tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

彼岸会のルーツ、早良親王の霊を鎮魂する崇道天皇社(奈良市西紀寺町)/やまとの神さま第41回

2023年05月06日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は木曜日(月3回程度)、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先月(2023.4.13)掲載されたのは〈遷都巡る悲劇 鎮魂の社/崇道天皇社(奈良市)〉、執筆されたのは同会会員で奈良市にお住まいの塩崎ヒデミさんだった。
※トップ写真は、崇道天皇社の拝殿=奈良市西紀寺町で


崇道天皇社では、こんなカラフルな御朱印がいただける(FB友達の境浩司さんのご提供)

この神社は、市内循環の道路からよく見える。拝殿の奥に、立派な朱塗りのご本殿(もと春日若宮社本殿・重文)が、そびえ立っている(写真の拝殿の屋根の向こうに、X字形の千木がチラリと見える)。この記事のおかげで、〈平城天皇は崇道天皇(=早良親王)の霊を慰めるため、各地の国分寺の僧に、春と秋にお経を読むことを命じました。これが彼岸会の始まりとも言われています〉ということを初めて知った。では、全文を紹介する。


御朱印は「月替わり」だそうだ

崇道天皇社(奈良市)
奈良町の南に立つ崇道(すどう)天皇社は、桓武天皇の弟・早良(さわら)親王(崇道天皇)を祭る神社です。781(天応元)年、桓武天皇の即位に伴い、早良親王が皇太子となりました。しかし、天皇は奈良の寺院勢力との関係を断ち切る目的などから、784(延暦3)年、長岡京に都を移しました。

藤原種継はこの計画に力を尽くしましたが、反対勢力に暗殺されました。早良親王がこの種継事件に加わったと思い込んだ天皇は、皇太子を解任し、乙訓寺(さわら)に幽閉しました。親王は無実を訴えましたが許されず、絶食して命を絶ちました。その後の近親者の病死や、たび重なる洪水、疫病を早良親王の祟(たた)りと信じた天皇は、崇道天皇の名を与えて、大切に祭るよう命じました。

桓武天皇の死後即位した平城(へいぜい)天皇は806(大同元)年、当地に崇道天皇を祭らせました。さらに平城天皇は崇道天皇の霊を慰めるため、各地の国分寺の僧に、春と秋にお経を読むことを命じました。これが彼岸会の始まりとも言われています。本殿は1623(元和9)年、春日若宮社の式年造替に伴い、旧本殿が移されたもので、国の重要文化財に指定されています。(奈良まほろばソムリエの会会員 塩崎ヒデミ)

(住 所)奈良市西紀寺町40
(祭 神)崇道天皇
(交 通)JR・近鉄奈良駅からバス「紀寺町」下車すぐ 
(拝 観)午前7時~午後4時半 月曜閉門
(駐車場)コインパーク
(電 話)0742・23・3416


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田中利典師「故 五條順教猊下(げいか)を悼(いた)む」

2023年05月05日 | 田中利典師曰く
2009年5月16日、田中利典師にとって悲しい出来事があった。長年、お弟子として随身(ずいじん)されてきた金峯山寺の五條順教管長(当時)が、遷化(せんげ)されたのである。
※トップ写真は、金峯山寺蔵王堂(2023.3.28 撮影)

利典師は「順教猊下追悼~その1」(2009.6.3)と、「順教猊下追悼~その2」(2009.6.5)という2つの追悼文を、ご自身のブログで公表された。猊下への深い敬愛の念が感じられる、素晴らしい追悼文である。以下、これら2本をまとめて紹介する。

順教猊下の追悼文を2つ書いた。最初のものは以前ブログで書いた内容になるが、密葬の忙しい中の執筆だったので少し手直しをして号外の機関誌(金峯山時報)に載せた。まずその文を転載する。

***************

「猊下の教えを胸に(順教猊下追悼~その1)」
私には人生の師が3人いる。1人は8年前に亡くなった父である。実父であるとともに、この修験の道に私を導いた師僧である。父の背中をみて大きくなったから、修験の道に繋がったのである。心底、父の元に生まれてきてよかったと思っている。

もう1人は龍谷大学以来、ずっと師事しているA博士。大学での出会いがご縁で、A博士に一生師事出来るという幸せはとてつもなく大きく、今でも会うたびに示唆に富んだアドバイスと慈愛をいただくのは本当に有り難いと言うほかない。

そしてもうお1人は、15歳のときからずっとそばで随身をさせていただいてきた五條順教管長猊下である。まるで父のような心持ちで38年、仕えさせていただいた。まあ仕えるといっても、従順ではなかったかもしれないし、猊下にとっては到底弟子とは思えないような、きっと不出来な人間であったに違いないが…。ともかく私にとっては無二の人であった。

その猊下が去る5月16日未明、不帰の人となられた。その朝、吉野山は深い深い悲しみに包まれ、私もまた言いようのない寂しさと悲しみに、立ちつくす思いでいた。病院にお迎えにいかせていただいて、ご遺体を前に最後のお別れを申し上げ、これまでのご恩にひたすら感謝していた。

猊下には多くの想い出がある。東南院小僧時代のこと、シルクロードやスペインをお供したことなどなど…。それら中で一番強烈な想い出となったのは、つい2ヶ月ほど前、重い病床で闘病生活を送られる中、私は遺言のようにして、ある教えを受けたことである。師はその病床において「吉野修験の究極は蔵王一仏信仰である」と宣言された。私にとってこれは本当に感動する一言だった。それから亡くなる直前まで、お見舞いにいくたびにこのことを繰り返しお話になられた。

かねてより、私が理想の僧侶とする生き方は、『往生要集』を著した恵心僧都源信和尚(えしんそうづげんしんかしょう)であるが、和尚の何を理想とするのか…というと、和尚最晩年の著作に『一乗要訣』という本がある。本書の中で和尚は「一乗仏教を極めて、最後は阿弥陀を祈る」という一言を残されている。この文章に接したとき、私もいづれはかくありたい、と願うところとなったのである。

私はいつまでもまともな修行もなかなか出来ない、ほんとに不具合な修験の僧侶である。それは一番私が知っている。でも、とめどなく生まれ続ける煩悩と、哀しいくらいに猥雑な日々に追われながらも、僧侶として縁をいただいた以上は見性(悟り)を得たいし、いつか、どこかで、なにかしら信仰的安心(あんじん)を獲得したいと願っている。

もちろん源信和尚のように優秀ではないから簡単なことではない。でも、修験信仰のご縁の中で、さまざまな関わり合いや求道遍歴をして、ついにはなにか和尚のような「最後は阿弥陀を祈る」と言い切れる、信仰的境地を得たいと思っているのである。

私が管長猊下のお言葉を聞いて感動したのは、この源信和尚のことを思い浮かべたからである。病床の猊下のもとにいき「蔵王一仏」信仰を聴くたびに、猊下は修験信仰を極めて、ついに、源信和尚の境地に到達されているんだと身震いするような思いでいたのである。

とうてい猊下のような生き様は出来ないまでも、これまでいただいた大きなご恩に報いるためにも、その最期にお示しいただいたかけがえのない信仰上の金言をしっかりと胸に受け止めて、お教えを守っていきたいとお誓いする次第である。

「順教猊下の想い出(順教猊下追悼~その2)」
五條順教管長猊下の想い出は尽きない。ご遷化の訃報を受けてすぐ、ある新聞社から取材依頼があった。私に猊下の想い出を話してほしい、ということだった。記者にはまず、管長様はどんな方でした?と尋ねられた。

猊下はとても美しい綺麗な管長様でした。立ち居振る舞いがいつも清らかで、まさに管長様らしい管長様。管長様という地位というかお立場が天職のように感ずるほど、管長様らしい管長様でした。

管長様ご自身も管長とはかくあるべきだという、なにか信念のようなものをお持ちで、その自分の信念に徹しきっておられた…そういう私の印象でした。それは晩年重い病床にあられても最後の最後まで変わることなく、最後まで美しい管長様のままでした。その信念の堅固さに、改めて凄味と畏怖を覚えるほどの方でした。

貴方にとっては一番印象に残る言葉はなにでしたか?とも聞かれた。金峯山寺に職員として入ったとき、「志の大きな僧侶になりなさい」と最初の教えを受けました。これが私が金峯山寺で活動する上で常に大きな糧となりました。

修験三本山合同や世界遺産登録、修験道大結集、そして今年は紀伊山地三霊場会議の発足などなど、自分の身の丈を超えるようないろんな事業に関わることが出来たのも、全て管長様のお導きのお陰でした。いつもいつまでもこの管長様の御言葉を大切に大切に胸に刻んでおきたいと思います…とも答えた。

記者の取材に答えながら、管長様と過ぎ越してきた38年が走馬燈のように私の脳裏を去来する。管長様は私の父とはとても親しい関係で、そういうことからお出会した当初から私は大事にしていただいてきた。自坊にも何度かおいでいただいた。

記念大祭や晋山式などの公式行事のほかにも、プライベートでもなんどもお越しいただいたものだった。父が亡くなってから一度も公務以外でおいでいただけなかったことが今となっては心残りである。猊下お気に入りのお蕎麦屋さんにもう一度お供をしたかったです。

猊下訃報のあと、猊下が晩年親しくされていた作家の方からメールを頂戴した。猊下はとてもあなたを頼りにされていたのですよ…と教えていただいた。猊下の想い出はつきないが、猊下のご期待に添えるように、これからも志を大きく、前に進んでいきたいと願うものである。ありがとうございました。 合掌。
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伝統野菜を今に生かす「プロジェクト粟」の活動/奈良新聞「明風清音」第87回

2023年05月04日 | 明風清音(奈良新聞)
いろんなところで、「奈良はうまいものばかり」をPRしている。「特に奈良は野菜がおいしい」とも。野菜といえば三浦雅之さんの「プロジェクト粟」の活動だ。この原稿(「明風清音」2023.3.30付)を書く前に、久々に「粟 ならまち店」を訪ね、春の野菜を堪能した。
※写真は粟ならまち店の「大和と世界の野菜」コース@4,600円(税込)。お店のHPから拝借

三浦さんがこの活動をスタートされたきっかけは、新婚旅行で訪ねたアメリカ原住民・シンキオンの文化に触れたこと。それから約30年、コツコツと成果を積み上げて来られた。では以下に、三浦さんご夫妻の30年の歩みを紹介する。

伝統野菜を今に生かす
3月16日付の本欄で京都の食文化を紹介した。「では『奈良の食文化』とは、どういうものだろう」と考えるようになり、久しぶりに三浦雅之さんの講演を聞きに行った。県が主催し、やまとびとツアーズが運営する「食と農の賑わいセミナー」で、演題は「はじまりの奈良の食文化」だ。

3月5日(日)、なら歴史芸術文化村(天理市)で開催された。三浦さんはプロジェクト粟(あわ)の代表者で、株式会社粟の社長を務めておられる。

▼「プロジェクト粟」とは
プロジェクト粟は、奈良市南部の中山間地域である精華地区(旧五ヶ谷村)に本拠を置き、3つの団体と連携してソーシャルビジネスを展開している。

1つ目の団体は株式会社粟で、同社は大和伝統野菜の料理を提供する「清澄の里 粟」と「粟ならまち店」を運営している。これらのお店は昨年、持続可能性に配慮した店として「ミシュラングリーンスター」を受賞された。

2つ目はNPO法人「清澄の村」で、大和伝統野菜の栽培、種子の保存、調査研究などを行っている。3つ目は五ヶ谷営農協議会という集落営農組織で、農産加工品の開発などを担っている。

▼伝統野菜の「種」と出会う
三浦さんのこれまでの歩みは、奥さんとの共著書『家族野菜を未来につなぐ レストラン「粟」がめざすもの』(学芸出版社刊)に詳しい。なお「家族野菜」とは、農家が自給作物として代々受け継いできた伝統野菜のことだ。

30年ほど前、新婚旅行で訪ねたアメリカ原住民の文化に触れたことがきっかけで、奥さんのご出身地である奈良県内で、伝統野菜の聞き取り調査を始めた。

しかし当時の県農業試験場がリストアップしていた大和伝統野菜は宇陀金ごぼう、大和まななど、わずか9品目。しかし「ないのなら探そう」と各地の種を集めているうちに、再会した知人が精華地区の遊休農地を貸してくれることになった。

農地の隣人がたくさんの伝統野菜の種を持っていたのでそれらを育てていると、周囲から続々と種が集まるようになった。今では、年間約140種類の野菜などを栽培しているという。 

▼「人生の楽園」に登場
「収穫した伝統野菜を提供するレストランを開いては」との奥さんの提案を受け、2001(平成13)年1月、「清澄の里 粟」を開業することになった。交通不便な立地を心配する声もあったが、ここで天の助けが現われた。

前年末に「人生の楽園」(テレビ朝日系)から出演の依頼があり、近所のご協力者とともに番組に登場。それが同年2月に放送された。放送の翌朝からお客さんが列をなし、また他のメディアからも取材が殺到、レストランは大成功を収めた。

▼奈良を吹く「7つの風」
セミナーで三浦さんは、「奈良を吹く7つの風」を紹介された。それは①風土(気候、地質、環境)、②風味、③風景、④風習、⑤風物(生活工芸)、⑥風儀(生活文化)、⑦風情の7つだという。

奈良では土地(風土、風景)、人(風習、風儀)、モノ(風物、風情)、食(風味)がガッチリと結びついているということなのだろう。確かに地元民は七草がゆ、半夏生(はげっしょう)餅、お盆のマクワウリ、奈良のっぺなどの行事食を大切にするし、季節感を見事に表現した和菓子も多い。

▼山里料理は奈良の食文化
「清澄の里 粟」のように、伝統野菜などを駆使した料理を「山里料理」と呼ぶとすれば、これは現代の奈良の食文化を代表する料理様式と言えるのではないか。そのパイオニアである三浦ご夫妻の今後の展開には、大いに期待している。(てつだ・のりお=奈良まほろばソムリエの会専務理事)


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田中利典師の「鬼」二題

2023年05月03日 | 田中利典師曰く
2009年、田中利典師はご自身のブログ「山人のあるがままに」に、鬼の話を2回書かれている。初回は金峯山寺「節分会・鬼火の祭典」の「鬼も内」の話、2回目は前鬼山(下北山村)の小仲坊(おなかぼう)ご住職・五鬼助(ごきじょ)家の話(金峯山時報「蔵王清風」欄に掲載)である。
※写真は、吉野山の馬酔木(アシビ 2023.3.28 撮影)

どちらも興味深い話だし、互いに関連しているので、ここで2回分を一挙に公開させていただく。長くなるが、ぜひ最後までお読みいただきたい。2009.2.7 付2009.9.10 付から、全文を抜粋する。

鬼の調伏
今年も無事、金峯山寺の節分会・鬼火の祭典を終了した。今年は管長猊下(五條順教師)が休養中でご不在のため、例年になく本山内は淋しい行事催行となったが、それでも平日にもかかわらずたくさんの参詣者で境内は大いに賑わった。

本山の節分会の特徴は「鬼も内」と唱える鬼の調伏式である。なぜ金峯山寺では鬼も内なのか…。ご存じのようにこれは開祖役行者が鬼を折伏し弟子としたという故事によって執り行われているが、その故事を以下詳しく述べてみる。

役行者に付き従う者として、前鬼後鬼(ぜんき・ごき)の二侍者は良く知られるところである。この二鬼が開祖の弟子となった説話は、開祖奇瑞(きずい)の伝承の中でも興味深いものの一つであり、特に有名な説話は役公徴業録(えんこうちょうごうろく)や役君形生記(えんくんぎょうしょうき)など江戸期に成立した役行者伝記に伝わる話…。

行者が生駒山の断髪山に登られた時(徴業録には行者21歳とある)、山中に赤眼、黄口という夫婦の鬼が住んでいて、それに鬼一、鬼次、鬼助、鬼虎、鬼彦と名付ける五子があった。この鬼が付近の人の子を捕らえて食うので、人々は困っていた。行者は山中に入って、二鬼の最愛の子である鬼彦なるものを捕らえて鉄鉢の内に匿された。

二鬼は顔色を変えて驚き四方を捜し求めたが更に見えない。遂に行者の所へ到って愛児の行方を尋ねた。その時行者が言われるのに「汝らと雖(いえど)もわが子を愛してその行方を求めるではないか。然るに何故に人の子を捕らえて食らうのか」。二鬼曰く「我ら初めは禽獣を捕らえて食うていたが、禽獣尽きて無いので終に人の子をとって食らうのである」と。

行者更に教戒して云うに「汝らよ、不動明王は空中にいまして、火焔赫然(かえんかくぜん)として、眼は電の如く声は雷の如く、金剛の利剣を提げ、三昧の索を持って常に悪魔を降伏されるのである。汝らももし改めなかったならば、かの明王の怒りに遇いて必ずや後悔するであろう」と。

二鬼大いに恐れ驚き行者に許しを請うたので、行者は二鬼に不動経の見我身者発菩提心以下の偈(げ)を授けて誦せしめ、教訓を垂れ随身とせられた。彼らは逐に悪心を転じて善心となり、深く行者に帰伏し、果実を集め水を汲み、薪を拾って食をなし、行者の命に従い山野開拓の為に尽くしたという。

橋田壽賀子の「ワタオニ」ではないが、今や世間は鬼ばかりである。我が子を殺す鬼、親を殺す鬼。無差別に人を殺す鬼。この国を平気でアメリカや中国に売り渡す鬼。赤眼・黄口も叶わないような鬼以下の人間ばかりである…。蔵王堂で暴れ狂う鬼が「鬼も内」のかけ声によって豆を撒かれ、平伏し改心する鬼の姿を見て、今こそ、役行者の調伏力が希求されていると、思うばかりの今年の節分会であった。



恒例の今月の早出しです。来月号の当山時報(金峯山時報「蔵王清風」欄)に書いた文章です。30分ほどで書いた走り書きなので、あいかわらず杜撰ですが、まあ、ご笑覧にあずかれれば幸いです。

****************

大峯には鬼がいた。一千年をこえて鬼たちは大峯の山中深く住み、その末裔が今も我々大峯行者の手助けをしてくれている。…前鬼山小仲坊(おなかぼう)の住職五鬼助(ごきじょ)家の話である。

鬼は役行者に付き従った夫婦の末裔という。ご存じの、生駒山中で役行者に折伏され弟子となった前鬼後鬼の子孫である。現当代さんは第61世。日本の家系では天皇家が圧倒的に古いが、61世となると、日本でも指折りの由緒正しい名家である。なにが凄いかというと、この鬼の子孫たちは1300年前の役行者の遺言によって大峯の山奥に住み着き、未だにその言いつけを守り続けているというのだ。

役行者は大宝元年6月7日、箕面天上ヶ岳より、母を鉄鉢に乗せ、唐の国へ昇天されたと伝えられている。このとき、侍者としてずっとそばに寄り添った前鬼後鬼は、自分たちも是非一緒にお供したいと申し出る。しかし役行者はそれを退け「おまえたちは大峯山中に住んで、これ以後、大峯行者の世話をしなさい」と遺言されたというのだ。

この言葉に従って、鬼の夫婦は前鬼山に移り住んだ。夫婦には5人の子どもがいたが、やがてそれぞれに五鬼継、五鬼熊、五鬼上、五鬼助、五鬼童の5家となって、行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊の5坊を営み、大峯修行者が集う宿坊として明治初期まで続いたのであった。

修験道は明治の神仏分離・修験道廃止令によって解体される時期があり、前鬼山の5坊も衰退の一途を遂げるが、今もなお、小仲坊一宇だけは存続し、われわれ大峯行者を迎え入れてくれている。ここがなければ我々の奥駈修行はいよいよ難儀をすることになるだろう。

この8月にも奥駈修行で小仲坊にお世話になった。鬼の末裔というが、この鬼はいわゆる「邪鬼」ではなく、山中生活を主とした山人たちのことだろう。

当代さんはとても気の良いご夫婦で行くたびに私は歓待を受け、親しくしていただいている。まさに今に生きる役行者伝説を体現するご夫婦なのだ。鬼というより、仏の末裔かと思うような優しい容貌である。今年もその柔和で元気なお顔を拝し、役行者とご夫婦に深く感謝する前鬼山の夜であった。
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「定尚会」仏像彫刻展、5月24日(水)~28日(日)、興福寺会館で開催、入場無料!(2023 Topic)

2023年05月02日 | お知らせ
南都銀行のOBで、社寺ガイドグループ「ナント・なら応援団」の主力メンバー、「OB美術展」の主催者でもある藤田優さんから、仏像彫刻教室「定尚会」の展示会があり、そこでご自身の仏像彫刻が展示されるという連絡があった。藤田さんの作品は何度か見せていただいたが、これは玄人はだし、立派な仏像だった。
※トップ写真は、藤田さんが出展される仏像彫刻

また期間中は、南都銀行OGの南清子さんのさをり創作手織り作品や、同じくOBで南さんのご主人の善博さんの仏像彫刻も展示されるという。会社を退職しても、様々な活動をしている先輩方には、頭が下がる。

なお定尚会を主宰される本谷定尚さんは天川村ご出身の仏師で、不空院に奉納された不動明王像は、私も拝観したことがある。

仏像彫刻展は入場無料だし、興福寺会館は興福寺境内(三重塔の裏手)という便利な場所にあるので、ぜひ足をお運びください!




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