百醜千拙草

何とかやっています

立ち止まって考える

2010-07-30 | Weblog
多民族国家で、常に移民の流入があり、新移民と旧移民との間に利害の衝突が起こり続けて来たアメリカという国にとって、保守と革新との違いは比較的分かりやすいように思います。保守は自らの既得権利が新移民に脅かされるのを嫌う人々です。あるいは自らが生まれ育った国に強い愛着を持ち、その国がその愛着に価しないような形に変容していくことを止めようとする人々です。一方、革新は、国が栄えるためには変わって行かねばならない、そのためには、新移民を積極的に受入れ、彼らにチャンスを与える代わりに彼らを利用して国力を高めるべきだ、と思う人々です。あるいは多民族が共栄共存できるユートピアとしてのアメリカを夢見ている理想主義者である場合もあるでしょう。アメリカにおいては、新移民というものをどう取り扱うか、即ち、新移民をリスクと見るかチャンスと見るかの差が保守と革新の差というように捉えることができるのではないかと私は思います。
 いずれの側にも、志の高い保守、革新、そして俗流の保守、革新があると思います。人は誰でも多かれ少なかれ変化というものを嫌います。それは保守でも革新でも同じです。CHANGEをスローガンに選挙を戦ったオバマでも、古き良きアメリカの価値観を守るために、変えるべきところを変えようと言っただけのことです。ならば、保守と革新の違いは、保守は守るべきものを守るためにリスクの低い方法を好み、革新は同様の目的のために、リスクが高いがリターンも高いものを好むという違いに過ぎないのではないかと思います。

それでは、従来、自主的な移民が余り無かった日本という国ではどうでしょう。従来、官の力が強く、人民は官にコントロールされる存在であった日本では、革新は保守のアンチテーゼとしてしか存在してこなかったと思います。政治的にそもそも、古き良き日本というものがあったのか、私は知りません。

先日、講談社G2の鈴木哲生さんの「保守の本懐」(http://g2.kodansha.co.jp/177/178/185/179.html)のさわりを読んだとき、宮澤喜一氏の保守の定義が紹介されていました。私もその言葉に感心したので、その部分を下に紹介します。

4月なかば、国会議事堂のすぐ脇にある国会図書館を私は訪ねた。すでに絶版になった、ある本をじっくりと読みたいと思ったからである。
書名は『社会党との対話 ニュー・ライトの考え方』。著者は元首相の故・宮澤喜一だ。
同書が上梓された1965年当時、日本の政治は保守の自民党、革新の社会党という二大政治勢力が激しく闘い、文字どおり国論を二分していた。社会党がもっとも強かった時代でもあり、それを自民党が迎え撃つ構図だった。そのような中で宮澤は、「保守」について同著で次のように定義している。
「保守とは立ち止まること、立ち止まって考えることである」
この本を読むように私に勧めてくれたのは、明治大学政経学部の井田正道教授だった。


もう一つ、人気政治ブログ、「ラ・ターシュに魅せられて」(http://latache1992.blog56.fc2.com/)の最近のエントリーの中の一節を。

どこの誰に聞いたのか・・
良く覚えていませんが、記憶に残る言葉がございます。
正義・・という言葉について・・・
この・・ "正しい"・・という字は、"一" と "止" の字で出来ています。
正しく・・意義ある行動をするためには・・
一つ止まって・・考えてみることです・・・。

聞いたときは・・
ああなるほどな・・くらいにか思いませんでしたが・・・
今思い出してみると・・・
なかなか薀蓄に富んだハナシです。

何かをしながら・・考えるコトも・・
出来なくはありませんが・・・
立ち止まって考えたほうが・・
良い結論を得られる場合のほうが多いのではないでしょうか。



「立ち止まって考えること」、これは、私がいつも自分に言い聞かせている言葉です。研究で何らかの問題が起きたとき、それを解決する唯一の方法がこれです。私も含めて多くの人が、しばしば、「立ち止まらずに突き進む」ことを選択し、傷を深めます。日本では、思考よりも行動、頭より筋肉、消極策より積極策、がより高く評価されてきましたから、「立ち止まって考えること」は勇気のいる行動です。

保守であれ革新であれ、何を変えて何を変えないのか、何を変えたくない(守りたい)ために何を変えねばならないのか、それを立ち止まってじっくり考えることの大切さを理解することがまず必要なのだと思います。世の中は否応なく変わっていきます。その中で人々が守りたいものがあります。生活であったり、文化であったり、価値観であったり、様々でしょう。変化の中でその守るものにフォーカスしている人々が保守、変えていくべきものにフォーカスしているのが革新ということではないでしょうか。ならば、両者の究極の目的は同じです。大切なものを守り、誤りを正していくということです。そこで何が大切か、何が誤っているのかを立ち止まってじっくり考える、この態度は保守も革新も両方の立場にとって必要なことです。宮沢さんはこれを保守の定義としましたが、この態度は革新にも必要不可欠であると思います。立ち止まって何を守るのかを考えるのが保守、立ち止まって何を変えるべきかを考えるのが革新。ならば両者は対立しているのではなく、同じものの裏表です。

政治においてもこんな理想論でやってもらえたらなあ、と私は思います。守るべきものを守り、改めるべき所を改める、そうあるべきですが、日本の政治は政党間、派閥間権力争いという低次元の活動にうつつを抜かし、最も大事なものを見る視点が欠けているように思えてなりません。

本来、保守と革新の差は単なる視点の違いに過ぎないと思います。「随所作主立所皆真」(随所に主となれば、立処みな真なり)という古い言葉があります。変化する世の中で変わらぬものがあります。それをしっかり掴んでおれば、変化は怖くありません。変化する世の中で変化しないものを見つめるのが保守でしょう。一方、変わっていく世の中で主となるために自らも変わる、その動きに注意するのが革新ということではないでしょうか。
いずれも目的は同じです。大切な事は、どちらの視点をとるにせよ、「考える」ことだと思います。

なぜ、マスコミは中立な報道を心がけず、人々に余計な意見を押し付けようとするのでしょうか?人々が立ち止まって考える前に、自分たちに都合の良い意見を流し込んで、人々に考えさせないようにしているのではないでしょうか?
私が経験から学んだ教訓の一つは、「声のデカい奴には気をつけろ」です。マスコミや右翼の宣伝カーのように、「がなり立てる連中」は、大抵、自分でマトモに考えていません。深く考える人は他人の立場もわかるので、強い自己主張はしないというかできないものです。それで、声のデカさと頭の悪さには有意な相関があると私は思っております。

それはともかく、考え、正しい判断に至るには、立ち止まり、静かな環境に身を置くことが大切だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

去る人

2010-07-27 | Weblog
数学者、森毅さん死去のニュース。ついこの間、画家の安野光雅さんとの対談集、「数学大明神」を読んだところでした。夏休みに読もうと思って古い日本の本を五冊借りて来ているのですが、そのうちの一冊です。因みに残りは、ノモンハンの夏(半藤一利)、介子推(宮城谷昌光)、事実からの発想(柳田邦男)、わしの眼は十年先が見える(城山三郎)です。数学大明神では、数字の1から9をテーマに様々に語り合うというものです。

私、中学校のころもっとも好きな教科は幾何学でしたが、その頃のことを思い出しました。数学とはすっかり疎遠になって長く経ちます。高校で物理ではなく生物を選択したのも一つの理由かと思います。大学卒業してしばらく経ってから、物理を覚えようと思い、「医学、生物学のための基礎物理学」という本を買ってきたのですが、いきなり最初の方から、多次元微分方程式とかが出て来て、全く歯が立たず、こんなことであれば大学時代にもっと数学をやっておくべきであった、と深く後悔した覚えがあります。

黄金比がフィナボッチ数列の隣り合う数字の比で近似できるという話は、数年前「ダビンチコード」を読んだときに知りました。フィナボッチ数列は、1, 2, 3, 5, 8, 13, 21,,,,と隣り合う整数を足して出来る数列です。その隣り合う数字の比が黄金比に収束するという証明はWikipediaのフィナボッチ数の項目にあります(が、その証明も私には理解不能です)。ダビンチコードを読んでいた頃、私はグラント危機にあり、その頃は、ちょうど数日以内にグラントのスコアが出て、そのスコアによっては研究者廃業になるかもしれないという瀬戸際だったのです。ダビンチコードの黄金比の部分を読んだときに、その1.61...という数字がなぜか気にかかりました。グラントのスコアもこれ位だったらいいなあ、とふと心の中で思ったのでした。そしてこういう時によく起こるシンクロニシティー、翌日に出たグラントのスコアは、やっぱり、161だったのでした。スコアは元の数字を100倍していますから、元の数字、つまり、三人のレフリーの評価の平均は、黄金比の近似値、1.61であったということになります。それで私はとりあえず研究者として生き残ることができたのでした。「数学大明神」の「5」の章では、黄金比が五芒星(ペンタグラム)の図形の中に繰り返し現れるという話が出てきます。黄金比は、1と5の平方根の和を2で割って求めることができますので、ここに出てくる数字の5が多分ペンタグラム図形の中に黄金比を忍び込ませているのでしょう。この5は多分2と3の和という意味だと思います。

森さん、敗血症性ショックで死亡ということですから、おそらく、何らかの基礎疾患があったのでしょう。ニュースでは昨年2月に大火傷を負ったということが触れてありますが、時期的に火傷が原因とは考えにくいように思います。82歳ということでしたので1928年生まれです。このころに生まれたと聞くと、私はつい、マイルスデイビスと比べてしまいます。マイルスが生まれたのが1926年、死んだのは1991年なので、ああ、森さんはマイルスより20年弱、長生きしたのだなあ、もしマイルスが生きていたら84歳か、などと思うのです。

私が若かったころに輝いていた人が一人一人、去って行き、私も最近は昔のことをよく思い出すようになりました。つかこうへいさんの遺書に「恥の多い人生でした」とあったそうです。遠藤周作さんが著書の中で、過去の恥を思い出して自己嫌悪のあまり、布団を頭から被って「ああああ、、」と叫んだ経験のないような人間とは共に語るに足らぬ、と言ったように記憶しています。昔を振り返り、反省すればするほど、恥の数が増えるのではないでしょうか。私も昔を思い出すと、後悔することばかりです。今朝も、昔に出会った素晴らしい人々のことを思い出していました。あの人々の素晴らしさを若かった私は理解できませんでした。思いやりにも欠けていました。私は傲慢で周囲が見えなかったのです。恥ずかしいと思いますがどうしようもありません。私はその頃よりも年を取りましたし、恥ずかしい過去の私の行いが多少は理解できるようにはなりましたが、果たして少しでもマシな人間になったのかどうかわかりません。未だに日々、反省することの多い毎日です。

そして自分がこの世を去って行く時のことを想像します。きっと、マラソンを走り終えて、ゴールテープを切ったときのような気分になるだろうと想像しているのですけど。あるいは、試験で問題が半分も解けていないのに終わりのベルがなってしまった時のような気分でしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究評価とインパクトファクター

2010-07-23 | Weblog
アカデミアでは研究の資金は多くは政府からきており、だからこそその血税に由来する金は有意義に使われるべきであると誰もが考えると思います。しかし、有意義な研究とは何か、有意義な金の使い方とは何か、それを決めるのは困難です。臨床に近くて期待されるものがはっきりしている研究なら意義を言うのは易しいかも知れません。しかし、過去を振り返れば、かつて有意義と評価された研究は、遂行時点ではその研究者自身にもよく意義がわからなかったものの方が多いわけです(たとえばGFPの発見とか)。加えて、研究の意義はそれを評価するものの立場によってかわります。世の中の流行、目前の問題、などなど、結局は人間が各々の立場の様々な価値判断基準に沿って判断することです。

一つの研究の意義そのものを評価することでさえ難しいのに、加えて研究の多様さというものがより問題を複雑にしていると思います。生物学に限ってみても、基礎分子生物の研究と臨床応用に近いような分野の研究を比べて、どちらがより有意義か、と問うことはナンセンスです。リンゴはリンゴと、オレンジはオレンジと比べなければなりません。そうは言っても、結局は限られた税金がソースの研究資金ですから、比べられないものをムリに比べてでも優先順位をつけなければならなくなる場合も多くあります。

そのために論文を数値化し、その数値によって、仕事の質の指標とし、ひいてはそれを以て、職や研究資金の配分を決めるというようなことが従来、行われてきました。このプラクティスは昔から様々な問題を生み、批判されてきていますが、結局、他にもっと良い方法もないというのが実情なのだと思います。この論文至上主義でもっとも悪いのは、インパクトファクターの高い雑誌に論文を載せることがあたかも研究の目的であるかのように錯覚され、それに沿って研究が組まれて、そしてしばしば論文を通すためにウソの解釈なりデータが有名雑誌の紙面に載るということがおこることだと思います。論文が職や研究費に直結しているわけですから、論文を雑誌に載せるために不正を働く連中も出てくるのはむべないところです。7/8/2010号のNature のNatureのNewsでは、盗作の問題に触れてあって、盗作論文を見つけるソフト(CrossCheck)で調べたところ、盗作が載ることで有名な雑誌では最大23%の盗作が見つかってrejectされたという記事があります。これは、論文至上主義が起こした「本末転倒」であるとも言えます。つまり、「何のために研究をするのか」という本来の目的がおろそかにされ、そのための手段(職を得たり研究資金をえたりするために論文を出版する)そのものが目的化してしまっているということだと思います。

この辺は新聞報道やジャーナリズムでも同じ問題があると思います。新聞は売れそうな記事を書きたいわけで、そのためにしばしば事実の曲解、捏造が行われます。文字になった時点で、それは現実世界を取捨選択した抽象となるわけですから、報道やジャーナリズムはどう転んでも、事実をそのまま伝えることはできません。それを如何に中立の立場で事実に基づいた最も妥当と考えられる解釈に至か(解釈しないと文字になりませんから)が本来、報道、ジャーナリズムが忘れてはならない良心です。しかし、売らんがため、記者の欲のため、その良心はしばしば捨てられます。残念なことに研究分野でも同じです。研究費をとって職を得る、喰わんがため、あるいは虚栄心を満たすために、研究者の良心を捨ててしまう人がいます。

今、1982年に出版されたノンフィクション作家、柳田邦男さんの「事実からの発想」という対談集を読んでいます。因みに私は柳田さんの「ガン回廊の朝」を学生時代に読んで感動し、放射線科に進もうかと思った覚えがあります。そのころから私は歴史小説を除いてノンフィクション以外の小説は殆ど読まなくなりました。この本は、柳田さんが他の主にノンフィクションの作家と対談したものです。その対談を読んでみて、ノンフィクション作家と研究者の活動には大変近いものがあるなあ、と改めて思いました。ノンフィクション作家は、膨大な取材をし、その事実を積み上げることによって、事件の全貌、その解釈を提示します。研究も同様です。仮説を立て、実験を行い、多くのデータを吟味して、最も正しいと思われる解釈に行き着く、その時点で初めて論文を書く事が可能になります。正しい解釈のために、多くの取材が必要です。対談の中で沢木耕太郎さんは、ある著書において、「自分の見たものしか書かない」ことを徹底したと言っています。自分の見たものだけで正しい解釈に行き着くには大変な労力がかかります。良心のあるノンフィクション作家は寡作にならざるをえません。「汝の父を敬え」、「汝の隣人の妻」で有名なアメリカのジャーナリスト、Gay Taleseとの対談の中では、タリーズは、「汝の隣人の妻」でもっとも労力が必要だったのは、実名を使って出版しようとしたため、本の登場人物との実名使用の交渉だったと言っています。これがノンフィクション作家の良心というものでしょう。本を出して売れればそれで良いというのなら実名にこだわる必要もないと思います。実名であろうが仮名であろうが本のメッセージに変わりはありません。しかし、それを譲ってしまうとノンフィクションでなくなってしまう、そう考えたのではないでしょうか。研究においてもそうです。事実だけを積み上げて理論なり解釈に至らねばなりません。そのために細部に気を配る必要があります。研究論文でも、論文を読めばそういう目に見えない地道な点を押さえてあるかどうかはわかります。一方、解釈さえ正しければ実験のデータそのものは余り意味がないと考えるような研究者も残念ながら少なくないようです。これが本末転倒と私が呼ぶところのものです。事実を軽んじた解釈には何の価値もありません。その数々の細部を含む事実を積み上げるところに努力が必要で、それがあって初めて解釈が意味を持ちます。

インパクトファクターの話に戻ります。論文の質を見るのに各論文の引用回数を計算したりするわけですけど、これは結構手間です(そもそも、引用されるから良いというわけでもありません)。それで、雑誌のインパクトファクターをそのサロゲートに使うわけです。高いインパクトファクターを持つ雑誌に論文が載れば、よい論文と見なそうというわけです。インパクトファクターも引用回数を元に算出されますから、雑誌社としてもなるべく多くの読者が興味を持つような話題性に富んだトピックを選びたがります。ですので、インパクトファクターの高い雑誌に載ることは必ずしも掲載論文そのものの質を反映はしません。(私の分野などは生物学ではマイナーな分野なので、そもそもそういうハイインパクトファクターの雑誌には余り縁がありませんが) そうは言っても、実際に、インパクトファクターを用いた論文評価の方法は現実的に使用されているわけです。日本では特にこのインパクトファクター崇拝が強いように思います。何年か前、ある教官職に応募した時、論文の載った雑誌のインパクトファクターを計算して足した数を書く欄があって、正直、あきれてしまいました。結局、こういうものに頼らずに研究者の研究の価値を評価できる選考委員は日本には多くないということでしょうか。日本では教官は雑用や教育に忙しく、自分の分野以外の研究を知ったり、理解したりするための時間がないのかも知れません。

7/8日のNatureのCorrespondenceの一つの投稿記事に興味深いことが書いてありました。Acta Crystallographica Aという雑誌の昨年度のインパクトファクターが49.93であったということでした(7300余りの雑誌のうち堂々の第2位です)。Natureでさえ30ぐらいですし、レビュー雑誌でさえ30を越えるのは稀でしょう。この雑誌の名前から想像できるように(Actaがつく雑誌は総じてマイナーで評価が低い傾向にあります)この雑誌のインパクトファクターは過去4年で2.38を越えた事がありません。2009年の49.93というスコアは、どうも2008年に掲載された72本の論文のうちの一本、Sheldrick GMによる”A short history of SHLX”という論文(名前からするとレビューのようです)のよるもののようです。この論文は、なんと、5624回引用されています。因みにこの雑誌の他の論文の引用回数は3以下だそうです。いくらレビューとは言え、5624回も引用されるような論文がこのようなマイナーな雑誌に載るのは希有なことであると思います。そして、日本のようなインパクトファクター至上主義だと、この雑誌にたまたま載った二流論文でも、この一本のスーパー論文のために不適切な過剰評価を受けるということになってしまいます。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

敵を間違えるな (reprise)

2010-07-16 | Weblog
数日、夏休みをとるつもりですので、次回は更新しない予定です。休みの間は俗世間のことを忘れてリフレッシュしたいので、今日はその前に俗世間のことを書いておきたいと思います。

美味しんぼの雁屋哲さんのブログ、以前にも紹介しましたが、最近の「敵を間違えるな」「鳩山由紀夫氏から菅直人氏へ(1, 2)」などのエントリーでは、日本の政府はずっとアメリカの支配下にあったこと、自民党、官僚、マスコミが日本国民から富を吸い上げて、アメリカへ横流しするために存在してきたこと、それに楯ついた鳩山内閣が潰されてしまったこと、などについての解説が読めます。私の理解している所、私の思う所とほぼ一致しています。

雁屋哲の美味しんぼ日記: http://kariyatetsu.com/category/nikki

日本の将来において非常に需要なこれらの歴史的事実を国民は余り知らされてきませんでした。アメリカの支配下で戦後日本の政府がアメリカの都合の良いようにコントロールされてきたのですから、一般報道、学校教育などなどにそういう事実が語られるワケがありません。その点で、日本は他のアメリカ帝国主義にかつて支配された国々と比べても遥かに遅れていると思います。日本はアメリカ国外では最大のアメリカ軍基地を戦後65年にわたって持たされ続け、日米安保という有名無実の詐欺商品に巨額の支払いをし続けています。その一方で、日本は世界7位の国防費用を「軍隊なのになぜか軍隊と呼んではいけないジエータイ」費やしています。この異常な事態がまるで普通であるかのように、日本人は教育され、聞かされてきました。余りに長くアメリカに支配され続けて来たので、支配されていることそのものが空気のようにあたり前に感じるようになりました。アメリカという名の農場主の持つ乳牛のように 日本は鎖で首を繋がれてミルクを搾り取られる毎日が正常と思い込まされてきました。

そのアメリカ支配体制の確立に大きく寄与したのが、岸信介を始まりとするアメリカの傀儡政権(?)と天皇でした。ただ、私は、雁屋さんのブログの中でのように、後から振り返って、昭和天皇を強く非難するのはフェアでないのでははないかと思います。そもそも天皇は親英であったわけで、日独伊の三国同盟には最初は強く反対していたわけですし。天皇は、日本帝国主義に突っ走る政府と軍、そして大本営発表で踊らされた一般国民、という愚かなエリート達と民衆の流れの上に担がれて、自らも否応無く、流されていったという感じではなかったのか、と想像します。

それはともかく、日本の「お上」は、アメリカの手先であって、国民を搾取するために存在し続けているということです。雁屋さんのブログに示されているような証拠を知らなくとも、潰された前鳩山内閣を見れば、たとえ国民が選んだ代表たる首相であっても、ウラの大きく暴力的な圧力に対しては、かくも無力なものか、と思い知らされます。前にも少し触れましたが、角栄を始めとして反米政治家はことごとく、失脚、変死という末路をたどっています。鳩山氏も今期が終われば議員は引退すると言ったようですが、勘ぐるに、これは相当、脅されたのだろうと思います。抵抗すれば、検察やマスコミの攻撃あるいは非合法的手段で政治的、肉体的生命を断つ、一方、寝返れば、権力と地位の安泰を保証する、そんなアメとムチ攻撃を受けたのだろうと想像します。 議員を今期で辞めると言ったのは、「国民をこれ以上、裏切ることはできない」と思った善意の人、鳩山氏の精一杯の矜持であったのかも知れません。

今回の参院選はかなりの低投票率だったようです。鳩山氏の辞任、小沢氏の幹事長辞任、官僚に魂を売ったかのような菅内閣の言行、それらを見せつけられて、日本の政治家がいくらがんばったところでどうにもならない日本社会の搾取構造に、国民はすっかり失望し、萎えてしまったのではないでしょうか。

菅内閣の言行を見る限り、非小沢系の民主党の多くはすでに敵にオルグされたと見てよいでしょう。私の感じるところでは、最後の砦は「国民の生活が第一」の小沢氏だけになってしまったようです。 音無しの構えの小沢氏の心中はどうなのでしょう。そして、9月の代表選では小沢氏はどういう手を考えているのでしょうか。

ところで、今日のニュースで、検察審議会、小沢氏の政治資金規正法違反に対する検察の「不起訴」に対して「不起訴不当」の結論を出したとのこと。この政治スタンスも不明のナゾの「シロート集」が市民感覚で、中立とは言えない弁護士の誘導のもと、検察の判断に口を出しするこのシステムについては、以前、散々文句を書いたのでもう繰り返しません。そもそも、検察審議会というものは、国家権力による不当な市民の権利の侵害を防ぐためにもうけられたものであり、国家権力から失脚を画策され不当な権利侵害を受けている一政治家の攻撃に悪用されるためにあるものではありません。この一連の事件(?)というものがそもそも何であったのかを知れば、検察のとんでもない捜査、産経をはじめとするマスコミが書き散らしたデマ、今回の審査会の結論、腹が立つのを通りこして、そのバカさ加減にあきれ果てるばかりです。

アメリカ側は、日本国民の不満が政権にぶつけられてコロコロ政治家がかわる、この状況を喜んでみていることでしょう。戦後65年にわたって醜悪な根を張って来た日本支配のシステムは、政権が変わったところで、そう簡単に崩れるようなヤワなものではなさそうです。鳩山氏は少なくともその支配構造にメスを入れようとしました。結局、返り討ちにあいましたが、鳩山氏の足を引っぱったのは、すでにアメリカ側に懐柔されていたと思われる民主党内の前内閣閣僚と、マスコミの情報操作にのせられた国民だったと思います。党内の反逆分子に対しては鳩山氏、用意はしていたでしょうけども、国民に真意を分ってもらえなかったことはかなりこたえたに違いありません。辞任会見で「国民の皆様に聞く耳をもってもらえなくなった」と恨み節を垂れたことからも伺い知れます。

本当の敵は誰なのか、それを知って、国民が強くアメリカ支配の終焉と基地撤退を主張すれば、最後にそれは叶います。(ドイツや韓国の例があります)アメリカが最も恐れていることは、日本国民が声を揃えて、アメリカに「出て行け」と叫び出すことです。アメリカでさえ、日本の戦後支配がこれほどまでにうまく行くとは思っていなかったといいます。そして、未だに、日本は政局はあっても政治はなく、政治家は政治をするためではなく、国民が欲求不満をぶつける対象としてのみ存在しているかのようです。こういう茶番政治を見てほくそ笑んでいるのはアメリカでしょう。
本当の敵を見誤ってはならないと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Post-election depression

2010-07-13 | Weblog
参院選の選挙活動の様子、チラチラとネットのニュースなどで見ていました。票を投じた多くの人は苦しい選択となったと思います。自民党は壊滅寸前、他の小党にも期待できるような所はなし、かといって、官僚に抱き込まれたかのような発言を繰り出す民主党党首を見ていては、民主に入れるのもどうしたものか、と悩んだことではないでしょうか。政党ではなく政治家個人を見て決める、または、「国民の生活が第一」と考える小沢氏が擁立した候補に入れる、結局はそういう選択になったのではないでしょうか。二人区に複数候補擁立して票の掘り起こし、選挙区によっては衆議院議員の鞍替え、そして普天間で支持率低下を来した鳩山氏を辞任させ、あらゆる犠牲を払って、小沢氏はこの選挙に全力をかけてきました。しかるに、その折角の努力を一気に台無しにするかのような新内閣。消費税増税(かつ大企業は減税)という庶民の気持ちを逆撫でするような発言を選挙前にし、普天間の責任をとって辞任した鳩山氏の後任であるにもかかわらず、福井県の街頭演説では「普天間問題や政治と金の問題はクリアした」と、何一つ仕事もしていないくせに言ったそうです(東京新聞)。普天間の問題は何一つ解決していません。私、現在の民主党執行部にはすっかり失望しています。

そして、参院選、当然のように民主惨敗。改選議席を十も減らしました。千葉法相、現職閣僚でありながら落選。小沢氏への検察のくどい国策捜査に対しても全く動かなかったのを国民は見て、見限ったのではないでしょうか。素人でもやらないようなドチョンボを首相交代後の短期間で連発して自爆した現民主党執行部は、全員坊主頭で反省してもらいたいと思います。そもそも選挙管理内閣であったのに、選挙で惨敗したのだから、全員辞任が筋でしょう。首相も幹事長も続投したいと言っているそうですけど、これは最後まで首相のイスにしがみついて顰蹙を買ったアホウ氏を思い出させます。対して、自民、みんなの党が躍進。この辺りは解せません。民主党への期待が裏切られた反動でしょうか。

このままだと、衆参ねじれとなって、与党の法案を通すことが困難になります。私は特に、亀井氏の郵政民営化見直し法案のことを心配しています。この法案は前期国会期間中に時間切れとなって一旦つぶされてしまいました。しかし、このまま郵政民営化がどんどん進行すると、日本は本当に破産するかも知れない、と私は危惧します。ゆうちょは、国民の最大の富であり、かつ日本国債の大きな受け手になっています。郵政民営化とは即ち、その国民の富がアメリカ国債などのクズ商品に変わって国外に流出していくということです。それは結果的に財政破綻を促進させる可能性があります。

日本は世界最大の借金国ですが、その借金の殆どが日本国民からなされているというところがギリシャと違うところです。誰が書いていたのか忘れたのですけど、日本の場合、国債も税金も、政府が国民から金を集めるという点においては相違はないわけで、日本は世界最大の借金国とは言え、日本国民の国債保持者が一斉に郵便貯金を解約し、国債を売りはじめるという事態でもない限り、日本がギリシャのように財政破綻に陥ることは考えにくいのです。カンさんが増税によって借金を返すなどと言っていますが、その理屈のおかしさがここにあります。日本に金を貸している殆どはその国民です。借金を減らし、国民に金を返すために、消費税を増税してその同じ国民から金をむしり取ると言っているわけです。その一方で、大企業は減税するというわけですから、結局、増税分は相殺されて、おそらく殆ど税収の増加は見込めないそうです。となると、これは実際には一般国民の金を企業へ還流させる仕組みに他なりません。

国民の富、ゆうちょが、郵政民営化によって規制がはずれ、その金がもっとリスクの高いアメリカ国債とかの購入に当てられるようになると、その分、日本国債を引き受けることができなくなります。そして、金に困った日本はギリシャ化しはじめるわけです。そうなると、国の財源は無論のこと、ゆうちょの貯金そのものが消失してしまうかも知れません。アルゼンチンでは実際に国債をチャラにして国が借金を踏み倒したことがあります。郵政民営化はその一歩です。国民の富を守るために、郵政の民営化(現在、形上は民営ですが、国がそのオーナーなので実質、国営です)を止めないといけません。その法案を通すために、国民新党が連立与党でありつづけ、かつ参院過半数が必要だったのでした。しかし、参議院での与党の惨敗で、郵政見直し法案が通らなくなる可能性が高くなってきました。郵政民営化も国民の富を横流しすることで一部のものだけが利益を得るスキームですし、自民党が10%という消費税増税も法人税減税と抱き合わせになっている以上、同様に国民の金を企業に回すインチキです。これらは「国民の生活が第一」に全く反するものです。この参院選は、政権交代を確実にし、国民の生活を向上させるための法案を通すためのものでした。しかし、現執行部のアホウどものおかげで、多大な犠牲を払ってセットアップした小沢氏の苦労が水の泡となってしまいました。国民の政治への期待と信頼は裏切られ、その政治不信を良いことに、また従来の一般国民をバカにした官僚政治が続きます。そして、またしばらく日本は民主主義から遠のくことになるのでしょう。
ただただ、気が滅入るばかりです。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

推定有罪

2010-07-09 | Weblog
Natureを取り始めた時は、いろいろ自然科学界の動向を知って多少でも研究の足しになればよいと思って購読し始めたのですけど、振り返れば、私が最も熱心に読むのは、訃報欄とゴシップ記事でした。訃報欄に関しては、それでも偉大な科学者の生涯や研究の歴史などを知る事で、インスパイアされたりと有用なこともあるですけど、ゴシップに関しては生産的な所はまず何もありません。読むだけ時間の無駄だと思います。そうわかっていても凡夫の私はマジメな科学の話より、ゴシップの方につい興味を惹かれてしまいます。周囲の人の中には、真剣な顔をしてNatureを読んでいる私を見て、勉強熱心だと勘違いしている人もいるようですけど、ゴシップ記事を読むのに忙しいので、わざわざ釈明はしていません。

ステムセルの研究の分野では、ゴシップにはこと欠きません。十数年前ぐらいから、ステムセルへの過剰な期待が高まって多額の研究資金が投入され出したころに、その金をめがけて研究者が集まり出しました。それで、この分野の研究者がふえた事と、それに伴って競争が激しくなったこと、研究内容が臨床への応用を前提に行われることが多く、金が絡んでくる事、そんな事情があって、他の分野に比べて、この分野ではよりゴシップやインチキが目立つのではないかと想像するのです。おそらく、研究者は研究分野にかかわらず、一定の割合でインチキをするのだろうと思います。ただステムセルの分野は、それが目立ちやすく、インチキの影響が他の分野よりも大きいのではないかと思います。

ステムセル分野で、もっとも有名なインチキは多分、韓国のグループからの「核移植によってリプログラムした成人の細胞からES細胞を樹立した」との2004年のサイエンスの論文でしょう。この研究はかなりの数の卵子提供者を集め、多額の政府からの研究費を使ったこともあって、論文をでっち上げた人は、おそらく絶対に成功させなければならないという強いプレッシャーがあったものと思います。それで悪魔に研究者の良心を売ってしまったということなのでしょう。論文のでっちあげが判明したのは、内部告発でした。でっち上げがわかってから、データを見直してはじめて、インチキの証拠が見つかったわけで、(ステムセルに限りませんけど)研究のデータの不正は、専門家でも簡単にわかるものではないのです。他にも、現在は「Innocent mistake」ということになっていますが、ベルギーのadult stem cellの研究者(当時はアメリカ)のグループが、図表を使い回した事件とかもありました。このグループは再現性の問題からデータそのものを疑われたのでした。

さて、今回、7/1号のNatureのゴシップ欄では、ドイツのステムセル研究者、Thomas Skutellaが2008年にNatureに発表した論文について取り上げてあります。論文は、精巣から取った細胞では、従来のiPSのようなウイルスを使った遺伝子導入を行わなくてもリプログラミングできる、という驚くべき発見でした。ところが、論文出版直後から、他のステムセル研究者から、リプログラミングの証拠が怪しい、という疑義が続出しました。そして、外部研究者からの要求もかかわらず、Skutellaがその細胞の供与を拒否、それが更に研究の信頼性についての疑いを呼んだようです。Natureは出版された論文に使用した研究材料は他の研究者の求めに応じて配布することを義務づけていますから、これは明らかに違反です。本人は細胞のドナーとの契約上の制約で配布できないのだと苦しい言い訳をしています。ステムセル研究分野の大御所、JaenischeやScholerも論文が出てから2年も経つのに細胞を配布しないというのは、いかなる理由があろうとも言語道断だ、というようなコメントをしています。

研究者の場合、出版された論文に疑義をはさまれた場合に、疑いを晴らすのは研究者の義務です。なぜなら、論文の研究結果に意図的なウソはないものとの前提で、数多くの他の研究者は研究を組み立てていくからです。ですので、ガセネタであった場合、場合によっては、結果として、科学コミュニティー、一般社会に、多大な影響を与えることもあります。しかも、多くの場合、そのインチキが容易に分かるようなものではないので、より一層、研究者の研究の良心と注意深さというものが要求されているわけです。 つまり、研究者の場合、その倫理と良心を最初から信頼するという前提のもとで科学のコミュニケーションがなされているわけで、それ故に、研究不正に対してより厳しい処置がなされるのです。これは一般社会での市民が法律違反する場合と比較してみれば、違いがわかるのではないかと思います。一般社会では、人々が高い倫理観と良心を持って活動している、という前提がありません。人々は、程度の差はあるにせよ、ウソをついたり人をだましたり規則を破ったりするのが普通である、という考えが前提にあります。だから、怪しいことがあっても、その証拠が見つかって犯罪が確定しない限りは、推定無罪として扱われます。有罪でなければ無罪です。対して、研究の場合は、研究者が良心に従って厳密な実験の結果を発表しているもの前提がありますから、それに反して、意図的にウソをついたりだましたりした場合は、一般社会でのそれよりも遥かに厳しい罪と見なされます。それで、今回のNatureのゴシップ記事でも、この疑いをかけられた人は顔写真入りで、「推定有罪」扱いで雑誌に載せられているのだと思います。
しかし、狭いアカデミアの研究の世界でこれだけ評判を落としてしまうと、今後は、余程ツラの皮が厚くないと、研究者でやっていくのはつらいでしょうね。正直は最良のポリシーであるというのは、どんな世界でも当てはまると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホットドッグの陰謀

2010-07-06 | Weblog
7月4日はアメリカ建国記念日でした。日本と違ってそもそも寄せ集めの多民族国家であり、州の集合体であるアメリカでは、国民の愛国心を高める行事というものに熱心です。アメリカ軍兵士はヒーローである、政府はことあるごとに国民に思い込まそうとしています。7月4日は各地でコンサート、行事、花火などが催され、星条旗のペイントを顔に施し、自由の女神の冠を着けて人々は建国を祝います。私は、そういう人々を見る度に、アメリカの戦争を素直に祖国を守る聖戦だと信じて疑わない人々のナイーブさに気が滅入るのです。戦時中、一般国民はコントロールして利用するものだと考えていた大本営の軍部のエリート意識、それに騙されて、「お国のために」と死んでいった若者、関東軍の軍部が真っ先に逃げ出すために満州へ侵攻するソ連軍の戦線の最前線におとりとして置き去りにされた入植者。日本人は政府が国民をどのようにコントロールしてきたか身に染みて知っています。一方、多くの一般アメリカ人は知りません。

アメリカ建国記念日の全国的名物となったのが、コニーアイランドのNathan'sのホットドッグの早食い競争です。Nathan'sのホットドッグは結構、塩っからいもので、これは普通の人なら二つも食べれば、満腹となるようなシロモノですが、一昨年まで、ホットドッグ早食い競争で、彗星のように現れて、6連覇を果たした、「ツナミ」こと、タケルコバヤシさんはあの細い体で、約六十個余りを十分余りで食べるというカミカゼ的奇跡で世界の人々を驚嘆させました。そのコバヤシさんは、どうも早食いプロになったようで、コニーアイランドホットドッグ早食いを主宰している「Major League Eating」の規制のために、今年は参加することができなかったようです。事件は、今年のチャンピオンのChestnut氏が54個のホットドックを平らげて優勝を決めた、その時に起こりました。参加拒否の規制に反対して、コバヤシさんと彼のファンが作った「Free Kobi」と書かれたTシャツを着て、ステージに登ろうとしたコバヤシさんを止めようと警備の警察がコバヤシさんを逮捕したのでした。罪状は、立ち入り禁止違反、公務執行妨害、逮捕に抵抗した、というものだそうです。「彼に喰わさせろ!」という熱いファンの声の渦巻く中、コバヤシさんは警察に連行されました。昨年優勝を競い合ったChestnut氏は、どうもこの辺の事情も、逮捕されたことも知らなかった様子で、「コバヤシが本当の男なら、なぜステージに現れないのだ」と挑発したとのこと。

この事件、ちょうど一年前ぐらいに、ケンブリッジ警察がハーバード大の著明な黒人(実は黒人と白人の混血)教授を自宅で逮捕して、全国的な問題になったという事件を思い出させます。その時に書き留めた事件は下のようなものです。

 私も、ケンブリッジ警察のとった行動は愚かな行動であると思います。逮捕理由が「Disorderly conduct」というわけですから、つまり、しかるべき罪状なしに逮捕したということです。近所の人が、自宅の鍵が開かないので、ドアをこじ開けようとするゲイツ教授を見て、家屋に侵入しようとしている怪しい男がいると勘違いして、警察に通報した、というのが事件の発端です。ですから、その怪しい男が、実は、その家に住んでいる住人であるということが明らかになった時点で、警察は「そうですか」と引き下がれば済んだことです。それを警察という権力のもとに、一般住民であるゲイツ教授を、気に食わない対応をしたからと言って「風紀を乱した」という罪状で、逮捕したのですから、これはいけません。ゲイツ教授の立場になって、ちょっと考えてみれば、この逮捕が如何に不当なものか、彼が警察を告訴するといっている気持ちもわかるというものです。

その後、オバマがケンブリッジ警察の対応を批判したこともあって、ケンブリッジ警察側は感情的になり、(人種偏見に基づく不法逮捕ではないと)自らの正当性を主張。その収拾を図るため、オバマが当事者をホワイトハウスに呼んで、バイデンと四人でビールを飲んで、仲直りを演出することになったという事件でした。

今回のタケルコバヤシさんの事件との多少の相似性を私は感じます。罪状を見れば、これが手錠をかけて逮捕するような事件でないのは明らかだと思うのです。警備をしている警察には、おそらく、人種偏見があり、チャンスがあれば権力を使ってみたいという子供じみた虚栄心みたいなものもあったでしょう。
 ホットドック早食いコンテストを主宰したMajor League Eating側に何らかの意図があったかどうかは分からないですけど、アメリカの建国記念日の伝統であるコンテストに、例えホットドッグ早食いとは言え、日本人コンテスタントが過去6連覇を果たしたという事実に、強いアメリカのプライドが深く傷ついたというのもあり得るのではないかと思うのです。

ホワイトハウスでのビールでオバマは人種問題のコントロールを図ろうとしました。その時にオバマが選んだビールはバドワイザーです。ビールの銘柄の選択にも緻密な計算があります。国民はオバマの何気ない一挙動の裏にも思想や本性を読み取ろうとします。国民の気分にアメリカ政府は異常なぐらい敏感です。ならば、アメリカの建国記念日に行われる名物コンテストで、日本人が六連覇したという事実を、政府はどう受け取っていただろうか、と想像するのです。
「建国記念日はアメリカ国民の愛国心を高め、アメリカのプライドを確認し、兵士となってアメリカの利益のために身を捨てても良いと思うような熱い愛国者を作るための行事である、であるのに、第二次大戦の敗戦国からやってきた小柄な日本人に、二倍の体格のアメリカ人コンテスタント相手が6連敗を喫する、というのは、アメリカ人の愛国心を鼓揚する上で極めて不都合だ、何とかしろ」そんな命令が密かにペンタゴンあるいはホワイトハウスあたりから、コニーアイランドに伝達されたのではないか、と勘ぐったりするのです。その結果がコバヤシ選手の出場拒否ではなかったのか、と思ったりするのですけど。ちょっと、穿ち過ぎでしょうかね。

訂正。
新聞によると、コバヤシさんは2006年までの優勝者で、2007年に顎関節症を煩ってから、Chestnut氏に王座を明け渡したそうです。昨年に初めて敗退したと思ったのは、私の勘違いでした。今年はMajor League Eatingとの契約内容が厳しすぎて出場できなかった由。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

勝つ気でやらずに勝てるわけがない

2010-07-02 | Weblog
ワールドカップのパラグアイ戦、残念でした。0-0でよく押さえましたが、最後のPK戦ではずした一発で勝敗が決まってしまいました。知り合いの人に残念でしたね、というと、「この試合の前に日本チームはPKの練習をかなりしていたそうですよ」と言われました。どうも日本チームは得点力が弱いようで、守備にとにかく力を入れて、PK戦にもつれこむことを期待していたらしい、ということでした。それで、その人も「よく頑張ったとは思うが、最初からPKのことを考えて練習するようじゃいかんですね」とも言ったのでした。自らの弱点を知り、相手を知り、戦略を立てるのは当然としても、しかし力の拮抗した試合で勝敗を最後に決めるのは自信と気力であるというのは本当だと思います。私自身、以前は勝負弱かったので良くわかります。この勝負はわずかな自信の差であったのではないか、そんな気がします。それでも私は日本チームよくやったとは思います。なんといってもワールドカップ本戦に出て、南米チームと互角に渡り合った上でのPKでの負けですから。将来の希望が見える試合でした。しかし、負けは負けです。戦後に日本人に植え込まれた劣等感を払拭し、自信を取り戻すのには時間がかかりますが、次は勝ってもらいたいと思います。

さて、この「(0得点を想定して)PKの練習をやっていたらしい」という話をどう取るか人によって違うと思います。私は客観的に勝利のチャンスを冷徹に読んだ結果であろうとは思うのですけど、なんだか、 点を取るのではなく、点を取られないことを目指してプレーしたかのように聞こえるのが残念な気がします。やはり、見ているものとしては。ゴールをバシバシ決めて勝って欲しい。
ところで「最初からPKの練習をしているようではいかんですね」というコメントを聞いた時に、思い出したのが、今度の(あ)カン首相でした。小沢氏が幹事長の時は、参院で単独過半数をとって政権を盤石にすると言いました。しかし今度のこの方は参院選の議席数を過半数に満たない50議席という目標に設定しているようです。最初から参院選で過半数取る気がなくて、過半数取れるわけがないと思います。これはどういうことかと思うのです。冷静に客観的な情勢を読んでいるのかも知れませんが、この人は党首です。いくら鳩山政権時代に散々メディアにやられて支持率を落としたからと言っても、仮にも与党の党首が、政党にとって最も重要な選挙において、最初から「勝ち」を目指す気がない発言をするというのでは話になりません。ワールドカップで監督が、「相手は強いから2-1ぐらいで負けるのが目標だ」などとは、たとえ思ってはいても口には出さないはずです。そうこうしている間に、この一部では、(あき)カンとか(とんちん)カンと呼ばれているこの方は、消費税の税率は「自民党さんを参考にさせてもらいました」と言い、新幹事長は、野党の皆さんとは政策面でいろいろ一致するところがあるので(超党派で)協力してやりたい、とか言い出しています。時期をわきまえろと言いたいですね。最初から与党で過半数をとって政策を実現する自信がないので、与党の方から野党にすりよって、ナアナアでやりましょうよ、ということでしょう。選挙で過半数をとって勝つことは最初から念頭にないようです。過半数取れずに負けた時の準備を今からしておこうという態度がこの発言に出ているのではないでしょうか。選挙前なのです。参院選に出ている候補者は命がけで戦っているのに、党執行部がこれでは、公認候補者はやりきれないでしょう。昨年の政権交代は小沢氏が代表/幹事長の時の「国民の生活が第一」というスローガンに国民が共鳴して成し遂げられたものでした。鳩山氏、小沢氏が、今度の参院選のためにと身を引いた後のタナボタ内閣はすっかりマスコミのいう事を間に受けて、まるで自分たちが政権交代を成し遂げたかのように勘違いして、昨年の総選挙の時の公約とはすっかり違うことを平気で口にしています。今度の内閣の支持率もおかげで急降下。小沢氏に期待した民主党支持者が民主党を見限りはじめたようです。しかし、政権交代がこのように惨めな形で国民の期待を裏切ることになりつつあるのは本当に悲しいです。 小沢氏はどう思っているのでしょうか。こうなっていても、民主党で参院過半数を成し遂げてから、現執行部をどうにかしようと思っているのでしょうか?あるいは、すでに民主党でまとまるのはムリで、解散総選挙、政界再編成の線を探ろうとしているのでしょうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする