百醜千拙草

何とかやっています

意識の問題

2008-01-29 | Weblog
3年前に亡くなったノーベル賞科学者フランシスクリックは分子生物学から去った後、理論神経学の分野の研究を始めました。彼と彼の共同研究者、Christof Kochの研究のテーマは「意識」についてでしたが、神経科学の分野で「意識」の問題はタブー視されてきました。基本的に目に見えるものしか扱わない現代の実験科学で、「意識」という目に見えないものを研究するのは危険です。実験科学者は、客観的に見ることのできないものは存在していると認めないからです。目に見えないからあるとは言えないというのならまだしも、目に見えないから無いと信じているような人も大勢いて、その唯物主義的偏見というものは、偏見であるという意識すらないほど徹底しているように思います。ですから意識の問題を科学者が研究するというのは、大変、野心的なことであった私は思います。しかし、一歩さがってみると、「意識」といものが無いと心から思っている人はいないと思います。医療の現場では昏睡のレベルをスケール化していますし、カルテには必ず意識状態を書く欄があります。しかし、医療現場での意識とは、外的に評価できる部分に限られていて、厳密には外的刺激に対する反応の程度という意識のごく一部を評価しているに過ぎません。
 では果たして、「意識」とは何でしょうか。私たちはこの言葉を日常的に使っていながら、その意味を知りません。この意識とは何かと問う事は、つきつめて考えると、デカルトの言う「自分という考える存在が疑うべくなく存在している」という実感の源を問うことではないかと思います。更に飛躍を躊躇せずに言えば、意識という主観的な感覚に依存しているものを問うことは、畢竟、「生命とは何か」という疑問と同意であろうと思います。クリックは触媒性RNAが発見されたことから、生命は無生物の微細な分子が組織化して線形的発展を遂げる過程で生まれたのではないかと考えていたようです。生物ではないものでも、例えばコンピュータなどでも、人間なみの複雑でコヒーレントな構造を持つようになれば、意識が生じるのではないかという仮説で、意識というものの発生を機械論的に説明しようと考えていたように見えます。生憎、私はクリックの意識の研究がどのようなものであったか詳しく知りません。ひょっとしたら、機械論的立場で生気論を取り込もうとしたのかも知れません。しかし、そういうアイデアを持って研究してきた人は何百年も前からいたわけで、現在に至るまで、それらの研究が科学界で認められたという話を私は聞いた事がありません。そもそも生気論や機械論というのは、生物というものを捉えようとするときに観察者が立つ主義の問題で、どちらが正しくどちらが間違っているとかいうレベルの議論をする事自体がナンセンスなのだと思います。現代の生命科学で「生命とは何か」を研究すると真顔で言えば、頭がおかしいと思われるのがオチですから、クリックは一歩ひいて「意識」を研究することにしたのかも知れません。
 しかし、生物学研究である以上は、生命とは何かという疑問や、生命の神秘さに対する謙虚な感動といったものなしに、その機械的側面だけを弄んでいるようにしか見えないような研究は虚しいと思います。それなら最初から機械を研究すればよいのです。残念ながら、近年の生物系研究は「役に立つ」ことを求められるので、生物学というよりは生物を使った工学的な研究ばかりがもてはやされています。そういった生命活動を利用してやろうという態度の研究には、「生命の神秘さ」の前に謙虚になるという行為の入り込む余地はないのかも知れません。
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正しく生きましょう

2008-01-25 | Weblog
科学は巨大な洞窟を照らす懐中電灯みたいなものだと言った人がいましたが、科学についてこれほど適切な比喩はないのではないかと思います。私たちはこの世界が(洞窟が)どれぐらい広いのか、洞窟の外に何があるのか、知りません。知っていると思っていることでさえ、懐中電灯の乏しい明かりが映し出した影を自分の頭が理解できる範囲で解釈しただけに過ぎません。
科学の灯りが照らすことのできない洞窟の外側は、おそらく目映いぐらいの光の楽園なのだろう、と私は思います。科学の懐中電灯が直接照らすことはできなくても、照らすことができないものが存在するということは科学によって明らかになっていくかも知れません。光あふれる洞窟の外では懐中電灯はもはや必要とはされないでしょう。
小児科医で臨死体験の研究者であるMelvin Morseの研究によると臨死体験をした人に共通するものとして、「光」の体験があるそうです。「死んでいる」間に、非常に明るくなめらかな光と遭遇し、幸福感に満たされ、多くの臨死体験者はその経験の後、人生に前向きになり、一瞬一瞬を充実して過ごしたいという気持ちを持つようになるそうです。その他にも数々の逸話的報告からも、光の体験が臨死体験の中心であるのは間違いないようです。その共通した体験の光というのはどこにあるのでしょう。我々の常識と現代の科学的方法からは、臨死時に共通した光を見るという体験は各人の脳が臨死に際して同様の反応を起こすのだろうということで片付けるしかありません。しかし、脳の臨死状況における反応であるという証拠は一切ないのですから、臨死体験者が見たという光がどこにあるのかは「わからない」というのが臨死体験者でない者の正しい答えでしょう。この光の体験を科学的に研究するのは、非常に困難ですから、孔子のように、「未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん」と逃げておくのが無難なのでしょう。しかし、孔子は知らなくても、知っている人はいたようです。中国禅仏教を受け継いできた人々は多かれ少なかれ、知っていました。儒教が形而下のもののみを扱うのに対し、仏教は常に究極の「それ」を体得することを目標にしてきたのですから、孔子が知らなくても仏徒が知っていることに不思議はありません。また主義上、仮に知っていても孔子は「知っている」とは言えなかったでしょう。常人で、無宗教で臨死体験も悟りの体験もしたことのない私は、実はそういう理由で自分が死んでいける日のことを楽しみにしています。この世の中は修行の場であって、それが終わったら楽しみが待っているのだと思っています。ある信心深いキリスト教信者に天国と地獄はあるかと聞くと、「あるに決まっている」と答えたそうです。この世の中の不公平は死んでからバランスアウトされるようになっていて、自分たちは死んでから、生前、悪行を尽くした悪人が地獄で苦しむのを天国から見るのを楽しみにしているから、天国と地獄がないと困ると語ったらしいです。これは極端な例かも知れませんが、少なくとも「正しく生きる」ことへのモチベーションの一部ではあるかも知れません。しかし「なぜ、私たちは正しく生きなければならないか」ということに関しては、私は、罪を犯すと罰せられるという単純にメカニカルなもの以上に、「正しく生きたい」という本能的な欲求が本当はあるのだと思います。仏陀は、悟りに至るための方法として、八正道を説きました。私はそれを目に見えるところに貼っています。あたりまえに聞こえるのですが、実行するのは難しいのです。正しく見、思い、語り、、、と説く八正道に「正しい」とはどういうことかという定義は示されていません。正しいとは絶対的に正しいということなのだと思います。人間みなが正しいとは何かは教えられなくとも本来知っているのだと思います。心の曇りを除くだけで、自ずと誤っていることは明らかになるだろうと思います。その誤りを排していくことが八正道の実践だと思います。(「悪人が地獄で苦しむのを見たい」と思うことは正しくないと思いますが、そう思わないようにするのは難しいことです)この世の中は死ぬまで一生修行ですから、人生の困難は試験問題のようなものです。やれるだけやって、試験終了のベルが鳴るのを待つのみです。
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マイクロキメリズムでゆらぐ自己

2008-01-22 | 研究
人間の体は必ずしも単一のクローナルな細胞からできているわけではないという「microchimerism」を研究しているFred Hutchinson Cancer Research CenterのJ. Lee Nelsonが書いた一般向けの解説を読んで、恥ずかしながら、私は初めてmicrochimerismという言葉と概念を知りました。実は随分前から知られていることで、試しにPubMedでmicrochimerismでサーチしてみると、933本の論文がヒットしました。母親の細胞が胎児に移行して、長期間胎児内で生存しづづけるということは60年近く前から知られているそうです。逆に胎児の細胞が妊娠高血圧症で死亡した母親の肺に発見されたという報告は1893年に最初になされ、1979年には、男児を妊娠したことのある女性の血液中からY染色体が検出できたという報告によって、健康な人でもこうした母子間の細胞のやり取りがあることが明らかにされたということです。興味深いのは、新生児ループス症候群で、心筋の炎症を起こした例での観察で、死亡した新生男児の心筋から母親由来と思われる細胞が発見され、これらの細胞の多くが心筋の蛋白を発現しており、どうも胎児の心臓の一部として機能していたらしいということでした。つまり、母子間で行き来している細胞は、新しいホストの体内で機能的役割を持って生存しており、単に受動的に存在しているといったものではないということなのです。循環血中では10の5-6乗個の細胞に一個の割合で、母親由来または胎児由来の細胞が混入しているそうですが、この割合は皮膚などの血液以外の組織ではより高いらしいです。
 Microchimerismの臨床的意義が確立したとは未だ言えないと思いますが、これはちょうど臓器移植患者と同様の問題をおこす可能性があると考えられます。この著者らのグループは、多発性筋炎、進行性強皮症を例に挙げて、これらの従来、自己免疫性疾患と考えられている病態というものは、臓器移植時における免疫反応として説明可能であるとする証拠を示しています。多発性筋炎の場合は、移植に伴ってホストに導入されてくる免疫細胞がホストの組織を攻撃することでおこるGVHDとみなすことができます。つまり母親由来の免疫系細胞が妊娠中に胎盤を通過して胎児内に入り、ある時点で子供の筋組織を攻撃するというモデルです。逆に進行性強皮症の場合は、子供の皮膚の一部として機能している母親由来の細胞に対しての拒絶反応によって起こってくるという病理モデルが考えられるそうです。このようなmicrochimerismは、循環血液中の細胞の胎盤を通じたやりとりで起こってくるのが基本的なメカニズムと考えられているのですが、最近、さまざまな報告で、血液中を循環しているのは血球系細胞だけではない証拠が示されています。例えば、近年、New England Journal of Medicineに掲載されたレポートでは、血中にかなりの割合で骨を作る骨芽細胞が循環しているという報告がされましたし、同時期にScience誌で、心臓に骨芽細胞のマーカーを出している細胞が存在しており、心血管の石灰化というのは異所性の骨形成ではないかという仮説が提出されました。また骨芽細胞を血液中に注入すると、ホストの骨にホーミングを起こすという報告も(さすがにちょっと眉唾)されています。もちろん種々の幹細胞も血液中を循環していると考えられています。しばらく前、J. Tillyのグループは、メスマウスの血液循環中には、卵子をつくる生殖細胞の幹細胞が循環しており、それを分離して移植すると、卵巣にホーミングするとScience誌に報告しました。これに対し別のグループは二匹のマウスを縫い合わせて循環系を共有させる実験によって、生殖幹細胞は血液循環を通じては別のマウスの卵巣にホーミングするという証拠は得られなかったという反証論文をCellに発表しています。実は、microchimerismの話を読んで、私が最初にふと思ったのは隔世遺伝のことなのでした。マウスではキメラを作ってやると、移植した胎性幹細胞(ES)は生殖系にも寄与することが出来ます。通常マウスのES細胞はオスの細胞なので、キメラマウスの中ではオスの生殖細胞にしか分化できませんが、まれにY染色体を落としたXOのESならメスのキメラの卵子に分化することができることが示されています。もし、人間でも、循環血中に存在するかもしれない母親の生殖幹細胞(XX)が胎盤を通じて娘の胎児(XX)の体内に入り、卵巣にホーミングするようなことがあれば、理論的には、母親由来の卵子(X)が娘の卵巣内で作られる可能性も考えられます。実際にはmicrochimerismというぐらいですから、母親由来の細胞の割合は娘由来の細胞に比べて極端に少ないので、娘が母親由来の卵子を通じて、母親の子供を生むことはないでしょうが、SF的には面白い話です。もしなんらかの理由で、娘の細胞に生殖不能となる遺伝的異常が入った場合、母親由来の卵子細胞が生殖系で優位となって、生殖に寄与することはひょっとしたらあるかもしれません。母親の遺伝情報が直接、孫に受け継がれて、隔世遺伝がおこるようなことがおこるようなことが実際にあれば、興味深い話です。
 隔世遺伝のことは別にしても、このmicrochimerismが多くの膠原病や自己免疫性疾患と考えられている病態のメカニズムであるとしたら、「自己免疫」という概念そのものがひっくり返る可能性があります。
私たちが当たり前と思っている個のクローン性、「自己」という概念も深いところではゆらいでいて、常識というものは以外に危うい基盤に立っているのだなあと思ったのでした。
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フォルクマンの戦い、終わる

2008-01-18 | Weblog
Judah Folkmanが亡くなったとのニュースを聞きました。講演会場へ向かう飛行場での急死だったそうです。映画のネタになるような研究人生でした。「血管が腫瘍の増殖を促進する」、「腫瘍細胞が血管の新生を制御する」という今では常識となっているアイデアも最初は誰も信じず、研究費も貰えず、不遇をかこった時期がありました。読んではいませんが何年か前にの本「Dr. Folkman’s War」や、ジムワトソンが彼を「がんを根絶できる男」と持ち上げたために、彼は一般の人の間でも随分有名になりました。彼らの発見した癌細胞が産出する血管新生を抑制するアンギオスタチン、エンドスタチンは癌のマウスモデルでは著効を示し、血管新生抑制療法への期待をかき立てました。血管新生阻害薬としては、ヒト型VEGF抗体が2004年に市場に出ましたが、残念なことに癌に対してはそれほど劇的な効果をあげることはできていません。この薬は血管新生を起こしてくる滲出型加齢性黄斑変性症の治療ではまずまず有効なようです。マウスとヒトではいろいろ違うのでしょう。
 逆境の中、癌細胞が血管新生を制御するという仮説の証明に地道な努力を続けたフォルクマンには、周囲の無理解の中でウサギの耳にコールタールを塗り続けて癌が外的刺激で誘発できることを示した山極勝太郎と重なる部分があります。フォルクマンの好きな冗談として、「成功すれば忍耐強いと呼ばれるが、失敗すれば頑固ものと呼ばれる」という言葉が紹介されていましたが、現在の結果主義の社会をよく表した言葉だと思います。フォルクマン自身、癌での血管の重要性についての成果を皆が認めるまでは変人扱いだったのに、人々の方の意識が変わった瞬間から癌研究者のヒーローとなったわけですから、実感のこもった言葉でしょう。癌研究者としては、血管抑制療法が癌治療に大きく寄与するところを見たかっただろうと心のこりを察します。あいにく、現在までの状況からは血管抑制療法がヒトの癌治療の切り札になるという強い証拠が得られていませんから、将来、彼の夢がかなうことがあるのかどうかわかりません。いずれにせよ、一研究者として癌という医学上の大問題に取り組み、その重要な病理の一部を明らかにすることができ、現役のまま亡くなったのですから、医学研究者としては幸せな方だったのだろうと想像します。
