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奈良ものろーぐ(4)保田與重郎/日本浪曼派は桜井市出身

2016年07月23日 | 奈良ものろーぐ(奈良日日新聞)
奈良県下のスグレモノやゆかりの人物を紹介する「奈良ものろーぐ」(奈良日日新聞に毎月第4金曜日掲載)、今回紹介するのは(7/22付)保田與重郎(やすだ・よじゅうろう)。戦前・戦中に一世を風靡した文芸評論家である。彼が桜井市出身であり、市内に万葉歌碑を建てる運動やカタヤケシ(桜井市・相撲神社内)に幕内全力士を呼び、パレードまでやったことは、ほとんど知られていない。これはもったいないことなので今回、彼の思想を紹介することにした。
※トップ写真は、與重郎の生家。東田好史さんにご紹介いただいた

與重郎の著作は保田與重郎文庫(全32冊)におさめられているが何しろ晦渋この上ない文章なので、何度かトライしたがその都度ハネ返されてきた。今回その著作の何冊かと、入門書『保田與重郎を知る』(前田英樹著)新学社刊、伝記『空ニモ書カン』(吉見良三著)淡交社刊のおかげで、彼の全貌を知ることができた。ご教示いただいた東田好史さんと加地伸久さんには、厚く御礼申し上げる。では、新聞記事の全文を紹介する。


等彌神社に建つ歌碑(棟方志功画)

保田與重郎/日本浪曼派は桜井市出身
保田與重郎(やすだ・よじゅうろう 1910~1981)は桜井市出身、日本浪曼派(ろうまんは)のエースとして活躍した文芸評論家だ。日本浪曼派とは「文芸雑誌の名。また、その雑誌によって活動した一派。一九三五年(昭和10)三月、保田与重郎・亀井勝一郎らにより創刊、三八年八月廃刊。自然主義文学を強く批判、当時のロマン主義擡頭(たいとう)の気運に乗り,詩精神の高揚と日本古典の復興を標榜(ひょうぼう)」(『大辞林』)。

與重郎は小林秀雄と並んで、昭和10年代の青年層に強い影響を及ぼしたことで知られる。與重郎ほど、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人はいない。民族主義と反近代主義にたった評論で、戦前・戦中は時代を代表する評論家ともちあげられた。ところが戦後は戦争を正当化したとされ、公職追放。言論も存在も黙殺された時期があった。
 
しかし與重郎の思想は一貫していた。「敗戦といふ大いなる時代の激変に際会して、保田與重郎はその思想に何らかの変更を必要としない稀な文学者のひとりであつた」(桶谷秀昭著『保田與重郎』)。つまり、変わったのは時代の方だったのだ。


 保田與重郎を知る(DVDつき)
 前田英樹
 新学社

與重郎の深い日本古典の教養と独自の美的感覚は、生まれ育った桜井の風土のなかでつちかわれた。「この國(くに)の初めの土地、今につづく大倭朝廷が出現した美しい山河自然の中に立ち、その日の出、月の出の雄大な風景に感動し、そして眼を閉ぢ頭を垂れよ。何かは知らぬ永遠な情感が、血の中にわき立つであらう。それは詩であり、歌であり、文章であり、すべて疑ひ得ない最高の眞實である」(『日本の美術史』保田與重郎文庫18)。

與重郎は「自然」を「かむながら」と読む。「神(かむ)ながらの道」が自然の道であり、古代の祭政一致、つまり米作りによる祭りの暮らしこそが、わが国の理想であるとする。「苗代づくりも、種子まきも、田植えも、草取りも、すべて神の教えに従って行われ、秋のゆたかな実りに結びついた。民は神の教えのままに安心して農作にいそしみ、実りの秋には収穫をまっ先に神と天皇に捧げてその恵みに感謝した」(吉見良三著『空ニモ書カン』)。ここには家族のような神と天皇と民とのつながりがある。

神武天皇ゆかりの等彌(とみ)神社は、與重郎の生家から徒歩10分ほどの場所にある。彼の祖父は毎日、早朝のお参りを欠かさなかったという。ここに與重郎の歌碑がある。生涯の友だった棟方志功が描いたものだ。「鳥見山の此の面(も)かの面をまたかくし時雨はよるの雨となりけり」(鳥見山のこちら側やあちら側を雲で隠して降った時雨は、夜に入って本降りになってしまった)。ぜひ歌碑を訪ね、與重郎の生涯に思いをはせていただきたい。


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