空海のことで確かめたいことがあったので、『週刊朝日百科 仏教を歩くNo.1 弘法大師空海』(2003.10.19刊)を書棚から取り出した。表紙をめくると、宗教学者の山折哲雄氏の「発刊の言葉」が目に止まった。タイトルは「いまこそ仏教のこころを見直すべきとき」。以前はすっ飛ばしていたが、今回初めて読み出し、目が釘付けになった。そこには、こんな文章が書かれていた。
※トップ写真は、近隣公園のヤマザクラ(2020.4.5撮影)
もしもこの日本列島から仏教の彩(いろど)りや匂(にお)いが消えてしまったら、どういうことになるだろうか。われわれの生活はよほど寂しく、貧しいものになるにちがいない。山あいのお寺の鳴らす鐘の響きが、まず聞こえてくることがなくなるだろう。除夜の鐘にじっと耳をすます風物詩も姿を消してしまうはずだ。お彼岸やお盆の季節にふるさとの墓前にぬかづいて、香華(こうげ)をたむける、あのなつかしい風景もみられなくなるであろう。肉親の死にさいして、無常の理を悟るとい機会もおそらく訪れることがない。
柳や緑したたる草木のみずみずしさに心打たれたり、桜や紅葉の美しさに目を洗われて、柳緑花紅(りゅうりょくかこう=柳は緑、花は紅であること。物事が自然のままの例え)と口ずさみ、しみじみした気分を味わうこともなくなっていくにちがいない。われわれをとりまく近代的で快適な生活を味わいながらも、ふと気がついて、疲れ切った神経を茶の湯や活け花によって慰めるといった風流も、おそらくままならぬものになっているかもしれない。
近隣公園のソメイヨシノ(4/6)
万事、西欧流の音楽や絵画やファッションに目を奪われる日常のなかで、世阿弥(ぜあみ)の能や近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃の世界にひたるということもできなくなっていたはずだ。さらにいえば、もしも仏教の無常感覚や浄土(じょうど)イメージがわれわれの血流のなかに流れていなかったとしたら『源氏物語(げんじものがたり)』の「もののあはれ」の情調はよほど貧寒としたものになったはずであり、『平家(へいけ)物語』の滅(ほろ)びの美学も生まれなかったにちがいない。
そのすべてが、仏教の豊かな水脈のなかから汲(く)みだされていたのである。名僧たちの日々の生活、その起伏に富んだ修行の生活のなかからつむぎだされていたのである。われわれは今こそ、その汲めども尽きぬ仏教の遺産をあらためて見返すべきときにきているのではないだろうか。この悩み多い現代社会が、そのことをわれわれにささやきかけているのである。その仏教と名僧たちの物語が、装いを新たにして、これからはじまる。
太子町(大阪府南河内郡)で見つけたナヨクサフジ(弱草藤)の群落(5/5)
昨秋、母を亡くしたばかりの身には、「肉親の死にさいして、無常の理を悟るという機会もおそらく訪れることがない」という言葉に、まず惹かれた。3年半の間、母は老健施設と病院を往復していた。日に日に衰弱していく母の姿を見るのはつらかった。私はたくさんの仏教書を読み、精神のバランスを回復することに努めた。
倉本聡のテレビドラマ「やすらぎの郷(さと)」(2017年)には、老人ホームの中で無宗教でお葬式を挙げるシーンがあり、激しい違和感を覚えた。お坊さんもいなければ、お経も上げないのだ。「あの死者の霊魂は、どこへ行くのだろう」と、フィクションながら心配になった。
山本七平著『比較文化論の試み』(講談社学術文庫)に、こんなくだりがある。宗教学者の大畠清氏は毎年イスラエルに行き、テールゼロールという発掘場で発掘調査をしていた。そこから古代の墓が出てきて、人骨が続々と掘り出される。約10日間ほど、日本人とユダヤ人が共同でこれを処理していく。
《そのうちに、2人の日本人がちょっと変になってきたんです。朝から晩までお骨をいじってる。シャレコウベも出てくりゃ骨も出てくる。それで途中で微熱が出だしまして、夜には変な夢を見て気分が悪くなってきた。大畠清先生は少し皮肉な調子で「どうもあの2人にはお祓(はら)いが必要だったらしい。実は2人はクリスチャンなんだが」とまあそう言って笑われたんです。ところがユダヤ人のほうは一向平気なんですよ。人骨がザラザラ出てくるのですが、それでも一向平気なんです》。つまり日本人は人骨に霊魂を感じ、微熱を出したのである。
わが家で咲いた鉢植えのボタン「鎌田錦」(5/5)
新型コロナ騒動の今春は、とりわけ「柳緑花紅」の素晴らしさに心を打たれた。柳緑花紅をもう少し詳しく説明すると《人が手を加えていない自然のままの美しさのこと。紅い花と緑の柳ということから、春の美しい景色を言い表す言葉。禅宗では、花は紅く、柳は緑という自然そのものの姿こそが悟りの境地であることをいう》(四字熟語辞典オンライン)。今年は近くの公園を散歩していても、ウォーキングツアーをしていても、カメラのレンズは自然と柳緑花紅に向いた。
よく知られた「夕焼小焼」という歌がある。韓国の学者は「これこそが日本仏教の心を表現している」と讃えたそうだ。《夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手々つないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょう》。確かに、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)を感じさせる歌詞である。
4月2日から、東大寺別当の狹川普門氏の呼びかけで、毎日正午から、全国の寺社で「疫病退散」の祈願が行われている。私も般若心経を唱えることがある。新型コロナ禍の今こそ、仏教の心を見直したい。
※トップ写真は、近隣公園のヤマザクラ(2020.4.5撮影)
もしもこの日本列島から仏教の彩(いろど)りや匂(にお)いが消えてしまったら、どういうことになるだろうか。われわれの生活はよほど寂しく、貧しいものになるにちがいない。山あいのお寺の鳴らす鐘の響きが、まず聞こえてくることがなくなるだろう。除夜の鐘にじっと耳をすます風物詩も姿を消してしまうはずだ。お彼岸やお盆の季節にふるさとの墓前にぬかづいて、香華(こうげ)をたむける、あのなつかしい風景もみられなくなるであろう。肉親の死にさいして、無常の理を悟るとい機会もおそらく訪れることがない。
柳や緑したたる草木のみずみずしさに心打たれたり、桜や紅葉の美しさに目を洗われて、柳緑花紅(りゅうりょくかこう=柳は緑、花は紅であること。物事が自然のままの例え)と口ずさみ、しみじみした気分を味わうこともなくなっていくにちがいない。われわれをとりまく近代的で快適な生活を味わいながらも、ふと気がついて、疲れ切った神経を茶の湯や活け花によって慰めるといった風流も、おそらくままならぬものになっているかもしれない。
近隣公園のソメイヨシノ(4/6)
万事、西欧流の音楽や絵画やファッションに目を奪われる日常のなかで、世阿弥(ぜあみ)の能や近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)の浄瑠璃の世界にひたるということもできなくなっていたはずだ。さらにいえば、もしも仏教の無常感覚や浄土(じょうど)イメージがわれわれの血流のなかに流れていなかったとしたら『源氏物語(げんじものがたり)』の「もののあはれ」の情調はよほど貧寒としたものになったはずであり、『平家(へいけ)物語』の滅(ほろ)びの美学も生まれなかったにちがいない。
そのすべてが、仏教の豊かな水脈のなかから汲(く)みだされていたのである。名僧たちの日々の生活、その起伏に富んだ修行の生活のなかからつむぎだされていたのである。われわれは今こそ、その汲めども尽きぬ仏教の遺産をあらためて見返すべきときにきているのではないだろうか。この悩み多い現代社会が、そのことをわれわれにささやきかけているのである。その仏教と名僧たちの物語が、装いを新たにして、これからはじまる。
太子町(大阪府南河内郡)で見つけたナヨクサフジ(弱草藤)の群落(5/5)
昨秋、母を亡くしたばかりの身には、「肉親の死にさいして、無常の理を悟るという機会もおそらく訪れることがない」という言葉に、まず惹かれた。3年半の間、母は老健施設と病院を往復していた。日に日に衰弱していく母の姿を見るのはつらかった。私はたくさんの仏教書を読み、精神のバランスを回復することに努めた。
倉本聡のテレビドラマ「やすらぎの郷(さと)」(2017年)には、老人ホームの中で無宗教でお葬式を挙げるシーンがあり、激しい違和感を覚えた。お坊さんもいなければ、お経も上げないのだ。「あの死者の霊魂は、どこへ行くのだろう」と、フィクションながら心配になった。
山本七平著『比較文化論の試み』(講談社学術文庫)に、こんなくだりがある。宗教学者の大畠清氏は毎年イスラエルに行き、テールゼロールという発掘場で発掘調査をしていた。そこから古代の墓が出てきて、人骨が続々と掘り出される。約10日間ほど、日本人とユダヤ人が共同でこれを処理していく。
《そのうちに、2人の日本人がちょっと変になってきたんです。朝から晩までお骨をいじってる。シャレコウベも出てくりゃ骨も出てくる。それで途中で微熱が出だしまして、夜には変な夢を見て気分が悪くなってきた。大畠清先生は少し皮肉な調子で「どうもあの2人にはお祓(はら)いが必要だったらしい。実は2人はクリスチャンなんだが」とまあそう言って笑われたんです。ところがユダヤ人のほうは一向平気なんですよ。人骨がザラザラ出てくるのですが、それでも一向平気なんです》。つまり日本人は人骨に霊魂を感じ、微熱を出したのである。
わが家で咲いた鉢植えのボタン「鎌田錦」(5/5)
新型コロナ騒動の今春は、とりわけ「柳緑花紅」の素晴らしさに心を打たれた。柳緑花紅をもう少し詳しく説明すると《人が手を加えていない自然のままの美しさのこと。紅い花と緑の柳ということから、春の美しい景色を言い表す言葉。禅宗では、花は紅く、柳は緑という自然そのものの姿こそが悟りの境地であることをいう》(四字熟語辞典オンライン)。今年は近くの公園を散歩していても、ウォーキングツアーをしていても、カメラのレンズは自然と柳緑花紅に向いた。
よく知られた「夕焼小焼」という歌がある。韓国の学者は「これこそが日本仏教の心を表現している」と讃えたそうだ。《夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる お手々つないで皆帰ろ 烏と一緒に帰りましょう》。確かに、山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)を感じさせる歌詞である。
4月2日から、東大寺別当の狹川普門氏の呼びかけで、毎日正午から、全国の寺社で「疫病退散」の祈願が行われている。私も般若心経を唱えることがある。新型コロナ禍の今こそ、仏教の心を見直したい。