「こんにちは」
「やあ、ここ 分かった?」
「ええ、分かりました。靴を脱いで入るんですね」
「そう」
「なんだか、とても居心地が良さそうですね」
「そうでしょ、こういうところMさん、好きだと思って」
「手づくりって聞きましたけど。居心地の良さの素ってこの床?壁?それとも椅子?」
「なるほど、居心地の良さの「素」ね。そうだね、今挙げたすべてだと思う。手編みのセーターが着心地が良いのと同じなのかも、ね」
「ところで、U1さん私出かける前にブログをチェックしてきたんですけど、なぜ古今東西なのかって・・・。そんなこと考えたことないですよ。で、ここに来るとき考えたんですけど、北半球に大陸の大半がありますよね。そのことと関係があるんじゃないかな」
「そうだよね。実はそのことは僕も考えたんだよ」
「あ、そうなんですか。北半球に集中しているから、南北より東西に広がっていますよね、世界の国って。だから東西なんじゃないかな」
「そうかもしれないね。洋の東西を問わず、なんて言うね。でもそれだけじゃやっぱりない、と思う。方角にいろんな意味を込めているでしょ。例えば極楽浄土は西方にあるとかさ。それから演歌ってやっぱり北、でしょ」
「演歌は北・・・」
「そう。北の宿からとか、♪北へ帰る人の群れは誰も無口でとか、さ。♪北の町ではもう、悲しみを暖炉で・・・とか。やはり演歌は北なんだよ」
「さすが中年、演歌ですね。そうか・・・、北国の春とか」
「中年って、まあそうだけど。ね、北でしょ」
「そうですね。南のイメージじゃないですね」
「今イメージって言ったでしょ。それだよね。方角のイメージ」
「確かにありますね。そういえば東日本と西日本って対で使いますけど、北日本と南日本とはいいませんね」
「そうでしょ。日本列島って、どちらかというと南北に長くない? ならさ、南北日本っていう捉え方があってもいいと思うけど、無いよね」
「そういうことと、古今東西という言い方が無関係ではないんだと・・・」
「そう。 菜の花や 月は東に 日は西に」
「誰でしたっけ・・・。蕪村かな・・・。南北より東西を重視する、世界観って大袈裟かな、それが文学にも表れているってことなんですか」
「さすが」
「そうか・・・、東西ってなにかありそう」
「♪それでいいのさ あの移り気な 風がふくまま 西東・・・」
「誰の歌ですか」
「橋幸夫のデビュー曲、潮来笠」
「知らな~い。でも、確かに西と東なんですね」
「そう。それであちこち気ままな旅を表現している。相撲でも力士は西と東から土俵に上がるよね」
「あ、そうですね。ところでU1さん、カウンターにクウネルが並んでますね。ここで、クウネル読んでます?」
「読んでる。以前は本屋で立ち読みしてたけどね。川上弘美の文庫も書棚にあるよ。Mさんは読まないんだっけ、川上弘美」
「私はどうも・・・」
■ しばらく前、まちの魅力に欠かせない要素ってなんだろう・・・、ということについて考えました。郡上八幡に出かけたのがきっかけでした。
①まちが小規模なこと
②まちの全体像が把握できる「俯瞰場」があること
③まちなかを川が流れていること
④まちに歴史的な重層性があること
以上、まちの魅力の構成要素として私なりの結論を得ました。学術的な論考ではもちろんありませんから、まあ、実証性などない、いいかげんな結論ですが・・・。でも「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」などという結論ではつまらないです。
②の俯瞰場というのは分かりにくい表現ですが、要するにまち全体を見渡すことができる小高い場所のことを意味しています。
③についてはまち全体の構造を理解するのに川が有効だと考えました。でも、もっと重要な効果が川にはあるのではないか、と思い始めています。例えば飛騨高山で春と秋に行われる高山祭り。川に架かる橋を渡る山車、この時の光景は実に美しいのですが、それは何故か・・・。
④は街並みに情緒があって魅力的なことと捉えていましたが、少し捉え方を変えるとこのようになるのかなと思います。歴史的な重層性、これもなんだかよく分からない表現ですね。都市の郊外に短い期間で出来てしまうようなインスタントなまちではなく、いろんな時代の建築が街並みに顔を出しているようなまち、時の重なりがまちの表情に出ている・・・、長い時を経てじっくり出来てきたまちということです。
さて、自分への次なる設問は「なぜ古今南北ではなくて古今東西なのか」。古今東西って、日本だけ?中国も同じ?欧米ではどう表現しているんでしょう。
時間的な流れと空間的な広がりを併せて古今東西と簡潔に表現しますが、空間的な広がりを南北ではなくて東西としたのは何故か・・・。
私は東から西へと移動する太陽と月の動きが関係しているのではないかと思うのです。空間は四方八方均等に広がっているのに、太陽や月の動きによって東西方向に引き伸ばされた状態で地理的空間の広がりを認識しているのでは・・・。
認知心理学の問題でしょうか。人々が空間の広がりをどのように認知してきたのかを知ろうとするなら古典文学などをひも解かなくてはならないでしょう・・・。
全く分からない世界です・・・。