうか、を見るものですから、仮説からして無理があるような研究申請では、話にならないと思います。

また、どうでもいいことですけど、これら4人のイタリア人が同じような英語の誤りをするのが興味深いです。不可算名詞を複数にする(例えば、evidences)とか、名詞を形容詞化した時に複数形にする(例えば、16 years-old male)という誤りが何故か共通して見られます。イタリア語と英語との間での文法での違いでしょうか。

追記。Evidenceはごく稀にevidencesと可算名詞として使われることがあるそうです。Evidencesと複数にするのは主に創造説を信じる教会関係の人に限られるそうですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発見のメカニズム(2)

2010-02-09 | 研究
先日、テロメアで昨年のノーベル医学生理学賞受賞となった三人のうちの一人、Jack Szostack氏の話を聞く機会がありました。
 テロメアの構造とテロメラーゼの発見のきっかけは、何十年も前に遡るのですけど、この発見が、当時、酵母の形質転換とゲノムの組み替えの現象について研究していたSzostackと、テトラヒメナの大核にあった繰り返し配列を研究していたElizabeth Blackburnという、一見、無関係なようにみえる組み合わせによって生み出されたということは興味深いです。
 当時、染色体の末端がどのような構造をしているのか、どのようなメカニズムで核酸分解酵素から保護されているのか、細胞分裂にともなって、欠失すると考えられる末端配列は幹細胞ではどのように補償されるのか、線状の染色体をもつ真核生物での大きな謎でした。
 Szostackは酵母を遺伝子導入によって形質転換する実験をしていましたが、環状のエピソームとして、薬剤耐性遺伝子を導入すると、効率よく形質転換できるが、線状にすると、ゲノムに組み込まれたものが、ごく少数形質転換できるだけで、ゲノムに組み込まれない線状DNAは極めて不安定であるということに着目し、もしも、Blackburnらが研究しているテトラヒメナの大核にある繰り返し配列がテロメアであるならば、その配列をくわえてやることで 線状DNAの安定性が増し、線状DNAによる酵母の形質転換効率が上がる(かもしれない)という仮説のもとに実験し、大当たりを引きました。本人も言っていましたが、やった時は、半信半疑、ダメでもともとの実験でした。
 大発見というのは、きまぐれなものです。iPSの発見もそうでしょう。この手の実験は、やる前は、本人の感じとしては「こんなので、うまくいくはずないだろう、でもダメでもともとだ」というようなものが多いのでしょう。(それでも、やってみる、ところが大切です)
 あと、興味深かったのは、テロメアが幹細胞などで細胞分裂で短くなる分が補償されるメカニズムを考えていたときの話しでした。今では、テロメラーゼという酵素が短くなった分を伸ばすということが分かっていますが、当時はその酵素は知られておらず、そのような特殊な酵素の非存在下でもテロメアの構造が維持できるモデルをSzostackらは考えたそうです。その内の一つのモデルは、テロメアがヘアピン構造をとるというモデルだったそうで、このモデルが、余りに理論的に美しかったのでなかなか捨てることができなかった、という話でした。この気持ちはよく分かります。(小沢氏の裏献金のシナリオが余りに奇麗に書けたので、事実の方を理屈にあわせようとした検察のようなものです)しかし、謙虚に一歩下がって、客観的事実を綿密に調べ、現実が理論に合わないのであれば、理論の方を捨てなければなりません。アインシュタインでさえ、自然がヘンな数字を定数に持つ筈がない、と言ったらしいですから、理論の美しさに対する信仰はみなそれぞれに強いものです。それでも、なお客観的に、公平に、ものごとを見ることができること、それが実験科学研究者に必須の資質であろうと思います。

話かわって、この間の1/28号のNatureでは、抗血液凝固薬で臨床で汎用されているビタミンK拮抗剤のワーファリンのターゲットであるVKORの結晶解析に成功との論文。VKORはビタミンK水酸化キノリンの生成を触媒する酵素ですが、これは、ひと月ほど前に書いたように、結核菌を含むある種の細菌で、ペプチドが高次構造を取る時にシステイン残基同士がS-S結合を起こす際、その酸化還元反応の触媒に必須の蛋白と相同なものです。筆頭著者の人の短いインタビューがフロントページに出ています。この研究の意義として、より安全性の高いワーファリンアナログの開発や、結核でのVKOR相同体が新たな抗結核薬の標的となる可能性などを話しています。ちょっとlong-shotですけど、最近は、一般の人にもわかるように研究の価値を説明することを要求されますから、こんなものでしょう。
 この研究でも、哺乳類でのビタミンK代謝と細菌でのS-S結合という、一見、無関係な分野の研究が、うまく結び付いたことが成功の理由と言えると思います。
 Szostackらの酵母でのテロメアの研究が、Yeast artificial chromosome (YAC)という分子生物学の新しいツールの開発に繋がったように、VKORの研究は、新規抗結核剤の開発へと繋がりつつあります。そして、これがもし成功すれば、これは臨床的意義という点で、非常に大きなものがあります。  
 Retrospectiveに見れば、思いもかけない異分野の研究が結びつくことが、これらの発見の原動力であったと結論できるでしょう。しかし、こういう「幸せな結婚」というのは、然るべきタイミングで、しかるべき様式で起こらなければ、実を結ばないであろうというのも想像できます。表には出ないでしょうけど、「結婚」をあせったばかりに、不幸になった例はきっと何十倍も多いに違いありません。いずれにしても、これらの共同研究における「結婚」は、何か新しいものを生み出そうとして、意図的に行われたのではなく、もっとSpontanousな結びつきであったようです。成果を求めて結婚相手を探す前に、まずは、己を磨くこと、その研鑽があって初めて、有意義な共同研究となるのでしょう。そう思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オクラホマの砂嵐

2009-12-25 | 研究
オクラホマといえば、ミュージカルでも知られる通りの中西南部の典型的「田舎」です。スタインベックの「怒りの葡萄」では、1930年代におきた耕作地の荒廃のため、オクラホマの農民が土地を捨ててカリフォルニアへ移動する際の困難が描かれています。これらの持たざるオクラホマ農民は貧乏な田舎者として「オーキー」と呼ばれ、蔑まれました。土地の荒廃は、機械化農業のための土壌の疲弊によるもので、結果、耕地は半砂漠化し、季節風によって巨大な砂嵐(Dust Storm; Dust bowl)を引き起こし、その砂嵐は遠く、東海岸にまで達したといいます。
12/11のScienceでは、そのオクラホマで「霊長類を用いた炭疽菌の研究が、大学の事務レベルで中止決定させられた」というしばらく前の事件が、とりあげられています。表題の「Rejection of Anthrax Study Kicks Up a Dust Storm in Oklahoma」は、おそらく、この「怒りの葡萄」の時代の土地の荒廃とそれに伴うオクラホマ農民の脱出をきたした、砂嵐、Dust Bowlに因んでいるのでしょう。オクラホマ農民がよりよい場所を求めてオクラホマを脱出したように、今回の研究者(Shinichiro Kurosawaという名前から想像して日本人であろうと思います)もオクラホマの大学を脱出して他州の研究施設へと研究を移そうとしてしています。
 オクラホマにはOklahoma Medical Research Foundation (OMRF) という田舎にしては立派な研究所があります。OMRFは大学ではないので、オクラホマ州立大学(OSU)などの周辺の施設と連携して研究を進めているようですが、Kurosawa氏はもとOMRFの研究員でした。現在、Boston Universityへと移っており、今回、サルを使って炭疽菌毒を研究する計画を、アメリカNIHに認められ、レベル3の動物施設をもつOSUで研究を施行することを計画したということのようです。
 アメリカNIHの研究費は、研究費支給の判断が下されても、Just-In-Timeと呼ばれる、研究施行準備の完了を証明する書類の提出をしなければ降りません。中でも動物実験のプロトコールの承認を得る手続きは最も面倒なものです。このKurosawa氏の場合は、NIHが研究計画を承認、OSUの動物実験委員会がその研究プロトコールを承認したにもかかわらず、OSUの学長のレベルで、「霊長類を死亡させる必要がある研究」であるということで、却下されました。これは、きわめて異常な自体であり、この事件は、研究界にかなりの反応を引き起こしました。即ち、国の研究費支給団体であるNIHも、施設の動物実験委員会も研究を承認したにもかかわらず、大学の事務レベルがそれを棄却したということは、研究者の立場から言えば、越権行為に近いものです。
 Kurosawa氏本人は、「大学の決定である以上、従うのが筋である」として、他の施設を探すとのコメントを出していますが、これは学問の自由に、本来、すべきでない政治的な干渉を加えたということで、私は憂うべきことであろうと思います。 この事務決定の一つの事情は、OSUに多額の寄付をしている人が動物愛護運動にかかわっているからであるという話も書かれています。普通、研究者がNIHから研究費をもらうと、その額の7割ほどの金が大学側にindirect costとして支払われます。例えば、5年で総額、一億二千万円ほどの通常サイズ研究プロジェクトですと、加えて8千万円ほどが大学に支払われることになります。こうして、所属研究者がグラントを獲得すると、大学も潤うというわけです。しかし、そのNIHからの収入が見込めるにもかかわらず、あえて、大学がその研究を却下したのは、その動物愛護活動家がその額の500倍ほどの金を最近、寄付したという事情があるのではないかと思われます。大学としても、NIHからの金よりも、その寄付者の気持ちを尊重する方が得だと思ったのかも知れません。あるいは単に、霊長類を使った動物実験で刺激することになるかもしれない過激動物愛護団体からの暴力的な攻撃の的になるのを嫌って、日和ったということなのかも知れません。
 OSUの内部の研究者は、今回のような事務レベルでの研究計画の拒絶は、将来の共同研究にかなりの悪影響を及ぼすであろう、と危惧を表明しています。大学は研究を守る場であり、学長はそのために尽力するのが筋です。この動物実験プロトコールは、動物実験に関しての倫理的問題を含む諸問題について、動物実験委員会が全国のガイドラインに沿って議論し、その結果、承認されたものです。「霊長類を殺すことを認めない」というアドホックなルールを動物実験承認プロセスが終了してから後出しにし、委員会での議論を無視して、事務レベルで一方的な研究不承認の決定は、議会制民主主義で法治国家たる国の大学にあるまじき態度であると思います。(アメリカでは、大統領の拒否権でさえ、2/3以上の議会の賛成によって覆さえるのですから)大学が学問の自由を守る場所である以上、大学関係者の委員会の決定を政治的意図で干渉することは、大学の精神そのものに対する冒涜であると私は思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発見のメカニズム

2009-12-18 | 研究
先日、遺伝学がらみの半日シンポジウムがあることを当日の朝に気がつきました。演者を見てみると、前から話を聞きたいと思っていた大物が二人も名を連ねているのに気がついて、急遽、午後の予定をキャンセルして行きました。その研究ビルは数年前に新築されていて、何度も行ったことはありましたが、講堂に立ち入るのは初めてでした。生憎の交通渋滞で、着いた時にはちょうど、最初の演者が話始めたところで、講堂はほぼ満員だったのですけど、例によって演者席のすぐ後ろに空席があったので、こそこそと、そのかぶりつきの席までいって座り込みました。ふと、左右をみると、NatureとScienceに毎年二本ずつ論文を出しているあの人とか、ScienceとCellの常連のこの人とかの顔が見えます。最初の演者の人は、お目当てのうちの一人ですが、20年ぐらい前からの老化の研究で有名になった人で、ある蛋白修飾酵素を研究しています。有名人なので、仕事の内容や顔ぐらいは雑誌で知っていましたが、実際に話を聞くのは初めてです。その蛋白修飾酵素の活性を上げると、アルツハイマーが良くなったり、パーキンソンが良くなったり、内分泌機能がよくなったりする、という殆どS先生の「ミラクルエンザイム」みたいなちょっと怪しさの漂う話でした。骨粗鬆症や癌にも効くそうです。確かにデータはそうなのですけど、実験科学的興味という点ではイマイチでした。この方は既に老化ビジネスにも関与されているせいか、プレゼンテーションが、何となく、はったり臭いところがあるのもちょっと戴けません。乏しい経験から思うのですけど、スライドの文字が多色のパステルカラーでやたら大きいフォントを使う人の話は要注意だと思います。
 そのあと続いて女子学生さんの発表が二つ。私よりもはるかに話し方がうまいです。聞き手の反応を見ながらしゃべり方を微調節しているのがわかります。大したものです。一人の人はバクテリアでのシステイン残基の酸化が、従来わかっていた経路の他に、ビタミンKを活性化する分子によっても行われるということを発見しました。この話に私は感心しました。この子の場合は、バクテリアならきっとどんな種でも同様の方法でシステイン残基の酸化が行われるはずだ、という普通の人なら無批判で受け取るであろう「常識」をあえて疑ったところに、発見の種がありました。成功する研究者というのは、まず自分の足下を微細な観察眼で深く凝視して、誰もがうっかり見過ごすような小さな穴を見つけるものです。彼女のこの発見からワーファリンを使って結核を治療するというような話へ展開していこうとしています。
 その後の一人のシニアの演者は、ある種の細胞では、局所的に遺伝子が何倍にも増幅されているという話をしました。この増幅は、細胞周期の一回の進行の間に「DNAの複製は一回だけおこり、非増殖期の細胞ではDNA複製は起こらない(はずだ)」という常識を疑うことで発見されました。つまり、ゲノム上に多数ある複製起点(Replication origin) の一部で、細胞周期と独立して、発火がおこることで、複製起点を中心に、複製回数に応じて、タマネギ状にふくらんだ異常なクロマチン構造を持つ細胞ができるというわけです。(こういう細胞はもちろん、それ以上増殖できないので、最終分化した細胞に限られるようです)私はこういう現象があることも知りませんでしたし、こういうことが生理的に起こっているということにショックをうけました。生命の神秘を感じさせられます。
 そして最後の演者で、もう一人のお目当ての人は、私も研究対象にしているsmall RNAの第一人者です。演者の紹介で初めて知ったのですが、この方も前のDNA複製の方も、今年ノーベル賞を受賞したJack Szostakの研究室の出身なのだそうです。昔の研究の世界は狭かったのでしょうね。このsmall RNAの発見は複数のグループから異なった手法で独立してなされたのですけど、そのパイオニアとなった人々はお互いに研究上の交流は殆どなかったものの、皆、この半径5キロぐらいの地域で、間接的に誰かを通じて繋がっているのです。不思議です。
 この人の顔は雑誌の写真とかで知っていましたが、写真ではスーツを着て眼鏡なしだったせいか、初めて見た実物は随分印象が違いました。70年代ファッション、細身のノープリーツのチノパン、格子柄のシャツ、で中途半端に長い髪の毛を8/2ぐらいで分けて銀縁眼鏡、おまけにアディダスの黒のスニーカーという、Nerdyな出で立ちで登場しました。話も先の女子学生ほどの滑らかさはなく、オタクっぽく細部にこだわるので、ちょっとギクシャクしたものでした。しかし、私は、彼の実験科学者としての態度に好感を持ちました。彼の話もまた、「microRNAは遺伝子の翻訳を抑制する」という数年来のドグマを疑ってみるところから意外な発見があり、また、「出芽酵母にはRNAiはない」という常識を疑ってみるところに発見がありました。
 久々に刺激的な話をいろいろ聞けて、楽しかったです。Take-home-lessonは、「自分の立っている場所を疑ってみることが、発見につながる」ということでしょうか。燈台もと暗しとも言いますね。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実験科学的産業革命

2009-10-30 | 研究
研究が捗らず、苦しんでおります。産みの苦しみであって欲しいと思いますが、前回の論文の時も、いろいろやって苦しみましたが、結局、それは論文上は何の価値も加えることはありませんでいた。研究ですから95%はハズレで5%当たればよい方だとは思っていますが、今回、同じマウスを作ったcompetitorは既に投稿したということで、当たるまでじっくりやればよい、という状況でもなさそうで、ちょっと焦っています。こういう時に焦って結果を追い求めようとしても殆どの場合、思ったようなデータがでるということはまずないということは経験で分かっているので、本当は、無欲に坦々と目の前だけをしっかり見つめてコツコツやる方がよいのでしょう。数日前、ちょっと期待していた実験もネガティブデータに終わりました。これは、休みをとって仕切り直しをせよ、との天の声ではないか、と思ったりする昨今ですけど、もちろん、「天の声にも変な声がたまにはある」という古人の警句もありますから、注意をしなければなりません。
 最近の雑誌はそこそこの所なら、殆ど必ずストーリー(メカニズム)を要求されるので、昨今は論文出版上、ストーリーを提示することは不可欠となっています。この傾向、私は好きではありませんけど、こういう縛りによって、研究者がより深く実験を進めようとする動機にもなっていますから、一概に悪いとは言えません。ただ、ストーリー中心主義みたいになってしまって、各々のデータの厳密さの評価が甘くなってしまう本末転倒がおこることもしばしばあります。研究者の方もこういった傾向を悪用して、厳密な観察結果よりもストーリーを組立てることばかりに注意を向けて「怪しい」論文を連発する人もいます。ですので、マトモな研究者であれば、どうやって本当のストーリーに辿り着くか、その辺のアタリをどうつけるか、この辺のストラテジーの立て方や決断は大変大切だと思います。ここで誤ると迷い道にくねくねとはまり込み、くねくねしている間にますます(その多分誤っているであろう)ストーリーに思い入れが深まって、別れたいけど別れられない愛憎の泥沼に入り込み、傷を深めることになります。
 ところで、先日、家の補修をするのに材木を切る必要があって、電動鋸を買ってきました。電気を入れて、ウィーン、10秒で切れます。手で切れば、5分はギコギコやらねければならなかったでしょう。こういう「パワーツール」の威力は実際使ってみると驚かされます。木材を切るということは、人間が手を使ってもできることで、私はずっと電動工具をバカにしていました。手でやるのとほとんど同じ操作を機械でやるというだけのことですし、その機械でなければできないというものではない上に、用途別にかさ高い工具を別々に揃えるというのは、馬鹿らしいと思っていました。あるいは、これは東洋と西洋の美意識の違いなのかも知れません。「できるだけ多目的なツール(手)を、技術を高めることによって、少なく使う」ことを尊び、力任せのやりかたを嫌うのが東洋の伝統なら、どんな人でもスイッチ一つでそれなりの仕事ができるようにするようが良いと思う「産業革命的思考」は西洋のやりかたなのかも知れません。そして、物質的な面での目標を達成する上で、産業革命が果たした役割を思い出すまでもなく、決まった目的を早く楽に達成するためにわざわざ開発されたパワーツールに、人間の筋肉がかなうはずもないのです。「B29を大和魂を込めた竹槍で撃ち落とす」という冗談を思い出しました。  
 研究でも、テクノロジーの進化によって、様々なパワーツールが開発されてきました。15年ほど前、DNA チップ、マイクロアレイが出た時、多くの研究者はアレイに拒否反応を示しました。仮説無しの力仕事で何かを釣って来ようという脳みそのない研究に対する軽蔑からです。しかし、そのXXでもできる実験や検査から得られる情報の(質はともかく、少なくとも)量は、一つ一つの仮説をねちねちと検討する場合と比較になりません。頭や技術を使うのは、むしろそのデータを見てからということでしょう。ここでもXXと鋏は使いよう、と言えます。パワーツールがなかった時代は、全ての実験のプロセスで非常に限定した疑問に対するYes or Noというような解答を期待する実験を積み重ねるやり方で、一つ一つ選択枝を狭めていくやり方が主でした。これは地図のない未知の土地を探索するのに似ています。そんな時、どこから始めるか、情報の乏しい中で何を選択し何を除外するか、という判断を下すのは困難で、長年の経験と洞察力に基づいた職人的「カン」が重要でした。しかし、パワーツールが使えるようになってからは、とにかく、まず力任せにデータを出して、それから考えるというやり方へと変化してきたように思います。つまり、パワーツールで目的に沿った地図をまず作成してから探索をする、そういうやりかたができるようになってきました。その情報に基づいて次の行動を決めるので、職人的「カン」への依存性は減少し、尚かつ、カンを正当化するための理屈をこねる必要も無くなってきました。現在、全ゲノムシークエンスが分かり、遺伝子発現パターンのカタログもほぼ完成した段階では、そのインフラに沿って実験方法も変化していくべきであろうと思います。これは従来の研究法との比較して、データの大量生産とデータのマスシェアリングを促進する研究界の「産業革命」と言ってもよいでしょう。ただし、産業革命がもたらした害悪も見られるようになってきました。持てるものは富み持たざる者は下位階層に釘付けになる、研究格差が拡がってきたように思います。そんな中で大多数の持たざる研究者が生き残っていくにはどうしたらよいか、というのは誰でも考えることではないかと思うのです。やはり、大量生産方式が通用しない職人的仕事を極めて、その狭い世界で地位を確立していくことであろう、という常識的な結論に落ち着くような気がします。もたざる側の私もなんとか職人的技術でしかアプローチできないようなニッチ分野を見つけたいと腐心しておりますが、そう簡単なものではないことを日々、実感しております。一方、データのマスプロダクションによって、一般研究者の生活が豊かになってきた点は否定のしようがありません。私でもUCSCのゲノムブラウザーやNCBIのサイトを開かない日はありません。これらの情報がなかったら、どれだけ日々の研究が大変かと考えたら気が遠くなるほどです。
 実験科学ですから、一のデータは百の理論に勝ります。行き詰まっている時の私の研究上のモットーは「犬も歩けば棒に当たる」です。先が読めない時は、智恵を絞るだけではなく、とにかく闇雲にでも歩き回ればマグレ当たりすることもあります。近年は、パワーツールのおかげで、研究の多くのプロセスで、頭はなくても一発で片がつく、そんな場合も増えてきました。そんなときにパワーツールに対する偏見のために、研究の真の目的の達成が阻害されるようなことがあれば、それこそ本末転倒であると思います。この辺が実験科学とパワーツールというものが存在しない他の学問、哲学とか文学とかとの違いではないでしょうか。どんな方法をとっても「正しい結論に早く辿りついた者」がエラいという単純なルールです。智恵が出ないなら汗を出せ、というのは実験科学の現場でも真実ではないかと思います。幸い、パワーツールのおかげで余り汗もかかなくはなってきています。犬も車で移動する時代になったのかも知れません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化するシークエンサー(3)

2009-02-24 | 研究
2月号のNature Biotechnologyと2月12日号のNatureで第三世代のDNAシークエンサー(一分子シークエンシンサー)の近況についてカバーされています。第二世代シークエンサー、454/Roche、Solexa/Illumina、ABI(SOLiD)の競争は、現時点ではSolexa/Illuminaが、どうもトップを走っているように思います。その主な理由は、これらの大量平行シークエンシングが、当初の目的であったゲノムの解読には、現在、余り使われていないというユーザー側の事情があると思われます。ゲノムの解読にはシークエンスデータを繋ぎ合わせるAssemblyが最も困難なステップとなります。これには、かなりの能力のコンピュータやその操作が必要で、誰にでもできるというものではないからです。現在の大量シークエンシングは主にDeep sequencingに使われていることが多いと思います。これまで、マイクロアレイなどで遺伝子発現解析などをやっていた人が、サンプル量が少なくて済み、アレイ実験に比べて「ぶれ」が低いシークエンシングに切り替えたという感じなのではないかと思います。そういう目的ではアセンブリは必要ありませんから、シークエンスのannotationとその発現頻度を計算さえできればよいので、大したコンピュータ操作は必要ありません。値段的にも、2つのサンプルを比べるのにマイクロアレイで、duplicateで4枚のDNAチップを使ってやるのと、各々1ランずつシークエンスするのと大差ありませんし。そうなってくると、1ランあたりのリード数が多い方法が有利なわけで、第二世代シークエンサー3者の中では、SolexaとABIが、1ランあたり、約20ギガベース読め、1ベースあたりのコストも同様で最も優れているようです。Solexaの方がABIよりも多少、リード長さが長く、ABIより先行して市場に出たので、Solexaが好まれているのではないかと思います。一方、大量平行シークエンシングの先駆けの454/Rocheでは、現行のマシンでリード長が500ベース近いという長所はあるにせよ、Solexaに比べて、リード数が一桁以上少ないという欠点があります。Deep sequencing目的には30ベースも読めれば十分なので、その目的ではリード長が長いことは、ほとんど長所にはならない一方で、リード数が少ないというのは大きな短所となっています。現在のシークエンサーの使用状況を考えると、これからの数年間はおそらく、Solexaの一人勝ちとなるのではないかと思われます。一方、以前にもお伝えした第三世代一分子シークエンシングを世界で初めて商業化したヘリコスですが(進化するシークエンサー)、苦戦しています。これまでの第二世代と比べて、性能的にそう優れているようには見えません。シークエンスのリード数はどうもSolexaの二倍ほどありそうで、コストも多少安いようですが、リード長は短く、意外な事にシークエンスエラーがかなり多いという欠点があるようです。しかも機械の値段はSolexaの二倍するということです。NatureのNewsでは、(これまでヘリコスマシーンは5-6台売れたらしいですが)そのうちの最初に買った施設が最近、返品したということを伝えています。一方、Nature Biotechnologyでは、第3世代の期待のシークエンサー、Pacific Bioscience社のテクノロジーについて、カバーしています。まだ市場には出ていませんが、前回、私が噂に聞いたときには、リード長1キロベース以上という話だったのですが、今回のこれらの記事では、どうも600 – 800ベースぐらいが実情のようです。DNAポリメラーゼで蛍光ラベルした核酸の取り込みをリアルタイムで測定して読むわけですが、普通のDNA合成反応よりもスピードは遅いようで、一秒あたり3-5塩基が読めるとのこと。しかし、それでも従来のシークエンサーとは比べものにならない早さですので、Pacific Bioscience社では、ゲノム塩基全てを3分でシークエンスできる(実際にはもちろん、無理ですが)と言っています。ただ、このテクノロジーでも、ヘリコス同様にどうもエラーが多いようで、これがネックとなりそうです。ただしPacific Bioscience側は、このテクノロジーで使用されるϕ29というDNAポリメラーゼは、塩基置換能が高いので、同一テンプレートを何度もシークエンスすることが可能で、それによって、最終的な正確さは99%以上に上がるとは言っています。  というわけで、余り意味のない予想ですが、今後5年の大量平行シークエンサーの市場予想は、1位がSolexa/Illumina (65%)、2位がABI(SOLiD) (15%)、3位が454/Roche (10%)、4位がPacific Bioscience (10% もし売り出されれば)という感じでしょうか。(数字は私の当てずっぽうです)ヘリコスは、現在のテクノロジーでは、生き残れないでしょうから、近々、3大メーカーに吸収されるのではと想像しています。この動向は、現在の大量シークエンスがDeep sequencingを目的とするのではなく、ゲノム配列解読が主目的となったときに変わるかも知れません。遺伝子発現解析などがマイクロアレイではなく、qPCRやシークエンシングによって行われることがそのうち主流になると予想されますから、どう転んでも、Solexaは生き残るでしょう。そう考えると、ちょっとゲノム解読にもDeep sequencingにも中途半端に見える454/Rocheが、間もなく市場に現れるPacific Bioscience社のシークエンサーとどれだけ渡り合えるかが、その生き残りにおいて重要であろうと思われます。今回のレポートを読む限りでは、Pacific Biosciece社のテクノロジーも期待したほど、劇的に優れているという感じはありません。454と比べると、スピードでは優るでしょうが、このレベルであればスピードの持つメリットは限られているように思いますので、もし454が正確性とリード数とコストで優るなら、人は454を選ぶのではないかと思います。しかし、技術は日進月歩なので、ひょっとしたら、もっとすごいシークエンサーが彗星のように現れて、独走するようになるかも知れません。いずれにせよ、消費者にとって、これらの技術の進歩は喜ばしいことです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化するシークエンサー(2)

2008-11-25 | 研究
先月末、10/28に一分子法によるシークエンシング技術の進歩について書き留めたのですが、その後、11/6日号のNatureで、一分子シークエンシング法の開発をめぐっての記事がありました。
 私は知らなかったのですが、ヒトゲノムプロジェクトのフランシスコリンズがつい最近まで所長を勤めていた NIHのヒトゲノム研究所(NHGRI)でも、高速で安価なシークエンス技術に投資してきており、その中心となる技術がナノポア(nanopore)シークエンシングという技術だそうです。前回紹介したように、一分子シークエンス法はヘリコスがすでに商業化していますが、より長いリードをより高速に読むという点で、現在もっともその目標に近いのが、Pacific Biosciences社のSMRTといわれる技術で、シークエンスしたいDNAをテンプレートにDNAポリメラーゼで相補鎖を合成させる際の蛍光ラベルした塩基の取り込みをリアルタイムでモニターするという技術です。アイデアそのものは目新しいものではないのですが、これをDNA一分子で行い、かつナノのレベルの正確さで蛍光を読み取るための技術というのはそう簡単に達成できるものではありません。しかし理論上、この技術では、DNAポリメラーゼの合成スピード、通常一分に1000塩基、という早さで読めるわけですから、現行の大量シークエンシングのスピードとは比べ物にならない速さです。速さで言えば、ポリメラーゼ反応などの化学反応を使う技術よりも、通常は物理的特性を検出する方が速いわけで、前回紹介したように日本やカリフォルニアでは、電子顕微鏡を使って、一本の梯子状に引き延ばしたDNAを顕微鏡で直接観察して塩基を読む方法を開発中の会社もあります。こちらだと長距離の連続した配列を一瞬で読んでしまうことが可能ですが、実用化はちょっとまだ先のようです。
ナノポア技術というのは、物理的シークエンシングの技術で、アルファヘモリジンという蛋白によって生体膜に開けた穴をDNAを通過させ、その時に生じる塩基特異的なイオンの流れを測定することで配列を決めようというアイデアです。ちょっと聞いただけでも、余りにsophisticateされ過ぎていて、これは使えないだろうという印象を受けます。イギリスに本拠を置くOxford Nanopore Technologiesという会社が主に開発を進めていますが、速度の問題(イオンのフローを測定するためには、ある一定時間DNAの一塩基がナノポアに留まる必要がある)、大量平行プロセッシングの困難さ(現在ようやく128同時平行)、正確さの問題(微妙なイオンのフローの測定でノイズに弱い)などなど、問題が山積みで、Pacific Biosciences社のSMRTの進歩と比べると、ちょっと勝ち目はなさそうです。Harvard のGeorge Churchも、結局、目標とする技術は、早く、安く、多く、という点に要約されるので、その点から考えてもナノポアが生き残るのは難しいと考えているようです。(日本では、「ポア」という言葉の響きも、オウム真理教事件を思い出させて良くないですね)
 この記事の中で、もう一社、Complete Genomicsというカリフォルニアの会社も紹介されていますが、この会社は「disruptive human DNA sequencing technology」というポリメラーゼではなく、ligaseを使ったシークエンシング法を開発し、使用しているようです。(確かABIの第二世代のシークエンサー、SOLiDもpolymeraseではなくligaseを使っていたように思います)この会社は現在、$20,000でゲノム解読を請け負っています。

ナノポアのアイデアは美しいのですが、どうも実用に向いていないような気がします。そういう例は他にもあると思います。例えば、マツダのロータリーエンジンとか。概念的にはロータリーエンジンは普通のシリンダー型のエンジンよりはるかに美しいのに、実用上は良くありませんでした。今使っているアップルコンピュータのシステムやGUI環境はウィンドウズよりはるかに美しいのに少数派ですしね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究者と修行僧

2008-11-18 | 研究
臨床医学から基礎研究へと進んで大きな偉業を成し遂げる人は多くいます。先日そんな一人、Charles Weissmannの話を聞く機会がありました。彼はsite-directed mutagenesisを開発した人ですし、早くから遺伝子操作にも重要な寄与をした人なので、私の乏しい知識の中では、Weissmannは基礎分子生物学者という位置づけでした。実際、私の手元にある遺伝子ターゲティング用のベクターの一つは15年も前に彼のグループで開発されたものでした。何か技術的に面白い話が聞けるかもしれないと思っていたのですが、彼の話は、プリオン病の非常に現象的な話でした。基礎研究の内容もそれぞれ臨床との繋がりがはっきりした研究で、私は感銘を受けました。これが医者が基礎研究をやることの強みなのでしょう。基礎と臨床を常に関連づけて考えているのかも知れません。あるいは「病気で苦しむ人」のことがどこか頭の片隅にあるのかも知れません。この病人の気持ちを理解し、その役に立ちたいと思う気持ちは、大変、尊いものだと思います。
 基礎研究の研究活動そのものが与えてくれる知的な興奮を私は好きですし、それが未だに大して金にもならない研究を続けている主な理由ですが、一つ不満なことは、しばしば、基礎研究では「世の中の人のために働く」という感覚が乏しくなってしまうことです。現在、私が世の中に貢献しているかと問われると、論文やグラントのレビューのような誰かがやらねばならないような雑用を除くと、胸をはって世の中のために働いていますとはちょっと言えないような後ろめたい気持ちを感ぜずにはいられません。基礎研究は、いつか役に立つかも知れないことを産み出す、いわば将来への投資活動なので、直接誰かの役に立つようなものではないのですから当たり前といえばその通りです。業界内のごく限られた人々が当座の間、面白いと思ってもらえたらそれでよいというような性質のものなのですから、なにも一般の人に、「研究者というのは実験室に隠って役にも立たないことをやって税金を無駄遣いしている」という類いの非難に肩身の狭い思いをする必要などどこにもないとは思ってはいます。例えば、今年のノーベル化学賞のクラゲの発光物質など、当時の人は、本人も含めて、その発見がどんな役に立つのかは見えていなかったはずです。とはいうものの、二言目には税金を使った研究は国民の役に立つものでなければやめてしまえ、というような世間の意見に対して、今やっている基礎研究が役に立つかどうかは二十年経たねばわからないと歴史的事実で反論しても説得力がないのは、自分自身の研究が二十年後にどう役に立つのか自分自身でもわからないからでしょう。
 大学の基礎研究という活動のために税金からの研究費をお願いするのは、極端に言えば、禅の修行者が托鉢に出るのと同じようなものでないかと思います。仏教の修行者が寺に集まって修行をしようとしまいと、それはその人たちの勝手で、自分たちとは関係はない、と思うのが現代一般人の感覚かもしれません。しかし、過去、在家の人は、自分が修行できないかわりに修行をしてくれている修行者の人に感謝して喜捨するものでした。修行者の人が、一般の人のかわりに修行をし、何らかの真理に到達し、いずれ俗世間の人々を導いてくれる、というような漠然とした考えがあったのだろうと思います。また、世界の真理を理解するために仏法を研鑽する人に対する尊敬が一般にあったのでしょう。然るに、街角で托鉢する僧を物乞いか何かのようにしか思わない現代の拝金主義の人々に、大学に残って少ない給料で学問に励む人に対して昔の人が博士と呼んで敬ったような気分がどれだけあるのかは推して知るべしでしょう。大学で研究に励む人々を、自分たちができない研究をかわりにやってくれて、国の文化の発展に力を尽くしてくれている人々と考えているような一般人はまず皆無ではないかと思います。(もちろん、研究者の全てが高邁な学問の進歩という理想に燃えて、日々、研鑽しているという気はありませんが、少なくとも一部の研究者は尊敬に値するだけの理想と情熱をもって一生懸命働いていると思います)
 托鉢を受けて修行する修行者の心得として、大乗仏教には、菩薩がおこす「四弘誓願」という四つの誓いがあります。鈴木大拙は、「先生の見性は何ですか」と弟子に問われて、四弘誓願の最初の句、「衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれど、誓って度せんと願う、つまり、限りない世の人を導くために身を惜しまず働くという誓い)」と述べました。仏徒の修行の先には、世の中の人のために立ちたいという究極の目的があって、それがために寺に集まって修行をするわけです。基礎研究者も意識の上ではそうでありたいものだと私は思います。
 ところで、最近、ちょくちょく見る、「内田樹の研究室」のブログでは、ブログのタイトルの副題に、「みんなまとめて、面倒みよう」とあって、フランス語訳らしい、– Je m’occupe de tout en blocという文が添えてあります。このフランスの言葉に由来があるのかどうか知りませんが、初めてみたとき、これは「衆生無辺誓願度」のことを言っているのだな、と私は思いました。大学教員または研究者として、そして人間として、常に忘れてはならないもの、それがこの言葉ではないかと私は思います。とは言え、なかなか、理想と現実のギャップは大きいものがあるのですが。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ビタミンよりスタチン

