日本の政府から聞こえてくるニュースの殆どに、「善い政策だな」と頷いた記憶がありません。むしろ、その余りの幼稚さに言葉を失うことの方が圧倒的に多いです。今回の高校英語教育政策についてのニュースも、余りに「噴飯もの」だったので、だらだら、憤懣を書き連ねたら随分長くなってしまいました。読み返してみると、いっぱい主張が重複しています。言いたいことをまとめたら最後の一文にまとまってしまいました。国民の九割以上の(少なくとも日本の英語教育について意見をもつ人の)人は、私の意見に多かれ少なかれ賛成してくれるのではないだろうかと想像します。今回も(いつものように)日本政府の役人への怒りに任せて書いたので、決して誰かを説得しようとするようなものではありません。忙しい方は最後の一文だけ読んでもらえたらと思います。
文科省が高校英語教の改訂案で、授業を英語で行うのを基本とするという方針を打ち出したという話を聞きました。どうして、役人は、悪い方、悪い方へとものごとを変えようとするのでしょう?きっと、日本人が英語を学ぶことの意味とか、英語教育の現場とかわかってないのでしょうね。私の知る限り、日常的に英語を職業なり生活で使用している人々で、この高校英語教育を英語でやるという案に肯定的な意見を述べている人は、ただの一人もいません。「机上の空論」とはまさにこんなバカげた案のことです。
英語で授業をすべきなのは、幼稚園とか小学校とかで英語を遊びとして教える場合と、英語を本当に仕事で使わなければならない立場の人に教える場合であると思います。そもそも、高校で学ぶ英語の教育を英語でやっていては、とてもまともに授業は進みません。私は以前のエントリーでも触れましたように[ 日本の国際化について思うこと(1)、日本の国際化について思うこと(2) ]、日本の初期教育でもっとも有害なものが英語教育であると思っていますので、英語での英語の授業など義務教育でも高校教育でも全く不要であるし、むしろやってはならぬものであると思います。そもそも、こんな馬鹿げたことを言い出した役人は、「日本語しか知らない子供が、高校レベルの英語を習得するすること」が、どれ程大変なことかを十分理解していないと思います。アメリカの子供でも、読み書きがまずまずできて、英語でしゃべって聞けるようになるのに、毎日毎日、英語ばかりの環境に10年近くいることが必要なのです。週にたかだか数時間の英語の授業を数年やっただけで、英語が自由に使えるようになると期待するのが甘過ぎるのです。義務教育、高校教育で教える英語というのは、日本人が将来英語を使ってビジネスなどでコミュニケーションするために知っているべき最小限の英語のルールを教えるのが精一杯で、それを実際に使えるようにするには、その知識に加えて、毎日のトレーニングと経験が不可欠です。十分な英語の知識のない生徒に教える場合、たかだか週に数時間しか授業時間がないのに、それを英語で行うことで起こることは、間違いなく英語力の低下そのものです。日本語で授業をするからまだ日本人生徒は理解する手段があり、日本人英語教師は教える手段があるのだということを役人は分かっていないのでしょう。実際に英語の授業を英語でやりだしたら、大量の落ちこぼれと読解力と英作文力の低下をおこすでしょう。ひょっとしたら断片的な聞き取りの力は多少上がるかも知れませんが、基礎の文法や単語力が十分でない状態では、多少、英語が聞き取れるようになったところで、「英語がわからない」ことには違いはありません。
妻の知り合いに、英語で聞こえたそのままをカタカナで書くという人がいます。例えば、Gailという人に会ったということを別の日本人に文書で伝えようとすると、彼女は「ゲオに会った」と書くのです。最初は冗談かと思っていましたが、彼女は、Gailがゲイルと普通は表記されること、またはゲオと聞こえるその単語がGailであること、の理解がどうも欠けているらしいと妻はいうのでした。プレスリーのハウンドドッグは私はLPで覚えて、歌詞を見ながら聞いていたので、プレスリーが「ユエンナッツバラハウンドー」と歌ったら、「You ain’t nothing but a hounddogと言っているのだという対応づけがありました。ジェームスブラウンが、ゲロッパと叫べば、「Get up!」と思って聞きました。彼女だったら、多分ナッツバラは変わった植物か、お肉の一種で、ゲロッパはかえるの一種とでも思うことでしょう。彼女のゲオは口語の限定された状況のみにおいて有効な記号であって、いわば門前の小僧の経と同じなのです。日本人が英語を学習するというプロセスにおいては、英語という言語体系の一部として口語英語があるということに意識的でないと、門前の小僧英語では意味をなしません。日本人が英語を習得する目的を考えてみればわかるでしょう。何のために英語教育が義務教育やそれに準ずる高校教育で行われるのか、それは、将来、日本人が非日本語圏にアクセスし、知識を得たり交流や交渉を行う時に備え、そして最終的に、日本の国益に寄与する機会を増やすこと期待するからです。そのために必要な英語の知識は、かなり複雑な内容のことを表現し理解することがに必要で、そのためには相当の語彙力と文法の知識を覚える必要があります。高校英語教育の目的は、決して、普段アメリカ人がする日常会話に参加するためではありません。ハロー、ハワユー、マイネームイズ、タローアホウ、英語会話がこんなレベルでは役に立ちません。必要とされる英語は、日本人としての文化的、政治的見解を語り、また相手の国の同様の主題についての主張を聞いて理解できるレベルでなければなりません。つまり、一般人のレベルでは、外国人が日本に持っている偏見や悪感情、あるいは日本人が外国人に持っている偏見とかを、語りあって、相互に理解し、問題を解決していくために、口語英語という意思疎通のためのツールが必要なのです。そんな「内容のある」英語を日本人がしゃべり、かつ聞いて理解できるようになるには、時間と努力が必要なのです。しゃべるのはともかく、聞いて理解するためには、相当の語彙力と耳の訓練が必要です。つまり、日本語を第一言語とする日本で育った日本人が、英語を聞き取れるようになるには、英語の単語、言い回し、文法などの知識がまず十分にあった上で、書かれた単語や単語の連なりが発音された場合、実際にどのように聞こえるかという新たな対応表を覚える作業が必要であるのだと思います。私はアメリカ北部の英語ならそこそこ聞き取れますが、イギリス英語、オーストラリア英語だと分からない部分が増えますし、同じアメリカ英語でも南部の英語や黒人英語の理解はイギリス英語以下の理解しかできません。最初は本当に単純な単語でさえ、耳で聞いて覚えない限り分からないのです。例えば、「Cool」という単語はクールではなく「コオ」と聞こえますし、「Adult」はアダルトではなく「アドル」のように聞こえます。そんな言葉と発音との対応関係を覚え直す単純作業を高校の少ない授業時間内でやるべきなのかどうかは問うまでもありません。また昔は、英語の勉強になるからと言って、洋楽のレコードを親にねだったりしたことがある人は多いと思います。レコードで何らかの英語の知識を得ることもないわけではないですが、「洋楽のレコードを聞いて、英語力がついた」とかいう日本人を、私はただの一人も知りません。十分な英単語力、文法力のない生徒を対象に、英語を英語で教えるということは、この手の意味のないムダを増やすことになります。高校生が学ぶべき英語の知識を英語を使って教えるためには、授業時間数を少なくとも2倍にはする必要があります。それで得られるものは、多分、半分の時間で日本語で教えた場合と変わらないかむしろ悪いでしょう。そんなものに高校の限られた授業時間を割く価値はありません。それよりも、どこかの首相をみても分かる通り、他の国の言葉を覚える前に、まずもっと国語力をつけさせる必要があると思います。自分の国の言葉を使っても、自分の言いたいことを十分に言い表すことも、人が言っていることを十分理解できないのに、他の国の言葉をその国の言葉で教えるなど、ただでさえ心配されている学力低下を促進し、日本国民白痴化へと進める愚行以外の何ものでもありません。
そもそも英語は意思疎通のために単純化されたクレオール言語と言ってもよいと思います。英語はフランス語などから言葉を取り込んで、語彙を増やし、より言語として成熟度の高いものとなってきましたが、その語彙や文法の単純さは、例えば、日本語とは比べ物になりません。思うに、とりわけアメリカで英語が相変わらず、比較的単純な言語であるのは、それが移民どうしのコミュニケーションに必要な実用言語であるという側面が強かったからではないかと想像します。それでも、英語が他のインド、ヨーロッパ言語と異なって、余りに日本語の体系と共有するものが少ないので、日本人が英語を習得するのはそう簡単なものではありません。日本人の英語習得の目的を考えると、口語のことを気にするのは、それ以前の基礎が十分身についてからはじめてすべきことで、高校レベルでは、口語の英語を話し理解するには、地道なトレーニングが必要であることを知ってもらうだけで十分であろうと思います。
先日、三輪明宏さんがテレビで「美しい日本語をしゃべろう」というような趣旨のことを述べている録画を見ました。私は彼(彼女?)の最近の外見はどうも余り好きではないのですが、言っていることには強く共感することが多いのです。経験と実生活に裏打ちされた本当の智恵を語っているから説得力があるのだろうと思います。そのテレビでは、例えば、親が子供と接する場合に、昔のように、敬語、丁寧語を使うべきだ、そうすることによって、お互いへの尊敬がまず示されるというようなことを述べてられていました。つまり、「オメー、宿題まだやってねえじゃねえか、さっさとやらねえと、晩飯抜きだぞ」「うるせえな、やりゃーいいんだろう」などというかわりに、「学校での宿題は必ず、その日のうちにやってしまうようにして下さい」「わかりました、お父様」みたいな会話が成立すれば、その言葉遣いが家庭での様々な活動のレベルをあげることに繋がると言うのです。一方、子供は汚い言葉が好きですし、単純な言葉をいろいろな意味で使い分けることで、少ない語彙で会話をする傾向があります。その方がラクだからです。テレビでは、若者が「ヤベー」とか「ムカつく」という言葉をあげて、これらの言葉が、本来、異なった言葉が記述する多様な状況に使用されているかという例をあげていました。ヤベーは、まずい、しくじった、きわどい、面白い、などいろいろな意味をcontextに応じて持ち得ます。それを一言、ヤベーで済ましてしまうことで、言葉の多様さに対する感受性が低下し、より正確に言いたいことを伝えるという言語の能力の低下を引き起こす可能性は十分に考えられると思います。英語はすでにそうなっています。移民間での意思疎通のための簡略化された言語としての英語では、一つの言葉や言い回しが多様な意味を持ち得ます。例えば、「冗談でしょ」という相づちには、「You must be kidding」と言えば間違いようはないですが、同様の意味で「Shut up」とか「Get out of here」とか言えば、言い方によっては、異なった風にとられて、喧嘩になりかねません。英語の授業を英語でやるということは、口語特有のこうした英語表現を避けるわけにはいきません。こうした言葉は簡単で便利だから使われるのです。特に日本人英語教師が英語で授業をするのを考えると、こうした便利で単純な言葉に過剰に頼らざるを得なくなるでしょう。アメリカ人でも聞くに堪える話をする人は、きちんと原稿を書いて推敲して、しゃべる練習をするのです。日本の英語の授業でそんなことが可能であるとはとても思えません。だから、日本の高校で英語で英語の授業をやっている様子を想像して、日本語訳すると、次のようになるのではないかと思うのです。
「オメー、その文、読んでみろ」
「ジスイズアペン」
「オメーの発音、ヤベーな」
「ヤベーっすか?」
「ヤベーよ」
これで英語力あがるでしょうか?逆に落ちるでしょうね。
「ヤベーよ」と言うかわりに、英語教師は、「thの発音は、舌の先を上下の歯の間に挟んで、発声と同時に舌を後方へと移動させて発音するのですよ。さあ、やってみましょう」みたいなことを、しかも英語の知識に乏しい生徒に分かるように、英語でしゃべらないといけません。できますか?
長々と書きましたが、結論は単純です。英語で高校英語教育をやって悪い理由は、第一にそんなことをやっているヒマはない、そして第二にそんなことをやっても時間のムダであるということです。「ただでさえヒマがないのにそれをムダにしてどうする」、それが高校英語教育の現場を多少でも知っている人の共通の意見ではないでしょうか。
追記。
「使える英語」という名目で、口語英語を重視するのは、実は役人がバカだからではなく、役人がアメリカによる日本人支配に意図的に加担しているからであるという意見が述べてある文を最近読みました(生憎、出典を覚えておりません)。つまり、読み書きであれば、日本人は十分よくやっているし、(英語で発表される日本からの学術論文をみてみればわかるでしょう)、しゃべれないけれど、十分立派過ぎるぐらいの文を書いたり読んだりは既にできるのです。しかし、口語はその知識に加え、実地トレーニングが不可欠で、それ故に、アメリカは日本人に対しては、口語英語という武器を通じてで絶対的優位を保てるというわけです。日本人に対して、アメリカに対する劣等感を刷り込むために、できもしない口語教育を比較的若い時期にあえて行うという、これはアメリカの策略であるという陰謀説は、あるいは本当かも知れません。何しろ、日本の中央官僚や政治家の多くが、アメリカの手先として、これまで日本国民の搾取に加担してきたのですから、十分あり得る話のような気がします。
果たして、役人はただのバカなのでしょうか、あるいはバカを装ったずる賢い狐なのでしょうか?いずれにせよ、気の滅入る話です。
文科省が高校英語教の改訂案で、授業を英語で行うのを基本とするという方針を打ち出したという話を聞きました。どうして、役人は、悪い方、悪い方へとものごとを変えようとするのでしょう?きっと、日本人が英語を学ぶことの意味とか、英語教育の現場とかわかってないのでしょうね。私の知る限り、日常的に英語を職業なり生活で使用している人々で、この高校英語教育を英語でやるという案に肯定的な意見を述べている人は、ただの一人もいません。「机上の空論」とはまさにこんなバカげた案のことです。
英語で授業をすべきなのは、幼稚園とか小学校とかで英語を遊びとして教える場合と、英語を本当に仕事で使わなければならない立場の人に教える場合であると思います。そもそも、高校で学ぶ英語の教育を英語でやっていては、とてもまともに授業は進みません。私は以前のエントリーでも触れましたように[ 日本の国際化について思うこと(1)、日本の国際化について思うこと(2) ]、日本の初期教育でもっとも有害なものが英語教育であると思っていますので、英語での英語の授業など義務教育でも高校教育でも全く不要であるし、むしろやってはならぬものであると思います。そもそも、こんな馬鹿げたことを言い出した役人は、「日本語しか知らない子供が、高校レベルの英語を習得するすること」が、どれ程大変なことかを十分理解していないと思います。アメリカの子供でも、読み書きがまずまずできて、英語でしゃべって聞けるようになるのに、毎日毎日、英語ばかりの環境に10年近くいることが必要なのです。週にたかだか数時間の英語の授業を数年やっただけで、英語が自由に使えるようになると期待するのが甘過ぎるのです。義務教育、高校教育で教える英語というのは、日本人が将来英語を使ってビジネスなどでコミュニケーションするために知っているべき最小限の英語のルールを教えるのが精一杯で、それを実際に使えるようにするには、その知識に加えて、毎日のトレーニングと経験が不可欠です。十分な英語の知識のない生徒に教える場合、たかだか週に数時間しか授業時間がないのに、それを英語で行うことで起こることは、間違いなく英語力の低下そのものです。日本語で授業をするからまだ日本人生徒は理解する手段があり、日本人英語教師は教える手段があるのだということを役人は分かっていないのでしょう。実際に英語の授業を英語でやりだしたら、大量の落ちこぼれと読解力と英作文力の低下をおこすでしょう。ひょっとしたら断片的な聞き取りの力は多少上がるかも知れませんが、基礎の文法や単語力が十分でない状態では、多少、英語が聞き取れるようになったところで、「英語がわからない」ことには違いはありません。
妻の知り合いに、英語で聞こえたそのままをカタカナで書くという人がいます。例えば、Gailという人に会ったということを別の日本人に文書で伝えようとすると、彼女は「ゲオに会った」と書くのです。最初は冗談かと思っていましたが、彼女は、Gailがゲイルと普通は表記されること、またはゲオと聞こえるその単語がGailであること、の理解がどうも欠けているらしいと妻はいうのでした。プレスリーのハウンドドッグは私はLPで覚えて、歌詞を見ながら聞いていたので、プレスリーが「ユエンナッツバラハウンドー」と歌ったら、「You ain’t nothing but a hounddogと言っているのだという対応づけがありました。ジェームスブラウンが、ゲロッパと叫べば、「Get up!」と思って聞きました。彼女だったら、多分ナッツバラは変わった植物か、お肉の一種で、ゲロッパはかえるの一種とでも思うことでしょう。彼女のゲオは口語の限定された状況のみにおいて有効な記号であって、いわば門前の小僧の経と同じなのです。日本人が英語を学習するというプロセスにおいては、英語という言語体系の一部として口語英語があるということに意識的でないと、門前の小僧英語では意味をなしません。日本人が英語を習得する目的を考えてみればわかるでしょう。何のために英語教育が義務教育やそれに準ずる高校教育で行われるのか、それは、将来、日本人が非日本語圏にアクセスし、知識を得たり交流や交渉を行う時に備え、そして最終的に、日本の国益に寄与する機会を増やすこと期待するからです。そのために必要な英語の知識は、かなり複雑な内容のことを表現し理解することがに必要で、そのためには相当の語彙力と文法の知識を覚える必要があります。高校英語教育の目的は、決して、普段アメリカ人がする日常会話に参加するためではありません。ハロー、ハワユー、マイネームイズ、タローアホウ、英語会話がこんなレベルでは役に立ちません。必要とされる英語は、日本人としての文化的、政治的見解を語り、また相手の国の同様の主題についての主張を聞いて理解できるレベルでなければなりません。つまり、一般人のレベルでは、外国人が日本に持っている偏見や悪感情、あるいは日本人が外国人に持っている偏見とかを、語りあって、相互に理解し、問題を解決していくために、口語英語という意思疎通のためのツールが必要なのです。そんな「内容のある」英語を日本人がしゃべり、かつ聞いて理解できるようになるには、時間と努力が必要なのです。しゃべるのはともかく、聞いて理解するためには、相当の語彙力と耳の訓練が必要です。つまり、日本語を第一言語とする日本で育った日本人が、英語を聞き取れるようになるには、英語の単語、言い回し、文法などの知識がまず十分にあった上で、書かれた単語や単語の連なりが発音された場合、実際にどのように聞こえるかという新たな対応表を覚える作業が必要であるのだと思います。私はアメリカ北部の英語ならそこそこ聞き取れますが、イギリス英語、オーストラリア英語だと分からない部分が増えますし、同じアメリカ英語でも南部の英語や黒人英語の理解はイギリス英語以下の理解しかできません。最初は本当に単純な単語でさえ、耳で聞いて覚えない限り分からないのです。例えば、「Cool」という単語はクールではなく「コオ」と聞こえますし、「Adult」はアダルトではなく「アドル」のように聞こえます。そんな言葉と発音との対応関係を覚え直す単純作業を高校の少ない授業時間内でやるべきなのかどうかは問うまでもありません。また昔は、英語の勉強になるからと言って、洋楽のレコードを親にねだったりしたことがある人は多いと思います。レコードで何らかの英語の知識を得ることもないわけではないですが、「洋楽のレコードを聞いて、英語力がついた」とかいう日本人を、私はただの一人も知りません。十分な英単語力、文法力のない生徒を対象に、英語を英語で教えるということは、この手の意味のないムダを増やすことになります。高校生が学ぶべき英語の知識を英語を使って教えるためには、授業時間数を少なくとも2倍にはする必要があります。それで得られるものは、多分、半分の時間で日本語で教えた場合と変わらないかむしろ悪いでしょう。そんなものに高校の限られた授業時間を割く価値はありません。それよりも、どこかの首相をみても分かる通り、他の国の言葉を覚える前に、まずもっと国語力をつけさせる必要があると思います。自分の国の言葉を使っても、自分の言いたいことを十分に言い表すことも、人が言っていることを十分理解できないのに、他の国の言葉をその国の言葉で教えるなど、ただでさえ心配されている学力低下を促進し、日本国民白痴化へと進める愚行以外の何ものでもありません。
そもそも英語は意思疎通のために単純化されたクレオール言語と言ってもよいと思います。英語はフランス語などから言葉を取り込んで、語彙を増やし、より言語として成熟度の高いものとなってきましたが、その語彙や文法の単純さは、例えば、日本語とは比べ物になりません。思うに、とりわけアメリカで英語が相変わらず、比較的単純な言語であるのは、それが移民どうしのコミュニケーションに必要な実用言語であるという側面が強かったからではないかと想像します。それでも、英語が他のインド、ヨーロッパ言語と異なって、余りに日本語の体系と共有するものが少ないので、日本人が英語を習得するのはそう簡単なものではありません。日本人の英語習得の目的を考えると、口語のことを気にするのは、それ以前の基礎が十分身についてからはじめてすべきことで、高校レベルでは、口語の英語を話し理解するには、地道なトレーニングが必要であることを知ってもらうだけで十分であろうと思います。
先日、三輪明宏さんがテレビで「美しい日本語をしゃべろう」というような趣旨のことを述べている録画を見ました。私は彼(彼女?)の最近の外見はどうも余り好きではないのですが、言っていることには強く共感することが多いのです。経験と実生活に裏打ちされた本当の智恵を語っているから説得力があるのだろうと思います。そのテレビでは、例えば、親が子供と接する場合に、昔のように、敬語、丁寧語を使うべきだ、そうすることによって、お互いへの尊敬がまず示されるというようなことを述べてられていました。つまり、「オメー、宿題まだやってねえじゃねえか、さっさとやらねえと、晩飯抜きだぞ」「うるせえな、やりゃーいいんだろう」などというかわりに、「学校での宿題は必ず、その日のうちにやってしまうようにして下さい」「わかりました、お父様」みたいな会話が成立すれば、その言葉遣いが家庭での様々な活動のレベルをあげることに繋がると言うのです。一方、子供は汚い言葉が好きですし、単純な言葉をいろいろな意味で使い分けることで、少ない語彙で会話をする傾向があります。その方がラクだからです。テレビでは、若者が「ヤベー」とか「ムカつく」という言葉をあげて、これらの言葉が、本来、異なった言葉が記述する多様な状況に使用されているかという例をあげていました。ヤベーは、まずい、しくじった、きわどい、面白い、などいろいろな意味をcontextに応じて持ち得ます。それを一言、ヤベーで済ましてしまうことで、言葉の多様さに対する感受性が低下し、より正確に言いたいことを伝えるという言語の能力の低下を引き起こす可能性は十分に考えられると思います。英語はすでにそうなっています。移民間での意思疎通のための簡略化された言語としての英語では、一つの言葉や言い回しが多様な意味を持ち得ます。例えば、「冗談でしょ」という相づちには、「You must be kidding」と言えば間違いようはないですが、同様の意味で「Shut up」とか「Get out of here」とか言えば、言い方によっては、異なった風にとられて、喧嘩になりかねません。英語の授業を英語でやるということは、口語特有のこうした英語表現を避けるわけにはいきません。こうした言葉は簡単で便利だから使われるのです。特に日本人英語教師が英語で授業をするのを考えると、こうした便利で単純な言葉に過剰に頼らざるを得なくなるでしょう。アメリカ人でも聞くに堪える話をする人は、きちんと原稿を書いて推敲して、しゃべる練習をするのです。日本の英語の授業でそんなことが可能であるとはとても思えません。だから、日本の高校で英語で英語の授業をやっている様子を想像して、日本語訳すると、次のようになるのではないかと思うのです。
「オメー、その文、読んでみろ」
「ジスイズアペン」
「オメーの発音、ヤベーな」
「ヤベーっすか?」
「ヤベーよ」
これで英語力あがるでしょうか?逆に落ちるでしょうね。
「ヤベーよ」と言うかわりに、英語教師は、「thの発音は、舌の先を上下の歯の間に挟んで、発声と同時に舌を後方へと移動させて発音するのですよ。さあ、やってみましょう」みたいなことを、しかも英語の知識に乏しい生徒に分かるように、英語でしゃべらないといけません。できますか?
長々と書きましたが、結論は単純です。英語で高校英語教育をやって悪い理由は、第一にそんなことをやっているヒマはない、そして第二にそんなことをやっても時間のムダであるということです。「ただでさえヒマがないのにそれをムダにしてどうする」、それが高校英語教育の現場を多少でも知っている人の共通の意見ではないでしょうか。
追記。
「使える英語」という名目で、口語英語を重視するのは、実は役人がバカだからではなく、役人がアメリカによる日本人支配に意図的に加担しているからであるという意見が述べてある文を最近読みました(生憎、出典を覚えておりません)。つまり、読み書きであれば、日本人は十分よくやっているし、(英語で発表される日本からの学術論文をみてみればわかるでしょう)、しゃべれないけれど、十分立派過ぎるぐらいの文を書いたり読んだりは既にできるのです。しかし、口語はその知識に加え、実地トレーニングが不可欠で、それ故に、アメリカは日本人に対しては、口語英語という武器を通じてで絶対的優位を保てるというわけです。日本人に対して、アメリカに対する劣等感を刷り込むために、できもしない口語教育を比較的若い時期にあえて行うという、これはアメリカの策略であるという陰謀説は、あるいは本当かも知れません。何しろ、日本の中央官僚や政治家の多くが、アメリカの手先として、これまで日本国民の搾取に加担してきたのですから、十分あり得る話のような気がします。
果たして、役人はただのバカなのでしょうか、あるいはバカを装ったずる賢い狐なのでしょうか?いずれにせよ、気の滅入る話です。