百醜千拙草

何とかやっています

英語教育政策、役人はバカか狐か

2008-12-30 | Weblog
日本の政府から聞こえてくるニュースの殆どに、「善い政策だな」と頷いた記憶がありません。むしろ、その余りの幼稚さに言葉を失うことの方が圧倒的に多いです。今回の高校英語教育政策についてのニュースも、余りに「噴飯もの」だったので、だらだら、憤懣を書き連ねたら随分長くなってしまいました。読み返してみると、いっぱい主張が重複しています。言いたいことをまとめたら最後の一文にまとまってしまいました。国民の九割以上の(少なくとも日本の英語教育について意見をもつ人の)人は、私の意見に多かれ少なかれ賛成してくれるのではないだろうかと想像します。今回も(いつものように)日本政府の役人への怒りに任せて書いたので、決して誰かを説得しようとするようなものではありません。忙しい方は最後の一文だけ読んでもらえたらと思います。

文科省が高校英語教の改訂案で、授業を英語で行うのを基本とするという方針を打ち出したという話を聞きました。どうして、役人は、悪い方、悪い方へとものごとを変えようとするのでしょう?きっと、日本人が英語を学ぶことの意味とか、英語教育の現場とかわかってないのでしょうね。私の知る限り、日常的に英語を職業なり生活で使用している人々で、この高校英語教育を英語でやるという案に肯定的な意見を述べている人は、ただの一人もいません。「机上の空論」とはまさにこんなバカげた案のことです。
 英語で授業をすべきなのは、幼稚園とか小学校とかで英語を遊びとして教える場合と、英語を本当に仕事で使わなければならない立場の人に教える場合であると思います。そもそも、高校で学ぶ英語の教育を英語でやっていては、とてもまともに授業は進みません。私は以前のエントリーでも触れましたように[ 日本の国際化について思うこと(1)日本の国際化について思うこと(2) ]、日本の初期教育でもっとも有害なものが英語教育であると思っていますので、英語での英語の授業など義務教育でも高校教育でも全く不要であるし、むしろやってはならぬものであると思います。そもそも、こんな馬鹿げたことを言い出した役人は、「日本語しか知らない子供が、高校レベルの英語を習得するすること」が、どれ程大変なことかを十分理解していないと思います。アメリカの子供でも、読み書きがまずまずできて、英語でしゃべって聞けるようになるのに、毎日毎日、英語ばかりの環境に10年近くいることが必要なのです。週にたかだか数時間の英語の授業を数年やっただけで、英語が自由に使えるようになると期待するのが甘過ぎるのです。義務教育、高校教育で教える英語というのは、日本人が将来英語を使ってビジネスなどでコミュニケーションするために知っているべき最小限の英語のルールを教えるのが精一杯で、それを実際に使えるようにするには、その知識に加えて、毎日のトレーニングと経験が不可欠です。十分な英語の知識のない生徒に教える場合、たかだか週に数時間しか授業時間がないのに、それを英語で行うことで起こることは、間違いなく英語力の低下そのものです。日本語で授業をするからまだ日本人生徒は理解する手段があり、日本人英語教師は教える手段があるのだということを役人は分かっていないのでしょう。実際に英語の授業を英語でやりだしたら、大量の落ちこぼれと読解力と英作文力の低下をおこすでしょう。ひょっとしたら断片的な聞き取りの力は多少上がるかも知れませんが、基礎の文法や単語力が十分でない状態では、多少、英語が聞き取れるようになったところで、「英語がわからない」ことには違いはありません。

妻の知り合いに、英語で聞こえたそのままをカタカナで書くという人がいます。例えば、Gailという人に会ったということを別の日本人に文書で伝えようとすると、彼女は「ゲオに会った」と書くのです。最初は冗談かと思っていましたが、彼女は、Gailがゲイルと普通は表記されること、またはゲオと聞こえるその単語がGailであること、の理解がどうも欠けているらしいと妻はいうのでした。プレスリーのハウンドドッグは私はLPで覚えて、歌詞を見ながら聞いていたので、プレスリーが「ユエンナッツバラハウンドー」と歌ったら、「You ain’t nothing but a hounddogと言っているのだという対応づけがありました。ジェームスブラウンが、ゲロッパと叫べば、「Get up!」と思って聞きました。彼女だったら、多分ナッツバラは変わった植物か、お肉の一種で、ゲロッパはかえるの一種とでも思うことでしょう。彼女のゲオは口語の限定された状況のみにおいて有効な記号であって、いわば門前の小僧の経と同じなのです。日本人が英語を学習するというプロセスにおいては、英語という言語体系の一部として口語英語があるということに意識的でないと、門前の小僧英語では意味をなしません。日本人が英語を習得する目的を考えてみればわかるでしょう。何のために英語教育が義務教育やそれに準ずる高校教育で行われるのか、それは、将来、日本人が非日本語圏にアクセスし、知識を得たり交流や交渉を行う時に備え、そして最終的に、日本の国益に寄与する機会を増やすこと期待するからです。そのために必要な英語の知識は、かなり複雑な内容のことを表現し理解することがに必要で、そのためには相当の語彙力と文法の知識を覚える必要があります。高校英語教育の目的は、決して、普段アメリカ人がする日常会話に参加するためではありません。ハロー、ハワユー、マイネームイズ、タローアホウ、英語会話がこんなレベルでは役に立ちません。必要とされる英語は、日本人としての文化的、政治的見解を語り、また相手の国の同様の主題についての主張を聞いて理解できるレベルでなければなりません。つまり、一般人のレベルでは、外国人が日本に持っている偏見や悪感情、あるいは日本人が外国人に持っている偏見とかを、語りあって、相互に理解し、問題を解決していくために、口語英語という意思疎通のためのツールが必要なのです。そんな「内容のある」英語を日本人がしゃべり、かつ聞いて理解できるようになるには、時間と努力が必要なのです。しゃべるのはともかく、聞いて理解するためには、相当の語彙力と耳の訓練が必要です。つまり、日本語を第一言語とする日本で育った日本人が、英語を聞き取れるようになるには、英語の単語、言い回し、文法などの知識がまず十分にあった上で、書かれた単語や単語の連なりが発音された場合、実際にどのように聞こえるかという新たな対応表を覚える作業が必要であるのだと思います。私はアメリカ北部の英語ならそこそこ聞き取れますが、イギリス英語、オーストラリア英語だと分からない部分が増えますし、同じアメリカ英語でも南部の英語や黒人英語の理解はイギリス英語以下の理解しかできません。最初は本当に単純な単語でさえ、耳で聞いて覚えない限り分からないのです。例えば、「Cool」という単語はクールではなく「コオ」と聞こえますし、「Adult」はアダルトではなく「アドル」のように聞こえます。そんな言葉と発音との対応関係を覚え直す単純作業を高校の少ない授業時間内でやるべきなのかどうかは問うまでもありません。また昔は、英語の勉強になるからと言って、洋楽のレコードを親にねだったりしたことがある人は多いと思います。レコードで何らかの英語の知識を得ることもないわけではないですが、「洋楽のレコードを聞いて、英語力がついた」とかいう日本人を、私はただの一人も知りません。十分な英単語力、文法力のない生徒を対象に、英語を英語で教えるということは、この手の意味のないムダを増やすことになります。高校生が学ぶべき英語の知識を英語を使って教えるためには、授業時間数を少なくとも2倍にはする必要があります。それで得られるものは、多分、半分の時間で日本語で教えた場合と変わらないかむしろ悪いでしょう。そんなものに高校の限られた授業時間を割く価値はありません。それよりも、どこかの首相をみても分かる通り、他の国の言葉を覚える前に、まずもっと国語力をつけさせる必要があると思います。自分の国の言葉を使っても、自分の言いたいことを十分に言い表すことも、人が言っていることを十分理解できないのに、他の国の言葉をその国の言葉で教えるなど、ただでさえ心配されている学力低下を促進し、日本国民白痴化へと進める愚行以外の何ものでもありません。

そもそも英語は意思疎通のために単純化されたクレオール言語と言ってもよいと思います。英語はフランス語などから言葉を取り込んで、語彙を増やし、より言語として成熟度の高いものとなってきましたが、その語彙や文法の単純さは、例えば、日本語とは比べ物になりません。思うに、とりわけアメリカで英語が相変わらず、比較的単純な言語であるのは、それが移民どうしのコミュニケーションに必要な実用言語であるという側面が強かったからではないかと想像します。それでも、英語が他のインド、ヨーロッパ言語と異なって、余りに日本語の体系と共有するものが少ないので、日本人が英語を習得するのはそう簡単なものではありません。日本人の英語習得の目的を考えると、口語のことを気にするのは、それ以前の基礎が十分身についてからはじめてすべきことで、高校レベルでは、口語の英語を話し理解するには、地道なトレーニングが必要であることを知ってもらうだけで十分であろうと思います。
 先日、三輪明宏さんがテレビで「美しい日本語をしゃべろう」というような趣旨のことを述べている録画を見ました。私は彼(彼女?)の最近の外見はどうも余り好きではないのですが、言っていることには強く共感することが多いのです。経験と実生活に裏打ちされた本当の智恵を語っているから説得力があるのだろうと思います。そのテレビでは、例えば、親が子供と接する場合に、昔のように、敬語、丁寧語を使うべきだ、そうすることによって、お互いへの尊敬がまず示されるというようなことを述べてられていました。つまり、「オメー、宿題まだやってねえじゃねえか、さっさとやらねえと、晩飯抜きだぞ」「うるせえな、やりゃーいいんだろう」などというかわりに、「学校での宿題は必ず、その日のうちにやってしまうようにして下さい」「わかりました、お父様」みたいな会話が成立すれば、その言葉遣いが家庭での様々な活動のレベルをあげることに繋がると言うのです。一方、子供は汚い言葉が好きですし、単純な言葉をいろいろな意味で使い分けることで、少ない語彙で会話をする傾向があります。その方がラクだからです。テレビでは、若者が「ヤベー」とか「ムカつく」という言葉をあげて、これらの言葉が、本来、異なった言葉が記述する多様な状況に使用されているかという例をあげていました。ヤベーは、まずい、しくじった、きわどい、面白い、などいろいろな意味をcontextに応じて持ち得ます。それを一言、ヤベーで済ましてしまうことで、言葉の多様さに対する感受性が低下し、より正確に言いたいことを伝えるという言語の能力の低下を引き起こす可能性は十分に考えられると思います。英語はすでにそうなっています。移民間での意思疎通のための簡略化された言語としての英語では、一つの言葉や言い回しが多様な意味を持ち得ます。例えば、「冗談でしょ」という相づちには、「You must be kidding」と言えば間違いようはないですが、同様の意味で「Shut up」とか「Get out of here」とか言えば、言い方によっては、異なった風にとられて、喧嘩になりかねません。英語の授業を英語でやるということは、口語特有のこうした英語表現を避けるわけにはいきません。こうした言葉は簡単で便利だから使われるのです。特に日本人英語教師が英語で授業をするのを考えると、こうした便利で単純な言葉に過剰に頼らざるを得なくなるでしょう。アメリカ人でも聞くに堪える話をする人は、きちんと原稿を書いて推敲して、しゃべる練習をするのです。日本の英語の授業でそんなことが可能であるとはとても思えません。だから、日本の高校で英語で英語の授業をやっている様子を想像して、日本語訳すると、次のようになるのではないかと思うのです。
「オメー、その文、読んでみろ」
「ジスイズアペン」
「オメーの発音、ヤベーな」
「ヤベーっすか?」
「ヤベーよ」
これで英語力あがるでしょうか?逆に落ちるでしょうね。
「ヤベーよ」と言うかわりに、英語教師は、「thの発音は、舌の先を上下の歯の間に挟んで、発声と同時に舌を後方へと移動させて発音するのですよ。さあ、やってみましょう」みたいなことを、しかも英語の知識に乏しい生徒に分かるように、英語でしゃべらないといけません。できますか?

