奈良のスグレモノやゆかりの人物を紹介する「奈良ものろーぐ」(奈良日日新聞に毎月第4金曜日掲載)、今回(6/24)紹介するのは会津の「徳一(とくいつ)」という平安初期の法相宗のお坊さんである。地元では今も「徳一菩薩」として尊崇されている。
私は今年の4月23日(土)~25日(月)「会津の愛にふれる旅」に参加して会津を訪ねた。往復とも伊丹から飛行機で訪ねたのだ。「奈良と会津1200年の絆実行委員会」事務局長の末村誠規さん(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会会員)にお誘いいただいた。
ツアーのメンバーには末村さんはじめ西山厚さん(同会委員長、帝塚山大学教授)や高次喜勝(たかつぎ・きしょう)さん(徳一研究家、喜光寺副住職)、それに五十嵐公子さん(日本メークアップアーチスト学院講師)もいらっしゃり、とても豪華な3日間の旅となった。そこで徳一のことを学んだ。
ツアー中にはシンポジウムが開かれ、その様子が福島民友新聞(4/25付)に《『仏都会津』源流を探る 「奈良と会津1200年の絆」シンポジウム》として、大きく掲載された。全文を紹介すると、
約1200年前に奈良から会津に赴き、仏教文化を伝え「仏都会津」の礎を築いた高僧「徳一(とくいつ)」を懸け橋に、両地域のつながりを考えるシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」は24日、会津若松市で開かれた。来場者は徳一の人間性や会津の文化を踏まえて"仏都会津"の源流を探り、会津と奈良の一層の交流促進を誓った。
復興を支援しようと、奈良の学識経験者や仏教関係者らでつくる「奈良と会津1200年の絆」実行委員会の主催、会津の有志でつくる「会津と奈良いにしえの絆継承委員会」(上野利八会長)の共催、福島民友新聞社の特別後援、県立博物館などの後援。これまで奈良市で2014(平成26)年、15年と2回開催、3回目の今回は本県で初めて開かれた。
第1部では、徳一が学んだ法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・薬師寺(奈良市)の研究員で僧侶の高次喜勝(たかつぎきしょう)さんが「徳一ぬきには語れない仏都」と題して基調講演。高次さんは徳一の人物像を伝える史料や奈良時代の仏教界の状況を解説しながら、「菩薩(ぼさつ)と称された徳一は民衆布教や地域先導、救済事業を行った。人々に手を差し伸べる『利他』の活動で、地域に根差したことを忘れてはならない」と語った。
第2部では、民俗学者の赤坂憲雄県立博物館長、大和川酒造店(喜多方市)の佐藤弥右衛門会長、帝塚山大(奈良市)の西山厚教授がパネルディスカッションを行い、会津と奈良の「過去、現在、未来」を語り合った。冒頭、上野会長があいさつし、シンポジウムに参加している奈良などからのツアー一行約30人を歓迎した。シンポジウムには福島民友新聞社の五阿弥宏安社長が出席した。
前置きが長くなった。おしまいに、今も地元で敬愛される徳一菩薩のことを書いた「奈良ものろーぐ(3)」の全文を以下に紹介する。
会津徳一/奈良と会津 つなぐ仏縁
徳一(とくいつ)という僧をご存じだろうか。「尋常な学僧ではなかった。〝会津徳一〟などとよばれて、平安初期の仏教界で畏(おそ)れられる存在だった。さらには、日本史上、最大の論争家でもあった。その点、論争べたな日本人のなかで、かれは奇蹟のような存在として歴史のなかで光芒(こうぼう)を放ちつづけている」(司馬遼太郎『街道をゆく33』朝日文芸文庫)。徳一の論争の相手は、最澄と空海だった。
徳一は法相宗の僧侶で、若い頃に奈良(おそらく東大寺)で修行し、その後、東北へ移った。会津(福島県)で慧日寺(えにちじ)などを開き、今も地元では「徳一菩薩」と敬愛されている。徳一が創建したと伝わる寺は、東北から北関東にかけて約二百とされるが、徳一に関する資料は少なく、最澄や空海と交わした書簡に手がかりが残る程度である。
徳一は、とくに最澄と激しく論争した。万人が仏性(仏になりうる性質)を持つ、という最澄の主張に徳一が旧仏教を代表するかたちで反論したのである。温厚な最澄にしては珍しく、自著のなかで徳一を「麤食者(そじきしゃ)」、つまりまずいものを食べている者・良質の学問を学んでいない人間、とののしっている。
「徳一は、奈良朝後期の大権勢家だった藤原仲麻呂(706~64)の子という説があるが、よくわからない。ともかくも、弱冠にして会津にゆき、慧日寺(恵日寺)をおこし、奥州と関東の一部におそらくはじめて正統の仏教をひろめた。みずからサトリをひらいて、他を利したという点、空海が〝菩薩〟とよんだのも、あながち過剰表現とはいえない」(同)。弱冠とは、20歳のこと。
徳一が仏教を広めたことが契機となって、会津は今も「仏都」と呼ばれる。その会津17市町村が申請した「会津の三十三観音めぐり~巡礼を通して観た往時の会津の文化~」は、平成28年度の「日本遺産」に認定された。
文化庁のホームページによると「東北地方で最も早く仏教文化が花開いた会津は、今も平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り『仏都会津』とよばれる。その中でも三十三観音巡りは、古来のおおらかな信仰の姿を今に残し、広く会津の人々に親しまれている」。
徳一を縁に、会津と奈良の絆をもう一度深めようという取り組みが始まっている。中心は「奈良と会津1200年の絆実行委員会」(委員長 帝塚山大学教授・西山厚氏)だ。「会津からの片思いに、奈良もこたえよう」をモットーに、またいまだ傷の癒えない東日本大震災復興支援のお役にたとうと、これまで奈良と会津で計3回のシンポジウムや会津を訪ねるツアーなどが行われた。会津に開いた仏教の華、徳一を手がかりに思いを致していただきたいものだ。
私は今年の4月23日(土)~25日(月)「会津の愛にふれる旅」に参加して会津を訪ねた。往復とも伊丹から飛行機で訪ねたのだ。「奈良と会津1200年の絆実行委員会」事務局長の末村誠規さん(NPO法人 奈良まほろばソムリエの会会員)にお誘いいただいた。
ツアーのメンバーには末村さんはじめ西山厚さん(同会委員長、帝塚山大学教授)や高次喜勝(たかつぎ・きしょう)さん(徳一研究家、喜光寺副住職)、それに五十嵐公子さん(日本メークアップアーチスト学院講師)もいらっしゃり、とても豪華な3日間の旅となった。そこで徳一のことを学んだ。
ツアー中にはシンポジウムが開かれ、その様子が福島民友新聞(4/25付)に《『仏都会津』源流を探る 「奈良と会津1200年の絆」シンポジウム》として、大きく掲載された。全文を紹介すると、
約1200年前に奈良から会津に赴き、仏教文化を伝え「仏都会津」の礎を築いた高僧「徳一(とくいつ)」を懸け橋に、両地域のつながりを考えるシンポジウム「奈良と会津1200年の絆」は24日、会津若松市で開かれた。来場者は徳一の人間性や会津の文化を踏まえて"仏都会津"の源流を探り、会津と奈良の一層の交流促進を誓った。
復興を支援しようと、奈良の学識経験者や仏教関係者らでつくる「奈良と会津1200年の絆」実行委員会の主催、会津の有志でつくる「会津と奈良いにしえの絆継承委員会」(上野利八会長)の共催、福島民友新聞社の特別後援、県立博物館などの後援。これまで奈良市で2014(平成26)年、15年と2回開催、3回目の今回は本県で初めて開かれた。
第1部では、徳一が学んだ法相宗(ほっそうしゅう)の大本山・薬師寺(奈良市)の研究員で僧侶の高次喜勝(たかつぎきしょう)さんが「徳一ぬきには語れない仏都」と題して基調講演。高次さんは徳一の人物像を伝える史料や奈良時代の仏教界の状況を解説しながら、「菩薩(ぼさつ)と称された徳一は民衆布教や地域先導、救済事業を行った。人々に手を差し伸べる『利他』の活動で、地域に根差したことを忘れてはならない」と語った。
第2部では、民俗学者の赤坂憲雄県立博物館長、大和川酒造店(喜多方市)の佐藤弥右衛門会長、帝塚山大(奈良市)の西山厚教授がパネルディスカッションを行い、会津と奈良の「過去、現在、未来」を語り合った。冒頭、上野会長があいさつし、シンポジウムに参加している奈良などからのツアー一行約30人を歓迎した。シンポジウムには福島民友新聞社の五阿弥宏安社長が出席した。
前置きが長くなった。おしまいに、今も地元で敬愛される徳一菩薩のことを書いた「奈良ものろーぐ(3)」の全文を以下に紹介する。
会津徳一/奈良と会津 つなぐ仏縁
徳一(とくいつ)という僧をご存じだろうか。「尋常な学僧ではなかった。〝会津徳一〟などとよばれて、平安初期の仏教界で畏(おそ)れられる存在だった。さらには、日本史上、最大の論争家でもあった。その点、論争べたな日本人のなかで、かれは奇蹟のような存在として歴史のなかで光芒(こうぼう)を放ちつづけている」(司馬遼太郎『街道をゆく33』朝日文芸文庫)。徳一の論争の相手は、最澄と空海だった。
徳一は法相宗の僧侶で、若い頃に奈良(おそらく東大寺)で修行し、その後、東北へ移った。会津(福島県)で慧日寺(えにちじ)などを開き、今も地元では「徳一菩薩」と敬愛されている。徳一が創建したと伝わる寺は、東北から北関東にかけて約二百とされるが、徳一に関する資料は少なく、最澄や空海と交わした書簡に手がかりが残る程度である。
徳一は、とくに最澄と激しく論争した。万人が仏性(仏になりうる性質)を持つ、という最澄の主張に徳一が旧仏教を代表するかたちで反論したのである。温厚な最澄にしては珍しく、自著のなかで徳一を「麤食者(そじきしゃ)」、つまりまずいものを食べている者・良質の学問を学んでいない人間、とののしっている。
「徳一は、奈良朝後期の大権勢家だった藤原仲麻呂(706~64)の子という説があるが、よくわからない。ともかくも、弱冠にして会津にゆき、慧日寺(恵日寺)をおこし、奥州と関東の一部におそらくはじめて正統の仏教をひろめた。みずからサトリをひらいて、他を利したという点、空海が〝菩薩〟とよんだのも、あながち過剰表現とはいえない」(同)。弱冠とは、20歳のこと。
徳一が仏教を広めたことが契機となって、会津は今も「仏都」と呼ばれる。その会津17市町村が申請した「会津の三十三観音めぐり~巡礼を通して観た往時の会津の文化~」は、平成28年度の「日本遺産」に認定された。
文化庁のホームページによると「東北地方で最も早く仏教文化が花開いた会津は、今も平安初期から中世、近世の仏像や寺院が多く残り『仏都会津』とよばれる。その中でも三十三観音巡りは、古来のおおらかな信仰の姿を今に残し、広く会津の人々に親しまれている」。
徳一を縁に、会津と奈良の絆をもう一度深めようという取り組みが始まっている。中心は「奈良と会津1200年の絆実行委員会」(委員長 帝塚山大学教授・西山厚氏)だ。「会津からの片思いに、奈良もこたえよう」をモットーに、またいまだ傷の癒えない東日本大震災復興支援のお役にたとうと、これまで奈良と会津で計3回のシンポジウムや会津を訪ねるツアーなどが行われた。会津に開いた仏教の華、徳一を手がかりに思いを致していただきたいものだ。
