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田中利典師「吉野山と嵐山」(6)足利尊氏は後醍醐天皇の菩提を弔うため、嵐山の対岸に天龍寺を建立した

2023年04月04日 | 田中利典師曰く
金峯山寺長臈(ちょうろう)田中利典師は、2016年(平成28年)11月、東京の奈良まほろば館で「吉野と嵐山の縁(えにし)」という講演をされた。師はその講演録を7回に分けてご自身のFacebookに連載された(2023.2.28~3.6)。あまり聞く機会のない貴重なお話なので、当ブログでも追っかけて紹介させていただく。
※トップ写真は、吉水神社「一目千本」の桜(写真はいずれも2023.3.31に撮影)

今日(第6回)は、前回の話の続きである。なんと〈後醍醐天皇が亡くなった後、吉野を滅ぼした足利尊氏は後醍醐天皇を弔うためにお寺を建てます。この寺が京都嵯峨野の天龍寺です。後醍醐天皇のお父さんが後宇多天皇。後宇多天皇のお父さんが亀山天皇。亀山天皇のお父さんが後嵯峨天皇〉。申すまでもなく、天龍寺は嵐山の対岸にある。

〈じいちゃん(亀山天皇)とひいじいちゃん(後嵯峨天皇)が営んだ、「仙洞亀山殿」というあのお二人の上皇の離宮のあった場所がいまの天龍寺で、そこに後醍醐天皇の菩提を弔うお寺を建てたんです。天龍寺は、後嵯峨天皇、亀山天皇が営んだ離宮、その地に建ったのです。すごいでしょ。単に吉野から桜を移したという話だけではなく、吉野朝を開いた後醍醐天皇の弔い所・天龍寺建立までに縁が続いているのです〉。では全文を師のFacebook(3/5付)から抜粋する。


吉野の嵐山の桜

シリーズ「吉野山と嵐山」⑥
著作振り返りシリーズの第7弾は、2016年に開催した世界遺産連続講座から「吉野と嵐山の縁(えにし)」の講演録です。ようやく終わりに近づきました。今回のところがコア。なお、講演の雰囲気を伝えるために、あまり手を入れていませんので、饒舌ですがお許しください。ご感想をお待ちしています。

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ところで、ここで話が実は終わらないんですよ。そこが私はすごいと思うんですよ。何がすごいって言うと、先ほど来、吉野を訪れた人たちを何人か紹介した中で、後醍醐天皇の話をいたしました。元弘3年(西暦1333年)に元弘の変が起きる。これは後醍醐天皇の第三皇子の護良親王が、天皇の挙兵に先立って、吉野で挙兵をされます。金峯山寺に拠点を置いて挙兵をされたのですね。

で、時の鎌倉方・二階堂道蘊(どううん)に攻められて、戦さは敗れるわけですが、その後、建武の中興が、建武元年(1334年)になる。後醍醐天皇の天皇親政ですね。ところがこの建武の中興はわずか2年少々で瓦解することになり、延元元年(1336年)に足利尊氏に攻められた後醍醐天皇は、京都を逃がれて比叡山に移られ、その後吉野においでになります。

この時、宗信法印という一山の一番偉い坊さんが、蔵王堂の庭前左に大塔という塔があったのですが、この大塔で皆とどうするかと詮議する。だってですね、わずか3年前に後醍醐天皇の第三皇子に味方して、一山は一度焼かれたているわけです。「また来はるらしいけど、どうするねん?」と、相談することになったそうであります。

そうすると、「いや、前も味方してんねんから、みんなでもう一回お味方しよう」ということになった(そうです)。凄いですねえ。で、その結果、後醍醐天皇をお迎えして、この吉野山に南朝(吉野朝)という朝廷が開かれる。



金峯山寺「南朝妙法殿」。ここに実城寺(金峯山寺一山の本坊)があった

蔵王堂の向かって左の谷に立つと、今は南朝妙法殿が建っておりますが、これは元々金峯山寺一山の本坊、実城寺というお寺があった場所です。当初、後醍醐天皇は吉水院、…今は明治に神社になりましたが、元々はこの寺が金峯山寺一山の一番偉いお坊さんが入る筆頭寺院でした。この吉水院を御所代わりにお入りになるんですね。

ただ、なにしろ政務を執るには手狭なため、後に実城寺に吉野朝廷が開かれることになります。で、ここで2年数ヶ月政府が続くわけですが、残念ながら京都回復の願いを実現できずに、後醍醐天皇は吉野でお亡くなりになられる。まあ、お亡くなりになって、その後も南朝は4帝57年続くのですが、正平3年には高師直軍に攻められて、吉野は拠点としての形を失うわけであります。そういう歴史が繰り広げられた。

これが先ほどの嵐山と吉野の関係とどう関係あるかというと、すごく関係があるんです。じつはですね、後醍醐天皇が亡くなった後、吉野を滅ぼした足利尊氏は後醍醐天皇を弔うためにお寺を建てます。この寺が京都嵯峨野の天龍寺です。

後醍醐天皇のお父さんが後宇多天皇。後宇多天皇のお父さんが亀山天皇。亀山天皇のお父さんが後嵯峨天皇。つまりじいちゃんとひいじいちゃんが営んだ、「仙洞亀山殿」というあのお二人の上皇の離宮のあった場所がいまの天龍寺で、そこに後醍醐天皇の菩提を弔うお寺を建てたんです。

天龍寺は、後嵯峨天皇、亀山天皇が営んだ離宮、その地に建ったのです。すごいでしょ。単に吉野から桜を移したという話だけではなく、吉野朝を開いた後醍醐天皇の弔い所・天龍寺建立までに縁が続いているのです。これで吉野と嵐山のお話は完結です。

昔の人というのは、そういう歴史や由緒をきちっとわかっていろんな事をしているという話です。後嵯峨天皇、亀山天皇が吉野の桜を愛でるために、蔵王権現共々、地名も含めて、吉野を京都に持って行くわけなんですが、そこで離宮を営む。その離宮の跡地に、足利尊氏はそのひ孫であり孫である後醍醐天皇を弔うお寺を建てた。深い深い縁を感じるわけです。

金峯山寺では10月15日に、後醍醐天皇を含む南朝4帝の菩提を弔う御聖忌法要を営んでおります。この日は後醍醐天皇が祀られている塔尾陵に一山僧侶で正式参拝をさせていただいています。長い歴史の中で起こった、ひとつの記憶を今に伝えているわけであります。
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