百醜千拙草

何とかやっています

挑戦すること

2015-04-28 | Weblog
ちょっと前の首相官邸に小型無人飛行機が落ちて少量の放射性物質が検出されたという事件。

この「犯人」の人、ホンモノでしょうか。大したデモ効果は見込めないやり方にこのような高いおもちゃを使うでしょうか。だいたい、これ本当に犯罪ですか。
もっと不思議なことがその後、起こりました。この事件をマスコミが大々的に報道し始めて、事件の翌日には次のような記事がマスコミに載りました。

首相官邸で小型無人ヘリコプター「ドローン」が見つかったことを受け、政府は22日、行政機関や原子力発電所などの重要施設の上空で、小型無人機の飛行を原則禁止する方針を固めた。

空飛ぶオモチャが落ちてきただけのことで、ミサイルを打ち込まれたわけではありません。にもかかわらず、事件の翌日にいきなり規制の話が出てくるというのは、国民の健康と福祉に関しては異常に対応の遅い政府にしては、余りに動きは早過ぎるのではないでしょうか。しかも、この記事では、妙なことに、上空での飛行禁止をする重要施設の例として「原子力発電所」と書いてあります。

映像を撮影することのできる空飛ぶオモチャが官邸に落ちてきたから、原子力発電所近辺での飛行を禁ずる、普通の人間には理解できない理屈です。
しかし、Youtube にDroneを使って撮影した福島の放射性廃棄物の一時保管所の様子が事件の一週間前ほどに投稿されており、すでに5万回再生されているという話を聞くと納得できます。この映像では、放射能汚染された除染土が詰められた黒いビニール袋が大量に保管所の敷地内に並べられて野ざらしとなっています。

オリンピックまでは「完全にコントロール」されているはずの福島原発事故の実体が映像として拡散されては困るのでしょうな。この映像がYoutubeに流れた直後に、この事件。政府にとっては、渡りに船、しかしタイミングが良過ぎませんかね。この「犯人」ホンモノでしょうか。

かわって、明るい話題。

耳が聞こえず、話せない女性 明石市議選初当選 と言うニュース。
 二十六日に投開票された兵庫県明石市議選では、生まれつき耳が聞こえず、話せない明石ろうあ協会役員の家根谷敦子(やねたにあつこ)さん(55)が初当選した。家根谷さんは「障害がある人にもない人にも住みやすい町を目指したい」と意気込んだ。「障害のある当事者の声を議員として行政に届けたい」と福祉の充実や公共施設のバリアフリー化推進などを訴えた。


新たなこと、不可能に思えることに挑戦することによって、人間は可能性を拡げてきました。この方の勇気と支持者の人々の前向きさが、新しくより良い社会、行政、そしてヒューマニティーの進化を引き起こしていきます。この方に対応するために議会も、議会運営をサポートする市の行政システムもイヤでも変わらなければなりません。そうして可能性が広がっていきます。
結果はともかく、「挑戦すること」そのものに意義があります。今回、聞こえずしゃべれない方が勇気をもって市議会選に挑んだということが素晴らしいと私は思います。そして、大勢の人が共鳴してこの方を支持したということもそれと同じぐらいに素晴らしいと思います。
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魂の商人

2015-04-24 | Weblog
3週間後が〆切のとある財団への研究費申請書を書いています。二人で分担するつもりで書き出したのに、もう一人の人は反応が鈍く、結局は言い出しっぺの私が二人分書かねばならないような感じです。

最初の一ページ目のセールストークの部分を少し前に書きました。しばらく放っておいてから読み返して自分でも驚いたのですが、過去に書いた申請書と比べて、セールストークが随分上達していることに気がつきました。自画自賛ですが、研究申請におけるセールストークの四つのコンポーネント、Why、Who、What、Howが明快な論理に沿ってうまく配置され、研究の必然性と妥当性が強調されるように書かれています。(そのように自分で書いたつもりなのであたり前ですけど)この数年、申請書書きで随分苦しみましたが、それでも何か得たものはあったのだなあと思いました。(その得たものが今後、何らかの役に立つかどうかは別問題ですが)

このセールストークの部分、映画で言えば予告編です。ここでレビューアの期待感をいかに高めて、心を掴むことができるかが勝負です。激しい研究費獲得競争ですから、予告編が面白くないと、本文はマトモに読んでもらえずないまま予選敗退してしまいます。

最終的には、研究費申請書は、やはり研究計画の中身が第一なので研究がショボいといくらセールストークがうまくても売れません。しかし、研究内容がそこそこのレベルであれば、売り口上の果たす役割は大きいと思われます。私は、人付き合いが苦手でセールス的活動が嫌いで研究に入ったような所もあるのに、結局、セールス活動や人間関係にもっとも時間と苦労を費やすことになっているような気がします。

しかし、思えば、社会的存在として生きていく以上、人間は常に何かを誰かに売るという活動をしています。普通の仕事だと、商品、サービス、労働、などを売っています。アカデミアの研究だと、もう少し間接的になりますが、研究成果を元にして研究計画を研究費を出す側に売るということになります。必ずしも金銭的な意味ではなく、人と人や社会とは、give and takeの関係が成り立たないと動かないという意味です。そのgiveとtakeのtransactionに仕事や生活が依存している現在社会では、人間は皆「商人」と言えるかもしれません。

多少、上達はしてはいますが、私はまだまだセールスはうまくありません。拒絶されると傷つきますし。しかし、商いは牛のよだれとも言います。細く長く、誠実に続けることが大事なのでしょう。

「魂の商人」、石田梅巌は、「正直に儲けること、儲けたお金は社会に還元すること、それが経済人・商人がすべき役割であり、果たすべき義務と責任であると述べ、「武士道」に対する「商人道」を打ち立てたそうです。

研究費申請書も、正直さと社会への貢献を念頭にやらねばいけないと戒めながらやっております。
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私小説的研究、歴史小説的研究

2015-04-21 | Weblog
同僚と雑談中、細胞周期のG1/Sへの進行に必要な最小数の因子をin vitroの再構築系を作って証明したNatureの論文を、論文抄読会で読むつもりだという話をされました。話そのものはわかりやすいし、その証明が価値があることであることもわかります。

細胞周期研究が盛んであったのは、もう20-30年前で、その大方のパラダイムというのは既に確立されています。細胞周期制御の分子メカニズムはまだまだわからないこともあるのでしょうが、世間の人々は、大体の輪郭が見えてきた時点で興味を失っていき、教科書に載ってしまうと、関係者以外は、もう「終わった」分野だと思うのではないでしょうか。

それで、この論文の著者は、この仕事を次にどう発展させていこうとしているのだろうか、と話を振ってみました。(おそらくまだ若手であろうと思われる)第一著者の人が、今後キャリアを築いていく上でこの仕事をどのように足がかりに使って、研究をどの様に展開していくのだろうか、と想像したのです。当事者に聞いたわけではありませんから、もちろんわかりません。

かつてインパクトのあるNature論文を筆頭で書いて独立した知り合い人は、結局、そのNatureのネタを発展させて自分の研究をつくるということが(リソースの関係で)できなかったので、もっとレベルの低い雑誌に載った別の研究室でやった共同研究の方を発展させる形で研究展開しました。

細胞周期の研究に関しては、流行が過ぎて20 -30 年たった現時点では、やって「許される」人々はすでに決まってしまっているだろうと想像します。つまり、いくらこの分野でNatureの論文を筆頭で書いたところで、その著者が地位を確立する前の若手であれば、責任著者の研究路線と明確に異なった新しく意義のある(すなわち人々が興味をもってくれる)研究を展開しようとしない限り、金を出す方がウンといわないだろう(そして金がなければ研究はできません)と想像せざるを得ません。金を出す側にしてみれば、同じような研究をするのなら、若手の筆頭著者ではなくベテランの責任著者の方に金を回そうとするでしょう。

私小説的研究と歴史小説的研究と、私は研究をおおまかに二つにわけて見るクセがあるのですが、この細胞周期のNature論文は前者です。私小説研究とは、ある劇的な発見に関して、それを垂直に掘り進めて展開していくような研究です。垂直に掘り進めるのは大変です。簡単に掘れる地表に近い部分は既に掘り尽くされているのですから。そして、多くの他の人々は地表にいます。掘り進めれば掘り進めるほど、掘ること自体も困難になり、地表の人々からも見えにくくなっていきます。そしてある時点でこれ以上掘れないというレベルに必ず達します。そのころには、あまり深く潜り過ぎて一般の人々はついていけずに、興味を失っています。つまり、人々の評価という点で、苦労のわりに報われない仕事です。ですので、こういう研究を続けれる人はすでにその分野の大御所で、論文や金やキャリアはすでに気にする必要もない人に限られ、そうでない人はとっくの昔に淘汰されていなくなっているわけです。先のある若手の人だとリスクの高い仕事だと言えると思います。

対して、歴史小説的研究は、人々が注意を向けるような、パッと目につく面白そうな出来ごと、発見、トレンドなどに自分のユニークな技術や専門知識などを適用することで価値を付加していくような研究スタイルのことです。人々が興味を持ちそうな題材は外にあります。ウケそうな題材を見つけて、自分の専門を生かして比較的容易にできる部分の研究をタイムリーに行う。目的と手段との妥協点を先に見つけて、簡単で点数の取りやすい問題から解いていくわけです。こちらは圧倒的に人々に理解されやすく、労力が比較的かからず、その分リスクもすくない(その分、大発見する率も低い)と思います。そこそこの論文を出し続けないとキャリアそのものがないという若手、中堅の人は、この手の流行を追いつつも、自分の専門を生かしてユニークに寄与できるような研究を中心に進めるということになるのではないでしょうか。感動の大長編よりも、早く、安く、そこそこの質のものをタイムリーに提供する方が「商業的に」成功すると思います。

研究者には専門分野がありますから、これらの私小説的な部分と歴史小説的部分の両方がないと長続きしないと思います。縦に掘り進む研究はアイデンティティーと信用性のために不可欠ですが、そればかりだと、世間の人々から乖離してしまいます。そうなると研究費はあたらないし、いずれ掘りすすめないレベルに達した時点で終了になります。

研究者として成功してきている人もそのキャリアの中で2-3回は大きな方向転換をするのが普通ではないかなと思います。一山あてて、そこで私小説的活動をやりつつ、新たな山を探して自ら変化することに積極的でないと、そのまま雪隠詰めになってしまうことになりかねません。

このNatureの筆頭著者の人が数年後にどんな論文を書いているだろうかと想像したある日の午後でした。
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斧を研ぐ

2015-04-17 | Weblog
現代の社会、浜の真砂のように悪口のネタは尽きません。
しかし、どうも世の中が「間違って」いて住みにくいのは、われわれがそのように考えるようにできているからのようです。積んでは崩される河原の石や、繰り返し同じ岩を山頂へ担ぎ上げさせられるシシュフォスのように、我々は向上を目指して、作っては壊すことを繰り返し、その過程で何らかのものを学ぶことを期待されているように思います。それで、われわれは常に不満を持つようにプログラムされていて、世の中は住みにくいように創られているということのようです。
だからこそ、世の中を良くしようと考え努力することそのものに意義があると思います。

先日、テレビの報道番組の生放送で政府の報道機関への圧力を暴露し、アベ政権批判をした古賀さんが、ガンジーの言葉を引用しました。

「あなたの行う行動がほとんど無意味だとしても、それでもあなたは、それをやらなければならない。それはあなたが世界を変えるためではなく、あなた自身が世界によって変えられないようにするためです」

暴走するアベ政権、長いものに巻かれたい「分別ある大人」と力と希望を奪われた若者の国で、人々がいくら官邸を取り囲んで政権批判デモをしても、原発が爆発して町が丸々消えてしまっても、何も聞こうとせず、見ようとせず、自分の理屈だけを一方的に押しつけるだけで、何も為になることをしない政府。投げやりになってしまう気持ちはよくわかります。
それでも、知り、考え、小さな行動を起こすことが大切なのだと思います。社会は何も変わらなくても、われわれ自身が何かを得ることができると思います。

例えば、宇宙開発研究です。本音では誰も本気で火星に移住するなどということは考えていないのです。ただ、月に行ったりロケットを打ち上げてみたりするというのは、そういう「挑戦」を通じて、何らかの新たな地上で役立つ技術を開発することが真の目的であり、そのためにスケールの大きな目標を掲げて努力すること自体に意義があるのです。「世直し」するというにもそれに近いものがあるような気がします。それに、本当に世の中が天国のようになってしまったら、我々が地上で生きている意味はないのだろうと思います。

というわけで、悪口のネタに注意を向けるのをやめ、起こっている現象への理性のよる善悪の判断を保留し、そこから何が学べるかということに注意していきたいと思うこの頃です。

悪口をいうかわりに、もっと建設的で心に残るいい話やよい言葉を探しながらやっていきたいと思います。

そこで、今日のいい言葉。

奴隷解放の父、エイブラハム・リンカーンの言葉。

「木を切り倒すのに6時間もらえるなら、私は最初の4時間を、斧(おの)を研ぐことに費やしたい」


大きな目的を達成するためにまずは実力をつけよということでしょうが、目的を達成すること以上に、斧を研ぐこと自体は重要だろうと私はと思います。

関係ないですが、さっき、パーシー スレッジ氏が73歳で死去したとのニュース。アメリカの50-70年代というのは戦後の好景気もありアメリカ文化が眩しい時期でした。ちょっと過剰なのがカッコいい時代でした。昔、試験勉強のBGM用に編集したカセットで繰り返し聞いたのを懐かしく思い出します。

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宰相A書評から

2015-04-14 | Weblog
少し前に、芥川賞作家の田中慎弥さんによる「宰相A」という小説が出版されたそうで、その書評みたいなものを読みました。

我が国とアメリカによる戦争は世界各地で順調に展開されています。いつも申し上げる通り、戦争こそ平和の何よりの基盤であります。」
「我々は戦争の中にこそ平和を見出せるのであります。(中略)平和を掻き乱そうとする諸要素を戦争によって殲滅する、これしかないのです。(中略)最大の同盟国であり友人であるアメリカとともに全人類の夢である平和を求めて戦う。これこそが我々の掲げる戦争主義的世界的平和主義による平和的民主主義的戦争なのであります。」


(この漫才のネタのようなことを真顔で言うのがブッシュでありアベ政権です)

田中は地元のイベントで、一度、安倍と顔を合わせたことがあるらしく、そのとき安倍は田中に向かって本の感想を述べたのだという。

だが、田中が気になったのは、安倍の〈うつろ〉さだった。
〈私が顔を見ても安倍氏の方は視線を落として、目を合わせようとしなかった〉〈政治家っぽくない人、向いてない仕事を背負わされている人という印象だった〉
 このときの印象が『宰相A』での描写に通じていることを思わせるが、田中はさらにテレビ越しに見えてくる安倍の性質について洞察。〈いいですか、いま私が喋ってるんですから〉などとどうしようもなく子どもっぽい反応を示すことや、〈自分と意見が違うその人物をせせら笑うという不用意な顔〉を見せてしまうことを挙げて、〈これは、ルーツである山口県の政治風土の表れではないかと私は思う〉と述べている。

〈相手をせせら笑う不遜と、私と会って目も合わせなかったうつろでオーラのない表情の落差。つまり安倍氏は明らかに、政治家としての自分を強く見せようとしている。強くあろうとしている。なぜか。安倍氏は弱い人間だからだ。強くあろうとするのは弱い証拠だ。

安倍首相の強硬姿勢が彼の政治的信条に基づいた行動なのであれば、まだ議論の余地もある。だがそうではなく、安倍自身の血筋というプレッシャーや、本来のパーソナリティである弱さを隠すために過剰に強くあろうとして偉大な祖父が成し得なかった偉業に挑んでいるのであれば、それは暴走だ。しかも、こうした暴走への危惧は、きっと安倍首相には通じないだろう。なぜならそれを受け止めることは、自分の弱さを認めることになるからだ。
 自分の弱さを否定するために、戦争への道をひた走る首相。──『宰相A』で描かれた恐怖は、いま、まさに日本で進行している現実である。(水井多賀子)


鋭い解説。その通りでしょうね。危ないです。ほとんど精神の病です。そういう人間が、国家を運転する能力もないのに運転席に座っていて、もうちょっと頭の良いはずの周囲の人間はその現実を見ないふりして思考停止しているのです。乗客である国民は、暴走列車に乗せられていることを気づいているのに、運転席に入って非常ブレーキをかけることもできない、よくあるホラー映画のようです。

今回の選挙も驚くべき低投票率で、若者はもう選挙に行かなくなったという話。これで昔の自民党に恩義を感じる地方の義理堅い老人がいなくなったら、選挙では創価学会会員以外は投票する人がいなくなって、公明党が単独与党になるかも知れませんね。

しかし、盛者必衰、有為転変、天網恢々です。暴走列車もいずれは止まります。その衝撃に備えましょう。
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不思議なこと

2015-04-10 | Weblog
NatureとかScienceとかに出ている日本の大学や研究機関の10ページぐらいにもわたる広告をしばしば目にするのですけど、そのつど思うのですが、一体この広告を誰が読むのでしょうか?私は興味半分でパラパラと見ますけれども、もちろん広告効果はゼロです。だいたい、何の目的でやっているのでしょうか?広告を出すと論文が通りやすくなったりするのでしょうか? どうしてそこにエラいさんの顔写真を載せるのでしょう?一回あたり数百万はかかるだろうと思われるこの広告費はどこからでているのでしょうか?おもいやり予算ですかね。不思議です。

原子力規制委員会は8日、再稼働の前提になる安全審査の申請が出ている関西電力美浜原発3号機(福井県)について、規制委の有識者調査団が実施している敷地内断層調査の結論を待たずに本格審査に入ることを決めた。調査団の結論を受けて審査で断層の活動性を判断するとしてきた従来の方針を転換する。という話。
原発事故の恐ろしさを目の当たりにしたばかりで、原発は安全性を確認してから稼働を考えるのが当然で、しかもこの原発、建設から38年が経過していてあと二年で耐用年数40年となる老朽原発。万が一のリスクを考えれば、どう考えてもこのまま廃炉にするのが当然の判断だと思うのですが、どうして、十分な調査の結果もまたずに再稼働に向けての手続きを進めるというようなバカげたことをするのでしょう。この田中某とかいう旧帝大出の頭のよいはずの人の思考回路、ホントに不思議です。

近隣諸国が雪崩を打って参加表明したアジアインフラ銀行、世界は、ドルから離れて、中国、ロシア中心の新しい経済体制に前向きであり、普通に考えたら、これに参加しない手はありません。特に日本はアジア開発銀行の拠点、より有望な通貨基軸への移行をも視野にいれて、それこそ先輩ずらして協力を申し出るのが賢い選択というものです。アメリカから止められていた韓国でさえ、参加を表明。入らないのは日本とアメリカだけ。アメリカとドル基軸の没落、BRICS諸国の台頭は、自然な成り行きであり、アメリカ人自身も世界の覇権国であることよりも、普通の幸せな国であることを望んでいるというのに、ずっと足蹴にされバカにされてきたその沈む泥船の方に忠誠を誓いつづける我が国の政府。政府で実質的な権力をもつ行政官僚は、子供のときから勉強は得意なはずなのに、アメリカ従属に関してはどうして思考停止してしまうのでしょうか。アメリカ先生の言いつけは絶対だと思っているのでしょうか。進駐軍の時代から代々受け継がれたアメリカ教の信者で、いつまでたってもカルト洗脳が解けないのでしょうか。大変、不思議です。

沖縄の辺野古への基地建設を地元県民、沖縄知事、国民大多数の民意を無視して、強引に押し進めて、アメリカの恒久的植民地であり続けようとする日本政府。アメリカにはヘコヘコして、「もうすぐアメリカ議会に呼んでやるから、そこで、TPP参加を高らかに宣言して、日本の国家主権をアメリカ企業に売り渡すように」と命令されたら、まるで棒を投げられた犬のように喜びいさんでシッポをふって飛んでいくくせに、沖縄に対するその態度は、傲岸不遜。十年も前に駐日大使モンデールが沖縄基地縮小や在日海軍撤退の計画を阻んで「出て行かないでください」とすがったのは日本政府の方だと暴露しました。この日本政府、アメリカにはM体質で日本国民にはS体質の異常な性癖の人間が集まっているのか、単に長期的視野にかける刹那主義者の集まりなのか、よくわかりません。不思議です。

不思議に思った所でどうしようもありませんので、できる範囲で日本政府の愚行のツケを被らないように身を守ることを考えるしかないのですが。
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パスオーバーとイースター

2015-04-07 | Weblog
イラン核開発に関する6カ国協議、2日の期限の延長の末、合意に達しました。イランの立場からすれば不公平感は拭えませんが、現在のところ最善の結果であろうと思います。少なくともイラン一般国民にとって西側との緊張した関係が緩やかになってくることはプラスが多いと思われます。
例によってイスラエルは、まだ強情にも反対、ホントにアベ政権を見るかのようです。

どこの国の誰が何と言おうと、核開発の目的は核兵器をつくることです。それをおおっぴらに言えないので平和利用とか発電とかという建前を言うわけです。イランの目的もそうでしょう。今回の協議は、もちろん、イランの核兵器開発を防ぐことを建前上の目的としています。ウランの濃縮率の制限や核物質の保有上限などをかなり厳しく制限した上で合意に至りました。しかしイランから周囲を見渡せば、アメリカもイスラエルもインドもパキスタンも中国ももちろんロシアも皆が核武装しています。そんな既に核を持つ国々がイランに対して「核開発をするなら制裁する」と言っているわけです。
スジから言えば、核保有国が核軍縮をまず行い、その上で他国の核開発に口を出すべきところでしょう。そのかわりに脅して制裁を加えて力ずくで押さえつけようというわけです。だから今回、対話が続いて、仮にイランの核開発を抑制できたからと言って、世界は何一つ平和にはなりません。むしろ、中東の平和を願うのならイスラエルの過激シオニスト政権を何とかする方がよっぽど効果的だと私は思っております。

イラン周辺ではしばらく前に新年を祝ったところですが、イスラエルやユダヤ人社会では、週末からユダヤ教のパスオーバーが始まっています。ユダヤ人がエジプトから脱出した故事に習っての祭りです。神がエジプトに厄災をもたらした時、ユダヤ人の家は通り越して(pass over)助けたということから来ています。パスオーバーでは(エジプト脱出が急であったために酵母を使ってパンを焼くことができなかったというので)酵母なしで作った平たいパン(Matzo)を食べます。一方、キリスト教では日曜日は復活祭でした。興味深いことに、復活祭(イースター)の別名、パスクという言葉と、パスオーバーのヘブライ語、ペサハは同根なのだそうです。しかし、イースターは処刑されたキリストが復活した日の祝いであり、パスオーバーは旧約聖書の出エジプト記に由来するもので、全く別物です。単にキリストが処刑されたころとユダヤジンのエジプト脱出の時期が季節的に一致したというだけのことのようです。最後の晩餐はパスオーバーの間に行われたもので、その時にキリストと弟子たちがたべていたものはMatzoであったそうです。興味深い話です。

キリストが処刑された日、聖書の記述によると、どうも日食が起きていたようです。過去を振り返ると、ユダヤの祭日に日食や月食が重なる年に大きな出来ごとが起こるそうです。そして、今年のパスオーバーには月食が起こることになっており、去年からユダヤの三つの祭日に日食や月食が連続して重なっています。

荒野の声から
その後の歴史においても月食と日食がユダヤの暦との係わりがあった。、、、
20世紀にも同じような現象が2度起こった。1948年と1967年である。1948年にはイスラエルが建国した。1967年には「六日戦争」の結果、エルサレムがイスラエルのものになった。この二つはイスラエルの存亡に関わる重大事態である。共に天体の異変があった。しかし、数年に2度である。今回は1年半の間に6回も起こる。聖書には主イエスの再臨に伴う天体の異変が書かれている。、、、 歴史上、これほどの頻度でユダヤの祭りと天体の現象が共鳴するのは恐らく初めだろう。と言うことはよほど大きな出来事が起こると見ていいだろう。


という予測をしている人もいます。イスラエルと日本の暴走政権を見ていると、中東に何か起こってもおかしくないような気がします。私は、知能不足で暴走するアベ政権とネタニエフ政権の先は短いと思います。かなり劇的な形で終わるような気がします。そのときに起こる混乱が心配ですが、それはいずれにしても必要な過程でしょう。

今回、イランと6カ国協議でとりあえず一歩前進したことが、最終的に中東の平和をもたらす兆しのように私は感じています。
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頭のいい人の発想

2015-04-03 | Weblog
ちょっと感心したこと。
世の中には頭のいい人がいますね。人間、誰でも自分には人にはない価値がある思っていて、人と比べて「勝った、負けた」という判断をするものです。人の性ですけど、この傾向の強い人は余り幸せにはなれません。上には上がいますからね。
数年前のTED レクチャーでカーネギーメロンのコンピューター研究者の人の話を聞いて感心しました。アイデアの出し方、発想を全く別の次元の立場に立って行うこと、頭のいい人はそういう点が優れていますね。

この人はCAPCHAというインターネットのインターフェイスで情報入力している相手が人間であること確認するためのソフトを開発した人です。何らかのフォームを送信しようとすると、しばしば変に歪んだ文字が画面に現れて、その文字が何であるかを判別して入力させるヤツです。人間だと容易な歪な文字の認識がコンピューターだと正確にできないのを利用しています。私はしばしば解読を誤るので、このシステムは迷惑だなと常々思っておりましたが、開発者の人も当然、大勢の人がこのシステムのお陰で迷惑していることは理解していたわけで、それで、せめてこのシステムに費やす人々の時間をもっと有効に使えないかと考えたのだそうです。ここで、頭のいい人は以外な観点から発想を出していくのですね。

それで、この人は、では、デタラメの文字列の代わりに本物を解読してもらおうと考えたのだそうです。つまり、コンピューターでは読めないような文字を人間に解読してもらって入力してもらい、認証と同時に認証者に仕事もしてもらおう、というアイデアです。具体的には、昔の印刷された文書のデジタル化です。デジタル化はコンピューターにイメージ化されたテキストから文字認識させてやっているわけですが、とくに古くて痛んでしまったような文書ではかなりの率で正しく読めないのだそうです。これをCAPCHAのプロセスの間に本物の人間にやってもらうのです。

この発想から、発展して今度はウェッブサイトを翻訳するというプロジェクト(Duolingo)も始まっています。
世の中には、外国語を学びたいという人が大勢います。普通は、語学学校などに授業料を払って教えてもらったり、コンピュータープログラムや教科書で自分で学ぶということになるのですが、この言語学習のプロセスを実務的な翻訳に利用してしまおうというアイデアです。このコンピュータープログラムで外国語を学習すると、その練習問題が実は「本物」のサイトを翻訳することになっているのです。初心者の学習者であっても同じ問題を大勢の人にやってもらって、最大公約解を拾っていけば、プロの翻訳家なみのクオリティーの翻訳になるそうです。素晴らしいのは、言語を学びたい人はタダで学べるし、プログラムを提供する方はその学習プロセスから実際に役に立つ成果を得ることができるというwin-winの関係になるということです。

話も大変面白いです。ヒマな時にどうぞ。

Massive-scale online collaboration:luis von Ahn
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