正直言って、斎王・斎宮のことは、よく分かっていなかった。「ちゃんと勉強しなければ」と思っていた矢先、私が学生登録している放送大学で「伊勢斎宮の歴史と文化」という面接授業(京都学習センター 2022年6月9日・16日)があることを知って、すぐに申し込んだ。講師は斎宮歴史博物館主査(学芸員)の榎村寛之(えむら・ひろゆき)さんだった。
※トップ写真は「さいくう平安の杜」に復元された斎宮正殿。三重県明和町のHPから拝借した
とても分かりやすい授業で、またテキストとなった同氏の著作『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)も、とても詳しく書かれていた。シラバスには〈テキストをしっかり読んで講義に臨むことを希望します。基礎からの講義はしません〉とあったし、授業の最後にはレポートの作成が求められていたので、三色ボールペンで線を引きながら予習した。
おかげさまで、私の頭の中に斎王・斎宮像が定着した。「忘れないうちに文章にしておかないと」と思い、早速「明風清音」(6/30付)で紹介することにした。やや堅い文章となったが、有り難いことに何人かの読者から「記事を読んで、斎王・斎宮のことがよく分かりました」というご感想をいただいた。以下に全文を紹介する。
「斎王」「斎宮」をご存じだろうか。榎村寛之著『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)の帯には〈天皇の代替わりごとに占いで選ばれ、伊勢神宮に仕える未婚の皇女―それが斎王(さいおう)であり、その住まいが斎宮(さいくう)である。飛鳥時代から鎌倉時代まで660年にわたって続いた斎宮を、あらゆる角度から紹介し、斎王一人一人の素顔に迫る〉。
よく混同されるが、人が「斎王」で住居(宮殿)が「斎宮」である。のち京都の賀茂神社にも斎王が置かれたので、区別するために「伊勢斎王」とも呼ばれる。
伊勢斎王と聞いて、すぐに思い浮かぶのは大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)だろう。大伯は初代の伊勢斎王で、13歳から26歳までその役目を務めた。彼女は万葉集に「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」(巻②163)(神風の吹く伊勢の国にいればよかったのになぜ都に帰ってきたのだろう、愛しい弟はもういないのに)という悲痛な歌を残した。
第二代斎王は、井上(いかみ・いのうえ)内親王である。井上はのちに第49代光仁天皇の皇后となったが、天皇を呪詛(じゅそ)したとされて廃后され、幽閉ののち没した。なので斎王には、どうしても「悲哀」のイメージがつきまとう。
斎王とは〈天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれ、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人である。(中略)斎王はその天皇の譲位・崩御・親族の死による服喪などで交代するまでは伊勢に居つづけ、一年間に三回、内宮、外宮に参詣する〉(本書より引用、以下同じ)。
しかし〈この制度は正直、歴史的に大きな功績を残したというものではない。むしろ、ほとんどが何の役に立っていたのかよくわからない存在である〉。しかも〈斎王は鎌倉時代の終焉、建武新政の崩壊とともに終わってしまう。(中略)形式的に京に置いて伊勢を遥拝(ようはい)させているだけでもよかったと思うのだが、斎王は消えた。時代が必要としなくなっていた、としかいいようがない〉。
本書ではおしまいのところに、こんな記述がある。〈斎王の身体に顕れる変化は、伊勢の神のメッセージにほかならないはずだ。つまり、斎王は、天照大神のセンサーのような役割を負っていたのであり、それは天皇と斎王にだけ求められた義務だった。(中略)斎王は、伊勢神宮にいないときでも、天照大神の意向をその身体で体現する者でありつづけなければならなかった。斎王が伊勢に常駐していた理由はこれではなかったのか〉。
当時、天皇に対しては6月と12月に「御体御卜(ごたいのみうら)」という占いが行われていた。天皇の肉体に顕れた兆候を調べる占いで、その兆候は神からのメッセージと理解され、占いはト部(うらべ)が行った。これと同じことが斎王にも行われていた。
延喜式には「毎月晦日(月末)と三時祭(神嘗祭および6月と12月の月次祭)に参入する際に斎王の御体の安否をト(ぼく)した」とある。〈斎王はある意味、天皇、「すめみまのみこと」と同等に重要な身体を持つ神聖な者だったといえるだろう。斎宮に斎王が暮らす意味はここにある〉。
斎宮の跡地は、松阪市と伊勢市にはさまれた三重県多気郡明和町の近鉄山田線斎宮駅の周辺にあり、その規模は東西約2㌔、南北約700㍍で、国史跡に指定されている。斎宮についての詳細は、史跡公園「さいくう平安の杜」(明和町斎宮2800)と「斎宮歴史博物館」(同町竹川503)で知ることができる。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※トップ写真は「さいくう平安の杜」に復元された斎宮正殿。三重県明和町のHPから拝借した
とても分かりやすい授業で、またテキストとなった同氏の著作『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)も、とても詳しく書かれていた。シラバスには〈テキストをしっかり読んで講義に臨むことを希望します。基礎からの講義はしません〉とあったし、授業の最後にはレポートの作成が求められていたので、三色ボールペンで線を引きながら予習した。
おかげさまで、私の頭の中に斎王・斎宮像が定着した。「忘れないうちに文章にしておかないと」と思い、早速「明風清音」(6/30付)で紹介することにした。やや堅い文章となったが、有り難いことに何人かの読者から「記事を読んで、斎王・斎宮のことがよく分かりました」というご感想をいただいた。以下に全文を紹介する。
「斎王」「斎宮」をご存じだろうか。榎村寛之著『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)の帯には〈天皇の代替わりごとに占いで選ばれ、伊勢神宮に仕える未婚の皇女―それが斎王(さいおう)であり、その住まいが斎宮(さいくう)である。飛鳥時代から鎌倉時代まで660年にわたって続いた斎宮を、あらゆる角度から紹介し、斎王一人一人の素顔に迫る〉。
よく混同されるが、人が「斎王」で住居(宮殿)が「斎宮」である。のち京都の賀茂神社にも斎王が置かれたので、区別するために「伊勢斎王」とも呼ばれる。
伊勢斎王と聞いて、すぐに思い浮かぶのは大伯(大来)皇女(おおくのひめみこ)だろう。大伯は初代の伊勢斎王で、13歳から26歳までその役目を務めた。彼女は万葉集に「神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに」(巻②163)(神風の吹く伊勢の国にいればよかったのになぜ都に帰ってきたのだろう、愛しい弟はもういないのに)という悲痛な歌を残した。
第二代斎王は、井上(いかみ・いのうえ)内親王である。井上はのちに第49代光仁天皇の皇后となったが、天皇を呪詛(じゅそ)したとされて廃后され、幽閉ののち没した。なので斎王には、どうしても「悲哀」のイメージがつきまとう。
斎王とは〈天皇の代替わりごとに未婚の皇族女性から選ばれ、その天皇一代の間、伊勢神宮に仕える人である。(中略)斎王はその天皇の譲位・崩御・親族の死による服喪などで交代するまでは伊勢に居つづけ、一年間に三回、内宮、外宮に参詣する〉(本書より引用、以下同じ)。
しかし〈この制度は正直、歴史的に大きな功績を残したというものではない。むしろ、ほとんどが何の役に立っていたのかよくわからない存在である〉。しかも〈斎王は鎌倉時代の終焉、建武新政の崩壊とともに終わってしまう。(中略)形式的に京に置いて伊勢を遥拝(ようはい)させているだけでもよかったと思うのだが、斎王は消えた。時代が必要としなくなっていた、としかいいようがない〉。
本書ではおしまいのところに、こんな記述がある。〈斎王の身体に顕れる変化は、伊勢の神のメッセージにほかならないはずだ。つまり、斎王は、天照大神のセンサーのような役割を負っていたのであり、それは天皇と斎王にだけ求められた義務だった。(中略)斎王は、伊勢神宮にいないときでも、天照大神の意向をその身体で体現する者でありつづけなければならなかった。斎王が伊勢に常駐していた理由はこれではなかったのか〉。
当時、天皇に対しては6月と12月に「御体御卜(ごたいのみうら)」という占いが行われていた。天皇の肉体に顕れた兆候を調べる占いで、その兆候は神からのメッセージと理解され、占いはト部(うらべ)が行った。これと同じことが斎王にも行われていた。
延喜式には「毎月晦日(月末)と三時祭(神嘗祭および6月と12月の月次祭)に参入する際に斎王の御体の安否をト(ぼく)した」とある。〈斎王はある意味、天皇、「すめみまのみこと」と同等に重要な身体を持つ神聖な者だったといえるだろう。斎宮に斎王が暮らす意味はここにある〉。
斎宮の跡地は、松阪市と伊勢市にはさまれた三重県多気郡明和町の近鉄山田線斎宮駅の周辺にあり、その規模は東西約2㌔、南北約700㍍で、国史跡に指定されている。斎宮についての詳細は、史跡公園「さいくう平安の杜」(明和町斎宮2800)と「斎宮歴史博物館」(同町竹川503)で知ることができる。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)