百醜千拙草

何とかやっています

助けを求める力

2015-01-30 | Weblog
相変わらず、書きものの日々で、全く生産的でない仕事に忙しくしています。思うようにはかどらずにストレスが溜まってきた時、最近、私は「祈る」ことをするようになりました。そういう時は5分ほど時間をとって壁に向かい、「ストレスが溜まってきました、ストレス解消をお願いします」と「祈り」というより「お願い」をしています。これは、あるキリスト教信者のビジネスマンが交渉が不調になった時に、交渉の最中に、しばらく休憩をとって神に助けを求めて祈ったら話が進んだという話を聞いてやってみようと思ったからです。やってみると悪くありません。自分よりも遥かに大きな存在を仮定して、抱え込んでいるストレスをシェアしてもらうのです。別の個人的な知り合いのカトリック信者は、全く知らない土地に来て一週間のうちに住む所と仕事を見つけるという不可能に近いと(自分でも思っていた)ことをせざるを得なくなったが、「祈る」ことによって、それらのことが最後の日になって与えられた、という話をしてくれました。必要なものは与えられるということを私は、だんだんと確信するようになったのですが、それを求めるもっとも良い方法は、多分、素直に助けを求めることだろうと思います。

現代人は「助けて下さい」とあまり言わなくなりました。もちろん、Self-relianceというのは成熟した人間の基本です。しかしいくら頑張っても、誰でも年をとり動けなくなり、誰かの助けが必要になります。仮に人の世話にならずに死んだところで、誰か(何か)が死体を片付けることになります。いつかは誰でも誰かに助けてもらわなければならない日がきますから、「お互いさま」で助け合うというのが人間が人間たる所以です。お互いに「自己責任」と言わずに、困った時には、誰もが明るく気軽に「助けてくれる?」と言えるような社会が住みやすい社会だろうと思います。

大変、興味深いサイトを知ったので、紹介します。
この方は30歳ほどの青年ですが、ホームレス体験を通じて、大変示唆に富む、興味深い話、考察をされています。今は、その体験を各地の講演会で話て回るような生活をされているようです。
いばや通信

文章もうまいです。

【超ひも理論2.0】必要な物は既に備わっている。ー 特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」である。


1・特定の女性から養ってもらおうとするのが「ヒモ」ならば、宇宙全体から養ってもらおうとする発想が「超ひも理論2.0」になる。

2・必要なものは既に備わっている。私と共に活動しているメンバーに生じた出来事も含めると、今まで貰ったものは「家」「車」「金」「バイク」「テント」「寝袋」「iPadAIR」「航空券」「食糧」「漁業権(!)」など多岐に渡る。これらを与えてくれた方々は、決して「鼻血が出るほど無理をして提供してくれた」訳ではなく、自分が使わないで余っていたものを、気前良く我々に差し出してくれた場合が圧倒的に多い。我々の責務は「余分な資源を有効活用すること」であり、必要なものは基本的に必ず何処かで余っている。

3・「自分のことは自分でやって一人前」という価値観では、お互いに助け合う機会が限りなく減少する。卑近な例で申し訳ないが、自分で金を貯めて何かを買うよりも、余っている人(管理に困っている人など)から譲り受けた方が、圧倒的な速度で双方の問題を解決できる場合が無限にある。


必要なものが必要なところにうまく分配されないのは、陰謀論的に言えば、一部の支配者層がカネを使って大勢の人間を奴隷化したいからであるし、人間個人のレベルで言えば、エゴと失うことへの恐怖です。前世紀で終わったはずの、帝国主義、植民地主義の時代の考え方が「与えることは失うこと」で「奪うことは得ること」というゼロサム ゲーム的な刷り込みを人間に残しているのだろうと思います。もともとこの世の中にある全てのものは「タダ」です。人間が失うことへの恐怖から、手に入れたものを与え、分かちあうことを拒むのです。そんな「人をみたら泥棒で、自分以外は敵」というような社会で生きたいか、あるいはたまに泥棒に盗まれても、必要なものは与えられるような社会で生きたいか、と考えれば、多くの日本人にとって答えは自明ではないかと思います。

「他人に迷惑をかけてはいけない」というのは大嘘で、どれだけ楽しく迷惑をかけられるかの勝負だ。

「誰かに助けを求める力」について、私たちは驚くほどに訓練を積んでいない。何もかも自分たちの手で揃えるための訓練や学習は積んできたが、これらは基本的に『自分のことは自分でやって一人前』という価値観に支えられている。


私も、これまで色んな人に助けてもらいました。素直に願って行動すれば「神の見えざる手」によって、助けは与えられます。自分の力でどうにもならない状況に置かれた時、素直に明るく「助けて下さい」と誠実に願えば、その願いは適うようです。
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福島は今?

2015-01-27 | Weblog
このところ、ずっと研究費申請書類にかかり切りで他のことは殆ど何もできなくなってきました。
先日、投稿した論文も残念ながらエディトリアル リジェクションで仕切り直しとなりました。別にやっている関連プロジェクトを組み合わせて、一段上を目指そうという話になりました。もう一本の別の論文は、最後のデータがなかなかまとまらずに長い間苦しんでいたのですが、またウチのエースがヒットを飛ばしてくれて、ようやく最後のバリアを突破できそうです。研究はいい方向へ進んでいるような感じなのですが、先立つものとマンパワーが不足しているのが悩みです。

最近、メディアからすっかり消えてしまった福島原発事故ですが、やはり現実は厳しい感じです。
昨年の12月に燃料プールにあった燃料の移動が終了したというニュースがありました。本当なのかどうかわかりません。この作業は極めて危険だという話でしたし。溜まり続けているはずの汚染水はどうなっているのでしょう。おそらく、もうタンクに水を貯めることはできず、海に垂れ流し状態なのだと思います。

というわけで、今日は他の人のブログの記事http://sun.ap.teacup.com/souun/16462.html#readmoreを一部、転載します。原発作業員ハッピー氏のツイートのまとめです。

1月23日
今日、東電は年度末までの汚染水処理は無理だって国に報告する。
前から現場はお手上げ状態だったんだけど。

いつもならギリギリまで待つんだけど、いま国に無理だって云わないと国から工程厳守のプレッシャーもかけられ工程守るため無理して、また現場で事故が起きる可能性を回避したのかもしれないね。

1月24日
「5月までに完了する」という根拠がオイラには理解できない。
アルプスはじめ多核種除去装置は、未だにフィルターに問題が多く手探り状態なのに…。

首相は「政府一丸となって解決にあたる」と云ってたけど、結果は東電にお金とプレッシャーを与え続けひたすら怒るだけのパワハラ上司にしか見えない。

現在も東電や系列会社で1F・2F現場社員の退職は毎月続いてるけど、今回の死亡事故2件の結果、更に拍車がかかるかもしれないね。
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老教授の死

2015-01-23 | Weblog
誰にでも痛みや悲しみはあります。Eckhart Tolleによると、それは人類全体に共有さえされているようです。それに飲み込まれてしまわないように、痛みや悲しみそのものを客観的に見て、その存在を認めてやるということを意識的にやってみようと努力はしています。そのために現在の一瞬に集中して余計なことを考えないことが必要なのですが、いろいろな悲しい苦痛なできごと、さらにそのような出来ごとに関するネガティブな自分自身の思考に反射的に反応してしまうのも人間で、なかなか簡単ではないと実感しています。

二日前に、突然、訃報が舞い込みました。

随分前の昔に共同研究で関わってから、よくしてもらった老教授が火曜日に亡くなったということを知りました。87歳でした。10年前まで現役で、引退後も病院のオフィスで論文を読んだりセミナーに出たりという生活をされていましたが、半年ほど前に正常圧水頭症から認知障害をおこして老人ホームに入られていました。

新聞や学会の訃報欄にはまだ元気だったころの笑顔の写真がありました。こういう日が遠からず来るのはわかっていたのに、やはり寂しい気持ちで一杯です。

具合が悪くなって、ホームに入ったという話を聞いてから、ずっと気にはかかっていたものの、結局、お目にかかる機会を永久に失してしまいました。老人ホームは私の住んでいるところから10分もしない場所にあったにもかかわらず、なぜか機会を持ち損なって会いに行けませんでした。

かつては気難しい大教授で、名前を冠した賞が所属先の病院の優秀な研究者に毎年与えられてきました。前回のその賞の授賞講演の時にはすでに状態は悪く、会場には来ることができませんでした。最後に話をしたのは、たぶん数年前のその賞の授賞記念講演のときだと思います。ちょっと挨拶して授賞者の研究についてコメントした際に、にこにこしながら「君もそのうち、(賞が)もらえるよ」と冗談を言ってくれたのが最後です。それから数年、私の研究は低空飛行のままで、研究費をもらうのも苦労して、先行きは全く不透明なまま、まったく胸を張れるような状態ではありません。あるいは、だからこそ、よくしてくれた大教授が認知障害でホームにいるところへ会いに行くのが気が引けたのかも知れません。それでも顔を見に行っておくべきだったと、どうしようもなくなった今になって後悔しています。

そんな話を、訃報を知らせくれた人にしたら、「彼はもう昔の彼ではなくなっていたのだよ」と言われました。どういう意味でそう言ったのだろうかと思いました。人を認識する力も失ってしまっていて、会った所で彼にはわからなかっただろうという意味なのでしょう。ならば、会いに行くのは単なる私の自己満足にすぎません。かえって迷惑になっていたかも知れません。それでもやはり行っておくべきだったと感じます。週末にずっと胸騒ぎがしていたのはこれだったのかと思いました。

