tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「明日への言葉」(花に祈る、山に祈る)

2015年12月21日 | 奈良にこだわる
本年(2015年)4月末まで吉野の金峯山寺総長(「金峯山修験本宗」宗務総長)をお務めになり、今は自坊(京都府綾部市の大容山「林南院」)の住職・代表役員(および金峯山寺長臈=長老)をお務めになる田中利典(りてん)師は4月26日にNHK Eテレ「こころの時代」に出演された。
※トップ写真は、利典師のFacebookから拝借

視聴された方は多いと思うが、この番組内容が40分に編集されて「ラジオ深夜便・明日への言葉」として5月2日にNHKラジオで放送された。その内容がブログ「明日への言葉」に掲載されていることを利典師のFacebookで知った。ご本人は、

今年、私にとっての最大の出来事は金峯山寺の宗務総長職を勇退したことですが、それとならぶ出来事のひとつに、NHKEテレの番組「こころの時代/花に祈る 山に祈る」(4月26日放送、5月2日再放送)へ出演させていただいたことが挙げられます。

「こころの時代」は田中利典個人を取材していただいた番組でした。Eテレの名物番組で、全国からの反響も大きかったです。この「こころの時代」はNHKラジオの「ラジオ宅急便」の中、発言内容を40分にまとめた「明日への言葉」のコーナーで、テレビ再放送の朝に流されています。「ラジオ深夜便・明日への言葉」も名物番組で、かなりの方々から、聞いたよ!と反響を頂きました。この「明日への言葉」がBLOGになってアップされているのを先ほど見つけました。よろしければご覧下さい。


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では、ブログ「田中利典(住職)・花に祈る 山に祈る」(「明日への言葉」)の記事全文を以下に紹介する(tetsudaが少々、文章の体裁を整えた)。

田中利典・花に祈る 山に祈る
(59歳)古くから桜の名所として知られる吉野山。鎮座する金峯山寺は昔から修験道の聖地として信仰を集めてきました。田中さんは昭和56年、金峯山寺に入り広報を手初めに、宗門の要職を務めてきました。田中さんが歩んできた修験道は、役小角が開いたと伝えられ、日本古来の神道と、伝来してきた仏教とが出会う事で生まれました。山伏の姿で山をめぐり、自然の中に身を置くことで心を整え、人々の苦悩に寄り添えることが修行の目的とされます。30年余りに亘る吉野の山での修行で見えてきた心の世界とはどのようなものか、伺います。

吉野の桜は今から1300年前に役小角(役行者)が吉野から南へ24kmにある大峰山(山上ヶ岳)で1000日の修行をされて(修験道)、独特の御本尊を祈りだされた。これを蔵王権現というが、この権現様を山桜に刻んで、お祀りした。その伝説から、吉野では御神木が山桜であると伝わり、山桜を大切にしてきた。権現信仰が広がってゆくと、権現様を訪ねて、信仰のあかしに(吉野山に)山桜を献木して、山桜の名所になって行った。

権現様は青黒いお姿をしていて顔は恐ろしいが、青黒い肌には意味があり、青黒は仏様の心が有る(柔和な仏様の姿と荒々しい姿 自然が持っている恩恵と脅威)。吉野山の山桜は厳しい掟が有り、大事にされてきた。献木によって山全体が桜の山になって行った。

自然の中に神仏がおり、桜の中に権現様がいて、自然とつながっており、大地ともつながってゆく。我々の修行がいろんなものと一体となって大きな力を得てゆく、そういう世界があるが、その一つの信仰の形が権現様の御神木・山桜。

大峰奥駈(おくがけ)修行 吉野から熊野まで170kmに及ぶ山道を8日間掛けて歩き通す。25歳の時に初めて行くが、歩くのに一生懸命で疲れ果てた。何回か行くが、山が嫌いだった。7~8回目でようやく山の修行の良さを知るようになった。それからは楽しく行けるようになった。

