tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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西山厚氏の「明日への言葉」(仏に学ぶ 悲しみの力)

2015年12月25日 | 奈良にこだわる
先日(12/21)は金峯山寺の元総長(「金峯山修験本宗」宗務総長)田中利典(りてん)師の「明日への言葉」を紹介した。今日は西山厚氏(帝塚山大学教授)の珠玉の言葉を紹介する。
※トップ写真は西山氏。11/21に開催されたシンポジウムで撮影

西山氏は本年(2015年)8月23日(日)、NHK Eテレ「こころの時代」(60分)に出演された。その内容が40分に編集され「ラジオ深夜便・明日への言葉」として8月29日(土)、NHKラジオで放送され、その全貌がブログ「明日への言葉」に掲載された。少し体裁を整えた上で、以下に全文を紹介する。

西山厚(帝塚山大学教授)仏に学ぶ 悲しみの力
(62歳)昭和28年徳島県生まれ、京都大学に進む。去年の春まで30年余り、奈良国立博物館で仏教の文化財を中心に、調査、研究、展示の企画に取り組んできました。奈良に足場を据え仏教の研究を続ける西山さんに伺いました。


大仏は奈良時代に聖武天皇が作ったが、どうして大仏を造ったのかという根本のところが一番大事な部分だと思う。聖武天皇以外の人間には、極論すれば判らないはず。

聖武天皇はとても苦しんでいる人だったから、(私は)とても魅力を覚えるようになった。干ばつ、飢饉、大きな地震、天然痘大流行、内乱がおき戦いがあり、自分の子供も亡くなる。聖武天皇は、すべての生あるものは幸せになってほしいと、本当に思っていた人ですが現実はすべて逆、逆、逆で、聖武天皇は自分の政治が悪いので、天が罰を与えるのだと思った。

聖武天皇は苦しむわけですが、どんなふうに苦しんでいたのかを想像してみる必要がある。わずかでも聖武天皇の苦しみを想像する事ができた人だけが、聖武天皇、大仏のことなどを理解できるようになるのではないかと思っている。

聖武天皇は大仏を造ることにするが、「大きな力で造るな、たくさんの富で造るな」と不思議なことを言う。さらにこう言います。「一本の草を持ってきて、私も大仏造立を手伝いたいと言う人がいたら、その人に手伝ってもらいなさい、土を持ってきて、私も大仏造立を協力したいと言う人がいたら、その人に協力てもらいなさい」。造っている最中に日に3回、礼拝せよと言う、また関わった人は皆、心の中に自分の大仏を造れとおしゃっている。

大きな力、たくさんの富ではなく、一本の草を持ってきた人達と大仏を造りたかったことは事実であり、そういうやり方で大仏はできた。関わった人は260万人という記録が残っているが、当時の人口はおよそ500万人と推定されるので人口の半分、多くの人たちが小さな力を集めて大仏はできた。

大仏ができても(世の中は)ちっとも変らなかったが、大仏を造ろうとした理由は全ての動物、植物がともに栄えるような世界を作りたい、だから私は大仏を造ることにしたと言っている。

天平勝宝4年(752年)。1260年余り前に大仏はできるが、大仏は2度、いくさに巻き込まれ、焼かれている。平安時代末、東大寺は源氏の側についていたので平家に焼かれてしまう。東大寺に隠れていた1,000人が焼かれ、大仏も溶けてしまう。重源が、また大仏を造りたいと思って動いた。日本全国で寄付を集め「尺布、寸鉄といえども」という言葉が残っている。

表現は違うが聖武天皇と同じやり方で大仏ができるが、また戦国時代に焼かれる。重源が再建した大仏殿は戦国時代の永禄10年(1567年)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)との戦闘で、松永久秀によって再び焼き払われてしまった。

公慶という坊さんが出てきて復興することになり、全国寄付集めをする。「一針、一草の喜捨でいい」と言って同様に寄付集めをする。

聖武天皇の願いが1300年近くもたって、表現は違うが受け継がれている。その根底にあるものとは、仏教が悲しみの中から誕生したということではないかと思う。約2500年前インドで、若い女性が子供を生んだが、ひどい難産で赤ちゃんは元気だったが、母親は7日後に亡くなった。

赤ちゃんはお釈迦様で、母親を知らなかった。自分を生んだから母親は死んだと考えて、抜け出ることができない袋小路に入り込んで行く可能性があったが、お釈迦様は袋小路から出てきた。結局、人は皆死ぬ、1人の例外もなく死ぬ、では人生とは何なんだろう、生きていく意味とは何なんだろう。楽しいことがあってもやがて老いて病んで死んでゆくので、楽しいことなど意味がないのではないか、と考え始める。老いて病んで死んでゆく人生に深い喜びがある、幸せに死んでゆくという道はきっとあるはずだと思って出家して、悟りを開き仏教が誕生する。

(お釈迦様の)お母さんが死んだことで、仏教が誕生した。仏教は初めから悲しみ、苦しみとともにある。仏教はとても優しい。悲しみ・苦しみの中から生まれてきたので。仏教は耐えがたい悲しみ・耐えがたい苦しみの中で、もう自分1人ではとても生きられないと思う時、仏教は初めて意味を持つ。死にかけている人はそのまま死んで行くが、それにもかかわらずそこに安らぎの道がある、仏教はその道を示しているものであると私は思っている。

大仏も聖武天皇の苦しみの中から生まれたものであり、そういうものは歴史の中で無数にある。それが千年、2千年経っても、同じような悲しみ、苦しみを感じている人にフィットするんじゃないんですかね。苦しみ・悲しみを通して歴史を見るのが私の基本になっていることは確かです。父は歴史学者、母は毎晩寝る前に般若心経と観音経を唱えるような信仰心の篤い人でした。

(私が)3歳の時、母が大病で入院し、大手術をすることになる。戻ってきて「10年再発しなければ助かる」と言われていた。母は小さな観音像をもって嫁いできた人だった。父も病気がちだった。何を残せるかを両親は考えて、私に仏教童話全集を買ってくれて、私は仏教に出会った。

人は病気であることが当たり前だと思っていた。病気でないと言うのはよほど恵まれていることだと思うようになった。病気が治らなくても幸せにはなれるし、年老いて歩けなくなっても、そこで新しい幸せはあるはず。

大学の時に、明恵上人(華厳宗中興の祖)を知った。全部正確に知りたいと思うようになって大学院に進んだ。明恵上人のピュアでひたむきなところが好きで、もっともっと知りたいと思うようになった。インドの仏蹟を回ったり、修士論文も明恵上人だったが、そんなことしているうちに奈良国立博物館に入ることになった。明恵上人も8歳の時に両親を亡くしているが、それがなかったら坊さんにはならなかったかも知れない。

叡尊。奈良の西大寺を復興したお坊さんで8歳の時に母親を亡くしている。「3人の小児を懐の内におきて、逝去しおわぬ」と書いてあって、抱きしめながら死んだと言うこと(7歳の叡尊と5歳と3歳)。それが叡尊の人生を決定付け、社会福祉的なことをやり続けて行く。85歳の時に簡潔に書いているが、文章以上に心に沁みるものはない(涙ぐみながら話す)。悲しみは悲しみだけで終わらない、悲しみが行動の原動力、力になる。悲しみや苦しみはその人を奮い立たせ、進ませる、やり遂げる力になる。

小さい時に母親を亡くして偉いお坊さんになった人は結構います。悲しみ、苦しみはマイナスではない、そこから生まれてくるものがある。日本の仏教が今めざしているものは、悟りではないと思う、異論・反論があるかと思うが、求めているものは「安らぎ」だと私は思う。「心満たされて安らかに生き、心満たされて安らかに死ぬ」。これがめざすところであり、仏教によって可能になると私は思っている。老いて病んで死ぬことに変わりはないが、そのなかで大きな安らぎを感じつつ死んでゆく道はあると思っている。

金子みすゞさんが大好きで、素晴らしい詩がいっぱいある。金子みすゞの「さびしいとき」という詩。「私がさびしいときに、よその人は知らないの。私がさびしいときに、お友だちは笑ふの。私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、
佛さまはさびしいの。」これは日本仏教の一つの到達点だと思う。

「私がさびしいときに、佛さまはさびしいの。」そのことが安らぎになるんです。これが救いなんです。共にある。いつでもそばにいる。いつもそばにいる。それって大きな安らぎになる。仏教は悲しみと苦しみの中から生まれた。悲しみや苦しみの中にいる人に仏教は優しい。いつもそばにいる、それに支えられて苦しみ・悲しみが消えなくても、人は心安らかに生きてゆく事が出来る。苦しみ・悲しみの中から何か新しい大切なものが生まれてくるかも知れない。


「私がさびしいときに、お母さんはやさしいの。私がさびしいときに、佛さまはさびしいの」。この一節は、講演の場で西山氏からお聞きし、今も覚えている。「仏教は本来、布教するものではないのです」ともおっしゃっていた。「仏教がめざすべきは『安らぎ』」。私も死に直面したときは、安らぎを感じつつフェイドアウトしたいものである。

西山先生、良いお話を有難うございました!
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