tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の『吉野薫風抄』白馬社刊(9)/親の有り難さ、子の有り難さ

2022年07月19日 | 田中利典師曰く
田中利典師の処女作にして最高傑作という『吉野薫風抄 修験道に想う』(白馬社刊)を、師ご自身の抜粋により紹介するというぜいたくなシリーズ。第9回の今回は「子供が居てこその親」。約30年前に執筆されたというが、第一子をもたれた親御さんの気持ちがよく伝わる文章である。以下、師のFacebook(5/1付)から抜粋する。
※写真は、「花空間けいはんな」(2009年に閉園)のハス

シリーズ吉野薫風抄⑨「子供が居てこその親」
今、私の傍らで我が子が戯(たわむ)れている。原稿が仕上がらず、ねじり鉢巻で苦しむ父の心を知ってか知らずか、ただ無邪気に独り遊びに興じている。可愛いものだとつくづく思う。親であることの有難みを感じるのは、こんなたわいない一時であるのかもしれない。

おれはおまえの親なんだぞ、と偉そうに言っても、子供が居てこその親である。親の有難みというが、子供の有難みというのもあるはずである。わが娘を抱いてみて知ったのは、親の有難みだけでなく、子供を持つ有難みもあることであった。

子育てというが、なにも親が子を育てるばかりでなく、子供によって親自身が育てられているのかも知れない。夜中に熱を出したり、階段からころがり落ちたり、プラスチックを飲みこんだり、この数年の間、いろんなことが起きたけれど、その都度、右往左往して、少しずつ親として成長させられてきた。まさに子供が居てこその、お蔭である。

私は親として、そう大した出来ではないだろう。自分の感情のままに子供を叱ったり、子供相手にムキになったり、全く大人気(おとなげ)ない。子供にとって、こんな親を持つのは災難のようなものかもしれない。

いつかこの稿で、子供は神仏からの授かりものであると書いたことがあるが、その想いは今も変わらないにしても、現実にはついついわがままが出るのである。そしてそんな不出来な親だからこそ、時に子供の有難みに思いを至しているのである。

年末に二人目の子供が生まれる予定である。次は男の子が欲しい、と思う気持ちもあるが、そうかといって、「願」を掛けるとか、男の子を作るための努力とかは何事もなさなかった。男でも女でもよい、自然のまま、神仏におまかせするのみである。

まだまだ半人前の親であるが、子供とともに少しずつでも成長していきたいと思っている。それが我が子への責任であり、私自身が自分の両親から受けた恩に対する責任であろう。

ところで、こういうことを感じられるのも、自分自身が神仏の深い加護の元にあるからに他ならないだろう。子の有難み、親の有難み、そして神仏の有難みに、改めて感謝申し上げたい。

************

本稿に出てくる第一子長女も今年35歳、そのあと生まれた長男も32歳。あっという間の30年であった。親として、不十分なままだったと、今さらながら、自分の文章を述懐・反省をしている。人生は難しい・・・。
◇◇
私の処女作『吉野薫風抄』は平成4年に金峯山時報社から上梓され(26歳から35歳まで書いたコラムを編集)、平成15年に白馬社から改定新装版が再版、また令和元年には電子版「修験道あるがままに シリーズ」(特定非営利活動法人ハーモニーライフ出版部)として電子書籍化されています。「祈りのシリーズ」の第3段は、本著の中から紹介しています。Amazonにて修験道あるがままに シリーズ〈電子版〉を検索いただければ、Kindle版が無料で読めます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする