百醜千拙草

何とかやっています

報復の理

2023-10-31 | Weblog
イスラエル建国時から連綿と続く八十年近くに及ぶパレスティナ紛争、俯瞰してみれば、シオニストユダヤが、国土の拡大のために、先住のアラブ系パレスティナ人から土地を奪い、数多くのパレスティナ難民を生み出し、行き場を失った200万人以上のパレスティナ人を、外部の交通からほぼ遮断された天井のない牢獄と呼ばれる狭いガザに閉じこめてきた、民族弾圧の歴史であると総括できるかも知れません。

イスラエルが、ガザのハマスをテロリストと呼び、ハマス撲滅という名目で、ガザの子供たちを含む大勢の一般市民の大量殺人を行ったことは、Genocide以外の何物でもなく、パレスティナのアラブ民族を殲滅し、それによってエルサレムを含むヨルダン西岸とシナイ半島までの領域を完全にイスラエル国家のものとする目論見に向けて意図したものだと私の目には映ります。このガザへの攻撃は、9-11のあと、ジョージ ブッシュ(子)が、突然、イラクが大量殺人兵器を持っていると言いがかりをつけて、「テロとの戦い」と称してイラクに侵攻し、20万人の民間人犠牲者を出した事件を思い出させます。今回、この三週間でパレスティナ8000人以上、イスラエル1400人以上の犠牲者が出ており、イスラエルは空爆を激化させ地上侵攻の準備もしているようですから、パレスティナの一般人犠牲者はさらに増加するのではないかと思われます。

国連では、従来からのイスラエル支持のアメリカをはじめとする西側が、人道的見地から即時停戦を求めるロシア、ブラジルなどの提案を拒否してきましたが、流石に大多数の国はイスラエルのガザへの攻撃をイスラエルの自衛のためのハマスとの「テロ」との戦いであると強弁するのは無理があり、ジェノサイドであると見做しているようで、各国でガザ空爆に抗議し、パレスティナに連帯する大規模なデモの高まりを受けて、先日、121カ国の賛成を得、国連はようやく即時停戦を決議。イスラエルの後ろ盾、アメリカは決議に反対、アメリカの金魚の糞、増税クソメガネ政権は、アメリカの顔色を窺って棄権。忖度は日本のお家芸とはいえ、ヒロシマ、ナガサキの無差別大虐殺を被った国が、ガザ空爆による多数のパレスティナ市民の犠牲を止めるための停戦決議に自ら主張もできないとは情けない。

さて、前回、前々回とこのイスラエルのシオニストユダヤの心理を、旧約聖書の中から私なりに解釈しようとしてみました。一方でイスラムのアラブ パレスティナ側の抵抗運動を支えてきたものは何かということも考えてみたいと思いました。シオニストユダヤによって土地を奪われ、迫害されてきた人々が、イスラエルにどういう感情を抱いているか想像するのは簡単です。しかし、力で押さえつけられて、真正面から戦争しては勝ち目がない相手に対して、どう対処していくかという困難な決断にパレスティナ人は何を拠り所にしてきたのでしょう。パレスティナ解放機構内部にも強硬派と穏健派がおり、そのどちらにもその根底にはやはり信仰があったのではないかと私は想像します。

旧約聖書から読み取れるユダヤ教の底にあるのは、選民思想と強者の理論であり、目には目を、歯には歯をもって償わせるという復讐の連鎖を肯定するかのような考え方ではないかと私は感じました。それは、後で述べるように新約聖書でのキリスト教の考えと一致しないように思います。

アラブ系パレスティナ人の多くはイスラム教徒だと思われます。聖書の時代から随分経った紀元7世紀、人々が聖書の神の言葉を軽んじるようになったとして、改めて神が預言者マホメットを通じて伝えられたのがコラーンにある言葉ということになっています。故に、ここでのイスラムの神、アッラーはユダヤの神と同一であると考えられます。新約聖書では人の子、イエス キリストの言葉を伝えますが、キリスト教ではイエスは精霊とともに神の現れであるとする三位一体説によって、イエスの言葉はそのまま神の言葉となります。一方、イスラム教においては、イエス キリストはイーサーと呼ばれ、イエスはあくまで預言者にすぎず、キリスト教のような三位一体の立場はとりません。イスラム教ではイエスはあくまでモーゼと同じ人間であり、原罪を背負って死ぬこともありませんでした。そこから想像するに、イスラム教とは、ユダヤ同様、唯一の絶体神であるアッラー、すなわちヤハウェに帰依する信仰であり、ゆえに、これら3宗教は同根ではありますが、イスラム教はキリスト教よりは、よりユダヤ教に近いように感じられます。

そのイスラム教では、罪に対する罰には三つの与え方があり、うち、同害報復、すなわち「目には目を」的報復が認められております。またイスラムの罰則は社会の安寧を乱す犯罪に対しては特に厳しく定められているようです。ということは、イスラムの民が彼らの民族を守ろうとするためにイスラエルに抵抗し、イスラエルにやられたことをやり返すのは宗教的にも正しいことであると考えているのかもしれません。また、イスラムでは異教徒との戦い、即ち聖戦(ジハード)は義務であり、ジハードで死ぬと天国に行くと信じられているそうです。今回のハマスのイスラエルへの奇襲は武力で圧倒的に劣るガザ パレスティナの宗教的義務に基づくジハードであるとハマス支持のパレスティナ人が考えているとすると彼らの自滅覚悟のこの攻撃も納得できるように思います。そして、選民思想をもち、パレスティナは神が約束した土地であり、そこに住む原住民を殲滅するのも神の意図だとシオニスト ユダヤが考えているとすると、これだけの国際非難を浴びながらもガザ侵攻を止めないイスラエルの行動も理解できるような気がします。

その二つの宗教的民族が、預言者は違えど同じ神を信じており、その神から下された言葉によってお互いに戦い続けているのがイスラエル-パレスティナ紛争であると言えるのかも知れません。とすると、これがこの紛争の救いのないところではないかと私は思います。 

さて、イエス キリストを三位一体として神の現れとするキリスト教では、上の「目には目を」の精神とは、多少異なる言葉が見られます。最も有名なのは、新約聖書の「ローマ人への手紙」の中の「汝、復讐するなかれ、、、復讐するは我にあり」という言葉でしょう。「害をなす者に復讐してはならない、復讐は神の仕事である」という教えは「目には目を」という旧約での神の言葉と対照的なように思います。イスラム教のコラーンでは、上に述べたように同害報復が述べられていますが、一方で、次のような言葉も見られます。 

、、、傷害には(同様の)報復を、、、しかしその報復を控えて許すならば、それは自分の罪の償いとなる。(5:45)

 つまり、同害報復を認めると同時に、報復を控えることの徳も述べています。これは、あるいは、新約聖書の時代から数百年のあと、新たな預言者によって生まれたイスラム教という宗教がユダヤ教とキリスト教という宗教の両方を踏まえた上で成立した宗教であるからではないか、と考えられます。 とすると、パレスティナ人の中にも同害報復を求めるハマスのような勢力と、報復を良しとせず害をなすものを赦そうとする勢力もあるのだろうと想像します。

しかるに、想像するに、ユダヤでは、害を為すものを許し、右の頬を打たれて左を差しだすような行為は、教えに合わないものとされているのではないでしょうか。それゆえにイスラエルはハマスの攻撃に対して徹底的に報復しようとしているのではないのだろうかとも思います。たとえ、それによって、劣悪なガザという牢獄に閉じ込められ武器ももたない子供や市民の命が、何千、何万と失われようとも。
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民数記にみるユダヤの心 (2)

2023-10-24 | Weblog
イスラエルのシオニスト政権が建国以来やってきたパレスティナ人迫害、そして今回やろうとしているガザのパレスティナ人殲滅作戦とでもいうような軍事行動を支えている心理の根底に、ユダヤの信仰が中心的役割を果たしているのは間違いないはずです。シオニズムは古代のイスラエルの歴史の上に立拠し、それはユダヤ教によって正当化されていると思われます。

しばらく前からぼちぼちやりだした聖書通読プロジェクトは牛の歩みですが、現在、旧約聖書の4章目の「民数記」を一応、読み終えました。旧約聖書の最初の5章、モーゼ五書、はユダヤ教の骨子をなします。民数記では、神がエリコに近いヨルダン川のほとりのモアブ平野で、モーゼを通じてイスラエルの人に命じられた掟と命令などが書かれており、日本語二段で60ページほどあります。これらの細かく煩雑な掟や命令を、普通の人間がまちがいなく実行するのは大変困難ではないかと思われ、ほとんど絶対権力を持つ神の人間に対する「弱いものいじめ」ではないかさえ感じるほどです。

このあたりから、聖書にある「神」とはどういった存在なのかということを私なりに考え始めました。随分以前にも「ヨブ記」という旧約聖書の中で最も解釈が難しいと言われる章について述べた覚えがありますが、これは、サタンと賭けをした神が、信仰厚いヨブを試すために筆舌に尽くしがたい理不尽な苦難をヨブに与えるという話です。最初に読んだ時に驚いたのは、そもそも「神」たるものが「賭け」をしたり、信仰厚い人間を「試し」たり、そのために実際に苦しめたりするものなのか、ということでしたが、今になって思えば、「全知全能」の創造主たる神というものに人間の立場から求めるイメージを私が勝手に作り上げていたからのようです。

そこで、イスラエルの神とはそもそも何なのか、私になりに考えた解釈は、前々回にも述べた通り、その神とは擬人化された「自然」のことではないかということです。気をつけていないと、弱い人間は疫病、天変地異、さまざまな自然現象に巻き込まれて簡単に死んでしまいます。そうでなくてもいずれは老いて弱って死ぬ運命です。そして、自然界は、基本的に弱肉強食、適者生存の法則によって支配されているようです。神は、人間を弱い存在、自然(神)によってその生殺与奪を握られ、困難と苦しみの中で生きていく存在として創造しました。そこに「神の愛」があるかどうかは別次元の解釈のレベルの話です。そして、モーゼはそんな弱い人間が生き延びて繁栄するためのコツを数々の命令や掟という形でイスラエルの民に語ったのだと私は解釈しました。ユダヤの神は単に母性的な慈愛に満ちた存在ではなく、聖書にもあるように「ねたむ神」であり、契約にしたがって、いつでも人間を意のままに生かし殺すことができる畏怖すべき存在であります。また、同じく前回述べたように、厳しい環境の中で、強いものが弱いものを犠牲にして生き延びることは、神の意図したことであり、それが自然の(神の)法則であるとユダヤ人は考えているのではないでしょうか。私のこの勝手な解釈が正しいとすると、ユダヤ人に共通してみられる実利主義や計算高さや民族主義的思考が腑に落ちるような気がします。

「民数記」は、タイトルが示す通り、イスラエル12部族とその構成人数などの情報が書かれており、当時のイスラエルの民の規模が窺い知れます。ここでの物語は、モーゼが奴隷となっていたイスラエル人を率いてエジプトを脱出後、シナイ山で十戒を授けられる出エジプト記でのエピソードの後、彼らが旅を続けてヨルダン川に至るまでの話で、36節からなります。聖書に書かれている数字から推測すると、当時、モーゼが率いていたイスラエル12部族の全人口は200万人程度ではないかと見積もられます。聖書には細かい具体的な数字が書かれていますが、全人口は推計されたものにすぎません。というのは、神はモーゼに次にように命じたからです。

民数記1-1.1-3
「あなた方は、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を一人一人数えて、その総数を得なさい。イスラエルのうちて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者をあなたとアロンはその部隊にしたがって数えねばならない、、、、」

そういうわけで、聖書には「二十歳以上で戦争にでることのできる男子」の数だけが記載されているのです。つまり戦争に出ない老人、子供、女性の数は無視されています。

こうした記載から、旧約聖書の書かれた時代は、戦争に出ることができる若者の数を把握し、「戦争」に勝ち、攻められては負けないよう準備しておくことが非常に重要であったことが推測されます。敵と戦い、自分と自分の種族を守り、相手を倒して利用すること、それが、この時代の種族が生き延びるための日々の営みであり、第一の優先事項であったと考えられます。当時の砂漠の厳しい自然の中で生き残っていくために資源を手に入れるには、持っている者から奪うというのは重要な戦略の一つであったに違いないと想像するのです。また逆に力がないと奪われ、殺されるのが当然の世界であったでしょう。

民数記につづく申命記には、神の言葉として次のようにあります。

申命記1.1-.6-8
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、身をめぐらして道に進み、アモリ人の山地に行き、その近隣のすべてのところ、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、またはレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。見よ、私はこの地をあなた方の前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主があなた方の先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えるといわれたところである。』、、、

これが、シオニストがパレスティナの土地を略奪し入植を進めることの拠り所になっていると思われます。そして聖書には、その後、「神」の庇護の下、イスラエルの部族が、先住民を、女、子供を含めて殲滅し、その財産と土地を収奪していったかが詳述されています。

モーゼは神に代わって言います。

民数記7.2-3
(土地の略奪に際して) すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられるときは、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。またかれらと婚姻をしてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない、、、

民数記7.6
、、、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かねばならない。あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

古代イスラエルの民が生きた世界がどのようなものであったかが聖書から読み取られます。弱肉強食の現実を肯定し、強い選民思想と差別意識によって、他民族を殲滅し、砂漠の乏しい資源を奪ってわが物とすることを是とする教義によって、生き残ってきた民族がかつてのユダヤであった、と極論するのも可能でしょう。(これは、ユダヤに限りませんが)

そして、このモーゼ五書をユダヤの中心教義として成り立っている宗教国家で、極右シオニスト政権の支配下にあるのが、現在のイスラエルであると考えれば、イスラエルがパレスティナとの共存を頑なに受け入れず、ハマスを人の形をした獣とよび、パレスティナ人を殲滅しようするかのような行動を裏付けているのは、一種の狂信ではないのかと思うのです。イスラエルの民は神によって選ばれ、神が彼らに与えたパレスティナの土地に住む他の人々はイスラエルの民により滅ぼされる存在である、そのように神が創造したと彼らは心の底では信じているのかもしれません。
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民数記にみるユダヤの心 (1)

2023-10-17 | Weblog
イスラエルが宣戦布告をして以来の長い一週間でした。ちょうど山上被告のアベ殺害によって、統一教会の被害や政治腐敗の数々の問題が再び暴きだされたように、ハマスのイスラエルの攻撃によって長年のパレスティナ問題に再び世界が関心を向けることになりました。最終的にどのようにこれを解決していけば良いのかはわからなくても、多くのパレスティナ人が、命と財産と土地を奪われ、難民となり、そしてガザや一部の地域に閉じ込められて自由と尊厳を奪われ続けてきたという現状は改められなければならない、という思いは再び多くの人々によって共有されたのではないでしょうか。

人間が人間の都合で動物を利用し、殺して食糧にするように、帝国主義時代のヨーロッパ人はアフリカやアジアに侵攻し、力で土地の人々を奴隷にし、虐殺し土地を奪い富を収奪しました。日本にやってきたアメリカは大砲をみせて開国を迫り、日米通商条約という不平等な取り決めを押し付けました。つい最近まで、強いものが弱いものを自由にするのは強いものに許された権利であると、ヨーロッパ人は考えていました。ヨーロッパ人に限らず、弱肉強食、適者生存は世の常でした。日本も同じで、国内では戦国時代もそうでしたし、明治以後は西欧流の帝国主義に傾倒し、アジア諸国に侵攻し、「日本人は最も凶暴で好戦的な民族」と欧米諸国から警戒されるようになりました。

さて、土地を持たず権利を制限された弱者であったユダヤ人が、自らの国土を持ち価値観を共有する者同士からなるコミュニティーを確立したいと思うのは当然の欲求だと思います。そして、シオニズムに燃えるユダヤ人が、国家を創るとなればエルサレムを含むパレスティナの地以外にないと考えるのはもっともです。しかし、そこにはすでにアラブ-イスラム系の住民が住んでいました。シオニストにとれば、ユダヤでない先住民は邪魔です。そして、イスラエルの建国と発展は下に述べるように悪名高い虐殺から始まり、立場の弱いパレスティナのアラブ系住人を迫害し、天井のない牢獄と呼ばれるガザに彼らの多くを封じ込め、パレスティナの土地を収奪し入植者を増やすことによって進められてきました。これが80年近くにわたっての建国前から今日に至るイスラエルの歴史であると言えなくもありません。

改めていうまでもなく、ユダヤ人=イスラエル人=シオニスト=極右イスラエル軍ではなく、モスリム=アラブ人=パレスティナ人=ハマスでもありません。大多数のユダヤ人は平和な生活を望む普通の人々でしょう。一方で、パレスティナ人の恨みは深いでしょうが、そういう彼らも同じく平和で殺し合いのない世界を望んでいるのは同じだと思います。しかし、ユダヤ人の一部にパレスティナ人を迫害し土地を奪い虐殺するのも彼らの目的を達成する上でやむを得ないと考える人々がいて、パレスティナの中にも彼らの迫害の歴史を逆転させるには、一般イスラエル入植者を殺し、人質にしてでも彼らの怒りを表明する必要があると考える人々がおり、そうした一部の人々の間の、いわば「エゴ」の張り合いが、今回の多大な一般人の犠牲に繋がったのだと私は解釈しております。普通の生活を奪われた大多数のイスラエル人もパレスティナ人も犠牲者であります。しかし、今回の戦争に至った経緯には歴史的に積み重なった原因というものがあります。

イスラエル建国直前、シオニスト右派軍事組織は、エルサレム近郊のパレスティナ アラブ住民が住むヤシン村において、子供、妊婦、女性を含む少なくとも100名以上の村民を、暴行の上、虐殺しました(デイル・ヤシーン事件  建国初期イスラエルにおけるデイル・ヤーシーン事件の語り)。直後、イスラエルは1948年建国を宣言。このヤシン村のユダヤ人による虐殺が周辺のパレスティナ人を恐怖させ、75万人のパレスティナ難民を生み出すことになりました。このヤシン村虐殺は、シオニストがエルサレムを将来的に占拠するのに、都合が良いという理由で行われたようです。比較的ユダヤ人入植者に友好的であったこの村の村民を、手前勝手な理由で虐殺したのが建国前イスラエル軍の一部の組織でした。

今回のハマスによるイスラエル入植者への攻撃は「アクサーの大洪水」というコードネームで呼ばれています。かつてユダヤ人がエルサレムにあるイスラムのモスクであるアクサーに踏み込んで蹂躙した事件に拠っているそうです。つまり、二年間を費やして計画した大規模な「自爆テロ」とでもいえるような今回のハマスの攻撃は、パレスティナ村民を虐殺したユダヤのシオニスト同様、宗教的動機も大きかったのではないかと想像するのです。その点で、言葉は悪いですが、今回のハマスの攻撃を、75年前に起こった「ヤシン村虐殺」の意趣返しであった、力で及ばずガザという天井のない牢獄に閉じ込められたパレスティナ人の「恨み」のこもった最後の抵抗であったと解釈することもできるのではないかと思っておるわけです。

今回、イスラエルがハマス支配下のガザに宣戦を布告し、イスラエル国防省長官が、ハマスを「人間の姿をした獣」だ、と発言し、ガザ全体を兵糧攻めすると明言しました。私は、パレスティナ人から土地を奪い、難民化した240万人のパレスティナ人を狭いガザに閉じ込めて困窮させた上に兵糧攻めによって、民族殲滅を目論む方がよっぽど、人間の皮を被った悪魔であろうと思ったわけですが、この言葉を聞いて、これはユダヤ人シオニストの本音だと直感しました。つまり、彼らシオニストはパレスティナ人を最初から人間ではなく家畜程度にしか思っていないのではないか、それが「人間の姿をした獣」という表現となって、自然に口に出たのではないかと思ったのでした。このことは旧約聖書の神の言葉からも窺い知れると思うのですが、それはまた次回にこの続きで触れたいと思います。
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イスラエルの理屈

2023-10-10 | Weblog
ハマスがイスラエルを攻撃したことで、極右ネタニエフのイスラエルも報復。正式に対パレスティナ戦争への突入が宣言されたようです。イスラエルはガザのエジプトサイドを閉鎖、物理的攻撃に加えてガザを兵糧攻めにしようとしているようです。ツイッターでは、主にイスラエルサイドの逸話的な投稿を多く目にします。イスラエルの民間人がハマスの急襲でガザに連れ去られ捕虜にされたとか殺されたとかいう話。一方でアラブ世界以外でもイスラエル建国を後押しした英米で、ユダヤがドイツやその他のヨーロッパ地域で受けたと同じ仕打ちを、今度はイスラエルがパレスティナに対して続けてきた結果だとパレスティナに味方する人々のデモがあったことも流れてきています。

この根が深いパレスティナ問題、簡単に総括できる人は少ないと思いますが、イスラエル建国以来、イスラエルが四度の中東戦争を経て先住民であったパレスティナ人の土地を収奪し、アグレッシブに領土を拡大し入植者を増やしてきており、国連も再再度にわたってイスラエルのこの行動を非難してきたという経緯を鑑みると、判官贔屓の日本人ならずとも、現在のようにガザやその他の居住区に追いやられて、苦難の日々を送っているパレスティナに同情してしまうのが人情というものでしょうか。ちょうど、アメリカ大陸に移住してきたヨーロッパ人がアメリカ原住民を保護区に追いやって、土地を我がものにしたような状況に似ているようでもあります。

今回、ハマスが警告なしにロケット弾をイスラエルに打ち込み、民間人を殺傷、捕縛したことをイスラエルは強く批判しているわけですが、まさにそれと類似のことをパレスティナ人に対して行って、勝手に土地を奪い取り、無理やり入植を進め領土を拡大してきたという過去がイスラエルにはありますから、ハマスにとってみれば、たとえ一般人であっても本来「自分たち」の土地に勝手に入って住み着いたイスラエル人は、等しく自分たちを害する敵なのでしょう。

しかしながら、イスラエルにはイスラエルの言い分があります。もともとイスラエル人は神がモーゼに約束した聖なる土地であるパレスティナに古代から住んでいたが、2千年前にローマ帝国に支配されてパレスティナから出て行かざるを得なかったという古い歴史があります。とすると、イスラエル人はパレスティナはもともと神によって示された自分たちの土地であった、故にそこに自分たちが国を作るのは正当であると強弁するのも可能でしょう。しかし、そんな言い分が通るなら、ユダヤ人が住み着く前はその土地は誰のものでもなかったのだから、それは屁理屈であると反論もできます。理屈はどうあれ、イスラエルはパレスティナの土地を力づくでパレスティナ人から奪ってきたというのは事実です。とはいえ、ユダヤがイスラエルをパレスティナに建国したのはその宗教に基づいているわけですから簡単にはいきません。信仰と洗脳は紙一重で、彼らはパレスティナは「イスラエルの神が約束した土地」であると信じているわけですから。オウムの信者が一般人を無差別に「ポア」するのも、統一教会の信者が全財産を寄付するのも、信者はそれが正しいと信じていたからでしょうし。

最近、旧約聖書を少しずつ読んでいますが、ユダヤ教のトーラーは旧約聖書の最初の5章、モーゼ五書に基づいております。モーゼ五書のうちの4つをとりあえず読んで思ったのは、イスラエルの「神」とは「砂漠の自然」のことではないかということです。母なる自然は人間を含む全ての生き物を作り出し、養っていますが、人間ににとってみれば、「自然」とは、丸裸で一人で放り出されたら、数日と生きていけないような厳しいもので、恐れの対象に他なりません。モーゼ五書はその厳しい弱肉強食の「自然の法則」の中で、人間が生き延びる知恵について書かれているのではないかと私は解釈しております。自然の中では、自分より強いものから身を守り、自分より弱いものを食糧として犠牲にしないと生きていけず、物質的にみれば、それは恐怖に満ちた殺し殺される世界です。ユダヤの神とは擬人化された厳しい自然のことであり、その厳しい現実の世界を受け入れた上で、イスラエル人が生き残り繁栄を達成することがこの宗教における第一目的なのだと私は感じました。つまり、彼らにとって、自分の身を守り、自分と仲間のユダヤ人が生き残って利益を得るためには、邪魔なものを排除し、殺し、犠牲にしていくのは、正しいこと(少なくとも十分に正当化できる事柄)であると考えているのではないかと想像するのです。彼らにとってパレスティナの土地はそもそもが神がイスラエルの民に約束した土地であり、よって領土を彼らの自身の繁栄のために拡大するのは神の意に叶う正しいことであり、そのためにパレスティナ人が土地を失い、仕事を失い、家族を失っても、それは我々が他の動物を殺してその肉を食べるのと同じように、止むを得ない犠牲であると思っていると考えているのではないでしょうか。パレスティナ人にとってもエルサレムは聖地であり彼らが長年住んできた土地は彼らのものだと思っているでしょう。

ローマ帝国に支配されて以来、ヨーロッパに散り散りになって、差別され迫害されてきたユダヤ人が、同じことをパレスティナ人に対して行ってきたという矛盾をユダヤ人はトーラーによって正当化してきたのだと思います。これを中東のアラブ世界がジェノサイドと捉えれば、アラブ世界とイスラエルとその背後にいる米英との対立はさらに深まり、武力で劣るアラブはテロによる抗議を激化させることになりかねないのではと想像したりします。

今後、イスラエルとパレスティナがどうなっていくのか、私には予測はつきませんが、圧倒的武力差があり、ガザが完全制圧されるのは時間の問題だろうとは感じます。あるいは、一日でキエフは制圧されるだろうとの予測と裏腹に泥沼化したロシアーウクライナ戦争のような帰趨をとる可能性もあります。アラブ世界がどう反応するか、米英がこれまで通りイスラエルを支援するのか、そのあたりも大いに影響するでしょう。どんな結果になっても、「恨み」と「憎しみ」は増大し、長く残るでしょう。人間の感情の中でなかなか消えることがないのがこれらですし。

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パルティータ2 プロジェクト III

2023-10-03 | Weblog
今回のパルティータ2プロジェクト、この春から再開し、毎日10分ほどの練習を少しずつ続けて、ようやく5曲目のロンドに手をつけ始めました。これが終わると、最後の山場のカプリッチオです。今回こそは全曲通しで弾けるようになるまで頑張りたいと思います。

実は、このプロジェクトの再開にあたり、「6つのパルティータ」全曲と「フランス風序曲」が収載された楽譜を古本で手に入れました。クラッシック音楽の楽譜は大まかに原典版(urtext)と改訂(編集)版に分けられます。原典版は最も最初に出版された形に近いもので、改訂版は後の人々が原曲の解釈や指遣いなどを加筆、編集したものです。バッハの晩年になるまで現在のようなピアノは存在しなかったので、現在ピアノで演奏されるバッハの鍵盤曲のほとんどはチェンバロかオルガン用に書かれたものであり、またバッハ自身は演奏上の注釈をあまり加えなかったので、ピアノでバッハの曲をどのように演奏するかは演奏者の解釈に大きく委ねられます。ですので、ピアニストの解釈や指遣いなどが加えられている改訂版は、私のような素人学習者に向いています。私が手に入れた楽譜は、Hans Bischoffというバッハよりさらに200年ほどあとに生まれたドイツのピアニストが編集し1882年にドイツで出版された改訂版の英語翻訳版で、初版がニューヨークの出版社から1942年に出ています。手元にあるのは五十年は経ってそうな楽譜で、70-80年代のピアノブームの時にピアノ学習者が使っていたものではないかと想像されます。ピアノブームが終わり、デジタルピアノの出現もあって、日本で百社以上あったピアノメーカーもほとんどが淘汰されてしまい、高度成長期の豊かさの象徴でもあった昔のピアノが、しばしば処分に困る大型ゴミとして扱われている現状を見ると寂しいものがあります。

さて、「6つのパルティータ」は4巻ある「クラヴィーア練習曲集」の第1巻に収められております。2巻は下に述べる「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」、3巻は基本的にオルガン曲集で、4巻がバッハの鍵盤曲の最高峰、「ゴルトベルク変奏曲」となっています。

話が逸れますが、「ゴルトベルク変奏曲」の最初のアリアは映画などさまざまに使われているので有名なメロディーかと思います。普通の変奏曲では、主題となるメロディーははっきりしていて、変奏のパートが発展していくのが明らかなのですが、この変奏曲では主題が主音律で演奏されていないので、普通に聞いたのでは主題がわかりません。そのあたりの説明を含めこの曲の解析と解説をするだけの知識は私にはないので、それは専門家に譲りたいと思いますが、緻密にやればこの曲の解説だけで分厚い本にはなるでしょう。表面的ではありますがウィキペディアでの解説をリンクしておきます。ゴルトベルグを全曲弾くのは私には絶対無理だし、バッハ弾きのSchiffも安易に手を出してはいけないとピアノ学習者に警告しているほどですから、私はプロの演奏を楽しむだけにします。

さて、クラヴィーア練習曲集一巻の「6つのパルティータ」ですが、1番から6番までのkeyは、B♭、C、A、D、G、そしてEとなっています。つまりルートの音が1番から順番に+2度、-3度、+4度、-5度、+6度で変化していくという仕掛けになっています。そして、6つパルティータの入っているクラヴィーア練習曲第1巻に続く「クラヴィーア練習曲第2巻」の方には、「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」が収載されていますが、「イタリア組曲」のkeyはFで、6番目のパルティータのkeyである Eとイタリア協奏曲のkeyである F の間は-7度であり、クラヴィーア練習曲間でkeyが連続的に変化するようにバッハが意図しているのがわかります。これらパルティータ6曲とイタリア協奏曲のkeyを合わせると、C、D、E、F、G、A、B♭(ドレミファソラシ♭)になり、これに第二巻のもう一つの曲、「フランス風序曲」のkeyである Bを加えることによって、「調 (tonality)」が完成する、とこの本の解説に書いてあります。「フランス風序曲」は最初、Cのkeyで書かれたそうですが、おそらくこうした理由で、わざわざBのkeyに転調されたと考えられているそうです。転調が簡単にできたのもバッハの時代に確立した近代調律法のおかげでしょう。調律法の話は、もし将来、バッハの「平均律」を練習するようなことになった時にでもしたいと思います。またBの音(シ)はドイツではHとも書かれたらしく、B♭(B)で始まったクラヴィーア練習曲一巻と二巻がHの調で終わることでBACHという名前の最初と最後の文字を表しているとも解釈されているそうです。

話がずれますが、BACHという文字はアルファベットの順番に当てはめると2, 1, 3, 8で、これらの数字を全部を足すと14になります。Wikipediaにもあるように、バッハは自分の名前からこじつけた14という数字にこだわりがあったようで、作曲においても14という数字がしばしば現れるように書かれています。曲が14小節からなるように書かれていたり、音数が14になるように修飾音を工夫したりした跡が見られるそうです。またプロテスタントのキリスト教徒であり長らくライプツィヒの教会で音楽を担当していたバッハは、三位一体を象徴する3という数字や十字架を示す4つの音にもこだわっていたようです。ゴルトベルクで14のカノンが3変奏ごとに出てくるのもそんな理由のようです。こうした音楽的必然性とは別のバッハのこだわりはさまざまな形をとって曲の中に仕掛けられており、面白いものでは、ある手書きのオリジナルの楽譜でパッと見た時に十字架が現れるように音符を並べてあったりするものもあります。

このようにバッハの音楽には、数々の隠れたやメッセージや意図が隠されており、また、曲そのものも数学的に計算された緻密な構造をとっていることが、専門家によって研究、解明されています。残念ながら、私のレベルではバッハの音楽に仕込まれているこれらの仕掛けや構造美や宇宙観を十分に理解することはできません。それらを学ぶことと、バッハの作曲の音楽理論的解釈は完全引退した後の老後のプロジェクトの一つになる予定です。

さて、クラヴィーア練習曲集の二巻目に収められた「イタリア協奏曲」と「フランス風序曲」ですが、イタリア協奏曲は「急緩急」の三楽章の形をとり、右手と左手がソロ楽器とオーケストラが協奏するかのように書かれた曲で、明らかに舞曲組曲のパルティータとは構成が違います。一方、「フランス風序曲」の方はクラント、ガボット、サラバンド、ジークなどからなる典型的舞曲の組曲であるため、この曲の方は、別名「ロ短調(B moll)パルティータ 」とも呼ばれています。こういう事情で、この本では「フランス風序曲」を7つめのパルティータとして6つのパルティータと一緒に一冊に収載したようです。ただしこの組曲は全11曲からなり、演奏時間も30分を超えるので、通常のパルティータの約2倍の規模になっています。このフランス風序曲も美しくも壮大な組曲ですが、私にとっては高すぎる山で、当面は眺めるだけです。どうせなら、この改訂版の楽譜には、イタリア協奏曲を加えて、「クラヴィーア練習曲集一巻および二巻」としてまとめても良かったのではないかと思うのですけど、あえてイタリア協奏曲をはずした編集者は舞曲組曲にこだわったのでしょう。不思議なのは、こういう理由なら、どうしてバッハは最初から6つではなく8つのパルティータを書かなかったのかという点です。6つのパルティータのあとに、まるでつじつま合わせのように舞曲組曲ではないイタリア協奏曲とわざわざ転調までしてフランス風序曲を加えたのはなぜでしょうか?

私は勝手に、バッハは3 x 2 = 6という数字にこだわったのではないかと考えています。例えば、バッハの無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータは3曲ずつの合計6曲の構成で、バッハの好きな3を二つ組み合わせた数となっていることを思うと、鍵盤のパルティータの曲数も3の倍数でなければならなかったのではないかと想像しています。ま、これは勝手な想像なので、知っている人がいたら教えてください。

さて、今回は、パルティータではなくゴルトベルクの演奏を拾ってみました。

最近の若手で心に響いたピアニスト、Beatrice Rana の演奏。Goldberg変奏曲からアリア。

現代音楽の作曲家、演奏家として知られている鬼才、高橋悠治氏によるユニークな解釈による同曲、アリア。1970年ごろ。ピアノを弾くのは年金では食べていけないからだそうですが、、、

そして、この曲のおそらく最も有名な演奏者、グレン グールドが死の前年に行った二度目のレコーディング(1981年)全曲。グールドは若い時にこの曲のレコーディングでデビューして名声を博しましたが、私は年をとって多少丸くなったグールドのこの二度目の演奏が好きです。
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