うかうかしているうちに、周回遅れの紹介になってしまった。NHK大河ドラマ「真田丸」、6月5日(日)放送の「第22回 裁定」を紹介する。歴史に残る「沼田裁定」の話だ。NHKのHP「あらすじ」によると、
北条氏の沼田城明け渡しを断固拒否する真田。北条を上洛させたい秀吉を判事役に、原告・北条、被告・真田の戦国裁判劇の幕が上がる。信繁は真田の代表として弁舌と胆力の限り北条に勝負を挑む。徳川方の証人・本多正信も加わり、一瞬の隙も許されない大論戦が展開。秀吉がいよいよ裁定を下す。武勇によって事を決する時代の終わりに昌幸の胸に去来するものは…。

結論を先に書く。沼田は北条が2/3、残り1/3(名胡桃城を含む要衝)が真田とされた。ただし真田には2/3と同等の土地が秀吉から与えられる。それが裁定の結果である。当然、北条は不満である。その後、北条の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、勝手に残りの領土も占領する。これで秀吉は、北条を攻める口実ができたのである。北条、危うし!
簡単に言うとそんな展開だったが、この沼田裁定のシーンがとても面白かった。室内のしつらえは、秀吉好みの悪趣味なゴテゴテ。そこに片桐且元がパワーポイント画面のような絵図を出し(トップ写真)、指し棒を使ってさっそうと解説しだした(秀吉に「長い」といってさえぎられたが)。北条方に堂々と反論する信繁は、あの半沢直樹を思わせる堺雅人の名演技。これは迫力があった。まぁ、本当にこんな会談の場が設けられたのかは怪しいのであるが…。
「沼田って、本当はどうだっの?」といぶかる向きもあるだろうが、それは藤丸タダアキさんの感想に詳しいので、以下に貼っておく。よくお読みいただきたい。

北条と真田が領有権を主張する沼田領(3万石)の裁定です。沼田は新潟(北陸)と群馬(関東)を結ぶ要所で関東制覇を目指す北条にとっては大事な場所です。元々、沼田は戦国期を通じて上杉家が長い期間領有していました。特に上杉謙信の活躍した時代、沼田は上杉家の関東攻略の拠点でした。
上杉謙信は当時、関東管領という官位を室町幕府から与えられていました。その謙信はたびたび、新潟から関東に攻め込みました。そして、謙信死後、上杉家の存続を巡り、武田と北条が対立します。沼田城は北条家が一旦は占領しました。しかしその後、武田勝頼の意を受けた真田昌幸が沼田を攻略します。その間、東日本でも動きがあります。
1582年3月に織田家は武田を滅ぼしています。その結果、織田家は山梨・長野・群馬を手に入れました。沼田領も織田家が押えました。しかし、1582年6月2日、本能寺の変が起こります。たった3か月しか支配できなかった織田家はその領地をほぼ放棄します。真田昌幸はこの際に、沼田領を占領しました。
そして、山梨・信濃は徳川が占拠します。群馬は北条が占拠しました。そして徳川・北条は領有権を認め合う和睦をします。その条件は徳川は甲信・北条は関東という線引きでした。そしてこの時、真田は徳川の傘下でした。北条は徳川に沼田を明け渡すように言います。
それに対して徳川は真田に通告します。しかし、真田は自分で手に入れた土地で、徳川からもらった土地ではないんですね。通告を断ります。その結果上田合戦が起き、真田が圧勝します。そして、その後、徳川も真田も豊臣家に従属します。
豊臣秀吉という人はなるべく人を殺さない人として評価されていた人物です。毛利・上杉などを外交で従属させることに成功しました。家康はすぐには無理でしたがやがて従属させました。当初、北条も説き伏せようとします。しかし、北条は来ません。秀吉の外交に失敗事例。
地域ブロックを制圧した大名は傘下にはなりません。九州の島津家もそうです。秀吉の九州征伐があと1年遅れれば、九州全幾は島津家が領有していたでしょう。北条もそうですね。関東のほとんど3分の2を抑えてしまっていました。その対抗勢力は茨城の佐竹・千葉の里見でしたが、敵ではありませんでした。

そして、この沼田裁定が出てきます。真田丸22話裁定はこの沼田の領土問題の裁定の話です。真田丸では、実際に板部岡紅雪斎・本多正信・真田信繁による主張がありました。しかし、実際はそんな席はなかったでしょう。
秀吉は外交に関しては自分の目分量に絶対の自信を持っていました。秀吉の最も得意とすることは外交でしょう。若い時は敵を裏切らせる調略が得意でした。しかし、天下統一に向かって秀吉が行った最大の偉業は外交による勝利でしょう。
秀吉は自ら沼田裁定を行いました。真田家が所有している沼田領のうち3分の2を北条に引き渡す。しかし、3分の1は真田家の所領とする。ここで私は少し思うことがありました。秀吉が信長の後継者であれば、他の意見があったのではないかと思います。例えば、織田家から簒奪した土地は認めないなど。全くなさそうでしたね。秀吉は明確に信長亡き後の織田家を乗っ取ったのでしょう。
さて、裁定に北条家は不満だったでしょう。しかし、自力で制圧できなかったんですね。秀吉の裁定を得て、沼田城を手に入れます。しかし、ここで北条家は家来の猪俣邦憲が勝手に残りの領土も占領します。ここで、勝負ありです。
結局、北条は秀吉が掲げた天下統一事業が理解できなかったのでしょう。秀吉が発した惣無事令はすべての戦争の停止を命じていました。北条はそれに明確に違反したんですね。
北条氏政はその父、氏康以外には仕えたことがないんですね。それまで上司がいなかった人に上司ができるというのは難しいですね。北条氏政は晩年に秀吉の統一事業とぶつかったことが不幸でした。
氏政は秀吉が理解できなかったという点が勝負の分かれ道だった。そして、ここから小田原平定が始まります。ちなみに小田原平定とは北条征伐のことを言います。三谷幸喜は1度目の裁定と北条征伐を決めた秀吉の裁定をかぶせたのでしょうか。
石田三成は戦争はしたくなかったでしょう。彼は内政を進め、日本の近代化を劇的に進めようとしていました。それは各大名が領内のみで行っていた経済活動を全国規模にすることです。商業の統一が豊臣政権の大きな狙いでした。
戦争は内政を滞らせます。そして、三成は戦争が得意ではなかったと思います。三成は小田原平定では大きなミスを起こしました。それはまた次回ですね。真田丸22話裁定の感想を書きました。
北条氏の沼田城明け渡しを断固拒否する真田。北条を上洛させたい秀吉を判事役に、原告・北条、被告・真田の戦国裁判劇の幕が上がる。信繁は真田の代表として弁舌と胆力の限り北条に勝負を挑む。徳川方の証人・本多正信も加わり、一瞬の隙も許されない大論戦が展開。秀吉がいよいよ裁定を下す。武勇によって事を決する時代の終わりに昌幸の胸に去来するものは…。

結論を先に書く。沼田は北条が2/3、残り1/3(名胡桃城を含む要衝)が真田とされた。ただし真田には2/3と同等の土地が秀吉から与えられる。それが裁定の結果である。当然、北条は不満である。その後、北条の家臣・猪俣邦憲が名胡桃城を攻め、勝手に残りの領土も占領する。これで秀吉は、北条を攻める口実ができたのである。北条、危うし!
簡単に言うとそんな展開だったが、この沼田裁定のシーンがとても面白かった。室内のしつらえは、秀吉好みの悪趣味なゴテゴテ。そこに片桐且元がパワーポイント画面のような絵図を出し(トップ写真)、指し棒を使ってさっそうと解説しだした(秀吉に「長い」といってさえぎられたが)。北条方に堂々と反論する信繁は、あの半沢直樹を思わせる堺雅人の名演技。これは迫力があった。まぁ、本当にこんな会談の場が設けられたのかは怪しいのであるが…。
「沼田って、本当はどうだっの?」といぶかる向きもあるだろうが、それは藤丸タダアキさんの感想に詳しいので、以下に貼っておく。よくお読みいただきたい。

北条と真田が領有権を主張する沼田領(3万石)の裁定です。沼田は新潟(北陸)と群馬(関東)を結ぶ要所で関東制覇を目指す北条にとっては大事な場所です。元々、沼田は戦国期を通じて上杉家が長い期間領有していました。特に上杉謙信の活躍した時代、沼田は上杉家の関東攻略の拠点でした。
上杉謙信は当時、関東管領という官位を室町幕府から与えられていました。その謙信はたびたび、新潟から関東に攻め込みました。そして、謙信死後、上杉家の存続を巡り、武田と北条が対立します。沼田城は北条家が一旦は占領しました。しかしその後、武田勝頼の意を受けた真田昌幸が沼田を攻略します。その間、東日本でも動きがあります。
1582年3月に織田家は武田を滅ぼしています。その結果、織田家は山梨・長野・群馬を手に入れました。沼田領も織田家が押えました。しかし、1582年6月2日、本能寺の変が起こります。たった3か月しか支配できなかった織田家はその領地をほぼ放棄します。真田昌幸はこの際に、沼田領を占領しました。
そして、山梨・信濃は徳川が占拠します。群馬は北条が占拠しました。そして徳川・北条は領有権を認め合う和睦をします。その条件は徳川は甲信・北条は関東という線引きでした。そしてこの時、真田は徳川の傘下でした。北条は徳川に沼田を明け渡すように言います。
それに対して徳川は真田に通告します。しかし、真田は自分で手に入れた土地で、徳川からもらった土地ではないんですね。通告を断ります。その結果上田合戦が起き、真田が圧勝します。そして、その後、徳川も真田も豊臣家に従属します。
豊臣秀吉という人はなるべく人を殺さない人として評価されていた人物です。毛利・上杉などを外交で従属させることに成功しました。家康はすぐには無理でしたがやがて従属させました。当初、北条も説き伏せようとします。しかし、北条は来ません。秀吉の外交に失敗事例。
地域ブロックを制圧した大名は傘下にはなりません。九州の島津家もそうです。秀吉の九州征伐があと1年遅れれば、九州全幾は島津家が領有していたでしょう。北条もそうですね。関東のほとんど3分の2を抑えてしまっていました。その対抗勢力は茨城の佐竹・千葉の里見でしたが、敵ではありませんでした。

そして、この沼田裁定が出てきます。真田丸22話裁定はこの沼田の領土問題の裁定の話です。真田丸では、実際に板部岡紅雪斎・本多正信・真田信繁による主張がありました。しかし、実際はそんな席はなかったでしょう。
秀吉は外交に関しては自分の目分量に絶対の自信を持っていました。秀吉の最も得意とすることは外交でしょう。若い時は敵を裏切らせる調略が得意でした。しかし、天下統一に向かって秀吉が行った最大の偉業は外交による勝利でしょう。
秀吉は自ら沼田裁定を行いました。真田家が所有している沼田領のうち3分の2を北条に引き渡す。しかし、3分の1は真田家の所領とする。ここで私は少し思うことがありました。秀吉が信長の後継者であれば、他の意見があったのではないかと思います。例えば、織田家から簒奪した土地は認めないなど。全くなさそうでしたね。秀吉は明確に信長亡き後の織田家を乗っ取ったのでしょう。
さて、裁定に北条家は不満だったでしょう。しかし、自力で制圧できなかったんですね。秀吉の裁定を得て、沼田城を手に入れます。しかし、ここで北条家は家来の猪俣邦憲が勝手に残りの領土も占領します。ここで、勝負ありです。
結局、北条は秀吉が掲げた天下統一事業が理解できなかったのでしょう。秀吉が発した惣無事令はすべての戦争の停止を命じていました。北条はそれに明確に違反したんですね。
北条氏政はその父、氏康以外には仕えたことがないんですね。それまで上司がいなかった人に上司ができるというのは難しいですね。北条氏政は晩年に秀吉の統一事業とぶつかったことが不幸でした。
氏政は秀吉が理解できなかったという点が勝負の分かれ道だった。そして、ここから小田原平定が始まります。ちなみに小田原平定とは北条征伐のことを言います。三谷幸喜は1度目の裁定と北条征伐を決めた秀吉の裁定をかぶせたのでしょうか。
石田三成は戦争はしたくなかったでしょう。彼は内政を進め、日本の近代化を劇的に進めようとしていました。それは各大名が領内のみで行っていた経済活動を全国規模にすることです。商業の統一が豊臣政権の大きな狙いでした。
戦争は内政を滞らせます。そして、三成は戦争が得意ではなかったと思います。三成は小田原平定では大きなミスを起こしました。それはまた次回ですね。真田丸22話裁定の感想を書きました。