人間には「我」があり、歩いて同じことをしていると、(自然に)任せるままに歩かざるを得ないので、心の我執が消えていくような感じだ。「懺悔、懺悔 六根清浄」と登りながら声を出して歩く内に自分の中の我が消えてゆくし、六根(眼耳、鼻、舌、身、意 )も清浄になってゆく。繰り返しの中で自然の中で生かされている自分を見つめ直す。

日本人は生きていく中で「晴れ」と「褻(け)」を行き来する。同じ生活をしている(褻)と、心がくたびれてきて 、しまいに心が病んでいって、病気になるが、それを時々もとに戻さなくてはいけない、それを「晴れ」という。

「晴れ」とは日常ではない、非日常の聖なるものに触れること(元旦、3月3日、5月5日とか)。今の日常は「晴れ」と「褻」を失ってきている所があるが、山の修行は日常を離れ8日間、朝から晩まで歩き、歩いているうちに「神仏の聖なる世界」(非日常)を体験する。それが山修行の素晴らしさ。自然の中で生かされている自分がいる、自然の一部として自分が生きている、そういうことを体験できる。

父親(田中得詮)は国鉄に勤めながら、山伏修行に打ち込んでいたが、勤めを辞めて専門の僧侶になった。5歳の時に父に連れられて大峯修行に行くが、母に聞くと(私が)1歳半の時に肺炎になり、死にかけたそうで、蔵王権現様に願を掛けて5歳になったら(大峯山に)連れて登るので、どうか命を助けてほしいと言って、助かり、5歳の時に父が私を一緒に連れて行った。

「拝み屋」と言われて苦しかった時期がある。15歳で得度、僧侶の道に入る。修行で気付かされたのは「人間は自然の一部でしかない」ということ。阪神大震災、東日本大震災、御嶽山噴火とか災害が続いているが、報道される中で異和感を感じた、想定外の大きな被害、想定外の津波、「想定外」という言葉の裏には自然が悪いような、自然に善悪があるように聞こえた。

自然に善悪はない。人間は自然の中で生かされていることを忘れているのではないか。自然への畏怖、恩恵、感謝を忘れつつある社会だからこそ、単なる登山ではなく、そこに神仏がおられることを前提に祈りをささげてゆく。

共生は共死でもある、そいう目線で自然に対して畏敬の念をもつ事は大事で、人間の都合で自然を考えてしまうので、「想定外」という言葉を生んでしまったのではないか。

土にまみれながら歩いてゆくが、登山靴ではなく地下足袋を通して土の暖かさ柔らかみ、土の力を感じるのが修行。

修験道ルネッサンス 仏教はグローバルな宗教 神道はローカル 修験道はグローバルとローカルが融合してできた宗教で、超ローカル。

人が生きてゆくのにどう寄り添ってゆくかと、父が生涯を通してやってきたとするなら、私も山で世話になったものを里で生かして行ければと思っている。林南院は父が建てたお寺。今年の4月からこの寺を拠点に新たな修行の道を歩きはじめる。今年60歳になり、今年から一人前になるのかなあとの思いもあり、直に寄り添って里で生かしたいと思っている。


《人間には「我」があり、歩いて同じことをしていると、(自然に)任せるままに歩かざるを得ないので、心の我執が消えていく》《山の修行は日常を離れ8日間、朝から晩まで歩き、歩いているうちに「神仏の聖なる世界」(非日常)を体験する。それが山修行の素晴らしさ。自然の中で生かされている自分がいる》《自然に善悪はない。人間は自然の中で生かされていることを忘れている》《共生は共死でもある、そいう目線で自然に対して畏敬の念をもつ事は大事》《山で世話になったものを里で生かして行ければと思っている》…。

NHKテレビ「こころの時代」で心を打ったこれら珠玉の言葉が、再び甦ってきた。利典師はブログ「山人のあるがままに」とFacebookで、「田中利典著述集」のタイトルでこれまでのご発言や文章を再発信しておられる。これからも注目してまいりたい。利典師、引き続き、よろしくお願いいたします!








コメント (4)
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