2008-11-11 | 研究
先週のビッグニュースとして、アメリカでは第三位の抗コレステロール薬、Crestorを販売しているAstra Zenecaが出資した臨床試験の驚くべき結果がありました。
 今年のラスカー賞となった遠藤博士の、HMG CoA reductase阻害剤の発見をきっかけに近年、コレステロール治療は大きな変化をとげました。二十年前の発売以来、Crestorを含む一連のStatinと総括される抗コレステロール薬の臨床応用による治療効果、経済効果は測り知れません。今回は、27の国から17,000人以上の対象者を集め、Jupiterというコードネームで施行されたStatinの大規模臨床試験が、予定の5年を待たずして終了したというニュースが先週末に発表されました。普通、臨床試験が早く終わってしまう場合は、予想外の副作用が頻発したとかいう悪い結果によることが多いわけですが、今回のは逆で、余りに効果が優れていたので、5年もやる必要がなかったというのが理由です。
 コレステロールが本当に動脈硬化の主原因なのかという批判は常にありました。状況的な証拠からはコレステロールと動脈硬化の相関は認められてはいましたが、動脈硬化病変の観察などから、物事はそう単純なものではないというのが人々の考えでした。近年、こうした成人病の進行に「炎症」が深く関わっているという知見が明らかとなってきており、動脈硬化の進行には炎症の抑制が重要なのではないかと考えられるようになってきました。今回のJupiterでは、非特異的なマーカーであるCRP値(hs-CRP: high sensitive CRP)は高いが、コレステロール値が正常の対象者群にプラセボとスタチンを処方し、心血管病変および死亡率を検討しています。結果、スタチン処方群では心血管病変のリスクは44%低下、死亡率も21%低下しました。つまり、コレステロールが正常でも炎症所見があれば、スタチンの治療は大変有意義であるということを示しているということです。今回のJupiterの結果は、動脈硬化治療の方針を革命的に変える可能性があると思います。経営的にも大ヒットが欲しいAstra Zenecaにとっては、非常に大きなニュースであろうと思います。勿論、スタチン治療による長期的な影響については、これからもっと研究が必要で、将来的に、「hs-CRPの高い人は皆、スタチンを飲むべきである」というコンセンサスに至るかどうかは、長期研究の結果に依存するであろうとは思われます。
 数年前、女性ホルモン薬、プレマリンを創っていたWeythが大規模リストラを行ったことがありました。数年前まで、閉経後の女性ホルモン補充療法は、骨粗鬆症を予防し、動脈硬化を抑制するために、推奨されていた治療でした。一方で女性ホルモンは乳癌や子宮がんの発生を促進するということは以前から懸念されていたことで、総合的にみて、女性ホルモン補充療法が万人にとってよいのかどうかという問題がありました。その結論は、結局、数年前の研究で、女性ホルモン補充によって、癌などによって、死亡リスクが高まることが明らかとなって決定し、その論文を受けて、瞬時にして、女性ホルモン補充療法は、スタンダードの治療から、むしろすべきでない治療とガイドラインが変更され、プレマリンを製造していたWeythは大きな打撃を受けたのでした。日本では、閉経し、背骨が曲がって、髪の毛が白くなるというのは、自然の老化のプロセスだという考えもあり、また、がんに対する拒否反応もあって、女性ホルモン補充療法は普及しませんでした。自分の体も含む「自然のプロセス」に積極的にinterventionを加えて、都合の良いように変えていこういう、西洋の考え方には功罪あると思います。結局、人間はいつか死んでいくわけで、成人病のコントロールというのは、最後の旅立ちの日に向けて、どのようにスムーズに舵を取っていくかという治療であるべきなのではないかという観点からみると、仮に心臓病や骨粗鬆症が予防できて、それによる死亡が減ったところで、いずれは別の病気による死亡率は相対的に上がる訳で、結局、これは勝ち目のない戦いではないかと思います。世間には、長生きしたいという人もあれば、早く死にたいと思う人もあり、心臓病で死にたいと思う人もあれば、老衰して肺炎で死ぬほうがよいと思う人もいるわで、成人病とどうつきあっていくかというのも、個人の価値観にしたがって、個別のやり方があるべきであろうと私は思います。
 スタチンが長期的に、どのような評価を受けるかは、今後を見守るしかありません。しかし、コレステロール値が高くない人でもスタチンを飲むことで効果があるということは、人間の体というものは、現代のライフスタイルに最適の状態にまで進化しているわけではなさそうであると考えさせられます(適者生存の進化論的観点から見れば)。ちょっと例えが適切ではないですが、スタチンがコレステロールを下げるだけの働きしかないとしたら、コレステロールが高くなくても抗コレステロール薬を飲むのがよいというようになると、胃がんができるまえに予防的に胃を摘出しましょう、みたいな妙なロジックへと発展しないかと不安になったりします。もちろん、胃や虫垂を予防的に摘出するかどうかという判断は、ガイドラインではなく個人が決めるべきことだと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

進化するシークエンサー

2008-10-28 | 研究
現在の大量平行シークエンシングはPyrophosphate法を使った454/Rochegが先陣を切り、ついで、Solexa/Illumina、ABIの合計三社が機器とサービスを提供していますが、更に第三世代のシークエンシング法といえるsingle molecule sequencingが、既に商業化されていることを知りました。2008-6-20のエントリーで紹介しましたように、一分子シークエンシングは現行の平行シークエンス法と違って、PCRを使わないので、長いシークエンスが読める可能性という利点があり、「ヒトゲノムシークエンスを$1000で行う」という目標に向けて、必須の技術となるであろうと考えられます。
現時点では、 マサチューセッツ州ケンブリッジの会社、Helicos (http://www.helicosbio.com/) が最初の単一分子シークエンシングを商業化したようです。そのテクノロジーについては、今年のScience四月号での論文で紹介されており、その号の表紙も飾っています (Science. Vol. 320, no. 5872, pp. 106-109. 2008)。残念ながら、私の理解した範囲ですと、この第一世代の一分子シークエンス法では、それほど長いリードは読めないようで、現在の平行シークエンス法と性能的には大差はないのではないかという印象です。現在、Genome-wide association study (GWAS) のサービスを提供している会社、Expression Analysis社が、Helicos True Single Molecule Sequencing (tSMS)を使った遺伝学のプロジェクトをサポートするグラントの応募を募っています(http://www.expressionanalysis.com/grant/)。この技術は基本的にはPCRを使わない点だけが、従来法との違いのような感じで、肝腎のリードの長さに関しては、余り進歩がないように思います。またあと数種類違った原理を使う一分子シークエンス法が開発中なので、将来的にこのHelicosの技術が生き残れるかどうかは分かりませんが、今後の発展が楽しみです。Helicos自身も現在の技術を第一世代の一分子シーエンス法と言っていますから、この発展系を今後リリースする予定はあるのでしょう。マクサムギルバート法を前世代、サンガー法を第一世代、PCRを使った平行シークエンス法を第二世代、一分子シークエンスを第三世代のシークンス法と呼ぶとするならば、このHelicos tSMSは第三世代シークエンシングの第一世代ということになります。一分子シークエンシング技術の開発に関しては、日本では岡崎統合バイオセンターの永山博士が、電子顕微鏡を使って、一秒間に数万塩基を読み、一年にテラベースをシークエンスするためのシークエンシング法の開発を目指し、その名もズバリ、テラベース社というベンチャーを数年前に立ち上げています。あいにく、現在の所、こちらは実用に至る道はかなり険しいそうです。いずれにせよ、こうした技術に支えられた遺伝子の大量データ生産は加速する一方ですが、この大量のデータは人間の頭ではそのまま理解することはできません。大量の塩基データを人間が解釈できるような形に加工、抽出していくことは、実はそう簡単なことではありません。解釈できないデータは役に立ちません。シークエンシング法のハードの進歩は、必然的にソフトの進歩を引き起こすであろうとは思いますが、実はこのソフトの進歩の方が律速段階になるのではと、私は思っています。

これだけ莫大なコストと労力をかけて開発する新しいシークエンサーですが、新しいものが必ずしも古いものよりよいとは限らないし、よいものが必ずしも市場を制覇するとは言えないというあたりがビジネスの難しさですね。ついさっき、 「内田樹の研究室  http://blog.tatsuru.com/」で知った話。

QWERT配列というのをご存じだろうか。
みなさんのコンピュータのキーボードの配列のことである。
この文字配列は「打ちやすい」ように並べられているわけではない。「打ちにくい」ように配列されているのである。
初期のタイプライターではタイピストが熟練してくるとキータッチが早くなりすぎて、アームが絡まってしまうということが頻発した。それを防ぐためにキータッチを遅らせるキー配列が工夫されたのである。
最初はごく一部のタイプライターにしか採用されなかったが、大手のレミントンがこの配列を導入したことで、一気にスタンダードになった。
そして、私たちは今やキーをどれほど早く打ってもアームが絡まる気遣いがないメカニズムにシフトしたにもかかわらず、「打ちにくい」配列をそのまま踏襲しているのである。

機能的にすぐれたものが生き残るとは限らないという自然選択説に反するような話ですが、一分子シークエンス法に関しては、リードの短いヘリコスの方式では勝ち残れないでしょう。Roche、Illumina、ABIという大企業が手がけているシークエンサーが十分利益をあげて市場を飽和させるまではヘリコス方式は、いくら、PCRを使わないので正確性が上がるとか、リードの数が多いとかいうマイナーな長所があったとしても、それが大企業が売っている現行のシークエンサーと比べて、劇的によいわけではないですから、メジャーにはなれず、HD DVDやβ式のビデオテーブのような運命になってしまうのではないでしょうか。もしも、リードの長さが数キロ塩基というレベルになったら、その劇的な性能の向上によって、一分子法は、すぐに現行のparallel sequencerを駆追してしまうとは思います。
とここまで書いた所で、実は、Pacific Bioscencesというカリフォルニアの会社が一分子法で1キロ塩基以上読めるシステム(Single Molecule Real Time; SMRT)を開発、3-4年後を目処に販売開始を予定しているという話を知りました。この技術のもとになっているナノの世界の特性を最大限に生かしたアイデアは、普通の化学者ではちょっと思いつかないのではないでしょうか。詳しくは、 http://www.pacificbiosciences.com/index.php?q=observation-window でどうぞ。
これが実現すれば、「ヒトゲノム解読$1,000」の目標にぐっと近づきそうです。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラスカー賞へと至る道

2008-09-26 | 研究
アメリカ版ノーベル賞とも言われるラスカー賞ですが、今年の基礎医学部門は、microRNAのパイオニア的仕事となった、二人の線虫遺伝学者、Gary RuvkunとVictor Ambrosに与えられ、そして、臨床部門は、日本人で初めて臨床部門での受賞となった、スタチンの遠藤章博士に与えられました。9/19号のCellの巻頭で、もう一人の受賞者、細菌学者のStanley Falkowと合わせて、その仕事と研究の歴史が紹介されています。microRNAにしてもスタチンにしても、最初の発見からブレークスルーに至るまで、紆余曲折を経てきています。発見の価値は、その後の多くの研究の成果によって、再評価され、そして研究界、医学界に大きな影響を与えるまでに成長してきました。研究の本当の価値を社会が認めるようになるまでには、長い時間がかかるのだなと思います。
 microRNAという言葉が発明されたのは2001年ですが、microRNAを記載した論文は、上記の二人がback-to-backでCellに1993年に発表した、線虫の変異株に関する論文が最初で、Ambrosは、最初のmicroRNA, lin-4,をsmall temporary RNAと呼んでいました。当時、調節性RNAという概念でさえ、そう一般的でなかった時代に、主にGeneticsの手法を使って、この発生タイミングの異常をおこしてくる変異が、DNAでも蛋白でもなく、小さなRNAであることを示したのみならず、そのターゲット遺伝子を遺伝学的手法で同定し、全く新しい遺伝子発現調節の作用メカニズムを明らかにした、AmbrosとRuvkinのElegantな仕事は、現在のmicroRNA研究の土台を作り上げました。この二人はMITのHorvitzの研究室の出身で現在、RuvkunはMassachusetts General Hospital、AmbrosはHarvard, Dartmouthを経てUniversity of Massachusettsで、引き続き線虫のgeneticsを研究しています。microRNAの再発見のきっかけになったのは、2年前のノーベル賞となったRNAiの発見によります。1998年のAndrew Fire (現Stanford)とCraig Mello(University of Massachusetts)のRNAiの発見の後、そのメカニズムの研究の過程において、siRNAが発見され、それがmicroRNAの再発見とつながり、2001年のScienceで、MIT出の3グループ、Ambros, Tom Tuschl, David Bartelによって「microRNA」という言葉生まれました。以後、7年間に、microRNAの研究論文は3,500本という数となり、一日二本ずつ新しい論文がでているという現在の状況に繋がってきます。もしRNAiの発見がなかったら、microRNAは未だにマイナーな例外的現象として扱われていたかも知れません。しかしRNAiがノーベル賞となったために、RuvkunとAmbrosはsmall regulatory RNAのパイオニアであってもノーベル賞となる可能性はなくなったと思われます。
 また、スタチンの遠藤博士の研究も、ノーベル賞となったゴールドスタインとブラウンのLDLコレステロール代謝の解明に加え、メルクがこの抗コレステロール薬を商品化してくれたおかげで、この賞に至ったものと思いわれます。遠藤博士は三共薬品の研究者で、コレステロールを下げる物質をカビから探すという研究で、目的通りにスタチンを見つけました。にもかかわらず、この発見が三共の薬とならず、メルクで日の目を見るという皮肉な結果となったのは、当時、コレステロールを下げることが動脈硬化の治療に有効であるという、確固としたデータが少なかったこと、コレステロールのような生理機能に重要な物質を人為的に下げればきっと凄い副作用が出るに違いないという妄信があったせいで、三共がゴーサインを出さなかったからではないでしょうか。一方、動脈硬化と高脂血症の程度が日本と比べものにならない大問題となっているアメリカでは、この新しい抗コレステロール薬への期待の大きさが、はるかにそのリスクへの恐怖を凌駕したのであろうと想像できます。結果、スタチンは革命的な高脂血症治療薬となり、成人病医療に多大に貢献し、莫大な経済効果をもたらしたのでした。もし、ゴールドスタイン、ブラウンの脂質代謝の研究がなかったら、あるいは、メルクが途中で開発から手を引いていたら、今日の遠藤博士の受賞はありませんでした。しかし、microRNAでのRuvkun、Ambrosと同様に、ゴールドスタイン、ブラウンが早々とノーベル賞をとってしまったので、遠藤博士がノーベル賞候補となることはないのではないかと思われます。
 賞のことはともかく、いずれにせよ、今回の受賞者の人々は、microRNAやスタチンなどの非常に重要な発見に関われたことを、大変幸運なことだと思っていると思います。研究とは、砂漠の砂の中から磨き上げる前の宝石の原石を拾い上げるようなもので、成功は努力する者のところに偶然やってきます。失敗にはたった一つの条件がそろわないだけで十分ですが、成功には全ての条件がそろった上に、幸運が偶然訪れてくれなければなりません。今回のmicroRNAとスタチンがラスカー賞に至ったのは、最初に宝石の原石を拾いあげることができたことに加え、他の研究者や研究施設が再発見してくれたり、開発プログラムを作ってくれたり、といった外部の助けがあったからこそでした。原石を砂漠の砂の中から拾い上げること、そしてそれが磨かれて美しい宝石になるのを見ることができること、研究者冥利に尽きるとはこういう経験のことではないでしょうか。

追記
トランスジェニック植物でcosuppressionとしられる現象にsmall RNAが関与していることを明らかにして、植物のmicroRNAの開拓者となったイギリスのDavid BaulcomeもAmbros,Ruvkunとともにラスカー賞を受賞したことを、追記しておきます。また、AmbrosとRuvkunの二人は同じ業績によって、Massachusetts General Hospital (MGH)の賞である「Warren Triennial賞」も受賞しています。MGHの創始者で、世界初のエーテル麻酔による手術を行ったことでしられるJohn Collins Warrenに由来するこの由緒ある賞の受賞者の中から、これまで22名のノーベル賞受賞者が出ています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フロントページの功罪

2008-09-16 | 研究
購読していたNatureが突然、理由もなく雑誌を送って来なくなり、しばらく興味ある論文だけオンラインでかろうじて目を通すという日々が続いています。どういうわけかScienceも送って来なくなったように思います。Natureは何度も文句を言ってもサービスが改善しないし、しょっちゅう号を飛ばすので、もう次は購読を止めようかとも思ったりします。それで、このところ、「ゴシップセクション」と呼んでいる、NatureやScienceのフロントページからしばらくご無沙汰していたのですが、それで、つくづく感じたことが、私の専門外の科学界の知識の多くが、これらのゴシップセクションに多く依存していたということでした。実験のアイデアなども(殆どの場合、実行にまで到達しませんが)、このゴシップセクションでのネタから妄想が膨らんできたものもあります。しばらくゴシップセクションから離れていたためか、このフロントページというのは、実は結構、無害なようで危険なものではないかと、はっとしたのでした。こういう影響力のある科学雑誌のフロントページで、微妙なメッセージが流され、それによって、科学界の流行が決められていっているというのは多分ある程度あたっているでしょう。知り合いと科学ネタの雑談で盛り上がるとき、結構お互いに知識のでどころは同じで、これらの雑誌のゴシップ欄であることを発見して、ちょっと恥ずかしく思ったりすることが、そう言えばありました。ゴシップ欄をフォローしているときは、自分は科学界の中にいるのだという感覚がありました。ここしばらく、ゴシップ欄を読むことがなかったせいか、なんとなく、不安な気持ちを感じるようになりました。ファッションの世界と同じで、科学界にも流行があります。その流行を創り出す所、ちょっと目新しいことをやってみせて、あたかも大発見したかのように、ゴシップセクションを使って、宣伝する「流行の仕掛人」みたいなラボが、最もおいしい思いをします。それにつられて流行にいち早く飛び込むものは、二番目においしいところを取れます。流行のパターンを万人が読めるほど明らかになってくるころには、もうおいしい所は残っていません。NatureやScienceのゴシップセクションというのは、新聞やメディアが関連政党のプロパガンダを微妙に垂れ流しているのと同じように、ステルスに研究者を洗脳していっているのではないのかと、しばらくゴシップ欄から離れていて思いました。以前にも、何度も書きましたが、研究の世界も格差社会で、持てる所はどんどん富み、持たざるところはますます窮するようになってきています。研究の技術がだんだんと規格化されてくることで、研究はますます競争的な側面が強くなりました。とりわけハードコアな分子生物をやっている所は、お互いに疑心暗鬼で仲が悪いのが普通です。システムが淘汰選択されてきて、皆が同じような系を使って、同じ様な研究技術で、同じ様なことを研究しているのですから、そうなるのもうなずけます。そういう世界では、ライバルよりも一歩でも先んずることが大切です。そのためには流行をすばやく察知するだけでは足りません。流行を作る側に回らねば安心できません。NatureやScienceのフロントページというのは、そういう目的にはうってつけです。力のある大きなラボでないと情報操作はできませんから、そんな所は流行を作る側に回れて、ますます力を増大させていきます。であるなら、NatureやScienceのゴシップ欄という所は、持てる所がますます繁栄するためのメッセージが流されていて、持たざる所の研究者が読むと、知らない間に、健康が蝕まれてしまうような類いのものかも知れません。昔の禅寺では、お経を含めて文字に触れる時間は厳しく制限されていました。臨済も教典などを読むと肺を病むといい、古人は書を捨てて街に出よと説きました。科学とは現象の文字化、概念化に他なりませんから、文字を捨てるわけにはいきませんが、NatureやScienceのフロントページを読んで、研究界の動向を把握しておこうとすることは、あるいは流行の作り手にカモにされる最初なのかも知れません。フロントページは娯楽用と割り切って読み飛ばし、くれぐれも乗せられて要らぬ妄想をいだかず、余分な欲を出さず、雨にも負けず、自分の仕事に集中する、そういう研究者に私はなりたい、と思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究格差と研究者の才能

2008-08-22 | 研究
ハイインパクト雑誌のコンスタントに論文を出している研究室と、そうでない研究室という格差が歴然としてあります。私のいる講座は、ちょうどその間ぐらいのレベルかと思います。現在の医学の基礎研究において、どうやれば、ハイインパクト雑誌に載る可能性が高まるかというのは、比較的はっきりしてます。これはマウスの遺伝子ノックアウトの技術が開発されて、マウスでの知見がゴールドスタンダードとなったという認識が広がったため、雑誌のエディター、レビューアが、マウスのデータがなによりも重要であるという価値基準で論文を見るようになったからです。私の分野である哺乳類骨格系は、動物の中にしか存在しませんから、培養細胞での知見は常に本当に生理的な環境で意味があるのかという疑問は昔から常にありました。容易にマウスでの遺伝子操作ができなかった時代はともかく、現在では、この分野でハイインパクトの論文を出すには、マウスなしではまず無理です。マウスが他のゼブラフィッシュやチキンやラットやその他の動物に比べて、如何に優れた実験動物であるかは、あらためて述べるまでもありません。哺乳類の実験生物学をやっているものにとっては、マウスは神様が実験用に作ってくれたとしか思えないほど、素晴らしいモデル動物だと思います。ですので、マウスの系が動いていない医科学の研究室は、ハイインパクト雑誌に論文を載せるのはそれだけで困難になります。マウスはお金さえだせば、技術が汎用化していますから、誰でもできます。(そのお金が問題ではありますが)一方、限られた所にしかない貴重なリソースを利用することで、ハイインパクトな論文を出しているところもあります。この間、エレベータで一緒になった知り合いと、Nature系の雑誌に出た彼の論文についての話になりました。彼はヒトの遺伝学をやっていて、いわゆるHapMapで病気と関連する遺伝子変異や遺伝子多型を研究しているのですが、彼の研究は、数多くのヒトの遺伝情報と疾患情報という非常に貴重なリソースに依存しています。臨床医でもある彼は非常に優秀な頭脳の持ち主なのですが、自分の研究に関しては、「やっていることは皆同じで、バカでもできる」と言います。要するに、ヒト遺伝学での解析方法というのは、十分確立されているので、解析するためのサンプルさえあれば、ほぼ、自動的に答えが出るということなのです。ですので、この研究のもっとも困難なところは、解析ではなく、解析するためのサンプルを集めるという所です。いかに良いサンプルを集めるかが最も大切なところで、サンプルが不十分だと意味のある結論がでません。結果を十分に得ることができるようなよいサンプルを集めることができれば、サンプルが極めて貴重なものであるゆえに、結果も貴重であって、論文も高く評価されるのです。そういう目で眺めてみると、90%以上のハイインパクト雑誌に載っている論文というのは、そういう利用可能なリソースやシステムの有無に依存しており、まあ誰がやっても同じだろうというものが多いです。事実そうした有名研究室のリソースを使ってハイインパクト雑誌に論文を出して、独立していった人が、独立後そのシステムを使えなくなってしまい、鳴かず飛ばずになるというのもよく見聞きする話です。最近の生物科学論文では、天才的ひらめきによって、するどい仮説と検証法をあみだしてそれを証明する、というような教科書にのっているような科学の発見など、めったにないと思います。つまり、何が言いたいのかというと、殆どの科学研究で、個人の抜きん出た才能みたいなものは必要ない。実際、この世界に本当に優秀な人というのはめったに居なくて、有名雑誌に多くの論文を持っている人でも、そうでない人でも、人間の能力の差というのはそう大したものではないということです。研究の発表を聞いていると優秀な人とそうでない人というのはよくわかります。しかし、その優秀さというのは、話がうまいとか、質問に答える力があるとか、ちょっと深くものを知っているとか、早く理解できるとか、そういった(トレーニングすれば、誰でもある程度は得られる)表に見える優秀さで、そんなものは、研究そのものには、まず役立ちません(奨学金や研究費をとってきたり、就職活動などには効果があるでしょう)。ですので、現実に研究に差がでてくる最も大きな要因は、研究室やプロジェクトをどう選ぶかという所と、どれだけ一生懸命やれるかということではないでしょうか。当たり前ながら、竹槍でB29は撃ち落とせません。竹槍しかないところではいくら一生懸命がんばっても、頑張りは報われないでしょう。逆に最新の設備とリソースがありながら、それを活かす努力しないために論文がでない場合もあります。研究に必要な才能とは、ちょっと遠くから研究現場を客観的に見れること、と、いったんやりだしたらあきらめずに頑張れるバカさ加減を持ち合わせているかという点ではないかと思ったりします。
こうしてこの業界が研究システムという点でどんどん画一化してくると、個人の「技」の見せ所は、無くなってきます。例えば、昔はいた名医という人が今ではいなくなったのと同じで、天才科学者もいなくなりました。システムの技術が進歩して、最先端の研究が誰でもできるようになってきたからだと思います。診断技術が未熟だった頃、原因不明の病気にかかった患者を診断できるのは、豊富な知識と経験と深い洞察眼を備えた名医でした。今は「なになに診断セット」とかの検査セットを何も考えずに出して、最新機器で画像診断すれば、研修医の一日目でもすぐに正しい診断にたどり着いたりします。逆に最新検査法を備えた病院から一歩でると、殆どの医者は全く無力です。研究も研究システムの技術に依存する部分が余りに高くなってきたために、多くの場合で研究者の研究能力の重要性は相対的に落ちてきたように思います。少なくとも、知識についてはインターネットで誰でも簡単に手に入るようになったので、ものを知っていること自体は、余り価値がありません。経験についても実験がキット化、マニュアル化されて、誰でも実験できるようになりました。そんな中で持たざる研究室で働く中堅研究員はどのように生き残り、かつ価値の高い研究を遂行していくのか、なかなか厳しいものがあるように思います。
昔のように、みかん箱を机にして、手作りの実験道具でオリジナルな研究をするというような理想郷は消え去ってしまったようです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

PLoSの理想と現実

2008-07-15 | 研究
GeneChipを代表とするマイクロアレイを使った包括的遺伝子発現解析、やゲノム解析は、現在の分子生物学、分子遺伝学を始めとする種々の研究分野で、ルーティンといって良いぐらいの研究技術となりましたが、その歴史はたかだか十年ちょっとです。今では、短い合成オリゴDNAプローブを使うAffymetrix GeneChipが、少なくとも遺伝子発現アレイにおいては市場を圧倒していますが、つい数年前まで、遺伝子発現アレイはおおまかにオリゴ式とcDNA式が共存していました。マイクロアレイ技術の最初の出版は、多分、1995年のScienceで、96のプローブで二色の蛍光ラベルしたサンプルを同時定量をしたというStanford大のPat Brownのグループの論文ではないかと思います。この論文ではPat BrownらはオリゴではなくcDNAを使用しています。その後、Affymetrixの圧倒的な技術力の進歩により、cDNAアレイはあっという間に淘汰されてしまいました。当初の96プローブと、現在のChip一枚に約4万種の遺伝子配列、各種について22のプローブが乗っているAffyのゲノムアレイを比べると、その技術の進歩に恐れ入るばかりです。
ところで、そのマイクロアレイの元祖ともいえるPat Brownを設立メンバーの一人として始まったハイインパクト生物学雑誌がPLoS (Public Library of Science)です。2002年の発刊当時、無料アクセスを謳うコンセプトが賛否両論、喧々諤々たる議論を巻き起こしました。従来の出版のビジネスモデルは購読者から料金をとり出版活動の運営にあてるわけですが、PLoSでは著者から掲載料を取ることで運営していくという方針です。多くの研究は国民の税金でまかなわれているのだから、その成果に国民は無料でアクセスできるべきだという主張が根拠としてあるのです。私は、その筋の研究者でなければ無料で論文にアクセスできたところで論文は無用の長物であろうと思いますし、研究者であればその所属機関を通じて商業誌にアクセスできるので、論文を無料公開することが実質的に社会や国民にプラスになるかどうかという点においては否定的に思っています。しかし、「税金で行った研究成果には無料でアクセスできるべきだ」という筋を通す、つまりpolitically correctであること、を優先すれば論文へは当然無料アクセスできなければならないということになるでしょう。現にアメリカでは、税金で行った研究の論文は、発表後1年以内に公的な論文のリポジトリであるPubMed Centralに論文を提出することが、今年の4月から義務づけられました。その画期的なオープンアクセスモデルを提唱したPLoSでは、掲載論文には数千ドルの掲載料を取り、採択率1割程度で高品質の論文を載せることを目標とするというコンセプトでスタートしました。その程度の収入でも、雑誌のフロントページの省略などで経費を抑えチャリティーで資金を調達することで、トントンでやっていけるという見通しでした。これには楽観的過ぎるという批判が当初からあって、実際、最初の2年の公的な補助があった期間は金銭的にポジティブバランスでしたが、それが切れてから一気にマイナスに転じ、その将来が危ぶまれました。2年程前からその経済状況が多少よくなってきているようで、その様子が7/3号のNature誌にレポートされています。PLoSはハイインパクトの論文のみを出版するというコンセプトがまず最初にあった雑誌で、事実PLoS BiologyはCellの姉妹紙なみのインパクトファクターがあります。しかしPLoSがここ数年、出版雑誌種を拡げて姉妹紙を作ってきたのには、どうやらPLoS Biology一本ではやっていけないという台所事情があったようです。当然ながら掲載者から料金をとるというシステムのPLoSの経済状況を良くするのには掲載論文数の増加が必要なのですが、そうそうハイインパクトな論文が沢山集まるわけがありません。近年のPLoSへの論文数の増加とそれに伴う経済的な改善は、どうもPLoS Oneという新しい姉妹雑誌への掲載論文の増加によるもののようです。この雑誌は、論文の意義とかインパクトは余り考慮されず、科学的研究手法と結果の解釈に誤りがないことが一人のレビューアに確認されれば、アクセプトされるという雑誌です。つまりレビュープロセスが大変甘い雑誌なのです。このNatureのレポートでは、JCIのディレクターのJohn Hawleyは、PLoS Oneは論文掲載数が多過ぎることと論文の質を判断しにくいことから、この雑誌は結局、「ゴミ捨て場」となってしまうであろうと述べています。ハイインパクト論文を売りにしていたPLoSは生き残るために、結果として低品質論文を出版することになる雑誌をその姉妹紙として発刊していく必要にかられたという皮肉でしょうか。ちなみに、同レポートではイギリスのオープンアクセス出版社BioMed Central (BMC)にも言及してあって、BMCが出版する数々のオンライン二流雑誌によってBMCは約20億円の歳入があり、十分ビジネスとして利益を出しているとあります。オープンアクセスとなれば、お客さんは読者ではなく、著者になるわけで、ビジネスとしてはお客さんである著者がより喜ぶサービスを提供することが成功の条件であるのは当然です。著者側には、低品質でもとにかく論文を出版したいという需要が多くあるわけで、高い理想を掲げて出発したPLoSもその顧客ニーズに迎合することなしにはやっていけないという現実に当たり、その妥協がPLoS Oneであったということなのかも知れません。もちろんPLoS側は、PLoS Oneの存在意義を「お金を集めるためにやむなく作ったゴミ捨て場」であるとは言いません。むしろ、レビュープロセスを簡略化し、早く論文を一般読者に提供して、積極的に読者からのフィードバックを得ていくことで、論文の評価を決定していくという画期的な雑誌であると謳っています。しかし、もちろん読者はそれほどヒマではないですから、そのような読者参加型のコンセプトはうまく機能してはいないようです。現時点では、PLoSの名前がついているからという理由でPLoS Oneに投稿する著者も多いでしょうが、長期的にゴミ捨て場であるという認識が広がれば、同じゴミを捨てるなら無料の商業誌に投稿しようという著者が増えるであろうと思われますし、そうなるとPLoSの経営は再び苦しくなってしまうでしょう。
さて、前途多難なPLoSの将来はどうなるのでしょうか。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする