相変わらず、書きものの日々で、全く生産的でない仕事に忙しくしています。思うようにはかどらずにストレスが溜まってきた時、最近、私は「祈る」ことをするようになりました。そういう時は5分ほど時間をとって壁に向かい、「ストレスが溜まってきました、ストレス解消をお願いします」と「祈り」というより「お願い」をしています。これは、あるキリスト教信者のビジネスマンが交渉が不調になった時に、交渉の最中に、しばらく休憩をとって神に助けを求めて祈ったら話が進んだという話を聞いてやってみようと思ったからです。やってみると悪くありません。自分よりも遥かに大きな存在を仮定して、抱え込んでいるストレスをシェアしてもらうのです。別の個人的な知り合いのカトリック信者は、全く知らない土地に来て一週間のうちに住む所と仕事を見つけるという不可能に近いと(自分でも思っていた)ことをせざるを得なくなったが、「祈る」ことによって、それらのことが最後の日になって与えられた、という話をしてくれました。必要なものは与えられるということを私は、だんだんと確信するようになったのですが、それを求めるもっとも良い方法は、多分、素直に助けを求めることだろうと思います。
現代人は「助けて下さい」とあまり言わなくなりました。もちろん、Self-relianceというのは成熟した人間の基本です。しかしいくら頑張っても、誰でも年をとり動けなくなり、誰かの助けが必要になります。仮に人の世話にならずに死んだところで、誰か(何か)が死体を片付けることになります。いつかは誰でも誰かに助けてもらわなければならない日がきますから、「お互いさま」で助け合うというのが人間が人間たる所以です。お互いに「自己責任」と言わずに、困った時には、誰もが明るく気軽に「助けてくれる?」と言えるような社会が住みやすい社会だろうと思います。
大変、興味深いサイトを知ったので、紹介します。
この方は30歳ほどの青年ですが、ホームレス体験を通じて、大変示唆に富む、興味深い話、考察をされています。今は、その体験を各地の講演会で話て回るような生活をされているようです。
いばや通信
文章もうまいです。
【超ひも理論2.0】必要な物は既に備わっている。ー 特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」である。
必要なものが必要なところにうまく分配されないのは、陰謀論的に言えば、一部の支配者層がカネを使って大勢の人間を奴隷化したいからであるし、人間個人のレベルで言えば、エゴと失うことへの恐怖です。前世紀で終わったはずの、帝国主義、植民地主義の時代の考え方が「与えることは失うこと」で「奪うことは得ること」というゼロサム ゲーム的な刷り込みを人間に残しているのだろうと思います。もともとこの世の中にある全てのものは「タダ」です。人間が失うことへの恐怖から、手に入れたものを与え、分かちあうことを拒むのです。そんな「人をみたら泥棒で、自分以外は敵」というような社会で生きたいか、あるいはたまに泥棒に盗まれても、必要なものは与えられるような社会で生きたいか、と考えれば、多くの日本人にとって答えは自明ではないかと思います。
「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは大嘘で、どれだけ楽しく迷惑をかけられるかの勝負だ。
私も、これまで色んな人に助けてもらいました。素直に願って行動すれば「神の見えざる手」によって、助けは与えられます。自分の力でどうにもならない状況に置かれた時、素直に明るく「助けて下さい」と誠実に願えば、その願いは適うようです。
現代人は「助けて下さい」とあまり言わなくなりました。もちろん、Self-relianceというのは成熟した人間の基本です。しかしいくら頑張っても、誰でも年をとり動けなくなり、誰かの助けが必要になります。仮に人の世話にならずに死んだところで、誰か(何か)が死体を片付けることになります。いつかは誰でも誰かに助けてもらわなければならない日がきますから、「お互いさま」で助け合うというのが人間が人間たる所以です。お互いに「自己責任」と言わずに、困った時には、誰もが明るく気軽に「助けてくれる?」と言えるような社会が住みやすい社会だろうと思います。
大変、興味深いサイトを知ったので、紹介します。
この方は30歳ほどの青年ですが、ホームレス体験を通じて、大変示唆に富む、興味深い話、考察をされています。今は、その体験を各地の講演会で話て回るような生活をされているようです。
いばや通信
文章もうまいです。
【超ひも理論2.0】必要な物は既に備わっている。ー 特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」である。
1・特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」になる。
2・必要なものは既に備わっている。私と共に活動しているメンバーに生じた出来事も含めると、今まで貰ったものは「家」「車」「金」「バイク」「テント」「寝袋」「iPadAIR」「航空券」「食糧」「漁業権(!)」など多岐に渡る。これらを与えてくれた方々は、決して「鼻血が出るほど無理をして提供してくれた」訳ではなく、自分が使わないで余っていたものを、気前良く我々に差し出してくれた場合が圧倒的に多い。我々の責務は「余分な資源を有効活用すること」であり、必要なものは基本的に必ず何処かで余っている。
3・「自分のことは自分でやって一人前」という価値観では、お互いに助け合う機会が限りなく減少する。卑近な例で申し訳ないが、自分で金を貯めて何かを買うよりも、余っている人(管理に困っている人など)から譲り受けた方が、圧倒的な速度で双方の問題を解決できる場合が無限にある。
2・必要なものは既に備わっている。私と共に活動しているメンバーに生じた出来事も含めると、今まで貰ったものは「家」「車」「金」「バイク」「テント」「寝袋」「iPadAIR」「航空券」「食糧」「漁業権(!)」など多岐に渡る。これらを与えてくれた方々は、決して「鼻血が出るほど無理をして提供してくれた」訳ではなく、自分が使わないで余っていたものを、気前良く我々に差し出してくれた場合が圧倒的に多い。我々の責務は「余分な資源を有効活用すること」であり、必要なものは基本的に必ず何処かで余っている。
3・「自分のことは自分でやって一人前」という価値観では、お互いに助け合う機会が限りなく減少する。卑近な例で申し訳ないが、自分で金を貯めて何かを買うよりも、余っている人(管理に困っている人など)から譲り受けた方が、圧倒的な速度で双方の問題を解決できる場合が無限にある。
必要なものが必要なところにうまく分配されないのは、陰謀論的に言えば、一部の支配者層がカネを使って大勢の人間を奴隷化したいからであるし、人間個人のレベルで言えば、エゴと失うことへの恐怖です。前世紀で終わったはずの、帝国主義、植民地主義の時代の考え方が「与えることは失うこと」で「奪うことは得ること」というゼロサム ゲーム的な刷り込みを人間に残しているのだろうと思います。もともとこの世の中にある全てのものは「タダ」です。人間が失うことへの恐怖から、手に入れたものを与え、分かちあうことを拒むのです。そんな「人をみたら泥棒で、自分以外は敵」というような社会で生きたいか、あるいはたまに泥棒に盗まれても、必要なものは与えられるような社会で生きたいか、と考えれば、多くの日本人にとって答えは自明ではないかと思います。
「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは大嘘で、どれだけ楽しく迷惑をかけられるかの勝負だ。
「誰かに助けを求める力」について、私たちは驚くほどに訓練を積んでいない。何もかも自分たちの手で揃えるための訓練や学習は積んできたが、これらは基本的に『自分のことは自分でやって一人前』という価値観に支えられている。
私も、これまで色んな人に助けてもらいました。素直に願って行動すれば「神の見えざる手」によって、助けは与えられます。自分の力でどうにもならない状況に置かれた時、素直に明るく「助けて下さい」と誠実に願えば、その願いは適うようです。