 これまで聞こうと思えば、何度もフォルクマンの講演を聞く機会はあったのですが、ついにその機会が永久に無くなってしまいました。
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末法の世に仏陀の悟りを思う

2008-01-15 | Weblog
父が亡くなってから二十数年になります。今年、二十五回忌の法要を行う予定を母は立てています。父方は田舎の出身でしたので、真言宗でした。お坊さんが必要なのは誰かが死んだときだけになって久しく、宗教としてははすっかり形骸化してしまってはいるのですが、昔ながらの檀家制が残っていて、普段の不信心ゆえ尚更なのでしょう法要(に限らず、様々な儀式系)はしっかりやるという伝統というかしきたりの濃い土地がらなのでした。父が死んだ時、祖父母は健在でしたので死んだ後の供養のためご詠歌や般若心経を毎日読んでいたのを覚えています。真言宗は仏教とはいえ、呪術的な部分を多く含む密教がその中心となって成立しています。いわばモグリで中国に渡った空海は、当時の中国の正系の仏教ではなく、種々の土着信仰などがインド仏教に入り交じってできた密教を持ち帰ったのでした。この宗教は基本的には何らかの物質的な利益を得ることを主な目的の一つにしています。陀羅尼とか真言とかの意味不明のまじないを唱えたり、灌頂するとか護摩壇を焚くとか妙な儀式を行うと、「ご利益」がある、このわかりやすさが当時の田舎の貧しい農民に受けたのでしょう。ご利益を求める呪術としての宗教は無論、仏陀の説いた仏法とは相容れないものです。また檀家制という制度が日本の仏教の形骸化を促進し、ますますお経の文句は呪文化し、一般人は仏教から離れていったのだと思います。そうは言いつつも、形骸化したがために逆に仏典や仏教文学が余り変わらずに受け継がれてきた面もあり、皮肉なことですが、現在、私たちが原初の仏教の様子を垣間見ることができるのも仏教の形式化のおかげなのかもしれません。
 さて、とても短いお経である般若心経は、仏陀がその弟子の舎利仏に仏法を説くという形になっていますが、一番最後におまじないの文句が挿入されています。おまじないなので、もとのインドでの言葉の音に近く発音する必要があるので、音に従って当てられた漢字には余り意味はなく、ますます意味不明になっています。「ナントカ、ナントカ、ソワカ」というのが陀羅尼(呪文)で、「テクマクマヤコン」みたいなものです。父が亡くなった時には、私も般若心経の小冊子を見ながら、意味もわからずとりあえずフリガナを読んでいました。何となく遺族が集まって意味不明の音を出して儀式ぽいことをする形式的なことが大事なのだろうと思っていましたが、今となってみれば、よく理解もできないお経を異国の言葉で読む事に意味があるはずもありません。これでは大学一年生の時のドイツ語と同じです。むしろ、意味もわからないのに、お経を読んだことに満足して終わってしまうのは読まないより悪いと思います。(もちろん、お経を表面的に理解することは、臨済が「経典を読むのも業つくり。仏とは、なにごとない人のこと(無事是貴人)」というようにもっと良くないことです。)遺族も死んだ人もわけもわからず、何となくアリガタイというのでは、病院に行って治療を受けずに帰ってくるのと大差ないと思います。昔は、偉い先生に脈をとってもらっただけで元気になる人とかいましたが、もうそういうような世の中ではなく、医療は単なるサービス業の一つです。お坊さんのお経も同じことでしょう。形式ではなくて中身が問われるべきであろうと私は思います。般若心経を読むということは、仏陀の話を聞き、彼が体験した悟りに近づくための一法であると思います。話は理解できなければ意味ありません。その般若心経では、「空」つまりシューニヤター (sunyata) を中心に話がなされますが、鈴木大拙が言うように、空とは一とニが別れる前のむしろ絶対的存在ゆえの空の意であって、単にあるものに対しての否定ではなく、絶対肯定の「如」、タタター (tathata) と同意であることを感じとらねばなりません。お経の中に、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色とありますが、私はこれをこう拡大解釈しています。この世界全てのものは絶対的肯定としての「空」であるということを体で知ること、それが最高の知恵、プラジュニャー(般若)であると説くのが般若心経だと思います。
こうしたことは頭では、なんとなくわかるのですが、ネーランジャラー河のほとりの菩提樹の下で仏陀が到達した本来の悟りとは、体感されるべきことであって、頭で理解するということとは全く次元の違う話のはずです。その仏陀の悟りの境地とはいかなるものか、今の私には想像するより他ありません。仏陀の悟りの時の言葉として、「われは一切勝者なり、、、この世界にわれに比すべき者はない。われこそはこの世の聖者、最高の師、われひとり完全の悟りを得て、静けき平和、涅槃の安らぎはわがものである」との偈が残されています。この一切勝者であるという表現こそが、「色」である自分自身が絶対的存在としての「空」、いわば宇宙そのものに他ならないという実感なのでしょう。物質からなる 相対的な世界が始まる前、自分が宇宙から別れる前の絶対を体得したから絶対的な勝者(一切勝者)なのだろうと思います。禅問答にはよく、スメール山を芥子粒に閉じ込めたり、川の水を一気に飲み干したり、千里を一気に飛び越えたりするようなことが書いてあります。私はこれはずっとものの喩え、方便だと思っていました。しかし、般若によって一切が空なることを体験できるものにとっては、こうしたことは少なくとも現実におこっていると信じられるような真実の体験なのであろうと最近は考えるようになりました。私はそんな境地に達していないので、そういった経験をしたことはありませんが、おそらく悟りを得た人は、こういう常識的にはありえないと思えるような事も文字通りに体験できるものなのかもしれません。以前、触れたエリザベスキューブラーロスが行ったという宇宙人との対話というのも、ひょっとしたらこういう悟りの空間で行われたのかも知れません。
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進化が先か、調理が先か

2008-01-11 | Weblog
一般人向けの科学雑誌、Scientitic Americanに人類が進化した本当の原因は、調理の発見にあるのではないかとの仮説が紹介されていました。この仮説はサルの研究者であるRichard Wranghamのアイデアで、自分でサルの食べ物を食べていて考えついたそうです。サルが普段食べている生の木の実や果物はおいしくないそうです。繊維が多く、苦みが強く、甘みに乏しいそうです。サルと比べると人間は顎が弱く、胃腸も体に比較して小さいので、もし人間がサルと同じものを食べないといけないとすると、食物から十分なカロリーを得ることができず、そう長くは生存できないであろうと結論しています。また現在、人類で調理されていない食物のみを食べるような種族はなく、このことも人間の生存には食物の調理が必須であることを示していると考えられます。人類の祖先のHomo erectusが、調理されていない生の食物のみを食べていたと仮定して計算した場合、一日に 植物性の食物なら約6kg、植物性食物と生肉であれば約3kgを取らないと生存が維持できないと考えられるそうです。カロリーの高い肉であっても生であると消化吸収が悪く、サルなみの咀嚼力をもってしても、人間の大きな体と脳を維持するためには、一日に5-6 時間はずっと肉を噛み続けなければならないそうです。とすると、H. erectusは猟を行ったり、眠ったりしている時間以外の殆どを食べ物を食べるという行為に当てなければならなくなってしまうようです。加熱によって食物はより消化吸収のよい形に変化させることができ、実際、食物摂取後の腸管反応を調べるのによく使われるパイソンを使った実験では、生の食物に比べて、加熱した食物はより早く消化吸収されることが示されたそうです。加熱調理という技術がなければ、人間はこれだけのサイズの体と脳を維持することが困難であるのは間違いなさそうです。残念ながら、H. erectusが実際に加熱調理を行っていたという確固とした証拠に乏しいらしく、この「調理が進化の一端を担っている」という仮説は強い直接的な根拠に欠けていて、進化人類学の専門家の支持が余り得られていないようです。しかし、状況証拠から、少なくとも加熱調理がなければ現在の人間のような脳と体を発達させることは困難であったと考えられ、加熱調理は、進化の原動力ではなくとも、進化に必要なものではあった可能性があります。
 私は、十年程前、半年間だけベジタリアンだったことがあります。とくに理由はなかったのですが、肉類を食べないと体が軽く感じることが分かってしばらく、肉類を食べなかったのでした。しばらくして分かったことは、植物性の食餌ばかりだと、体が軽くなるのはよいのですが、頭も軽くなってしまうということでした。やはり、脳はかなりのカロリーやアミノ酸を必要とするようで、ベジタリアンだったころは難しいことを考える能力が明らかに落ちていたように思います。ベジタリアンを止めたのも別に深い理由はなく、ちょうどそのころアメリカに1週間出張する必要があって、その間ベジタリアンメニューのあるレストランが限られていたというだけの理由でした。最近はいろいろ変わった食事のポリシーを持っている人がいるようで、加熱調理した食品を食べないというダイエットを実践している人(女、ファッションデザイナー)のお父さんと話をする機会がありました。どういう基準なのか、コーヒーとかお茶とかを飲むのはよいそうです。毎日寿司でも食べているのかと聞くと、米は調理してあるのでだめ、刺身だったらよいらしいのですが、生ざかなは嫌いとのこと。おそらく、毎日サラダばかりという生活なのでしょう。どういう理由で加熱調理したものを食べないのかという肝心のことを聞き忘れましたが、栄養失調になる危険をおかしてまですべきことなのだろうかと余計な心配をしてしまいました。コアラやパンダは信じられないほどの量のユーカリや竹の葉を食べますが、おそらく重さ当たりの栄養価は非常に低いのでしょう。そう言えば、以前、ビーガンだった若いバングラディシュ出身の実験助手の女の子がいましたが、小柄で痩せていた上、体温がどうも低いようで真夏でもセーターを着ていて、作業スピードは普通の人の2倍遅く、朝もふつうに起きれないという有様でした。栄養失調だったのかも知れません。最近では、ビーガンの親が新生児に親が母乳やフォーミュラを含む動物性蛋白を一切与えなかったために、子供が栄養失調で死亡し、刑事事件になった例もあります。そう考えると成長期の子供が栄養価の低い野菜類を嫌うのも生物学的に意味がある事かも知れません。逆に現代、太り過ぎ、カロリーの取り過ぎという問題は、プロセスされて消化吸収が非常に良くなっているインスタント食品やお菓子や砂糖水などを必要以上に摂取してしまうことに原因があるように思います。そう言う意味では、消化の悪い生野菜などをわざわざ食事でとることは、ビタミンやミネラルを野菜から摂取するためというよりは、むしろ「栄養を取りすぎない」ようにするために有用なのかも知れません。(穀物類、野菜類を一切食べない知り合いのボディービルダーの話によると、ビタミンやミネラルは肉食のみでも不足することはないそうです)
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米大統領選キックオフ

2008-01-08 | Weblog
いよいよアメリカ大統領選が始まりました。アイオワ地方議会では、民主党はオバマ、共和党はハカビーが制しました。マイクハカビーは、つい最近になるまで、私は名前も知りませんでしたが、どうも極右の保守派のようで、保守的な中西部のアイオワという土地の性格もあったのか、これまで本命と考えられていたジュリアーニや多額の組織的なキャンペーンをはったミットロムニーに9%以上の差をつけてのトップでした。ジュリアーニの失速は見ていて気の毒なぐらいです。9-11のとき、ニューヨーク市長としての活躍で確立したカリスマ性というのが見る影もありません。アリゾナのジョンマッケインは共和党の中では、私は唯一まともな人に見えるのですが、一般大衆のウケがわるく、アイオワでは苦戦しました。次のニューハンプシャーでは、東海岸という多少リベラルで知的な土地柄もあり優勢と思われますが、ここでボストンから出ているロムニーが資金力にものをいわせて、マッケーンをターゲットに絞って必死の攻勢をかけてくるでしょうから、どうなるかというところです。ロムニーがしゃべっているところを聞くたびに、私にはどうも信用できない人という印象が湧いてくるのです。金持ちやモルモンに対する偏見があるのかも知れません。マッケーンと比べるとなんとなく「小賢しい」というように感じさせるところがあります。どうもこの「偽善者」くさいところは、他の共和党候補にも嫌われているようで、先週末の討論会ではロムニーは他候補から総攻撃を喰らってタジタジでした。翻って、民主党でのオバマの勝利というのも、私には解せません。オバマがカリスマ性があり感動させる演説をすると世間では言っていますが、私はそんな風に感じたことは私はありません。確かに扇動的な演説をするかも知れませんが、昔の学生運動のアジ演説と対して違うように思えません。本当にしゃべっている理想を実現化していけるのか、中身があいまいです。先週末のニューハンプシャーでの討論会では、民主党に関しては、ヒラリークリントンもぱっとしませんでした。最初の方のオバマに対する攻撃も逆効果でした。しゃべりも説得性に欠けます。ジョンエドワーズは格差社会への対策を以前からの重点事項として打ち出していて、その点は評価しているのですが、彼の問題は、私の意見では、ちょっと童顔であることと南部なまりのしゃべりではないかと思っています。奥さんも小太りでいけません。結局一般人は、見た目を非常に重視しますから、エドワーズがもう少し背が高くてハンサムで奥さんのスタイルが良く、せめてアルゴア程度の軽い南部訛りでしゃべれば、そうとう違ってくるのではと思います。しゃべっている内容ですが、やはり、理想をしゃべるのは良いのですが、具体的にどうしていくか、その勝算やバックアッププラン、そういうものを考え抜いた上でしゃべっているように聞こえません。この民主党候補のトップ3の誰もが、「この人ならやってくれる」という信頼感に欠けるのです。むしろ、私はジョンマッケーンに民主党から出て欲しいと思うぐらいです。この民主党の討論会には、もう一人の候補者、ニューメキシコの州知事、ビルリチャードソンが参加していたのですが、私は彼が一番、民主党ではもっとも思慮深い意見を述べているように思いました。残念ながら支持者層が残り3人とは違って薄いので、彼が最終的に民主党候補となることはないと思いますが。
 研究者からすると、民主党が最終的には勝ってくれないと困るのです。研究は投資ですから、投資して大きくもうけようという前向きに考えてくれる人が政権を担ってくれないと現在のふくれあがった研究現場は維持できません。投資はリスクが大きいから縮小して足下を固めようという方針では、研究者とかは真っ先に必要のない人と見なされてしまいます。現在の状況からすると、民主党は最終的に、オバマ、クリントン、エドワーズのうちの誰か、共和党からはマッケーン、ハカビー、ロムニー、ジュリアーニ、トンプソンのいずれかが出て一騎打ちになると思われます。最終的に民主党の弱点は、オバマの場合は半分アフリカ人ですから、保守派白人に対するアピールが弱いこと、またクリントンの場合も女性ですから同様の問題があることが考えられます。西海岸と東海岸を民主党が押さえ、その間を共和党が押さえるといういつもの展開となったときに、民主党と共和党の力関係が拮抗している州で、45%を占める浮動票が民主党候補の外見が嫌いだからという理由で共和党なりに票が流れてしまうとマズいです。その点共和党は全員白人男性ですから、だれが最終候補に立っても外見で損をすることはないわけです。共和党では、今回のニューハンプシャーでロムニーが勝てなければ(討論会で随分痛めつけられたので勝つのは難しそうです)、おそらく彼はここまででしょう。となると、マッケーン、ハカビーの線が強いと思います。マッケーンはともかく、ハカビーはガチガチの保守派のようですから、この人が大統領にでもなれば、アメリカの研究界はブッシュに続いての痛手を被ることになるような気がします。現時点までを見ていると、民主党はオバマ、共和党はマッケーンを最終的に立ててくるような気がします。そうなると、最終投票は2000年なみのデッドヒートとなるのではないかと思います。オバマがアジ演説であと数ヶ月、国民を乗せ続けることができたら民主党、できなかったら共和党政権ということになりそうです。いずれにせよ、もうしばらくは、大統領選レース楽しめそうです。
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風邪を治す

2008-01-04 | Weblog
この忙しい時期に風邪を引いてしまったようです。全身の悪寒と吐き気と腰痛、軽い頭痛が、とても気持ち悪いです。無理のできた若い時は、カフェインと鎮痛剤で、ごまかせましたが、最近は無理をすると3倍返しになるのがわかっているので、体には逆らわないようにしています。いつもローキーで長距離型のライフスタイルでやっているのですが、今日は、いつも以上にテンションを落とし、2倍以上ゆっくり歩き、顔の筋肉は全弛緩状態で目と口を半開きににして、静かに呼吸しています。よく手紙などで、お体に気をつけて無理せぬように、などと書きますが、若い時はただのClicheと思っていましたが、最近はなぜそんなことを書くのか実感することが多くなりました。
風邪を引いたから風邪を治す薬を下さいという患者さんが昔はよくおられました。風邪を治す薬というものはなくて、症状を抑えるだけですから、休養をよくとってください、とお医者さんはいうわけです。患者さんにとっては、風邪の症状がなくなることは即ち治ることなので、どうも風邪の薬のくせに風邪を治すことができないということを理解するのに抵抗があるようです。うちの奥さんも、何度言ってもよくわからないようで、風邪を引くと、早く治るように風邪薬を飲んでる、とか言います。日本では風邪といえば卵酒と言いますが、私は試したことはありません。中国ではコーラを暖めてショウガが加えて飲むらしいです。卵酒も気持ち悪そうですが、ショウガ入りホットコーラというのも余計吐き気が悪化しそうな気がします。ホットジンジャーエールだとだめなのでしょうか?試しに気の抜けたジンジャーエールを暖めてみると、生姜湯みたいな味になりました。悪くないです。吐き気が多少するので、胃薬と睡眠薬を飲んで寝ます。吐き気がするときには持続性の制酸剤を飲んでおくと、吐いた時に助かります。吐くと胃酸で喉がやられますが、H2ブロッカーなどで酸をあらかじめ抑えておくと喉は少なくとも楽ですし、歯にもよいでしょう。睡眠薬は嘔吐中枢を抑制しますから、吐き気があるときは、私にとっては第一選択薬です。昔は風邪を引いたら、風邪薬で症状を抑えていましたが、最近は無理せず寝てやり過ごすに限ります。個人的には風邪には胃薬と睡眠薬がもっとも有効だと思うのですが、これらは風邪には適応は取れないのでしょうか。鼻風邪の場合、亜鉛剤のZicamを以前に試した事があります。亜鉛はウイルスとウイルスレセプターとの結合を阻害するので、これを使うと本当に風邪は早く治ります。ただ亜鉛をグリセリン状の液に混ぜたものを一日数回、鼻からジュルジュルと流し入れるので、気持ち悪い事この上なしです。また亜鉛の味というのが余り愉快なものではないので、自然使わなくなりました。中国では風邪を、冷えの症状を主とする風邪(寒)、炎症に関連する風邪(熱)、湿気に関連しておこる胃腸症状を主にする風邪(湿)に分類し、各々違った薬や食べ物を使うらしいです。例えば、風寒には、ショウガ、ニンニク、みかんの皮、風熱には、大根、葛湯、すいかずら、風湿にはニガウリやスイカなどという具合です。病気を症状に焦点を当てて治療を行う考え方ならではだと思います。病気を治すには病気の原因を取り除かねばならないという西洋医学の考えに慣れた現代人にとってはちょっと違和感を感じますが、目に見えるものだけ(症状)にフォーカスして見えないものは考えないという方法は、実用主義の中国人らしい考え方かも知れません。よく「病気は治ったが患者は死んだ」ということがしばしば起こる現代の医療を考えると、究極の対症療法とも言える漢方の考えはむしろ合理的に思えてきます。遅かれ早かれいつか人は皆死ぬのですから。
中国でいつからコーラを使うようになったのか知りませんが、きっと葛根湯よりもよく効くのでしょう。その割には、日本でホットコーラが余りポピュラーにならないのはなぜでしょうか。日本人の美意識とかでしょうか。
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新年に際して

2008-01-01 | Weblog
昔、日本のジャズのグループで、ちょっとマイナーでしたが、「生活向上委員会大管弦楽団」(略して、生向委)というグループがありました。アルトサックスの梅津和時、バリトンサックスの片山広明がトップのホーンセクションの厚いグループで、「アケタケタ行進曲」、三三七拍子をリフに使った7拍子の曲「変態七拍子」などの名曲(?)は私も高校生の頃、愛聴していました。私の持っていたレコードでは、スタンダード曲の他に「安田節」などもやっていました。 和音進行を重視しないモードやフリージャズでは、日本の昔の音楽もうまく乗ります。また、三三七拍子をリフに使うというアイデアはなかなか面白いというか、当時の音楽ならではのノリでした。実際に応援団などが拍子を取る時の三三七拍子では、三、三、七の後に合いの手が入りますから、実際は四、四、八の4ビートの4小節です。この「変態七拍子」では、確か、最初の三の後に半休符を一ついれてあるだけなので、四 + 三、七、と7拍子、2小節のリズムで演奏されています。7拍子の曲でリズムを取るのはやはり難しいです。私は他に7拍子の曲というのを知りませんが、5拍子の曲なら、Dave BrubeckのTake Fiveという名曲が思い浮かびます。5拍子なら基本的には3拍子と2拍子の複合リズムなので、そう違和感を感じずに済みますが、この曲の7拍子の場合は、二小節目の7拍を分解しにくいので、真面目に7拍を意識して数えない限り、リズムから外れてしまいます。その、ちょっと大きな声では言いにくい「 生向委」は2枚のレコードを出した後、解散してしまったのですが、バンドメンバーのその後の活動などをみてみても、このバンドの持っていたエネルギーというのはユニークなものがあると思います。おそらく皆が音大を出たぐらいの年令で若かったというのもあるでしょう。音大を出て、ジャズの演奏をやって喰っていくというのは、大学院を出て基礎研究の研究者で喰っていくというのと多少似ています。もちろん、音楽で喰っていく方がはるかに困難ではあろうと思います。生向委も今では、その中の多くのメンバーがメジャーになって、音楽で成功していますが、当時は喰っていくことが大変だったらしいことがそのバンド名や曲から伺い知れます。「青年の主張」という曲(だったと思いますが)では、バンドメンバー全員で「金くれー」と合唱していたように覚えています。
ところで、正月といえば、新年の決意というかNew yearユs resolution、とりあえず毎年私もやりますが、ここ数年の私の場合は、「生活向上!」です。自分自身の生活そのものにはそう不満があるわけではありませんが、家族や子供や破滅的な日本の将来などを考えると、将来に備えて多少余裕のある人並みの生活をしたいとは思っています。生憎、研究者の場合、余程のスーパースターにでもならない限り、多少そこそこの論文を書いて昇進しても、生活レベルは余り向上しません。ずっと自転車操業です。潰しもきかないので、典型的なハイリスク、ローリターンの職業といってもよいでしょう。この世界にはまり込んでから、現代の日本やアメリカで「ささやかな幸せ」と皆が思っている「幸せ」というものは、全力をかけて求めないと手に入らないものだということをよく思い知らされました。私は、偉くなりたいとか大金持ちになりたいとか思った事は、全くありません。ずっと人並みぐらいの生活ができて、自分の好きなことをする時間が持てたらそれで良いと思っていました。その自分では「ささやか」と思っていた願いというものは、実はとんでもなく贅沢な望みなのだということをこの何年かの間に知ったのでした。逆に、もしその「ささやかな幸せ」というものを手にできるのなら、ささやかでない幸せにもそれほど遠くないのだと思います。競争原理が、人がぬるま湯につかったり、モラトリアムであったりすることを厳しくとがめだしたのかも知れません。入るなら熱湯、それが嫌なら湯に入ることが許されない社会なのかもしれません。若い時はこの競争社会で少数の勝ったクラスと大多数の負けたクラスに分けてしまおうとするやり方が大嫌いでした。今も好きではありませんが、勝ち負けに対してのストレスは余り感じなくなりました。社会は競争に勝ちつづけていかねば生き残っていけない所で、競争から離れて生きていくことを望むのは甘過ぎるのだと責められても、余り気分が滅入ることもなくなりました。「社会」や「世間」など、実際には存在しないということがわかったせいかもしれません。あるいは自分の人生半分終わったので、多少開き直ってきただけなのかも知れません。確かにこの世の中は「勝ち負け」で全て割り切ろうとする風潮がありますし、若い頃は嫌でも「勝ち負け」のレースに参加せざるを得ないのかと思って随分落ち込んだりしたこともあります。最近は、坂田明の名言の如く、「勝負は勝ち負けではない」と心から思えるようになりました。一回限りの人生を、勝ってうれしい、負けて悲しい、と一喜一憂を繰り返して終わってしまうのは馬鹿らしいことです。
というわけで、今年も新年の目標は「生活向上」ですが、目標があるうちが華でしょうから、大飛躍ではなく、去年よりもちょっとだけ向上することを目標にしたいと思います。
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