(立派な建造物@柵原鉱山資料館)
さて、運転会から少し離れて、鉱山公園の中にある柵原鉱山資料館に行ってみようと思います。片上鉄道の歴史を振り返るに、切っても切れない関係にあったのが柵原鉱山。東洋一の硫化鉄鉱山と言われた柵原の歴史を振り返りつつ、さらに郷土への造詣を深めて行こうというアカデミックな展開です(笑)。いやいや、個人的にこういう産業遺産とか大好きですんでね。とりあえず入場料(520円)を取るに見合うだけの立派な外観ですが、中はどんなもんでしょうか。
エントランスホールに置かれた硫化鉄鉱(黄鉄鉱)。これが柵原鉱山から掘り出されていました。柵原の硫化鉄鉱は、脱硫後に鉄の原料として利用するよりは、専ら精錬の過程で生成される硫黄や硫酸が主産物だったようです。柵原鉱山で掘り出された鉱石は、片上鉄道で片上港まで運ばれ、岡山の児島湾沿いにあった岡山精練所を中心に全国へ船で送られました。硫黄は火薬やマッチ、硫酸はアンモニアと化合され、窒素肥料である硫酸アンモニウムなどに活用されたと聞きます。
鉱山最盛期の柵原の街並みが再現された館内展示。まんま三丁目の夕日的な雰囲気だが、ヤマのオトコたちが仕事上がりに酒を呷ったホルモン酒場の暖簾をくぐると、鉄板の上でホルモン焼きが香ばしい香りを漂わせていた。メシ、ラムネ、マメ、焼きセンマイ、バラ、ホルモン。お品書きの七五調が心地いい。柵原は、文化で言えば美作国の中心部である津山文化圏に入ると思うのだけど、そう言えば津山の名物に「ホルモンうどん」なんてーのがあるのを思い出した。津山の名物と言えば稲葉浩志(B’z)とホルモンうどんだよな・・・ちなみに鉄板の脇に並べられた一升瓶は岡山の地酒・萬悦。丁寧な仕事です(笑)。
当然ながら、片上鉄道関連の展示物も充実しています。片上鉄道が開通する前は、柵原鉱山の鉱石は高瀬舟で吉井川を下って出荷されていました。採掘量の増加に伴って鉄道の建設が急がれ、1923年(大正12年)に備前矢田までが暫定開通。矢田~柵原間に索道を通し、鉄道での鉱石の出荷を開始しました。最終的に柵原まで鉄道が開通するのは、それから8年後の1931年(昭和6年)の事になります。
同和鉱業片上鉄道の日常風景。柵原の駅には、ホームと並んだ形で鉱石積み込み用のホッパーがありました。鉱石貨車を牽引するDD13は、自社発注の客車を牽引して旅客輸送に従事する事もあり、青に白帯の客車と機関車の組み合わせは、「ブルートレイン」と呼ばれて地元の乗客や鉄道ファンに親しまれていたといいます。デッキによじ登る学生の姿が印象的な備前矢田の通学風景。線路上を歩く制服姿とともに、この鉄道の大らかさを感じます。山から俯瞰した飯岡(ゆうか)の集落、青々とした田んぼと吉井川に向かって緩やかにカーブした駅。コトコトと通り行く古典的キハ。抒情的に過ぎる光景です。
鉱山資料館は、地上1階と地下1階が展示コーナー。その間を繋ぐエレベーターは、坑道の中に設置されていたエレベーターを模していて非常に雰囲気がある。ちょっと下に降りて行くだけなのだが、地底深くまで連れて行かれてしまうのではないかと錯覚してしまう。
壁に並べられた坑道内の重機と、妙にリアルな坑道内での削岩機での掘削シーン。そして蟻の巣のように柵原の地下に張り巡らされた坑道の断面図。昔ディグダグというゲームがあったのだが、それを思い出してしまうなあ。最深部では海抜比-400m近辺まで掘り進めたそうな。柵原鉱山が一番栄えたのは、戦後の食糧増産のため、化学肥料(硫安)の原料としての硫酸や、ゴム製品の原料としての硫黄の需要が旺盛であった昭和20年代から40年代前半の事。以降は、化学肥料の使用量の減少や、石炭→石油へのエネルギー政策の転換によって、石油精製の過程で発生する脱硫硫黄が安価に製造されるようになったこと、そして1985年のプラザ合意による円高で、海外からの安価な鉱石が大量に輸入されるようになったことから、隆盛を極めた柵原鉱山は、極めて急速に国際競争力を失って行きました。
ヘルメットをかぶったヤマのオトコたちが行き交う活気あふれる鉱山街の姿。最盛期は鉱夫達が汗を流す社宅付きの大浴場や、「柵原クラブ」と呼ばれたホールでは歌謡ショーの開催、学校、そして鉱山の付属病院など、増加する人口に合わせて鉱山街のインフラが形成されていきました。平成3年の鉱山閉山から既に30年、夢のような時代は過ぎ去り、すっかりと過疎の山村となった柵原の街で、現在でも鉱山病院は柵原病院として地域医療を支えています。
個人的見解ですが、地方私鉄の形成過程には「信仰・温泉・鉱山」の三要素のうちのどれかが関わっていることが非常に多いと思っています。初日・2日目に訪れた高松琴平電気鉄道は金刀比羅宮参詣のための信仰型とすれば、ヤマとともに生まれ、そしてヤマとともに消えて行った片上鉄道は生粋の鉱山型の地方鉄道でした。鉱山型の鉄道は、古くは同じグループの小坂製錬(秋田)、松尾鉱山鉄道(岩手)や磐梯急行電鉄(福島)、尾小屋鉄道(石川)などなど旅客扱いはついでに過ぎない生粋の鉱山鉄道が多数ありましたが、現在残っているのは非常に少なくて、純然たる鉱山型の私鉄として最後まで残っていたのが、くりはら田園鉄道(旧栗原電鉄・細倉鉱山)ですかねえ・・・一応現存しているのは、国鉄足尾線を三セク転換したわたらせ渓谷鉄道と、石灰石に関連した貨物輸送を専業とする岩手開発鉄道と、現在でも鉱山からの鉱石や製品輸送を続ける秩父鉄道・三岐鉄道の太平洋セメントグループに属する3社くらいでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます