百醜千拙草

何とかやっています

Funding mechanismの変化

2015-10-30 | Weblog
先日、アメリカのNIHで基礎的研究に資金を分配しているNIGMSのディレクターの話を聞く機会がありました。NIGMSの年間予算は約$3 billion、NIH総予算の約1/10、4番目に大きいNIH instituteです。アメリカのトップ基礎研究室の多くがここから資金を得ています。
アメリカでのNIHからの研究資金の大部分が、R (Research grant) シリーズというメカニズムで分配されますが、現在これらの資金は、プロジェクトベースで審査されて、採用、不採用が決められます。つまり、今後、数年にわたってやりたいプロジェクトを申請し、NIHはそのプロジェクトから期待される見返りとリスクを評価して、研究費を出すかどうかを判断するというやり方です。大抵の国での競争的な科学研究資金の分配は、プロジェクトベースだと思います。

しかし、NIHのサポートによる研究活動は税金で賄われる国家の活動ですから、税金を支払う方から見れば、これは投資です。すなわち、研究成果の少なくとも一部は、なんらかの形で社会に還元されることが期待されています。投資である以上、いかに少ないリスクで高いリターンを得るか、という視点から研究資金分配を考えるべきだという意見があるのは当然です。その観点から、プロジェクトベースでの審査で研究資金の配分を決めることが本当にリターンの最大化にベストの方法であるのかという疑問は以前からあります。

また、プロジェクトベースの資金配分は研究者にとっても不安定なものです。研究はそもそもserendipitiousなもので、道路工事などと違って、今後、数年間の計画という青写真を書けば、ほぼその通りに進んで期待される結果が出るというものではありません。むしろ、期待される結果が出ないことの方がはるかに多いでしょう。そうして、プロジェクトが行き詰まってしまった場合、プロジェクトベースの申請では、そのプロジェクトのリニューアルを申請してもおそらく通らないでしょう。半数以上の研究者が一本のグラントで全てを賄っているような現状で、もしもリニューアルができなければ、そこで研究室の縮小、閉鎖、廃業、ということに直結します。そういう恐怖が、研究をよりconservativeでゆえにリターンの少ないものにしていまう傾向を後押しします。

さて、投資という面から研究資金分配を見ると、ポートフォリオのdiversificationというのは投資の基礎です。研究においても、広く浅くばら撒いて、稀に驚くようなところから大ブレークする可能性のある所にも栄養を与えておくことは大切だと私も思います。過去のノーベル賞となったRNAiの発見にしてもiPSにしても、これらは超一流ラボが潤沢な資金で打ち上げたプロジェクトから生まれたものではなく、ごく小さな、プロジェクトとさえいえないような研究から生まれたものです。一方、ブルーチップに集中投資するやり方は、安全だが高リターンは望めないやりかただと思います。あいにく日本では「集中と選択」という短期的には良いかもしれないが、長期的に大きなリターンの見込めない投資方法を取っているように思います。巨大企業が身動きが取れなくなってあっという間に潰れてしまうのはよく見ることです。まして研究の世界では、彗星のように現れて、インパクトの高い仕事を連発し、彗星のように去っていく研究室を目のあたりにすることは日常茶飯事です。集中と選択では、このあたかも何もないところから突然出てくるハイインパクト研究の芽を摘んでしまうと思います。

それで、NIGMSやその他二、三のNIH institutionでは、新たにR35というメカニズムを試験的に採用することにしたそうです。すなわち、プロジェクトベースの資金配分ではなく、プログラムベース(研究者ベース)で資金を配分するということです。「Maximizing Investigators' Research Awards (MIRA)」と呼ばれるこのメカニズムは、研究者一人あたりの研究資金の上限を限定する一方で、その資金の使用にはかなりのフレキシビリティが認められ、またリニューアルに当たってはその継続性をできるだけ考慮するという点がユニークです。現在グラントを3本以上持っている研究室にとっては、むしろ資金は縮小されるのですが、そのプロジェクトベースの3本のグラントを維持するために費やされる(不必要な)時間や労力のことを考えると、その安定性は研究者にとってははうれしいものでしょう。また比較的自由に研究プロジェクトを変更できるので、研究者がより自由に研究を展開でき、それによってよりserendipitousな発見を促進するという点もあろうと思います。

もちろん、これは現在、そこそこ成功している一握りの人にとっては有利なプログラムと思います。若手や実績に少ない人々にどう対処していくのか、というところがまだまだわかりませんが、私は、よい試みだと思います。
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幸せな研究者になるには

2015-10-27 | Weblog
BIomed サーカスに紹介されていた二つの記事に似たようなニュアンスを感じたので。

「へのへの先生仮免中」から

うまくいかなかったことの多い地にいくと、どうやったらうまくやれたのかなぁとウツウツと考えたりしてしまうのは性格というものだろうか。
40年生きても時間を戻せる力も得られず、ただダラダラと過ごした時の重みに押し潰されるのであった。
おおう、自分のブログ読んでも、うざい、うざいわ。
まぁとりあえずいい目標でもたてて、現実的に頑張ってるほうがよっぽどマシってなもんだろう。
ならぬものはならぬのだ、幸せいなりたかったじゃなくて幸せにならんとイカンわ。
自分がなりたい研究者像ってなんだろう?
教育者にもならねばならんわけだが。


教授と僕の研究人生相談所「ノーベル賞に届かない人たちへ」から

僕「はい。その相談者ですが、自分がノーベル賞を取るなんてことは考えてはいなかったようですが、やはり心の中でノーベル賞やそれに類する有名な賞への憧れがあり、届かないまでもそういう賞を目標としていたみたいなんです」
教授「目標を持つということは大事だと思うよ」
僕「でもアカデミアでは鳴かず飛ばずで、何とか企業に中途入社はできたものの、新規性の高い発見ができるような研究内容ではなく、そもそも論文として発表する機会もなく、自分が昔に抱いていた理想の研究者像からかけ離れていて、博士号なんて取らなきゃよかったと思っているようなんです」
教授「そんな風に思わなくてもいいのにな」
僕「で、毎年ノーベル賞のニュースが世間を賑わすと、今の自分と過去の自分が思い描いていた自分とのギャップを再認識して非常に心が苦しくなるようなんです。でも、自分の能力がどんなところに位置付けされるかは自分できちんと理解していると書いてあり、だからこそ、こんな悩みを持っていることは誰にも相談できず、今回相談メールを送ったようなんです。馬鹿げた悩みということは自覚しているとのことなので、尊敬する教授に厳しい言葉をもらって目を覚まして自分があるべき場所で頑張れるようになりたいみたいなんです」
教授「目を覚ます必要もないだろう」
僕「え?」
教授「そこまで色々とわかってるんだ。この相談者の悩みは時間が解決してくれる。そして、そうやって苦しみながら自分の人生を頑張るのも大事だ。ま、あまり卑屈にならないようにな。心が締め付けられるような思いをすることもあるだろうが、そんな中でも自分が幸せと思えることになるべく多くの時間を割けるように頑張ればいい」


さすがに教授は、年の功、いいこと言いますね。
過去を悔いて、夜中に布団にくるまって叫ぶというような経験をしたことのない人間とは話すに足りぬ、と狐狸庵先生は過去に言いました(と記憶しています)。過去を悔い、未来に不安を感じては苦しむのが人間というものです。そして、常に出版、パテント、グラントと競争を意識せざるを得ない研究者にとっては、つい他人と自分を比べて、うらやましがったり、妬んだり、自己嫌悪になったりするのは日常とも言えるでしょう。
私は、そういう人間の性というものが自分も含めて誰にでもあると肯定的に認めてやることから始めるのがいいと思います。人間というものはそういうものだ、自己本位なエゴの存在は否定のしようもないし、金やモノや名誉をだれでも欲しがるものです。でもそれでもいいではないか、「人間だもの」という辺から始めるとラクになると思います。己の中にあるイヤなもの、エゴ、否定して消そうとしても、そう簡単にできるものではありません。そうしようとすればするほど、より執着を生んで苦しむことになります。自分の中に、汚いもの、イヤなものがあるのを自分ではどうしようもありません。だから、少なくともその存在を認めてやる、それだけでその葛藤は随分マシになると思います。イヤなものをも許容する包容力みたいなものを発達させることは有用だと思います。私も実生活で、イヤな人間と関わらざるを得ない機会が多いですが、いくらこちらが彼らの存在を否定しようが、憎もうが、文句を言おうが他人は変えられません。同様に、自分の心にあるネガティブなものもそう簡単に消せるようなものではないと私は思います。

結局、研究者も「へのへの先生」のいうように、幸せになりたかったじゃなくて幸せにならんとイカンのです。まず、幸せになると決めること、そして、それを阻んでいるのが、環境でももって生まれた才能でもなんでもなく、これまでと今の自分を否定しようとしている他ならぬ自分自身であることに気づくことではないでしょうか。そのために、「まぁとりあえずいい目標でもたてて、現実的に頑張ってるほうがよっぽどマシ」と開き直ることです。目標を立てて現実に頑張ることなくして、何の成功もあり得ませんし。その瞬間、われわれはすでに幸せになることができます。目標をたてて現実に頑張ることができる幸せに感謝できると思います。
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スクープされたよの歌

2015-10-23 | Weblog
あまりプロダクティブでない仕事が立て込み、何かと忙しい日々を送っております。書かねばならない論文は遅々として進まず、アイデアをひねり出さないといけないプロジェクトはこの4ヶ月ほど、堂々めぐり。そうこうしている間に論文紹介の当番が回ってきて、その後、立て続けに、ほんとーに砂を噛むようなアドミニストラティブな書類書きや作業がやってきました。どうしてこの手の仕事は突然やってきて、しかも期限が迫っているのですかね。
加えて、しないといけない論文レビューが三本、一本はついこの前、私の論文をエディトリアルリジェクションしたジャーナルです。私の論文はレビューにも回してくれないのになあ、と多少恨めしい気持ちで引き受けました。論文レビューを何度かしたら、こちらから投稿する論文に関して一回ぐらいは無条件でエディトリアルレビューを免除するぐらいの特典をつけてくれないかなあ、と思います。飛行機だってマイルを貯めれば無料で乗れたりするのですからね。論文レビューもクレジット制にして欲しい。(うーむ、どうも根性が卑しくなってきたような気がします、イカンですな)
 気をとりなおして、その論文の内容をみると、私が二年来やってきている小さなプロジェクトとかなりオーバーラップしていました。しかも私は彼らをたまたま知ってはいましたが、私の分野からは随分離れたところの人々です。晴天の霹靂という感じです。ちょっとショックを受けて、落ち込んでおります。ま、最近は、昔ほどは落ち込まなくなりましたが。前にも一度、スクープされて随分辛い思いをしました。私の研究にオリジナリティが乏しいのでしょうか。
そういうときは、スクープされたよの歌を歌って、笑い飛ばしましょう。

Uri Alon, PhD. TED talk、"Why truly innovative science demands a leap into the unknown" より。
「また、スクープされたよ」の歌。(13'00ごろ)


そんな感じで、学会以降、やや低調な日々が続いております。

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生命科学の盛衰

2015-10-20 | Weblog
学会はいまいち盛り上がりに欠けたものになりました。参加者も減っており(多分)、面白いと思う演題でも、反応は悪く、全体的に活気がありません。製薬会社の参加はかつての2-3割は減っているでしょう。この分野に関連する疾患群において、治療可能なものに対しては既にそこそこの薬が出揃い、治療の難しいものに関しては投資を控えつつある企業の傾向を反映しているのであろうと思います。早い話がカネになる分野ではなくなってきたということです。ウワサに聞くと、心臓関係の学会もかなり縮小しているという話です。同様の理由でしょう。おそらく、脳神経科学系もそういう傾向なのではないだろうかと想像します。

遠いところまで行って、いまいち、盛り上がらない学会で、学会でしか会わないような人々と直接話をしたり、食事をしたりという部分がなければ、行かないで、実験でもしていた方が余程プロダクティブではないだろうかと思ったぐらいです。ちょっと肉体的にも精神的にも疲れました。

思えば、製薬、医学、などの分野が非常に盛んになったのは、そう大昔ではありませんでした。科学そのものの歴史でさえ数百年にしか過ぎません。現在、生活に不可欠だと思っている、電気、車、通信、流通システム、医療技術、などなど、思えば、いずれも過去100年以内ほどにできたもので、人類の歴史からみると、ごく最近のものです。生命科学研究という活動も同じです。かつては趣味のような形で行われてきた生物学研究が生化学的手法、分子生物学、分子遺伝学的手法の開発などで、急激に発展し、その間におびただしい知見が発表されてきています。ゲノム解読も終わり、ほとんどの遺伝子のノックアウトは作られつつあり、従来の視点から見た場合の生命活動が大まかには理解できたという感覚があるのではないかな、と思います。生命を地球に喩えてみれば、人々が黄金の島を信じて、それを見つけに世界を探検した結果、結局、地球はある限りのある質量と体積を持つ小さな星にすぎないということがわかったようなものではないかと思います。これ以上、楽園を探しても、地上に存在する可能性は少ない、という失望感、つまり、これ以上、ある分野の研究をやったところで、カネになりそうにないというモチベーションの低下が、研究分野の盛り下がりに寄与していると思います。栄えれば滅びるのは世の常とはいうものの、数年前までは、右肩上がりで発展していく研究分野の中で、自分の場所を確保しようと努力してきたのに、気がつくと、数年前の有名人は分野を変えたり、研究をやめてしまったりして、櫛の歯がこぼれるように寂れていっているような、取り残されたような気分になり、寂しい気持ちになります。

思うに、この傾向は私の分野だけでなく、生命科学という活動全体に当てはまるのではないだろうかと思います。研究をする人々はますます減っていくだろうと思いますし、製薬会社のDrug discoveryプログラムはどんどん縮小していくだろうと想像します。残念な気もしますが、所詮、人間の活動など死ぬ時までのヒマつぶし、科学が廃れても人間は別のヒマつぶしを見つけることでしょう。嘆くようなことではないのかもしれません。

さて、安保法案が通り、原発再稼働が進み、人々は目の前の生活に追われて、だんだんと危険で住みにくい国になっていくのをなかなか止める術がない、つらい日々です。今回、史上最大の安保闘争デモが行われ、史上最悪の原発事故があったにもかかわらず、権力側にいる利権集団は露ほどの反省を見せることはありませんでした。しかし、われわれは少なくとも、この数々のデタラメを忘れてはいけないと思います。数では圧倒しているのです。長い時間が必要かもしれませんが、人々の意識が日本を良い方向に変えると信じております。

先日の川内原発2号機再稼働に関しての東京新聞社説から

 九州電力は、川内原発2号機(鹿児島県)を1号機に続いて再稼働させた。住民の不安や疑問に耳をふさいで、同じタイプの原発の再稼働を急ぐ-。

 原子力規制委員会の田中俊一委員長は先月、1号機が営業運転に入るのを前に「ひな型ができたので、審査はスムーズに進む」と話していた。
 多くの住民の安全を“ひな型”で判断されてはたまらない。
 八月、その1号機が再稼働して、約二年に及ぶ日本の原発ゼロに終止符が打たれたときと、周囲の状況は変わっていない。
 規制委は安全の保証はしていない。しかし、紳士協定に基づいて再稼働に同意を与える鹿児島県などは、規制委によって安全性の確保が“確認”されていると言う。
 新任の経済産業相は「万が一事故が起きれば、政府の責任は十二分にある」と話した。しかし、どのように責任を取るかは依然、定かでない。
 相変わらずの無責任体制は、もう事故など起きないと、高をくくっているようにも見える

 福島の教訓は、いったいどこへ消えたのか。

 説明不足も同様だ。、、、
 九電は運転開始時から約三十年使っている2号機の蒸気発生器の交換を、三年後に先送りした。、、、地元紙が四月に県内で実施した世論調査では、再稼働に反対、計画に沿った避難は困難との回答が、いずれも約六割に上っている。
 原発とその周辺環境は、それぞれ違う。周りの声に耳をふさいで、それを“ひな型”でくくるのは、乱暴だし、危険過ぎないか。
 、、、
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Innovation

2015-10-16 | Weblog
年を取って、体力と気力が衰え、視力、聴力、思考力と記憶力に不便を感じるようになりました。いまや、研究業界で生き残っていくための唯一と言って良い武器は経験ぐらいのものです。しかし、経験といっても小手先の論文やグラントの書き方の技術ぐらいのもので、武器とは言えるようなものかどうか疑問です。

研究において実験が成立するために必要なものは3つと言います。ポジティブコントロール、ネガティブコントロール、と実験意義です。これを標語にして机にでも貼っておけば、研究1年目でもそれなりに意味のある実験ができると思います。結局、経験というものは、研究の本質的な部分ではなく、研究という「ゲーム」の進め方、むしろ枝葉末節的なところぐらいにしか使い道はないのかもしれません。

とはいえ資本主義の世の中です。現実の研究は、結局は限りある研究資金と限りあるそれなりのジャーナルの紙面を争う生き残りをかけた戦いですので、そうやすやすと負けるというわけにはいきません。衰える体力や脳力を振り絞り、なんとか切れ味のよい新たな武器を身につける必要を常々感じております。

しかし「新たな武器」とはどういうものか、実は、それが問題です。多分、そのような武器は、研究計画申請書での「研究の革新性(Innovation)」の欄に自信を持って書けるようなものであるはずです。

近年、研究計画に関しては、とりわけ「Innovation」という言葉がもてはやされ、「Innovativeでない」は、かつての論文での「記述的でメカニズムが足りない」と同じぐらいに頻繁に見られる批判の言葉となりました。
しかるに、生物学研究における「Innovation」とは何ぞや、と問われると、その定義は非常に曖昧です。

Innovationを示すのに、一番、手っ取り早いのは、新しい研究技術を使うことでしょう。人々は機能にそう大差はなくても、新しいiPhoneが出たら、とにかく触ってみたいと思うのと同じだと思います。一方、技術的なInnovationに対し、概念的なInnovationを評価してもらうのは、はるかに難しいです。結果、研究者は、必然性がなくても何か目新しい技術に手を出さざるを得ないというような本末転倒ぎみのことが起こり得ます。

とある有名研究室では、免疫染色は蛍光抗体を使わねばならないと指導されているそうです。従来の色素を使った写真は"pretty"でないからという理由。つまり技術的に古い(即ちinnovativeでない)ものはできるだけ使わないようにせよ、ということのようです。実際に実験している者にとっては従来の色素を使った染色の方がはるかに情報量が多くて、蛍光染色は多分子の同時染色をしたりコンフォーカルを使ったりするとき以外にあまりメリットはないように思うのですが。論文も研究も見た目も大切とは思いますが、中身よりも見た目、生物学的意義よりも新しいテクノロジー、だんだん、そんな本末転倒的傾向が強くなってきているように感じます。

現実には、資本主義の世の中で、売れたものの勝ちです。見た目やハッタリ、ブランド化なども大事です。それはわかるのですけど、最近、自分のやっていることがインチキ教材の訪問販売と変わらないのではないかなどと思ったりすることもあります。

そんなシニカルな午後。 
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科学技術の進歩と欲

2015-10-09 | Weblog
George Churchが CRISPR/Cas9 をつかった遺伝子改変ブタを使ってヒト用の移植臓器を作る会社を作ったとの話。

Gene-editing record smashed in pigs

ブタ細胞のDNAに入り込んでいる多くのウイルスなどの有害遺伝子を潰して移植後の安全性を高めるのが目的のようです。
冒頭にGeneticistと紹介されていますが、この方はいつからGeneticistになったのでしょう。確か本人は自分をTechnologistと呼んでいたような気がしますが。
研究室はCRISPR/Cas9技術の開発トップグループの一つですし、最近はin situ sequencing技術の開発をしていたように思います。CRISPRの応用として臓器移植というのはナルホドとは思うのですが、ハードコアな基礎技術の開発をやっている研究室が、臨床応用を目指しての会社をつくるというのはちょっと驚きました。

このあたりの金と労働力がある大御所はドンドンと外へと分野を広げていきます。それで新しいものが生まれたりもします。分野の垣根を越えて発展するというのは科学技術においては喜ばしいことでしょう。

しかし、果たして、それが人類や地球というレベルにとっても良いことなのかどうか、私は、大学に入ったころから同じような疑問を持ち続けています。

科学技術の進歩は急速な産業化を進め、環境を凄まじい勢いで変えていっており、年間300種以上の生物が絶滅していっている一方で人間の人口は爆発的に増加しつつ、より多くの人々が高エネルギー消費型のライフスタイルを追求しようとしています。絶滅した種は戻らないし、破壊された環境も戻らない、われわれ人間は己の欲ゆえに、地球環境を破壊します。破壊することは作り上げることよりもはるかに簡単です。そして人間は自分たちが破壊したものを元に戻すことはほとんどの場合できないのです。結果、破壊した地球環境のために、生物学的な適応は間に合わず、遠からず多くの人間が飢えや新たな疾病に苦しむことになるのではないかと私は危惧しています。

最近では、洗顔料に含まれる5ミクロンぐらいのプラスティックの粒子が大量に海洋に存在して、プランクトンを捕食する生物に取り込まれたりすることで、海洋生態にかなりの悪影響を及ぼしているという話を聞きました。洗顔プラスティック粒子入りの魚をわれわれも食べていることでしょう。洗顔料に含まれるレベルの量でも無視できない量になるんだなあと思った次第です。

さて、CRIPRの応用についてですが、すでにヒトを含む哺乳類動物の遺伝子改変は実際になされておりますが、私が問題に思うのは、これらが、ほとんど「技術的にできるからやってみた」というカジュアルさで研究が行われいるように見えることです。最初に遺伝子組み換え技術ができたときの慎重さに比べると、倫理的問題、長期的影響などの議論があまりなされないまま、安易に進んでいる感があります。「核分裂が兵器や発電に使えそうなので、とりあえず原発や原爆をいっぱい作ってみた」という感じに近いのではないでしょうか。その結果が第二次大戦での大量の無差別殺人であり、福島、スリーマイルやチェルノブイリでの取り返しのつかない事故です。増え続ける核廃棄物で、そのリスクは年々大きくなるばかりです。CRISPRでいろんな遺伝子を潰すのは技術的には簡単です。遺伝子組み換え作物も同じです。しかし、そのconsequencesをわれわれは十分に知る能力がありません。

遺伝子組み換え作物にしてもその人工的な変異作物が野生種に入り込んでいるという報告もあります。その長期的影響がどのようなものか誰も知りません。ただ、目先のことしか人間は見ることができず、専門家であっても目先のデータからとりあえず大丈夫そうだ、というようなレベルの安全性の理解しかありません。

加えて、多くの科学技術は、多かれ少なかれ目先の利益を目指すことがモチベーションとなって進歩してきました。個人のレベルで言えば、研究の大義名分はいろいろあれど、論文を書きたい、ポジションやグラントを取りたい、有名になりたい、パテントをとって儲けたい、などの欲がその動機の根本にあることがほとんどでしょう。「苦しむ人を助けたい」という気持ちでさえ、皮肉な見方をすればその人個人の欲です。そういうのが悪いとは言いません、人間ですからエゴや欲があるのは当たり前です。しかし欲には際限がなく、欲は人間の目をくらませ、視野狭窄に陥らせて、ブレーキが効かなくなることもしばしばあります。(欲と言えば、話はずれますが、このニュースを聞いて、ため息がでました)

病気で苦しむ人にとっては、苦しみが取れるのであれば、豚の腎臓でも心臓でも移植して貰いたいと思うのは自然なことでしょう。事実、そういうことが技術的にできつつあるのですから。それは結局、ヒトと動物とのキメラを作るということになるわけです。私は必ずしも「脳」が人間であることを決める中枢であるとは思っておりませんので、ヒトと動物とのキメラをつくるというアイデアに抵抗があります。臓器移植後にドナーの人の性格もレシピエントに移植された、という話はよく聞きます。ならば、ブタの臓器移植後に性格もブタ化するかも知れません。(私は、今はヒトのキメラについてはこのように考えていますが、もちろん、私自身が心不全で毎日が苦しみの連続なのであれば、この意見は簡単に変わるかもしれません)

今日からしばらく学会に出かけてきますので、来週はじめはお休みします。ウチの学会も縮小気味で、最近は余り行ってよかったと思う経験が少なくなってきたような気がします。心臓関係はもっと悲惨だという話を聞きますが。そのうち神経科学系も縮小されていくのかなあ、と思いました。
ま、学会といってもグラントや研究のネタ探し、旧友や研究仲間との交流など、ま、私の個人的な欲を満たすためのものですが。
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元気のでる言葉

2015-10-06 | Weblog
以前にいた人がやりのこしてそのままになっているプロジェクトを論文の形にするための仕事をぼちぼちとやっています。それとは別の3年がかりの小さな仕事もいい加減、形にしないといけません。しかしそれらが論文になったところで、それが次のグラントにつながったり、さらに発展していくような重要な仕事になるのかといわれるとそうではありません。残務整理に近い仕事で、望み通りに発展しなかったプロジェクトに引導を渡すというような感じで、寂しい気持ちになります。

ワクワクする仕事よりも義務的にやらざるを得ない仕事の方が多すぎると、精神的にキツいです。研究人生も振り返れば、これからよりもこれまでの方が長くなり、そろそろExit strategyを考えておくべきかな、などと思ったりもする日々です。感覚的には、ボストン マラソンでいえば後半に入っての心臓破りの上り坂の半ば、棄権しようかと気持ちになることもしばしばです。
しかし、先を思い煩ってはいけません。目の前の一歩一歩に集中するのみと言い聞かせて、日々、勤めております。

そんなワケで、やや低調な週の始めで、ちょっと元気が出る言葉などを拾ってみました。

「一燈(いっとう)を提げて暗夜を行く。暗夜を憂(うれ)うること勿(なか)れ、只(ただ)一燈を頼め」(言志四録)

この道を行けばどうなるものか  危ぶむなかれ  危ぶめば道はなし  踏み出せばその一足が道となり  その一足が道となる  迷わず行けよ  行けばわかるさ」(清沢哲夫氏の詩)

これは、次の魯迅の有名な一節に似ていますね。

「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

唯一無二の自分の人生、残りはわずか、恐れている暇はない(出典不明)。

それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ6:25-34)

未来とか過去ではなく、いまここのあなたに何か問題があるかね?(出典不明)


最後の一文は素晴らしいですね。少なくとも、この4次元の物質世界では、未来は来らず、過去は過ぎ去っており、「ある」のは今のみです。今に集中せよ、上のすべての言葉はそのことを言っているようです。
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ブーチン-アベ会談の最後の10分

2015-10-02 | Weblog
先の国連総会でアベ氏はプーチンと40分会談し、最後の10分は人払いまでしたという話です。その最後の10分で、一体、何を話をしたのだろうか、と想像していました。

東京新聞によると、

安倍政権は今回の会談を、ウクライナ情勢で中断していた北方領土交渉の「再スタート」と位置付けているが、プーチン政権は日本側に歩み寄る兆しすら見せていないのが実情だ。
 会談冒頭で、安倍氏は自身が自民党総裁に再選されたことを強調し「さらに腰を据えて平和条約交渉に取り組む素地が整った」と意欲を示した。一方プーチン氏は日ロの経済協力拡大への強い期待感を表明したが、領土問題には言及しなかった。
 ウクライナ危機をめぐる欧米との対立や中国の景気冷え込みで、日本との経済協力の重要性はさらに増している。しかし愛国主義の高まるロシアに領土交渉で歩み寄る気配はない。


アベ氏がプーチンに擦り寄る目的はただ一つ、北方領土問題でしょう。経済政策が失敗し、戦争法案では戦後最大規模のデモが起きるほどの(今回の国連でも、ニューヨークでアメリカ市民までが参加しての反アベデモがあったそうです)国民の反感を買い、支持率は低下する一方です。何かプラスの材料が欲しい、それが北方領土問題に関する進展だと思います。対して、プーチンが日本に臨むことは、経済交流、そして、ひょっとしたら、もう一つ、軍事協力ではないだろうか、という気がしました。最後の人払いをしての10分の会談で、その取引、すなわち北方領土問題の対話の促進とシリア問題への日本の介入、をアベ氏は持ちかけたのではないだろうか、という勘ぐりをしています。

オバマはイラン、ロシアと強調してISISに対処する用意があると演説、しかしアサド政権はアメリカ戦争勢力の顔を立てて潰したい、一方、プーチンはアサド政権を支持することでISISを抑え込みたいと、意見の相違があります。ISISをなんとかしたいのは双方、同じ。しかし、ISISはもともとアメリカ戦争勢力が焚きつけたマッチポンプです。そのアメリカの後始末をロシアがする羽目になっているのだからプーチンが怒るのも当たり前でしょう。

しばらく前に配信された、田中宇さんの記事から。

ISISは、イラク駐留中の米軍によって涵養されたテロ組織だ。米軍は、ISISを空爆する作戦をやりつつも、ISISの拠点だとわかっている場所への空爆を控えたり、イラク軍と戦うISISに米軍機が武器や食料を投下してやったりして、戦うふりをしてISISを強化してきた。米軍は、露軍の駐留に猛反対しても不思議でない。 (わざとイスラム国に負ける米軍) (露呈するISISのインチキさ) (Lavrov suspicious about US motive in fighting Daesh)
、、、、
米国がこんな無能ないし茶番な策を延々と続けている以上、中東はいつまでも混乱し、何百万人もの難民が発生し、彼らの一部が欧州に押し寄せる事態が続く。このままだと、ISISがアサド政権を倒してシリア全土を乗っ取り、シリアとイラクの一部が、リビアのような無政府状態の恒久内戦に陥りかねない。米国に任せておけないと考えたプーチンのロシアが、シリア政府軍を支援してISISを倒すため、ラタキアの露軍基地を強化して駐留してきたことは、中東の安定に寄与する「良いこと」である。
、、、、
オバマはISISの掃討を望んだが、彼の命令で動くはずの米軍は勝手にこっそりISISを支援し続けていた。自国軍に頼れないオバマは、ロシアに頼るしかなかった。米国がイラン制裁を解くことが、オバマの要請に対するプーチンの条件だったのだろう。
、、、、、
ロシア軍のシリア進駐に対しては、欧州諸国も支持し始めている。、、、好戦的で非現実的な米国でなく、中東の安定を模索する現実的なロシアと組んで、シリア危機の解決に取り組む方が良いという現実がある。
、、、、、
露中やBRICSにEUが加わり、イスラエルまでがロシアにすり寄って、中東の問題を解決していこうとしている。米国は傍観している。そんな中で日本は、軍隊(自衛隊)をこれまでより自由に海外派兵できるようにした。安倍政権や官僚機構としては、対米従属を強化するため、米国が望む海外派兵の自由化を進めたつもりだろう。しかし、この日本の動きを、世界を多極型に転換していくプーチンのシリア提案と重ねて見ると、全く違う構図が見えてくる。

プーチンが日本に言いそうなことは「せっかく自由に海外派兵して戦闘できるようにしたのだから、日本の自衛隊もシリアに進駐してISISと戦ってくれよ。南スーダンも良いけど、戦闘でなく建設工事が中心だろ。勧善懲悪のテロリスト退治の方が、自衛隊の国際イメージアップになるぞ。昨年、貴国のジャーナリストが無惨に殺されて大騒ぎしてたよね。仇討ちしたいだろ?。ラタキアの滑走路と港を貸してやるよ。日本に派兵を頼みたいってオバマ君に言ったら、そりゃいいねって賛成してたよ。単独派兵が重荷なら、日本と中国と韓国で合同軍を組むとかどう?」といったところか。


ありうる話ではないでしょうか。ISISに対して、アメリカはロシア、イランとともに戦うと言っているのだから、日本が米軍の代わりになって参加するといえば、アメリカも喜ぶし、ロシア、イランも助かる。今や国連軍ですから世界平和のための貢献だという大義名分も立つ。人払いした最後の10分で、アベ氏が北方領土との交渉との取引に自衛隊のシリア派遣を持ちかけ、密約の成立を図ったのではないか、といのはあり得る話ではないかと妄想するのですが、どうでしょう。もちろんそうなって困るのは、そこでアメリカのマッチポンプの道具に使われて命の危険に晒される自衛隊員です。
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