長々と書きましたが、結論は単純です。英語で高校英語教育をやって悪い理由は、第一にそんなことをやっているヒマはない、そして第二にそんなことをやっても時間のムダであるということです。「ただでさえヒマがないのにそれをムダにしてどうする」、それが高校英語教育の現場を多少でも知っている人の共通の意見ではないでしょうか。

追記。
「使える英語」という名目で、口語英語を重視するのは、実は役人がバカだからではなく、役人がアメリカによる日本人支配に意図的に加担しているからであるという意見が述べてある文を最近読みました(生憎、出典を覚えておりません)。つまり、読み書きであれば、日本人は十分よくやっているし、(英語で発表される日本からの学術論文をみてみればわかるでしょう)、しゃべれないけれど、十分立派過ぎるぐらいの文を書いたり読んだりは既にできるのです。しかし、口語はその知識に加え、実地トレーニングが不可欠で、それ故に、アメリカは日本人に対しては、口語英語という武器を通じてで絶対的優位を保てるというわけです。日本人に対して、アメリカに対する劣等感を刷り込むために、できもしない口語教育を比較的若い時期にあえて行うという、これはアメリカの策略であるという陰謀説は、あるいは本当かも知れません。何しろ、日本の中央官僚や政治家の多くが、アメリカの手先として、これまで日本国民の搾取に加担してきたのですから、十分あり得る話のような気がします。

果たして、役人はただのバカなのでしょうか、あるいはバカを装ったずる賢い狐なのでしょうか?いずれにせよ、気の滅入る話です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

好感持てるオバマの科学技術アドバイザー

2008-12-23 | Weblog
大統領選が終わってから、アメリカのポリティクスには全く触れなかったのですが、一応、次期政権がどんなように構成されていくかは断片的なニュースでフォローしていました。先週末、オバマの科学技術アドバイザーのトップを、ニューヨークのスローンケタリングがんセンター所長でノーベル医学賞受賞者であるHarold Varmusと、ハーバードとMITとのコラボのゲノム研究機関、Broad Instituteの所長のEric Landerの二人が務めることが報道されました。Eric Landerはちょっと変わった経歴の持ち主で、もともと数学者だったのですが、イギリスでの留学後、MITに帰って来てから専門をゲノム遺伝学へ変更し、以後、この分野の発展を牽引してきました。彼の講演は二三度、聞いたことがあります。アメリカ人のオプティミズム満ちた夢のある話で聴衆を楽しませてくれます。
 私が大学院の頃、骨芽細胞の分化に伴って発現する新規遺伝子をクローニングするという実験をしていました。取ってきたもののうち、もっとも発現パターンが劇的であった遺伝子のcDNAの3'端断片のシークエンスを見てみると、まだ報告されたことのない遺伝子のようでした。ノザンで調べると全長は8kb余り、取れてきたのは3'の1.5kbというわけで、ライブラリーを作り直したり、RACEでgene walkingしたりしながら、2年以上かけてコーディングのシークエンスを決めました。当時、マウスのゲノムシークエンスも分かっておらず、シークエンスも放射性同位元素を使って、一週間かけてようやく500塩基を読めるかどうかという時代でしたので、今から思えば、たかだか8kbのシークエンスを読むのに2年とはばかげているように聞こえますが、当時はそんなものだったのです。ゲノムシークエンスといえば、実はEric Landerは2001年にNatureに発表された歴史的なヒトゲノムプロジェクトの論文の筆頭著者でもあります。ところで、私がその苦労してクローニングしたcDNAは結局、二流雑誌をたらい回しにあった挙句、大した論文にはなりませんでした。一つの理由は、その全長シークエンスをようやく決めて、遺伝子産物の機能も推測できるようになったころ、Eric Landerのグループからフィンランドの骨遺伝疾患家系の遺伝的解析で原因遺伝子を同定したという論文がCellに出て、その遺伝子が私がクローニングした遺伝子のヒト相同遺伝子であったからかも知れません。彼らの論文で、遺伝子の機能もその異常がどういうヒト疾患につながるかも明らかとなってしまい、そういったことを目標としていた私の研究の意義が乏しくなってしまったからです。別に競争していたわけでもなんでもないのですが、結果として彼らの論文が出版されたために、私の仕事は余り価値がなくなってしまったのでした。それは今から15年近くも前の話です。その後もEric Landerのグループのゲノム遺伝学の分野での活躍を続け、Time誌での数年前の企画では、現代のもっとも影響力のある100人の一人にも選ばれています。
 オバマのこの人事も私には次期政権への期待を持たせるものです。経済アドバイザーに男尊女卑失言でハーバード総長を辞めることになったラリーサマーズを据えた時は、オバマは単にクリントン政権を再現しようとしているだけではないのか、という疑問もわいてきたのですが、今回の科学技術アドバイザーの人事は好感が持てます。生命科学に広い知識と公平な判断力を持つVarmusとEric Landerが科学技術アドバイザーカウンシルの長を務めるというのは、研究界にとって喜ばしいことではないかと思います。

もう一つ、大統領がらみのニュース。トルコの靴メーカーへ飛行性能に優れた靴の注文が増えています(本当の話)。先日、イラクでのブッシュの記者会見で、ブッシュに向かって靴を投げつけたイラク記者のニュースがYoutubeで話題になっていましたが、どうもその記者がはいていた靴がそのトルコのメーカーのものだそうです。あの投げられた靴の軌道とスピードをみると、靴を投げた記者はかなりの靴投げ技術を持っていたと思えるのですが、それを年齢に似合わぬすばやさでよけたブッシュの靴よけ技術もなかなか侮れないものだと、それを見ていた人は思ったのではないのでしょうか。次回の記者会見では、ブッシュは靴を警戒してくるでしょうし、その裏をついてうまくブッシュに靴を命中させるには、靴投げ技術の改善のみならず、飛行性能のよい靴、より早く、より鋭く、より正確に、目標に到達できる靴が不可欠であるという結論に達したのであろうことは想像に難くありません。この際、日本も世界に誇る科学技術をもって、高飛行能靴の開発に貢献したらどうでしょうか。残念ながら、ブッシュの記者会見の機会はあと一ヶ月足らずに限られていますので、あってもチャンスは一度あるかどうか、急がねばなりません。
 アメリカ大統領は0で終わる年に選出されると、暗殺にあうか、または変死するというジンクスがあって、たとえば、1860年のリンカーン、1880年のガーフィールド、1900年のマッキンリー、1960年のケネディー、1980年のレーガンは暗殺(または暗殺未遂;レーガン)されていますし、1840年のハリソン、1920年のハーディングは変死しています。2000年選出のブッシュはこのジンクスにあたるのですが、任期終了までわずかとなって、いよいよジンクスも外れるのかと思っていましたが、ここに来て、高飛行性能の靴による危険の可能性が出てきたかも知れません。

ところで、明日から1週間ほど、遠方にでかけますので、次回、次々回のブログの更新はしない予定です。
皆様、楽しいクリスマスを迎えられますように。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Madoffねずみ講に思うこと

2008-12-19 | Weblog
先週、アメリカ株式市場で、主に技術系の会社を扱っているナスダック社の元会長、MadoffがマネッジするMadoffファンドが実はねずみ講にしか過ぎなかったことが明らかになりました。このファンドでの被害総額は5兆円とのことですから、この手の詐欺では最大規模です。「楽して金を手に入れたい」という人々の欲が大きくしてきたマネーゲームがまるで正当な経済活動であるかのような錯覚をおこし、この手の詐欺の被害を大きくしたのではないでしょうか。投資ファンドという名のねずみ講というわけですが、冷静に見てみると、株式投資とはいうものの、その実は単なる株券の売買にすぎない株式市場のシステムは、そのものが、巨大なねずみ講のようなものではないかとも思います。ねずみ講が成り立つためには、新規参入者の身近に、ねずみ講に参加することによって大変もうかったという実例があることが必要です。「隣の奥さんがねずみ講でお金を預けたらすごく増えた、私もあやかりたい」そういうシステムへのポジティブ インフラックスが継続している限り、ねずみ講は動き続けます。今回、Madoffファンドが何をきっかけに崩壊したのか、よく知りませんが、思うに、近年の金融危機で資金の引き上げが続いたか、すくなくとも、新規に株式で儲けようとする人の参入が減り、ねずみ講のウソを回し続けることができなかったのではないかと思います。詳しい事情はよくわからないので推測ばかりなのですが、この人もおそらく、最初は優良ファンドで顧客とともにWin-Winを目指していたに違いないと思うのです。ヘッジファンドらしいですから、ディリバティブを使ってレバレッジの高い取引で、最初はおそらく本当に驚異的な利益率をあげたのかも知れません。それを見て巨額の資金を預けに来た顧客からの信頼、もとナスダック会長というプライド、そんなこんなで「何が何でも高収益をあげ続けなければならない」というプレッシャーのもとに、ウソを重ねたのではないかと想像するのです。もしそうなら、全く愚かなこととしか言いようがないですが、それでも私は、ライブドアよりはましだと思います。ライブドアの被害総額は多分今回のMadoffの総額に比べたら僅かなものだ思うのですが、ライブドアは、最初からかなり意図的に、「投資家を騙して、その金を私物化する」という目的で作られた詐欺会社のように見えるからです。Madoffの場合、これだけの危険を犯していずれ破綻すると分かっているねずみ講をやったところで、ファンドマネージャーや管理会社が手にするのは、手数料だけです(実際は、たぶんそれ以外にもしっかりくすねていたとは思いますし、詐欺の被害総額からしてもその手数料だけでも相当なものであるとは思いますが)。被害にあった人の金の多くは、最初の方にねずみ講に参加した人達に移動したというだけのことです。それでも、こんな馬鹿なまねをしたのは何故か、興味深いと思います。この人にとって、自分という人間の価値は、金をつくり出す能力としてしか評価できなかったのかも知れません。金は本来、社会活動を円滑にするための道具にしか過ぎないはずで、その道具そのものを得るのが目的となってしまうような人生というのは、テクニックに走って肝腎の生物学的疑問がおろそかになってしまった生物論文のようなものです(わかりにくい例えですみません。でも、本当にそんなどうしようもない論文がいっぱいあるのです)。
しばらく前の内田樹の研究室のエントリーから抜粋します。

「金さえあれば何でも可能であり、金がないと何も成就しない」
それがメディアが過去30年ほど無反省に垂れ流してきたイデオロギーである。
しかし、私の見るところ、実際に起きているのはこのような「金の全能性イデオロギー」に対する耐性の弱い家庭に育った子どもほど学びの意欲を損なわれ、学力を下げているということである。
社会の上層を占めている人々は実際には「金ですべてが買える」と思っていない。むしろ、「金で買えないものの価値」についてつよく意識的な人々が日本では階層上位を形成している。
彼らは人間的信義、血縁地縁共同体、相互扶助、相互支援といったものが質の高い社会生活に必須のものであるということを知っている。
それが直接的には階層上昇のための「ツール」だから必須であるのではない。
それらは端的に「生物として生き延びるため」に必須の資源なのである。
階層上昇や年収の増加というようなことが最優先の課題になるのは、よほど豊かで安全な社会においてだけである。人類史のほとんどはそうではなかったし、今でも地上の過半の地域ではそうではない。そして、私たちの社会もほんとうはそうではない。
まず生き延びること、それが最優先の課題である。
生き延びるために貨幣が必要なことは当然だが、「金さえあれば」すべての問題が消失するほど、人間の世界はシンプルな作りにはなっていない。
、、、、
社会格差の意味を「金の多寡」であるとみなす人々は年収の増大に直接かかわりのない人間的資質の開発には資源を投じない。
彼らが採用した論理そのものがそのことを禁じるからである。
その結果、彼らは社会下層に釘付けにされる。
そのように社会的格差は構造化されている。
「金がないので、私たちは自己実現できず、自分らしい生き方ができずにいる」という説明が有効であるような社会集団内(私たちの社会はもう全体としてそういうものになっている)で育った子どもは「『金がない』という言明によって、あらゆる種類の非活動は説明できる」という「遁辞」の有効性を学ぶ。

つまり、本来、金の本質とは何であるか、そしてその機能と限界を知っているものが、その限界の外に注意を向けることができるので、成功していくことができるということのようです。私も、社会で「一人で生き延びる」ことが、どれほど大変なことか実感したのは、ここ十年ぐらいのことです。しかし、「一人で」生き延びなければならない、金がないと生きていけない、という脅迫観念を取り去ることができると、生き延びるだけならそう難しいことではないとも思います。そもそも人間は「一人で生き延びる」ようにはできていないですし、それに、人は生き延びるためだけに生きているのではないし、まして金のために生きているわけではないからです。
 アメリカと違って、日本は経済危機とか言いながらも、多数の一般国民はかなり健全な経済体力を有しているようです。「80%の富は上位20%の裕福層によって保有されている」ということを私は何となく信じていたのですが、これは日本には当てはまらないようです。山根治blogで知ったところによると、日本では、日本の世帯の98%を占める総資産一億円未満の世帯が約8割の日本の富を所有しているということです。この階層を更に細かく区切っていくとあるいは、格差は見えてくるかも知れませんが、少なくとも総資産が一億以上の世帯はたった2%を占めるに過ぎず、いわば大多数の中から中の上ぐらいの国民に富の8割が保有されているということは、経済の安定性という点で大変頼もしいことです。この数字は少なくとも日本の近い将来においては、アメリカに比べて、はるかに楽観性を与えるものだと思います。これまで、さんざんアメリカに日本の株式市場を通じてカモにされてきたのに、国民の経済体力はアメリカ人よりははるかに安定しているということは、意外な驚きでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

それほど悪くはない

2008-12-16 | Weblog
最近、職場の人と飲みにいった人が、同席していた同僚が、その場にいない人の悪口や自分の自慢話をしきりとしたので驚いたという話をしてくれました。なぜ驚いたのかというと、その人は普段は、大変おとなしく無口な人で、職場では殆ど誰ともしゃべらず、一人で黙々と仕事をするような人だったからです。周囲の人と干渉するのを極端に避けていて、いつ来て、いつ帰ったのかもわからないような人なのでした。それなのに、不満をいっぱい溜め込んでいたようで、どうも、一生懸命がんばっているのになかなか成果がでないし、人も認めてくれない、自分はとんでもなく運が悪い人間だと思っているようなのでした。思うに、酒に酔った時だけでなく、普段からそんな話を周囲の人間としゃべって、少しずつでも吐き出していれば、ネガティブな感情はそう蓄積しないで済んだのではないでしょうか。私自身、若かったころ、人に話してもわかってもらえず、わかってもらえないことにフラストレーションがたまり、そして、そのうち話さなくなって一人でストレスをためこんでいたことがありました。ですので、彼が酒に酔って抑制がとれたときに不満が噴き出したのがわからないでもないです。しかし、酒の席でこういう普段予想もつかないようなことを言ってしまうと周囲の人間は却って、彼のことを警戒して余計近寄らなくなり、悪循環が進んでしまうものです。また、悪循環は、物事をありのまま公平に考えることができなくなって、常に悪い面から解釈する癖、いわば、方法的懐疑を方便としてだけではなくそのまま現実の生活に適用してしまうような習慣、ができてしまうと加速していきます。自分の世界から一歩離れて、自分の行動を眺め、反省するなり、一息いれるなりという「間をとる」ことは、この悪循環の輪を絶つために有用であろうと思います。そのためには、友人とたわいのないことをしゃべるというのが実は最も実用的な方法であろうと私は思っています。

それで、彼の「自分は運が悪いのだ」という思い込みで思い出したのですが、以前、飛行機の搭乗手続きの長い列に並んでいて、短そうな列に並び替えたのに結局余計に時間がかかってしまったという「マーフィーの法則」経験を、某研究者の人が、述べているのを読みました。「マーフィーの法則」を未だに覚えている人ってどれぐらいいるのでしょうか。私にとってはフラフープとかLPレコードとか白黒テレビとかと同じぐらい昔のものという感じです。でもマーフィーの法則が随分流行ったのは、たかだか十五年程前のようです。「悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこる」というのが基本の法則ですが、これを日常茶飯の事柄に当てはめていろいろな面白い例を作るという遊びです。よく知られている例としては、「選択的重力の法則」即ち、「パンを落とすと、必ずバターのついている方が下になって落ちる」というものがあります。これはどうも本来はイギリスの諺のようです。この諺に由来するバター猫のパラドックスという思考実験があります(バター犬ではありません、念のため)。パンはバターのついた面を下にして落ちるという選択的重力の法則、と猫は常に足から着地するという生物学的法則に基づいて、それでは、猫の背中にバターのついたパンをバターを上になるようにくくり付けて落としたらどうなるか、という実験です。バターのついたパンが地面につけば、足から着地するという猫の法則に反しますし、猫が足から着地すれば、バターのついた方が下になって落ちるという選択的重力の法則に反します。この思考実験にはもちろん、複数の解答が考えられます。着地寸前に法則同士のコンフリクトのために、着地できずに高速回転をしつつ安定状態になるとかいうのもなかなか愉快な解答です。マーフィーの法則によれば、悪い事がおこる可能性があれば、悪い事がおこるのですから、このバター猫の場合、落ちている間に、バターのX成分と猫の毛に含まれるY分子が常温核融合反応を引き起こし、巨大な爆発のエネルギーによってバター猫が空中分解してしまうというようなことも起こりうるのではないでしょうか。このようなことを考えていたとき、マーフィーの法則の解釈者による制限性とでもいうべきものに気がついたのでした。マーフィーの法則にある「悪い事」と「善い事」とは、それを解釈する人によって決められます。「善し悪し」は多くの場合、主観的な基準で決まってきます。しかし、人間万事塞翁が馬、禍福はあざなえる縄のごとしで、今日おこった悪い事は、明日になってみれば良い事であるかも知れません。つまり、よいことと悪いことは観察者がその都度、設定しているものであって、だからこそ、常に悪い事がおこり得るのだと思うのです。例えば、朝ご飯を食べているときにバターを塗ったトーストを落としたとします。パンを落とした人は、その時点でトーストが床に落ちるということを予測し、さらにバターのついた面が下になるか上になるかという事象に注意を向けます。しかし、可能性ということを考えると、パンを落とした瞬間に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅を直撃し、パンが地面につく前に天井の下敷きになって死んでしまうという、パンの面のどちらが下かなどというようなことは問題にならないぐらい悪いことが起きてしまうことが絶対ないとは言えないと思います。私たちは経験的に、テロリストの乗ったジャンボジェットが自宅に突っ込んでくる確率は殆どゼロに近く、パンを落とす確率とは比べものにならない程低いことを知っているので、悪い事がおこる可能性の中から、テロリストの乗ったジャンボジェットを既に除外してしまっているということなのだと思います。ここまで極端でなくとも、パンを落とした瞬間に、落ち行くパンを飼い犬に食べられてしまったとか、バターを塗ってもいないのにパンを落としてしまったとか、バターのついたパンを落として、うっかりその上を裸足で踏みつけてぐりぐりしてしまったとか、もっと悪い事がおこりうる可能性はいっぱいあるわけです。しかし、私たちは経験などから、リアルタイムに起こりうる可能性の高い事象の選択肢を無意識に限定してしまうことによって、よい事と悪い事を判断してしまうようです。つまり、「悪い事」はすでに想定内にあり、「悪い事」が想定されることによって、自動的に「善い事」も設定されるので、起こった事はたいてい「悪い事」になるということなのだと思います。例えば、バターの塗ったパンを落として、バター側が上になって落ちた場合に、「ああ、バターが上になって良かった!」と思うでしょうか?この選択的重力の法則の前例を知らなければ、バター面の上下を問わず、パンを落としたこと自体がすでに「悪い事」であるのは自明です。「同じ食卓を囲んでいる他の人がパンを落とさずに食べているのに、自分だけがパンを落としてしまった、何という不運であろう」と思ったりするのではないでしょうか。つまり、物事の善悪は常に事象が起こった後に、非常に恣意的かつ流動的な観察者の基準によってレトロスペクトに決定されるということが、マーフィーの法則のメカニズムとなっているのではと思ったのでした。
 マーフィーの法則のいうように必ず悪い事がおこると思うのなら、自分が悪いと思っていることは、それほど悪い事ではないのだという事実を再確認してみることが、マーフィーの法則から逃れる術です。たまには自分の世界から一歩離れて、自分や世の中のものを主観抜きにありのままにみるようにせよ、ということですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現金と信用、Golden Parachute

2008-12-12 | Weblog
ちょっと前に「不渡りさえ出さなければ会社は潰れない」ということを誰かが書いているのを読んだ話を書きました。冷静に考えれば当たり前の話ではあるのですが、その後、あるブログで、会社が倒産するのは資金繰りが不可能になり、するべき支払いができなるからである、そして、資金繰りは手元の現金と融資によって決まるので、会社経営で最も大切なものは「現金と信用」である、とあるのを目にしました。これも、当たり前といえば当たり前なのですが、最近の詐欺まがいの取引が跋扈する株式市場という博打場でのマネーゲームを見ていると、「現金と信用」が大切だと思っている金融業界の人などいないのではないかと思わされます。昨今のアメリカのニュースの話題は、金融機関についでオートメーカーの「Bailout(財政的救済措置)」についてです。Bailoutは今年トップの流行語間違い無しですね。現在、アメリカの三大自動車メーカー、GM、フォードとクライスラーが倒産の危機に陥り、アメリカ政府に資金調達を懇願中で、政府も資金注入はやむを得ないという方向で合意に達しつつあります。金融、自動車産業といった現代アメリカの大産業の倒産は、そこで働く人のみならず、一般アメリカ人の引退資金の投資活動などにも深く影響を及ぼすので、政府としても見殺しにするわけにはいかないという事情があります。ハウススピーカーのナンシーペローシは、「(これらの産業は)皆が散髪してもらっている床屋のようなものだ。(だからなくなると皆が不便を被る)」と述べています。しかし、これらのアメリカの自動車産業を企業経営の立場からみると、「現金と信用」はともに乏しく、本当に倒産一歩前であることがあらためて実感されます。性能、デザイン、信頼性、何をとっても、現代のアメリカ車が一般消費者にアピールするものは余りないと思います。20年以上も前から、消費者は性能や価格やスタイルから、日本車やドイツ車を選んできており、アメ車離れが進んでいるのに、ビッグ3とやらは、きっと70年代以前の古き良きアメリカの頃とどうも同じメンタリティーのままで、誰でもいつかはキャディラックやリンカーンを所有したがるはずだと思い込んでいるかのように、時代遅れの自動車製造を大きな反省もなく継続してきたのではないかに思います。昔ならキャディラックやリンカーンを買おうという人でも、今ならベンツやレクサスを買うでしょう。今のアメリカ自動車産業には全く明るい未来が見えません。アメリカ自動車産業は謙虚に消費者の声を天の声と受け止めて、むしろゼロからやり直すべきでしょう。政府がいくら資金を注入しようと、それはほんの姑息的治療以上の効果はないでしょうし、自動車産業およびいくつかの大手の金融機関の倒産は不可避であろうと私は思います。よって、政府がすべきことは、これらの産業の急な倒産が社会や市場におこす混乱をできるだけ小さく留め、穏やかに幕をおろすことができるように、当座の手助けをすることであろうと思います。
 こういう大企業の経営陣というのは、中小企業のオーナーと違って、単に高給でやとわれている契約社員というような場合が多く、彼らの第一のモチベーションは会社の健全な運営とか社員や顧客ではなく、彼らの契約金や会社を辞めるときに支払われる「Golden Parachute」とよばれる莫大な退職手当てなわけで、そういう人は、船が沈みかけたら、如何にうまくその沈みかけの船から金目のものを持ち出して逃げ出すかということばかり考えていたりします。それで、今回の自動車産業への政府の資金注入の条件の一つは「Golden Parachute」の禁止でした。つまり、救済に注入される国民の税金を、退職者が奪って逃げるようなことが起こらないように釘をさしたものです。政府がこんなことまで言わないといけないほど、アメリカ産業の経営モラルの低下と拝金主義がはびこっているということを示していると思います。例えば破綻したリーマンのCEOは年間平均50億円近い報酬を受け取っていたわけで、そうした人の退職にあたって年棒の数倍の退職手当てを潰れかけの会社が出したりしたら、それこそ泥棒に追い銭というものでしょう。そもそも、企業でのGolden Parachuteはパブリックの会社で敵対的買収を阻止するためのストラテジーで、会社が買収されて取締役を解任されそうになった場合に、高額の退職手当ての支払いを義務づける契約をあらかじめ締結しておくことで、買収へのモチベーションを下げるためものです。ポイズンピルと言われる敵対買収への対抗手段と同様、「買収したら、会社の価値が下ってしまうぞ」と買収相手を脅かすのが目的のもので、本来実行されないことを想定したものです。それでも、万が一買収された場合に、会社から飛び降りる際に使うお金でできたパラシュートというわけです。ですので、そんなものが倒産目前の自動車メーカーに必要ないのは当たり前です。

ところで、「現金と信用」というのは研究業でも、そのまま当てはまるなあと思いました。研究者で「研究費が欲しい」と思わない人はいないでしょう。研究費が乏しくなって来たときに頼れるのは信用で、どれだけよい仕事をやってきたかという過去と現在の行いで、それによってポジションや研究費獲得やBailoutが可能になります。あるいは「現金と信用」は、あらゆる社会活動の基本ではないかと思ったりします。経済活動を目的としない場合は、現金よりもむしろ「信用」にストレスをおきたいと思います。信用は「向上心と努力を忘れず誠実にやる」ことを続けることによって、少しずつ得られるものだと思います。それで、私が研究者をクビにならないために必要であると思った「向上心と努力と誠実さ」というのは、つまるところ、研究者としての「信用」を築くための方法であったのだなと気づいたのでした。
 研究者にはGolden Parachuteにあたるものはありません。働くのを止めたら、はいそれまでよ、という健全な世界です。人間、毎日一生懸命働いて、流した汗で糧を得る、そういう生活ができることが、きっと最も幸せなのだろうと思います。働きたくても仕事がない人もいっぱいいます。働くのを止めると逆に巨額の手当てを貰えるような制度が許される世の中というのは、おかしいです。(Golden parachuteなどは、マネーゲームに実業が翻弄される例ですね。わざわざ、会社の価値を下げるためのシステムなのですから)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「硫黄島からの手紙」を見て

2008-12-09 | Weblog
柳田充弘先生のブログ「生きるすべ」に、この週末にデルスウザーラを見たことが書いてありました。私がデルスウザーラを見たのは、多分、中学生の時で、随分感動したことを覚えています。その後、見る機会がないので、映画の筋さえ忘れてしまいましたし、きっと、今、見たらそれほど良いとも思わない可能性も十分あります。大人になってから、黒沢明の映画を見るたびに思うのですが、黒沢作品はいつも、よくできていると感心はするのですが、なんだか優等生の答案みたいに、ツボが意識的にきっちり押さえられているところが、私には逆に気に喰わないのです。アメリカ人とかには受けるであろうとは思いますが、日本人が黒沢明の映画を見て本当に心から感動できるのだろうか、と思ったりします。黒沢作品でもいわゆる大作ではない名作と言われる、例えば、「生きる」とかを見ても、私にはわざとらしさみたいなものがちょっと鼻につくように気がします。デルスウザーラについては、柳田先生は、映画の内容よりもむしろ、「功なり遂げた監督がエコノミークラスに乗ってはるばるソ連、ロシアの辺境に出かけての長期に渡る映画づくり」をしたという事実に打たれると書かれています。そして、私と言えば、この週末、実は数年前のクリントイーストウッドの「硫黄島からの手紙」を見たのでした。監督が違う国の役者を使って外国の映画を撮るという点で、デルスウザーラと共通点があるように思います。黒沢明の日露合作がデルスウザーラなら、クリントイーストウッドの日米合作が「硫黄島からの手紙」というわけです。殆ど日本の俳優を使っての日本語での映画であり、第二次世界大戦の日米の戦いを、アメリカの監督が、硫黄島に見捨てられた日本軍の兵士の視点から描くという、極めて斬新といえる作品です。良い作品だと思います。しかし、現代のアメリカ人や日本人の精神構造やレベルを考えると、この作品の価値は十分には伝わらないだろうなと思います。商業的には成功しないタイプの作品でしょう。アメリカ人でパールハーバーは知っていても、硫黄島は余り知らないと言う人は多いのではないでしょうか。それでも、ワシントンDCのホワイトハウスを川越しに見下ろすバージニアのアーリントン墓地の傍の丘の上に立っている銅像 ― 四人の兵士がアメリカ国旗を立てようとしている ― 硫黄島記念碑、は観光スポットですし、銅像の写真は目にする機会がしょっちゅうあるので、名前を聞いたことのある人は多いだろうと思います。多分ここを訪れるアメリカ人の多くは、「これが、有名な硫黄島の銅像か、ふーん」と思って終わりでしょう。そうでない人でも、「アメリカ軍が一生懸命頑張って、太平洋戦争に勝利した、よくやったアメリカ軍!」と思うのが関の山で、敗戦国の、後援も物資も何もなく、負けるのがわかっていながら、逃げることも許されず、見捨てられた兵士たちが、どのような人生を送りどのような思いで武力で圧倒するアメリカ軍と戦ったのかなどというようなことに、思いを馳せる人はまず、皆無であろうと思います。
 自分の国は正しく相手は間違っている、戦争に勝ったから正しく負けたから誤っている、そのような単純バカな価値観は、たぶん心理的に受入れるのが簡単で居心地よいせいでしょう、残念ながら多くの人々が深い洞察もなく取り入れてしまいます。ボンベイでのテロ、911テロや、逆にイスラムに対する嫌悪感、ユダヤ人の民族殲滅活動、第二次世界大戦中にアメリカが日系アメリカ人に対して行ったようなこと、数え上げればキリがないほど、この近視的で安易な価値観は人間に取り付いて、「人間は皆、神の子で、地球は一つである」というより大きな構図から物事を考えることを阻んでしまいます。イーストウッドが「硫黄島からの手紙」で、一般アメリカ人や、多くの利己主義者や誤った正義感を振りかざす人に対して言いたかったことは、そういうことなのではないでしょうか。それにしても、このマカロニウエスタンの俳優が監督となってから見せ続けている深みのある人間と社会への洞察には、感嘆すべきものがあると思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まんじゅうより怖い

2008-12-05 | Weblog
年をとってきて、世の中の怖いものというのは随分減ってきました。二十歳までは、試験で落第するとか、女の子にふられるとか、今から思えば、へとも思わないことが人生最大の生死に係る問題であると思っていました。みんな、そうだと思います。「巌頭之感」の藤村操も本当の自殺の原因は女の子にふられたからだという話もあるそうですし。経験したことのない嫌なものに人は必要以上の恐怖感を抱くものなのでしょう。中年ごろまでには、ほとんどの人が、試験に失敗したり、好きな人にふられたり、さまざまな嫌な思いを経験して、大抵の嫌なことは、じっと身をかがめて耐えている間に、時間とともに過ぎ去っていくのだということを学び、心の平和を保つ「こつ」を身につけていくものだと思います。それでも、怖いものは残ります。ちょっと前まで、私にとって怖いものは、研究費が穫れなくなって職を失うことでした。誰だか忘れてしまったのですが、現在は有名作家で、かつて零細出版社を経営していた人が、会社経営について、「不渡りさえ出さなければ会社は潰れない」ということ書いているのを読んだ覚えがあります。それは、その人が苦しい会社経営の中で自らの経験で見切った真実でした。私も、最近、「向上心と努力を忘れず誠実にやれば、研究者をクビになることはない」と確信することがありました。これは経験的なもので根拠を客観的に述べられるような類いのものではないのですが、たぶん、研究のような地道さと誠実さが求められ、かつ金銭的に不利な職業で、長年にわたって職務を全うできる人は実はそんなに多くはないからだろうと私は思います。会社が潰れないことと会社が利益を出すことは別ですし、研究者をクビにならないことと研究者で成功することも、勿論、別ですから、向上心と努力と誠実さを持ち続ければ、研究者で成功するわけではありません。むしろ一時的には努力家でも誠実でもない人の方が成功したりします(しかし、そういう人はクビになる可能性があります)。ところで、私が今一番怖れていることは、実は「うつになる」ことです。人間、誰でも、うつに近い状態を経験したことはあると思います。その耐え難い苦しみは本当に嫌なものです。一般に人は困難を経験することによって、困難に対する耐性を獲得していくものだと思いますが、「うつ」は私は違うと思います。困難に対する耐性は、「困難は時間が経てばやがて去る」という経験に基づくある種のオプティミズムに支えられていると思うのですが、「うつ」はそのオプティムズムの存在を消し去ってしまいます。ウイルス感染に対する免疫機構を直接傷害するエイズウイルスのようなものだと思います。「うつ」はそれを経験することによって、恐怖がより一層、深まる類いの困難ではないかと思います。私は多少なりとも「うつ」傾向があるのを自覚しているので、そういう病状が発症する機会はなるべく減らそうと普段からしています。不用意な時にやってくる急な昇進や成功などは最も危ないものです(これは私は余り心配しなくてもよいようですが)。それで、よいことがあってもすぐ忘れるようにしていますし、多少悪いことがあるとむしろラッキーだと思うようにしています。今では「うつ」にはよい薬がありますから、最近は「うつ」の致死率は減ってはきているとは思いますが、「うつ」が精神と生命を脅かす恐ろしい病気であることにはかわりありません。私は死んでいくことそのものには何の恐怖もないのですが、「うつ」で死ぬのだけは嫌です。それで、研究業を廃業や引退で止めた時に「うつ」にならないために、世の中のためにできるようなことを始めようかなと考え出しています。「人生は修行」であるというのが私の見方でありますが、修行は必ずしも苦しく辛いものである必要はなくて、楽しいワクワクするようなものでもよいと思っています。ラテン系の人は「人生は楽しむためにある」と言い、私も賛成です。しかし、それは修行場というコンテクストの中で楽しむもので、人生は楽しむだけのためにあるのではないことを覚えておかないと、突如、夜遊びの後のような虚しさに捕われ、一気に「うつ」にやられることになりかねません。そういうわけで、今は、毎日おもしろくないことが続く日々を、ぼやきながら楽しく暮らしていますが、もし、誰か、何かワクワクするようなプロジェクトのアイデアを思いついたら、教えて下さい。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何かできること

2008-12-02 | Weblog
ちょっと、パーソナルな話で、ここに書くに適切かどうか分からないのですが、実は、ついさっき、知り合いの悪いニュースを知って、動揺しています。まだ30歳なのですが、癌が見つかり、手術と化学療法によるかなりアグレッシブな治療を行っているとのことでした。

昔、病院勤務中は、多くの進行がんの患者さんを受け持ちましたが、やはり若い進行がんで亡くなっていた人のことを思い出すと、いまでも胸を突かれるような気持ちになります。医療従事者と患者としての立場は、それでも、肉親や知り合という関係よりはまだましです。毎日、やることが沢山あります。検査や治療の計画をつくり、データを解析し、薬を処方し、そういうことをしている間に時間が過ぎていって、その若い患者さんが死に向かうプロセスを歩んでいくということに真正面から(心理的な意味で)向き合う時間は実はそんなに多くないものです。それでも、研修医の一年目に最後を見送ることになった26歳の女の子のことはよく覚えています。未だに後悔が胸を刺すことがあります。当時、末期がんの患者さんには病名を伏せるということがよく行われていました。その患者さんも良性の血液疾患ということで、入退院を繰り返していましたが、あるときカルテの本当の病名を見てしまいました。私が引き継いだ時は、医療に対する不信感や慢性病への欲求不満なので、口は普通にきいてはくれはしたものの、心を開いてくれることはありませんでした。あたりさわりのない話と検査や治療の計画や結果などの事務的な話のほかに多くしゃべったことはありませんでした。検査の結果はずっと悪かったのですが、悪いなりに安定していて、何となくこのまま、私の担当期間が過ぎていくのではないかと思い出していた頃、発熱しました。喉が痛いというので覘いてみると、扁桃が壊死していました。白血球の極度の減少時におきるAnginaというやつでした。それから数日後の夜、病室で少し息苦しいというので、呼ばれたとき、彼女は妙に怯えていました。酸素マスクを気休めにつけて、病室を去ろうとしたとき、「怖い、怖い」と言い出したのでした。私はその声の調子が普段とは違うとは思ったのですが、しばらく脈を診て、「大丈夫、大丈夫」と言って安心させようとしました。苦しかったらコールするようにといって、病室を後にして詰め所に戻りました。「ちょっと普段と違うな」としか思わなかったのは、後から考えても私の感受性が鈍すぎたと思います。それから15分もしない内に病棟を巡回していた看護婦さんが、彼女の呼吸が止まっていることを知らせに来たのでした。振り返れば、彼女が「怖い」と繰り返したとき、唯一誰かができたことは、そこに一緒にいてあげることだったのだと思います。年令も余り変わらない、友達であったかも知れないような、彼女と私は患者と主治医というビジネス関係でした。お互いにそういう立場で接していたのではないかと思います。最後の最後に、私はもっと人間らしい、医者らしいことをするチャンスが与えられたのに、それに気がつかなかったのでした。あれから随分年月が経ちました。私は長らく主治医として重い病気を持つ患者さんに接するということをしていませんが、それでもあの駆け出しのころのことをいろいろ思い出しては後悔することが未だに絶えません。

闘病中の知り合いには病気になってから直接会ってはいないので、どういう状況なのかよくわかりません。話からすると末期がんではないようですが、それなりに進行はしていたようで、予断を許さない状況のようです。治療に関しては、私にできることは何もないのですが、あの研修医だったときの晩のように、何もできなくても横についているだけでも何らかの意味があるのなら、何もできないなりにできることは何かあるのでは、と考え出しています。とりあえず、祈りを込めてカードを書きました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする