百醜千拙草

何とかやっています

アヤさんの歌

2021-07-30 | Weblog
毎日、五分のフランス語のミニ レッスンのせいか、ネットでも実生活でもフランス関係のものが目につくようになりました。多分それで、このところフランスがらみの話題が多くなってます。

私の子供時代は、フランスのポップカルチャーが日本に盛んに入ってきた時代でした。フランスの雰囲気を商品のコンセプトにする企業も多く、いまは無くなってしまいましたけど衣料メーカーのレナウンは、当時流行ったYe-Yeと呼ばれたフランスのポップスにならい、レナウン イエ イエ というコマーシャルを展開、「アイドルを探せ」で世界的なヒットを出したYe-Ye 歌手のシルビー バルタンもコマーシャルに起用しました。多分、このフランス若手女性歌手を使った日本企業のイメージ戦略は、以後、ブルボンのコマーシャルにでていたアリゼぐらいまで続いたと思います。今は残念ながら日本でのフランスのポップカルチャーはすっかり下火になりました。しかし、多分、日本の昔の歌謡曲のアイドルというのは、この時代の若手フランス女性歌手、シルビー バルタンや「シャンソン人形」のフランス ギャルなどをモデルとして発展したのではないかと思います。

戦後、否応なく流入した戦勝国のアメリカ文化には抵抗を示す人も少なからずいたと思いますけど、フランスに関しては日本人は素直に憧れを抱くことができたのではないだろうかと思います。おそらくそういう事情で私は70年代ぐらいのフレンチポップスを聞くとノスタルジックな気分になるのです。

最近の音楽はあまり聞かなくなってしまいましたけど、たまたま興味本位で見た Aya Nakamura さんのビデオはなかなかロマンティックでよかったので、リンクします。曲調は70 - 80年代ぐらいのメローなソウル系、ストリングスとコーラスのアレンジがゴージャスでいい感じです。ボーカルはフランス版ビヨンセという感じですかね。

日本でも知名度が上がってきているようですが、アフリカ系フランス人歌手で、Aya (本来はアジャと発音するようです)は本名ですが、Nakamuraはひと昔前に流行ったアメリカTV ショー、HERO、の主人公Hiro Nakamuraからとった芸名とのこと。

このビデオのロケ地は、パリのオペラ座の裏にあるデパートで、壮大で美しいステンドグラスの天井と吹き抜けに突き出た展望台が観光名所になっていて、私も行きました。これだけの立派な建物ですけど中身は普通のデパートなので経営は大変だろうなあと余計な心配をしたことを覚えています。

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Traditionは1993年に始まった

2021-07-27 | Weblog
どうでもいい話ですけど、毎週末は、だいたい決まった店でパンを買います。お昼のサンドイッチ用の食パンと週末に食べる用のバゲットです。美味しいパンやごはんというのは幸せの象徴だと思います。平日の朝はごはんで、休みの日の朝はコーヒーとパンです。

それで、この間の週末もバゲットを買おうとしたのですけど、品薄だったので、たまには違うパンにするかと思い、Pain de Campagne というのをはじめて買いました。名のとおりの「田舎パン」でずっしりした重みと茶色の硬い皮の丸いパンです。少し苦味があり、これはライ麦が混じっているからのようです。ライ麦入りのパンはサンドイッチなどにはちょっと使いづらいですけど、シンプルにそのまま食べる分にはその独特の風味は悪くないです。

この田舎パンはどうも、昔、フランスの村で人々が共同カマドでパンをまとめ焼きしていたころのパンらしく、家族で数日で食べるように焼くものだそうです。一方、街ではバゲットが作られるようになり、バゲットがフランスのパンの主流になって今に至ります。

バゲットは非常にシンプルな材料で作られています。二年前にパリに行った時にたまたま入ったコーヒーショップの目の前にバゲットコンテストで優勝したパン屋があったので、そこでバゲットを買いました。その時に、トラディシオンかオーディネアかと聞かれたのですけど、当時はフランス語の知識はほぼゼロだし、バゲットに種類があることも知らなかったので、「レギュラーのバゲット」と言って頼みました。多分オーディネアをくれたのだろうと思います。

調べてみると、トラディシオン (baguette tradition) はフランスで産業革命以後、バゲットの味が落ちつづけたため、その品質向上のための政策から生まれたもののようです。簡単に言うとordinaireの方は量産型のために酵母や砂糖などが使われているようですが、traditionの方は昔の製法に準じて作られたもの、という差です。さらに1993年の法律で、baguette traditionは水、小麦、塩、パン種、の四つの成分以外を使ってはならないという規制が加えられ、加えて手で棒状に伸ばされるので、それがtraditionの形と味を決めています。ベンチの上で手で伸ばしながら長くするので普通、端が細くなります。ということで、小さくて、先が尖っていて、ちょっと値段が高いのがtradition、長くて端が丸く、安いのがordinaireということです。私が買ったバゲットは普通に美味しかったですけど、感動するほどではありませんでした。知っていたら、traditionの方を買っていたのになあと思います。

興味のある方は下のリンクの記事をDeepLしてみてください。


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生き残り戦略

2021-07-23 | Weblog
昔からの研究仲間の知り合いと久しぶりにあったので雑談。彼は医学部時代にロックバンドをやっていた人で、最近、二十数年ぶりに再結成してコンサートをやったという話を前に聞いていたのです。そのコンサートがLP(ビニールの円盤)、CD、それからカセットになって出たということでした。ファンは昔の人なのでLPとかカセットがいいのだそうで。本人は下腹が出てきて頭の毛も薄くなっているのに、さすがかつてはグラム系、ジャケットの写真は別人。

調子はどうだ、というので、パッとしないよ、と答えると、私が去年、体を悪くしたのを知っていたので、体調を心配してくれたのですが、いやパッとしないのは研究の方、というと、笑って、まだ研究のことを気にしているのは立派だ、と言われました。別に皮肉でも何でもなく、彼にとって、研究とは、まず第一にメシの種なのだということです。いくら好きでやっている研究といっても、生活も家族もあれば、まず生活の糧を得るという部分を疎かには出来ません。食っていくことは優先条件です。優先順位がしっかりしていると計画が立ち、余裕ができます。余裕がなければ何事もうまくいきません。彼がずっと努力してきたこと、何度か理不尽な危機に見舞われ、その都度、困難を乗り越えてきたことは知っているので、彼の研究に対する情熱は疑いないものですけど、情熱があるから成功するというものではないですし、成功するためには、まず継続できなければならないという前提があります。彼はそのためのストラテジーを冷静に考えてきたから生き残っているのでしょう。

残念ながら、それなりのポジションがあって、希望すれば誰でも研究でメシを食っていくことができるというような時代ははるか昔に過ぎ去ってしまいました。私が研究に興味を持った若い時は、野心も将来の希望も時間も体力もありましたけど、先のことまでじっくり考える能力はありませんでした。そのまま研究の世界に入って、ある日ふと気がついたら、先に見えるのは暗闇で、振り返ると、昇ってきた梯子はすでに無くなっていました。若い時に長期的なプランや戦略を考えておくべきだった気づいた時には遅すぎたのでした。ま、今となっては、どうでもいいことですけど。
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アデュカヌマブ認可の意味

2021-07-20 | Weblog
ちょっとこれはあとを引きそうだなと感じたので少し。
先月のFDAの承認以来、強い批判にさらされているアルツハイマーの抗体医薬、アデュカヌマブに関して、ツイッター、科学雑誌や新聞からも、怒りが混じったようなコメントが流れてきています。これはBiogenが開発した抗アミロイド抗体医薬で、アメリカではほぼ二十年ぶりに認可されたアルツハイマー治療薬という事情もあってか、とりわけ大きな関心を集めているようです。

アルツハイマー痴呆は非常に大きな社会的問題で根治的な治療法がありません。数々の製薬会社が挑戦して敗退していった分野でもあります。Biogenは神経疾患薬治療薬開発を中心プログラムの一つとしているバイオテク大手であり、もし今回、アルツハイマー治療に成功するということになれば、非常な成功と繁栄を約束されるということになります。

私は、この分野は疎いのですけど、十年前ぐらいだとアルツハイマーの原因がベータアミロイドだと主張するグループとタウ蛋白だと主張するグループに二分されていて、アミロイドの病因的意義もはっきりしていなかったように思います。しかし、この病気は深刻であり治療法がないという現状がありますから、患者さん、その家族や施療者には、藁にもすがりたいという思いがあると思います。事実、この経緯を述べた記事(リンク)ではFDAの神経科学部ディレクターは、深刻で膨大な患者数にもかかわらず治療法がない現状をコメントしていますから、すがれるなら藁でもすがってみたいという患者側のプレッシャーをFDAは感じていたのかも知れません。



この薬には複数の問題があります。第一に同様の抗体は他社が以前に臨床試験を行い、撤退しいていること。それから、この薬は二年前の臨床試験の中間評価で有効性が認められないと中途で中止されたにもかかわらず、その時のデータを再解析してBiogenはFDAに申請を出したこと、そしてこの申請は昨年末にFDAの外部専門家委員会で検討され、有効性とともに試験データのプロセスなどに疑義が呈され、ほぼ満場一致で、薬として問題が大きすぎるという結論が出たにもかかわらず、先月その専門家の意見を覆して、一転してFDAの迅速承認制度という特例の制度でゴーサインが出されたということです。

データでは、薬の効果は微々たるもので、重篤な副作用の可能性もあり、臨床試験そのものにも問題があるということで、専門家は非常に激しい口調で今回のFDA承認を非難しています。加えて、オハイオのクリーブランドクリニックやNYのマウントサイナイ病院というトップクラスの医療機関は、病院として、この薬を患者さんに投与することはしない、という声明を出したというニュースもありました。つまり、専門家は、高額で副作用の危険性があるのに、微々たる効果しかない怪しい薬だと判断したということです。

どうしてそんな薬が例外的処置によって迅速承認されたのか、その辺りが不明瞭であることが一つの大きな批判の原因であり、それが明らかにされなければ、この件は長く燻ることになるかも知れません。一方、日本のエーザイ(Biogenとの共同)を含む数社(前回臨床試験で撤退した会社も含む)が同様の抗アミロイド抗体医薬の臨床試験を実施、計画中とのことで、この薬の認可やその後に蓄積されるであろう効果や副作用が、後発医薬品の帰趨に大きく影響を与える可能性があることを考えると、このFDAの判断には多少にもポリティカルなものがあったのではないかと思わざるを得ません。いずれにしても、薬そのものは数年以内に消滅する運命だろうとは想像しますけど、製薬会社としてはより多くのデータをとって開発にかかった投資費用を少しでも回収したいと思っているでしょう。

患者側にとっては、効かない薬に年間数百万円を払うというのは、馬鹿げていると思いますけど、当事者にとっては希望の灯火なのだろうと思います。しかし、いくら希望という効果があっても、その根拠に正当性がないものを売って金儲けをするのは罪であろうと私は思います。霊能者を騙って困っている人に壺を売りつけるようなものだと言えば言い過ぎですか。こうした実験的な薬は利潤追求が一つの重要な目標である民間の開発に任せるのではなく、公的機関が臨床応用研究と試験を行うべきなのではないだろうかと思います。ま、公的機関だからといって、資本主義原理、市場原理主義で動いているのには違いはないのですが。
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善人に悪いことが起こるとき

2021-07-16 | Weblog
知り合いの息子さんが突然死したというお知らせが回ってきました。詳細はわかりませんけど、その辛さは察するに余りあります。知り合いであるご本人も難病でこの数年、苦しんでおられました。随分前に、自宅のパーティーに伺った時は、典型的な幸せ一家でした。陽気で人気者の旦那さんに美人の奥さん、広い庭の大きな家にかわいい子供。ああ、あの時の男の子か、とぼんやりと思い出しました。きっと立派な青年になっていたはずです。その知り合いの人は、それからしばらくして別の部署に移動になって疎遠になったのですが、難病を患ってその部署から辞してからまた時折顔を見るようになりました。陽気で気さくだったのに、陰りがちで病気もあって笑顔も減りました。つい最近はその病気が原因とおもわれる転倒事故で骨折して入院したところだったのです。

数年前にも、うちの子供の親友のお兄さんが突然死したことがありました。うちの子も可愛がってもらっていて人柄もよい若者でした。若くして子供ができたが、奥さんが家庭も子供も顧みない人でまもなく離婚し、両親に協力してもらいながら乳児を育てていましたが、ある朝、起きてこなかったそうです。善き人は逝くという言葉はありますけど、通夜での両親の落胆ぶりは目を覆うばかりでした。

善人に悪いことが起こる時、われわれはその解釈に悩みます。善人も悪人も良いことも悪いこともなく、世の中のできごとはニュートラルなのだという考え方もありますけど、人間として生まれた以上は意味を求めるもので、辛いできごとには、なんらかの納得できる解釈をしなければ先に進めません。

昨日は家内がかつての仕事上の知り合いの人と久しぶりに食事に行ったそうです。聞いてみるとカウンセリングからの帰りだったようでした。この方は小規模ビジネスのオーナーでいろいろと問題のある従業員に悩まされていた話は以前から聞いていました。私生活では、一度目の結婚と離婚を経験し、その後のボーイフレンドは薬物濫用が見つかってゴタゴタの末に別れ、二人目のボーイフレンドは、新居に引っ越して同居を初めて数ヶ月で、単独事故で亡くすという目にあっており、どうもそのショックからまだ立ち直れていないようで、カウンセリングに通っているとのこと。

これらの話に別に結論はありません。誰にでも思いがけぬ辛いことが起こります。当事者がそれぞれの人生の困難をそれぞれに解釈して乗り越えるしかありませんけど、現実は一つしかない以上、「今現実に起こっていることが最善のことである」という仮定からできごとを解釈するのが実際的なのだろうと私は思っています。そうすれば、ポジティブな未来を予想せざるを得なくなりますし。ま、自己暗示のようなものですが。
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東洋と科学の成熟

2021-07-13 | Weblog
前にもちょっと述べましたが、東洋の文化と科学は馴染みが悪いという話。科学は西洋で生まれ、仮説を懐疑的に検討していくことで「真実」を明らかにしようとする世界を理解するためのアプローチといえるのではないかと思います。それがあっという間に世界に広まったのは、そのアプローチとそれによって得られる知識が役に立つからです。
「役に立つ」というのは東洋においては非常に重要な価値観です。特にプラグマティカルな中国や日本では、「役に立てば、理屈はどうでもいい」という考えもまだまだ健在です。例えば、東洋医学や漢方はどちらかといえば、役に立つことがまず先にあって、理屈は後付けであったりします。これは西洋の科学のアプローチと対照的です。

近代の東洋は社会もライフスタイルも学問も西洋のスタイルを真似することで発展してきました。それで、形は真似ても中身がそぐわないという場合はよくあります。科学にしてもそうで、その精神や考え方は西洋のキリスト教文化が深く影響しると思いますけど、その部分は東洋では軽んじられている、と私は思います。

中国からの科学論文は凄まじい勢いで増えているのですけど、そうした論文を査読した経験から、中国からの論文の多くは、まだまだ、質に問題があると私は思っています。研究者が論文を出すのは業績と地位や金が結びついているからですけど、研究には、ウソをつかないこと、再現性を確認すること、倫理や規制を守ること、などのルールがあり、そのルールを守るのは、科学の精神を尊ぶ研究者の良心に委ねられています。しかるに、こうした科学の精神や研究者の良心は、しばしば出版という実利的な目的と相反し、故に、研究不正は後を絶たないわけです。

実利を重んじる中国で、論文の発表が即、金や地位や名誉に直結しているような場所では怪しい論文が大量生産されるのは当然の帰結と思われます。さらに悪いことに、適当で怪しい論文を出版しても問題がなさそうだとなるとそうした質の悪い論文を出すことを躊躇わなくなり、この傾向が加速することになります。ちょうど日本の政府与党のみたいなものですか。

7・9号のNatureのフロントページでは、最近の中国のとある研究を批判しています。

オスのラットと妊娠したメスのラットを縫い合わせて、液性因子を共有させ、オスを妊娠状態にする、という実験です。その上で、メスの子宮と胎児をオスに移植し、オスの体内で胎児が発育できるかを調べるという研究です。二匹のマウスやラットを縫い合わせる実験というのは液性因子の影響を調べるために、以前から行われていますが、動物にとっては大変なストレスです。今回の実験は、加えてオスの妊娠状態のメスを縫い合わせるという実験ですから、その意義や倫理面に多くの批判が集まった模様です。また、記事では、二年前のヒトの胎児に遺伝子編集を行って、世界的にバッシングを受けた中国での事件が引用されていました。

遠藤周作の小説で「海と毒薬」という戦中のアメリカ人捕虜を使った人体実験の実話に想を得た小説があり、キリスト教世界である西洋とそうした絶対神信仰のない日本の倫理観の違いがモチーフになっていますが、思うに、これは東洋に共通する同様のメンタリティに由来するのではないでしょうか。日本も今の中国も、その行動基準に絶対的基準を持たず、赤信号はみんなで渡れば怖くない感覚の人々が大勢いると思いますけど、その東洋的やり方は、原理原則、厳密性を尊ぶ科学とは馴染みが悪いと思います。

西洋人からすれば、明らかに倫理性に問題のある実験を行うにあたって、おそらく生体解剖をした日本人も、今回のような実験を行った中国人研究者も、その実験の意味をそれほど深く考えていなかったのだろうと思います。科学的実験を行うにあたっての精神、ソフトの部分が欠如していると言えるかも知れません。

一部の良心ある中国人研究者は、中国の科学はすでに偏見にさらされているのに(その偏見には十分根拠があるわけですが)、こうした問題のある研究を発表するのは、さらに中国のイメージを悪化させると心配しているようです。
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米中対立と研究資金

2021-07-09 | Weblog
ちょっと前の6・24号のNatureのフロントページ。アメリカの公的研究資金は医学、生命科学はNIH、その他の基礎科学、物理、化学などはNSFが主な供給機関となっておりますが、今回、アメリカ議会上院でNSFなどへの科学研究にかなりの額の予算増大が可決されたとのニュース。NSFの年間予算はおそらく$10 bilぐらいかと思いますけど、今後5年でNSFを中心に$120 bil の予算がつくとのこと。
研究者にとっては喜ばしいことです。
が、その動機はどうも対中国。この予算案はいくつかの条件の上に可決、その一つが中国がアメリカの知的財産を盗用、不正利用することを防ぐための条項でした。

近年の中国共産党政府率いる中国に対するアメリカの警戒感は相当なもので、アメリカ永住権を申請中の知り合いの中国人によると、トランプ以降、審査がストップしていてどうなるかわからないとの話。バイデンも中国への警戒は強く今後の米中の政治的対立は続くような感じがします。

ひとつには、コロナウイルスの研究所流出疑惑があると思います。武漢には武漢ウイルス学研究所(WIV)という研究所があり、そこでのウイルス研究にアメリカのNIHの資金も使われて共同研究が行れていたということを複数のアメリカ一般紙がしばらく前に記事にしたことから、COVID19のコロナウイルスは中国が作った生物兵器だという陰謀説が広まったことがあると思います。私、個人的にこの説の一部は本当ではないかと思っています。生物兵器の開発であるとか意図的にばら撒いたということはないと思いますけど、ウイルスが研究所由来である可能性は高いのではないかと思います。

武漢での中国の初期行動は非常に迅速でした。WHOが新型コロナウイルスによる新しい疾病を確認するやいなや、武漢に患者を隔離する病院を突貫工事であっという間に新設し、都市封鎖をして封じ込めを図った中国は、このウイルスの危険をあらかじめ知っていたかのようです。また、WIVのホームページの情報によると、COVID19より前に抗コロナウイルス薬の開発基礎研究をアメリカと共同で行った論文も出版されています。ということは、WIVではおそらくSARSやMERSのようなコロナウイルスによるepidemicを予測してコロナの研究が行われていたと考えられ、ひょっとすると今回の新型コロナは、WIVでのコロナ研究のために、偶然または意図的に今回のウイルスをコウモリから単離していたのかも知れません。つまり、WIVでの研究材料としてたまたま単離したウイルスが事故によって研究所外に流出したという可能性です。中国がアメリカの資金を使ってこっそり生物兵器を開発していたということでは多分ないし、意図的にばら撒いたということでもないだろうと私は思います。あるいはWIVはまったく無関係かも知れません。

いずれにせよ、近年の中国共産党の強権的な振る舞い、香港での中国政府の行動、中国統一の野望と台湾侵攻の可能性などを考えると、アメリカが中国を強く警戒するのは理解できます。加えて、人間は感情の動物で、トランプがチャイナ ウイルスと連呼し、中国起源のウイルスだというだけで、アメリカでアジア人全体への差別が広がったぐらいですから、議員や専門家であっても中国への警戒心は感情の領域でも大きくなってきたのだろうと想像できます。

そう思うと、中国共産党がこれからも強権的な独裁的政治を追求していくなら、米中の対立の緩和は遠いと思います。その迷惑を被るのは普通の中国の研究者や学者、それから彼らと共同研究しているアメリカの研究者でしょう。

ちなみに先日の中国共産党結党100年記念に、日本共産党は祝辞を送りませんでした。日本共産党の志位委員長は、民族虐待、言論弾圧の独裁政権の中国共産党を「共産党」の名に価しないと強く批判。一方、自公幹部は祝辞、立民も儀礼だからと言い訳しながら祝電を贈ったとのこと。
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付加疑問についての付加的疑問

2021-07-06 | Weblog
ちょっと前のリテラの記事

、、、すでに全国の自治体からワクチン供給不足の悲鳴があがっていた6月27日、河野大臣はお得意の英語で発信している自身のTwitterアカウントに、世界のコロナ関連データを集計している「Our World in Data」の「人口100人あたりの1日のワクチン投与量」(7日間平均)の表を貼り付けた上で、こんな投稿をおこなったのだ。
〈Vaccination in Japan. Not bad, isn’t it?〉(日本のワクチン接種。悪くないでしょう?)
 、、、、だが、あまりに当たり前の話だが、この表で最下位のアメリカや低い水準のイギリスといった国は今年1〜2月の段階から接種をスタートさせており、すでにかなりの量を接種し終えている。対して日本は、それらの国から遅れに遅れて接種をスタートさせ、ここ最近になって急激に右肩上がりとなっている。、、、

問題のツイートの返信欄、見てみましたが確かにボコボコですな。

私、最初に「ん?」と思ったのは、"Not bad, isn't it?"と表現です。私はこれは、否定のあとの付加疑問なので、"Not bad, is it?"の誤りだと思ったのですけど、どうも色々解釈の仕方があるようで、"Not bad"は"good"のことであるから、"isn't it?"が正しいという人もあるようです。つまり"Not bad"というのを"It is not bad"という文章の省略形ととらえるか、一かたまりの言葉として捉えるかによって、否定にも肯定にも解釈でき、その解釈によって"isn't it?"か"is it?"が選択されるということです。ま、どっちでも誰も気にしないでしょうけど。ちなみに、英語でTag questionは、こうした典型的な例にとどまらず、多くのバラエティーを含むようです。例えば、It is good, yes (no)?といったのもそうで、この場合、付加される言葉は肯定でも否定でもいいです。"Do me a favor, will you?"というのもあります。この場合は、付加疑問というよりは、単に"Will you do me a favor?"という文章の倒置形と解釈すべきなのかも知れません。一方、"Let's play together, shall we?" の場合は、単純な倒置と解釈すると"let's"が冗長ですから、付加疑問と考えるべきではないかと思いますし、とすると付加疑問は否定系となるのが自然ではないかと思います。しかし、"Shall not"の省略形、"shan't"はあまり使われているのを見たことがないので、慣例上、否定形にしないのかも知れません。とはいえ、付加疑問だとすると動詞が一致していないのもおかしいですが。

そういえば、現在形一人称のBe動詞の"am"が動詞の場合の付加疑問もあまり目にしません。私が記憶にあるのは、ミュージカル"Oklahoma"でのペルシャの行商人Ali Hakimのセリフ、"I am a peddler, ain't I?"です。"Ain't"は口語の否定文では非常に柔軟に用いられますが、おそらく"ain't"の唯一正式な使用法は"am not"の省略形のみだと思います。

ちなみに、フランス語で"isn't it?"にあたる付加疑問、"n'est ce pas?"は、前の文章の肯定否定、動詞の種類などと呼応しないので、単純に文の終わりにつければいいようです。
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頑張ったり頑張らなかったり

2021-07-02 | Weblog
今日が申請提出の締め切りで、この一月のほとんどをこの申請書を書くのに費やしてきました。大変非生産的なことです。

前回の申請やそのアイデアのもとになるデータを集めるために費やした時間を考えると二年以上はかかっています。その間にコロナがあり、色々な事情で人が去っていったこともあり、この申請書のために他のプロジェクトはほとんど進まずという辛い状況でした。そんな状況で、当たるか当たらないかわからない申請書を書くためにそれだけの時間をかけるというのは、われながらバカだなあと思います。

しかし、どうせ人生は死ぬ時までの暇つぶしなのなら、何かしながら暇をつぶす方がつぶしやすいのかも知れないと感じています。

限りある人生の時間をどう考えるかは個人の価値観です。短い限られた時間は貴重であり、寸暇を惜しんで志すものに向かって邁進すべきだ、と思う人もあれば、その限りある時間を楽しんで過ごすことを優先すべきだ、と思う人もあるでしょうし、ま、どっちにしろ暇つぶしに過ぎぬ、と思う人もあるでしょう。私自身もこれらの間を行ったり来たりしていましたけど、今は最後の感覚がもっともしっくりしますね。

振り返れば、高度成長期になり、モーレツ社員や企業戦士という言葉が生まれ、「24時間戦えますか?」という栄養ドリンクのコマーシャルが流れ、Karoshiが英語となった前世紀後半の日本は異常な時代でした。ほとんどキチガイ沙汰です。しかし、思うに日本人は過剰に働くことによってある種の「快感」を得るような生理メカニズムがあるのだろうと思います。働くことは割と生産的な暇つぶしとも言えますし。

私の子供のころにはすでに受験戦争があり、夜遅くまで塾通いをする小学生がいました。一生懸命仕事をすれば儲かる時代で、「頑張ることは良いことだ」という価値観が比較的無批判に社会に広がっていました。私も頑張らないと罪悪感を感じたりする世代です。その後、バブルの崩壊とともに頑張っても報われないケースが増え、今度は「結果責任」になりました。頑張っても頑張らなくても結果が全てで、結果は自己の責任で受け入れよ、みたいな冷ややな資本主義社会の現実を反映したような言葉を聞くようになりました。呆れるほどの価値観の転換です。

思うに正しい態度というか(正しいも間違っているもないのですけど)は、その間でしょう。中庸、バランスの大切さは年を取って理解できるようになりました。適当に頑張って、適当に休み、成果がでればよかった、でなければ残念だ、それでおしまい。そういうのがいいです。「この世資本主義社会は弱肉強食の競争社会で、必死で頑張らないと生き残れないのだから、甘えたことを言うな」と真顔で説教する人が前世紀末にはいて、そういうことを聞くたびにいや〜な気分になっていましたけど、いまは、あなたはあなた、わたしはわたし、触らぬ神に祟りなし、という感じです。

とりあえず申請書は終わったので、次の暇つぶしにうつることにします。二、三の頼まれごともありますし。何か別のことをするのは楽しそうです。


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