ただ一度与えられたこの人生を生きる機会をどう過ごすべきか、誰でも折につけ考えることだと思います。独り身で健康だった若い時は、「やりたいことをやる」のだと単純に考えておりました。むしろ今の方が、その考え方は強まっているような気がします。しかし、ふりかえって、本当にやりたいことをやってきたのか、と自問自答すると余り胸は張れません。小学校の時から漠然と研究とか学問とかを職業にしたいと思っていました。そして、確かに少なくとも今は研究しながら生活しておるわけですが、もう一段階上の話、すなわち「何のため」に研究したり学問したりするのか、という点はずっと霞がかかったままです。一つ一つの研究の目標、「Specific Aim」というのは当然あるのですが、それが達成されたところで、その「何のために研究しているのか」というパーソナルな問いに答えがでるとは思えません。マラソンランナーが走り続けることそのものが目的であるのと同じような感じなのかも知れません。「それではダメなのではないか?」と思うと同時に、一方では、人生は死ぬ時までのヒマつぶし、楽しくヒマを潰すことが第一だ、という意見に心の中では賛成しています。
それでも、多くの人々の税金がもとになった研究費でヒマつぶしをさせてもらっているのだから、人々や社会のニーズに応えるという使命があることは分かります。そのバランスですね。やりたいことをさせてもらうかわりに人々や社会のためになる成果を出す、逆に資金を出す立場からすれば成果の期待できない研究にはカネは出さない、というのはあたり前だと思います。しかし、研究者も人間で家庭もあったりするわけで、まずは生活ができる立場にあることは第一条件です。残念ながら、研究環境は厳しいままで改善の兆しが見えません。アメリカではオバマはブッシュ以来の研究緊縮財政に対し3.3%の研究予算の増加を表明しました(多分、共和党に多数を握られた議会で潰されるでしょうが)。しかし、そもそも今のアメリカの研究レベルを維持するには3%ではなく、30%の増加が必要だと人々は考えています。クリントン政権で増加した研究規模に対しこの十年以上つづく緊縮財政はアメリカの研究環境の急激な劣悪化を招きました「何のために研究するのか」と聞くと、真顔で「研究費を貰うため」という答えが返ってくるのが普通になりました。そして「研究費を貰う」目的はと更に本音を探ると、それは「生活のため」ということになります。研究とか芸術とか、そんなものは、余裕がないとなかなかできないものです。喰うのに精一杯の人には難しいことですが、残念なことに世界はますます、喰うだけで精一杯という人々が増えてきています。
資本主義が末期的となり、日本経済は衰退期に入り(上がっているのは実質経済とは無関係のマネーゲームの株価だけ。むしろ日銀がカネを刷り散らかした上に経済活動は低迷したままなので、余ったカネが株式市場に流れてバブル状になっているだけでしょう)、サバイバルが第一目標となってきました。即ち、そういう人々にとっては、人生を生きる目的は、何らかの方法でカネを稼いで自分の体や財産などを維持すること、ということになりかねません。もっと極端に言えば「死なないこと、欲を言えばラクして生きること」が目的であり、人生の活動はその手段に過ぎない、というようなレベルに我々は達しつつあります。正直、これでは「人間」ではなく大腸菌と変わりません。しかるに、大腸菌のように命をつなぐことだけに精一杯の生活の中で、いかに人間らしく生きれるのか、というのが問題です。
しばらく前に、読んだEckhart tolleの本の最後のパラグラフに聖書の言葉が引いてありました。
ここにヒントがありそうな気がします。meekという言葉は日本語では「柔和なるもの」と訳されているようです。Eckhartは、meekであることは「我 (Ego)」が取り除かれたものである、というような解説をしています。自己とその生命を維持することはEgoの本質です。しかし、それがとり去られた時に、人は人間らしくなる。ならば、喰うことを思いわずらわず、あるもので満足することを学ぶこと、そういうことがmeekであるということなのかな、と思います。
そんな人々が地を相続することになるのです。
それでも、多くの人々の税金がもとになった研究費でヒマつぶしをさせてもらっているのだから、人々や社会のニーズに応えるという使命があることは分かります。そのバランスですね。やりたいことをさせてもらうかわりに人々や社会のためになる成果を出す、逆に資金を出す立場からすれば成果の期待できない研究にはカネは出さない、というのはあたり前だと思います。しかし、研究者も人間で家庭もあったりするわけで、まずは生活ができる立場にあることは第一条件です。残念ながら、研究環境は厳しいままで改善の兆しが見えません。アメリカではオバマはブッシュ以来の研究緊縮財政に対し3.3%の研究予算の増加を表明しました(多分、共和党に多数を握られた議会で潰されるでしょうが)。しかし、そもそも今のアメリカの研究レベルを維持するには3%ではなく、30%の増加が必要だと人々は考えています。クリントン政権で増加した研究規模に対しこの十年以上つづく緊縮財政はアメリカの研究環境の急激な劣悪化を招きました「何のために研究するのか」と聞くと、真顔で「研究費を貰うため」という答えが返ってくるのが普通になりました。そして「研究費を貰う」目的はと更に本音を探ると、それは「生活のため」ということになります。研究とか芸術とか、そんなものは、余裕がないとなかなかできないものです。喰うのに精一杯の人には難しいことですが、残念なことに世界はますます、喰うだけで精一杯という人々が増えてきています。
資本主義が末期的となり、日本経済は衰退期に入り(上がっているのは実質経済とは無関係のマネーゲームの株価だけ。むしろ日銀がカネを刷り散らかした上に経済活動は低迷したままなので、余ったカネが株式市場に流れてバブル状になっているだけでしょう)、サバイバルが第一目標となってきました。即ち、そういう人々にとっては、人生を生きる目的は、何らかの方法でカネを稼いで自分の体や財産などを維持すること、ということになりかねません。もっと極端に言えば「死なないこと、欲を言えばラクして生きること」が目的であり、人生の活動はその手段に過ぎない、というようなレベルに我々は達しつつあります。正直、これでは「人間」ではなく大腸菌と変わりません。しかるに、大腸菌のように命をつなぐことだけに精一杯の生活の中で、いかに人間らしく生きれるのか、というのが問題です。
しばらく前に、読んだEckhart tolleの本の最後のパラグラフに聖書の言葉が引いてありました。
Blessed are the meek, for they inherit the earth. (Matthew 5-5)
ここにヒントがありそうな気がします。meekという言葉は日本語では「柔和なるもの」と訳されているようです。Eckhartは、meekであることは「我 (Ego)」が取り除かれたものである、というような解説をしています。自己とその生命を維持することはEgoの本質です。しかし、それがとり去られた時に、人は人間らしくなる。ならば、喰うことを思いわずらわず、あるもので満足することを学ぶこと、そういうことがmeekであるということなのかな、と思います。
そんな人々が地を相続することになるのです。