しかし、私は魂の不滅を信じています。教授は、今ははっきりとした頭で苦しみのない世界で微笑んでいるだろうと想像しています。
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人類は兄弟

2015-01-20 | Weblog
人々を分断し、憎悪と対立を煽り、戦争を誘導して、そこから利益を得る、世界の支配者階級がやってきた「カネもうけ」の手口です。ブッシュの「テロとの戦争」は全くの言いがかりの虚構であり、その手口は、現在、逆にイスラム過激派テロ組織に使われています。東京新聞のコラム、筆洗から。

「テロとの戦争がテロの温床を増やしてきたこの間の歴史に学ぶべきだ」とドビルパン元仏首相は警告する▼「私はシャルリだ」と連帯の念を示すのは大切だ。ただ、「私は戦争で多くを奪われたイラク人だ」「私は何の希望も持てぬ移民の子だ」と想像してみることも、大切だろう。


相手を憎むためには、自分と他人との分裂が必要です。自分は自分であって他人ではないという意識があるから、所有という概念が生まれます。自分を他人と比べます。そうしては不公平感を感じて不愉快になるのです。誰かがカネもちだと妬みます。誰かが親切でないと不愉快に思います。全ては「自我意識」ゆえの「失うことへの恐怖」から来ています。憎む人、怒る人、妬む人はそんな恐怖に捕われており、失う恐怖とは、自分というものが他者と分断して存在するという思い込みに由来していると思います。
 しかし、実のところ、われわれは何も持たず、裸で生まれてきて、何も持って行くこともできずに裸で死んでいくのです。自分の体でさえ真に自分のものではありません。われわれはそれぞれにユニークな一生を、われわれの意思で生きるために、この地上に一瞬だけ存在しているのです。失うものなど最初から何もないのです。
 人種や宗教や行動様式など、さまざまな理由で、人は他人を憎んだり、妬んだりします。世の中には、マナーの悪い人、分別の悪い人、性格の悪い人、悪意のある人、さまざまな人が居て、いろいろ迷惑に思うことも多いです。しかし、迷惑に思うということ自体が、エゴゆえの感情であり、自分と他人との分断ゆえです。他人は変えることはできません。われわれは彼らが彼らであることを認めることしかできません。認めることができずに困るのはそのようなネガティブな感情に振り回される自分自身です。
 他者を許容することは子どもは比較的簡単にできるようです。大人になればなるほど、人はより狭量となり、不平と不満を抱いて、他人を変えようとして、挙げ句に戦争を起こします。大人はバカです。そして、過去を反省して、よりよい世界を望んだはずの日本人も他の国も、最近はどんどんバカになっていっているような気がします。

週末は、ぐるりと国会を囲んで、女性による「戦争反対」のデモ。人間の持つエゴを利用して、人々の憎悪を煽り、人種主義、国家主義を刷り込んで、戦争へと誘導するのは、連中の手口、しかし、大勢の日本人は、その手口に安易にのせられるほどバカではないと思いたいです。政府に首をつかまれている大手マスコミは国会前デモを報道することはありませんが、少しでもこうした人々の運動が広がっていけば、アベ内閣の暴走を止めることができるのではないかと思います。

世界は一つで人類はみな兄弟であることは真理です。同じ家の中で兄弟喧嘩しても結局、誰も得をしません。余計にその家で生活するのが不便になるだけです。世界の国同士で、まして狭いアジアの隣同士でケンカするのも同じことです。原爆を落とせば、放射能は回り回って自分に返ってくるのです。

折々の感情に際して、自我、エゴ、所有、というものを意識してみようとしています。われわれを毒する黒い感情は、それらをじっと見てやることで消えていくように思います。自分も他人もないというレベルにはなかなか行きませんけど、私がシャルリならば、同時に私はモスリムであり、ユダヤであり、テロリストであり、アベである、そして私はあなたの兄弟だ、というあたりから始めて見ればどうかと思います。

1985年のIsley Brothersのヒット「Caravan of Love」を貼付けておきたいと思います。

今、子どもならわかる、よりよい生き方があることを。
人間が生まれた所はすっかり忘れ去られてバラバラになってしまった。
私はあなたの兄弟、わかっているでしょう。
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ピースとハイテク

2015-01-16 | Weblog
昨日は、実験計画の相談をしに別の機関に行きました。トップレベルの研究室がひしめくハイテク研究所で、数年前に別の研究室に行ったときも感心しました。ロビーには高さ5メートルはありそうな電光ディスプレイが数台並べてあって、研究成果などを宣伝しています。その時は、PCRルームという50台ほどのPCRマシンを一人のオペレーターがコンピューターで集中制御して、大量に多種のDNA増幅をやっている部屋とか見せてもらって、テクノロジストとバイオロジストの差でもあるのでしょうが、それでも零細企業の私の所とはスケールが違うな、と思ったことを思い出しました。今回会った人たちのオフィスは、昨年建て増ししたガラス張りのビルの五階にありました。全面、ガラス張りのドアから、オフィスに入ると、窓に面していないオフィスの壁の一面は天井から床まで全面がホワイトボードになっていて、思いついたことを書き込めるようになっています。
 今回は、レポーターマウスを作り、その細胞で、ウイルスライブラリーを用いてゲノムワイドでスクリーニングをする、という力技の研究計画をバックアップのプランとして考えていて、専門家に話を聞きにいったのです。一応、shRNAウイルスライブラリーは、色々なスクリーニングに対応できる状態で、私の系にも使えそうとのこと。最近はCrispr/Casを使ってのゲノムワイドスクリーニングをやりはじめたとの話。shRNAよりもCrispr/Casの方がOff-target effectが低く、効率もよさそうとのことでした。ただし、ゲノムワイドのスクリーニングのためには、Cas9を最初から細胞に発現させておいてからガイドRNAのウイルスライブラリーを使わないといけないこと、ゲノムをカバーするガイドRNAはまだ個別には合成できておらず、現在はランダムに合成してブールしたものを使っています。プールしたライブラリーを一ウイルスが一つの細胞に感染するぐらいの条件で感染させ、スクリーニング法を工夫してヒットした細胞を分離できるようにしておいて、そこから逆にガイドの配列を読んで遺伝子を同定していくという方法をとっています。この方法だと、コストやセットアップがかなり節約できるのですが、すべての細胞が安定してスクリーニング用のマーカーを一定レベルで発現していることが条件となるので、細胞がヘテロな集団のものには向かないという欠点があり、私の場合はちょっと難しいような感じです。
それにしても、年をとってきたせいか、こういうハイテク研究はあまり性にあいません。すごいなー、ヘー、と他人ごとになってしまいます。昔はハイテク好きでしたが、最近は自分の電話でさえ使い方がわかりません。

さて、憲法改悪を経て軍国独裁国家へと進みたいアベ政権、わかっていたことですが、公言されるとムッとしますね。

首相、憲法改正「自然なこと」 維新の協力に期待

 安倍晋三首相は14日、関西テレビの番組に出演し、憲法改正に強い意欲を示した。「憲法を変えていくのは自然なことだ。私たち自身の手で憲法を書いていくのが、新しい時代を切り開くことにつながる」と述べた。
 同時に、今後の改正項目の絞り込みに関し「これから議論するが、維新の党やほかの党にも賛成してもられえれば、ありがたい」と他党の協力に期待を示した。
 現行憲法について「成立して70年近くになる。占領下でできた経緯があり、日本人が自らの手でつくったとは言い難い」と指摘した。


批判的に読まなければ、納得できなくもないような言葉に聞こえますけど、あいまいな言葉をわざと都合良く使っています。

第一に、「憲法を変えていくのは自然なこと」ではありません。憲法がコロコロ変わるようでは国の土台がないのに等しいです。憲法は、権力をもっている人間の暴走を防ぐのが本来のその主旨であり、アベ氏のように権力をもっている側の人間が憲法を変えると明言すること自体が、極めて不穏な異常事態です。
第二に、「私たち自身」の手で憲法を書いていくのが、、、云々、とありますが、その「私たち」とは誰なのかということです。普通に聞けば、(憲法の主旨からしても)一般日本国民だと読むのがあたり前ですが、もちろん、アベ氏が言っている私たちとは、権力を持っている側、政府官僚であって、一般国民ではありません。彼らは、国民が選挙で選んだ政治家が官僚を使って国の政治をするという議会制民主主義の建前を言い訳に使って、議会で多数決で政治家が決めたことは、国民の総意を反映しているのだから、アベの意見は私たちみんなの意見だ、という理屈を使うのでしょう。憲法などという国の根幹に関わる原則を買えようとするのならば、スイスのように直接、国民投票でやるべきでしょう。
そして、確かに日本国憲法はGHQが書いたものです。だからと言って、アメリカに書いてもらったものだから気に喰わないので、書き直したい、というのは子どもじみた反応です。現在でも実質、日本はアメリカの植民地なわけですし。アメリカで発明された車に乗り、エジソンが作った電球の下で本を読み、iPhoneで電話をしていながら、これらはアメリカのものだからダメだとは誰も言いません。これらに関してはどこの国が作ったかどうか関係なく、役に立つのならそれでいいと思っているのです。日本人の手で憲法を書きたいというのなら、とりあえず頭をチョンマゲに結うところから始めて見たらどうでしょう。日本国憲法はGHQが書いたものであっても、一部はアメリカの利益のために書かれたものでも、基本的には国のあり方の理想をこめて書かれたものです。よく書けているのなら、べつにGHQのものであっても良いでしょう。そもそも、アメリカとケンカして勝つ実力もなく、この70年ずっと植民地状態に置かれておきながら、体裁だけを気にするというのが子どもじみています。

さっき見た新聞では、年末、年越しライブで紅白に出たサザンオールスターズの桑田さんが、ヒトラーばりのちょびヒゲをつけてテレビに映り、「ピースとハイライト」という反戦歌を歌ったことなどに対しての釈明記事が出ていました。ちょびヒゲは「楽しんでもらうためにやったことで他意はない」とありました。どうせなら、もう少し具体的に「右傾化し、ヒトラーのように独裁国家を目指して国際緊張を高めるアベ政権を批判するようなつもりではありません」とでも釈明してもらったら良かったな(無理でしょうけど)と思いました。
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ピカピカの論文、続々東京新聞社説

2015-01-13 | Weblog
週末は忙しかったです。この週の二つのプレゼンテーションにミーティングが一つ、それから投稿間近の論文が二つあって、その準備をしていました。
論文の一つは、リバイスで、この分野の専門雑誌では二番手ながらインパクトファクター的には二流雑誌に投稿したものですが、諸般の事情で、この論文がアクセプトになるのは私にとっては重要です。この分野への参入を考えてきてから数年、記念すべき第一報になるはずですし。この実験はほとんど自分1人でやったので、7年ぶりの筆頭兼責任著者論文となる予定です。零細企業ですから二流論文を一本出すのもヒイヒイ言っています。論文を書くのは昔は楽しくやっていましたが、最近はつらいことの方が多いです。それでも自分で書く方が人の書いたものを直すよりは随分ラクな気がします。
 もう一本の論文は研究室の人が書いたもので、これまですでに数回やりとりして手直しをしているので、比較的楽でした。この論文は、シンプルなストーリーですが結果がとてもキレイだし病気に絡んでいるので、もうちょっと目立つ雑誌に出したいと思っています。それで、研究室以外の人々にも見せて意見を聞き、データやプレゼンテーションも細部にまで気を配って書きました。美しいフィギュアを見ているだけで、彼女の努力が感じられて、良い気分になります。
 芸術作品と違って、科学論文の多くは、少数の人の目に一瞬触れた後、殆どのものはすぐに忘れ去られていきます。線香花火のようなものです。それでも、一本一本が数年にわたる地道な研究活動をまとめたものです。われわれには思い入れのあるわが子のようなもので、できるだけ立派に巣立っていく姿を見たいのです。散髪してよそ行きの服を着せてピカピカにして送りだしてやりたい、と思います。(ま、単なる自己満足なのですが)

さて、あと、成人の日に因んだ月曜日の東京新聞の社説から少しだけ引用しておきます。

戦争しない人に成る

 、、、子ども会議のメンバーに、コーディネーターを務めた大学の先生が、問い掛けました。
 <十年後、あなたがこんな社会にはしたくない、こんな社会はいやだと思うことは何ですか?>
 「戦争のある社会には絶対にしたくない」「戦争になること」「戦争だらけの社会」「日本が戦争をしているような社会」…。
 意外と言うか、やっぱりと言うべきか、最も多く挙げられたのが、どのチームもテーマには掲げていない「戦争」でした。
 持続可能な未来とは、たとえば戦争のない未来。閉会式本番。子ども会議はメッセージの中に、持続可能な未来へ向けた七つの提言を盛り込みました。練りに練った大人世代への要望です。
 「戦争をしないでください。武力で解決しないでください」。とても切実な第一の提言でした。
 そして、このように言い添えました。「子どもにできて大人にできないわけはない」と。、、、、

 <「憲法」は、政府がやるべきことと、やってはいけないことをわたしたちが決めた、国のおおもとのきまりです。戦争したい人たちには、つごうのわるいきまりです>
 そのきまりをゆっくり、可能なら所々声に出して読み、みなさんが憲法を守るというよりは、憲法がみなさんを守ってくれていることを確かめてみてほしい。、、、、
 <わたしたちは、未来をつくりだすことができます。戦争をしない方法を、えらびとることも>
 そのためには、あなたの一票が絶対に欠かせません。

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続 東京新聞社説

2015-01-09 | Weblog
何かと忙しく仕事以外のことを余り考えている時間がありませんが、毎朝、東京新聞のヘッドラインはウェッブでチェックしています。
「B層」という言葉は随分以前から聞きます。多分、自ら知ろうとし自分の頭で考えることを余り重視しない人々、端的には世間のことはテレビやマスコミの言うことを真に受けてそのまま自分の意見にしてしまう人、のことを言うのでしょう。民主主義ですから、よく考えて良心にしたがって最適と考える判断を下す人の意見も、何も考えていなくてテレビのいうことをそのまま言う人の意見も同じ重さです。日本なんか放射能まみれになって人が住めなくなっても気にしないという人の意見も、子孫に安全で住みやすく自然豊かな国を残すのが現世代の努めであると思う人の意見も同じ重さです。

社説でアベ政権批判を続ける、数少ない良識派新聞、東京新聞の先日の社説も改憲をもくろむアベ批判。そこで阪大で人気の憲法の授業をしている方の書いた本のことが紹介されていました。以下、抜き書き。

◆まず「知憲」が出発点
 「護憲とか改憲とかいう前に、『知憲』でっせと声を大にしていうてます」-。これが谷口さんのスタンスです。学生が憲法を知らない現実があるからです。

集団的自衛権の行使容認は「ヤンキーのけんか」に例えます。
 「仲良しのツレがやられて、ツレの方がいじめてる側やのにとか関係なく、『ツレやから』という理由でケンカに行くようなもんですわ。ツレが悪い奴(やつ)やったらというのは、すっ飛ばすんですな」

◆「あっさり奪われる」
 自由と権利を憲法は「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」と記します。
 「人権を守るには『不断の努力』と『普段の努力』が必要ですねん。そうせえへんかったら、あっさり人権なんか奪われていくことを自覚せなあきまへんな」
 憲法の危機には「普段の努力」が欠かせません。


多くの周辺10メートル範囲の自分の生活にしか興味のない国民は、アベが何をしようとしているのかさえ知らないのです。でも、自民党に入れたら給料がトリクルダウンとやらで上がるかもしれないと詐欺にあって、自民党に投票したりするのです。知らない、興味のない人にどのようにして、アベ内閣の異常さと危険さを知ってもらえるのか、難しい問題です。そういう人は東京新聞の社説は読まないでしょう。

自由と権利は国民の不断の努力によって保持しなければ奪われる、これはその通りだと思います。民主主義、立法主義というのは、他の動物の世界を見てみればわかるように、大変、不自然なものです。かつては人間の世界でもも力のあるものが弱い者を喰いものにするのがあたり前でした。近代になって、民主主義という形態を発明して、殺しあいで他人の損の上に自分の得を目指すよりも、共栄共存をめざし、そして、より「人間らしい」社会をつくろうとしたのです。アベがやろうとしていることは、端的には、人間の社会をもう一度、動物の社会にしてしまえ、ということでしょう。生存が第一目標となるような社会に文化も人間性も育ちません。しかし、近視で刹那的かつ自己中心的な人間が日本の社会を動かしているという現実があります。類が友をよんで、本当は、このようなことを続けると日本は滅ぶかも知れない、とは思ってはいても、周りの人間が皆やっているからと自分の頭で考えることを止め、そして自分の頭というものさえないような人間を神輿に乗せて、赤信号をみんなで渡るような無茶をしています。何のことはない、支配者層そのものが「B層」なのでした。
そのことを知らねばなりません。

更に8日の社説でも戦争のできる国にしようとするアベ政権を批判。

◆頬かむりする政治家
 アーミテージ・リポートは、集団的自衛権の行使解禁と原発再稼働も求めています。安倍政権が次々に受け入れているのをみると、日本を自分たちの言いなりにしたいジャパンハンドラー(日本を飼いならす人々)の言葉を真に受けているとしか思えません。
 政治家は自らの判断によって引き起こされた結果に責任を負わなければなりません。あえていうのは、自衛隊の活動が憲法違反との判決を受け、政治家が頬かむりした実例があるからです。
 イラク戦争でクウェートに派遣された航空自衛隊は〇六年七月、陸上自衛隊のイラク撤収を受けて、空輸対象を米兵に変えました。もちろん政治の判断です。政府は米兵空輸を伏せ、国連物資や人員を空輸すると発表しました。、、、
 非戦闘地域へ派遣されたはずの陸上自衛隊の宿営地へは二年半の間に十三回で二十二発のロケット弾が発射されました。無事帰国した隊員のうち、陸上自衛隊は二十人が自殺、航空自衛隊は八人が自殺しています。、、、、
◆首相が狙う憲法改正
 年末には日本防衛の指針「防衛計画の大綱」が見直され、国際平和協力活動という名の「戦争」や「戦争支援」が本格化する公算が大きい。そうなれば、憲法九条は何も禁止していないのと同じことになります。 政権の思惑通りに安全保障関連法改正が進めば、次は安倍首相が「私の使命だ」と明言する憲法改正です。 戦後七十年の節目に、日本は重大な岐路に立ちます。


大手新聞で、「ジャパン ハンドラーズ」という言葉を目にするとは思いませんでした。東京新聞も余りにアベが危ういので、なりふり構っていられないという危機感があるのでしょう。戦後もずっとアメリカの植民地で、アメリカが日本人エージェントや「知日派」米人を通じて、日本を実質植民地状態においてきたことはわかってはいても口にはしないのが暗黙のルールでした。しかし高度成長期の後期やバブルの時代に育った世代は、その植民地支配の実体をほとんど知らずに来ている人も多いと思います。(日本は豊かであり、知る必要もなかったということでしょう)

大人であれば、戦争で負けたなら、くやしいが、失敗から学び、戦争にかかわらずに幸せに生きていく新しい方法を探そうと前向きに考えるものです。子どもは、戦争で負けたから、やり返してやると思うでしょう。しかし、当のアメリカにやり返しても勝てないので、逆にそのいじめっ子の使いパシリとなって、自分より弱そうな相手を探して鬱憤を晴らそうとする病的な行動をとろうとしたりします。困ったものです。
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われわれにできること- 東京新聞社説-

2015-01-06 | Weblog
東京新聞の元日の社説、年のはじめに考える 戦後70年のルネサンスを読みました。
グローバル資本主義の結果としての格差社会が人間性を失わせて、戦争を引き起こす可能性について論じてあります。

 ピケティはグローバル経済を放置すれば百年前の極端な格差社会に逆戻りすると警告し、累進課税や国際協調のグローバル資本税の導入などを提言します。、、、
グローバル経済が労働配分率を削減して資本家に利益を独占させるシステムだとしたら現代は新帝国主義と貧乏物語の時代の色彩を帯びます。三十一歳のフリーターの論文「希望は戦争」が衝撃を与えたのは二〇〇七年でした。今労働状況はさらに厳しく、希望なき社会が極端な排外主義やヘイトスピーチになっているようです。、、、
 資本から人間中心の社会を取り戻さなければなりません。、、、


ここで触れられている2007年の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」という文章を私は知らなかったので、探して読んでみました。その文章力に感心しました。気持ちは理解できますが、戦争がおこれば社会が流動的になって底辺に釘付けにされている弱者にチャンスがくる(かもしれない)という考え方には賛同しかねます。戦争になって最初に死ぬのはやはり弱い立場の若者ではないのかなと思うからです。この方も次のように書いておられます。

しかし、それでも、と思う。それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。


自分のチャンスを得るために他人の犠牲を望む気持ちは、自分の不公平被害者意識をなだめたいというEgoに基づく欲求であり、本来日本人が嫌うところです。しかし、とくに今の若い世代の人々が最初から「カタ」に嵌められてしまっていて、いくらもがいても身動きがとれない状況では、何らかの破壊的なショックがなければ変わらないという気分を持つのは十分理解できます。この文章が出てから8年経ちました。状況は良くなっているどころか悪くなっているだろうと思います。

普通は、このような国民の不満を放っておくことは社会の安定という点で良くないことですから、本来、政府はなんとかすべきことなのです。しかし、戦争したいアベ政権です。国民の不満の焦点をずらせて、溜まった国の借金や消えた年金もチャラにできる万能薬、それが戦争、というわけでしょう。再軍備化のためには、若者の不満は適当に溜まってくれた方が都合が良いとでも思っているかも知れません。正月早々、経団連のお偉方とゴルフ、夜はレストランでフランス料理、というような人に、民の気持ちが解るとは思えませんし。

4日の東京新聞の「真の強者は弱者に優しい」と題する社説では次のようにあります。

 ◆方向違いの三本の矢、、、翻ってアベノミクスです。なぜ行き詰まり、格差拡大などの問題が生じているのでしょうか。、、、アベノミクスに最も欠けている視座は、弱者への配慮であり、再分配政策など格差を縮める努力です。真の強者は弱者に優しい。弱者に冷たいのは、ただの弱い者いじめでしかないのです。、、、
 ◆一番大切なものとは、、、「大切にすべきことをないがしろにすると組織は必ずおかしくなる。一番大切なのは業績でもシェアでもない。それらは経営の結果としての現象です。大切なのは、社員とその家族ら企業に関わるすべての人の幸せづくり。ご指摘の企業は、残念ながらその視点がいつの間にか欠落してしまったのではないでしょうか」
 アベノミクスは一番大切なものをないがしろにしているのです。


5日の社説、「悲しみ」分かち合う時には次にようにあります。

トリクルダウン理論を実践する安倍政権下で、富裕層と低所得層の二極化が進んでいます。、、、
 神野直彦東京大名誉教授は著書「『分かち合い』の経済学」で、スウェーデン語に社会サービスを意味する「オムソーリ」という言葉があるのを紹介しています。オムソーリの原義は「悲しみを分かち合う」ということで、次のように書いています。
 <人間は悲しみや優しさを「分かち合い」ながら生きてきた動物である。人間は孤独で生きることはできず、共同体を形成してこそ生存が可能となる。「分かち合い」によって、他者の生も可能となり、自己の生も可能となる>、、、
 世代間の不公平論が広がる背景に、高齢者と若年者の対立をあおり、給付削減を進めようという財政当局の陰謀があるのではと勘繰ってしまいます。
 私たちには東日本大震災後に神野教授のいう「分かち合い」精神を発揮した経験があります。互いに悲しみを分かち合う制度を何とか支えていくべきだと思います。


年頭の内田樹の研究室では、

国が滅びることまでは望んでいないが、国民資源を個人資産に付け替えることに夢中な人たちが国政の決定機構に蟠踞している以上、彼らがこのまま国を支配し続ける以上、この先わが国が「栄える」可能性はない。

とあります。悲しいことに、一般国民にはまだ広く残っている日本の心、「分かち合い」の精神は、「me first generation」で他人を蹴落として競争に勝ち抜くことばかりを考えてきた日本の政府官僚組織の人々には残っていないのでしょう。

そんな中で、われわれはどうすべきなのかと思います。いつもの話ですが、中央銀行による管理通貨制から自由になるしかありません。生活必需品を賄うために、必要もないモノやサービスを作って売って「カネ」に変えないといけないという資本主義のバカさ加減に大勢の人々が気付きはじめています。カネがないと生きていけないという「刷り込み」が余りに強いために、カネの奴隷にされてきたのです。日本銀行券がなくてもそれなりに生活できるシステム、例えば、自給自足し共産、共有していくイスラエルのキブツのような制度は参考になるかもしれません。現在約270のキブツが存在し、イスラエルの人口の3%がキブツに居住。しかし、イスラエルの農作物の40%がキブツで生産されているようです。生活のためにはまず食料で、食料を自給自足できるというだけで生活の半分以上は支えられます。日本人は戦後そのことを余りに軽視してきたのではないかと思います。
 今の日本は極端なピラミッド型の中央集権です。そのシステムで利益を得ている霞ヶ関官僚は自らそれを変えて地方分権をするはずがありません。ならば、権力のもとになっている中央銀行の「カネ」になるべく依存しなくなれば、力を取り返せます。そんな政府や資本家、支配者層に依存しないコミュニティーレベルでの助け合いのネットワークを構築していくことができたらと思います。いつの世でも、国民をコントロールするのは分断による統治です。国も支配者層も国民がバラバラで「カネ」のためにギリギリのレベルで働いてもらうのが都合がいいわけです。ならば団結して知識とリソースを共有することが力となるはずです。

最後に再び、内田樹の研究室からの言葉、
自分の手元にあって「守れる限りの山河」を守る。それがこれからの「後退戦」で私たちがまずしなければならないことである。
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晴れて風無し

2015-01-02 | Weblog
あけましておめでとうございます。

激動の2015年が始まりました。あのリーマンショックから7年、マーケットクラッシュ7年の法則に従えば、今年は7年前に仕込まれた爆弾が爆発する7年殺しの年です。あがれば下がり、下がればあがるのは世の道理、上がるもよし下がるもよし、爆発するもよしです。「道理」ですから、本当はいいも悪いもありません。

7年前といえば、私は今やっている研究ネタを始めて数年、研究で生き延びれる可能性を感じ始めたころでした。そのころも、短期のグラントをつなぎつつ何とか細々とやっていましたから一年先がどうなるかなどわからない日々でした。ま、なんとかなるだろうとやってきました。後になって振り返れば結構ヤバかったのですけど、当時は比較的楽観的にやっていました。

この現実と現実認識との乖離が私の強みだと最近、思いはじめております。振り返れば、子供の時も大学受験の時もその後もそうでした。客観的には安全とは言い難い数字なのに、本人はなんとかなると感覚的に思っておりました。逆に、感覚ではなく理性で「大丈夫」だと判断したものの中には結構、コケたものも多いです。当てごととフンドシは先からはずれます。人生は理性によっては予測不可能でありながら、不思議なことに直感で確信したものに関してはまずはずれません。

思えば、多少の変化はありますが、今も7年前と似たような境遇です。しかし、これまでなんとか幸せにやってきました。今年も楽しくいきたいと思います。吉禍はあざなえる縄のごとしで、現実を「よい」、「悪い」と解釈するのは人間の勝手です。だから現実に起こることを、常に「よい」ことであると解釈することは可能だと思います。

そして、大晦日の夕方になって、投稿していた論文のレビューの結果が返ってきました。グラントの再応募で頭が一杯なのに、リバイスで多少の実験を要求されました。新年そうそうやることが増えてたいへん縁起が良いです。

ということで、今年も、

何となく、今年はよい事あるごとし。元日の朝、晴れて風なし (啄木)


という感じで行きたいと思います。

今年もよろしくお願いします。
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