百醜千拙草

何とかやっています

日本経済斜陽のわけ、米大統領選の山場

2008-08-29 | Weblog
日経バイオの無料オンライン紙、BTJジャーナルの8月号に東京女子医を退官しバイオベンチャーに転換した元大学教授のインタビューがでていました。統計、遺伝情報をつかったサービスを提供するようです。その中で、製造業よりもサービス業によって近年の世界経済が牽引されていることが強調してあって、日本と他国との比較のスライドがあげてありました。それによると、一人当たりのGDPのランキングを見てみますと、2000年にはアメリカを抜いて3位であった日本は年々、単調減少して順位を落とし続け、2007年には世界で22位となっています。一方、米英仏独などの国々は、一人あたりのGDPランクはこの十年殆どかわらず、安定した位置をしめています。つまり先進諸国の中で、日本だけ国民数当たりの経済力が落ちて生きているということです。また国際競争力ランキングというデータでは、1992年、日本は欧米諸国を抑えての一位でしたが、本年度では欧米諸国はもとより、シンガポール、香港、台湾、中国、マレーシアなどのアジア諸国の後塵を拝する結果となっています。このランキングがどのようなデータに基づいて算出されているのか不明ではありますが、シンガポールの台頭などは、確かに製造業ではなくサービス業が今日の経済を引っ張っているのだと思わせます。日本の世界における地位がこれだけ不安定であるというのは、熱しやすく冷めやすい日本人気質と無関係ではないのではないでしょうか。日本の政治には長期的視野に立つという観念が欠落しています。数十年後にどのような国にしたいかという目標を決めて、計画的に進むのではなく、国民の自由意志のまま国全体があっちへ向いたり、こっちへ向いたりします。バブルのつけで世界最大の借金国となり、日本の経済力がますます低下しているという今こそ、長期的視野に立ち、戦略的に日本の国の運営を考え、実行していくことが不可欠です。日本人の好むやりかたというのは、スポ根漫画に象徴されるように、根性とハードワークでまっしぐらに物事をやり遂げようとするやり方ではないかと思います。何事かをやろうとしてできないのは、根性とか熱意とかが足りないのだ、とさえ言われたりします。戦略というものがないのです。戦略がないというか、戦略など邪道であり、まっしぐらに突きすすんで本懐を遂げるのが尊いというような価値観さえあるように思えます。やる気とかハードワークが大切なのは言うまでもありません。しかし、根性があってハードワークをしても、うまくいかないことはいっぱいあります。ですから、そんな時にどう耐えて生き残るかという「プランB」を真剣に考えておかなければなりません。それがないから、うまく行かなくなったときに玉砕するしかなくなってしまう、それが日本のやりかたの特徴ではないでしょうか。日本の経済が安定しないというのは、政府が、長期的視点に立って戦略を練り、複数のシナリオに沿ってそれぞれプランBを真剣に考えるという作業を怠っていたからではないでしょうか。とりわけ、COEとかWorld Premierとかのハコモノを作ってそこにお金を注ぎ込むような日本の科学政策を見ていると、これらの事業がこけた場合に、どのような代替の計画を提示できるのかわかりません。すでにCOEやその他の科学研究支援プログラムにはかなり強い批判が出ていますが、その批判に対して全く説得力のある解答が政策側からありません。こけたらこけたでしょうがないではないか、そのときになってから考えようという感じなのでしょう。だから一旦、日本の経済が下り坂となった場合に、何の歯止めもなく、ずるずると行ってしまうのではないかと思います。

ところで、本日、オバマが民主党大統領候補に正式に指名されます。ヒラリーとビルクリントンは、なかなかよい演説を行いました。特にヒラリークリントンが、予備選で支持してくれた代議士をオバマに託すという宣言を、支持者の中で行ったことは、民主党の団結を強めるという今大統領選でのクリントン最後の使命を遂行する上で、大変、効果的であったと思います。満を持して行われる今日のオバマの演説の出来は非常に重要です。他の民主党員やクリントンが民主党の団結を訴えて、行ってきたお膳立てを、最高の状態で締めくくらねばなりません。ヒラリークリントン支持者を本当に引きつけられるかどうかがかかっています。この山場を越え、民主党の団結が達成できたなら、本選に不安はありません。一方、マッケーンはまもなく副大統領候補を発表し、そして来週のミネアポリス/セントポールでの共和党大会に望むことになります。ブッシュのために反共和党気分が高まる上、マッケーンは一期だけの高齢の候補であり、しかも副大統領候補に魅力的な人材がないという悪条件がそろっていますから、共和党は厳しいでしょう。副大統領候補として、予備選で散々けなし合ったミットロムニーや、前々回、民主党の副大統領候補であったジョー リーバマンらの名が挙っています。この二人は知名度やルックスなどの点ではよいのですが、ロムニーはがちがちの保守派、リーバマンは元民主党の無党派、しかも高齢、と問題があります。ミネソタ知事の名前も挙っているようで、彼になりそうな気もしますが、知名度の点でどうかなと思います。
とにかく、成り行きを見守りたいと思います。
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クリントン支持者の感情の問題

2008-08-26 | Weblog
時期アメリカ大統領選に向けて、今日から民主党は全国大会をデンバーで開きます。この会において、オバマが正式に民主党候補として選ばれることになります。これに先立って、先週末、オバマは副大統領候補として、ジョー バイデンを選びました。オバマが大統領となった場合、オバマの外交経験の乏しさとワーキングクラスに対するアピールの乏しさを補うという意味で、理屈で考えたなら理想的な副大統領です。しかし、私はこの決定を聞いたとき、ちょっと嫌な感じがしました。一つはバイデン自身が今回を含め、二度大統領選に出ており、いずれも早期に離脱していること、すなわち、人気がないということ、と彼のストレートトークが過去にも問題をおこしたことがあるということです。私は正直はなによりの美徳であると思っていますから、個人的には正直に忌憚のない意見を述べる人が好きです。しかし、一般人は「口の悪い」人を嫌う傾向があります。前回の大統領選でジョンケリーが負けたのは、ケリーが「口が悪かった」せいではないかと、私は考えています。彼のルックスも(ブッシュも冴えませんが)禍いしました。国民は口が悪くて容姿のパッとしない人は嫌いなのです。その点、オバマは若く、演説がうまく、一般人に受ける要素に満ちています。バイデンはその点では及びませんが、オバマの弱点を補う経験がある、そう考えてオバマはバイデンを選んだのでしょう。理屈では、バイデンは理想的な副大統領候補です。もしオバマが大統領となれば、よい人事であろうと思います。しかし、オバマはまだ大統領ではありません。大統領になるためには、民主党票をしっかり押さえることに加え、浮動票の共和党への流れを阻止しなければなりません。オバマ-バイデンというカードでそれができるのか、私は大変不安です。なにより、クリントンのサポーターのオバマに対する遺恨は解消していません。クリントンが予備選で粘りすぎたために、クリントン自身が今になって、いくら熱心にオバマ支持を説いても、クリントン支持者を急にオバマ支持者に変えるのは容易ではありません。クリントン支持者はオバマを支持するぐらいなら、民主党を支持しないと考えている人も少なくないのです。オバマは理屈でバイデンを選びましたが、その選択はクリントン支持者の感情を大きく逆撫でしたのではないでしょうか。「人間は感情の動物で、理屈では動かない」というのは、私が研修医の時の指導医だったS先生がよく言っていた言葉です。オバマは自分が大統領になったときのことを考えてバイデンを選んだのであろうと思いますが、この選択によって、大統領選に勝つという最初の使命が困難なものになってしまったのではないかと危惧されます。この選択によって、クリントンの立つ瀬が無くなってしまいました。クリントン自身が仮にふっ切れても、クリントン支持者の恨みは残ります。人間の感情の中で、もっとも長く残るのが「恨み」の気持ちです。喜びも悲しみも一時の感情ですが、恨みは一生です。オバマは、このクリントン支持者の感情の問題を一体、どのように見積もったのでしょうか。もし、理屈さえが正しければ、民衆は従うとでも思ったのなら、これは大きな間違いでしょう。あるいは、共和党にうんざりしている国民だから、民主党が負けるはずがない、大統領選に勝つ事よりも、大統領になった後のことを考えようとでも思ったのでしょうか。そうならば、大統領選を甘くみすぎていると思います。選挙に勝つことをまず考えたなら、クリントンを指名すべきであったと思います。実際の政治は、大統領と副大統領の二人でするわけではないのですから、これらの人々はいわば政府の「顔」にしか過ぎないわけで、(ブッシュを引き合いに出すまでもなく)大統領や副大統領が政治的に有能である必要はないと思います。
 この党大会で、民主党は党の結束をアピールすることになりますが、オバマとクリントンは党員および国民の感情に訴えるスピーチをしなければなりません。クリントン支持者の反感を買ったバイデン起用のニュースがつい先日ということで、民主党の結束がうまく達成できるとはちょっと思えません。今回のオバマの選択が民主党そのものの危機とならねばよいのですが、ちょっと嫌な予感がします。
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研究格差と研究者の才能

2008-08-22 | 研究
ハイインパクト雑誌のコンスタントに論文を出している研究室と、そうでない研究室という格差が歴然としてあります。私のいる講座は、ちょうどその間ぐらいのレベルかと思います。現在の医学の基礎研究において、どうやれば、ハイインパクト雑誌に載る可能性が高まるかというのは、比較的はっきりしてます。これはマウスの遺伝子ノックアウトの技術が開発されて、マウスでの知見がゴールドスタンダードとなったという認識が広がったため、雑誌のエディター、レビューアが、マウスのデータがなによりも重要であるという価値基準で論文を見るようになったからです。私の分野である哺乳類骨格系は、動物の中にしか存在しませんから、培養細胞での知見は常に本当に生理的な環境で意味があるのかという疑問は昔から常にありました。容易にマウスでの遺伝子操作ができなかった時代はともかく、現在では、この分野でハイインパクトの論文を出すには、マウスなしではまず無理です。マウスが他のゼブラフィッシュやチキンやラットやその他の動物に比べて、如何に優れた実験動物であるかは、あらためて述べるまでもありません。哺乳類の実験生物学をやっているものにとっては、マウスは神様が実験用に作ってくれたとしか思えないほど、素晴らしいモデル動物だと思います。ですので、マウスの系が動いていない医科学の研究室は、ハイインパクト雑誌に論文を載せるのはそれだけで困難になります。マウスはお金さえだせば、技術が汎用化していますから、誰でもできます。(そのお金が問題ではありますが)一方、限られた所にしかない貴重なリソースを利用することで、ハイインパクトな論文を出しているところもあります。この間、エレベータで一緒になった知り合いと、Nature系の雑誌に出た彼の論文についての話になりました。彼はヒトの遺伝学をやっていて、いわゆるHapMapで病気と関連する遺伝子変異や遺伝子多型を研究しているのですが、彼の研究は、数多くのヒトの遺伝情報と疾患情報という非常に貴重なリソースに依存しています。臨床医でもある彼は非常に優秀な頭脳の持ち主なのですが、自分の研究に関しては、「やっていることは皆同じで、バカでもできる」と言います。要するに、ヒト遺伝学での解析方法というのは、十分確立されているので、解析するためのサンプルさえあれば、ほぼ、自動的に答えが出るということなのです。ですので、この研究のもっとも困難なところは、解析ではなく、解析するためのサンプルを集めるという所です。いかに良いサンプルを集めるかが最も大切なところで、サンプルが不十分だと意味のある結論がでません。結果を十分に得ることができるようなよいサンプルを集めることができれば、サンプルが極めて貴重なものであるゆえに、結果も貴重であって、論文も高く評価されるのです。そういう目で眺めてみると、90%以上のハイインパクト雑誌に載っている論文というのは、そういう利用可能なリソースやシステムの有無に依存しており、まあ誰がやっても同じだろうというものが多いです。事実そうした有名研究室のリソースを使ってハイインパクト雑誌に論文を出して、独立していった人が、独立後そのシステムを使えなくなってしまい、鳴かず飛ばずになるというのもよく見聞きする話です。最近の生物科学論文では、天才的ひらめきによって、するどい仮説と検証法をあみだしてそれを証明する、というような教科書にのっているような科学の発見など、めったにないと思います。つまり、何が言いたいのかというと、殆どの科学研究で、個人の抜きん出た才能みたいなものは必要ない。実際、この世界に本当に優秀な人というのはめったに居なくて、有名雑誌に多くの論文を持っている人でも、そうでない人でも、人間の能力の差というのはそう大したものではないということです。研究の発表を聞いていると優秀な人とそうでない人というのはよくわかります。しかし、その優秀さというのは、話がうまいとか、質問に答える力があるとか、ちょっと深くものを知っているとか、早く理解できるとか、そういった(トレーニングすれば、誰でもある程度は得られる)表に見える優秀さで、そんなものは、研究そのものには、まず役立ちません(奨学金や研究費をとってきたり、就職活動などには効果があるでしょう)。ですので、現実に研究に差がでてくる最も大きな要因は、研究室やプロジェクトをどう選ぶかという所と、どれだけ一生懸命やれるかということではないでしょうか。当たり前ながら、竹槍でB29は撃ち落とせません。竹槍しかないところではいくら一生懸命がんばっても、頑張りは報われないでしょう。逆に最新の設備とリソースがありながら、それを活かす努力しないために論文がでない場合もあります。研究に必要な才能とは、ちょっと遠くから研究現場を客観的に見れること、と、いったんやりだしたらあきらめずに頑張れるバカさ加減を持ち合わせているかという点ではないかと思ったりします。
こうしてこの業界が研究システムという点でどんどん画一化してくると、個人の「技」の見せ所は、無くなってきます。例えば、昔はいた名医という人が今ではいなくなったのと同じで、天才科学者もいなくなりました。システムの技術が進歩して、最先端の研究が誰でもできるようになってきたからだと思います。診断技術が未熟だった頃、原因不明の病気にかかった患者を診断できるのは、豊富な知識と経験と深い洞察眼を備えた名医でした。今は「なになに診断セット」とかの検査セットを何も考えずに出して、最新機器で画像診断すれば、研修医の一日目でもすぐに正しい診断にたどり着いたりします。逆に最新検査法を備えた病院から一歩でると、殆どの医者は全く無力です。研究も研究システムの技術に依存する部分が余りに高くなってきたために、多くの場合で研究者の研究能力の重要性は相対的に落ちてきたように思います。少なくとも、知識についてはインターネットで誰でも簡単に手に入るようになったので、ものを知っていること自体は、余り価値がありません。経験についても実験がキット化、マニュアル化されて、誰でも実験できるようになりました。そんな中で持たざる研究室で働く中堅研究員はどのように生き残り、かつ価値の高い研究を遂行していくのか、なかなか厳しいものがあるように思います。
昔のように、みかん箱を机にして、手作りの実験道具でオリジナルな研究をするというような理想郷は消え去ってしまったようです。
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ウチのダンナ

2008-08-19 | Weblog
英語圏では配偶者のことを他人に話す時、普通、固有名詞を使うと思います。一方、日本では、普段ファーストネームを使わないこともあるでしょうが、「私の妻」、「私の夫」とかいうように普通名詞に限定をかけて呼ぶのが普通ではないでしょうか。この間、私の妻が友人と電話でしゃべっているのが聞こえてきた時、私のことを「ウチのダンナ」と呼んでいるのを小耳にはさみました。多分、「ウチのダンナ」というのは、最近ではごく一般的な「夫」の呼び方ではないかと思うのですが、私の妻は、私に向かっては「お宅」と呼びます。「ダンナ(様)」などと呼んでもらったことはありません。
「旦那」と言えば、歌舞伎の勧進帳で、富樫が勧進の施主となり、弁慶一行への非礼を詫びるため、弁慶に酒を振る舞う場面で次の様な下りがあります。

富樫 さてもそれがし、山伏達に卒爾申し、余り面目もなく覚え、粗酒一つ進ぜんと持参せり。いでいで杯参らせん。

弁慶 あな、有難の大檀那、ご馳走頂戴つかまつらん。

この檀那(旦那)は、主人でも偉い人というような意味でもなく、本来の梵語のダーナ(dâna)(布施、施し、施主)そのものの意味であろうと思われます。ダーナは、ヨーロッパへ伝わって、英語でのDonor, Donation の語源になったと言われていますから、旦那である夫は(家族に?)布施をするドナーということなのでしょうか。
 それで、英語のDonorの起源をもうちょっと調べてみると、Donorはそもそもラテン語のDonereに由来、さらにDonereはインドヨーロッパ語のDonに由来し、Donはサンスクリット語でDanに対応するということでした。英語のDonorの語源がインドの言葉というようりは、インド-ヨーロッパの共通の言語からサンスクリット語とラテン語が枝分かれしたということで、結果、それをインドから中国を通じて取り込んだ日本語と英語に同様の音の言葉が残ったということのようです。
 そう納得していたら、面白いサイトを見つけました。「カインをぶら下げている日本人」というサイトで、日本人と日本語の起源をイスラエル近辺に求めた仮説をあげてあるのですが、そのうちに一章に「檀那さんのルーツ」として、次のような説をあげてあります。旧約聖書に現れる話だそうですが、ダン(Dan)族という土地を持たないイスラエルの部族が、ライシという町を狙い、町の人を殺し、町を奪って、ダンという名前に変えたそうです。その後、ダン族はパレスティナを捨てて東へ移動しネパールに新たにダンの村を作って住み着いたそうです。そのダン族から仏教がでたという説が紹介されています。「ダンの」という所有格がダーナということらしいです。古い仏教の遺跡がイスラエルと同じ尺度で作られていると書いてあり、仏教はもともとイスラエルの民の子孫がおこしたものであるとあります。仏教の起源がイスラエルの民ダン族で、ダーナはその所有格といであるという、本当ならなかなか興味深い話ですが、それではどうしてダーナが「布施をする」という意味になったのかはわかりません。また、ダンナの語源は、ラテン語ではDonで、そのサンスクリット変化がDanということなので、イスラエルの部族名が語源となっているのなら、その部族名はダン族ではなく、ドン族でなければならないような気がします。というわけで、ダン族説はちょっと説得性に欠けるのではないかと思われます。
 誰からもダンナさまと呼んでもらったことがない私としては、関係ない話ではあります。「旦那様」でなくてもよいから、妻には「お宅」ではなく、たまには「わが君」とか「殿」とか呼んでもらうと、家庭でのサービスがアップすると思います。
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人権は政治に優先すべきである

2008-08-15 | Weblog
ソルジェニーツィンの故郷、コーカサス地方で、ロシアとグルジアとが戦闘状態となって数日、一旦、停戦となりましたが、ロシアはグルジア大統領の罷免を要求しているという話を聞きました。グルジアはスターリンの生誕地、同じコーカサス地方出身の民族主義者ソルジェニーツィンはスターリン批判のためにシベリア送りとなりました。本来、ノンポリの私に国際情勢を語る資格はないのですが、アメリカおよび日本のメディアが、ほぼ一方的にロシアが悪いというような書き方をしているので、そういうものではないだろうと思ったので、一言。
 表面上の成り行きを追っていけば、あの評判の悪いグルジアの大統領が領土上はグルジアの一部とはいえ、自治区であった南オセチアに軍事侵攻し、2000人の一般市民を殺害し、南オセチアに平和維持の名目で駐留中のロシア軍に攻撃をしかけたことが発端ということだと思います。先に攻撃をしかけ、一般市民を多数殺害したグルジアの行為は、人道的立場から、まず責められるべきだというのが筋だと思います。南オセチアはグルジアの領土内とはいえ、自治区であり、そこに軍事侵攻し市民を殺害するという、人権を無視した野蛮な行為そのものに対する批判が殆ど聞こえてきません。
 確かに政治的には、他国に駐屯するロシア軍がその国を攻撃したわけですから、ロシアに非があると非難するのは易しいです。しかし、実際にはなかった大量殺人兵器があると言いがかりをつけて、イラクに攻め入ったようなアメリカが(というかブッシュが)ロシアをその点において非難する資格があるのでしょうか。政治的な建前ばかりを重視して、もっと大切な人権の立場からの報道がメディアから聞こえてこないのは、まずいことだと思います。もちろん、欧米諸国は、ロシアが地理的な利益を求め、グルジアを支配権に置きたいという気持ちを持っていて、今回はこの地域の支配力を強める絶好の機会とばかりにグルジアへ侵攻したことに危機感を持ち、人道的問題をとりあえず棚上げし、まずロシアを止めねばならぬと思ったであろうと思います。また、グルジアが欧米寄りで、NATO加盟が近いということで、アメリカやヨーローッパ諸国は自然とグルジア側に立つこととなり、グルジア寄りの報道になっているのでしょう。
 しかし、グルジアの一部となってはいるが自治区である南オセチアは民族的には、グルジアとは違うし、ロシアの一部である北オセチアと同民族です。同じ民族がロシアとグルジアに別れ離れになっていることがそもそもまずいことです。その南オセチア自治区を完全にグルジアのものにすべく民族殲滅を狙うグルジアの進攻を牽制するために、少なくとも建前上は、南オセチアにロシア軍は駐屯していたわけで(実際、今回、2000人の住人を殺したということは、グルジアはオセチア人を追い出そうとの意図があった証拠でしょう)、今回のグルジアの進攻に対してロシア軍が反撃するのは、正当なことと思われます。
 しかし、ロシア軍とグルジア軍の規模を比べれば、戦闘が長期化すれば、グルジア軍に勝ち目がないのははっきりしています。それをおしてわざわざ、南オセチアに進攻したグルジアの意図は何なのでしょうか。グルジア大統領は、単純にオリンピックで注意が東に向いている間にゲリラ的短期決戦で、南オセチアを征服できると思ったのでしょうか。欧米をバックにつけているので、いったん南オセチアを力づくで取れば、少なくとも領土的にはグルジアの一部なのだから、ロシアは文句を言うまいと踏んだのでしょうか。そうなら結局、ロシアを甘く見過ぎました。これによってロシアは正式にグルジアを攻撃する口実を与えられ、実際グルジア内の軍事施設を中心に攻撃を進め、大きなダメージを与えました。結果はロシアの一人勝ちでした。穿った見方をすると、軍事的に戦争となった場合にグルジアがロシアに勝つ見込みはないのだから、この戦争はむしろロシアにとって、南オセチアを民族主義を建前に北オセチアと合併し、ともにロシア領内に取り込むための格好の機会であったと考えられます。とすると、実は、ロシア側が、グルジアが南オセチアに軍事侵攻をしかけるようにうまく操作したのかも知れません。確かにグルジアを欧米から引き離し、再びロシア圏に取り込むことは、ロシアにとって大きなメリットがあります。今回の戦争を人道的立場から見ると、まずグルジアが非難されるべきで、ロシア軍はオセチア人を守るために戦った正義の見方であったという解釈もできます。一方、政治的には、理由はどうあれ他国へ駐屯、侵攻したロシア軍が悪いのだと見れます。アメリカや日本での比較的一方的なロシア非難というのは、実際にロシアのその政治的意図を抑えるための欧米の利己主義に基づく世論操作なのかも知れません。結局、戦争は勝てば官軍ですから、勝った方に義があることになります。現在のように世界の国々のお互いの利益が複雑に絡みあっている状態では、今日、グルジアに勝っても、明日には欧米に負けるかも知れませんから、「正義」はオセロゲームのようにあっちを向いたりこっちを向いたりするいい加減なものです。しかし、われわれ一般人は人類が仲良く幸福に暮らしていく権利を阻むものは絶対的に「悪」であるという立場をもって、この両国の行為を考えるべきではないでしょうか。その点から言えば、グルジアもロシアも悪です。南オセチア人、巻き添えになったグルジア人が被害者で、今回の戦争では、誰も幸福になりませんでした。
 日本の首相は、例によって、人ごとのように「憂慮している」と言っただけです。政治的な発言がないのはやむを得ないとしても、南オセチア人の人権や民族が蹂躙されているという事実に対し、唯一の被爆国の代表として人権と民族擁護に関してのコメントぐらいはあってもよいのではないかと思うのは私だけでしょうか。
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福祉とマネーゲーム

2008-08-12 | Weblog
前回、ソルジェニーツィンの市民権回復はゴルバチョフのペレストロイカのためであるようなことを書きました。それは、日本では20年前のバブル崩壊の頃の話なのでした。結局、ペレストロイカは共産主義社会体制の自己批判となり、民主化運動を促進してソ連の崩壊を導くことになりました。ペレストロイカ(再構築、構造改革)は英語でリストラクチャリングと訳され、その言葉は、日本企業では、もっぱら首切りによる人員整理という意味で使われています。以前、Glaxoでの人員整理の対象となったベテラン研究者について書きましたが、とりわけ大企業で働く研究者にとってリストラにあうということは、生活の糧を得る手段を失うというだけでなく、研究キャリアそのものが終わってしまうことにもつながる大惨事であろうと思います。
 先月、アメリカで高脂血症治療薬のVytorinが、大動脈弁狭窄症の心臓病のリスクを減らさないという結果が発表されました。製造会社であるMerckとSchering-Ploughの株価がまた下がっています。この薬はスタチンと非スタチン系高脂血症治療薬の合剤で、その相乗作用でより強力にコレステロールを下げようという考えで開発されたものですが、今年の1月に、スタチン単剤とVytorinを比較した試験で、スタチン単剤に比べて、心臓病発症リスクに差が認められず、動脈硬化病変にも差がなかったという結果に引き続いて、その有用性への疑問を深める結果となりました。Merckは2004年のVioxxの市場からの撤回で一気に落ち込んだ株価をようやく戻しかけた所へ痛手となり、今年の1月をピークとして単調減少していた株価が更に落ち込みました。例によって、リストラがまたはじまっています。
 それで、どうして、特にアメリカでは、上場企業は、窮地に際してその従業員や顧客よりも株価を気にするのか、なぜ会社は株主のものだと宣言するのか、どうして株のブローカーが沢山あつまっているだけのWall streetの住人があれほどパワーを持っているのか、考えていてふと思ったのは、実はこの社会の不安定化を促進する市場原理主義の跋扈というものは、実はMain streetに住む一般アメリカ人自身が間接的に煽ってきたのではないのかということでした。つまり、それは401kなどを利用した投資に依存している一般アメリカ人の引退資金をまかなうために、その資金を主に扱っている投資会社が株式投資で利益を出し続けることが必要だからという理由なのではないのだろうかと思ったのです。社会保障が機能しなくなってきている現状で、アメリカ国民は401k、IRAなどの税制優遇処置のある貯蓄プランなしには引退できません。これらのアカウントに投入された資金は主にストックブローカーを通じて、株式、債券への投資に使用されます。ですので、ストックマーケットが無事に利益を出し続けること、長期的に右肩上がりに株価が上がっていくことは、一般アメリカ人および株で飯を喰っている人にとって必須です。株式投資を主な資金運用の手段とする一般アメリカ人の引退資金アカウントから流れてくる金額というのは相当なものであろうと考えられます。引退した個人にとっては引退資金の運用が悪いということは死活問題となりかねません。これらのプレッシャーが株価や配当が会社の他の何より優先される理由なのではないでしょうか。アメリカ人の殆どはこうした引退用口座をもっている筈で、またそのうちの少なからぬ人は上場企業に雇用されていると思います。私のこの推測が正しいのなら、従業員よりも株価を優先する企業の体質は、少なくとも部分的には従業員自らが実は(間接的に)株式投資者でもあるということから生み出されたものなのかも知れません。(こんなことは当たり前のことで、あらためて言うほどのものではないかも知れませんが)
 株式という制度はある程度の規模の会社を運営していくのに必要な制度だとは思います。しかし、「株式投資」と呼ばれている、その実、ただの株券の取引というのは、お金をつかったゲームに過ぎず、株の売買で得た利益というのは、単にお金が右から左に移動しただけで、何の価値も生み出していない実体のないものです。実際にものを作ったり、サービスを提供したりする会社が価値と利益を生み出す本体であるのに、株式投資というマネーゲームの勝ち負けがアメリカのように一般国民の福祉と繋がっている社会では、株価が逆に本体をコントロールしようさえするわけで、その結果、社会の不安定さを生んでいるように思います。また、株価という実体のないものを取引してあたかも利益を生み出したかのように錯覚し、それをもって一般人の引退資金とするというのは、結局、借金を借金した金で返すのと同じようなことではないでしょうか。
 日本は、アメリカに輪をかけて悪くなる可能性があります。アメリカの投資グループは日本やその他の国の株式市場を操作して金を調達してきましたが、日本は同じようにカモにできる外国の市場を持っていません。にもかかわらず、日本の政治家は、アメリカ流の市場主義を「改革」という名もとにどんどん導入して、アメリカがますます日本の市場で儲けやすいようにし、富を流出させ、官僚の天下り先のための箱ものを作って税金を無駄遣いし、一方、一般国民からは、福祉を削り、大学教育を削り、消費税と取り立てして、ついには世界最大の借金大国にし、日本を住みにくい国にしてきました。
 考えると不安になるので、日本の将来のことは余り考えないようにしていますが、自分の子供たちが私の年令ぐらいになったときに、日本人でよかったと思えるかどうか、それは大変疑問に感じています。少なくとも経済的には斜陽となっていくでしょうし、資源のない国で、福祉がどんどん削られていますから、食い詰めてしまった人は難民化するかもしれません。そうなる前に何らかの歯止めがかかることを期待しています。
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ソルジェニーツィン、民族問題、オリンピック

2008-08-08 | Weblog
先日、John Templeton氏の死去とその財団について書いたのですが、その後、ロシアの作家、ソルジェニーツィンの死去も伝えられました。1962年、自らの体験をもとに書いた「イワン デニーソヴィッチの一日」が大反響を呼び、1970年にはノーベル文学賞を受賞しました。私はソルジェニーツィンはとっくの昔に亡くなったのだと理由もなく思っていたので、死去のニュースを聞いてちょっとびっくりしました。彼はスターリンのためにシベリア収容所送りとなり、その後フルシチョフに助けられたのですが、フルシチョフの失脚により、国外追放となります。その後、ゴルバチョフのペレストロイカでロシア市民権が復活して、亡命先のアメリカからロシアに帰りました。この亡命中であった1983年にTempleton Foundationから賞を受けています。このように、浮き沈みの激しい生涯でしたが、沈んでもただでは浮かばず、沈むたびにノーベル賞やTempleton賞を貰っていますから、大したものです。私は「収容所群島」と「イワン デニーソヴィッチ」を読んだ覚えがあり、イワンの方は随分感心したように思うのですが、内容はもう殆ど覚えていません。
 ソルジェニーツィンのキリスト教信仰に基づく民族自決の擁護は、間接的、直接的に、ソ連の崩壊、ソ連の多くの旧自治区の独立、民主化に繋がりました。しかし、残念ながら、彼の故郷のコーカサス地方のチェチェンは未だ、独立を阻まれたままで、独立過激派によるテロを始めとする紛争が絶えません。そして、現在、東に目を転じてみれば、北京オリンピックを目前にして、チベット解放の運動家が、厳しい警戒態勢の中、反中デモを行っています。冬季オリンピックのメダリストで人権問題活動家のJoey Cheekは、直前になって中国への入国ビザを取り消されました。少しでもチベットなどの人権問題の火を大きくしないようにとの中国政府のあからさまな態度が見えます。ブッシュも珍しく人権問題で中国を批判し、中国は内政干渉であると強く対応しました。実際、中国はオリンピックなどやっている場合ではなく、外国に見栄を張る前に、自国の民族問題を始めとする諸問題を片付けるのが先であろうと世界中が思っていると思います。
 私の育ったころは、周囲に他民族の人は殆どいませんでした。大学になって同級生の一人が授業の前にいきなり黒板の前に立って、自分のことを、これまでの日本名ではなく朝鮮の名前で呼んで欲しいと言ったので、びっくりしたことがあります。私の名前は「金」ではなく「キム」だといったのですが、その時になるまで、彼が朝鮮人であることなど気にしたこともありませんでしたし、名前がどう変わろうとたいしたことではないのに、なんでわざわざ宣言するのか、よくわかりませんでした。それほど日本人としての民族的アイデンティティーなどというものを意識することなく育ったのです。他の多くのクラスメートの反応も私と同様でした。彼が、自分が朝鮮人であって(日本人とは違う)と宣言したことで、彼は自ら周囲の人間との間にそれまでなかった壁を作ったようでした。そのように自分から環境を破壊してまでこだわる「民族意識」とは、私には理解の閾を越えたものでした。日本人であるからといって虐待された経験もない私は、虐げられた民族の人の気持ちを本当には分かりません。「地球は一つ、人類は皆兄弟」という理想論が好きです。しかし、現実には、いろいろな理由で人は殺し合います。民族、人種、階級、言語、様々なものの違いを理由に人は殺します。民族がその理由でなくなれば、別の理由をつけて殺し合います。ジョンレノンが歌うように、国家も宗教も民族もない、人々が兄弟のように生活する地球であればいいと思います。でも、人間にエゴというものがある以上はそんな世界は決して実現はしないでしょうし、エゴがなくなれば人は死んでしまうでしょう。
 昔は多少は持っていた日本民族としての誇りみたいなものは今、私には無くなってしまいました。それは、その誇りの根拠になるものが土台のない薄っぺらなものだと気がついたことと、また日本人という民族性というものの存在そのものを疑っているからであると思います。私の民族意識の欠如は、別に恥ずべきものだとは思いません。愛国心などという言葉は怪しいもので、随分悪いように利用されてきました。皆が平和で楽しく暮らしている理想の世界では、愛国心もなければ、民族意識もなく、自然発生的で流動的なコミュニティーがあるだけだと思います。力による抑圧があるので、それに対抗する手段として人は民族意識や国家意識を強く持つのでしょう。やっててよい自慢はお国自慢と親の自慢だけだと言いますが、それはそこに虐げるものと虐げられるものという力関係がない場合に限っての話だと思います。
 最後に北京オリンピックについて一言。世界の国々からスポーツ競技を通じて集うオリンピックは平和の祭典であります。そこに参加する人は、世界の人々が人種や民族の垣根なく仲良くしていくためにオリンピックはあるのだという理想を意識しておくべきであろうと思います。そうしたオリンピック精神に反する政策を行うばかりか、平和のメッセージを伝えるためにやってくる人のビザまで取り消すようなことをする中国は、まずホストととしての資格はないと思います。
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科学と宗教

2008-08-05 | Weblog
先月亡くなったJohn Templeton氏は高度成長期の日本への投資を含む投資信託会社で財を成しました。彼の名前は現在、その投資信託会社の名前とJohn Templeton Foundationという財団に残っています。信仰厚いTempleton氏の慈善活動としてのJohn Templeton Foundationの一つの大きな目的は、宗教と科学がともに求める真実への到達を促進することをサポートすることで、年間6千万ドルのグラントが宗教家、哲学研究者、科学者などに与えられています。そのグラントを与えられた著名な科学者の「神と科学」に対するコメントを集めたTempleton Foundationの広告を読んだことがあります。「神は存在すると思いますか」という問いに、約半数は「存在する」と答えたのですが、驚いたことに残り半数の科学者の数人かは、科学が充分に発達すれば神の存在は否定されるであろうと答えていたのでした。私がよく理解できないのは、どうして西洋の人は宗教と科学を対立するものとして考えるのかという点です。歴史的に宗教の果たしてきた多くの役割が科学に基づいた技術によって取って代わられてきたからでしょうか。しかし、仏教などに基づく東洋の世界観では、科学であろうが何であろうが、人間の為すことはすべて神の手のひらの上で起こっていることであって、科学と宗教を同列に比較することさえおかしいと思うのではないでしょうか。私は科学は世の中を人間が理解するために17世紀のヨーロッパに現れた一つの道具であると考えていますから、そんなものがいくら発達したところで、「神」の存在について云々できるようになるはずはないと思っています。Templeton氏は宗教も科学も、よりよい世界を実現していくために、大きな目標を持って共に発展すべきであるという(現実離れした)理想の実現を願ったのであろうと想像できます。過去を振り返れば、もっとも大きな戦争の理由は宗教であり、大量殺人を可能にしてきたのは科学に基づく技術です。どちらも一部の人を幸福にしたかも知れませんが、人類全体で過去を集積してみれば、宗教や科学が人類の幸福に役立ったかと考えれば、多分答えは否でしょう。しかし人が生きていく上で宗教は必要なくとも、宗教心のようなものは不可欠であろうと私は思います。また、科学についても、そもそも「科学とは何か」ということさえきまったコンセンサスはないのではないでしょうか。「構造主義生物学」の池田清彦さんは、「構造主義科学論の冒険」の本の中の「科学とは何か」と題された第一章で、科学と宗教や迷信との違いについて考察しています。まず、科学の基本は記述することですから、言葉の問題という大問題がありますので、科学とは何かを問うと、畢竟、言語学の諸問題へと突入してしまいます。言語学こそ近代の構造主義哲学の礎で、この辺は普通の理系の研究者とかが容易に近づけない場所なので、さしあたり言葉の問題、記述そのものの問題は取り上げないことにします。さて、池田さんは、科学と宗教とを記述様式の差によって区別しようとしています。科学は「名称」と「名称」との関係を記述し(名称とは、常識的な意味での「ものの名前」のことですが、「もの」と「ものの名前」との関係は厳密に決定することができないので、名称という言葉を使っています)、宗教では神と名称との関係を記述すると指摘しています。前者の例として、「氷を熱すると水になる」、後者の例として「神は光あれと言った、そうすると光があった」というような例があげられます。記述、言葉による概念の理解ということが科学の基本にあるという点からみれば、これは実用的な区別であろうと思います。しかし、常識的な一般科学研究者は、自分の回りにある世界は、われわれが理解したり記述したりすることとは無関係に、客観的な実在として存在しており、そこに未来の出来事を予測できるような何らかの法則があって、科学というのはそのような法則を発見することだと思っているのではないでしょうか。世界が自分の知覚や理解と無関係に存在しているという観念には、私もある程度賛成しています。言葉をもたない(と思われる)ネズミでも、訓練すればレバーを押して餌を出すようなことができるようになります。レバーを押すことと餌が出るという二つの現象の後ろにある法則性にネズミは気付いているということではないでしょうか。言葉をもたない、記述をしないネズミでも法則性を知っているようです。ですから「法則性を見出すこと」を科学の本質であると考えている人にとって、科学を記述方式(構造)からみて、定義しようとするのはおかしいと思うでしょう。(池田さんも別に記述方式の差は宗教との区別に便利だから使っているに過ぎないのだろうとは思います。ただし、もしネズミが信仰心を持っていたら話は別ですが)
 科学が最終的に神の存在しないことを証明すると考えている人は、世界は「もの」と「ものとものとの相互作用」があるだけだという唯物的世界観をもっているのでしょう。私たちが持っていると信じている「心」や「感情」も「もの」とその相互作用が充分解明されれば、どうやって生まれてくるかわかるはずだとおそらく考えていると思います。神や信仰もわれわれの頭の中の化学物質や分子の相互作用によって生まれてくるはずだと思っているのかもしれません。研究上の手段としてはそういう仮説でも結構ですが、しかし、どうして人間やその他の動物が生まれたか、なぜ生きているのか、ということを深く考えたら、「もの」とその作用で世界が成り立っているという仮説ではどうにもなりません。 物事は深く考えれば、居心地のよい科学の枠を超えざるを得なくなるようです。科学とは何かという問いは、科学の問題ではなく、むしろ哲学的な問題です。世の中の客観性や実在を本当のものとして受入れるという枠の中にしか科学はありません。しかし、どのように世の中の客観性やものの実在が保証されるかという問題に解答はありませんし、それに答えるのに、科学は全く無力です。池田さんは、「世の中の客観性が保証されなくても科学は成立する」と言っていますが、科学はその枠外のことは問わないという前提があるのですから、これは当たり前のことのように思います。そうして、科学の枠外の問題に科学が無力であることを知ったら、科学が考える世界というのは、いわば本当の世界のごく一部にしか過ぎないと実感せざるを得ませんし、本当の世界とは何かと考え出すと、自然と神を引き合いに出さざるを得なくなってくるのです。ある科学者は「もし神が存在しないとしたら、人間は神を発明しないといけなくなるだろう」と言いました。宗教は科学と対立するものでは勿論なく、科学の対象にもならないものだと思います。神を否定したり説明したりするには、現在の科学は余りにプリミティブですし、その限界について無知すぎると思います。科学という方法論がその世界の中で閉じており、宗教は科学の世界の外をも扱うので、「科学と宗教を融合する」とかいう考えは的外れであろうと思います。ただ、慈善活動として科学者や宗教家をサポートするTempleton Foundationの活動は支持したいと思います。いずれも純粋に人間の知の活動としてとどまる限り、結構なことだと私は思います。
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