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田中利典師の「忙しがっているだけ…」

2023年07月25日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、2012年の「年末雑感」(師のブログ 2012.12.8 付)である。天理市出身の故村上和雄氏(分子生物学者、筑波大学名誉教授)の講演からの発想で、まさに「師走」にふさわしいお話を書かれたのである。では、全文を紹介する。
※トップ写真は、吉野山の桜(3/31撮影)

年末雑感2012
「先生、いつも、お忙しいですね」っていうと、必ず「いえ、大丈夫です。忙しがっているだけですから…」と答える先輩がいる。「忙しがっている」って、けだし、名言だと思う。そうなんだ、自分で忙しがっているだけで、ホントはそんなに忙しくないんだ…って思うと、その通りだと思える。

ここ数年、正直、傍目に見ても私には忙しい日々が続いてきた。怒濤の日々、などと自分で言ったりする。でも確かに忙しかったのは間違いないが、まあ、忙しがっていたのだといわれると、そうとも思える。

どうしてもしなくてはならないことに追われていたというより、自分でやりたいことを次々始めては忙しくしてきただけで、忙しがって生きてきたのが事実なのかもしれない…とも思える。

先日、遺伝子工学の世界的権威者である村上和雄師の講演を聴いた。師曰く「地球は48億年前に生まれ、40億年前に一個の生命細胞が誕生した。その一個の生命細胞から、その後全ての地球上の生命が生み出された。人間もまたその一個の細胞から始まっている」。

「そしてその最初の細胞から今に至るまでの全記憶データはあらゆる生命に全て受け継がれているのだ。つまり人の命というのは厳密に言うと、40億才プラス実年齢となる。よって、5才の子どもも、80才の老人もそう大した変わりはない。40億+5と40億+80の違いを考えるとね…」というようなお話だった。

この村上先生のお話を聞いて、私は「やっぱり、忙しがって生きなければならない」とまた思い直した。「私」という今生の命は、40億の継続の中で生まれたのだけれど、私でいられる時というのはまさに40億の上に立つ、数十年ってことである。

大事に大事に生きないことには、自分に至るまでのあらゆる命に申し訳ない。しかも、限られた時間を「私」として無駄にしないように。

修験道には「死に習う」という教えがある。常に自分の死を念頭において、今日の命を精一杯生きなさいということであるが、逆に「生に習う」ということも言えるような気がする。

自分の命の連続性を思うほどに、今の命を大事に生きなければならないのだ。となれば、忙しがって生きるのもそう悪くはないってことになる…などと思ったりしている今年の年末雑感である。
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