埼玉県立大学 山本理顕
■ 多くの建築家がそうであるように山本さんも住宅設計で活動を開始している。下の写真は山本さん設計の藤井邸(新建築 現代建築の軌跡 1995より)。1982年に発表された藤井邸は鉄筋コンクリート造の1階に木造の2階を載せている。
単純なフレームと単純な箱型のデザインの組み合わせによる空間構成はその後の山本さんの作品に共通する特徴だ。
「はこだて未来大学」やトランプの「埼玉県立大学」そして昨年オープンした「横須賀美術館」にもこの特徴が当て嵌まる。
藤井邸を雑誌で見たとき、木のフレームが無防備で耐久性に問題がないのだろうかと気になった。既に25年以上経過している。今この住宅は健全な姿を保っているだろうか・・・。
海を建築化したような色と透明感、昨秋観た横須賀美術館の外観は軽やかで美しかった。海に面する敷地の魅力を最大限に活かした建築。だがこのような敷地は建築に常に厳しい条件も突きつけている。台風襲来でトラブルは起こらないものだろうか、塩分混じりの風雨にさらされて錆びないだろうか・・・。美しさに惹かれると同時にそのような危惧も抱いた。
時に「美しさ」と「耐久性」は相反する条件となる。その場合どちらを採るか、「耐久性」が「美しさ」に優先するとは限らない・・・。
■「誰が風を見たでしょう」と始まる詩がある。タイトルは何だっけ? とネットで検索してみた。「風」という詩でイギリスの詩人クリスティナ ロゼッティの作、西条八十が和訳したものだと分かった。この詩は「僕もあなたも見やしない けれど木(こ)の葉を顫(ふる)わせて風は通りぬけてゆく」と続く。
鯉のぼりは見ることが出来ない風を可視化する装置だ、と建築家の文章で読んだ記憶があるが、誰の文章だったかは思い出せない(このことは前にも書いた)。
ところでビールの消費量や施設の大きさは東京ドーム何個分と発表されることがある。この夏のビールの消費量は東京ドーム○杯分、この施設の面積は東京ドームの○倍というように。人にもよると思うがこのように表現されるとなんとなくその量が視覚的にイメージできる。
この東京ドームの例のように実物の尺度によって視覚的に捉えることができるようにすることは物事を把握しやすくする、理解しやすくするという点において有効だ。
実物尺度による数量化は分かりやすい。
『アイドルのウエストはなぜ58センチなのか』小学館新書で著者の飯田朝子さんは温室効果ガスの削減について触れ**チーム・マイナス6%のキャンペーンは、二酸化炭素という目に見えない、手に取れないものの排出量を減らすことを掲げているので、生活の中の小さな心がけを触発することはできても、なかなか一人一人の生活行動の中の達成感を刺激するのが難しいようです。**と指摘し、続けて**食べたもののカロリー消費のように、例えば「このドーナッツを食べたら、そのカロリーを消費するのためにはテニスを60分しなければならない」といったような、手に取るような消費・削減関係も見いだせません。**と述べている。
ここでも「テニス60分」「ドーナッツ1個分のカロリー」といった実物尺度による数量化が物事を理解するのに有効なことが示されている。
建設廃棄物の発生量が1年間で7700万トン(2005年度)だったと先日新聞に載っていた。7700万トン・・・。重さというのは視覚的には把握できないからこの場合も一体どの位なのかピンと来ない。建設廃棄物といってもコンクリートガラ、木材、タイルや陶器類、石膏ボードなどのボード類、プラスチック類など、様々なものがあるがこれらの総量を体積によって示されるとビールの消費量のように分かりやすくなるのだが。では一体この国の建設廃棄物は東京ドーム何杯分だろう・・・。分かりにくく表現するのはこの国の役人の得意技だ。
しばらく前にミシュランが示した東京の★★★レストランが話題になった。料理の美味しさを★の数などという単純な指標で表すことなどできないと思うのだが。
同様に「幸福」ということなどは単純な指標で捉えることなどできないと誰でも思っている。が、この国では例えば年収など「お金」という尺度によって捉えている。世の中の事件の多くはこのことに起因している。これは不幸なことだ。
少し長くなった本稿の結論。実物尺度による数量化はものごとを把握しやすくする。でも世の中にはそうすべきこととそうすべきでないことがある。