奈良新聞「明風清音」欄に、月2回程度寄稿している。昨日(2020.11.19)掲載されたのは「神仙境吉野の謎に迫る」。刊行されたばかりの新書本のレビューだ。この分野の書籍としては2004年に発刊された前園實知雄・松田真一両氏の共著『吉野 仙境の歴史』(文英堂)があるが、本書はそれ以来16年ぶりの著作ということになる。
※トップ写真は啓林堂書店奈良店で昨日(11/19)撮影。本書は新書部門でベストセラー1位!
新聞で紹介しようと『神仙境吉野の謎に迫る』を読み出したが、第1章と第2章はかなり手ごわい。私は平易な第3章から読み始め、予備知識を得てから第1章に戻った(結局3回読んだ)。幅広い分野をカバーしているので、新聞での紹介はギリギリまでポイントを絞らざるを得なかった。では、記事全文を紹介する。
大淀町学芸員の松田度(まつだ・わたる)氏と、奈良まほろばソムリエの会有志10人からなる「古代吉野を見直す会」は、本年10月31日『神仙境吉野の謎に迫る』(京阪奈新書)を発刊した。「第1章吉野と王権の神祇政策」「第2章吉野の神と仏」「第3章吉野古代史の現地を訪ねる」の3章立てで、第1・2章は同会会長の富田良一氏、第3章は同会メンバーが分担して執筆した。
吉野入門書であり学術書だ。まえがきに富田氏は14項目の「謎」を列挙し《これら吉野古代史の謎を解き明かそうとするのが本書のねらいです》。紙幅の都合上、私が特に興味を持ったところを以下に紹介する。
▼「丹生」と「金」の謎
丹(に)とは朱(赤色顔料)のことで、地質学では辰砂(しんしゃ)、考古学では水銀朱(天然朱)、化学では硫化水銀(朱の鉱石)と呼ばれる。だから丹生(にう)とは、丹の産地のことだ。奈良県には丹生川上神社が三社(川上村の上社、東吉野村の中社、下市町の下社)あるが、どこにも朱の鉱床はない。
しかし鉄などを含んだ炭酸水素塩泉が上社の元位置の周辺と、中社の前を流れる高見川の源流沿いにある。空気に触れると酸化するので、流路は真っ赤に染まる。また河畔に下社のある丹生川の上流には、赤岩(赤色チャート)が群在する赤岩渓谷(黒滝村)がある。《古代人はこれらをすべて「丹生」と理解していたのかも知れない》。
一方、金の鉱脈のない吉野に「金峯山」など金のつく地名や社寺がある。《黄金へのあこがれの気持ちが、神の住まう理想の山に実在して然るべきだとする希望的推測から、いつしか吉野山は「黄金の峯」という名で喧伝(けんでん)されるようになったのだろう》。
▼修験道の発祥と擬死再生
よく「密教が役行者を発見した」といわれる。初期密教における山岳修行の拠点は比曾(ひそ)寺(大淀町の世尊寺)だった。「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」(虚空蔵菩薩の真言を1日1万回、これを100日続ければあらゆる経典を記憶できて忘れないという修法)が法相系の僧侶に受け継がれ、若き日の空海もこれを修めて山岳修行に明け暮れたとされる。それらが空海の実弟を師とした聖宝(しょうぼう)に継承される。聖宝は醍醐寺の開祖でのち当山派修験道の祖となり、逆峯(ぎゃくふ 吉野~山上~熊野)の道を開いたといわれる。
修験者の組織が発展するにつれ、理想的な開祖を求めるようになる。そこで『続日本紀』に登場する役小角(えんのおづぬ 役行者)に目をつけ、開祖として崇めるようになる。『続日本紀』で小角は葛城山で修行したとされ、吉野は出てこない。しかし平安初期の『日本霊異記』には金峯山と葛城山の間に橋を架けようとする話が登場する。それが鎌倉時代の『今昔物語集』に至り「金峯山の蔵王権現は小角が祈り出した」となり、吉野修験道の開祖は小角ということになる(聖宝は中興の祖に収まる)。
なお修験道の峯入り修行は、入峯者が一旦死に、それが母胎である霊山で修行し、成仏した上で再生することを象徴的に表す(擬死再生)。山上ヶ岳(大峯山)は宗派を問わず全国から山岳修行者の集まる行場だった。なかに法華経の信者が含まれていて、胎内くぐりをして再生するという教理にちなみ、安産・子安の神である「鬼子母神(きしもじん)」が山上に祀られるようになった。上記信仰が絡まり合って修験道が誕生したというのが富田説で、これは目からウロコだった。
以上第1章と第2章から抜粋して紹介したが、奈良芸術短期大学教授・前園實知雄氏の推薦文によれば《白眉は第3章です。(中略)6年に及ぶ座学と現地踏査に基づいて書き上げられた、古代吉野を学ぶための必携の書となっています》。私も3章から読み始めた。皆さん、ぜひ本書を手にして、現地をお訪ねください。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
※トップ写真は啓林堂書店奈良店で昨日(11/19)撮影。本書は新書部門でベストセラー1位!
新聞で紹介しようと『神仙境吉野の謎に迫る』を読み出したが、第1章と第2章はかなり手ごわい。私は平易な第3章から読み始め、予備知識を得てから第1章に戻った(結局3回読んだ)。幅広い分野をカバーしているので、新聞での紹介はギリギリまでポイントを絞らざるを得なかった。では、記事全文を紹介する。
大淀町学芸員の松田度(まつだ・わたる)氏と、奈良まほろばソムリエの会有志10人からなる「古代吉野を見直す会」は、本年10月31日『神仙境吉野の謎に迫る』(京阪奈新書)を発刊した。「第1章吉野と王権の神祇政策」「第2章吉野の神と仏」「第3章吉野古代史の現地を訪ねる」の3章立てで、第1・2章は同会会長の富田良一氏、第3章は同会メンバーが分担して執筆した。
吉野入門書であり学術書だ。まえがきに富田氏は14項目の「謎」を列挙し《これら吉野古代史の謎を解き明かそうとするのが本書のねらいです》。紙幅の都合上、私が特に興味を持ったところを以下に紹介する。
▼「丹生」と「金」の謎
丹(に)とは朱(赤色顔料)のことで、地質学では辰砂(しんしゃ)、考古学では水銀朱(天然朱)、化学では硫化水銀(朱の鉱石)と呼ばれる。だから丹生(にう)とは、丹の産地のことだ。奈良県には丹生川上神社が三社(川上村の上社、東吉野村の中社、下市町の下社)あるが、どこにも朱の鉱床はない。
しかし鉄などを含んだ炭酸水素塩泉が上社の元位置の周辺と、中社の前を流れる高見川の源流沿いにある。空気に触れると酸化するので、流路は真っ赤に染まる。また河畔に下社のある丹生川の上流には、赤岩(赤色チャート)が群在する赤岩渓谷(黒滝村)がある。《古代人はこれらをすべて「丹生」と理解していたのかも知れない》。
一方、金の鉱脈のない吉野に「金峯山」など金のつく地名や社寺がある。《黄金へのあこがれの気持ちが、神の住まう理想の山に実在して然るべきだとする希望的推測から、いつしか吉野山は「黄金の峯」という名で喧伝(けんでん)されるようになったのだろう》。
▼修験道の発祥と擬死再生
よく「密教が役行者を発見した」といわれる。初期密教における山岳修行の拠点は比曾(ひそ)寺(大淀町の世尊寺)だった。「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」(虚空蔵菩薩の真言を1日1万回、これを100日続ければあらゆる経典を記憶できて忘れないという修法)が法相系の僧侶に受け継がれ、若き日の空海もこれを修めて山岳修行に明け暮れたとされる。それらが空海の実弟を師とした聖宝(しょうぼう)に継承される。聖宝は醍醐寺の開祖でのち当山派修験道の祖となり、逆峯(ぎゃくふ 吉野~山上~熊野)の道を開いたといわれる。
修験者の組織が発展するにつれ、理想的な開祖を求めるようになる。そこで『続日本紀』に登場する役小角(えんのおづぬ 役行者)に目をつけ、開祖として崇めるようになる。『続日本紀』で小角は葛城山で修行したとされ、吉野は出てこない。しかし平安初期の『日本霊異記』には金峯山と葛城山の間に橋を架けようとする話が登場する。それが鎌倉時代の『今昔物語集』に至り「金峯山の蔵王権現は小角が祈り出した」となり、吉野修験道の開祖は小角ということになる(聖宝は中興の祖に収まる)。
なお修験道の峯入り修行は、入峯者が一旦死に、それが母胎である霊山で修行し、成仏した上で再生することを象徴的に表す(擬死再生)。山上ヶ岳(大峯山)は宗派を問わず全国から山岳修行者の集まる行場だった。なかに法華経の信者が含まれていて、胎内くぐりをして再生するという教理にちなみ、安産・子安の神である「鬼子母神(きしもじん)」が山上に祀られるようになった。上記信仰が絡まり合って修験道が誕生したというのが富田説で、これは目からウロコだった。
以上第1章と第2章から抜粋して紹介したが、奈良芸術短期大学教授・前園實知雄氏の推薦文によれば《白眉は第3章です。(中略)6年に及ぶ座学と現地踏査に基づいて書き上げられた、古代吉野を学ぶための必携の書となっています》。私も3章から読み始めた。皆さん、ぜひ本書を手にして、現地をお訪ねください。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)
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